Books-Educationの最近のブログ記事

・心のきれはし―教育されちまった悲しみに魂が泣いている
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絵本作家の教育論。五味太郎の大人問題も良かったが、これもユニークな視点で教育のあり方を根本から変えようとしていて面白い。名作「はれときどきぶた」の児童文学作家 矢玉四郎が書いた教育論。

著者は子供のことを「子ども」と書く表記法を改めよと強く訴えている人である。教科書では小学校5年生までは「子ども」と書かれている。子という字は1年生で習うが、供は6年生まで習わないからである。だが一時的にせよ「子ども」「れん習」のような日本語の慣行にない醜悪な交ぜ書きを使うのは間違っている、日本語への冒涜だという。そういう欺瞞が大嫌いな人なのだ。(子ども表記問題には論点が複数ある。)。ストレートに本質に迫る物言いが爽快。

代表作のはれぶたと続編は私も大人になってから出会って以来、大ファンである。


・はれときどきぶた
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1980年に出版以来、子供に圧倒的に支持されて130万部のベストセラー。はれぶたシリーズ一作目。日記に書いたことが翌日、現実になる。主人公の日記はどんどんありえない内容にエスカレートしていく。明日の天気は「はれときどきぶた」と書いたら本当に天から豚が降ってきた。

はれときときぶたの後書きには「多くの人がまちがっていて、ひとりだけ正しかったということもよくあることだ。だから自分の感じたこと、考えたことはちゃんといえるようにならなくちゃいけない。」とある。

「仮に、創造性を養う授業がはじまったとする。子供は頭が柔らかいから、とんでもない発想をするだろう。肝心なのは、その評価だ。とんでもない発想を、教師が認めてほめるなどとは、とても思えない。結局、生徒は恥をかかされて、黙るのがオチだ。結果、創造性の授業が子供から創造性をうばうことになるのは目に見えている。 創造性というのは、現在あるものを否定する毒物だということがわかっていない。」

創造性を危険な毒物だと看破する部分に感動した。イノベーションは古い枠組みの破壊を伴う。飼い慣らされていない発想が必要なのである。敷かれたレールの上を走っていてはたどりつけない。だから登校拒否である!。

「日本の学校は、小賢しい人間を製造する工場となりはてた。世界が求める大愚大賢は育ちようがない。大愚とはたいへんなばかで大賢はとてもえらいということだ。「大賢は大愚に似たり」と、昔の人はいった。 登校拒否は大賢大愚のはじまりであり、子供が自分をつくりあげるための第一歩だ。この世にきて六年目に、教育工場のベルトコンベアーにのせられた子供は、成人するまで、むち打たれながら、品質向上の道筋をたどらされる。 登校拒否は自分の意志でベルトコンベアーをおりることである。行きたくないから行かない。こんなわかりやすく人間らしい行動があるか。」

個人的な教育改革者といえる全国何十万人の登校拒否経験者たちが、日本の未来を変えるだろうという。著者は終始、学校教育への痛烈な批判とそれから外れたものたちの可能性を熱く論じる。

「いちばん過酷な状況を生きた者こそが、子供になにを教育するかを述べるべきなのだ。」

この発想だけでは駄目だがこの発想がなくては駄目。そんな気にさせられる斬新な教育界へのメッセージ集。


・大人問題
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/08/post-798.html
これも絵本作家が語るオルタナティブな教育論として面白かった。

・人はいかに学ぶか―日常的認知の世界
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おもしろいです。これは。

私たちは学校教育で教師から知識を学ぶ。一方で習わないこともたくさんある。日常を生きる上で必要な基本能力を私たちは「教え手なし」で獲得できる。学校に行かなくても生きていく基本能力は自然に備わる。発達心理学と認知科学を専門とする著者は、人間はこれまで一般に考えられてきたよりもずっと有能な学び手なのだという。

現実的必要から学ぶとき人は教師から学ぶのとは異なる強力な学習をする。この本はそうした日常的認知の能力を解明しようとしている。

たとえば英語学習である。日本で英会話学校に通ってもなかなか身につかないものだ。しかしアメリカ社会に単身で放り出されて会話能力が生存に必須の状態になれば、多くの人は自然に短期間で英語を習得してしまうだろう。メキシコの路上で商売をするストリートチルドレンたちは学校に通ったことがないのにおつりや利益率の計算ができる。それは彼等にとって生存に必要な重要事項だからである。

