Books-Culture: 2007年11月アーカイブ

武士道

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・武士道
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「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。」。新渡戸稲造が明治32年(1899年)に、滞在中のアメリカでこの本を書いたとき、実践としての武士道は既にとっくに過去のものであった。

「それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。」

日本では宗教なしでどうして道徳を教えるのですか?という外国人の問いに即答できなかった新渡戸は悔しくて、諸外国に日本人の精神的土壌を説明すべく、この本を書いた。結果として、ヨーロッパの騎士道やキリスト教やギリシア哲学における道徳との比較が頻繁に登場する。

たとえば、こんな風に。

「戦闘におけるフェア・プレイ!野蛮と小児らしさのこの原始的なるうちに、甚だ豊かなる道徳の萌芽が存している。これはあらゆる文武の徳の根本ではないか?」

「ブシドウは字義的には武士道、すなわち武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言にすれば「武士の掟」、すなわち武人階級の身分に伴う義務(ノーブレッス・オブリージュ)である。」

「武士道はアリストテレスおよび近世二、三の社会学者と同じく、国家は個人に先んじて存在し、個人は国家の部分および分子としてその中に生まれきたるものと考えたが故に、個人は国家のため、もしくはその正当なる権威の掌握者のために生きまた死ぬべきものとなした。」

「感情の動いた瞬間これを隠すために唇を閉じようと努むるのは、東洋人の心のひねくれでは全然ない。我が国民においては言語はしばしば、かのフランス人(タレラン)の定義したるごとく「思想を隠す技術」である。」

義理と義務、勇気、仁、礼、誠実、名誉、切腹自殺について、欧米や大陸の文化と比較して、共通と相異を詳しく述べている。欧米化した現代人にも、わかりやすい内容になっている。

一方で、この有名な「武士道」本の主張は、伝統的な武士道研究とはだいぶ違っていて、新渡戸稲造の独自の解釈も多いといわれる。「過去の日本は武士の賜である。彼らは国民の花たるのみではなく、またその根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れ出た。」などは過大評価であろう。武士道を桜にたとえて「しからばかく美しくて散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の香気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型であるのか。日本の魂はかくも脆く消えやすきものであるか」と嘆くような、大げさな文学的な表現も多い。

キリスト教と騎士道を背景に持つ欧米列強に対して、日本にも歴史のある立派な道徳があるのだと、日本代表として熱弁する新渡戸の姿勢が終始感じられる。国際的に理解を得たいという熱意のために、かなり強引に欧米のイディオムと対応関係を張ってしまった感がある。だが、結果として、数十カ国に翻訳されたこのベストセラー本のおかげで、よくもわるくも日本の「武士道」は世界に広く知られることになったのである。

・武士道 初版がデジタルで読める
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40004040&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0

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・〈性〉と日本語―ことばがつくる女と男
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ジェンダーと言葉のみだれという切り口から、とてもユニークな日本語論を展開している。分析するテクストも、スパムメールや翻訳文、漫画のスラムダンクやクレヨンしんちゃんなど、幅広い。そうした周縁的なテクストに見られる「ずれた言語行為」にこそ言語の創造性の本質を見出す。

英語と違って、日本語には一人称の幅広いバリエーションがある。私、俺、僕、わし、おいら、あたしなどがあって性別も意識される。語尾にも変化として女ことば、男ことばがあり発話しているのが男か女かを区別できる。

「話し手を<女>と<男>に明確に区別する言語資源を持っている日本語は、「人間は女か男のどちらかである」という社会的信念を日常的な会話において再生産することで異性愛規範を支え続ける強力な言語的装置としての側面を持っているのである。」と著者は指摘する。

日本語は、男は「無徴・標準・中心」で女は「有徴・例外・周縁」という支配原理を内在させているのだという。たとえば、女社長、女医、女流作家、女子社員とは言うが、男社長、男医、男流作家、男子社員とは、まず言わない。

こうした言語のなかの男らしさ、女らしさに反発して、僕や俺という言葉遣いをする少女がいる。上下関係を嫌って敬語を使わない若者がいる。だが、そうした現象に日本語が乱れていると嘆くのは間違いであるというのが著者の意見である。

