2009年8月アーカイブ

狐媚記

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・狐媚記
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先日、新宿のオペラシティ アートギャラリーで開催(~9月27日)されている鴻池朋子の集大成的な現代アート展覧会「インタートラベラー 神話と遊ぶ人」を見てきた。鴻池の妄想による神話体系。会場に漂う濃密な妖気に圧倒された。私はたまたま他の鑑賞者がほとんどいなかったため、この展覧会で大切な密室感や静寂さをフルに味わえた。空いている時間帯に鑑賞することを強くおすすめする。

・鴻池朋子 展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人
http://www.operacity.jp/ag/exh108/
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この狐媚記の世界観も出展作品のモチーフのひとつとして取り入れられている。私は展覧会を見た後ミュージアムショップで見つけた。読んでから見ると一層良いと思う。

「北の方が狐の子を産みおとしてしまったという事実が知れわたったとき、左少将の屋敷内のものはことごとく茫然自失して、発すべきことばもなかった。」

人とそうでないものの境界に棲む魔を描いた澁澤龍彦の怪異小説に、アーティスト 鴻池朋子が挿絵をつけた合作。現代アートと澁澤の融合で独特のホラー・ドラコニア少女小説集成の中でもイチオシの出来。鴻池の表現の持つケモノ感がはまっている。

澁澤のあとがきにかえた解説「存在の不安」も単なる作品説明ではなくて、読み応えのあるエロス論となっている。

「プラトンによると、原初の人間は両性具有であって、その容姿は球形であった。ところが傲慢な人間どもが神々に逆らって、天上へ攻めのぼろうとしたので、ゼウスが怒って彼らの身体を二つに切断してしまった。 それ以来、人間は元の姿が二つに断ち切られてしまったので、それぞれ自分の半身を求めて、ふたたび一身同体になろうと熱望するようになった、というのである。この古い神話は、じつに貴重な示唆をふくんでいる。エロスの働きは、この二つに分離した男と女を、ふたたび一つに結合させようとする、失われた統一への郷愁なのである。たぶん、人間の最も深い欲求は、この分離を何とかして克服し、存在の宿命的な孤独地獄から逃れようという欲求なのであろう。」

小説を読んで展覧会を見ると相乗効果。澁澤も鴻池も凄いな。

・うつろ舟―渋澤龍彦コレクション
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/05/post-993.html

・欲望の植物誌―人をあやつる4つの植物
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人間が品種改良したからではなく、植物は自ら周囲の動物の欲望をあやつることでこそ今の姿になったのだという独特の視点に立った共進化論と歴史学のエッセイ。本書で取り上げられる4つの植物とそれらがあやつる人間の欲望は以下の通り。

リンゴ → 甘さ、甘いものが欲しい
チューリップ → 美、美しいものを手に入れたい
マリファナ → 陶酔、ハイになりたい
ジャガイモ → 管理、自然を管理したい

人間はこうした欲望を満たすために植物を利用しているが、逆に植物の視点に立てば、人間に運ばれ食べられることで広域に繁殖することに成功している。

たとえばリンゴはタネが熟すまでは目立たない緑色で甘味もない。タネには毒があって果実しか食すことはできない。だからタネは果実を食べた動物によって運ばれ、未消化のまま地面に落とされる。かくしてリンゴは動物が求める果糖と引き換えに分布域を拡大してきた。

チューリップなら引き替えにしたのは花の美であった。マリファナなら動物の脳に作用する化学物質であり、ジャガイモでは品種改良の容易さであった。

「私たちはつねづね「栽培化」という行為を自己中心的に、人間から植物への働きかけと捉えがちだ。しかしこれは同時に、植物が私たちや私たちの抱く欲望をーーー美意識というもっとも特異な欲望でさえもーーー自らの利益のために用いた戦略でもあるだろう。」
なぜ花が美しいのか。なぜ果実はおいしいのか。なぜマリファナに酔うのか。なぜジャガイモ栽培が楽しいのか。

「植物の進化にとっては、相手の生物の欲望こそがもっとも重要な鍵となったのだ。理由は単純で、相手の欲望をより多く満たすことのできる植物ほど、より多くの子孫を残すことができるからだ。こうして美は、生き残り戦略として生まれてきた。」

最近、テレビや新聞で人間の活動が原因で○○が異常大量発生などというニュースを見るが、本来、自然に異常も平常もないわけである。それは○○という種が、人間の活動をうまく利用して、繁殖に成功したというだけの話である。○○という種の歴史から見たら偉大な一歩なのである。

栽培植物もまた人間の意図や意識が作りだしたと考えられがちだが、実際には人間と植物の相互作用のなかから自然に生まれてきているのではないかと著者はいう。人間を自然の外側に置く思想では共進化の姿を理解できないからだ。

「より均整のとれた花や、より長いフライドポテトを求めて手を伸ばすたび、知らず知らずのうちに進化を決定づける一票を投じているのだ。もっとも甘いもの、もっとも美しいもの、そしてもっとも「酔わせる」ものが生き残っていくプロセスは、弁証法的に展開する。すなわち、人間の欲望と植物の可能性の宇宙のあいだに交わされるプロセスは、ギブ・アンド・テイクの繰り返しのなかで進んでいくのだ。そこで必要とされるのは二人一組のパートナーであって、決して意図や意識ではない。」

欲望を持った植物と人間の恋愛の結果が現在の自然の姿なのだ。

博学の著者は植物をめぐる多様な世界史、文化、社会、技術の話題をこの本の中で全方位で考察している。思えば、環境問題では環境"破壊"、環境"保護"など人間が自然の生殺与奪の権利能力を握っているかのような言葉が使われる。だがそれは植物の側だって握っているものなのだということを思い出させてくれる。

星守る犬

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・星守る犬
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イヌ好きは泣ける漫画。孤独とイヌの連作。

山中の放置車両に中年の男の遺体が発見された。死後1年は経過している。傍らには比較的新しいとされるイヌの死体が寄り添うように見つかった。かつては真面目に働き、家族を支えてきた男だったが、なぜ放浪の末、孤独に死んでいくことになったのか、の身の上が語られる。

路頭に迷った男とイヌの二人旅は、飼い主とずっと一緒にいられるイヌにとっては案外に幸せなものだった。イヌは健気な表情で「おとうさん」を元気づける。星守る犬とは、決して手に入らない物を物欲しげにずっと眺めている犬のこと。ぐっときてしまう。イヌという動物は人間と一緒に居るようにできている。原始の時代から人間の孤独を癒す存在だったわけだが、イヌの表情に癒しを感じるようにヒト側も共進化してきたのかもしれない。

併録された『日輪草』は『星守る犬』の続編にあたる作品。前作で発見された遺体を弔うことになったケースワーカーのこれまた孤独な人生と寄り添うイヌの話である。10月6日、20日には漫画アクション誌に続編2号が連続掲載されるそうだ。普段買わない雑誌だがとりあえず読まねばと楽しみにしている。

たまたま「おとうさん」と白いイヌの話だが携帯電話のCMは関係がない。孤独な死がテーマだから広告には向かなそうだが、現代的なテーマではあり、ドラマや映画化されそうな予感。

・第1話の冒頭をタダ読みできる Web漫画アクション
http://webaction.jp/title/104.php

・ヘルタースケルター
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ハイリスクな全身整形医療により完璧な美を手に入れて、芸能界で華々しく脚光を浴びる女優でモデルのりりこ。だが、その偽りの美しさを維持するには高額の継続治療が必要であり、危険な副作用に悩まされていた。次々に現れる身体の異常をメイクで隠して、テレビや撮影のハードスケジュールをこなすギリギリの日々。

「あたしはもうすぐ使いものにならなくなる。もっと長くもつかと思ってたけど...。意外と早かったなあ。あたしが売りものにならなくなったら?ママは?あたしを捨てるでしょう。ママだけじゃない。みんな今ちやほやする人たちだって離れていくわ。」