研究から判明した日常的認知による学習の2つの条件が整理されている。

1 その「必要」は、あくまで学び手自身が、自己の現実の問題を処理する上で不可欠だと実感したものであること。

2 「必要」によって作り出された目標と、それを達成する手段として学ぶこととの間に切り離せない関係があること。

勉強の成績が良かったら両親からお小遣いがもらえる、という状況はこの条件にあてはまらない。お小遣いをもらえる条件は他にもあるから「切り離せない」関係といえないし、「不可欠」でもない。生きていく上で切実に必須となったとき、教室とは異なる学習原理が発動するのだ。

二つの学習では獲得する能力の性質も異なっている。

「教室での学習場面のように、問題が解けないときに、まわりの人々の助けをあてにすることができず、しかも、もしも直接に助けを求めれば、「カンニング」という汚名をきせられてしまうのとは異なり、日常生活では、いつでもほかの人たちに頼ることができる。」

学校で学んで何かができるというのはアカペラで歌を歌えるようになることに似ている。日常的認知による能力は、文化的支援というBGMの上で歌うという意味でカラオケに似ている。人間は常識を働かせたり、人に聞いたり、空気を読んだりする。日常の強力な文脈を援助やヒントに使って、目的を達成する力があるのだ。必ずしも学校に行かなくても立派に何事かを達成できるようになる理由である。

「仲間同士のやりとりが知的好奇心を高め、より深く理解するのを助けるのだ、といっておよい。前節の三宅の実験と同様、人々が有能な学び手であるためには、他者の存在が必要なこと、その他者とは、関心を共有するが視点の異なる人がよく、必ずしも知識のより豊富な人であるには及ばないことが注目される」。

日常の学習では専門科学のように原理原則からの深い対象理解は不可能という見方もある。英会話やお金の計算ができるようになっても浅い理解にとどまって、言語学者や数学者にはなれないのではないかという考え方だ。しかし、個人にとってそれが重要な分野で、既有知識を持つ場合には、知的好奇心が働いて深い理解が容易になることもわかってきたらしい。内発的動機の学び手の学習効果は極めて高くなるからだ。

どうしたら日常的認知を学校教育や企業研修などの教育現場に取り入れることができるだろうか。著者は、指導者は教育的創造力を持つことが何より重要だ、と結論している。それは「特定の学習者を対象にして、学び手としての能動性と有能さが発揮され、しかも教育的に意味のある知的所産を生じるような活動を企画したり提案したりする創意工夫」である。

「教え手なし」の学習が成功するように導く教え手になれということか。教育や教師のあるべき役割について、新しい見方を与えてくれる名著だと思う。データやまとめが参考になった。

絶対音感

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・絶対音感
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幼稚園児の息子は音楽が好きそうなので、ヤマハ音楽教室に通わせている。期待しているわけではないのだが、このくらいから始めたら絶対音感がついたりして、なんて思うのは、やはり期待しているのか...。

私からすると「絶対音感」は正直羨ましい能力である。同世代の友人にも絶対音感を持つ人がいた。彼はガラスが割れる音が音階で聞こえると話した。でも、いいことばかりじゃなくて、街で流れるBGMとか音が微妙にずれていることがあって、気持ちが悪くなったりするんですよ、と嘆いている様子がまた、羨ましいのであった(笑)。

「絶対音感」とは何か?。それは音楽的天才の証なのか、何人に一人くらいが持っているのか、何ができるのか、本当に幼少期にしか身につけられないものなのか、その特殊能力の科学的な根拠は?。200人以上の音楽家、脳科学者、心理学者、音楽教育関係者にインタビューし、その神話の正体を明らかにしていくドキュメンタリ。

脳科学的な根拠は発見されていた。同じ周波数で一定の刺激を与え続けると、対応する脳内の回路が強化されて、その周波数に対する感受性が強くなることがわかっている。

「つまり、こういうことだろうか。あらゆる周波数に対して敏感な幼児期に、ある音をその音名という言葉と共に繰り返し聴かされることによって、その音に対応する周波数のカテゴリが固定され、それがドならドといった言葉と共に記憶されているのが絶対音感。いうなれば、ドレミという名のついた階段のような周波数の受け取り皿が脳につくられるようなものだと。」