「日本語のみだれ」を指摘する背景には、「年長者は優れた日本語の使用者である」という考え方があり、さらにその背景には、「大日本語」の如き「正しい日本語の伝統」があるかのような言語イデオロギーがあるという。

「しかし、正しい日本語」ばかりを求める風潮は、じつは現代に生きる私たちも日本語を創造的に使っており、これらの「ずれた言語行為」が少しずつ日本語を変化させているという側面を見えにくくさせている」

ずれた言語行為をあぶりだすために多方面のテクストが分析される。口調の援助交際系スパムメールだとか、ハーレクインロマンスの翻訳文章だとか、漫画スラムダンクに見られる「〜〜っス」という新しい敬体(上下よりも親疎を尊重する敬語として)、ときめきメモリアルの美少女のセリフなど、周縁的で先端的なケースが多く取り上げられている。

そうした「ずれ」こそ言語イデオロギーを乗り越えていくための、創造的実践なのだとして、肯定的に日本語の「みだれ」をとらえなおしている。

・みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史
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「身体という観点からみれば、オルガスムは男女いずれの性にとっても、パンツのなかでの一瞬の快感にすぎない。男女を平均したその長さは一回に十秒ほど。週一〜二回という性交の平均回数からして、大半の人は週にわずか二十秒、月にして一分かそこら、年に合計十二分のオルガスムを体験していることになる。性交可能とされる年数を限りなく楽観的にみて五十年とすると、われわれはそのあいだにおよそ十時間、マスターベーションにとりわけ熱心な人であればおそらく二十〜三十時間、オルガスムを楽しめると考えていい。」

かりに人生を70年とすると時間にして6000時間程度である。そのうちの、たった20〜30時間の快楽を追求して、人間は膨大な労力を投じる。誰とするかという性選択の積み重ねによって、人類は淘汰されて種として進化する。意識的にせよ無意識にせよ、性衝動に影響された人々の判断が歴史を動かしていく。

この本はひたすらセックスの話題によって、人類の10万年の歴史を物語る。セックスの普遍性とバリエーションの豊かさに驚かされる。古今東西のあらゆるところにセックスの話題が見つかる。

・孔子は五日に一度のセックスを推奨した
・342年、アナルセックスとオーラルセックスは非合法化された
・性欲を断つため、指を焼き落とした神学者たち
・エジプトのファラオは川に向かって自慰をした
・ポンペイの壁画に似こる生々しい3Pシーン
・帽子に女の陰毛を飾るロンドンのメンズファッション
・マリーアントワネットはあそこの「道が狭すぎた」
・宇宙空間で試された二十の体位

第二部の各章では古代から現代までを時代別に、歴史学、生物学、人類学、心理学、社会学的な観点での特徴がまとめられている。各時代のセックスに対する道徳的な位置づけや、性生活の実情、流行の技巧、性をめぐる事件など、トリビア的なトピックが大量に時系列で語られる。時代や社会によって変わるものと変わらないものがある。

たとえば「火はたちまち燃え上がるが、水によってたちまち消える。水は火にかけて温まるのに時間がかかるが、冷めるのもゆっくりだ」と紀元前11世紀の易経には書かれている。男=火、女=水として両性ののオルガスムの違いについて述べた部分だが、同様の分析が古代ギリシアにもあった。セックスが気持ちよいということと、気持ちよさの内容は古今東西を通じて不変であるようだ。

今の世界があるのは、男と女がオルガスムを追求して、ヤり続けたからであって、それ以外の原因ではないのだとも言える。セックスは、歴史を一本の線で結ぶことができるほとんど唯一の要素である。そう考えてみると、このセックス史というのは案外、正統な歴史の記述形なのだ。

・ヨーロッパをさすらう異形の物語 上―中世の幻想・神話・伝説
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・ヨーロッパをさすらう異形の物語 下―中世の幻想・神話・伝説
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伝説・神話好きにはたまらない内容。

中世ヨーロッパの伝説が解説つきで24編が収録されている。一部が童話として変形して伝わった以外は、日本ではあまり知られていない話が多いように思う。海外の人が、桃太郎や金太郎、一寸法師や海幸山幸のような昔話をよく知らないのと一緒だろう。知っていれば、異文化の文学や創作を深く味わうことにつながる。

