2008年7月アーカイブ
西洋の「ヌード」文化が日本に輸入されて受容されていく歴史の研究。
まずヌードとネイキッドの違いの定義から始まる。
「ヌードを西洋美術史のひとつの大きな柱として、初めてその意義を歴史的・体系的に考察したのはケネス・クラークであった。彼は1956年に出版した古典的な名著『ザ・ヌード』で、服を脱いだ裸の状態がネイキッド(naked)であるのに対し、ヌード(nude)というのは、人体を理想化して芸術に昇華させたものであると定義した。」
現代の私たちがメディアや美術館で見る裸体のほとんどすべてがヌードである。美しくてエロティックなものばかりだ。ところが江戸時代以前の日本には裸にはネイキッドしか存在していなかったという。
「日常的に女性の裸体を目にする機会の多かった日本の社会では、女性裸体に対してことさらにエロティシズムを感じることがなかった。湯上がり美人や入浴美人は裸体を見せるものというよりは、あくまで美人画の延長線上にあった。」
裸が美しい、裸が恥ずかしいという感性は近代に西洋から輸入されてきたものであるらしい。アダムとイブが禁断の果実をかじる前には裸を恥ずかしいと思わなかったのに似ている。
「伊藤俊治氏は、「裸体は、本質的にそれ自体自然なものであり、イデオロギーも文化も付着していない。ヌードが意味をなすのは、ある意味でそれを見る者が裸体を意識し、その意識に対して社会的な解釈をほどこす時である。裸体に文明が入り混じってくる瞬間である」と述べる。明治以前の裸体は、裸体であると意識されず、文明が混じっていなかったのである。」
明治28年、画家 黒田清輝は第4回内国勧業博覧会に若い女性が全裸で鏡の前に立つヌード作品≪朝妝(ちょうしょう)≫を出品した。黒田のねらい通り、この作品は大いに物議を醸してヌード開国のきっかけとなった。日本のヌード文化の歴史がここに始まる。
「若桑みどり氏は≪朝妝≫は「裸体統御の西洋的なシステム(検閲と許可)も一緒に輸入した」とし、「検閲をくりかえしながら、権力は崇高なヌードと猥褻なヌードを上下に二分し、民衆の性のメンタリティをコントロールすることに成功していった」と述べる。」
この本は日本における幕末までのヌード前史と明治以降の受容の歴史を丁寧に描き出している。日本にも春画や刺青画や生人形という独自の裸体芸術があったことがビジュアルで紹介されている。西洋ヌードと比べて理想化されていない生身の人間を感じさせる淫靡さが強烈だ。
権力と性の関係は必ずしも対立的なものではなかった。規制は新しい表現を生み出す。生み出された表現がその時代に生きる人々の美の基準をずらしていく。制度と規制があるからこそ、そこからはずれた「ドキッっ」とするものが常に存在するのだ。
「西洋のヌード観と羞恥心に植えつけれらて、自然な裸体を性的身体に変容させてしまった近代の日本は、そのイメージを増殖させることによって再びその性を無化しようとしているように見える。」
街頭広告にもヌード写真が使われるくらい性のイメージがありふれたものになった現代では、もはやヌードというだけでは性を感じなくなっている。むしろ、昔の日本のように、生活の中の、自然な裸体(ネイキッド)の方が人をどきっとさせるものになってきた気がする。(Winny流出事件の個人撮影の写真とか)。人類のエロ感覚は、ネイキッドとヌードの間の反復運動の歴史なのかもしれない。
・愛の空間
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/oso.html
・性の用語集
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004793.html
・みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005182.html
・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html
・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html
・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html
・武士道とエロス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004599.html
・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html
・Muse
http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/art/se114668.html
Museはテキストで楽譜を記述して演奏させるソフトウェア。
英米: C D E F G A B
独 : C D E F G A H
伊 : Do Re Mi Fa Sol La Si
という音階を文字で記述すると楽譜になる。たとえば「CDE」と書けばドレミが鳴る。
音名の後ろに"+"を添えると#、"-"なら♭、o+数字でオクターブ指定、音の長さや強弱、修飾音、楽器の音(MIDI音源)、コードなど、かなり細かい指定が可能である。複数パートのある複雑な楽曲も頑張ればこの形式で記述できる。独自のMuse記法については、テキストファイルのマニュアルがとても丁寧に作成されているので安心。
高度な記述例:
こうして記述したファイルを自動演奏ピアノの画面で再生する。ビジュアルに楽譜の全体像がわかる楽譜モードもある。
こうして作成したデータは、MIDIファイルに出力が可能なので多くの用途に利用できる。
1998年10月29日にニューヨークのクリスティーズで、アルキメデスの論文が収められた貴重な写本が競売にかけられた。220万ドルという高額で落札されたこの写本には『方法』『ストマキオン』『浮体について』という他のアルキメデス写本には含まれていない重要論文が含まれていた。これは写本「アルキメデス・パリンプセスト」の保存と解読にあたった研究者チームが、最先端の解析技術者や時代考証の専門家らの力を集めて、困難な解読プロジェクトを成功させるまでを描いたドキュメンタリである。
著者らは「ひるがえって、ヨーロッパの科学の歴史をいちばん無難に総括すると、アルキメデスに対する一連の脚注からなると言える。」とし、ガリレオ、ライプニッツ、ホイヘンス、フェルマー、デカルト、ニュートンなど後世の偉大な科学者たちの仕事は、アルキメデスの方法論を一般化したものであるという。
解読プロジェクトには大富豪のパトロンがいたため資金面では問題がなかったが、作業には長期間を費やした。最初の3年半を過ぎてもまだ写本の「綴じ」がほどけなかったくらいだ。実はこの写本は厳密に言うとアルキメデス論文の写本ではなかったからである。後世のキリスト教の学徒が当時貴重だった羊皮紙を再利用するために、元の写本を再利用して祈祷書に作り直したもの、なのだ。
複数の古本のページをばらして、文字をこすって消し、新しい一冊の本に仕立て直した上で、祈祷文を書いてある。しかも幾度か接着剤を使った中途半端な修復が試みられており状況を悪化させていた。まずはページをばらしてアルキメデス写本の順番に再構成する。そして最新の光学技術とコンピュータを使って消えた文字を浮かび上がらせる。そのようにしてかろうじて判別できる文字と図像を専門の研究者が読み取る。当時の数学と物理学に照らして時代考証にかけて、論文の意味、重要性を検証するのである。
この本は写本の中身、アルキメデスの発見した数学について、全体の3分の1程度を使ってとても詳しく解説されている。円周率、順列組み合わせ、微積分、実無限...アルキメデス自身の論文がどのようなものであったかを知っている人は歴史的にもかなり少なかったらしい。「実は、アルキメデスは伝説的な存在ながら、ほとんど読まれていなかったからだ、<中略>アルキメデスは基本というにはむずかしすぎて、理解できる人はごく少なかった。」からだそうだ。
実際、ここには二千数百年前(日本の弥生時代!)とは思えない高度な数学が展開されている。長い間、私のアルキメデスのイメージといえば、お風呂に物体を入れて溢れた水でその体積をはかった「エウレカ!」の人であった。だが、この逸話は後世の作り話らしい。本当のアルキメデスの発見はそのような単純なレベルの発見ではなかったことがよくわかる。
アルキメデスは、科学的な観察装置を持たず、純粋に思考の積み重ねによって、数学の基本原理を次々に発見している。その意味を理解できる数学者は、当時の地中海に数十人しかいなかったのではないかといわれる。
「アルキメデスにとって、物理学と数学の組み合わせが重要だったのは、物理学のためではなく、数学そのもののためだった。アルキメデスの大望は、天体の運動を解き明かすことではなく、曲線図形や局面図形を求積することだった。たまたま、わたしたちの宇宙では数学と物理学と無限とが密接に結びついているために、高度な純粋数学に目を向けたアルキメデスは、結果としてさらに近代科学の礎を築くことになったのではないだろうか。」
二人の専門家によってアルキメデス論文を直接読む科学史研究の章と、最新テクノロジーと地道な努力によって解読を少しずつ進めていく古文書研究の実態ドキュメンタリの章が交互に書かれている。科学史の教科書にはまだ書かれていない、最新の視点を与えてくれる興味深い一冊。
・アルキメデス・パリンプセスト公式サイト
http://www.archimedespalimpsest.org/
・ヴォイニッチ写本の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004123.html
・ユダの福音書を追え
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004582.html
恒川光太郎の「夜市」「雷の季節の終わりに」につぐ期待の3作目。
3本の短編を収録。
「秋の牢獄」
「これは十一月七日の水曜日の物語だ」。目が覚めると昨日はなかったことになって、再び同じ秋の1日を繰り返してしまう不思議世界の物語。
「神家没落」
日本の各地に神出鬼没する因縁の家に閉じこめられた男が異世界からの脱出方法を探るが...。
「幻は夜に成長する」
念じた相手に思い通りの幻覚を見せる霊狐の力を受け継いでしまった少女の物語。
異界モノでは既存の神話や伝承をベースにする作家が多い中で、恒川光太郎はかなり独創的な異世界モノを追求している。この3本はどれも異次元や超能力がテーマだ。神話や伝承の豊穣なイメージに敢えて頼らず、海外のハードSF作品に通じるような普遍性の物語の方へ向かう作家のように思える。案外、グレッグ・イーガンなどの影響を受けているのだったりして。
大作家になる予感を感じて注目している恒川光太郎、3冊目も期待通りハイレベルな内容だったが、次は小説家としての記念碑的な、決定的な長編を出してほしい。
第一作「夜市」収録の名作「風の古道」は漫画になったようだ。夜市』は円谷エンタテインメントで映画化が決定しているらしい。
・夜市
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004796.html
・雷の季節の終わりに
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/11/post-489.html
「世界の測量」は小説である。ドイツ国内で130週間に渡ってベストセラー(35週は1位)に入り120万部を売り上げ、世界45カ国語に翻訳された。2006年度に「ハリーポッター」や「ダ・ヴィンチ・コード」をおさえて世界で2番目に売れた驚異的セールスの本である。
近代地理学の祖 アレキサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)と、数学の王 カール・フリードリヒ・ガウス(1777-1855)という、二人のドイツが生んだ大天才の、数奇な人生を描いている。
