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・ホワイトハウス・フェロー―世界最高峰のリーダーシップ養成プログラムで学んだこと

「ホワイトハウス・フェロー制度は、アメリカに存在する研修制度のなかで明らかに最良のものだ。世界で最も優れた研修制度と言ってもいいかもしれない。この表現はまったく誇張でない。私たちフェローがどういう経験をするか考えてみてほしい。私たちはアメリカ政府の中枢で一年間過ごす。どこへでも好きな場所に出張し、誰でも好きな人物と会える。週に三日はアメリカの最重要人物たちと食事をし、質問したいことはなんでも質問できる。こんな制度は世界のどこにもない。まったくない。」元国務次官補、元ホワイトハウス・フェローのダニエル・サリバンの言葉
とてつもなく厳しい選考試験で選ばれたアメリカの若きエリート十数人が、一年間、政府の最高レベルの中枢で働く機会を得る。彼らは大統領や省庁のトップを補佐しながら、本物のリーダーシップを学ぶ。
研修期間終了後フェローたちは政府や民間から引く手あまたであり、多くが若くして要職についている。フェロー時代につくったVIP人脈とフェロー同士のつながりが、彼らの人生を強く後押しして行く。米国のエリート高速道路の最たるものだ。
ホワイトハウス・フェロー制度で、二十五年間、最終選考会「セレクション・ウィークエンド」に関わった委員によると、審査では、
第一に明晰な文章力、第二に協調性、第三に自己中心的でないこと
の三つの資質を注意してみていたそうだ。一つめは、明晰な文章を書く人間は明晰な思考能力を持っているからだそうだが、意外にも二つめと三つめは人間的な資質が問われている。能力の優秀さは選抜過程で十分に証明されているから、あとは人間性を、ということなのかもしれない。
コリン・パウエルを補佐したフェローは、「ワシントンには、頭のいい人間などいくらでもいる。大事なのは、人々にどういう感情をいだかせるか。リーダーが成功するかどうかのカギを握るのがその能力だ。自分の有能さを見せつける必要などない。リーダーに必要なのは、部下とコミュニケーションを取り、部下のやる気を引き出し、部下に気を配り、参加意識を持たせることだと、パウエル長官は教えてくれた。」と語っている。
元フェローたちが大統領や要人たちから学んだことが、彼らが体験した緊張と感動のエピソードとともに、たくさん紹介されている。やはりそこには非凡なリーダーがいるからなのだろうが、ホワイトハウスのオーラも関係がありそうだ。『教育力』で斉藤孝氏が「教育の根底にあるのはあこがれの伝染である」と書いていたが、学ぶ側の高揚感、緊張感というのはなににもまして教育効果を高めている気がする。
・教育力
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/04/i-1.html
・ホワイトハウスの職人たち
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/11/post-486.html
・ホワイトハウスの超仕事術―デキるアシスタントになる!
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/08/post-432.html
まだかな まだかな 学研のおばちゃん まだかな
昨年、惜しまれつつも休刊となった学研の「学習」(1946年創刊)と「科学」(1963年創刊)。最盛期の1979年には両誌合算で670万部という大部数を誇った。私も愛読していて、懐かしくてたまらず購入したメモリアルムック。
復刻ミニふろく「人体骨格モデル」と「5年の科学」の豆本付き。
国立天文台天文情報センター長の渡部潤一氏がこんな文章を寄せている。
「小学校高学年になると、実験より机上の勉強で知識を得る入試対策がメインになります。それはそれで大事な側面ですが、今の教育の中に、手を動かして物を作る喜び、原理を知る喜びに繋がるカリキュラムがもっとほしいですね。それこそ、国が『科学』と『学習』に補助金を出して、年に1回でいいから子どもたち全員に配れたらいいなと思います。例え、99%が無駄になっても、1%でも面白いと思った人が、新しいアイディアでクリエイトする人に育てば、新しい技術や価値観を生みだしてくれる。教育とは、そういうものなんだと思います。」
確かに、仕分けで捻出した予算で科学と学習に補助金を出せばいいのに。
47年間に及ぶ「科学」のふろくの歴史をカラー写真で振り返る特集記事が目玉。実験カメラ、カブトエビ飼育セット、望遠鏡、電流実験キットなど何百もの当時のふろくが説明つきで掲載されている。どうやってふろくをつくっていたか、当時の編集部の苦労談もある。背景の大人の事情が分かって、大人として面白い。
豆本で再現されたムックには漫画も収録されている。