上巻:

さまよえるユダヤ人―永遠という罰の重み
プレスター・ジョン―朗報かそれとも悪い報せか
占い棒(ダウジング)―なんでも見つけ出す魔法の棒
エペソスの眠れる七聖人―復活する死者
ウィリアム・テル―本当はいなかった弓の名手
忠犬ゲラート―命の恩人は動物だった
尻尾の生えた人間―「よけいなもの」か「必要なもの」か
反キリストと女教皇ヨハンナ―悪しき者たちへの恐怖と期待
月のなかの男―いまもそこにいる理由
ヴィーナスの山―戻ってきた者はひとりしかいない
聖パトリックの煉獄―足を踏み入れた者たちの証言
地上の楽園―それはどこにあるのか
聖ゲオルギオス―残酷な拷問とドラゴン退治

下巻:

聖ウルスラと一万一千の乙女―偽りだらけのくだらなくて愚かな物語
聖十字架伝説―けたはずれの創造力
シャミル―虫や石に宿る謎めいた力
ハーメルンの笛吹き男―誰もが知っている伝説の正体は?
ハットー司教―ネズミに食い尽くされた強欲の司教
メリュジーヌ―裏切りは別れを招く
幸福の島―聖なる場所は西にある
白鳥乙女―詩人に愛された美しい鳥
白鳥の騎士―素性をたずねてはならない
サングリアル(聖杯)―聖なる器の伝説
テオフィロス―悪魔と契約した司祭

聖プレスター・ジョンは大学受験の世界史で先生が、試験にはでないかもしれないが、と前置きして話してくれたのを覚えている。

中世ヨーロッパの十字軍は、イスラム教徒との戦いが苦戦する中で、ひとつの伝説を信じていた。東方に聖ヨハネの血をひく君主プレスター・ジョンが統治するキリスト教国家があるという「聖プレスター・ジョン」の伝説である。この偉大な君主が、この戦いに強力な援軍にさしむけてくれることを願った。ローマ教皇はプレスター・ジョンあての手紙を使者に持たせて派遣した。マルコポーロもこの伝説を信じて東方へ渡ったし、大航海時代のきっかけのひとつになったともいわれる。伝説が歴史を動かしてしまったわけだ。

ネオアトラスという名作ゲームを思い出した。実は最近PS3でもネットワーク経由でダウンロード販売されているので、懐かしくて、買ってしまった。まだ未探査の世界の噂を集めて、どの噂を信じるかで世界地図が変わっていくという仕組み。


・ネオアトラス 3
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何を信じるかで世界が変わるというのは、人間の同時代史において、案外、本質なのではあるまいか。荒唐無稽に思えるこれらの伝説が真実味を帯びていた世界を想像しながら読むと、もうひとつの世界史が見えてくるような気がする。

日本語の源流を求めて

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・日本語の源流を求めて
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日本語タミル語起源説の大野晋が研究の集大成を一般人向けに平易にまとめた新書。

「北九州の縄文人はタミルから到来した水田耕作・鉄・機織の三大文明に直面し、それを受け入れると共に、タミル語の単語と文法とを学びとっていった。その結果、タミル語と対応する単語を多く含むヤマトコトバが生じたのである。」

日本語とタミル語は文法も単語も共通点が非常に多い。物の名前が同じというだけならば、そういうこともあるかなというレベルなのだが、「やさしい」「たのしい」「かわいい」「にこにこ」「やさしい」「さびしい」「かなしい」などの感情を表す言葉までほぼ同じなのである。

さらには日本的情緒の代表格「あはれ」までタミル語に同義でみつかるのだ。五七五七七の韻律を持つ詩もタミル語にある。日本固有と感じられるものが実は南インドからの伝来のものであったというのは衝撃である。

たんぼ、あぜ、うね、はたけ、あは、こめ、ぬか、かゆなどの水田耕作に関係する設備や労働の呼び方も共通している。著者の現地調査によれば、似ているのは言葉だけでなく風俗習慣もまたそうであった。タミルには注連縄や門松まである。