タイトルの「測量」は世界の大きさや自然の仕組みを発見しようとする人間の行為を象徴している。現代の先端科学は未知の世界を測るには巨大な粒子加速器や宇宙船を必要とするようになってしまった。天才といえど発見は一人ではできなくなった。フンボルトとガウスが生きた18世紀中頃から19世紀中頃は、人間が世界を自らの身体と頭脳で測ることができた最後の時代だったのである。
二人の天才の行動パターンは対照的だった。探検家として未踏の世界へ決死の旅に出て測量を続けた行動派のフンボルト。実測データで世界の姿を示そうと冒険旅行に半生を費やした。ガウスもドイツ国内で測量の仕事をしていたが本当の関心は数学や天文学にあった。言葉を話すより前に計算ができたという神童伝説で知られるガウスは計算や思考を重要視していた。引きこもり型であった。
世界を測るアプローチと活動領域は異なる二人だったが厳格にして頑固に真理を探究する姿勢はそっくりだ。そして共にその性格があったが故に、現代自然科学の礎となる大発見の数々を成し遂げた。二人の偉業は世界史における「ドイツ的なもの」の最高到達点だった。(それがこの本がドイツで爆発的に売れた理由ではないだろうか。ドイツでの大ブームは国の歴史的英雄を取り上げたNHK大河ドラマみたいなもの、かもしれない。)
フンボルトの動的な章と静的なガウスの章が交互に配置されている。どちらも天才であるが故に許された自分勝手の奇人変人であり、物語を彩るエピソードにはことかかない。テンポが良くて読みやすい「哲学的冒険小説」。
・ColorfulQRCodeMaker
http://www.geocities.jp/japan_inf/DotNetBarcode/ColorfulQRCodeMaker/index.html
QRコードは便利なのだがWebや印刷物に白黒で表示するとどううにも野暮ったくなる。複数並べたりするとページのデザインがだいなしになってしまうことが多い。背景のデザインに調和するカラーだったら少しは見栄えがよくなるかもしれない。
そこでこのソフトの登場である。
・このブログの携帯表示用QRコード
QRコードは白黒でなければならないという決まりはなく、カラーでも携帯電話が読み取ることができればよいらしい。このソフトはカラフルなQRコードをつくるためのデザインソフトである。位置検出パターン、位置合わせパターン、タイミングパターン、形式情報、型番情報、余白などを個別にカスタマイズできる。
・このブログの携帯表示用QRコード
QRコードを自分で作ってみると楽しい。 【自動再描画】がオンになっていると、文字をひとつ入力するたびに次第に二次元バーコードの模様が複雑なものに変化していく。このソフトでは数字データで最大7089文字、英数字データで最大4296文字、漢字データで最大1817文字、8ビットバイトデータで最大2953文字まで作成可能である。
ファイルとしてはBitMap、Gif、Jpeg、Png、Tiff形式で保存できる。クリップボードへの出力も可能だ。
・四季庭
http://www.jp.playstation.com/scej/title/shikitei/
Playstation3のオンライン配信ソフト。
なにより高精細のグラフィックが素晴らしい。
箱庭づくりのゲームである。目的はない。点数もない。競争もない。プレイヤーは自分の好きなように庭に樹木や草木、石灯篭やライトなどの景物を配置する。つくった庭の中を散策したり、写真を撮影したりして、眺めて楽しむ。
なにもしなくてもよい。コントローラをしばらくの間、放置すると自動的に鑑賞モードが始まる。映画的なカットでカメラが移動して庭の隅々を映し出していく。ぼうっと眺めているだけでも十分和める環境ビデオになる。
ゲーム内の時間は80分で1年間である。春夏秋冬はそれぞれ20分ということになる。○ボタンを押すことで樹木を急成長させることができるのだが、季節の推移はただ待つしかない。時間はあくまでゆっくりと流れる。だから、それぞれの季節の草木の名前を自然と覚えてしまう副次的な効果がある。
春には桜が咲き(植えてあれば)秋には紅葉が燃える(植えてあれば)。草木を大事に育てているとリスや鳥などの小動物が庭を訪れるようになる。一定の条件を満たすことで、配置できる樹木、草木、景物の種類が増えていく。追加キットも発売されるようだ(メーカーはちょっとあざとい)。
撮影した写真は専用アルバムサイトへアップロードすることができる。ここでは季節別に他のユーザーが撮影した写真が並べられている。(表示されるのは各自最新の1枚)。他のユーザーの庭を見て、自分の庭に庭造りの技法を取り入れる。
高精細のグラフィックなのでハイビジョン大画面でHDMI端子接続がおすすめ。
1958年にロジェ・カイヨワが書いた遊戯論の古典。
特に遊びの定義と4分類は後の研究に大きな影響を与えた。
カイヨワは遊びを次の6つの性質を持った活動と定義した。
1 自由な活動
2 隔離された活動
3 未確定の活動
4 非生産的活動
5 規則のある活動
6 虚構の活動
そして、すべての遊びを次の4つに分類した。(2つが結びつく複合的な遊びもある)
アゴン(競争):サッカーやビー玉やチェスをして遊ぶ
アレア(偶然):ルーレットや富くじに賭けて遊ぶ
ミミクリ(模擬):海賊ごっこや、ネロやハムレットを演じて遊ぶ
イリンクス(眩暈):急速な回転や落下で混乱と惑乱を生じさせて遊ぶ
さらにこの分類はパイディア(遊技)とルドゥス(闘技)という対立軸に置くことができるとした。前者は気晴らし、即興、無邪気な発散という方向性であり、後者は逆に努力、忍耐、技、器用という方向性である。
この本の第一部では子供達の自然な遊びから、スポーツ、ギャンブル、演劇など文化の広大な領域をカバーする遊びの枠組みをカイヨワは構築した。そして第二部では遊びを出発点とする社会学を目指した「遊びの拡大理論」が展開される。
広く知られたように遊びには教育効果がある。カイヨワはそれを認めて、
「たしかに、遊びは勝とうという意欲を前提としている。禁止行為を守りつつ、自己の持てる力を最大限に発揮しようとするものだ。しかし、もっと大事なことは、礼儀において敵に立ちまさり、原則として、敵意なしに敵と戦うことである。さらにまた、思いがけない敗北、不運、宿命といったものをあらかじめ覚悟し、怒ったり自棄になったりせずに、敗北を甘受することである。立腹したり愚痴を言ったりする人は、信用を落としてしまう。実際、ゲームが再開されるときは、これはまったくの新規蒔き直しなのだし、何が駄目になったわけでもないのだ。だから遊戯者は、相手を咎めたり失望したりするのではなく、一そうの努力をするがいいのである。」
と述べているが、さらに遊びが人類にもたらす意味にまで解釈を拡大して、遊びこそ文化文明や社会の歴史発展に必須の重大なものとしてとらえていく。
「遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化する。遊びはこれら本能に形式的かつ限定された満足を与えるが、それは本能を教育し、豊かにし、その毒性から魂を守る予防注射をしているのだ。同時に本能は、遊び(の教育)のおかげで文化の諸様式の豊富化、定着化に立派に貢献できるものになる。」
遊びの4分類のうち二つが密接に結びつくケースがあると述べている。特にミミクリ(模擬)とイリンクス(眩暈)の対は、古代の宗教政治において重要な役割を果たした。神々の仮面をかぶったシャーマンが恍惚状態の眩暈の中で宇宙からのメッセージや超常的パワーを受け取る。やがて、こうしたシャーマンの役割は古くさいものとして排除され、、アゴン(競争)とアレア(偶然)を基調とする民主主義や科学という新しい制度によって置き換えられていく。
「以上、見てきた通り、いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリの組み合わせの優位を少しずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう。」
現代の人類は誰でも能力と運次第で成功できる民主社会という壮大なゲームの構造をつくりあげた。
遊びは人間だけのものではない。動物の子供も遊ぶ。遊びは動物に共通する本能である。その基本的な本能を公共のために飼い慣らすことができたのが人間の成功の秘密だったのかもしれない。カイヨワの遊戯論は後半でいつのまにか文明論に発展していく。読み応えたっぷりである。
先行して遊びを論じたホイジンガとカイヨワの主張の関係を論じた訳者解説も充実している。講談社学術文庫。
疑似科学情報の氾濫する状況に科学評論家の池内了が警鐘を鳴らす一般向けの啓蒙書。
わかりやすい説明で定評のある著者だけあって、疑似科学が流行る構造を平易に語っている。たとえば「幸運グッズ」はなぜ売れるのか。
「それが売れるのには理由がある。幸運グッズを買いたい心境になるのは落ち込んだとき、つまり(大げさに言えば)人生の逆境のときである。そこで、藁にも縋り付きたい思いで幸運を呼ぶというグッズに手を出してしまう。ところが、人生は山あり谷ありだから、逆境の時期はそのうち去って好調の時期が必ず訪れる。幸運グッズを買おうが買うまいが、いずれ時期が来れば不調を脱することができるのである。しかし、本人は幸運グッズを買ったおかげだと思い込んでしまう。」
疑似科学の特徴は反証ができないこと。哲学者のバートランド・ラッセルが出したティーポットの例え話を使って疑似科学のやり口をこう説明する。
「ある人が地球と火星の間に楕円軌道を描いて公転しているティーポットが存在している、という説を唱えたとしよう。ところが、そのティーポットは余りに小さいので最も強力な望遠鏡を使っても見ることができず、重力が小さいので地球や火星に及ぼす影響も検出することができない。そのため誰も反証することができない。」
詐欺師は専門家の意見や統計データを我田引水してティーポットの存在を信じ込ませる。相関があるからといって因果関係があるとは限らないのにあるように思わせる。地震予知、電磁波、健康食品、ガン特効薬、頭の良くなる式の脳科学など、専門家の世界でも意見が分かれる科学の最先端領域(未成熟科学)に、そうした疑似科学が多く発生する。
人間は認知に際して、たくさんのインプットを効率よく取り込むために、様々な近道をつかう。生物としては何かを信じないと生きていけないわけだから、できるだけ何かを信じるように人間の頭はできているわけだ。
たとえばそうした近道は、この本には
・認知的節約の原理
・認知的保守性の原理
・主観的確証の原理
などが紹介されているが、詐欺師はこうした信じやすい人間心理を巧みに利用する。
そもそも「人間には心のゆらぎがあり、非合理ではあってもそれを選びたい心理になってしまう。」だと著者は諦め気味に言う。そして「まだ理論や手法が確立せずデータの集積も不十分であるような科学」をどう見守るかが重要として、未成熟科学の見守り方を論じている。
疑似科学を擁護するつもりはないが、私が思うに人間は根本的に不合理が好きなのだ、と思う。非合理にはロマンがあるからだ。科学を進歩させてきたのもそのロマンを追求する情熱だったのだろうと思う。
東京郊外で突然発生した日本脳炎らしき感染症が異常な速度で患者を増やしていく。撲滅されたはずの病の突然の復活に、対応におわれる市の保健センター職員と看護婦らの奮闘を描くパニック小説。
この作品には特効薬を開発する医者だとか、危機一髪でワクチンを届ける救急隊員のような、派手な活躍をするヒーローやヒロインは一人も出てこない。感染防止と原因究明のために力を尽くすのは市役所や病院という大きな組織の末端にいる人々。彼らが戦う相手は病原菌やウィルスではなく、前例がないことには意志決定ができない硬直化した官僚制度であった。篠田節子は八王子市役所に勤務していた体験を活かして、リアルに市と病院の現場の動きを描写している。