りりこは非情な業界の人間関係への不信感からバランスを崩し、肉体も精神も崩壊させていく。その転落は一蓮托生の周辺の人物たちを巻き込んでいく。人造美女りりこを生み出し「維持費」を投資する事務所の女社長、りりこのわがままに翻弄されながらも魅了され性的にも奉仕するマネージャーとその彼氏、高額美容ビジネスの裏に有力者の腐敗を疑う検察官など、周辺人物の心の深い闇もしっかり描かれている。

2003年度文化庁メディア芸術祭・マンガ部門優秀賞、2004年第8回手塚治虫文化賞・マンガ大賞受賞作。岡崎京子は本作品発表後96年に交通事故にあって入院したまま、いまだ再起していないようだ。続編がありえたかもしれない終わり方なので、いつか復帰して欲しいものだなあ。

ひとりの女の子の落ち方を通して、現代のメディア産業の非人間性や、メディアにとらわれる欲望の果てしなさを描いた。とにかく読み応えのある傑作。

・SecuniaPSI

http://secunia.com/vulnerability_scanning/personal/
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統計的には1台のPCに平均80本のソフトがインストールされているそうだ。

OSを含むすべてのソフトウェアには脆弱性の可能性があるが、各社がリリースするセキュリティアップデートパッチを確認するのは手間がかかる。SecuniaPSIは主要なアプリケーションの脆弱性を洗い出すツールである。

システムをスキャンしてセキュリティ上の脅威を発見し、箇所と脅威度を報告する。さらに「あなたのSecuniaシステムスコア X% は XXXXXの平均的なユーザよりも XX% 低い 結果です。」のように相対的なスコアを表示してくれる。そして問題のあるソフトウェアのアップデート情報のページへ誘導する。

私も早速やってみたところFlashプレイヤーとJavaのランタイム、それと利用していないThunderbirdが最新ではないから危険ですよ、と教えられた。アップデートしなくては。世界の平均よりは高いセキュリティレベルの数値がでたのでほっとした。

・アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る
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ヤマト王権成立の5~7世紀にはタカミムスヒが最高神で、律令国家が成立する8世紀頃にアマテラスが最高神にとってかわったのではないかという仮説である。

「四世紀までの日本には、第三章で述べるが、唯一絶対の権威をもつ至高神は存在しなかった。そこは豪族連合段階の社会にふさわしい、人間的で魅力あふれる多彩な男女の神々が自由奔放に活躍する多神教的世界だった。それは神話としての魅力には富んでいるが、先生王権が依拠する思想として適切とはいえない。それに比べると北方系の天降り神話は、唯一絶対性・至高性という点ではるかに勝っていて、統一王権を権威づけ、求心力を高める、思想的武器としての力を十分もっていた。」

日本書紀と古事記を比較して、先祖について記載のある氏の登場回数を数えると、地名を名とする半独立の伝統を持つ氏である臣・君・国造系と、職掌を名とする天皇の身内的氏である連・伴造系の2グループで、顕著な違いが見られるという指摘と分析が鋭いと思った。正史が編纂された当時の読者は何を気にしたかに着眼しているのだ。

「現在私たちが『古事記』を読むとき、このような氏の名にいちいち目を配る人はまずいないだろう。しかし、とくに天武の生存中にもしこの書が完成していたならば、おそらくその時代の支配層の人々にとっては天武自身が編纂した欽定本の歴史書に、自分の氏の名が記されているかどうかは、きわめて大きな意味をもったに違いない。ところがこの欽定本には、あきらかに臣・君・国造系にたいする極端なまでの重視、あるいは優遇と、連・伴造系に対する軽視、あるいは冷遇が見られるのである。」

そしてそれが氏族制国家の終焉と律令国家体制への移行のあらわれだという自説展開へつながる。日本書紀の「神代 上」と「神代 下」の二元構造は誰が見ても明らかだ。古い建国神話と新しい天下り神話を"国譲り"で無理矢理接着したからだと著者は分析する。
日本書紀は一君万民の国家を支える新体制のイデオロギーに必要な神話体系として編まれたとされる。その時代に、本来は皇祖神ではなく土着の太陽神であったアマテラスを格上げし、古いタカミムスヒから段階的に置き換えていったのではないかという推論がある。
記紀において武勇伝や活躍シーンの多いスサノオとかオクニヌシなどと比べると、アマテラスという神は最高神である割に、天の岩戸事件での振る舞いに象徴されるような受け身な行動が多い存在である。謎の最高神の秘密を探るミステリーの解明に挑んだ意欲的な新書。記紀好きはぜひ。

・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-959.html

・日本人の原罪
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-946.html

・[オーディオブックCD] 世界一おもしろい日本神話の物語 (CD)
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/cd-cd.html

・日本史の誕生
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/08/post-799.html

・読み替えられた日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-700.html

・日本神話のなりたち
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-573.html

・日本古代文学入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004835.html

・ユングでわかる日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004178.html

・日本の聖地―日本宗教とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004661.html

・劇画古事記-神々の物語
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004800.html

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ...人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html

・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html

・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html

・ドラゴンクエストIX 星空の守り人 オリジナルサウンドトラック [Limited Edition]
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こんな記事がitmediaにありましたが、

・結婚式の入場曲に「ドラクエ」のオープニングを使うのはアリ? ナシ?
http://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/0908/24/news074.html

ありでしょう。あの壮大な序曲で入場、いいんじゃないでしょうか。二人ともレベルアップしそうで。

ドラクエ9、私も無事ストーリーをクリアして、今はクエストを漁っているわけだが、それなりに長時間、ドラクエ音楽を聴いてきたわけで、このCDは感慨深い。「序曲」に聞き入り、通常バトルの「負けるものか」で奮い立ち、街のテーマの「来たれわが街」や「王宮のオーボエ」でほっとする。ほとんど条件反射である。中ボスの「渦巻く欲望」ダンジョンの「暗闇の魔窟」で緊張する体質になっていることに驚く。

このサントラアルバムには、ほぼ同じ楽曲が収録された2枚のCDが入っている。1枚目はシンセサイザーバージョンで、2枚目がDS音源バージョン。1の方が響きがきらびやかであるが、ゲームに近いのは2枚目である。

シンセについてはこんな解説があった。

「Overtureという楽譜ソフトを使用していますが、このソフトにはシークエンサーEasyvisionが連携していて、書いた楽譜でシンセサイザーを鳴らすことが出来ます。使用楽器はローランドのJV-2080、コルグM-1、プロテウス/2です。」

ただし「序曲」だけは東京都交響楽団が演奏しているそうである。

ラスボスの曲「決戦の時」が私は今回の最高傑作だと思う。

みずうみ

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・みずうみ
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川端康成のいやらしい小説。

「嫌みな感じ」「好色な感じ」

日本語のいやらしいには二つの意味があるわけだが、どちらの意味でも、いやらしいのがこの本の読み所。

かつての教え子を執拗に追いかけるストーカー男と複数の若い愛人(でも女嫌い)を囲う変態老人の歪んだ意識の物語。

「銀平が後をつけているあいだ、宮子はおびえていたにちがいないが、自身ではそうと気がつかなくても、うずくようなよろこびがあったのかもしれない。能動者があって受動者がない快楽は人間にあるだろうか。美しい女は町に多く歩いているのに、銀平が特に宮子をえらんで後をつけたのは、麻薬の中毒者が同病者を見つけたようなものだろうか。」

ストーカーも、追わせる女も一般の通念に照らすとなにか狂っている。その独りよがりな意識の流れを、そのままに描写する。場面はしばしば記憶の中の過去に飛ぶ。意識の流れを追体験するような文体が特徴である。