絶対音感を持つ人間は次のようなことができやすくなるそうだ。

1 ほかの音と比べなくても音名が瞬間的にわかる。
2 調性がはっきりしない曲や、頻繁に転調する曲でも聴きとれる。
3 耳から聴いただけの曲を、弾いたり楽譜に書くことができる。
4 音として覚えるので、暗譜が正確にでき、長持ちする。
5 音楽のルールやセンスを早く身につけられる。
6 音楽に関すること全般が、たやすくできるようになる。

だから、絶対音感を持つ人は、自然に音楽家として成功しやすくなる。絶対音感は天才の証ではないし、創造的な音楽家の必須条件でもないのだが、優れた才能を支える道具としては大きな役割を果たすものである。

世界的に見ると日本は絶対音感の幼児教育が非常に発達していて、絶対音感の能力者を大量生産しているそうだ。絶対音感獲得を売りにする教室の取材からは、幼児教育における親たちの異様な熱気が伝わってくる。この本を読んで気がついたのだが、絶対音感は、持っている人は特別な能力と思っておらず自慢もしないが、もっていない人が、やたらとうらやましがる能力なのだ。

絶対音感の遺伝性は最新の科学では否定されている。天性のものではなくて、後天的に学ぶ学習なのだ。3歳から6歳の時期に集中的な訓練を行わないと身につけることは難しくなる。だから、絶対音感というのはその子に音楽を学ばせたいという「親や教師の明確な意志の刻印」なのだと著者は結論している。

音楽家の道に進むには有利に働くはずの絶対音感だが、意外な落とし穴もあるらしい。日本のピアノのAは440ヘルツだが、カーネギーホールをはじめ世界のコンサートピアノはA=442ヘルツと高めに調律されている。日本のピアノで絶対音感を身につけて世界舞台に出ると違和感を感じるそうである。五嶋みどり親子らの苦悩の体験が語られている。

すべてがドレミ音階に聞こえてしまい歌詞や音色を楽しめない。移調されると気分が悪くなるなど、デメリットも結構あるらしい。。どうやら音楽を気楽に鑑賞するだけの人にとっては、むしろ、ないほうがよい能力のようでもある。

98年初版ベストセラーの文庫化。絶対音感という神話を、実に多方面からのインタビューで解体しており、とても読み応えがある内容だった。音楽教育や学習理論、認知科学に関心のある人に特におすすめ。

・絶対音感トレーニングDS
http://www.success-corp.co.jp/software/ds/onkan/

NintendoDSのソフトで絶対音感の診断と訓練ソフトを発見した。でも訓練しても、私にはもう無理なんですよね。こどもと、すでに持っていて自慢したい大人向け、だそうです。

大人問題

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・大人問題
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絵本作家の五味太郎が大人向けに書いた教育論。

子どもにとって大人は有害だと宣言する。子どもに問題があるのではなくて大人"は"問題であり、大人"が"問題であり、大人"の"問題であるのだ。大人問題の本。かつて大人や学校や大嫌いだった人(私はそうでした)には、拍手喝采の名言集である。

「行きたい方向がなんとなくあると、人生それなりに甘いよ」

「一般論としては、だいたいの親は子どもに「集中力」をつけさせたいと思っているのですが、ファミコンに関しての集中力というものは認めません。」

「子どもって、いつの時代も大人から見ると「ばっかりやってる」ように見えるらしいのです。」

「アニメばっかり見ていると「アニメおたく」と言うけど、それは、アニメの地位が低いからにほかなりません。」

「親はなぜか、わが子が「バランスのいい子になってほしい」と思っています。偏らない子になってほしいと願います。富士山があるからなんでしょうか。」

絵本作家らしく簡潔な短文が並ぶ。読者の中の子どもの部分に強い共感を呼び覚ます。著者は、型にはまった教育を与えていればよしとする大人の思考の怠慢ぶりを徹底的にやり玉に挙げている。親となった今これを読むと、著者に拍手を送りたい気持ちと、すこし後ろめたい部分もある。自分もいつのまにかそういう有害な大人化している部分があるんじゃないかと考えてしまう。

