Books-Culture: 2004年10月アーカイブ

夜這いの民俗学・性愛編
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■おおらかだった日本の性

見込み通りの大当たり。赤松啓介は面白い。

柿の木問答。

「あんたとこに柿の木あるの」「ハイ、あります」「よう実がなりますか」「ハイ、ようなります」「わたしが上がって、ちぎってもよろしいか」「ハイ、どうぞちぎってください」「そんならちぎらしてもらいます」

これは後家や近所の主婦が、13か15歳くらいの童貞の子供に性の手ほどきをする際の儀式であったらしい。新婚初夜にも使ったそうだ。はじめてする男女が心を通わせるために、こうした儀式的対話を演出道具のひとつとして使っていたという。

夜這いは男が女の家に侵入して交わって帰ること。相手はころころ変わってよい。お前、昨日、うちのかあちゃんと寝ただろう、とか、うちの妹のとこにもきてやってくれよ、と友人や隣人と普通に会話している男たちがいる。女もあっけらかんとしていて、童貞のこどもをみつけては、そろそろ教えてあげようかと企んだりする。村中の男女が近親含めて交わっている。こうした乱交状態が広く日本の農村社会に続いていたと赤松は言う。

「昔の日本の性はもっとおおらかなものだったらしいよ」とよく聞くわけだが、そのおおらかさを具体的に説明できる人はほとんどいない。柳田国男が始祖となった日本の民俗学には妖怪や神々の性の話はあっても、一般民衆の性生活の話はほとんど出てこない。柳田は民俗学を正当な学問とするために、風俗史において大きなウェイトを占めて然るべき性風俗を闇に葬ってきた。赤松啓介は柳田をペテン師と呼んで厳しく批判している。

性風俗の実態を村の人々に教えてもらうには、学者風の調査では不可能である。村の生活に溶け込んで一緒に酒を飲んで腹を割って話せるようにならなければ、村人は本当の話をしてくれない。素朴な性格の赤松啓介にはそれができた。

解説の上野千鶴子は、赤松の話のリアルさを認めながらも、記述の信憑性に疑問も持っているようだ。確かにこの本は、広範なフィールドワークというより、赤松個人の体験集であるという面も強い。

■相対化

例えば娘かつぎの話。


(清水寺の参詣に)娘たちは必ず数人で組んで登ってくるが、二、三人の若い衆が現れていっしょに上がろうと誘うと、これも殆ど同じようにイヤッとか、なんとかいって逃げ惑う。二、三人は坂の上へ上がるし、二、三人は坂下へ逃げ、逃げ送れた一人がとっつかまって上半身を二人、下半身を一人がかかえてテラスへ運ぶ。「カンニンや」とか「やめて」とかあばれるが、マタへ手を入れられ、お乳をにぎられるとおとなしくなる。輪姦が終わると山の山門まで仲よく送ってやり、逃げた友達を探してやったりした。

これ、今であれば立派に強姦罪が適用される輪姦事件だろう。だが、当時は女の子がべそをかいて終わり程度の日常の一コマだったらしい。帰りには男女仲良く帰った雰囲気がうかがえる。無論、根底には貞操は奪われるがそれ以上ひどいことはされないという了解もあったのだろう。もちろん、こうした農村社会も、完全な無秩序、フリーセックスだったわけではなく、むしろ、村単位の掟の上で成立する自由であったようだ。

私たちの世代の受けた性教育も今振り返るとずいぶんおかしいものだったと思う。「性を大切に」などと教える。その意味は一定の年齢になるまで性交は待ちなさい。その年齢になってからも、この人はと思える人が現れるまで慎みなさいとする。貞操は守るものであって、楽しむためにはないのである。

だが、本当に性を大切に考えるのであれば、存分に使って楽しむ方法こそ教えるべきなのかもしれない。村の後家や主婦たちによる童貞のてほどきレッスンは、現代の風俗嬢も真っ青の充実振りであったようだ。技術も心得も濃密に伝える。少年たちは、異性をどう喜ばすかを早い時期に知る。そして、ひたすら試す。ステディな交際や結婚とは無縁の、無数の性関係を取り結ぶ。100人斬、1000人斬(女性なら抜き)の達成者があると村で祝ったりもする。無論、代償として誰の種か分からぬ子供が生まれたりする。だが、寄り合いでオヤジが息子を膝に乗せて「こいつは俺に似てねえようなあ」と笑いのネタにする程度の問題だったというから、また驚く。