痴態の描写がたっぷりあるにも関わらず、よく読むと実は一度も男女は交わっていないのである。女は下着を一度も脱いでさえいないようである。それなのに官能小説張りの艶っぽさが漂う。老人が密室で若い女の裸を愛でるという設定は「眠れる美女」に通じる、オヤジ的嫌らしさである。

ノーベル文学賞作家のちょっと暴走気味の作品。

・名人
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/05/post-988.html

・愛する人達
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/04/post-961.html

・眠れる美女
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/10/post-847.html

・新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に
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「冒頭にも書きましたが、わたしは紙のメディアは銀塩のフィルムカメラに似ていると思います。書店は中古カメラ屋さんのようになるのかもしれません。最新の刊行物を並べる書店は量販店化していくでしょう。そして、フィルムカメラが廃れ、デジカメが全盛のいま、紙の本は中古カメラのように稀少品に近くなると思います。」

『WIRED』『サイゾー』とエッジの効いた雑誌の創刊者であり、インフォバーン社長として出版ビジネスの経営者でもある小林弘人氏による旧勢力にはちょっとばかり痛烈なメディアの未来論。

「これから、出版社などのメディア企業が抱える頭痛の種は、競合する相手が自分たちと似たような企業ではなく、1人か、もしくは数人くらいまでによってローコストで運営されるメディアとなることです。 高額の給与や家賃、諸経費という固定費縛りがある企業が、寝ずに頑張る個人と競り合うことは、大変なことです。」

そうだよなあと思う。

90年代中盤のインターネット草創期に、私はジャーナリストの神田さんと二人で何度かシリコンバレーのベンチャー企業を取材して回る旅に出た。安い旅費の貧乏旅行ながらも、フットワークの軽さで1日に何社もの有望企業の記事をネットにアップすることができた。帰国してから日本の出版社に原稿を売ろうとは思っていたが、日々ネットにアップするのは、フリーランスの宣伝行為でもあるが、実のところ、マインド的には無償の趣味みたいなものであった。

私たち二人はあるとき、日本の大手新聞社のシリコンバレー支局を訪ねた。向こうの駐在員も2名であった。彼らは「やがて神田さんとか橋本さんのようなフットワークが軽い人たちに大手新聞社はやられてしまうかもしれない」と言っていたのを思い出す。当時の私のように、"何で食っているのかわからないような人たち"が、メディア企業の脅威になるのだと思う。

新しいメディアのプロデュースにおける心構えとして小林氏は、次のように語っている。メディアだけでなくITビジネス全般にも通じそうな話でもある。

「新しいプラットフォームがつくるスフィア(生態圏)では、そこに棲む人たちの関心や行動パターンなどを、皮膚感覚で理解する必要があります。それが「その他大勢」よりも優位に立てる条件であり、ライティングや動画製作のプロであるか否かは二の次だとわたしは考えます。」

ユーザーオリエンテッドかテーマオリエンテッドで生き残れという指南もあった。古い業界体質に対しては辛口だが、出版業界に対する根底的な部分での愛を感じる、著者なりのツンデレなメッセージの本である。

新聞とか雑誌とかどうなっちゃうの?という人はまずこれを読むといい。

・たのしい写真―よい子のための写真教室
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写真家ホンマタカシが書いたオリジナルな写真史論と、理解のためのワークショップ、佐々木悟や堀江敏幸との対談、写真関連の私的エッセイなど中身は盛りだくさん。各所に写真資料も散りばめられていて、視覚的にも楽しい本だ。

「写真教育にはブラックボックスが多すぎると、いつも感じてきました。「天才的に撮るべきだ」と言う人がよくいます。教育の現場に身を置いていながら、「写真は教えることができない」と広言する写真家もいます。写真に関する文章も、わざと難しい言葉で書いているんじゃないかと勘ぐりたくなることがしばしばです。」

勘違いしてはいけないが、これはお子様向けのカメラ入門本ではない。ポストモダンの写真史を理解したい大人向けの教科書だ。これまでもモダンの教科書はたくさんあったが、他の分野の文化論と同様に、定説が固まっていないポストモダンはわかりにくかった。

ホンマタカシは歴史の転換点を『決定的瞬間』(アンリ・カルティエ・ブレッソン)と『ニューカラー』(ウィリアム・エグルストン)に置く。小型カメラと大型カメラ、主観的と客観的、モノクロとカラー、瞬間を切りとるシャッタースピードの違い。表現形態の歴史上の変化が年表や写真家紹介によってわかりやすく解説されている。

今日の写真の特徴としては、

(1)ストレートからセットアップへ
(2)大きな物語から小さな物語へ
(3)美術への接近あるいは美術からの接近
(4)あらゆる境界線の曖昧さ

の4つが挙げられている。

こうしたポイントを理解するためにいくつかのワークショップが用意されている。たとえば、「Q:あなたの好きな写真集の中から1枚の好きな写真を選んで、それがどのように成立しているかを言葉で説明し、次いでその1枚と同じ構造の写真を撮影してください。」という出題対する生徒と先生の回答例が示される。実際に自分でやってみたくなる楽しそうな出題ばかり。

自分なりの写真観、写真史観を持ちたいという人に特におすすめ。


というわけで、この本に興味を持つような方のために、明日の月曜日に「写真の境界線」というイベントを執り行いますので、興味関心のある方の積極的なご参加をお待ちしております。下記が案内です。私は司会兼発表者です。

・オーバルリンク写真部主催 2009 Vol.1 写真の境界線

http://blog.ovallink.jp/2009/08/photoevent.html
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・黒い壁

http://himajin.me.land.to/ss/blackwall.html
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写真撮影でも文章作成でもそうだが、何かを強調したいと思ったら、それ自体を強く打ち出すだけでなく、余計なものを見えなくする、取り上げないということが大切だと思う。
パソコンを使ったプレゼンテーションでも、背景に"生活感漂うデスクトップ"なんか見せてしまうと、せっかく集めつつあるアテンションを失ってしまうことにもなりかねない。

黒い壁は、特定のウィンドウや領域の外側を真っ黒に塗りつぶすソフトウェア。アクティブウィンドウ、アクティブウィンドウのクライアント領域、マウスカーソルの あたっているオブジェクト、矩形選択のいずれかを選択できる。(アクティブウィンドウ以外を選択するには、起動時にコマンドライン引数で指定する。少し面倒だが、あらかじめショートカットアイコンを作っておけば楽になる。)

プレゼンテーションやスクリーンショット作成時に、スポットライトを当てたい場所を浮き立たせる小技として、画像処理ソフト不要のこのソフト、重宝しそう。

・写真論
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スーザンソンタグによる写真論の古典。

脱線的な箇所ではあるが、旅行と写真について鋭い考察が大変に印象に残った。ソンタグはこう言っている。

「写真撮影は経験の証明の道ではあるが、また経験を拒否する道でもある。写真になるものを探して経験を狭めたり、経験を映像や記念品に置き換えてしまうからである。旅行は写真を蓄積するための戦略となる。写真を撮るだけでも心が慰み、旅行のためにとかく心細くなりがちな気分を和らげてくれる。観光客は自分と、自分が出会う珍しいものの間にカメラを置かざるをえないような気持ちになるものだ。どう反応してよいかわからず彼らは写真を撮る。おかげで経験に格好がつく。立ち止り、写真を撮り、先へ進む。この方法はがむしゃらな労働の美徳に冒された国民であるドイツ人と日本人とアメリカ人にはとりわけ具合がよい。ふだんあくせく働いている人たちが休日で遊んでいるはずなのに、働いていないとどうも不安であるというのも、カメラを使えば落ち着くのである。」

カメラを持ち歩く旅は、何かを獲得しようとしていながら、何かを失っている。カメラは構えずに、肉眼で見て現実を経験する方がずっと獲得できるものが豊かなのかもしれないのに、だ。(ま、カメラが好きな人は写真撮影という経験を獲得するために旅行をするのでもあるのだが。)