現代人が感染症で死ぬ確率というのは、テロや原子爆弾で死ぬ確率よりも遙かに高い。メディアがあまり取り上げないけれど、世界にとって自分にとって最大の脅威のはずだなあと思って興味を持って関連書を読んできた。この作品はこうした本が警告する危機を、説得力たっぷりに描いている。
・感染症―広がり方と防ぎ方
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/01/post-511.html
・感染症は世界史を動かす
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004403.html
・インフルエンザ危機(クライシス)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004247.html
・世界の終焉へのいくつものシナリオ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004729.html
上記の本で少し取り上げられていた学童への予防接種反対論をこの本で詳しく知った。大規模な感染で多数の死者を出すことを考えれば、集団への予防接種は有効な手段のはずなのだ。
しかし生ワクチンによる予防接種は、少量の病原体を身体に入れるという原理上、数万人~数十万人に一人くらいの小さな確率で感染者を出してしまう。市がそれを強制的にまたは無料で実施すれば、市は万が一の自体に対して責任を負わされる。だから、市民各自の費用で任意接種の方が無難ということになってしまう。結果としてパンデミックを防げない状態になってしまう、らしい。この作品の中でも予防接種反対論の壁と主人公達は戦っている。
地味だが極めてリアルなパニックホラー。この病の最盛期は夏なので今が読み頃。
今年は篠田節子をたくさん読んでいる。以下。
・レクイエム
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/05/post-752.html
・カノン
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/post-740.html
・弥勒
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005292.html
・ゴサインタン―神の座
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005260.html
・神鳥―イビス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005177.html
遠野物語の民俗学者 柳田 國男による妖怪論。
「われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったのだろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと、結合することになったのでしょうか。幸か不幸か隣の大国から、久しきにわたってさまざまな文化を借りおりましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、または幽霊などというものの本質を、解読することはできぬように思います。」
これは昭和13,4年頃に書かれたもので、農村にはまだ電気が通じておらず、マスメディアも発達していなかった頃の研究だ。村々の伝承の中には無数の妖怪が登場した。柳田は全国の有志研究者のネットワークを組織して、それらの情報を集約した結果、そこに多くの共通性を見出した。
たとえば河童である。
「私たちの不思議とするのは、人は南北に立ち分かれて風俗も既に同じからず、言葉は時として通訳を要するほど違っているのに、どうして川童という怪物だけが、全国どこへ行ってもただ一種の生活、まるで判こで押したような悪戯を、いつまでも真似つづけているのかという点である。」
ちなみに妖怪を当時の人々はオバケと呼んだ。これは亡くなった人の霊である幽霊の類とは似て非なるものである。
柳田はまず、オバケ(妖怪)は、
・出現場所がだいたい決まっている
・相手を選ばずに現れる
・出る時刻は決まっていない
という性質を持つのに対して、
幽霊は
・向こうからやってくる、追いかけてくる
・これぞという特定の者にだけ現れる
・およそ丑三つ時ぐらいに出る
という違いがあると定義した。
幽霊は個人的なものであるのに対して、妖怪はもっと人々の広く共有する民俗や自然に根ざしたものということ。
柳田は昔の日本の農村部では「人が物を信じ得る範囲は、今よりもかつてはずっと広かった」というが、結局、何が当時の日本人にそういう想像力を働かせていたのだろうか。この本はそれを具体的に追求する小論集である。
柳田は事例の収集に凝るのみで特に結論を出すわけでもないのだが、話を総合すると、それは昔の生活には薄暗がりがよくあったことに起因するのではないかと思った。それは電灯照明が普及していないからこその薄暗がりでもあるし、メディアが未成熟であるが故の情報の薄暗がりでもある。
見たことがない他所者が夕暮れに村はずれの道を通るのに出会う、ということは村人にとってとても怖ろしいことであったという。黄昏(タソガレ)とは「誰かそれ」に由来する言葉だ。薄暗い場所で見知らぬ者と出くわす恐怖を日本人が共有していたから、できた言葉なのだ。
谷崎潤一郎は「陰影礼賛」で薄暗がりが日本人の侘びさび的感性を育んだと書いたが、妖怪を生んだのもまた同じ薄暗がりだったのではないかと思う。そうした美的感性が衰退し、妖怪がいなくなったのも、文明の光とメディアネットワークによる薄暗がりの全滅によるものだとすれば納得がいく。
・陰翳礼讃
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005012.html
柳田が14歳のときに青空に無数の星が輝く様子を幻視した体験を告白しているところも興味深い。資料を集めて冷静に分析するだけでなく、そうした怪異をリアルに感じることができる心性を持った人だったからこそ、民俗学の祖となりえたのだろう。
妖怪というと水木しげるの妖怪論も面白いのだが創作要素が強い。本物志向を求めるならばフィールドワークから集成されたこの妖怪論がかなり濃い内容だ。巻末の妖怪の名簿(特徴説明つき)は貴重な資料と思う。
「凍える森」は20世紀前半に発生したドイツの大量殺人事件を題材にした小説。
ドイツミステリー大賞受賞で今年映画化が決まっている。
現実の事件の情報は、Wikipediaにも掲載されていた。研究サイトもある。
・ヒンターカイフェック事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「ヒンターカイフェック事件とは、ドイツ史上最も謎の多い犯罪として知られる殺人事件。ヒンターカイフェックは、 バイエルン州の都市インゴルシュタットとシュローベンハウゼンの間(ミュンヘンの約70キロメートル北)にあった小さな農村。1922年3月31日の夕方、村の農場の住人6名がつるはしによって殺害された。事件は現在も解決されていない。6名の犠牲者は、農場の主人の男性(63歳) とその妻(72歳)、夫妻の娘(35歳、未亡人)とその子供2名 (7歳の女の子と2歳の男の子)、そして農場の使用人の女性である。」
そして「何年にもわたり100名以上が容疑者として尋問されたが」事件は未解決のまま現在に至る。この小説は近隣住民の証言集として構成されている。証言は語り口調で2,3ページと短いのでペースよく読み進められる。ときどき犯人視点の断章が挟み込まれる。証言の言葉の含みや矛盾をたどって真犯人を見つけ出す推理小説の醍醐味が最後の数ページまで味わえる。
宗教と因習にとらわれた農村の息苦しいムードが全体に漂う。一言で言うとドイツ版の八墓村。人間関係が密な村社会にあって被害者一家は人づきあいを嫌うはぐれものだった。証言が重ねられるたびに、少しずつ事件の全貌が明らかになっていく。暗い闇の向こうに知られざる一家のおぞましい秘密があることが見え始める。
伏線や隠し方が巧妙で何度か読み返して楽しめる名推理小説。
・Choreographer
http://pencilsoftware.com/lm.html
写真などの平面的な画像データが立体的に動くアニメーションに変換するソフトウェア。素材となる画像をドラッグ&ドロップして、動き方を設定するだけで、お手軽に動画が作成できる。
画像は正面&裏面で2枚使えるが、1枚で両面同じですますこともできる。マスク画像も使えるのでWebデザインに組み込みやすい。減色方法も選べる。
各種パラメータは調整できる。回転、ふわふわ、バウンド、振り子運動、くるくるズーム、ドリフ、でんでん太鼓など、ビジュアル的にインパクトのある面白い動きが用意されている。
作成したらプレビューで確認後にファイルに出力する。形式はGIFアニメまたはQuickTimeに対応している。
最近はYouTubeの動画を張り付けるサイトが多いが、軽快動作のGIFアニメもWebのアクセントにまだまだ使える。GIFアニメは作るのが面倒と思っていた人に。
作成した動画の例:
「はるかに高く遠く、光の過剰ゆえに不可視のまま、世界の中心にそびえる時空の原点―類推の山。その「至高点」をめざす真の精神の旅を、寓意と象徴、神秘と不思議、美しい挿話をちりばめながら描き出したシュルレアリスム小説の傑作。」
1944年に36歳で夭折したシュールレアリスム作家ルネ・ドーマルの代表作。20世紀の奇書。私たちは道を極めようとするときそのプロセスを登山にたとえる。究極の理想、神の領域に向かって登る。しかし、その至高点は、生身の人間にとって目指すことはできるが現実には到達しえない象徴的存在「類推の山」である。
主人公は雑誌「化石評論」に天と地を結ぶ山についてエッセイを書いた。旧約聖書のシナイ山、エジプトのピラミッド、ギリシアのオリュンポス、バベルの塔、中国の神仙の山々など世界の神話伝承には人間が神性に高まりうる通路としての「類推の山」が存在しているという内容だ。
この記事に読者から一通の手紙がやってきて物語が始まる。
「前略、あなたの<類推の山>についての記事を読ませていただきました。私はいままで、自分こそあの山の実在を確信するただひとりの人間だと信じていたのです。今日、それが私たち二人になったわけで、明日は十人、いやもっとふえるかもしれない─── そうなれば探検を試みることができるでしょう。私たちはなるべく早く接触をもたなければなりません。よろしければすぐにでも下記の番号のいずれかにお電話ください。お待ちしています。」
こうして、探検隊が結成され、一行はエベレストよりも高い天にも届く高峰を探す。存在するはずのない場所への長い旅始まる。それは「別の事物、彼岸の世界、異なる種類の認識」を求めたドーマルの魂の自伝でもあった。
物語はドーマルが執筆途中で肺結核で死んだため、類推の山に至る旅は第5章で未完に終わっている。だが、ドーマルの妻と仲間の作家がその事実を明かす「後記」と「覚書」を追加したことで作品としての完成度は高まった。物語の中断がドーマル自身が道半ばにして倒れたことと二重写しに見えて、作家の当初の意図以上にシュールな作品となったのである。象徴の山の頂は人間には登れないものなのだ。
神話的な物語なので今読んでも古さを感じない。全編が美しいメタファーに満ちている。
・「百頭女」「慈善週間または七大元素」
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/06/post-771.html
こちらも20世紀シュルレアリスムの奇書。
・DSvision [スターターキット] 専用microSDカード 512MB付き
一部で話題のDSvision、早速買って使ってみた。
Nintendo DSを電子書籍端末に変身させるためのキット。インターネットの専用サイトからダウンロードしたテキスト、コミック、動画コンテンツを、DSで楽しめる。DS用カートリッジとキーホルダー型USBデバイスと、それに差し込む専用microSDカードの3つのセット。