この山口太一の連載漫画「名探偵 荒馬宗介」は当時の原稿所在不明で復刻が難しいらしい。歴代では水木しげるや石ノ森章太郎など大御所も描いていたらしい。
『科学』と『学習』のメモリアルなのに8割は『科学』の話だ。当時からふろくが華やかな科学に比べて、『学習』はお勉強的な地味さがあったが、やっぱり一般的に人気は『科学』が圧倒なんですねえ。『学習』の方が古いのに。
・<就活>廃止論 と 4月20日開催 早稲田大学キャリアサポートセミナー

仲の良かった学生が就職活動をする姿を見ると、悲しくなることがある。あんなに活き活きとしていた若者が、慣れないリクルートスーツを着て、借りてきた猫のように、行儀よくしている。覇気や活力が見えなくなる。業界の大物でもなんでもないタダの面接官を前にして、それまでの生き方や能力を試される。一斉試験とあわただしい面接でわかることなんてわずかだ。私が知っているその学生の良いところを面接官は引き出す能力があるだろうか?。面接官の資質の方を私は疑いたくなる。
「ワン・トゥー・ワンマーケティング」と呼ばれる、ターゲットを絞り、ターゲットに合わせたアプローチをとる手法が一般商品のマーケティングの世界では当たり前になっているのに、新卒採用業界ではいまだにマスマーケティングが主流だ。企業と学生の間に入る採用支援の業者にとって「たくさん集めて、たくさん落とす」手法のほうがお金になるので、巧みに真実が隠されているのだ。」
学生の就職支援、企業の採用支援を行うジョブウェブ社長の著者は、終身雇用、年功序列と一体だった新卒一括定期採用は、世界でも異例であり、その前提が崩れた今や時代に合わなくなっているから止めるべきだと提言する。
こんな大胆な提案をしている。
提案1 「選考試験」は大学一年生からスタート
提案2 優秀者には複数年入社パスを発行
提案3 学生の入社意思表示は大学四年の十月に
提案4 選考試験フィードバックの実施
提案5 新卒通年採用、毎月入社
そして理想的な就職の在り方として技術系学生のモデルを紹介して、インターンシップの導入をすすめている。
「たとえば、技術系学生の就職を考えてみればよい。技術系学生の生活は基本的に研究室を単位に成り立っており、研究室はその先生が持つ技術と関連の深い企業と非常に密接な連携を保っている。それはもちろん就職のためにそうしているわけではなく、研究・教育活動というものが、企業社会の動向と切り離すことができないからそうなっているのである。学生たちは先生や卒業生との関係を前提に、そうした関係の深い企業に就職していく例が多い。」
優秀な学生をとるには「行動原理の有無」をみろという。学生を採用する企業の面接官にとってのポイントも学べて、大変勉強になった。
さて、同窓生であったこの本の著者の佐藤幸治さんのプロデュースで早稲田大学にて学生向けに下記イベントに出演することになりました。早稲田大学にご縁のある方はぜひご参加ください。
・キャリアサポートセミナー 第一弾(トークセッション)
http://www.waseda.jp/career/event/2010/4-20.htm
・早稲田大学キャリアサポートセミナー第一弾
http://koji.jobweb.jp/?p=4131
=================以下は告知です。
キャリアサポートセミナーでは複数のスピーカーをお招きし、「学生時代を如何に過ごし自分を作ってきたか」についてご自身の体験談や考え方をトークセッションや講演会の形で語ってもらい、その上で、各分野においての今の生き様を披露してもらいます。
第一弾 トークセッション
本学OB(一部他大出身者含む)の方々が各日のテーマに基いて行うトークセッションです。
■1日目 4/20(火)「インターネットの可能性」早稲田大学
国際会議場 井深ホール(定員400名)16:30~18:00
<スピーカー>津田大介氏
IT・音楽ジャーナリスト。本学社会科学部卒業。2002年、個人運営のニュースサイト「音楽配信メモ」を立ち上げる。『Twitter社会論 - 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』『仕事で差がつくすごいグーグル術』等の著者。
<スピーカー>橋本大也氏
データセクション株式会社取締役会長。早稲田情報技術研究所取締役。本学在学中に「アクセス向上委員会」を立ち上げビジネスを開始。ITビジネス全般の技術評価及びマーケティング戦略のコンサルタントとして活躍。主な著書『情報力』『情報考学--WEB時代の羅針盤 213冊』。
<トークセッションイメージ(案)>
(1)いま、どんな活動をされていますか。(自己紹介)
(2)学生時代はどんなことをしていましたか。
(3)今の自分につながるターニングポイントはありますか?
(4)学生時代を充実するためのネットをどのように活用すべきでしょうか。
(5)今、変えなくてはいけないと思っている世の中の問題ってなんでしょうか。
(6)学生からの質疑
(7)これから、どんなことをして行きたいと思っていますか?