ソンタグは別の箇所で、写真による獲得とは、

1 写真の中の大事なひとやものを代用所有する
2 出来事に対して消費者の関係をもつ
3 経験から切り離して、情報として獲得する

だよと言っている。おそらく1は記念写真、2は広告写真、3は報道写真などといってよいのだろう。写真とはメディアであるが故にからっぽなのである。一枚の写真に意味を無限に読み取ることもできるし、どんな意味を与えることもできる。

「自分ではなにも説明できない写真は、推論、思索、空想へのつきることのない誘いである」

「写真家にとっては結局、世界を飾る努力と、その仮面を剥ぎ取る反対の努力との間に違いはない」

それが絵画芸術と写真芸術の違いでもある。よい絵画と悪い絵画、良い写真と悪い写真を区別する基準は根本的に異なっている。だが視覚芸術として共通する部分ももちろんあるという。

「絵画と写真が共有するひとつの評価の基準は革新性である。絵画も写真もともに、それらが視覚言語における新しい形式上の計画や変化を与えるが故に評価されることがしばしばある。もうひとつ両者が共有できる基準は存在感の質である。」

わかりやすい部分を引用してみたが、これが書かれた1970年代後半の時代文脈を総括する部分(かなり多い)を読み解くには、事前に20世紀中葉までの欧米の代表的写真家の主張や作品についての予備知識が必要である。結構、敷居の高い読み物ではある。

さて、ソンタグは本書冒頭、人間の認知についてプラトンの洞窟のたとえを出した後、
「この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、拡げたりしている。」

と言っているのですが、このたび来週の月曜日に「写真の境界線」というイベントを執り行いますので、興味関心のある方の積極的なご参加をお待ちしております。下記が案内です。私は司会兼発表者です。

・オーバルリンク写真部主催 2009 Vol.1 写真の境界線

http://blog.ovallink.jp/2009/08/photoevent.html
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写真に関する過去の書評。

・明るい部屋 写真についての覚書
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1038.html

・撮る自由―肖像権の霧を晴らす
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1048.html

植田正治 小さい伝記
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/03/post-726.html

・写真家の引き出し
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/03/post-728.html

・心霊写真―メディアとスピリチュアル
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/06/post-1016.html

・いま、ここからの映像術 近未来ヴィジュアルの予感
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-952.html

・植田正治の世界
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/03/post-717.html

・不許可写真―毎日新聞秘蔵
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/03/post-724.html

・写真批評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005242.html

・土門拳の写真撮影入門―入魂のシャッター二十二条
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004954.html

・東京人生SINCE1962
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005034.html

・遠野物語 森山大道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005029.html

・木村伊兵衛の眼―スナップショットはこう撮れ!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004923.html

・Henri Cartier-Bresson (Masters of Photography Series)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004931.html

・The Photography Bookとエリオット・アーウィット
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004958.html

・岡本太郎 神秘
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004986.html

・マイケル・ケンナ写真集 レトロスペクティヴ2
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005007.html

冷血

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・冷血
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1965年に発表されたニュージャーナリズムの源流とされる有名作。もはや古典。

・ニュージャーナリズムとは?Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
「ニュー・ジャーナリズム(New Journalism)は、1960年代後半のアメリカで生まれた新たなジャーナリズムのスタイル。従来のジャーナリズムにおいては何よりも客観性が重視されていたが、ニュー・ジャーナリズムでは、敢えて客観性を捨て、取材対象に積極的に関わり合うことにより、対象をより濃密により深く描こうとする。」

『冷血』は当時カンザス州で起きた一家4人惨殺事件を題材にしたノンフィクション。被害者と加害者、近隣住民、警察関係者、裁判関係者らを執拗に追いかけて、大長編を書き下ろした。カポーティは執筆前に3年かけて6000ページに及ぶ資料を収集し、さらに3年間それを整理してからこれを書いたという。

まず驚くべきはノンフィクションですと教えられなければ気づかないくらい物語として完成していることだ。本作品は事件の発生から犯人が死刑台に消えるまでをほぼ時系列で描いている。だが取材者が関係者を追いかけるタイプのドキュメンタリではない。

カメラは当事者達の目線でおいかけて再現映像のような働きをする。裁判における証言や現場検証のデータなど、事実の羅列から構成、再現されているのにも関わらず、息をのむほどドラマチックな映画のような展開になる。取材して集めた資料をまとめあげる著者の能力は神業である。

二人の犯人はなぜ一家皆殺しという残酷な殺人行為に及んだのか。その殺人はどのように行われたのか。時系列で書かれているのに、最後まで読まないと動機や事実がわからない。序盤より伏せたままにされたカードが、少しずつ裏返されていくように構成されている。基本はミステリーなのだな。

現代の日本人にとっても非常に読み応えのある物語だが、当時の記憶が生々しい60年代のアメリカの読者は、さぞかし圧倒されたのだろうなあ。

落語論

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・落語論
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たとえ落語に興味がなくてもぜひとも「買い」の大傑作である。おすすめ。堀井憲一郎、『ディズニーリゾート便利帖』でただものではないライターだと思っていたが、ほんとに凄いよこれは。教えてくれた友人のshikeさん、ありがとうございます。

落語を通して他者を魅了する芸とは何かの本質を論じている。芸人だけでなくプレゼン機会の多いビジネスマン、講師・教員、コンサルタントは必読の書である。ライヴの極意が書かれている。

ただし究極のそれは技術ではないのだ。

「東京ドームの舞台に、たった一人で立つ美空ひばりの気持ちをおもいうかべればいい。 たった一人の声だけでこの数万の客を取り込もうという、その気合いがなければ、成功しない。ただすんなりと歌をうまく歌っただけでは、客を巻き込めない。それは芸能ではない。お歌の発表会だ。すべての客の心に、美空ひばりを届けないといけない。いま、この目の前にいる客を、とにかくどうにかするんだ、という強い気持ちだけが、音をすみずみの客にまで届かせる。」

自己の面子にかけて、今この場をとにかくどうにかするんだという気迫。ビジネスの会議やプレゼンの場でも、こういう姿勢は本当に重要だと思う。ポジション、能力にかかわらず、一緒に仕事をしたいと思う人はそういう人だ。(往々にしてその手の人はポジションも能力も既に高いのだが。)。もちろんそれは才能でもあるのだが。

落語は歌だと言い切る。言語分析やオチによる分類を否定する。言葉より音なのだ。

「音は「いつもすべて心地よく」だされているのが、一番いい。知らず知らずに観客の身体が演者のほうへ反応し、好意的に受け容れる体勢を作る。心地いい音が出されると、動物はまずそちらに近寄っていく。動物的につかんでおいて、それから言葉を発すればいいのである。」

音の高低でメロディを作り、強弱でリズムを作れ。もっとも心地よく聞こえる声を把握しておくことが大事。自分の息の都合でブレスをするな。いい落語の要素を著者は次のようにまとめた。

「声の高低をきれいに使って、人心を見事に掴むメロディラインを作って喋っており」
「声の強弱によってきちんとリズムを作って噺を心地よく前に進め」
「ときにブレスしないシーンを作って客の緊張を逃がさず」
「また予想外の高い声で客を緊張させ」
「声を分けて人の違いを出さず、どの人物も声の高低をきちんともっている」

これが聞きやすくて良い落語だそうだが、スピーチや話芸全般の基本ともいえるだろう。
落語の噺家は客を切らないというのもいい指摘だ。客全員を覆う気を持つ。おれは俺の芸をやる、分からないやつにわかってもらわなくてもいいなどとは決して言わない。客との共同作業で、その場の全員が共同幻想を抱き、自他の区別がなくなるのが落語の理想なのだと説く。