コンテンツは専用サイトDSvision.jpからパソコンを使ってダウンロードし、データをUSBデバイスにコピーする。DSから直接ネットに接続はできず、ダウンロードにはWindowsパソコンが必要となる。これはちょっと面倒だ。
まずプレインストールの試用版コンテンツを眺めてみる。電子書籍ビューアーとしてNintendoDSは、携帯電話より大きいデュアル画面だし、タッチパネル操作ができるから、結構満足できるレベルに感じた。
<
新しいコンテンツを入手するため、USBをPCにさしてサイトにアクセスしてみる。
・DSvision
http://www.dsvision.jp/
価格は小説「氷壁」「華麗なる一族」が630円。漫画は「プラレス三四郎」「優駿の門」第1巻 315円、ムービーは「昆虫物語みなしごハッチ」「ハクション大魔王」1話 210円など。一般的なデジタルコンテンツ販売の価格帯であろう。例に挙げたように現在、用意されているコンテンツは、子供向けではなくて30代~40代向けが多いように思える。
さて期待しながらDSvisionのサイトを一通りめぐってみたのだが......。正直なところ、コンテンツ不足である。気になるものは2,3あるのだが、テキスト18件、コミック42件、ムービー42件では絶対数が少なすぎる。スタートラインナップとしては少々貧弱な印象が残った。
とはいっても、現段階でまったくダメと判断するのは早すぎる。
先日、専用端末の撤退がニュースになった。わざわざ何万円だして専用端末を買う消費者はいなかったという結果が出た。
・電子書籍端末売れず──ソニーと松下が事実上撤退 - ITmedia News
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/01/news122.html
「松下とソニーが、専用端末を使った電子書籍から事実上撤退した。端末が高すぎたりコンテンツが少なすぎるといった問題が改善されないうちに、携帯電話向け電子書籍市場が成長。専用端末の"居場所"がなくなっていた。」
しかし、その一方で電子書籍の市場は誰もが使っているケータイを中心に着実に拡大傾向にある。
国内で2千万台以上、世界累計で7千万台以上も出荷されているNintendoDSは、電子書籍プラットフォームとしてとても大きな可能性を秘めていることは間違いない。今後、既存の電子書籍販売サイトなどと提携して、DSvision.jpのコンテンツが充実していけば、相当面白くなりそうではある。
中年女性ジャーナリストが自身の記憶力減退を感じたのをきっかけに脳力開発に取り組んだ。食事改善、睡眠改善、脳トレ、薬やサプリなど、頭が良くなると言われるものを手当たり次第に試しまくった脳トレ体験記。
著者の体験はとても幅広い。脳サプリメントの「ブレインサステイン」だとか、
・Brain Sustain
http://www.healthdesigns.com/brainsustain.html
インターネット上で受けられる脳開発プログラム MyBrainTrainerだとか、
・Brain Exercises, Brain Age Test and Cognitive Exercises by MyBrainTrainer
http://www.mybraintrainer.com/
任天堂DS「脳を鍛える大人のDSトレーニング」の英語版BrainAgeだとか、
・Brain Age
http://www.brainage.com/launch/index.jsp
簡単に入手できる者もあるし、スタンフォード大学の不眠症研究室の治療、ヘッドギアをつけた脳波矯正プログラムだとか、MRIを使った脳の画像検査など、最先端の脳医学の御世話になったものもある。ちょっと怪しい気がする瞑想や気功も試している。
そうした体験の合間に、中年の物忘れとアルツハイマー病について、最新医学が解明しつつあることが説明されている。30代、40代からボケの兆候は見られるらしい。早期に発見して対策することが大切になってきている。
85~89歳の人に言葉の記憶テストをすると、全体の5%は17歳並の記憶力を維持しているそうだ。新しくて難しいことに常に取り組むことが脳をいつまでも若々しく保つ最善の策であるという当たり前の結論なのだが、若い頃に脳をフル回転させることが「認知力貯金」になってボケを遅らせる可能性があることや、子供の頃におでこを打った影響(従来はたいしたことがないと思われていた)でボケが早まるなんていうこともわかってきたようだ。
脳トレについては、ある程度複雑な作業を並行させると、単独で順番にこなすときより時間がかかるという「マルチタスクの非効率」現象についての研究が興味深かった。
「カリフォルニア大学アーヴィン校の研究者グループが、IT労働者を対象に、注意が散漫になったり、作業が中断させられたりする頻度を調べてみた。すると、十五分に一回ぐらいだろうという事前の予想を裏切って、実際は三分の一回の割合で起こっていた。しかも中断した作業のうち、その日のうちに再開できたものは全体の三分の二にすぎなかった。この中断を合計するとひとりあたり一日二時間以上になり、損失を金額に換算するとアメリカ全体で一年間に五千八百八十ドルになるという。」
これはおそらくウィンドウ式のGUIの弊害なのだろう。メールやWebが気になって、肝心の作業の気が散ることは私も毎日のように体験している。メールに書かれていたWebを見に行ってしまって、書こうと思っていた別のメールの返事を忘れてしまう、みたいなことがある。インスタントメッセンジャーや常駐アラートなど原因は増えてきているはずだ。
順番にひとつずつやる。気が散らない。割り込みを許さない。それでいて選択の自由度がある。そういうシングルタスクのデスクトップがあったら、頭が良くなるデスクトップとして、売れるんじゃないだろうか。
この本は女性ジャーナリストの著者が、消費者感覚で率直に、それぞれの効果を語っているので体験レポート集として価値がある。読者が自分で試す手間が省けるのがよい。
個人的にはサプリメントに興味があって、毎日「マルチビタミン」「ブルーベリー」を会社の机の引き出しに入れて飲んでいる。少々寝不足でも大丈夫な気がする。だが、市販のマルチビタミンは効果が弱すぎるとこの本では論じられており、Brain Sustain(57ドル)は気になる。
脳トレということでは子供と一緒にやるものに関心がある。最近買ってきたのはこれ。歴史年号の語呂合わせ(645(無事故)な世づくり大化の改新、とか1192(いい国)つくろう鎌倉幕府とか)が書かれた読み札と、年号と絵の描かれたカルタがセットになっている。語呂合わせを覚えていれば、早く取れる。
基本となる年号を暗記できていると、歴史ものの理解が早いから、生活の中でも結構楽しめる。
・BmpHtmlFun
http://my-tiny-programs.tripod.com/
画像を、テキストアートとしてHTMLに変換するアプリケーション。
ソース画像として縦横100×100ピクセル以下のサイズのBMP画像を用意する。これを読み込ませて、背景色、文字のパターンを指定するだけで、テキストアートに変換されたHTMLファイルが出力される。予想外に現代アートな感じに仕上がるので驚く。
このソフトを試したのが、ちょうどiPhoneの発売日だったので画像をテキスト化してみた。
・iPhone 3G クリックするとHTMLを表示
http://www.ringolab.com/note/daiya/iphone_txt.html
「iPhone3Gをさっそくテキスト化してみた。やるのなら各自、自己責任で。」とTwitterに流したら結構な数が釣れた。メッセンジャーで「徹夜で入力して6時間もかかったんですよ」と言ったら本気にした人がいた。楽しい。
しかしメディアにとりあげられたのはこっちのネタだったのだが↓(笑)
橋本さんのメッセステータス | IDEA*IDEA
http://www.ideaxidea.com/archives/2008/07/post_600.html
井上ひさしがこの本に書いたのは小手先の文章術でもなく精神論でもない。いったい文章とは何か、書き手は何をすべきなのか、そして言語の目的とは何なのか、という本質的な問題に対する答えを求めた。
三島由紀夫、川端康成、谷崎潤一郎、丸谷才一らの文章読本がしばしば批判的に引用される。そこに書かれた
・話すように書くのがよい
・透明な文章が理想とする考え方
・接続語で流れるような文章を書くとよい
・オノマトペは使うべきではない
・文末をバリエーション豊かにせよ
などという旧世代の文章読本が良しとした文章術に対し反論を加える。事例と根拠を明快に示して斬っていくのが心地よい。
井上ひさしは比喩を殊更に重視している。文の中で比喩が出ると読者の脳は一瞬ぎょっとする。謎が解けると快く感じる。文章が意識され味わいがでる瞬間だ。それこそ表現のための文章づくりに一番重要なことだというのである。
「とりわけ大事なことは、受け手は瞬時でも立ち止まるたびに言葉や文章を実感するということで、文章とは第一に言語の特別な使用である以上、これは当然すぎるほど当然だろう。「餅のような肌」ではだれも立ち止まらない。使い古された紋切り型だから透明すぎてだれひとり意にもとめないのである。だが「白い陶器に薄紅を刷いたような」(『雪国』)となると話は逆になる。これは新しくて、よい比喩だ。」
ビジネス文書や広告のような伝達のための文章は、簡潔にして透明なものが好まれる。高度な比喩は少なく接続語でスムーズへ前へ流す機能優先の文体だ。しかし、小説や戯曲のような表現の文章の名文は、ただ伝達するのではなく、読者の共感や想像力を強烈に喚起させるものでなくてはならない。読者の長期記憶を揺さぶるために比喩は強い武器になる。
「すなわち小説は「読者」という名の「同時代に生きる仲間達に向かって書かれるべきものである。<中略>つまり仲間達=読者たちは、内部にある名付けられない言葉、形をなしていない半物語をかかえて暮らしているのだが、そのもやもやに名を与え、その半物語に形を与えるのが作家の仕事である。当然作家の使用する言葉も読者たちの言葉でなければならないが、これらの仕事に成功した作家は自然に「時代様式まで高められた文体」(=共同体の実感)を持つ。」
算数の問題文、回覧板や法律文、商業文、記事や社説、随筆、小説や戯曲、そして詩。世の中には多種多様な文があるが、およそ、その順序で書くのが難しくなるという。
「使われる比喩の量と文章を書くことのむずかしさとが正比例するからである。つまりその文章が世の中の中心から外れれば外れるほど、個体的、個人的なものになればなるほど、比喩の量が増えて行き、その分だけ文章を書くことが骨になるのである。これまでにも何回となく触れたことだけれど、個人的な文章の主務は、それぞれの心の生活のなかにある「なんだかぼんやりしたもの」、そして「ぼんやりしてはいるが自分にとってのっぴきならないほど重大なこと」に形を与えるというところにある。その内的経験は個人的なものであるだけに世の中の中心からは遙かに遠い。その距離を瞬時のうちに埋めるのが比喩である。」
比喩に関する考察の部分のみ抜粋してみたが、これだけでも井上ひさしの文章論の総合性と厚みが明らかではないだろうか。文章論を超えて文化論というレベルに達している。古今東西の名文が実に的確に引用されていて、著者の背景の読書量と知識量を思うと圧倒される。
「生命おどって書いたものにのみ、文体がある。」、「鍛えあげられた短文、文章の中心思想こそ、文章の燃料にほかならない」、「文章を綴ることで、わたしたちは歴史に参加するのである」。この文章読本は、こうした極意に至るまでの説明のプロセス自体がが読み物としても完成度が高いから、なおさら説得力が増す。
伝達の実用文章術ではなく、表現の芸術としての文章術を知りたい人向けの名著。