(8)学生へのメッセージ
日本人の大卒のほとんどは企業へ進むはずなのに、大学では職業のことはほとんど教えない。就職では地頭がよくて<適応>する素直な若者が好まれた。企業は採用に当たっては個人の能力ではなくて「潜在能力」を基準としてきた。高度経済成長期には企業が職業教育を丸抱えしたので、それでもなんとかなっていた。しかし「日本的雇用」が後退する中で、職業能力を形成することができなかった学生たちが非正規社員、不安定な雇用、低賃金にあえぐことになった。だが彼らは不当な扱いに抗議する<抵抗>の術も教わっていなかった。
日本は高等教育の職業コースに進む人が少ないというデータが紹介されている。日本の後期中等教育(主に高校をさす)では、普通教育コース在学者比率が75%に達しているが、OECD加盟国平均では同比率は50%程度。他国ではほぼ半数の生徒が職業に関連するコースを学んでいるのに対して日本では四分の一にとどまっている。
こうした職業専門領域には「ビジネス・法律」「技術・建築」「農業」「サービス」「医療・福祉」「情報」「人文・芸術」などがあるが、ほぼすべての領域で日本は在学者が少ない。多くの学生は普通科に進み、進学のための選抜基準としての科目を学習する。どうしてこんなことを勉強しなければいけないのかと思う」比率が高校一年時で61%に及ぶそうである。(本書紹介のベネッセ教育研究開発センター調査)。
そして高校や大学を卒業した途端に「勤労観や職業観」を問われる。もっていなければおかしいとされる。だから一斉に自分探しとやりたいこと探しに追われて「自己実現アノミー」に陥る。
大学と企業がうまくつながっていないのは明らかだ。日本的雇用の終焉と不況によって、その齟齬が明らかになり、本書の言う「教育の職業的意義」をもう再考する必要がでてきたというのは本当だと思う。著者は重要なのは「柔軟な専門性」を身につけることだと結論している。
柔軟な専門性とは「弾性と開放性をもつ「暫定的な」職業的専門性を、「とりあえず」身につけること、そこを言わば基地として、隣接領域やより広範な領野への拡張を探索してゆくこと」。高校福祉科を出て福祉以外でその能力が活かせた例などが挙げられている。
プログラミングでも会計でも旋盤工作でも、専門技能をひとつ持つことから広がるというのは確かにいいアイデアな気がする。プロ意識も芽生える。企業のインターンシップや社会人の講義などがもっとあるべきだったと私も自分の受けた教育を振り返って感じている。
もちろん高等教育が職業教育に終始して就職予備校化するのは本末転倒である。この本がいうように、「金融の知識を与えると同時にマネーゲームがもたらす世界的な機器や不安定化をも伝え、いかにしてその危険を抑制しうるかについて考える。食品の加工・調理についての実践的スキルを教えるだけでなく、農産物や水産物と密接に関わる地球規模の環境問題や南北格差についても伝え、未来にわたる人類の持続可能性に関して考える」というあり方でなければならないわけではあるが。
大学では「教育の職業的意義」は常に議論が分かれる話題だ。しかし、この本の国際比較や実態研究を見る限りでは、もっともっと重視すべき話のように思える。
現代における教育の意義を考えるのにとても良い本。
この本、1もよかったが2もおもしろすぎ。日本語教室を舞台にした漫画。
「日本語教師」という仕事は大変です。大変だけどおもしろい仕事です。こちらが日本語や日本の文化を教えているはずなのに、相手から学ぶことも多いような気がします。学生からの質問で「日本語の謎」(私が知らないだけ?)に気づかされることもあります。そんな日本語教師の日常をちょっとのぞいてみてください。」
たとえば外国人は
「スッパ抜く」のスッパって何ですか?
などという質問をしてくる。これが調べてみれば、ちゃんと由来と意味があるのである。
日本人は青信号をなぜ緑というのか?
なぜ日本の子供は太陽を赤く描くのか(海外は黄色や白が多い)?