うちの息子も最近はゲームばかりやっている。父親の私がゲーム好きだから遺伝なのだが、彼が黙々と何時間も同じゲームをやっている姿を見ると大丈夫なのかなとやっぱり思ったりする。何かに習熟することと偏ることは表裏一体に思える。

何にせよ、どっぷりはまる体験って重要だなあとも思うわけだ。没入しないと何かをつかんでこれない。結果として一時的に偏るのは仕方ない。息子にはいろいろなものオタクになってほしいなあと思う。いろんな方向に没入してバランスをとってもらいたい。これって大人の考え方なのだろうか。

「この世からもし「いじめ」というものをなくしたいと思うなら、まず今の学校システムをなくせばいいと思っています。つまり、学校にいじめがあるのではなくて、学校という構造がそもそもいじめなのだと思います。」

PTAや教育委員会(飽くまでイメージ)が聞いたら激怒しそうな学校批判もある。でも確かにそうなんだよねと思う。大勢の生徒を十把一絡げで教えざるを得ない学校教育というのは、理想からはほど遠くて、せいぜいが必要悪なのだ。背の順番に並ばせて「前へならえ」で整列させるなんて、今思うと動物の調教みたいである。

五味太郎は物事をシンプルにとらえるのがうまい絵本作家だ。その作家としての目で教育の問題、大人の問題をずばっと言い当てている。自分もすっかり大人になってしまったなぁと反省気味に嘆いている人、ぜひ読んでください。

・私塾のすすめ
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面白かった。

「レールのない時代である現代をサバイバルするには、一生学びつづけることが必要だ。では、自分の志向性に合った学びの場をどこに見つけていったらいいのか? 本書は、志ある若者が集った幕末維新期の「私塾」を手がかりに、人を育て、伸ばしていくにはどうしたらいいのかを徹底討論する。過去の偉大な人への「私淑」を可能にするものとして、「本」の役割をとらえなおし、「ブログ空間」を、時空を超えて集うことのできる現代の私塾と位置づける。ウェブ技術を駆使した、数万人が共に学べる近未来の私塾にも言及し、新しい学びの可能性を提示する。 」

尊敬する人物を人生の師匠として設定するのが好きであると同時に、情報発信の結果として自身も塾長的な存在になってしまうという点でも「私塾体質」という点が共通する二人のダイアログ。

共通点が多い二人だが、読者とのつきあい方の部分で意見が大きく分かれて、二人の心理構造の違いが明確になった。有名ブロガーである梅田氏は丁寧にウェブ上の読者のコメントを読み、ときに反論する。一方の齋藤氏はフィードバックに対して積極的ではない。


梅田 本に対する反応、たとえば読者はがきなども読まないですか?

齋藤 はがきは読みます。ただし、編集部に、あらかじめ、悪意のある批判などが書かれたものはカットしておいてくださいと言ってあります。ブログだとそうした声が満載でしょう。

梅田 ブログだと、誰かがすすめていたからと、リンクをたどってやってきた人が見ます。だから、「あなたに向けて書いたんじゃない」という人も反応してきます。「出会い頭の言いがかり」に遭ったりする(笑)。そこが面白い。その面白さにはまっています。」

齋藤氏は批判に対して、とても敏感で怖がりだ。一方、ネットで耐性を持っている梅田氏は余裕がある。こんなコメントもしている。

「梅田 こちらは、ある程度名前も知られていて自分の名前で仕事をしている人間だけど、そこにコメントしてくる人というのは、まだ何ものにもなれていない一人の人である可能性が高いでしょう。僕がその人に対して、非常に強く戦いを挑んだら、勝つかもしれないけど、相手は本当にダメージを受けてしまうかもしれない。だからそれは絶対にしません。」

しかし、次々に同時代的にウケる本を生み出してきた齋藤氏が、読者の反応を無視しているとは思えない。そうではなくて、齋藤氏の心の中には、とても厳しいバーチャル読者が無数に住んでいるように思える。怖がるのは強く意識していることの裏返しである。だから、現実の批判的コメントを読むまでもなく、フィードバックを自己完結できるのじゃないかと思った。