今と昔を比較して、どちらが良い、悪いというのではなく、今ある男女関係や価値観も一時的なものに過ぎないものとして、相対化できるのが、こうした民俗学の価値だなあと思う。

赤松はおおらかさの減少を資本主義の搾取と結びつけて論じている。きつい労働と少ない娯楽の農村社会では、性は癒しであり娯楽でありコミュニケーションであったが、権力者があらゆる性交渉に税金をかけるために公娼制度を作ったり、西洋近代化を進めるために一夫一婦制度を確立した結果、現在の性道徳ができあがったのだという。

男と女の私秘関係にも権力関係は影響している。さらに哲学していくと、ミシェルフーコーの性と権力の研究あたりにつながりそうだが、赤松啓介の本はそこまで考えずにただ楽しみながら読んだほうが正解かもしれない。とにかく生々しさが面白いので。

花園メリーゴーランド [少年向け:コミックセット]
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赤松啓介的世界観の漫画。昔ながらの風俗が残った隠れ里に迷い込んだ少年の冒険。なかなか面白い。

[図解]日本全国ふしぎ探訪
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日本地図のトリビア本。

例えば、目次を引用すると「富士山より高い山が東京都に?」「一年に一度現れる幻の島とは?」「山に向かって逆流する川がある!!」「日本で一番大きな公園は11の県をまたぐ?」「世界一の金鉱は鹿児島にある?」「日本一低い山は海抜0メートル」「伊豆半島はフィリピンからやってきた!」「信濃川は、実は信濃を流れていない」「地図から消された瀬戸内海の島の謎」など。

日本は狭い割に地形が複雑、歴史が古い、人口密度が高いなどの理由から、こうしたトリビアが無数にある。海外旅行者は年間1600万人に対して国内旅行者は20倍の3億2000万人もいるそうである。毎年、行く先々でこうした疑問とトリビアは増えているのだろう。

・政治的な日本のレイアウト

首都圏を取り囲む国道16号線上に自衛隊と米軍基地が配置されているのは戦車を通すためであるとか、秘密基地の存在を隠すため地図上から日本軍が抹殺していた島の存在など、この国には結構な数の、作られた秘密がある。

・宗教的に立ち入り禁止の場所

一番行ってみたいのは沖ノ島。宗像3女神の神社があり、女神の嫉妬を避けるため、今も女人禁制が続いているという。宗像神社の許可を得た上で禊を済まさないと上陸できないらしい。海の正倉院と呼ばれ2万点以上の秘宝も発掘されている。

・未知の島嶼部

観光産業でもっと光を当てても良さそうなのが日本の島嶼部だと感じた。瀬戸内海だけでも3000以上あるそうだが、大半の日本人はなかなか島には行かない。船に乗って島へ渡るというプロセスはそれだけでなんだかワクワクする。自然を壊してしまってはいけないが、観光娯楽のひとつとしてやり方次第では面白くなりそう。


と、考えていたら、トレンドに詳しいライターのrickdomの田口氏から、私もこれから島が面白くなるのでは?と目をつけていたという話をした。こんな本を教えてもらった。

日本の島ガイド シマダス
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北は北海道礼文島から南は沖縄県与那国島まで、日本の全有人島と主な無人島あわせて1,000島以上のさまざまな最新情報を満載。 「島の人口・面積」「島への交通」「プロフィール」といった基本データ、「みどころ」「特産物」「やど」などの観光情報はもちろん、「生活」「学校」「お医者さん」「ひと」など島の暮らしの情報、「島おこし」「Iターン」など従来のガイドブックにはない情報を島ごとに紹介。市町村合併の経緯もデータ化。

と島マニアには有名な本であるらしい。

切腹

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切腹
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これは抜群に面白い。面白がってはいけないのだろうけれども...。

■ややこしい切腹の論理

世界的に有名な日本の自殺方法である「切腹」。古くは鎌倉時代から江戸時代までに切腹で果てた400人以上の事例を分析していく。切腹の背景にはもちろん濃い物語が隠されている。

時代によって切腹に対する感じ方が違う。戦国時代は君主に切腹を命じられたからといって素直に死ぬ必要はなかった。不服ならば国を抜けて別の君主に仕えればよかったし、下克上の論理で君主と武力で戦う人までいた。時代が下るとともに社会は固定化され、脱藩者は他の藩でも採用されなくなる。切腹は強制的で、刑罰的な色合いを強めていく。