・文章のみがき方 - 情報考学 Passion For The Future
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/post-737.html
・自己プレゼンの文章術
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004915.html
・日本語の作文技術 - 情報考学 Passion For The Future
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/10/post-641.html
・魂の文章術―書くことから始めよう - 情報考学 Passion For The Future
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-564.html
・「バカ売れ」キャッチコピーが面白いほど書ける本
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004702.html
・「書ける人」になるブログ文章教室
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004805.html
・スラスラ書ける!ビジネス文書
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004499.html
・全米NO.1のセールス・ライターが教える 10倍売る人の文章術
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004488.html
・相手に伝わる日本語を書く技術
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003818.html
・大人のための文章教室
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002489.html
・40字要約で仕事はどんどんうまくいく―1日15分で身につく習慣術
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002286.html
・分かりやすい文章の技術
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001598.html
・人の心を動かす文章術
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001400.html
・人生の物語を書きたいあなたへ ?回想記・エッセイのための創作教室
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001383.html
・書きあぐねている人のための小説入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001082.html
・大人のための文章法
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000957.html
・伝わる・揺さぶる!文章を書く
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002952.html
・頭の良くなる「短い、短い」文章術―あなたの文章が「劇的に」変わる!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003740.html
嗅覚心理学の第一人者が語るにおいの心理と行動の関係。
大学生たちに脇の下にガーゼをあてた状態でハッピーな映画と恐怖映画を見てもらう。その後ガーゼを回収して、若い男女に「幸せな汗」「恐怖の汗」をかぎ分けてもらった。すると、女性は幸せのにおいを判断するのが上手だったが、男女ともに男性の恐怖の汗のおいをよく認知したという。一般的に快いとされる体臭は健康な人のもので、不快とされる体臭は不健康な人のものでもある。人間の嗅覚には人の感情や体調を嗅ぎ取る能力があるのだ。
不安なときには一親等の家族のにおいで安心する人が多いという研究もある。祖父母やおじでは半分に低下し、曾祖父母やいとこでは落ち着く効果はゼロになる。逆に性的な興奮を誘うという点では自分と遺伝特性(MHC遺伝子群)が異なる異性のにおいに人は強く反応する。だから万能の媚薬は存在しないが、人によってカスタマイズした媚薬は作れる可能性があるらしい。
最近まで研究価値がないと思われてきた嗅覚。視覚や聴覚、錯覚に比べると研究者も事例が少ない。一般人のアンケートでも失われたら困ると思われるからだの機能のランキングで最下位だったそうだが、実際には人間は嗅覚を失うと悲惨な状態に陥る。嗅覚障害者の事例が出ているが、食べ物の風味がわからなくなるだけでなく、世界との結びつきの感覚を奪われて、他者との関わりも薄くなってしまう。
「ヒトの情動系は、動物の嗅覚系が引き起こす基本的な動機が高度に進化し、抽象化した認識の解釈であると私は思います。動物仲間たちにとってのにおいはヒトには感情を生じさせますが、動物にとってのにおいとは、直接かつ明確な手段で敵の攻撃から身を守る必要性を伝えているのです。一方、私たちにとっての第一のサバイバルコードは変換され、感情の体験となります。それを「嗅覚・情動翻訳」と呼んでいます。」
ときとして、においが強烈に私たちの感情をゆさぶることがあるのは、根の深いレベルで情動と結びついているからなのだ。しかし、言語学において言葉と意味が恣意的な関係であるのと同じように、「におい」と「感じ」はほぼ完全に後天的な学習による恣意的な結びつきによるものであることが明かされる。
「におい関連学習の要点は、あなたが最初にある特定のにおいに出会ったときに、どのように「感じた」かが将来の快楽的な知覚を決定することにあります。私たちが好むにおいは最初に遭遇したときの状況が幸せであれば、肯定的な意味合いと結びつくものであり、嫌いなにおいは初めて嗅いだときに否定的な感情があったり、不愉快ななにかと結びついています。」
バニラが世界中で人を魅了する理由は、バニラが人間の母乳のフレーバー成分であり、多くのミルクに調合されているから、だそうだ。日常的に死体が燃やされているインドの川辺で幸福に生活を送る人であれば、死体のにおいが幸福な日常と結びつくことさえありえる。ひとつのにおいが複数の感覚を想起させることもある。たとえば実験でこれはなんのにおいかというラベルを張り替えて提示すると「パルメザンチーズ」のにおいが、あるときは「嘔吐」のにおいとして認知されるという例が出ていた。
人間は生まれてくる環境によって危険なにおいは変わるから、嗅覚は真っ白な状態で生まれて後天的に学習するように進化してきたようだ。だから、においは基本的に思い出のにおいなのだ。
プルーストの小説ではないが、においが強烈な過去のフラッシュバック体験を引き起こすのは私にもときどき体験する。青い草のにおいだとか、洗濯物のにおいなどがきっかけで幼児期のある瞬間がありありと再現される。そのフラッシュバックは強烈で正確である。著者曰くにおい「思い出の最良の鍵」なのだ。においの科学を追究していくと、超臨場感を持った思い出体感メディアが作れるのかもしれないと思った。
この本には、ガンをにおいで発見するイヌがいる、嗅覚を察知する電子的なセンサーの「電子鼻」が実用化されている、ハチの嗅覚で地雷探知ができる、など嗅覚に関する驚きのエピソードが満載である。
・Shock Desktop 3D
http://www.docs.kr/entry/Download-Shock-Desktop3D-en
起動すると通常のデスクトップがそのまま3D化される。立体化したアイコンは質量をもった物体であるかのように動く。マウスで持ち上げたり、跳ね飛ばしたりして位置を変えることができる。アイコン同士がぶつかると相互作用して跳ね返る。現実世界のような物理シミュレーションが実現されている。整列しているアイコン群をマウスでかきまわして、ぐっちゃぐちゃにするのが楽しい。(そのあと、ひとつひとつ片付けるのは現実世界のように面倒だが)。
右クリックのメニューからIcon typeをCubeにすると立方体になる。立方体の方が転がりやすい。アイコンの大きさは個別に変更ができる。重要なフォルダ、よく使うアプリのアイコンを大きくしておくと便利だ。アイコンのサイズに重要度などの意味を与えるというのは良いアイデアだと思う。
私は今週、このソフトでデスクトップを3D化したまま無理やり使っている。最初は違和感はあったのだが、慣れれば意外に使えないこともない。デスクトップってアイコンを選んでクリックする程度の簡単な操作しかしていないからだろう。
・Shock-4Way3D
http://www.docs.kr/entry/Download-Shock-4Way3D-en
同じ作者が作っている3D仮想スクリーン管理ソフト。仮想スクリーンの切り替えを3Dインタフェースで行う、だけ。
傑作ドキュメンタリ写真集。
サラリーマン家庭の一人っ子としてるり子は生まれた。海外志向の両親の仕事の都合で生誕地はメキシコシティ。3歳で帰国したが、事あるごとに着物を着せられたり、日本の伝統を教えられた彼女は、幼な心に「日本の文化を大切にする」ことを、両親の期待を遙かに超えて学んでいた。彼女は京都で舞妓になることに密かにあこがれていた。
少女時代を日本で過ごすが、再び両親の都合で中国へ渡って「外国人クラス」に入る。
日本を外から眺めることで、日本の伝統文化への憧憬がなおさら深まった。京都の芸妓「小糸さん」のホームページを見つけて、京都への思いは再燃、最初のメールを書いた。それから3年、るり子は15歳の春に単身で京都へ渡った。舞妓「小桃」になるために。
あどけない少女が舞妓に入門して、伝統芸を身につけ、一人前になるまでの長期間、写真家は彼女をひたすら撮り続けた。少女から女へ、新米の舞妓から風格の芸妓へと変化していく様子が完璧に記録されている。一人の人間の成長を通して、舞妓、芸妓という伝統文化の現在をまるごと映像化した。
華麗で妖艶な表舞台の写真は美しさに思わず息をのむ。舞妓や芸妓のイニシエーション儀式の写真からは張り詰めた空気が伝わってくる。舞台裏の息抜き時間に見せる素顔の柔らかさ。そして京都祇園の四季の風物など見所が満載の写真集である。一般人にはわかりにくい芸者の世界を、丁寧に解説する文章も充実している。
・ToDoTwoD
http://www.vector.co.jp/soft/winnt/personal/se435687.html
マネジメントの本を読むと、やるべきことを管理するには、作業の重要度と緊急度を評価して、
1 重要度が高く緊急度が高いこと
2 重要度が高く緊急度が低いこと
3 重要度が低く緊急度が高いこと
4 重要度が低く緊急度が低いこと
の順で処理しなさい、とよく言われる。
重要度も緊急度も、単純に「高い」か「低い」に分類したのでは、やること同士の微妙な差がつかず、結局どの順ですべきなのかわかりにくい。四象限の図にビジュアルにマップして全体を管理できるとよいなと思っていた。
ToDoTwoDは仕事の優先順位を決めるための付箋ライクなソフトウェア。右クリックの「新規タスク追加」から2軸の図上に作業項目を置いていく。デフォルトでは重要度と難易度が分類の軸として設定されている。私は設定パネルでこれを重要度と緊急度に変更してみた。軸に対する優先度の重みを数値で設定することもできる。
そして、優先順位の表示を選ぶと、それぞれの項目を置いた位置から計算して、順番リストを提示してくれる。タスクトレイに常駐させて、必要な時にリストを確認したり、タスクのマップを変更することができる。