二人とも「不遇の20代」を告白している。そのまだ固まっていない時期に、ある種世間からイジめられたことで、批判に対する敏感な感性が養われたのだろう。そして、そのルサンチマンを社会に向けた創造性に昇華した。新しい話のようでいながら、実はかなり普遍的な人生論だ。

二人がこの本で追求しているのは、自分が成長できるフィードバック環境をいかにつくるか、現代において何を励みやプレッシャーにして生きていくべきか、である。それを二人が自身の成功体験ベースで語っている。

生き方を考える上で非常に勉強になった。20代の人に強くおすすめ。

・独学でよかった―読書と私の人生
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映画評論を中心に文筆活動で数々の受賞歴を持ち、日本映画学校校長の佐藤忠男氏の自伝。著者は、工業高校定時制卒で、少年飛行兵、国鉄職員、電話機の修理工事人などの職を経ながら、独学で映画評論家としての道を切り拓いた。自信に満ちていながら、優しさもそなえる、風格のある独白がとても魅力的。いい先生だなと思う。

評論家になりたかった著者は働きながら文章を書き雑誌への投稿を続けた。アマチュア工員が書く映画評論という物珍しさもあってプロ編集者たちの目に留まるが、会社を辞めてプロになりますと言ったら、「アマチュアだったから面白かったのに」なんて言われる。それでもめげずに猛烈な読書をして知識を蓄え、自分流のテーマと作風を洗練させ、独立独歩で世界にその力を認めさせる。

アマチュア、フリーの著者に対して、冷たいプロの世界にそのときそのときで言い返したいことがいっぱいあったようだが、自分が尊敬するプロへの敬意は忘れなかった。「読書は好きな本を読むのが基本だが、少し背伸びして、自分が尊敬したいと思う人にあやかるようにすると着実に視野が開ける。」。関心の幅、知識の深さをそうやって広げることで、ユニークな切り口の映画評論スタイルを確立していった。

「人々の知識がそれぞれの職業の専門分化に応じてその専門のごく狭い範囲に閉ざされる傾向がある今日、たとえ浅く薄くでも、それほど広い範囲の知識を求めつづけなければならない立場というのは有難いものだと言うべきではないだろうか。あらゆる部門に深い知識を持つそれぞれの専門家がいるとしても、それらの全体を大雑把に見渡せる広い知識を持つ者も社会には必要なのではないか。そんな立場をあまり意味のない雑学として卑下しないで、そこに積極的な意味を見出して行っていいのではないか。そう思ったのである。」

著者は興味の幅を、レスペクトの感情を軸にどんどん広げていった。オープンマインドな独学だから、内にこもって自滅しなかったのだと思う。他人が見ない分野に積極的に関心を持って追究する。広範な知識の網を張って、独自の視点をいつでも繰り出せるようにする。それが著者の独学人生の戦略だったようだ。

これは自伝であると同時に書評エッセイ集にもなっていて、影響を受けた本を多数紹介している。本の内容に絡めながら、豊富な知識のつながりを使って、自論の展開へと自然に導くのがうまい。

「面白い本とは面白い考えを引き出す本」という本の選び方に独学の秘訣を感じた。面白い考えが連鎖して、面白さが加速していくことで、やがて異彩を放つ。それが独学の醍醐味なのだと思う。

著者は独学の危険性を十分に認識しており、大学教育や専門家の世界を決して否定しない。むしろ使えるならば有効に活用したらいいとアドバイスしている。あらゆる機会を利用して、自分流で一流になれということだ。

巻末に付録の「独学派にすすめる99冊」がついている。古典を中心に幅広い分野の名著のリストがあげられている。何冊か書店に注文した。

若き数学者への手紙

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・若き数学者への手紙
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偉大な数学者が、数学に興味を持った親友の娘「メグ」にあてて書いた21通の手紙。メグは一通目では高校生だが、数学者のアドバイスに従い、数学を専攻して大学、大学院へ進み、研究者となり、21通目では教授の終身職に就く。数学者で科学読み物の名手イアン・スチュアートいよるフィクション。

数学の世界の面白さ、広がりと深さ、才能の磨き方、数学者という職業について、研究者や教授としてうまくやっていくには、など、数学を専門とする人生への総合的な指南書。数学者の半生の疑似体験ができる。