という色の表現もなかなか深い。
たとえば日本ではピンク映画だが、英語圏ではブルーフィルム、黄色電影、スペインでは緑がエッチな色だという。ことばの問題は文化の問題だ。世界各国から生徒が集まる日本語教室は、文化の多様性を学ぶ教室になっている。
濁音や半濁音はどうしてできたかなんて、日本人の9割は知らないだろう。
ネイティブスピーカーの盲点を笑いながら学べる漫画。
「ダーリンは外国人」が好きな人はこれも必ず楽しめる。
・ん―日本語最後の謎に挑む
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/post-1164.html
・怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001944.html
・犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い
http://www.ringolab.com//note/daiya/archives/000935.html
・日本語の源流を求めて
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/11/post-660.html
・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-959.html
・猿はマンキお金はマニ―日本人のための英語発音ルール
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/post-933.html
・日本語は天才である
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-575.html
・日本語と日本人の心
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/11/post-477.html
子供や初心者に美術史の知識は無用、まず作品を自由に鑑賞させて、自分なりの感じ方を引き出すことが、美術への深い理解につながるという鑑賞教育の提唱者アメリア・アレナスの本。見ることの本質や芸術の持つ力について語った第一部と、子供の鑑賞教育の方法論を中心に語った第二部からなる。
「大人になると、なぜかひとは美術作品をみて自分がどう感じるかはどうでもよいことで、美術に目を向けるのは、「見方を学んでから」にしたほうがよいと考えるようになるらしい。」
確かに、私も美術館に行くと作品それ自体よりも展示コーナーのタイトルや作品説明にまず目が行ってしまうことが多い。そこには大抵、鑑賞のポイントも書かれていて、実際に作品を見るのは、純粋に鑑賞するためではなくて、データを確認する行為になってしまう。鑑賞後の感想も、説明にあったポイントをなぞったものになりがちだ。
「自由に(しかし深く)、作品をゆっくり時間をかけて味わってからでないと、そうした知識は役に立たない」と著者は説く。伝統的な美術館は、専門家が高いところから知識を与える姿勢で展示を構成しているから、子どもたちは、素直に自分の感じ方を味わうことができない。本来あるべき美術教育は、みる かんがえる はなす。感じたことを思考と言葉で表現する力を育てることにあるというのが著者の持論だ。
「何人かの子どもたちにある作品をみせてから、たとえば「この絵のなかでは何が起こっているの?」というようなかんたんな質問をすれば、かれらはそのとき心に浮かんだことをそのまま口にするだろう。しかしそうした思いつきや、独りよがりな考えも、「絵のなかの何をみて、そう思ったの?」というような問いかけをすると、子どもたちは最初の答を裏づける手がかりを探そうとして、作品をもう一度見直し、その過程で目の前に展開する「新しい」映像のなかの、さまざまな要素の重要性を秤にかける作業を迫られる。」
感覚を言語化するというのは極めて難しい作業だ。作品を前にして行えば、何度も見直しながら、それができる。作品説明の文字情報は、みる、かんがえる、はなすの場では不要である。優れた美術評論家というのも、独特な見方と言葉で美術作品の位置づけを話せる人なわけだから、鑑賞教育は評論家育成の方法論でもあるように思った。
「ひとつだけ確かなのは、美術がもたらすよろこび、そしてときには荒々しいほどの衝撃は、その大半が私たち自身のつくりだしたもの、私たちが映像に託した実在感のなせる業だということである。」
作品の感動は自らの内側からやってくる。外側からではない。当たり前なのだけれども忘れがちなことだ。私はついつい展示鑑賞後に文字の書かれたパンフレットをすぐ買ってしまうのだが、本当は自分の感じ方をすべて言語化し終わってから読むべきなのだなあ。
全国の学校で実際に出された「変な給食」を再現してカラー写真で紹介する問題提起本。
例:
味噌汁とてんぷらと黒糖パンと牛乳
雑煮と食パンと揚げしゅうまいと牛乳
冷やし中華、原宿ドッグ、牛乳
みそラーメンとドーナッツと牛乳
など、73点の再現写真はどれも「うへえ」な感じで食欲が湧かないものばかり。和洋中ごちゃまぜで砂糖と油まみれ、これじゃあ味覚だって育たない。結局、パンを主食にするのが原因なのだが、米飯給食は東京都平均は週に2.6回だそうで、週の半分は変な給食が出る可能性があるわけだ。