伝え聞く通り、切腹は名誉でもあった。斬罪のところを情状酌量して切腹という判例が多い。切腹は特典であり、切腹を許されると嬉しいと思うのがタテマエ。単なる犯罪者では切腹は許可されない。

江戸時代の、今の世なら大蔵大臣に当たる官僚が、藩札発行でインフレを招いてしまったことを原因として切腹を命じられた例が紹介されている。藩主も了解していた政策であっても、結果だけが重視される。書類上の価格表記のミスだとか、事件の取調べミスで、切腹せざるをえなかった無念の官僚もいる。江戸時代後半の複雑な官僚世界では、真面目に働いた結果が審議過程で、切腹モノと判断されることもあるようで、直前まで「自分は処罰されるのか、ご褒美をいただけるのか分からないが」と上申する武士もいた。

武士の喧嘩は両成敗という公式ルールも存在していて、喧嘩を売ったほうも買ったほうも、刀を抜いてしまったらどちらも切腹が基本なのだが、複雑なのは売られて逃げると臆病で武士の面目をつぶしたことになり、やはり、切腹になるのだ。

「悪口を言われて辱められたから」という理由で切腹する奇妙な論理もある。悪口を言われること自体が不徳であるという道徳観、切腹することで自身の潔白を世に証明しようという考えが根底にある。それで周囲も感じ入って納得したらしい。

内容はどうあれ藩主の機嫌を損ねたということも立派な切腹の理由にもなったらしい。結局、切腹は藩主が命じるものなので、藩主がお前は死になさいといえば、それ以上の道理は通らない不条理な世界であったようだ。

だが、そんな厳しい掟の中にも人情のある人ももちろんいた。食事にネズミの糞が混ざっていても、そっと隠した優しい殿様の話には感動する。これを指摘してしまうと、責任追及のプロセスが公式に発動して、結果として後日、食事に関わる誰かが腹を切らねばならないからである。殿様としてはそんな些細な事で部下に死んで欲しくないので、同席者にもばれないように隠蔽してあげるのだ。この殿様は偉い。

■生々しい切腹の現場

興味深いのは切腹の現場が垣間見えること。江戸時代、お上の公式な判決は遠島であっても、実質的には、切腹するようにと担当役人から告げられて腹を切る例が多数。記録上はこれらは蟄居中の病死などとされている。

こうすることで親戚縁者はお咎めなし、お家も存続となる。これはある種の水面下の司法取引であるようだ。実際には、親戚縁者が集まって、納得しない本人に切腹を強要したり、無理やり殺した上で切腹に見せかける工作をしたような話も紹介されている。お上も内情は分かっているので死体はよく調べない。切腹は名誉の死とはいえ、死ぬのはいつの世も怖かったのだ。現場にはきれいごとで済まない現実があったことが推察される。

また、十文字に腹を切るのが美しいなど独特の美学作法があるわけだが、実際には、そこまで精神力を保てる当事者は少なかったようだ。刀を腹に当てた瞬間に介錯人が首を刎ねたり、刀さえ用いず、三方の上においた扇子を腹に当てた振りをさせて介錯する扇子腹という切腹方法も紹介されている。当事者が動揺していたら、介錯人は、酒を飲ませたり、紙を渡して遺言を勧めたり、あの手この手で気持ちを落ち着けさせるノウハウまであったという。

■責任を取る文化

この本を読み終わって、切腹は連帯責任の波及を個人が止める唯一の方法であったのだなと理解した。江戸時代後半の武士社会では、部下の失敗の責任を、上司や親戚縁者も負わされる。重大な過失があれば、さらに上司や藩主にまで処罰が及んでしまう。追求しているうちに周辺の小さな瑕疵まで取り上げられて、問題はどんどん大きくなる。最悪は中央に伝わって藩のおとりつぶしにまで及ぶ可能性がある。が、現場で切腹があると追求は弱まる。

現代の常識では切腹など論外の奇行なのであるが、当時は異なる常識の世界だった。よく評価すれば、立場のある人間が責任を取る文化が確立されていたということだろう。現代では、残されるもののためや一族の名誉のため、死を持って責任を引き受けようとする政治家や経営者は殆どいないだろう。そこまで真剣に仕事をする人たちのいるサムライ社会は、今とは違う価値もあったに違いない。

この本は切腹を精神論ではなくて、400人の実例から調べていく、というアプローチをとる。巻末には切腹した当事者の実名リストまである。そうすることで、ミステリアスなイメージでとらえどころがなかった、切腹の実態が見えてくる。知らないことがいっぱい書いてあった。日本文化の研究におすすめの一冊。

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