数学の普遍性についての哲学語りが勉強になる。

「人間の数学は人間が自覚しているよりずっと密接に、人間固有の生理学や、経験や、心理的な思考に結びついている。あくまで局地的なものであって、普遍的ではないんだ。幾何学で扱う点や線は、物の形に関する理論の、ごく自然な基盤に見えるかもしれない。しかし点や線は、人間の視覚システムがこの世界を分析するときの端にでもある。異星人の頭脳は、形ではなく、匂いや、引き起こされる困惑の度合いなどを基本に世界を知覚するのかもしれない。それに、1,2,3といった離散数は、わたしたちには普遍的に感じられるとしても、元をたどれば、たとえば羊のように似たものを集めてそれを財産と考える人間の傾向から生まれたものなんだ。」

私達は恐らく手指がたまたま10本あるから、10進数を使っている。12本だったら12進数を一般的に使っていたのだろう。高次元や量子論などのプロの数学者が取り組む高度な問題は、想像力で人間固有の数学から一旦離陸しないと理解できない。

「微分方程式にしろ時計にしろ、これらは道具であって、答ではない。これらの道具は、もともとの問題をより一般的な状況に埋め込んで、物事の流れを理解するためのより一般的な方法を導き出すことによって、機能している。こうして一般化されたことによって、これらの道具が別の場面でも使える可能性は高くなる。だから、理屈に合わないほど有効に見えるんだ。」

数学だけでなく、多くの学問に共通しそうな、教育のコツが次のように語られている。

「数学は(概念的な意味で)手順を物に変えて進んできた。たとえば「数」は、物を数える手順から始まった。片手の指を(親指も含めて)折っていくと、「一、二、三、四、五」となって五という数に到達する。しかし、そこからさらに先に進むには、ある時点で数えるのをやめて、五それ自体を物と考えなくてはならない。」

「トールは、このような手順(プロセス)を伴った概念(コンセプト)のことを「プロセプト」と呼んでいる。プロセプトというのは、場合によっては手順と見られるし、場合によっては概念、つまり物としても見ることができる便利な物だ。この二つの観点を楽々と切り替えるのが、数学のコツなんだ。」

あらゆる知識は答えではなく、道具なのだと知るということが、数学に限らず、多くの学習の極意なのかもしれないと思った。


・数学と論理をめぐる不思議な冒険
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004631.html

・なぜ数学が「得意な人」と「苦手な人」がいるのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003518.html

・数学的思考法―説明力を鍛えるヒント
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003395.html

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自己プレゼンの文章術

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・自己プレゼンの文章術
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ベテラン広告マンが書いた就職のための自己プレゼンの書き方の本。

「学生の作文によく出てくるの語の一つは「思う」である。これを安易に使って、文章の底を浅くしてしまっている作文は少なくない。<中略>「客観的事実や当然の帰結に「思う」をつける必要はないし、意見・考え・趣味が分かれそうな事柄を「思う」の一語で片づけるのには問題がある。「思う」だけで思考がストップしてしまうのだ。」

これは私も文章を書きながら悩むテーマだ。

1 「思う」は本当に難しい
2 「思う」は本当に難しい、と思う。

上のようにふたつ書き方があってどちらにするか迷うことが多い。「かもしれない」や「であろう」も同じようにつけるべきかどうか迷う。

考えてみれば、執筆者が神様でもない限り、すべての文末に「と私は思う」はついていておかしくないのである。逆にすべて削ってしまっても意味は通る。だから、「思う」をつけるかどうかは、どんな印象を読み手に与えたいかの戦術を考えた上で、攻めでつける「思う」だけを残すのが正しいのだろうなあ、と思った。守りの「思う」は要らないのだ。
著者と同じように、私も年に何度か学生の作文を大量に読む。一度に100本近く読む。文法が間違っているような文章は少ない。書く前の整理ができておらず、字数を埋めるための引き伸ばし戦術に出て、冗長になる失敗例がとても多い。「思う」はその代表例だ。