背景色やフォントを変更することもできる。画面キャプチャをとれば報告プレゼン資料にも活用できそうだ。
こういう意思決定に使えるソフトは好きだ。もっと広まっていいと思う。
・ラジオ・ブラウザ - クロノス・クラウン -
http://crocro.com/pc/soft/radio_browser/index.html
GoogleニュースおよびYAHOOニュースで配信されているニュースを順番に音声で読み上げを行ってくれるフリーソフト。パソコンの前でコーヒー休憩するときに、ネットのニュースをよく読むのだが、目を休めたいのに目を使うジレンマがあった。これなら目を閉じてニュースが聴けるので問題解決である。
それから記事の横に表示されるKeywords by Conus Crownは、記事内のキーワードが抽出されており、ワンクリックでGoogle検索ができる。気になるニュースの深追いにかなり便利であったりする。
Google、YAHOO共に設定でカテゴリを指定すれば特定分野のニュースに限定することもできる。
MSIEの右クリックに「ラジオブラウザで読み上げ」機能を追加することができる。Webページの任意の場所を選択した状態でこの機能を呼び出せば、どんなページでも音声で読み上げてくれる。クリップボードの内容を読み上げるクリップ読み機能も搭載している。
ネットニュースの音声化を非常に使いやすくシンプルな形で実現したいいソフトだ。
テレビとネットの近未来カンファレンス 第12回 「これからはじまる本当の"テレビ進化論"」
イベントのお知らせです。
シリーズ第1回からKNN神田さんと二人でモデレーターを続けてきた、このイベントですが7月22日の次回で、12回になります。今回は、先日このブログでも書評を書かせていただいた「テレビ進化論」の著者 堤 真良 早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員助教授、アジャイルメディア・ネットワークの徳力基彦さん、株式会社PTPの有吉昌康をゲストにお招きして、放送と通信の最前線を探ります。
【詳細と申し込み】
イベント参加のお申し込み
http://www.tvblog.jp/event/archives/2008/07/index.html
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「これからはじまる本当の"テレビ進化論"」
全録マシン「SPIDER zero」登場!ダビング10開始! ~リミックスチャンネルは、産業として機能するのか?~
今回のカンファレンスは...、
「テレビ進化論(講談社現代新書ISBN-13: 978-4062879385)」の著者であり、元・経産省メディアコンテンツ課の担当であり、早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員助教授 堤 真良(さかい・まさよし)氏をお招きし、著書である「テレビ進化論」と、経済産業省時代に担当された「コンテンツ産業」育成の立場から、テレビ産業、コンテンツ産業のあるべき姿と、そのための産業政策についてプレゼンテーションをお願いしております。
・YouTube、ニコニコ動画などの動画共有サービスと、フリーライド化されるコンテンツ産業のマネタイズ問題。
・コンテンツプロデュースとチャンネルプロデュースの役目の違い。
・ダビング10開始とデジタル時代の著作物対価の還元。
・アナログ電波、2011年の停波までに、できることなどをテレビ産業全体の産業政策の観点からお話いただきます。
また、とくダネ!のオープニングトークで約10分にわたり、小倉キャスターが熱弁をふるった、全録ビデオ、「SPIDER zero」実機が登場!
http://www.ptp.co.jp/spiderzero/
(※ぜひ、サイトの動画をご覧になってみてください)
SPIDER zeroを企画開発する株式会社 PTPの有吉 昌康(ありよし・まさやす)代表取締役社長を交え、「TV進化論」を現場の立場から、「SPIDER視聴」によって変わりゆく、テレビの視聴スタイルを検証したく考えます。
実際に懇親会場では、SPIDERのインタフェースに皆様に触れていただき、未来のテレビ視聴の姿を体験いただけます。
さらに、テレビとネットが間接的に融合している現代において、新たなメディアの可能性についてアジャイルメディア・ネットワークの徳力基彦(とくりき・もとひこ)取締役、そして、メタキャスト井上大輔(いのうえ・だいすけ)取締役チーフ・ビジョナリーを迎え、ユーザー視点のテレビ進化論をディスカッションいたします。
境 真良
http://d.hatena.ne.jp/masays/
早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員助教授
(元・経済産業省商務情報政策局メディアコンテンツ課課長補佐)
1968年東京都生まれ。1993年に東京大学法学部を卒業し、通商産業省入省。入省後、資源エネルギー庁公益事業部計画課(電気事業法改正担当)、国土庁地方産業振興室、瀋陽総領事館大連事務所勤務。省庁再編後、経済産業省メディアコンテンツ課課長補佐、東京国際映画祭事務局長、経済産業省商務情報政策局プラットフォーム政策室課長補佐を経て経済産業省を離れ、現在は早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員准教授を務める。専門分野はコンテンツ産業理論。国際大学GLOCOMフェロー。アジアの都市文化融合現象を20年追っており、アジアの海賊版事情、アイドル、マンガ、コンピュータ技術などにも造詣が深い。
有吉昌康
http://spider8.jp/
株式会社 PTP 代表取締役社長
野村総合研究所で企業戦略やマーケティング戦略を専門に消費財メーカー、コンビニ等に対してコンサルティングを行う。同社を2000年に退職し、株)パワー・トゥ・ザ・ピープル(現 株式会社PTP)を創業。
ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院卒業、一橋大学商学部卒業
徳力基彦
http://blog.tokuriki.com/
アジャイルメディア・ネットワーク株式会社 取締役
NTT、IT系コンサルティングファームを経て、2002年にアリエル・ネットワークに入社。情報共有ソフトウェアの企画や、ブログを活用したマーケティング活動に従事。2006年からは、ブログネットワークのアジャイルメディア・ネットワーク設立時からブロガーの一人として運営に参画し、2007年7月に取締役に就任。最新のネットツールやネットマーケティングに関する複数の執筆・講演活動も行っている。個人でも「tokuriki.com」や「ワークスタイル・メモ」等の複数のブログを運営するなど、幅広い活動を行っており、著書に「デジタル・ワークスタイル」、「アルファブロガー」等がある。
井上大輔
http://tvblogger1.tvblog.jp/
http://www.metacast.co.jp/
株式会社メタキャスト 創業者 取締役チーフ・ビジョナリー
1996年、早稲田大学卒業後、株式会社リクルート入社。情報システム部門、マサチューセッツ工科大学(MIT)社費留学、IT企画室、新規事業開発室、経営企画室を経て2005年3月同社を退職。同年4月、メタキャスト社設立。
モデレーター
神田敏晶(かんだ・としあき)
http://knn.typepad.com/
KandaNewsNetwork,Inc.代表取締役
橋本大也(はしもと・だいや)
http://www.ringolab.com/note/daiya/
情報考学Passion For The Future
■イベント開催概要
【日時】2007年07月22日(火曜日)
開場18:00
セミナー 18:30~20:45
懇親会 21:00-22:30
【場所】東京ミッドタウン(東京ミッドタウン・カンファレンス)/ミッドタウン・タワー4F
【費用】セミナー 5,000円
セミナー&懇親会 8,000円
【主催】楽しいテレビの未来を考える会
【協賛】CNET Japan
【申し込み】
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http://www.tvblog.jp/event/archives/2008/07/index.html
地域や人間に深く根ざした分散型経済「ディープエコノミー」をつくるべきだと説く環境ジャーナリストの本。資本主義一辺倒でもなく、環境絶対主義でもなく、その中間に持続可能な経済と魅力的な生活が両立できるゾーンがあると著者は力説する。人間にとっての生活満足度、幸福感をいかに高めるかという視点でかなり説得力のある議論が展開される。
米国でも日本でもヨーロッパでも戦後にGDPは何倍にも伸びたが、生活満足度は変化がない。経済は豊かになったにもかかわらず、アル中、自殺、鬱病の割合は激しく上昇した。研究によると人間は貧しいうちは一貫して幸福を金で買うことができるが、一定の収入を超えると幸福との相関関係がなくなる。その一定の収入を先進国の住民はほぼ全員が上回った状態にある。そしてさまざまな生活の質指数の調査が示しているのは「(裕福な世界では)人に対する気持ちは、消費、貯蓄に関係なく金銭に対する気持ち以上に、主観的な幸福感を決定するものだ。」という事実だった。
資本主義経済の発展は地域コミュニティの人間の絆を破壊し、いままさに環境を破綻させようとしている。しかし、考え方を少し変えると経済と環境の両立のオプションもあると著者は世界中のコミュニティ経済の成功した試みを紹介する。
たとえば、アメリカの農業では現在は小規模農家の方が生産性がずっと高い、という話はわかりやすい。小規模な生産者は土地の特性を細かく把握しているので、単位面積当たりの収穫が大規模農園よりずっと多くなる。そして小規模農家が栽培した有機野菜は、地域の市場(ファーマーズマーケット)で大規模農業の野菜よりも高く売れる。ファーマーズマーケットはこの10年で数も売り上げも倍増しているそうだ。
こうした地域経済においては人々のコミュニティも発達する。精神的な絆が復活することで、生活満足度が上がっていく。アーミッシュのような共産主義コミュニティではなくて、個人主義の基本は維持したまま、心地よいレベルのコミュニティを形成していくフィジビリティスタディがある。
アメリカ人が口にする平均的な食べ物は6回の乗り換えを経由して2400キロも輸送されている。この長距離輸送などに伴い地域で生産された食物を食べる生活と比べて5~17倍の二酸化炭素を放出することになる。日本でも地域農業ベースの食生活に切り替えると二酸化炭素排出は2割も削減されるそうだ。
もちろん壁となるのは人々の意識である。
「しかしながら、地元産食糧への取り組みが直面している最も根深い問題は、私たちがどほんのわずかしか食べ物に払わないことに慣れてしまったことだ。どれだけの石油を使っているか、どれだけの温室効果ガスを大気中に放出しているか、どれだけの補助金が税金から出ているか、どれだけの損害を地域社会に与えているか、どれだけの移民労働者が障害を負っているか、どれだけの汚水が溜まっているか、どれだけの距離の高速道路が必要か。そういう意味では高くついているのかもしれない。しかしまあ、カートを押してレジへ進むと、かなり安いのだ。」
経済合理性という観点では個人レベルでは今のスーパーマーケット経済が合理的に見えてしまう。環境が経済の外部性として扱われてしまい、個人のお財布に影響を与えないからだ。グローバル経済レベルでこの外部性を内部化するという政策が今まさに議論されている。各国は排出した二酸化炭素を買い取るような取り決めを作ろうとしている。税金や価格にいずれ負担は反映される。もちろん、そういう強制的解決の方法はありそうだ。