7000キロ離れた南インドから、紀元前1000年頃、タミル語は日本に海路で上陸し、それまでの縄文の言語と融合したという。「タミルと日本とその二つの言語が接触し、文明の力の差によってヤマト民族が文明的に強かったタミル語の単語五〇〇(私の調べた限り)を自己流の発音で覚え、さらに文法も覚え、五七五七七の歌の韻律や係り結びなどまで取り込んだ。」

遠く離れた二つの言語で偶然ここまで単語や文法、背景の文化が一致するとは考えにくい。日本語研究において、タミル語起源説は比較的新しい学説のひとつに過ぎないが、この本にでてくる多数の共通点の例示を見ると、かなり確度の高い説なのではないかと思えてくる。

著者は今年で御年88歳。「私は日本語の過去を振り返り、文献以前の日本語を求めようと努めたが、それにはおよそ一生を要した」と最後に書いている。この本は学者が生涯をかけた研究の最終章ダイジェストなのである。

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・吾輩は天皇なり―熊沢天皇事件
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戦後の混乱で天皇の地位が一瞬揺らいだとき、「南朝の末裔である我こそが真の天皇である」などと主張する、なんちゃって「テンノウ」たちが乱立した。その中で最も有名な人物、熊沢天皇こと熊沢寛道の奇矯な半生を追う。この自称天皇は昭和天皇をニセモノとして裁判所に訴え、皇位の返還せよという勧告状を送り、北朝の天皇と同じように地方を「巡幸」してみせた。マスメディアもネタとして取り上げることが多かった、「時の人」であった。

山師、詐欺師の跳梁跋扈する時代であったが、この熊沢天皇は根っからの詐欺師というわけではなかったようだ。本気で自身の正統性を信じていたらしい。取り巻きはそれを利用した。熊沢寛道が本当に南朝の末裔なのかどうかは実際にはよくわからない。そもそも血がつながっているかどうか、と天皇としての正統性は関係がないという意見もある。

裁判所は熊沢の抗告をこう言って却下した。

「天皇であることが、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴なのであるから、現に皇室典範の定めるところにより、皇位にある天皇が、他のいかなる理由かにおいてその象徴たる適格がないかどうか、というようなことを云々する余地は全くないものといわなければならない」

当時の新聞に熊沢天皇問題について大宅壮一は次のように述べた。

「血のつながりをたどっていけば、すべての日本人がどこかで皇室につながっていることになる。”1億総天皇家”ともいえよう。問題は、血のつながりを世間が承認しているかどうか、というよりも、それにふさわしい地位権力を保持してきたか、今もつながっているかどうかということにかかっている」

つまり、天皇であることはその資格があるか云々の話ではなく、現に天皇であるから天皇であるということなのだ。熊沢天皇の滑稽さは、相手方が決めたルールで自身の正統性を訴えるしかなかったこと、そのルールさえ近代になって作られた神話に過ぎなかったことにある。

「寛道もまた、天皇を万世一系の現人神とし、その現人神である天皇をトップにいただいて臣民が一家をなすのが神代以来の日本の国柄であり国体だとする。明治以来の巧妙な洗脳教育が生んだ”作品”のひとつにほかならなかった。」

「寛道らの運動を成り立たせているもの、それは明治以降の政府がつくりだした「万世一系」という虚構にほかならない。彼らは後南朝というフィクションにとりこまれたのではなく、実は万世一系の現人神天皇という、権力者側がつくりだした虚妄の神話にとりこまれ、その妄想世界を、戦後になっても、ただひたすらさまよいつづけたのである。」

現代日本でも、つい最近、女系天皇の可否を議論する際に万世一系が重要時として取り上げられてきた。万世一系はそれほどまでに強力に国民に浸透した神話であり、その土壌のなかから色物としての熊沢天皇らが生まれてきた。しかし、この神話を本当に巧妙に利用してきたのは、この国を動かす権力者たちであったということを、著者は指摘する。

熊沢天皇という戦後の仇花の奇人伝に終わらず、今も続く天皇の権威の正体に迫る濃い内容に驚いた。新書だが相当読み応えがある。

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