しかし、思い出してみるとこうした「変な給食」は私の小学生時代にはちっとも変じゃない、普通の給食だった。米飯は年に1度あったかどうか。パンに豚汁に牛乳にスライスチーズが一枚なんていうのがよく出た。当時は当たり前と思っていたが、大人が好んでこんな組み合わせで食べることはありえない。確かにこれはおかしい。変えるべきだ。
なぜパン食主体の変な給食が続くのか?
「その理由は、「予算がない」「人件費の問題」「パン業者への配慮」などさまざまですが、その中でも、最も多いのは、「栄養素のバランスを考えて献立を作成しています」というものです。「ラーメンに牛乳という献立はおかしいのではないか」という批判に対して、「カルシウムを満たすためには仕方ないのです」という答えが返ってくるのです。」
唐突にスライスチーズ一枚がついたりするのは栄養士の工夫らしいのだが、学校給食法には食文化の正しい理解も明記されているわけで、やっぱりまずいのではないか。牛乳を毎回つけるのも味覚を育てるという観点ではどうかと個人的には思う。
4月からうちの息子は小学校1年生になる。給食がある。私と同じ小学校だ。この30年で給食はどう変わったのか楽しみであると同時に、あいかわらず変なままだったらどうしよう、と不安になる。主張をもって戦う著者は学校給食に異を唱えて自分の子供に教室でひとりだけ弁当を持たせたらしいが普通の親としてはそうもできない。
最近都内には昭和の給食を食べさせる店がいくつもある。揚げパンとかソフト麺とか揚げしゅうまいとか、かつて無理やり馴らされた変な味覚を懐かしく感じる人がたくさんいるということだ。つまり普段食べていない。大人が食べないものを子供に毎日食べさせるのは普通に考えて、おかしい。著者の学校給食改革の主張を支持したい。
・毎朝登校する生徒は33人中5人
・1から100まで数えられない生徒がいる
・九九が完全にできるのは160人中20人
・入学者の半数が中退する
・高校を中退する生徒の半数は1年生
・やめさせようとする教師たちの存在
などいわゆる底辺校の実態と増加する高校中退者のドキュメンタリ。
現代の高校中退は個人の問題ではなく社会の深刻な病理のようだ。
高校中退の背景には家庭の貧困があり、不安定な生活や余裕がない家庭環境が、生徒の低学力、不登校を引き起こし、中退へとつながっている。学習意欲と貧困の間にも密接な関連が見出されている。エリート校と底辺校の格差は増大傾向にある。
高卒以上が圧倒的マジョリティを占める日本社会において高校を出ていないことは極めて不利にはたらく。実際、不況の中で高校中退者の就職は困難を極めている。調べてみると生徒の父母もまた中退者であったりして、格差の拡大という負の再生産が発生してしまっている例もある。
「1980年代からの世界を巻き込んだ新自由主義の実験は、世界中に無惨な結果を残した。新自由主義が主として攻撃の対象とした福祉国家とは、資本主義の成立の要である労働力の再生産にとって欠かせないもののはずだった。ところが新自由主義は、労働力の再生産に必要な住宅・教育・医療・福祉を市場化し、福祉国家を解体することによって、もっとも福祉を必要とする貧困層に打撃を与え、さらに中間層をも分解するという結果をもたらしたのである。」
「社会の底辺」という言葉が存在しない社会をつくるには、夢や希望を失った一番若い人たちを救済することが特に重要だろうなあと思う。著者が解決策として結論する高校教育の無償化が効果的なのかは確信が持てないが、高校中退=社会からのドロップアウトという図式をなくすことが何より大切だろう。競争社会とセーフティネットは共存しないと人間的ではないと思う。
子供に好評で、親が見ても楽しいカラー図鑑。小学校低学年向け。
動物の大きさを比べるページでは、大腸菌からシロナガスクジラまでノアの箱舟をひっくりかえしたように多種多様な動物を並べる。小学生の子供と皇帝ペンギンの身長はほぼ同じであるとか、シロナガスクジラは25メートルプールに入りきらないなど、子供の読者が実感でわかるように描かれている。
走りや泳ぎの速さも可視化される。競争で一番速い動物ほど先頭に描かれる。泳ぎの競争では、トップのバショウカジキは25メートルプールを1秒で泳ぎ切ってしまう、マグロも相当に速い。人間はまだスタートしたばかりなのにねえと親子で会話がはずむ。
さまざまなものの高さを大阪の通天閣と比較するページがあって笑えた。世界で一番高い木のセコイアはだいたい通天閣と同じ高さなのだって、関東育ちの私にはよくわからない。関西人にはわかる、のだろうなあ。
この図鑑いいじゃんと思ってWebを調べたら、昨年の発売以降にベストセラーになっているらしい。図鑑で16万部というのは圧倒的なのでは?。
・【手帖】小学館『くらべる図鑑』売れ行き好調
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090906/bks0909061317011-n1.htm
「小学館の図鑑NEO+(ぷらす)、加藤由子ほか監修・指導『くらべる図鑑』(1995円)が売れている。7月初旬に初版7万部で発売したが、約2週間後には4万部を増刷。それもたちまち売り切れて、2日現在第3刷(5万部)を合わせた計16万部に達している。」
・防災ゲームで学ぶリスク・コミュニケーション―クロスロードへの招待

ゲームを使って災害時のリスクコミュニケーション(情報共有)を学ぶ「クロスロード」開発者たちの本。続編も出ている。
防災ゲーム「クロスロード」では5人くらいの参加者によるグループが、10枚のカードを順番にめくる。各カードには災害時を想定した、重大な意思決定をせまる、次のような質問が書かれている。