しかし規制があるから仕方なくという論理よりも、ファーマーズマーケット経済の楽しさ、幸せを実感して自然に変わるということが、持続型経済への移行の近道である気もしてきた。「地域社会に、そして力を合わせて働く人々に充填を置くこと」で「エネルギーは10分の1、会話は10倍」の幸福な生活を作ろうという、著者のフューチャージェネレーションのアプローチは、○○を環境のために止めよう、というのではなくて、幸福な生活のために○○をしようというロジック。ポジティブで受け入れやすいと思う。
環境と経済の両立を考える上で洞察に満ちた一冊。
・人類が消えた世界
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/06/post-765.html
・+6℃ 地球温暖化最悪のシナリオ
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/6-4.html
・成長の限界 人類の選択
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003701.html
・地球のなおし方
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003752.html
・世界の終焉へのいくつものシナリオ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004729.html
・文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004210.html
・文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004218.html
経産省メディアコンテンツ課課長補佐出身で、早稲田大学准教授としてコンテンツ産業理論、情報経済論、産業政策論などを教える境真良氏の放送と通信の融合論。新書一冊で放送と通信の融合の現状が俯瞰できる良書。
メディア・コンテンツ産業が未来の日本の基幹産業だと言われる割に、旧態依然とした体制がなかなか変わらないのはなぜか。著者は元官僚としての正直な感想を吐露している。
「しかし、経験者の実感と言えば、最大の問題は、メディア・コンテンツ産業が本質的に娯楽産業だという点にあるのではないだろうか。メディア・コンテンツ産業は、国の興亡や国民の生死に直結しないし、伝統技術や舶来の芸術のような権威とも距離がある。だから、いくらGDPを増やすから、情報通信産業の発展に資するからといっても本気で取り組む気になれない。「娯楽の価値」を認められない官僚の心理傾向が、問題の奥底には潜んでいるようにも思える。」
新しい価値は中心ではなくて周縁から生まれる。サブカルチャーからカルチャーが育つ。むしろ中央の官僚が認められない価値だからこそ、これは本物なのかもしれないと思う。
この本にも紹介されているようにかつて映像の世界には実験市場があった。二本立て映画、ピンク映画、深夜番組という傍流とみられた市場から、後の名監督や名プロデューサーが生まれてきた。ゲームやアニメからヒットコンテンツが誕生してきたのも、新しい才能が生まれる実験的な市場だったからだろう。今ならニコニコ動画やYouTubeがそうした傍流の実験市場になるのだろう。
当面の課題はそれらをマネタイズする方法を考えることだが、情報の価値についてこんな記述があった。
「慶應大学の坪田知己は、情報そのものは無価値であり、情報はその情報を利用できる人間に出会ったときに初めて価値を生むと説明する。 これにしたがえば、情報のビジネスで最大の課題は、その情報を受け取って価値を見出す人間をいかに抽出するかということになる。だからこそ、ウェブ2.0系事業者はどん欲に消費者に関するあらゆる情報を集めようとする。」
つまり大勢を楽しませるコンテンツを作る時代から、それを面白がる人を大勢探す時代になるということかなあと考える。年頃の娘は箸が転がるのを見ても笑い転げるというが、転がる箸と年頃の娘をデータベース上で結婚させるのが、新しいコンテンツビジネスの可能性として考えられる(もちろんこれまで通り大勢を楽しませるものと並行して)。
グーグルや楽天などのプラットフォーム型ビジネスの特徴として「ずらし」の技法があると著者は指摘している。グーグルが広告で収益を上げながら無償でサービスを提供するような例のこと。
「つまり、直接収益のように単一の受益者に金銭対価を要求するのではなく、複数の受益者を想定し、ある受益者には無償で利益を与え、そこから、獲得した情報と引き換えに別の受益者から金銭を回収するというやり方であり、「情報の三角貿易」とでもいうべき技法だ。」
この本は、映像ビジネス世界で、テレビ業界、制作者・権利者、IT業界などのプレイヤーが新しい「情報の三角貿易」の組み合わせを模索している様子を、元官僚で研究者である著者が、一般人にも分かりやすいように平易に、でも斬り口は大胆に分析している。
・ミノタウロスの皿 小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉
何よりミノタウロスの皿の第6話「劇画・オバQ」が衝撃だった。
「すべては植物人間になったのび太の夢でした」というドラえもんの最終回だとか、「ハワイ旅行に当選した一家が乗った飛行機が墜落してサザエもカツオもワカメもタラちゃんもみんな海へ帰りました」というサザエさんの最終回は、実在しない都市伝説である。作者がそんな陰気なラストを描くわけがない。
ところが、ここに収録された「劇画・オバQ」は藤子・F・不二雄が本当に描いてしまったありそうにない最終回(?)である。「劇画・オバQ」はマンガの時代から15年後の世界を描いている。絵は子供向けオリジナルと違って陰影が強い劇画タッチで重みがある。一度はオバケの世界に戻ったオバQが人間界に戻ってくる。そしてサラリーマンになり結婚もした正ちゃんと感動の再会をする。早速、正ちゃんの家に泊めてもらい、かつての友人達と思い出を語るオバQなのだが、大人になった彼らはそれぞれに人生の悲喜こもごもを抱えていることを知る。無邪気だったあの頃には二度と戻れないのだと気がつく。
あの名作オバQにこんなにもブラックでシュールな最後があろうとは。
この読み切り短編集は子供向け漫画とはまったく異なる藤子・F・不二雄のダークサイドが堪能できる。原作の続き物はオバQだけだが、他のオリジナル作品も小説のような深い味わいを持つ名作が多い。
・箱舟はいっぱい 小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉
こちらの短編集では「ノスタル爺」が好きだ。
戦後30年して復員した男がダムに沈んだ故郷を訪ねる。帰らぬ自分をずっと待ち続けていたという妻の墓にお参りする。夫婦として過ごしたわずかな新婚時代を思い出していると、ふと実家の土蔵に閉じこめられていた老人がいたことを思い出す。昔の感覚に没入するうち、いつのまにか男はあの時代の故郷の道を歩いていた。
さすがにドラえもん原作者なだけあってタイムマシンやタイムスリップ物が多い。しかし、主人公が窮地に立たされてもドラえもんは助けに来てくれない。人間の生き死にや欲望が生々しく出てくる。きれいなだけではないオトナの世界を描く。ハッピーエンドよりもバッドエンドが多い。
どれも読み応えがある作品ばかり。藤子・F・不二雄が本当に描きたかったのはこういう漫画だったのだろうなと思った。星新一のショートショートにも通じるものがある。短いが強烈な印象を残す。藤子・F・不二雄の短編を知らない人はとりあえず読まないと損である。
何の役にも立たないばかりか、形状と挙動がゴキブリに似ているので、人に嫌がられることもある虫型ロボット玩具。動いている様子はオフィシャルサイトやYoutubeにいっぱいアップされているので私は写真でかっこよく写してみたのが上の写真。シルバーにしてよかったと思う。
HexBugの機能は以下の3つ。
1 スイッチを入れるとカサカサ歩き出す
ひたすら直進を始める。動きがユーモラス。
2 触覚センサーに反応して向きを変える
手や壁など障害物にぶつかると進行方向を変える
3 音に反応して向きを変える
手を叩いたりして大きな音を出すと進行方向を変える
箱に入れると内部でぐるぐる動き回るのを眺めて楽しむこともできる。
今のところ無能だが、このHexBugに本物のゴキブリを発見して追尾し退治する機能を与えたら、ゴキブリホイホイを超えるメガヒット商品に化けるかもしれないと思ったりした。
家庭向けロボットというと、犬だとか人の大きさの製品が一般的だが、大きいロボットはかさばる。だから、虫のように小さなロボットが隅っこにいて、必要に応じて集まって用を足してくれるというビジョンも、案外ありなのではないかと思う。
調べてみると虫型ロボットは研究者が結構いる。本物の虫をサイボーグ化するという研究もあるようだ。ネットで虫嫌いな人にはかなり不気味な映像が公開されている。サイボウグ虫は各種センサーを搭載して環境に無数に放てば、ユビキタスネットワークのインフラとして機能するかもしれない。インターネットの次はインセクトネットだ。うそ。冗談。
・Cyborg Insect ( New Scientist Video)
http://jp.youtube.com/watch?v=dSCLBG9KeX4
HexBugはそういう未来の虫型ロボットを妄想するためのオブジェである。
・HexBug公式サイト
http://www.asovision.com/hexbug/
カラーバリエーションや説明書的情報がある。
・hex bug - みんなでつくる動画検索 SAGURI α
http://saguri.jp/search?q=hex+bug
みんなが見ている、ダウンロードしている順で動画を検索。
劇作家、演出家の鴻上尚史が20代~30代半ばに本に書いた文章を、自選で編んだ傑作エッセイ集。若い世代に読ませるためにまとめたようだ。テーマは主に表現論、演劇論、恋愛論、人生論。
最初になぜ鴻上は演劇を志したのか、どうやって劇作家や演出家になったのか、そのとき何を考えていたか、が赤裸々に語られる。
「トレーナーのエリの部分を頭の上まで引っ張り上げて、『ジャミラ!』と言い切った新人には、柿のタネが飛びました。よせばいいのに、そいつは、そのまま、『スピードスケート選手!とだめ押ししました。『ほっかほっか亭』の唐揚げが飛びました。唐揚げは、当たると痛いのです。 つまりは、表現するとは傷つくことで、下手でもとにかく、傷つかないと始まらなくて、それを、無傷なまますごそうとする人間たちには、地獄の観客達は容赦なかったのです。」
第1章「演劇なんぞというものを」、若き鴻上が入部した早稲田大学演劇研究会での、青春の一コマ。打ち上げ飲み会では前にステージが作られて全員が個人芸を強制される。つまらない芸には無視や冷たい仕打ちが待っていて、覚悟がない新人は泣いて部を去っていく。本当にうまいものには熱烈な拍手と喝采が起きる。
「そういうメンバーとつきあうことは、道楽を追求するひとつの近道なのです。もちろん、そういうメンバーと出会うのは、簡単ではありません。ですが、志さえ高く持っていれば、そしてちゃんと傷ついていれば、必ず出会うのです。」
いかにもワセダ的メンバーにもまれながら鴻上は授業をさぼって演劇にはまる。一部員から仲間を集めての劇団の設立、劇団仲間の死、それを乗り越えて夢に向かう覚悟。ユーモア感覚たっぷりの軽妙なエッセイだが背後にきちんと後進へのメッセージが込められている。
「舞台とは、大海原を何ヶ月も漂流しながら、仲間の人肉を食らうことで生き延びられた最後の一人が、緑の大陸の渚にうちあげられた時、気を失いながらもしがみついていたイカダのことである。その材木でできた四角い平面こそ、私の求める舞台そのものなのだ。」(「ジョジョ・マッコイ」、謎の演劇者の言葉を借りて)
特にこれにしびれた。その舞台はすべての表現者にとっての舞台なんだと思う。
いい戯曲を書くには?テーマがみつからない?