「落語は和を持って貴しとなす。ただその和はその場でさえ納得できればいい。人類の発展に何も寄与しなくてもいい。人類の発展を阻害してもいい。いま、そこにいる人たちだけの和を貴いものとする。そしてその考えかたはおそらく日本の芯とつながっている。」
この著者の文体は、ひとりでボケとつっこみを繰り返しながら読者と一緒に熱くなっていき、行き過ぎの手前でスッと落とすのが特徴。文章自体が落語のような話芸として見事でもある。

評論家の発言の原動力を演者への嫉妬だと看破する、とか、メモを取ると「今までの自分が変われる可能性のある言葉をとりこぼす、とか落語論と関係のないところでの深い洞察にも感心しながら読んだ。1ヶ月半で書き上げたとは思えない読みどころ多数。話芸、場の演出、コミュニケーションなどヒントが次々にみつかる名著だ。

・東京ディズニーリゾート便利帖
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/ix.html

・原稿用紙自動作成 Genkou-PRI
http://www.hmpage.jp/genpri.htm
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これは素晴らしい。

原稿用紙を印刷するソフト。市販の原稿用紙とほぼ同等のものが自家製で作れて感激。

B5、A4、B4の大きさで原稿用紙を作成できる。

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定型用紙モードで印刷するだけでも、登録されているB4/A4, 400字(20×20)、B4/A4, 240字(15×16)、B4/A4, 182字(13×14)、B4/A4,100字(10×10)の4種類で十分に満足なのだが、カスタマイズモードでは、

・用紙の種類(B5, A4, B4)、印刷の位置、マスの大きさ(1辺の長さ)が選択できる。・点線と実線の罫線が選択できる
・実線罫線の太さは10段階に変更可能
・カラー印刷は7色から選べる
・B4版は、中央部に学校名を入れることができる

などいろいろと設定が可能である。

教室や家庭でちょっと原稿用紙が必要になったとき、すぐにそろえられるので大活躍である。

こんなイベントを企画しました。司会兼発表者として登壇します。

カメラ・写真に関心のある方、ご参加をお待ちしております。

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「写真」と「写真ではない何か」を分ける境界線はどこにあるのか。あるいは、 そもそもそのような境界線は存在するのか。言葉で捉えることの出来ないその境界線は、 面倒なことに撮ることなしに見えてこない。そして、その境界線にあるのは 「誰にでも撮れる、しかし、あなたにしか撮れない写真」かもしれない。

そんな想いを抱いた先端研究集団オーバルリンクの写真+カメラを愛好する有志が集い 今回多彩な領域からのゲストの方々も加わっていただき、以下の通り「写真の境界線」を巡る 10min. Presentationを展開する。

Abstraction__抽出された風景
mastuokayusuke[デザイナー]
http://matsuokayusuke.tumblr.com

早く決めてよ!__Shoot it as soon as possible!
久野木吉蔵[クリエイター]
http://textinformation.seesaa.net/

ハイテクとローテクのはざまで__オモシロ・フォトテクノロジー
橋本大也[データセクション株式会社 取締役会長兼CIO]
http://www.datasection.co.jp/

習作__今の写真家、昔の写真家(仮)
ゾルキ4k[協同組合インフォメーションテクノロジー関西 代表理事]
http://www.itak.jp/

eyefiが開く新しい写真体験(仮)
川井 拓也[株式会社ヒマナイヌ 代表取締役]
http://www.himanainu.jp/
セルフポートレート写真論(仮)
中村豊美[女流写真家 兼 コピーライター]
http://www.loversdesign.com/...

心霊写真の撮り方、見わけ方
遊法 仁[映像演出家]+池田武央[霊能者]
http://www.cinevc.co.jp/

液晶でよくね?__写真文学という表現
コバニカ(小林弘人)[ワイアード、サイゾー、ギズモード創刊人/メディア・クリエーター]
http://kobahencom.weblogs.jp/...

放浪の記憶と音楽__皆既日食を求めて(仮)
マツイケイタ[音楽家]
http://dj-monsieur.com/

(以上出演予定順不同)





■場所:インターナショナル・デザイン・リエゾンセンター

     Tokyo Midtown Design Hub

     東京都港区赤坂9-7-1 ミッドタウン・タワー5F

     http://www.designhub.jp/...



■ 日時=2009年8月24日(月) 18:00-21:00



■ 主催=オーバルリンク写真部有志



■ 参加費=1000円


*早期の満席が予想されます。予約は下記フォームよりお早めにお願いいたします。

申し込みはこちら
http://blog.ovallink.jp/2009/08/photoevent.html

・終わらない夜
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「想像してごらん。誰もいない廊下の奥から不思議な電車がやってきて、あなたを冒険の旅へつれだしてしまう、そんな夜を...。カナダの画家ロブ・ゴンサルヴェスがえがく、眠りとめざめのあいだの時間。想像力にみちたイラストレーションが、見るものを奇妙な世界へさそいこむ。 」

・真昼の夢
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「想像してごらん。本をひらくと音もなくみたこともない風景があなたをまねく、そんな日を...。カナダの画家ロブ・ゴンサルヴェスがえがく、眠りとめざめのあいだの時間。想像力にみちたトラストレーションが、見るものを奇妙な世界へさそいこむ。 」

傑作のだまし絵の絵本を2冊。カナダの画家ロブ・ゴンサルヴェスの絵に、作家セーラ・L・トムソンが詩を添えたシリーズ、昼の部と夜の部。ともにだまし絵を解体する楽しみと、幻想美を味わう楽しみ、両方がたっぷり味わえる。

人間の意識が把握できる範囲というのはすごく狭いんだなと気がついた。部分単位では整合していても、全体では矛盾している不思議。近視眼的に物を見せるのがだましの常套手段だ。

そして色彩や質感が連続させて、構造的に無理のある部分も、自然につながっているように見せるテクニック。小さな物を大きく、大きな物を小さく見せる遠近法の逆用など、この絵はなぜこう見えてしまうんだろう?と推理する時間がとにかく楽しい。

大人にとっても鑑賞価値のあるだまし絵絵本として私はこの2冊がナンバー1だと思う。

・MP3Gain
http://mp3gain.sourceforge.net/

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私のiPodの中身はロック、ポップス、クラシック、朗読、Jazz、ポッドキャスト、効果音など幅広いため、ハードロックの前後に静かなクラシック演奏がかかると、音量がまちまちで困ってしまう。その解決策がこのフリーソフト。

MP3Gainは音量を均一化するユーティリティである。まず均一化したいファイルを登録して、分析を行ったあと、適性音量を計算してファイルに付与する。なお、このソフトは、MP3ファイル内の音量に関するメタデータを書き換えるのみで、再エンコードは行わないそうなので、音質の劣化は起きないようである。

すべての楽曲の音量を均一化するConstant Gainモードとアルバム内での最大・最小の音量差を考慮して平均化するAlbumGainモードがある。

・撮る自由―肖像権の霧を晴らす
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日本写真家協会常務理事、文化庁著作権審議会委員などを歴任した重鎮の写真家が、撮る側の権利という視点で、肖像権の扱いについて問題提起をしている本。たとえば、工場内を敷地の外から望遠で撮影していいのか?OK。店のショーウィンドウのディスプレイを勝手に撮影して良いのか?構わない、どちらも管理権の外だから問題ない、というような話。

「世の中には、「個人の尊厳」「私生活の自由」など、尊重されなければならない「人権」がありますが、そういうものと並んで「撮る自由」も、とても大切だと僕は思うのです。 先ず始めに、端的に言ってしまえば「見ていいものは撮ってもいい」のではないか、と僕は考えるのです。」

