Books-Culture: 2006年11月アーカイブ

劇画古事記-神々の物語

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・劇画古事記-神々の物語
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古事記の劇画化。

スサノオ、オオクニヌシ、アマテラスなど日本神話の物語が漫画で読める。

原典に忠実に描こうとしているので、原典を知らないとストーリーとしてはわかりにくいかもしれないが、愛好者にとっては満足度が高そう。古事記の前半は、八百万といわれるほど多数の神々が誕生する。名前しか記録にない神が多いので、特徴を持った絵にするのは苦労が多いはずだが、かなり丁寧に一柱一柱の姿を描いている。

今年読んでいる現代語訳は河出書房版。昨年読んでいた三浦 佑之の口語訳版よりも、アレンジ要素が少なく、かなり平易に原典に忠実に訳されている。

・現代語訳 古事記
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・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

何度かここで書いているが、古事記の漫画として最高峰は安彦良和の「ナムジ」「神武」だと思う。「劇画古事記-神々の物語」は叙事詩風だが、「ナムジ」、「神武」はそれを原作に情熱的な人間ドラマに翻案しているのが見事だ。7年前にこの作品を何度も読んで以来、記紀ファンになってしまった。

私の場合は最初に神武、続けてナムジを読んだ。物語の順序としては逆なのだが、先代の活躍を後から読むというのもなんだか味わい深いものがあったので、結構おすすめな読み方である。

・ナムジ―大国主 (1)
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おすすめ。

・神武―古事記巻之二 (1)
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おすすめ。

・私の好きな漫画家たち
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000741.html

・ホワイトハウスの職人たち
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普段あまり語られることのないホワイトハウスの裏方スタッフの職人にスポットライトをあてた本。登場するのはホワイトハウスお抱えの菓子職人、学芸員、理髪師、料理人、仕立て屋、フローリストの6人。彼らへの取材を通して大統領一家やVIPの華やかな私生活も垣間見える。

「ホワイトハウスの菓子職人にならないか、と誘われたのです。世界最高の権力を持つリーダーのためにペーストリーを作ることに魅力を感じた私はすぐさまイエスと答えました。」

どうやってホワイトハウスに職を得たのか、日常気をつけていること、大統領一家とのエピソードなど話題はことかかない。歴代大統領が愛1した料理やデザート、家具調度品、スーツ、フラワーアレンジメントなど、固有名詞も紹介されているのでモノ好きにも参考になる内容である。


ホワイトハウスの総料理長と主席菓子職人の年俸は、平均約8万ドル。在職中は曜日に関係なく拘束され、個人の生活を犠牲にすることが強いられる。しかも12月や1月ともなれば、毎朝5時から深夜12時まで働きづめだ

他の職種でもホワイトハウスの年俸や待遇はエリート職人にとって必ずしも高いものではない。だから採用は情熱と信頼を基準に行われている。10%は忙しさとストレスで1年以内に脱落してしまうそうだ。身元調査を必要としないため、世襲の職人も多いという。

こうしたホワイトハウスの縁の下の力持ちに対する歴代大統領の気配りのこまやかさはさすがと思った。絶妙のタイミングで気の利いた感謝のメッセージを伝えることで、職人達のモチベーションを高めている。

そしてホワイトハウスはある種のブランド名であることがわかった。目指す場所であり、プライドを持って働く場所なのである。それに比べると日本の首相官邸はブランド力って弱い気がする。何が違うのだろう。やはりトップの威光だろうか。

・ホワイトハウスの超仕事術―デキるアシスタントになる!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004698.html

・「伝える言葉」プラス
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朝日新聞の連載エッセイをベースにしたエッセイ集。

大江健三郎の読書スタイルには憧れる。一人の作家や主題を決めて3年間深く深く読み続ける。師である渡辺一夫のアドバイスに始まったこの習慣は15回目の3年目に入ったそうだ。T・Sエリオット、イエーツ、ウィリアム・ブレイク、ダンテの神曲など、その深い読書は大江の各時代の作品に色濃く反映されてきた。

私も学生時代に、この大江の習慣を知って、ウィリアム・ブレイクや神曲の読み込みに挑戦してみたことがあったが、3ヶ月も持たなかった。好奇心だけでは、そこまで一人の作家や主題に興味を持続させられないのである。