「あなたが、「ま、いいか」とか「しょーがないの」とか「これが人生っていうやつよ」とかの言葉を使わない限り、テーマは山ほどあります。」
演劇に限らずこれから表現者を志す人におすすめ。それからワセダ的な場所で留年や休学を繰り返しちゃっているような停滞中の大学生に特におすすめ。鴻上の言葉にブレイクスルーがみつかるかもしれないと思う。
脳神経外科医が現代人の脳に起きている異変を語る。
「それが良いことなのか悪いことなのかはともかくとして、私たちはインターネットをあまりにも便利に使うことによって、日常生活の中で、知識を得るまでのプロセスに多様性や複雑さをなくし、思い出す手がかりのない記憶をどんどん増やしてしまっているようなところがないでしょうか。そのために「知っているけど思い出せない」ということが増えた。」という著者の指摘に考えさせられる。
パソコン任せ、インターネット任せの生活は、私たちをさまざまな面倒から解放した。検索すれば容易に情報が見つかる。気になるページはブックマークしておけばよい。わざわざ記憶しなくなった。人にURLを送りつければ自ら説明する手間が省ける。だから内容を深く理解しておく必要もない。脳の負担が減って楽になる=ITを使いこなしている=良いことと考えがちだ。
パソコンとインターネットを人類共通の外部記憶装置として共有する情報管理スタイルは、この10年で世界中いたるところで急速に浸透している。楽に膨大な量の情報を扱うことができるようになったわけだが、一方で人間が物を覚えたり考えたりする時間は減っている。現代人は中途半端にしか情報を受け取っていないから「知っている気がするけど思い出せない」ような体験が増えていると著者は指摘する。脳がパソコンにカスタマイズされてしまっているのだ。
フリーズが多発する脳はパソコンやネットだけが原因とは限らない。会社生活における環境の変化もそうしたボケを招くのだという。
「若い頃には嫌なことをやらされているわけですが、偉くなってくると「これはもう自分でしなくてもいい」と選べる場面が増えてきます。それで面倒な作業を省いていくと仕事や生活がどんどんシンプルになっていく。そうした方が効率よく才能を発揮できそうな気がしますが、そうとは限りません。「忙しかったのにできていた」のではなく、本当は「雑多なことをしていたからできていた」のかもしれないのです。」
雑多なことを自動化簡単化すると生活の中の「新しく組み立てていく部分」がなくなる。脳の回転数が下がってしまう。著者曰く脳の回転数を上げるには、ある程度「社会の歯車である環境」に戻りなさい、意志を持った歯車でいなさいとアドバイスしている。
私はITをフル活用して仕事をしている。またそうしたワークスタイルを授業や研修で積極的に人に勧めてきた。だから、この本のフリーズする脳の問題は日々自分の問題として痛感している。1日中パソコンの画面とにらめっこしていると創造性が減退していくのが自分でも実によくわかるのだ。
パソコンをフル活用して煩雑な作業を自動化すること。インターネットを外部記憶として使うこと。こうしたやり方は決して間違っているわけではないと思う。本来は脳が楽をする分だけ「新しく組み立てていく部分」を増やすべきなのだ。だが人間はつい楽な道を選んでしまう。
数年来フリーズ脳対策として個人的に心がけていることとして、
1 企画の発想はパソコンを使わず紙の上に書いていく
2 仕事中に社内を歩き回るか外を散歩して考えをまとめる
3 情報収集ではネットサーフィンは最小限にして本を読む
4 誰かをランチに誘ってややこしい問題を人に簡単に説明する
5 真面目な会議でもなるべく人を笑わせるよう努力する
がある。この本を読む限りではだいたい方向性は間違ってなかったようだ。
私は「ゲーム脳」はまったく信じないのだけれども、パソコンやネットの過度な利用で脳が怠惰になるという、この本の説には全面的に同意である。かつては人と差をつけるためにITを使ったが、万人が使いすぎな時代には、敢えて使わないことで生産性を高めることにつながるのかもしれない。
お葬式でお坊さんとゆっくり話す機会があった。いろいろな本を読むのが好きだという話になったとき、私は調子に乗って「仏教(の本)は哲学や科学と似ていて宗教っぽいくないのが好きです」と言ってしまった。お坊さんはニヤリと笑われて「いやいや、仏教は突然天から何かが降ってくるみたいなところがあるものです」と返された。冷や汗たらたらだった。
禅思想の大家 鈴木大拙の本はどれも難解なのだがこの本は講演の口述筆記を中心にまとめたものなので、すこしだけ読みやすかった。いやそれでも半分わかったという気がするレベルだが。これは「無心」ということが仏教思想の中心であり東洋思想を特徴づける重要概念だとして、大拙が8回の連続講義を行った記録である。
無心ということは木や石ころみたいな絶対的受動性の世界だ。分別を超えた無分別であり、絶対無価値の世界を指しているという。神や仏を無条件に受け入れるということでもあるのだろう。そして同時に天啓=ひらめきの舞い降りる創造的な状態でもあると思う。
「この受動性がいろいろな型となって、真宗には真宗の、禅宗には禅宗の、キリスト教にはキリスト教のそれぞれの型がある。その型で受け入れるが、ちょっと見たところでははなはだ違ったようでも、その本を探して来ると心理学的に受動性というものがいずれの宗教にもある。」
前述のお坊さんが言われた「突然天から何かが降ってくる」というのと同じ意味だと思った。私のように知的好奇心から仏教を頭で理解しようとする限り、この宗教の受動性という本質はつかみづらい。
「阿弥陀さんは、あるから信ずるのではなくして、信ずるからあるのです。信ずることができるからあるのです。その絶対の受動性の中にはいってくるから信ずるのです。受動性のものに動的性格が出てくるから、そこに一種の信なるものが出るのです。」
鈴木大拙は古今東西の思想家宗教家の無心論を縦横無尽に引用しているが、心学の祖 石田梅巌の南無阿弥陀観が興味深く読めた。
「南無阿弥陀仏になれば、我と云ふものあるべきや。我なければ虚無の如し。虚無に南無阿弥陀仏の声有て唱れば、此即ち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏直に御名を唱玉ふは説法にあらずや。此説法の功徳に依て、弥陀を念ずる行者も、念ぜらるる方の仏も、双方ともに一体と成り、苦楽の二つを離れ終るなり。離れ終って無心無益の不可思議となる。是を名て自然悟道とも云ひ、能所不二、機法一体とも云ふにあらずや」
心を空っぽにして南無阿弥陀仏と唱えると、唱えた行者も仏も一体となって無心無益の不可思議になる、というわけだ。唱えた行者が無心になるという平面的な展開ではなく、行者と仏が観照しあってメタレベルに突き抜けた無心になるということなのだ。こうしたひらめきが舞い降りて思考のフレーム自体を根本から作り替えてしまう悟りの瞬間は宗教体験に限らず普遍なのではないかと思う。
「それゆえわれわれのいわゆる心というものは、はっきりと自覚できる面もあるが、また全く自覚できない面もある。そうしてこの無自覚方面の方が、空間的にいえば、自覚面よりもずうっと広いといってよろしい。あるいは深いといってよろしい。この深い広い無自覚面、あるいは無自覚層といってよいが、そこからいわゆる百鬼夜行的にいろんなものが自覚面へ飛び出す。飛び出たところで初めて気がつくが、その先はどこからどうして来たものか全くわからぬ。これを妄想と仏教では言う。」
この妄想をうむ我執を次元を超越して新たな安定状態を求めると無心が出てくるらしいのだが、無心というのは何もないのではなく、むしろ全部入りなのだ。物理学に似ている。百鬼夜行的いろんなものがランダムに出てくる世界をミクロの量子力学的世界とすれば、無心はマクロの世界に生じる現象である、という解釈で読めそうに思う。無意識や本能にまかせるのが無心ではないのだ。ここでいう無心はもっと洗練された人間化された安定状態を指しているのである。
この講話集ベースの本を読んで鈴木大拙が難解なのは言葉の専門性もあるが、三段論法や弁証法で話が展開しないからじゃないかなと改めて気がついた。「如何なるか是れ無心」に対して「日々是好日」でも「麻三斤」でも「解打鼓」でも正解だという禅問答と一緒なわけだ。それに慣れると二次元の絵が三次元に突然立ち上がってくるような驚きが随所に見つかる濃い内容の本であると思う。
・禅的生活
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002275.html
・シッダールタ
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-708.html