著者は個人情報保護法施行以来の過剰反応、行き過ぎた自粛に疑問を感じている。法的には肖像権をめぐる判断は曖昧な部分が多い。弁護士や法学者でさえ撮影と公表の区別ができていないのだと指摘する。

また、公の場所で被写体に気づかれないように撮影する行為は、タブーとされることが多いが、違法行為とはいえないというのも、カメラマンならではの興味深い指摘である。もしこれが本当に違法なら、スナップ写真作品の多くがクロになってしまうだろう。

「見る自由は撮る自由」といっても「チラッと見るくらいが許される場合は、やはり「チラッと撮る」程度のことができると考えればいいでしょう。 「盗み撮り」「隠し撮り」という言葉が昔からありますが、これらは「気づかれないうちに撮る」というスナップ写真の常道であって、最近よく使われている「盗撮」ということばに含まれるような犯罪行為とは全く違うものです。」

肖像権を一般人が勘違いしている現実もある。

「自分の顔というものは、まさに自分だけのものですが、自分が創りだした著作物のように「顔の複製権」があるというわけではないのです。ですから自分の顔が写されたとか、写っているというだけで「肖像権」が侵されたと思うのは間違いです。」

著者は、ビーチでのカメラ撮影をあたかも違法行為のように報道したテレビ局に質問状を出して、回答のやりとりをこの本に公開している。携帯カメラで1億総撮影者になった今、改めて広く議論してみる価値がある問題だと思う。

技術進化の次のフェイズで、目で見た映像をそのまま記録してしまうようなテクノロジーが普及したら、「見ていいものは撮ってもいい」は必然になるだろう。私はこの著者の意見に賛成だ。現在は過渡期な気がする。

・スナップ写真のルールとマナー
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/08/post-627.html

・WheelPlus
http://www.vector.co.jp/soft/win95/util/se252624.html

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ホイールマウスの操作を非アクティブのウィンドウにも対応させる、だけのソフト。それだけなのだが常用したい便利さがあるのだ。

それってどういうことかというと、Windowsでは通常、上の画面内の青で囲った最前面のアクティブウィンドウのスクロールバーしかマウスホイールでの操作を行うことができない。WheelPlusを入れると、マウスを移動するだけでその直下にある非アクティブウィンドウにおいてもスクロール操作が可能になるのだ。最初からそういう仕様でもよかったんじゃないかという気がしてくる。何気ない自然な便利さ。

使い方は、起動するとタスクトレイにアイコンが表示されるので、右クリックして有効にするだけ。気に入ったら、スタートアップに登録しておけば楽である。ウィンドウをたくさん参照して作業をする人は効率が2%、快適さが8%くらいアップするような気がするな。

・読書の歴史―あるいは読者の歴史
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古代の甲骨文字や碑文から、現代のデジタルテキストまで、古今東西の読書と読者の歴史を博覧強記の著者が、次のようなユニークな20のキーワードで語っている。いつか書かれる「決定版 読者の歴史」のため敢えて未完の体裁をとっているが、極めて網羅的で完成度の高い歴史書である。名著。

20の章立て:
「陰影を読む」「黙読する人々」「記憶の書」「文字を読む術」「失われた第一ページ」「絵を読む」「読み聞かせ」「書物の形態」「一人で本を読むこと」「読書の隠喩」「起源」「宇宙を創る人々」「未来を読む」「象徴的な読者」「壁に囲まれた読書」「書物泥棒」「朗読者としての作者」「読者としての翻訳者」「禁じられた読書」「書物馬鹿」

現代人が普通だと考えている読書スタイルは、長い文字文化の歴史の中で比較的最近になって確立されたものだということがわかる。

西欧では10世紀くらいまで、読書は原則音読であったそうだ。アウグスティヌスもキケロも読書とは声に出す行為であると考えていて、当時の文化人に黙読は珍しかったらしい。死んだ書き言葉に対して生きた朗誦の言葉があり、キリスト教でもイスラム教でも、教典や神の言葉を声に出して読む行為は重んじられてきた。

「中世もかなり時代を下るまで、文筆家は、自分が文章を書いている時にそれを声に出しているのと同じく、読者も、たんに読者も、テクストを見るのではなく、それを聞くものだと考えていた。もっとも、文字を読める人が少なかったため、文字を読める人物が他の人々に読み聞かせるという方法が一般的であった。」

音読するということは聞き手がいることが前提されているということでもある。聞き手は気になる部分を質問したであろうし、読み手はそれに答える必要も生じたかもしれない。一人で内面的に知識を吸収していく現代人の読み方とは、大きく異なる読書形態も長い歴史があったのだ。

この長大な歴史から、書物の分類と内容の解釈が、テクストの意味や価値に無限の広がりをもたせるということに改めて気づかされた。古代シュメールの図書館で目録作成者は「宇宙を創る人々」と呼ばれていた。書物の分類とは、ある世界観に基づいて万物と事柄を体系化する行為だった。そして、分類された本は、分類の軸上で特定の価値や傾向を持つものと評価される。

「分類基準とは、そこに属さない部分を排除するものだが、読書はそうではない。否、そうであってはならないのだ。どんな種類の分類がなされたところで、そうした分類は読書の自由を抑圧することになる。だから、好奇心旺盛で、注意深くある読者ならば、決定づけられてしまった範疇から書物を救い出さなければならないのである。」

「ガリヴァー旅行記」をフィクションとするか社会学とするか、児童文学とするかファンタジーとするか、それによって本の意味が大きく変わってくる。どういう本として紹介するか、だから前提を考え抜くことは大事だ。書評を書く人間も常に意識していなければならない大きな問題である。

そしてこの本から学んだ最大のポイントは読書は創造行為であるということ。

「読書において、「最後の決定的な言葉」というべきものがないのなら、いかなる権威も「正しい」とされる読みを我々に押しつけることはできない。」

ユダヤのタルムード研究者たちは原典に対して注釈を加えたが、常に古い注釈を批判的に読み、原典に立ち戻った再解釈を加えていった。結果としてひとつのテクストから無限ともいえるような創造が行われていく。

「あのはるか昔の聖金曜日にコンスタンティヌス帝が見いだした永遠の真理とは、テクストの意味は読者の能力と願望によって拡充されるといういうものである。テクストを目にした読者は、そこに記された言葉を、歴史的にみれば、そのテクストとも作者とも関係のない、読者自身の問いかけに対するメッセージへと変換する。この変換こそ、もとのテクストの内容を豊かにもしまた台無しにもするわけだが、いずれにしてもそのことは、読者が置かれた状況というものをテクストに吹き込むことにほかならない。ときには読者の無知により、またときにはその信仰によって、あるいは読者の知性や策略、悪知恵、啓蒙精神などにより、テクストは、同じ言葉でありながら別の文脈に置き換えられ、再創造される。まさにその過程で、テクストはいわば生命を与えられるのである。」

読書・読者の歴史は単なる記録媒体と受け手の歴史ではなかった。私たちが慣れている情報のインプットとアウトプットという分け方は本当は単純すぎるのだ。読むということは本質的に創造行為であり、ひとつのテクストは無限の意味と解釈を生む、パターンが生み出すパターンなのだ。


・読書論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/post-932.html

・読書について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/01/post-913.html

・読書という体験
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-569.html

・間道―見世物とテキヤの領域
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テキヤ稼業(的屋、香具師ともいう)のドキュメンタリ。間道(カンドウ)とはわき道、抜け道、隠れ道、裏街道のこと。日本の伝統文化の隠れた側面を描き出す物凄く面白い内容。

1979年に東京芸術大学彫刻家を中退した著者は、蝋人形をトラックに乗せて見世物小屋を興行する旅に出た。「高物(見世物小屋)」「高市(大きな祭り)」「三寸(露店)」「ネタ(商品)」「太夫(芸人)」。その世界の言葉の意味さえ知らなかった新参者は古株から怒鳴られながら、少しずつ流儀を覚えていく。