大江の読書は、論文を書くために特定の作家を読む文学部の学生とも動機も集中度も違うようである。障害を持って生まれた息子との共生への答え、救いの光を文学にみつけたい、だとか、作家としての行き詰まりを突破したい、そのための切実な祈りのような習慣のようである。


初めのうちは、毎週のように神田や丸善ほかへ出かけてその主題の本を集めます。その期間は仕事をしませんし、まだ自分が本当に読みたい方向もわかっていませんから手当たりしだいに本を買いますので、そうしたことが永年の間に幾度も繰り返されて、家内は家計のやりくりに大変だったろうと思います。
 それらを読み続けて、二年もたつと、素人ながら本のかたまりに埋もれている暮らしで、何を本当に読みたいのかが、はっきりしてきます。そこへ向けて本を読むことに集中して、ほかのことは上の空、というふうになります。

2年間読むだけの生活で、やっと読みたいものが定まるのである。ユダヤ神秘主義の研究書1000ページの英訳を1年間、朝から晩まで読んでいたという記述もあった。10年前の断筆宣言も、本当に小説をやめるつもりではなくて、主題探しの読書の4年間を確保したかったからそう言ってみただけだった、などという告白もある。そうやって「生き続けていくのに必要な気のする本のかたまり」とのつきあい続けて70歳になっているのだ、この作家は。

書き手としても推敲を徹底的に重ねる「エラボレーション」型作家としての大江文学を読んでいると、理性的に構築する作風と同時に、その底に流れるルサンチマンの熱さ、厚みに圧倒されることが多い。冷めた文体なのに沸々と煮えたぎっているのは、3年、4年も続ける集中的な読書生活があるわけだ。このエッセイ集では、小説を書いていないときの大作家の日常と思考が垣間見えて面白かった。

(そうした深い読書の話と比べると、何本か収録されている憲法9条や教育基本法についてのエッセイは、私にはぴんとこなかった。)

性の用語集

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・性の用語集
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・ZAKZAK 女子大生“体験率”グンと伸び…横ばい男子とほぼ並ぶ
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_11/t2006111320.html

ZAKZAKにこんな記事があったので、引用される数字を表にしてみた。

   │ 男性    │ 女性   
───┼───────┼──────
大学生│ 性交 63% │ 性交 62%
   │ キス 74% │ キス 74%
───┼───────┼──────
高校生│ 性交 30% │ 性交 20%
   │ キス 48% │ キス 52%
───┼───────┼──────
中学生│ 性交 3,4% │ 性交 3,4%
   │ キス 16% │ キス 19%

中学生、高校生はこんなものだろうなと思ったが、大学生の数字が意外に低い気がした。メディア上ではセックスが氾濫しているが、現実は結構、落ち着いているものなのかもしれない。20歳になっても処女、とか童貞とかいう言説が先行している可能性があるようだ。(本当はよくわからないけど)。

この「性の用語集」は性についての研究者が集まって、童貞とか処女とかを解説している。言葉の知名度に応じて「誰でも知ってるあの言葉」「意外に知らないあの言葉」「誰か知ってる?この言葉」の3段階に分類されている。性に関係する言葉は有名な辞書には載りにくいようで、それだけを扱った本書は価値がありそう。

取り上げられる言葉の例:

性/エロ・エロス/エッチとエスエム/変態‐H/童貞/処女/ヘア/フーゾク・風俗/ママ/ホステス/おかま/女装/巨乳/――専/コンドーム/セックスレス/カーセックス/のぞき/立小便/アベックはカップルか?/ニューハーフ/Mr.レディ・Miss.ダンディ/援助交際/社交/ノンケ/フリーセックス/不能/ブルーフィルム...

性、変態、風俗、不能、女装は、もともとは性的な意味合いがまったくなかった。エッチがエッチになったのも比較的最近である。エッチは変態の頭文字だが、さかのぼると変態には性的倒錯の意味はなかった。「He」の意味で彼氏を表していた時代もあった。

エスとエムは面白い変遷がある。エスは少し前までは、Sisterの意味で、女子学生同士の恋愛相手をさす言葉だった。アルファベットは漢字と違って、生々しさがないので、性的な意味を託されやすい傾向があるようだ。

第3部の「誰か知ってる?この言葉」の言葉はかなり手ごわい。いまは使われなくなった性の用語が歴史背景とともにまとめられている。「M検」ってなんだかわかるだろうか。そのM検にまつわる乃木伝説って?。