「あなたは、食料担当の職員。被災から数時間。避難所には3000人が避難しているとの確かな情報が得られた。現時点で確保できた食料は2000食。以降の見通しは、今のところなし。まず、2000食を配る? YES(配る) / NO(配らない)」
参加者は各自で意思決定を行った後で、全員の判断を公開する。結果として多数派の決定を選んだ人は青い座布団(ポイント)がもらえる。YESとNOが同数なら誰もポイントがもらえない。YESまたはNOが一人だけだった場合はそのひとりだけ金座布団(青と同じ1ポイント)がもえらえる。
カードを10枚やって最もポイントを獲得した人が勝利者となる。
ゲーム後のふりかえりセッションでは、各問題についてなぜそうした決定をしたのかを話し合う。多数派の青座布団を最も多く手に入れた人は誰か、なぜその人はたくさんの座布団を得られたのか。金の座布団(唯一の意見)を手に入れた人の心理は?。すぐにきめられた質問、なかなか決められなかった質問はどれか、など。ふりかえりながら、参加者は災害のリアリティを構築し、自分たちの災害対応のローカルなコンセンサスをつくっていく。
クロスロード開発チームは、阪神大震災に対応した職員に対する膨大な量のインタビューから、当時の意思決定場面を徹底的に分析した。すると「あのときの判断はあれでよかったと思っているが、今思い返すと、もっと他のやり方があったと思える部分もある。」と当時に思いをはせる職員が多かった、という。危急の場面では、その場にいる人間がその場にあるリソースを使って意思決定をしなければならない。普遍的なマニュアルには頼ることができない部分が大きい。
「なぜなら、これらの課題には、普遍的に通用するような真理(正解)がないからである。言い換えれば、これらの課題は、自然や社会の中にすでに存在する「真理(正解)」を見つけ出すことによって解決されるのではなく、当事者たちが、各地域のローカルな事情や自分たちの価値観を踏まえて、ローカルな「合意」を共同で生成していくことによってこそ解消される。」
こうしたローカル知識の共同生成を、ゲーミングを通して行うことができると著者らは考えた。ゲームは、ソーシャルリアリティを即座に構築し、多重の対話を生み出すことができるツールである。「ゲーミングの体験をふり返ってみることで、何がゲームの現実を規定しているのかという制度的側面や、立場の差によるリアリティの構成の差異を具体的、体験的に認識することが可能になる。」(出口、1998)という効用があるという。
ローカル知識の共同生成というモデルは災害時だけでなく、経営や現場の意思決定も応用が利きそうな考え方だと思う。このノウハウでリスクコミュニケーション以外の分野でも、ゲームを作ったら面白そうだなあ。
「破壊的イノベーション」のクリステンセンが語るエデュケーションのジレンマ。
「途上国が製造業を基盤とする経済を発展させるとき、生徒は科学、数学、工学を学ぶことで、貧困からの脱出を保証する大きな見返りを得ることができる。だが同じく国が安定と繁栄を実現すれば、生徒は自分が楽しいと感じ、自発的動機づけの持てる科目を、より自由に学べるようになる。」
この現象は日本の理系離れの原因でもある。少子化と同じように繁栄する国が抱える宿命にある問題なのだ。かつてのように大勢の生徒に同じ内容を教える一枚岩型授業が国の教育システムとして、効率が高かった時代も終わっている。
「一枚岩型の教授方式が、生徒中心の技術を装備した教室へと移行するにつれて、教師の役割も徐々に変化していく。この移行は容易ではないかもしれないが、得るところも大きいはずだ。教師は来る年も来る年も画一的な授業を行いながらほとんどの時間を過ごす代わりに、生徒の間を回って、一人ひとりが問題を解決する手助けをすることに、今よりずっと多くの時間を費やせるようになる。生徒が自分に最適な学習方式を探す手助けする、学習コーチやチューターに近い役割を果たすようになるのだ。」
なんだか個人的に響いた。学生時代の私は人の話を聞くのが苦手で、授業理解がさっぱりだめだった。集中力が低い子供だったわけではない。いま考えてみると、私は教師の話す内容より、顔や身振りや服装、言葉尻という枝葉にばかり妙に強い興味行ってしまう子供だったのだと思う。視線が生徒から先生へ一方向だとそうなりやすい。マンツーマン型だったらだいぶ違っていたかも知れないなあ。
そして未来の教育は「生徒の習熟度に関するリアルタイム・データを利用しながら、学習を通じて生徒を導き、やる気にさせる。」という。そして、破壊的イノベーションにつながる教育の手法改良として、
・一人ずつ異なるプロセス、異なる進度で学ぶ
・コンピュータを利用した教育(最初のうちは効果が出ないがやがて強力になる)
などが有力であると結論されている。習熟度とリアルタイムデータ。それって公文式とかsmart.fmみたいなものだろうか。究極的には、褒める、叱るところだけ人間で、あとは全部がコンピュータという教育システムになるのかもしれないなあ。教育の破壊的進化という重要だがあまり議論されないテーマについて、じっくりと考えさせられる本だ。
この夏に子供を連れて、ICCのキッズ・プログラムに行ってきた。(8月31日でイベントは終了している)。実際に子供と大人が一緒に遊びながら学ぶための作品が展示されていた。実験的メディアアートで遊ぶ感覚が楽しい内容。
・「ICCキッズ・プログラム 2009 プレイフル・ラーニング たのしむ ∩ まなぶ」