「見世物小屋の旅に私はカメラを持って出ている。旅は思いのほか厳しいこともありカメラを紛失したのは旅に出てすぐのことだ。記録しようとする自分にうしろめたさを感じていたかもしれない。異質へのあこがれはたちまちに打ち砕かれる。生きるために禁忌を犯す人たちに共感を強くしていった。歴史は異才、異能の人たちをそれまでの私に見せてはくれなかったのだ。」

各地の祭りの縁日を仕切っているのは極道者も多い。間道に生きる人たちにとって極道も共生関係の仲間である。テキヤとして一人前になって極道とのつきあいがちゃんとできるようになった自分を誇らしげに感じているなどという記述もある。

祭りを追って各地を転々とする旅は決して楽ではない。だがその厳しさがテキヤの迫力を生む。

「ときには野草の雑炊も食べた。移動する夜汽車の中で飯を炊いたこともある。博多のような大高では、見世物小屋は唾に血が混じるまで啖呵を吐き続ける。そのために喉は潰れ声は掠れる。 潰れるのは声だけではない。移動から移動を続けてきた人には、物事にこだわらず通り過ぎる心得のようなものが身についている。自分はどこにいようが、何者であろうがかまわない。それがまた啖呵に反映するのだ。」

この著者は、文化人に働きかけてパリでの縁日興業を成功させたり、本を書いたりと、さすがに元芸大インテリな面もあるのだが、文章からは衒学的なカラーがまったく感じられないのがいい。好きで入ったテキヤ歴20年以上と言うこともあって、すっかりその道の内側からの視点、価値観で、間道に脈々と受け継がれてきた伝統を語ることができるのだ。
表社会と裏社会の間にある周縁文化に関する貴重な証言であると同時に、その魅力にとりつかれた異能者の読み応えのある自伝でもあり、読み始めたら止まらなかった、5つ星な一冊。

下記イベントに出演します。

無料ですのでご興味のある方、ぜひご参加ください。

書評ブログがきっかけで、国立国会図書館長と対話するイベントに呼ばれるなんて光栄です。書籍、出版や図書館の未来について、考えていることをぶつけてみたいと思います。慶応大学の金さん、ジャーナリストの津田さんとご一緒というのも議論の広がりが楽しみです。(登壇者のプロフィール)

第1回ARGフォーラム
「この先にある本のかたち-我々が描く本の未来のビジョンとスキーム」
http://sites.google.com/site/argforumsite/
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開催日時:
2009年8月17日(月)14:00~16:30(開場:13:30)

開催場所:
学術総合センター 一橋記念講堂 (東京都千代田区神田一ツ橋2-1-2)

主催者:
ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) 

参加費:
無料 ※ただし、会場受付での寄付受付は実施。

開催内容:
基調報告:
長尾真(国立国会図書館)「ディジタル時代の本・読者・図書館-我々の創造性を高めるために」

指定討論:
  金正勲(慶應義塾大学/金正勲研究会)
金正勲さま(慶應義塾大学)
    http://mwr.mediacom.keio.ac.jp/kim/

  津田大介(ジャーナリスト/音楽配信メモ)
    http://xtc.bz/
  橋本大也(ブロガー/情報考学 Passion For The Future)
http://www.ringolab.com/note/daiya/

質疑応答:
  司会:岡本真(ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG))
  
参加登録(推奨):
http://sites.google.com/site/argforumsite/

上記URLよりお申し込みください。定員先着500名。なお、定員に達しない限り、当日受付を実施しますが、座席の確保は保障しません。また、入場をお断りする場合があります。

・マウスのお供
http://www.yoshibaworks.com/ayacy/inasoft/mousenootomo.html
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作業内容によっては、頻繁に使うクリップボードに、今何が入っているのか把握していたいことがある。クリップボードを記録するソフトは多数あるが、このソフトの特徴は、マウスカーソルのそばに情報を表示してくれることだ。

テキストの場合はこんな風にカーソル横に情報が表示される。
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複数ファイルを選択していた場合はパスが表示される。

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コピーしたリッチドキュメントの文字列の修飾を除去してプレーンテキスト化する機能もある。

他にアラームや時報機能など。

・Opera Unite: a Web server in the Web browser
http://unite.opera.com/
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最新ベータ版OperaはWebサーバを内蔵したというので試してみた。ブラウザを起動したら「ツール」から「OperaUniteサーバ」メニューをたどって開始する。上のようなサーバ管理画面が表示される。

OperaUniteのIDを取得してから、ユーザーが公開したいローカルフォルダを指定する。URLはOperaが貸し出してくれる。パソコンの名前がhomeで私のOperaUniteのIDがdaiyaxの場合、公開URLは、

http://home.daiyax.operaunite.com

のようになる。デフォルトではサーバ側で設定したパスワード認証がかかる。設定した瞬間にそのまま公開されてしまうわけではないからひとまず安心である。

このサーバは機能特化した

Webサーバ
ファイル共有
写真共有
音楽共有
チャット
掲示板

などとしてサービス公開をすることができる。こうしたアプリケーションは今後増えていくようだ。

とても簡単にローカルPCでWebサーバが公開できるようになった。ダイヤルアップ接続時代にダイナミックDNSサービスと自作PCに入れたLinuxのWebサーバを組み合わせて、"ダイヤルアップサーバ"を立ち上げていた頃の苦労はなんだったのだという感じ。

だが、無料で大容量高機能なファイル共有や公開サービスが溢れる中で、どの程度、こうした個人サーバ利用の需要があるのかは不明。パスワード認証があるとはいえ、見知らぬ第三者がPCにアクセスしてくることに代わりはない。セキュリティには気を遣う必要がある。サークル活動の内輪での情報共有やコミュニケーションに使うのが適切かなあ。

・ブログパーツデスクトップ
http://www.blogparts.com/
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このブログパーツをデスクトップに欲しいなあ、という希望に応えるソフト。

たとえば甲子園応援のブログパーツを、デスクトップでもチェックしたいとき、このツールに貼りつけ用のコードを登録する。

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確認用の表示があるので、きちんと表示できていたらキャプチャを行う。いくつか試してみたが、うまく表示できないブログパーツもあった。万事OKならばデスクトップウィジェットとして登録する。

現在、ブログパーツやWeb上のウィジェット、デスクトップウィジェット、FaceBookやMixiのアプリなどはすべて規格が異なっていて、どうにも管理にしにくい。統一規格でやってもらえると助かるのだが、当面はこういう変換ツールで、自分の環境に組み込んでいくしかなくて面倒。

・<おまかせ・まる録>スクリーンセーバー
http://www.sony.jp/bd/ss/
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ソニー製のフリーソフト。

指定したキーワードに関連する画像をネット上から収集して映像化するスクリーンセーバー。

私のPC環境では正直、画面の焼き付き防止という意味では、スクリーンセーバーは不要である。何のために設定するのかというと、

1 退席時の盗み見防止

もあるのだが、

2 退席時にそれを見た人たちの話題になる

ということを実は期待している。このスクリーンセーバーの場合は、自分が見ても楽しめるし、検索するごとに内容が変わるため、

3 自分が見ても意外性があって楽しめる

というよさも加わる。

ソニーがつくっただけあって、映像合成部分の完成度は高い。とりあえず「ドラゴンクエスト」と入力してみた。

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ソニーやるじゃんと思うが、これでブルーレイレコーダーを買わせるプロモーションとして機能するのかというと謎。

・レッド
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山本直樹の問題作。まだ連載中で単行本3巻までだが凄く面白い。理想主義者たちが、無慈悲な人殺しに変わる瞬間が見所だろう(3巻ではまだ予兆)。絶対全部読むつもり。