ほんの数十年前まで誰でもなんとなく知っていたことが、常識ではなくなってしまう例がたくさんなる。性の用語は普通の言葉と比べて、かなりうつろいやすいものなのかもしれない。

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html

・武士道とエロス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004599.html

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html

日本語と日本人の心

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・日本語と日本人の心
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1995年に開催された大江 健三郎,河合 隼雄,谷川 俊太郎という豪華な3人のパネルディスカッションの記録をベースに構成した日本語・日本文化論。

西欧的な論理性の文体の小説家である大江と、翻訳不能な母語の土着性を重視する詩人の谷川は、日本語に対して意見の隔たりが大きい。互いの仕事へのレスペクトを終始忘れない穏やかな言葉遣いでありつつも、本質をめぐる議論では対立が明らかに目立ってきて、スリリングな展開がある。

大江氏曰く


ですから、文学の創造性ということを、神が創造性となぞらえて考えることは、私はまちがいじゃないだろうかとおもう。言葉という共通のものを用いながら、しかも個人の輝き、この人だけのものという輝きがあるものをつくりだすのが文学で、それは無意識とかいうことよりは、共通の言葉をどのように磨いていくかということに問題がある。共通の言葉にどのように耳をすますかということに、カギがあると思っています。

大江健三郎の文体が翻訳調である理由は、やはり、世界に向けて普遍的な言葉で書くという強い意志の表れであるようだ。その意志こそ、日本語ではなく普遍言語の使い手として、ノーベル文学賞を受賞した理由でもあるのだろう。

これに対して、谷川 俊太郎は無意識や深層意識にあるものを意識化して言葉に反映する詩の感受性、創造性こそ重要だと考えている。日本人として生きてきたなら、生活の言葉に対する思い入れがある。ひとつの言葉をひらがなで書くか漢字で書くかに大きな違いがある。外国語には翻訳できない要素がある。普遍言語の観念語(例えば大江氏のよく使う、民主主義とか自由とか)は、日本語にはイマイチなじまないというようなことも述べている。

アタマで徹底的に考えて意識的に書く小説家と、舞い降りてくるインスピレーションで創造する詩人の違いが対照的だ。この二人の間に司会進行役として、ユング研究の権威の心理学者(後の文化庁長官)の河合氏が、日本人の心と言葉の関係性について発言する。

河合氏は最初に谷川氏の「みみをすます」という詩を朗読する。耳をすますという言葉は英語への翻訳が難しいらしい。フロイトの「平等に漂える注意」だとか別の学者の「第三の耳で聞く」という表現が近い気がするが、耳をすますは、もっともっと広い気もするという。身体性の言葉はそれを母語とする話し手にとって、「言葉で言っているのだが言葉では言えない」ようなあり方をしている。

河合氏のパートでさすが精神分析の専門家だと思ったのは、言葉が使われる背景としての社会関係や文化に対する洞察の部分。日本文化あっての日本語なわけだ。


これはどこだったか忘れたのですが、どこかの文化人類学者の報告のなかにあって、すごく感激した言葉があります。「ノーと言えない日本人」という言葉があって、日本人は「ノー」と言わないのがすごく悪いようにいわれていますが、そこの文化だったら、相手が「ノー」と言わねばならないようなことを言うのがもう失礼なんだという。だから、その考えによると、アメリカというのは、要するに、すごく失礼だということになります。

日本語は感覚的であいまいで、英語は論理的という印象があるが、日本人はぶしつけに聞いて答えるような社会関係に住んでいないわけで、言葉単体で比較して優劣はいえないわけである。谷川氏は、読むものに異文化を理解しようという学びあいの姿勢があれば、普遍語的に書かなくても、外国人にだって、わかってもらえるはずだと述べている。

翻訳が困難とされる川端康成の文学でも日本文化への理解があれば外国人にも理解されうるというのが谷川氏のスタンスだ。むしろ母語の深みを持った多様な文学が世界文学になるべきであって、翻訳可能性を意識した普遍語の文学が世界文学というのはいかんだろうという意見があって、なるほどと思った。

3人の話し手が緊張感を失わずに討論する第二部を挟んで前後に、パネルでは伝え切れなかったことを河合氏、谷川氏が綴った第一部と第三部で補完しておりバランスがとれている。だいぶ前の本だが、文庫化、増刷されている名著。

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