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2009/Kidsprogram2009/index_j.html
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↑子供は特にフォントで遊ぶ作品に熱中していた。
帰りにこのプログラムをデザインした上田信行氏の著書をミュージアムで買って読んだ。道具、活動、空間、人の組み合わせで創造性を引き出す方法論、空間論。あのイベントは著者の持論「まず「活動」があって、それを楽しむ「人」がいて、そこから生まれる「コミュニケーション」をとおして学ぶことができる場所」を体現していたようだ。
「プレイフルとは、物事に対してワクワクドキドキする心の状態のことをいう。どんな状況であっても、自分とその場にいる人やモノを最大限に活かして、新しい意味を創り出そうとする姿勢」
・真剣に向き合うこと
・柔軟であること
・協調のためのエンジン
・実現できそうな予感にワクワクすること
を大切にした方法論。チクセントミハイのフロー体験にも通じる。
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創造的な学びについて著者はこう簡潔にまとめている。
「学びとは子どもが何かを体験し、その体験を振り返るプロセスを通してみずから構築していくものである。」
「知識とは、他者から与えられるものではなく、みずから創り上げていくもの、つまり「創造するもの」である」
インストラクションではなくコンストラクション・ラーニング(構成主義的学び)として教育をとらえている。だからこそ、ワクワク体験ができる環境が重要なのだ。
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そしてとても面白いなと思ったのは、多くの場合、何をやるかより誰とやるかが重要だという話。あの人とだったらできそうだという他者含みの自信が、学習者を動かす強いモチベーションになるという。
自分の子供時代を思い出してみると、結局、何をどう学ぶかというよりは、どの先生に教わるか、誰と塾に行くか、なんていうことが学習意欲と結果につながっていたように思う。いや大人になった今だってそうかもしれない。誰とやるかで、仕事の楽しさもやりがいも大きく左右される。
ワクワクを一番簡単に創り出す方法は、一緒にやる人を選ぶ、選べる状態にするということなのかもしれない。
・ゲームと犯罪と子どもたち ――ハーバード大学医学部の大規模調査より

「1994年から2001年までに殺人、強姦、強盗、加重暴行による逮捕者数は44%減少し、逮捕者数に占める青少年の割合は1983年以来最低となった。1993年には殺人事件による青少年の逮捕者数が3790人に達したが、2004年は1110人で71%減少した。」
ちなみに1995年が一般には暴力的とされるアクションゲームの大ヒット作『DOOM』の発売年である。この7年間はゲームが一般に浸透していく時期であった。一般の予想に反して、米国では(おそらく日本でも)ゲームの人気と現実世界の青少年の暴力は確実に反比例していたのである。
この本はハーバード大学医学部は1257名の子供と500名の保護者、数百名の業界関係者を対象に、ゲームが子供に与える影響を科学的に調査した報告である。結論からいうと、いくつかの相関はあるが、子供のゲームと暴力行動の間に強い因果関係は認められないという。
確かにゲームをする時間が長ければ長いほど、ゲームの内容が暴力的であればあるほど、男の子も女の子もいじめの加害者である割合が高くなる。週にゲーム遊び1時間未満の子供が加害者になる割合は1.4%だが、6から8時間ゲームをする子供では11.7%である。特に女の子の場合は顕著で、ほぼ毎日ゲームをする女の子は他の女の子と比べていじめの加害者や被害者になる割合が高い。
だが、この数字をゲームが子供に悪影響を与えると解釈しては間違いである。逆に、ほとんどのゲームをする子供がいじめも問題行動もしないことを意味しているのである。圧倒的多数の子供がゲームを遊ぶ中で、たとえ6から8時間も遊ぶような熱中派でさえ、9割の子供には問題が起きないということになる。ゲームと暴力は一部に若干の相関が見られるが、強い因果関係は認められないのだ。軍隊ごっこや宇宙人ごっこと何が違うのか。
そして定期的にゲームをしない(まったくしない、または通常週に0回)という子供の方が、暴力的ゲームをする男の子に比べて、けんかや窃盗、学校での問題行動を起こす割合が多かった。
これについては著者らは「男の子にとってゲームをするのは普通のことであるため、調査結果をそのまま解釈すれば、「ゲームをしない男の子は普通ではない」ということになる。」と解釈している。同様にゲームをたくさんする女の子は普通ではない。だから問題行動につながりやすいと見る。
他の研究事例の分析からは反社会的行動や暴力的行動の多くは遺伝的特性によるものが大きく、メディアの影響はあまり大きくないという事実も挙げられている。ゲームにも何らかの悪影響はあるかもしれないが、総体的に見たら順位が低くて問題にならないレベルというのが著者らの結論である。
ゲームについて保護者にできることとして「最初の一歩は、「子どもを暴力的なゲームから守るには、どうしたらいいですか?」というよく聞かれる質問を「子どもがゲームをする時間をもっとも有効に使えるように、どう手助けすればいいですか?」に変えることだ」という提言がある。