1969年から72年までの日本という設定で、連合赤軍や浅間山荘事件をモチーフにした過激な学生運動家たちの青春群像劇。若さ故に革命を信じ非合法活動に身を投じた彼らが、やがて行き詰まって仲間と殺し合い、壊滅していく様を描く。

一部の登場人物の頭や肩の上には不可解な数字が描き混まれている。1とか15とか。このナンバリングは一体なんなんだろなあと読み進めていくと、2巻の解説で答えが明かされている。これは警察との戦いや仲間のリンチで殺される順序なのである。ああ、こいつもうすぐ死んじゃうんだというのが生々しく判ってしまうわけだ。

そして各話の最後のコマでは登場人物達の未来がカウントダウンされる演出も物語の緊張感を高めている。

「赤城 この時26歳 群馬県山中で逮捕されるまであと253日 死刑確定まであと7926日」

「安達 この時23歳 群馬県山中で「処刑」されるまであと223日」

「宮浦 この時23歳 吾妻の子を妊娠したまま群馬県の山中で死亡するまであと240日」

といった具合。一見、平穏なアジト生活に見えても、全員が逮捕や処刑というカタストロフへ向かっていることを常に意識させられる。これがなくても十分に傑作だと思うが、死人ナンバリングと運命カウントダウンは画期的な演出であると思う。

五輪書

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・五輪書
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剣豪 宮本武蔵が晩年に残した兵法極意の書。

「まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。空を道とし、道を空と見る所也。」

名高い書だが読んだのははじめて。ちょっと戸惑ったのが徹底的に実用の書だったということ。人生哲学や生き方が示されているのだと思っていたのだが大部分はそうじゃないのである。人を斬るにはどうしたらいいかを突き詰めて考え、それ以外(浮世の義理とか女とか)は潔く捨てるという話なのだ。

「武蔵の兵法はどこまでも勝つことを目的としているため、どこまでも合理性、利に強いことを特徴とする。一刀よりも二刀の方が有利であるから二刀流をあみだしたのである。片手で自由に太刀を振ることができるために二刀を用いるのである。それは左手も右手も同様に機能を果たすための訓練でもある。」(解説より)

二刀流の理由が合理性だったとは驚きである。刀の構え方など具体的な殺傷ノウハウと心がけが多いが、もちろん精神的な心構えもある。たとえば無心である。

「兵法において技が決まるのは、無心のときでなければならない。無心というと、一切、心がないのではない。平常心を保つことが無心なのである。」

敵の刃を前にして、平常と変わらない心でいるということが大切なのだ。

そしてこの本には、武蔵が死の1週間前に自身の生き方を21か条をつづった独行道も収録されている。どこまでも求道者。世界史レベルでも、宗教以外でここまでストイックな人生訓って珍しいのではないだろうか。

「独行道」

一、世々の道をそむく事なし。
一、身にたのしみをたくまず。
一、よろずに依枯の心なし。
一、身をあさく思、世をふかく思ふ。
一、一生の間よくしん(欲心)思わず。
一、我事において後悔をせず。
一、善悪に他をねたむ心なし。
一、いづれの道にも、わかれをかなしまず。
一、自他共にうらみかこつ心なし。
一、れんぼ(恋慕)の道思いよるこころなし。
一、物毎にすき(数寄)このむ事なし。
一、私宅においてのぞむ心なし。
一、身ひとつに美食をこのまず。
一、末々代物なる古き道具を所持せず。
一、わが身にいたり物いみする事なし。
一、兵具は各(格)別 よ(余)の道具たしなまず。
一、道においては死をいとわず思ふ。
一、老身に財宝所領もちゆる心なし。
一、仏神は貴し、仏神をたのまず。
一、身を捨ても名利はすてず。
一、常に兵法の道をはなれず。

あまりにも窮屈な人生訓であり、じゃあ、あなたの人生は何が楽しかったんだよ?と突っ込みを入れたくなるが、楽しかったのでしょうね、ひたすらに剣の道が。本当に凡人には真似のできない極意の本である。

・アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
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技術と社会が密接に連動するかたちで変容していくプロセスを「アーキテクチャ」を軸に展望した新人気鋭の社会学者 濱野氏の本。先端的な内容でありながら、キーワードと先行研究を紐づけて整理しており、中身が濃い。

かつて法学者ローレンス・レッシグは現代社会を規定しているのは「法律」「規範」「市場」と「アーキテクチャ」の4つだと言った。著者はこの「アーキテクチャ」を環境管理型権力としてとらえて、その特徴を、

1 任意の行為の可能性を「物理的」に封じてしまうため、ルールや価値観を被規制者の側に内面化させるプロセスを必要としない。

2 その規制(者)の存在を気づかせることなく、被規制者が「無意識」のうちに規制を働きかけることが可能。

と要約している。

とりわけ設計自由度が高いだけに、規制されている側が気がつかず、密かにコントロールされてしまうのが、情報システムのアーキテクチャの凄さであり怖さである。著者は、アーキテクチャの例として、ミクシィの足あとや携帯電話カメラのシャッター音を挙げている。足あとやシャッター音は、ユーザーの行動を無意識のうちに活性化させたり、抑制したりしながら、全体を設計者の求める方向へ収束させる。

日本のネットコミュニティが生み出した独特のアーキテクチャとして、ニコニコ動画のコミュニケーションが詳しく取り上げられている。それまでのリアルタイムコミュニケーションは、盛り上がりの後から来た参加者は楽しむことが出来なかった。ニコニコ動画では擬似的なリアルタイムを演出することで、祭りを持続させることができた。

「つまり「真性同期型アーキテクチャ」が<後の祭り>を不可避的に生み出してしまうシステムだとすれば「疑似同期型アーキテクチャ」は、いうなれば<いつでも祭り中>の状態を作り出すことで、「閑散化問題」を回避するシステムである、ということができるのです。」

コミュニティの内部では普遍的で客観的であるかのように成立している基準が、外側からは解読不可能であるという「限定客観性」の問題を取り上げている部分も興味深い。内輪の線引きのやり方にネットコミュニティの本質があると指摘する。

「情報社会とは、こうした「限定客観性」の有効範囲を、ほかならぬアーキテクチャ(情報環境)によって画定する社会のこと」

"声がどこまで聞こえるか"はシステムによって任意に距離に設定可能なのが情報システムなのである。もちろん、情報の使い手側もさまざまなツールや利用知識でそれらに抗うこともできるのだろうが、マジョリティはシステムの作り出す空間に慣れてしまう。経済もまたアーキテクチャに作られていく。

「もはやあらゆる作品やコンテンツは、書籍などの「コンテナー」にパッケージングされていた「内容」それ自体が消費されるというよりも、人々の「コミュニケーション」(繋がり)を効率的に喚起するかどうか、という点において消費されている」

アーキテクチャを通じた「繋がりの社会性」を、いま起きているネットコミュニティの動向をケースに、内外の社会科学者の仮説・理論とつなげながら読み解こうとする意欲的な内容で大変面白かった。

・TrayVolume
http://shirosai.web.fc2.com/trayvolume/
trayvolume01.jpg

いま使っているノートPCは物理的な音量調整ダイヤルがついていないため、ソフトウェア的に調節するしかないのが不便である。おまけにWindowsOSデフォルトの音量調整ツールは、なぜかタスクトレイから消えてしまったり(メモリの問題かなあ)する。かなり使いにくい。

TrayVolumeを使うと

マウスホイールを使って音量操作
キーボードから音量操作
タスクトレイメニューから音量操作
音量の状態をタスクトレイアイコンに表示
スキン機能

といった機能が使える。


trayvolume02.jpg

トレイ上で現在の音量がわかったり調整操作できるのがありがたい。これで会社でふいに大音量を出してしまうことも防げる。また音量調整系の操作をマウス、キーボードに細かく割り当ることができる。音をよく使う仕事の人は特に重宝するのではないだろうか。

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