この本にはゲームのレイティング表示の話が出てくる(一定の効用を認めている)のだが、暴力や性的要素を判定するのではなくて、クリエイティブ度だとか教育的効用というポジティブ面を評価する別のレイティングを作ったらいいのではないかと思った。悪いゲームを禁止するのではなく、よいゲームを推奨することができれば、ゲーム市場も活性化するだろう。じゃあ、なにが本当に良いゲームなのか?ということになると、それはそれで調査研究が必要ではあるのだが。
・ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/post-937.html
・19×19 トクトク―日本人のアタマをもっとよくする2桁かけ算

ITにおけるインド躍進の背景にはユニークな数学教育があったと言われている。インドの九九は9×9で終わらず、20×20まで憶えさせるというあれである。これはインド式掛け算を教えるメソッド本だ。
10の段と11の段、それから20×20の段は簡単なので省略され、12×12~19×19を学習することになる。A×BとB×Aは同じなので逆順もまた省略される。暗記項目の数は案外に少ない。これなら小学生が高学年で九九に加えて憶えてしまえばいいというレベル。
まず12から19にキャラクターが割り当てられる。各キャラクターの絵とプロフィールを右脳的に記憶することから始まる。この数字の語呂+キャラクターの掛け合わせで生まれてくるストーリーを暗記していくのである。
12はトリだ。トリはニワトリだが好奇心旺盛な勉強家で好物は煮干しで空を飛び忍者を目指しているという性格が設定されている。
12×12(トリトリ)=144(ピヨヨ)
12×12はトリが2羽いるからピヨヨである。トリトリピヨヨを語呂とそのイメージで記憶する。
13はトミさんで、ハイテクを駆使する50歳の資産家で骨董好きで女性には興味なし。勝負事には弱い。武士に憧れるというお金持ちの紳士の絵柄。トミさんが財布からお札をトリに渡そうとするイメージで、
12×13=(トリトミ)=156(イチコロ)
トリトミイチコロを憶えるわけである。
日本的な漫画キャラクターのキャラクターが親しみやすく、イラストを眺めながら語呂を暗唱していくと、不思議と頭に入ってくる。暗記が苦手な私だが、やってみたらたくさん憶えられてびっくりした。短期記憶への刷り込みは十分な効果が見込めるメソッドだと思う。長期記憶に定着させられるかが今後の課題だが。
私は人から「橋本さんって本当に変わった人ですね」と言われるのが好きだ。そのために生きているといってもいいくらい快感だ。だから学生や後輩を褒めるのにも「君は変わってるねえ」とか「お前は変人だからなあ」という言葉遣いをする。私としては最上級の賛辞のつもりなのだが、ときどき真意が伝わらず、困った顔をされてしまうことがある。みんなもっと変わっていることに自信を持てばいいのに、と思う。
自他共に認める変人指向の人は、この本をすぐ読むべきだと思う(そうではない人は読まない方が良い)。変わり者であることに自信のない人は勇気づけられるし、うまくいっていない人はどうすべきかのヒントを学ぶことができる。
世の中のマジョリティはいかに良い群れに属するかを競っている。高学歴、高収入、良い家柄、「みんなが認めるタグには価値がある」という画一的価値観に染まっているから行列に並ぶ。非属の才能を持つ人間は行列の最後尾に並ぶのではなくて、自分の後ろに行列ができてくれないかなと願う。
漫画家という非属の代表格のような職業で活躍する著者は、自分の人生を振り返り、見つめ直し、変わり者であることの価値を再確認する。その上で異端児ならではの幸福論を話す。熱いメッセージが感動的だ。
「変わり者のいない群れは、多数決と同じでいつも同じ思考・行動をくり返し、環境や時代の変化に対応できず、やがて群れごと淘汰されてしまう。学校や会社などでは、変わり者は「百害あって一利なし」とまで言われてしまうが、皮肉なことに、停滞した群れの未来はたいがいこの手の「迫害されがちな才能」にかかっている。」
この本は前半で非属系の読者にそれでいいのだと自信を持たせ勇気づける。後半ではそうした非属系が世の中と折り合いをつけて才能を開花させるためのアドバイスがある。決して単純な独りよがりを礼賛する本ではない。非属人間にとっては耳が痛い記述も多い。
「人間は自分を認めてくれる人を認めたがるし、謙虚な人を褒める生き物なのだ。」
「...この自意識というやっかいなものは、他人にとっては本当にどうでもよく、うっとうしいものなのだ。ひと言でいえば、非属の才能を持ちながらみんなとうまくやっている人は、この自意識のコントロールのうまい人間である。」
という非属が陥りがちな傾向に対する警句がある。一番心に響いたのはこれである。
「僕が出会った非属の人たちの多くは、自分の世界を大切にしているだけでなく、その自らの世界をエンタテイメントとして相手に提供する術を知っていた。自分のなかにある非属をみんなのためにわかりやすく翻訳したり、調理したりすることが、幸福な人生を送るためには必須なのだ。嫌われる変人はここで怠けている。どこにも属さないということは、はじめから受けいれてもらうのが困難なところにいるということであり、それなりの努力はつきものなのだ。」
結局のところ、異端で変人でオタクでも、話が面白ければいいのである。世の中にわかってもらえる価値を作り出せれば、そのユニークさゆえに価値が倍増して見えるのである。幸せな孤独者として生きるには、群れずにつながれ、という著者のメッセージに深く感銘した。