最初の1行に言いたいことを印象に残る形で書いてある作文は、いいものが多い。

実際に私が読んだ作文の例だと、冒頭で「私は音楽なんて大嫌いだ。」と書いて改行したものがあった。何が先に書いてあるのだろうと思う。そして本文が終わって最後の一行も「だから、私は音楽なんて大嫌いだ」で終えていた。形としてうまいと思った。読み手を意識していることが感じられる。肝心の本文はまずまずだったのだが、印象に残ったので高得点をつけた。

この本にはたくさんの文章指導がある。文例と改作案がわかりやすい。具体的、簡潔に書きなさいというアドバイスが繰り返されている。執筆と同時に編集を意識することが肝だと思う。

ひとつ私もいい方法論を考えた。

自己プレゼンを書く人は、短時間に100本の作文を読む採点者の心理を意識すべきだと思う。その作業を一度体験してみるのが、文章を練習するよりも効果的な訓練になるかもしれないと思う。友人・知人の長文の自己プレゼン(Mixiの自己紹介文でもよさそう)を100本集めて印刷し、1本あたり3分で300分間、エクセルでも使って評点とコメントをつけてみるというのはどうだろうか。

やってみると最初の10本は楽しくても、次第に面倒くさい、と思うはずである。職業意識に燃える採点者だって多かれ少なかれそう思っているのだ。目に飛び込んでくる文章とは何かがわかってくるはずである。それを真似すれば、100本を書くよりもてっとり早く自己プレゼンの文章術を身につけられるのではないか、と私は思う。

考えあう技術

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・考えあう技術
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教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと」であると著者らは定義する。そしてそのふさわしさとは、働いて食べていけるために必要な「技能や知識」、そして「他者との関係能力」を持つことである、という。

だが、現代社会における、ふさわしさを理念化して共有しようとすると難しい。これは二人の教育者が、教育の理想を議論する本である。まず「自由」や「平等」、「市民社会」という現代の「自由な社会」を形作る基本理念がある。個々人の自由と、社会の一員になること、は対立する印象さえある。

かつての「優秀な労働力をつくる」調教としての教育は時代遅れになった。豊かな消費社会の中で「他者を傷つけない限り、自分の快楽と欲望を追求してよい」という考え方が支持されてきた。個人は社会にどう関わっていくべきかという視点が希薄になった。そして「自分を見つめる」心理主義、「個々人の心がけをどうよくするか」徳目主義が、教育理念として偏重されている。

個性的であると同時に社会的であるというのは、こういうことなのではないか?学校教育はこうあるべきだ、という方向へ、二人の議論はまっすぐ向かっていく。前半の、著者の二人の対談の中で「結社の自由」というキーワードがでてくる。これが自由な市民社会と学校教育を結びつける。


刈谷 今まで、コミュニケーション能力とか調整能力というときは、すでに集団が存在していて、そのなかでの協調性が言われた。でも今、西さんが言った結社の自由とか新しい集団とかグループを立ち上げたり、つくりあげていく能力というのは自由の基盤になる。それは今まで言われている共同性とか協調性とかとは別の能力ですね。

互いに合意をつくりあげルール化し、それを改変していく能力は、現在の日本の教育に欠けている視点だと指摘している。


西 そう、それはきわめて本質的な問題ですね。結社の自由があっていろんなゲームが多種多様に存在しうるのも、民主政体によってはじめて確保されるわけだから。経済主体のゲームだけではなく、趣味のサークルのような文化のゲームや、ボランティア活動やNPOに至るまでのさまざまなゲームが花開くのが近代の理想だとすれば、それを根っこで支えているのは、まさに民主主義という「降りてはいけないゲーム」。だとすれば、この降りてはいけないゲームを上手に営むことのできるプレイヤーをどうやってつくるかは、教育の根幹といってもいい。

「降りてはいけないゲーム」を次世代にどう教えるか。自分中心で生きていいというだけでは、このメタシステムは継承できない。ゲームのルールの維持や変更の権利を持ちつつ、主体的にプレイヤーとしてゲームに参加していく人間をつくるには?。その方法論として「選び直しの追体験」のすすめがある。


次の世代にもう一度選んでほしいと思う、そういう私たち人類が蓄積してきたさまざまな成果を、選びなおしというきっかけを介在させて伝える。すでにあるものをそのまま伝えるのではなく、もう一度、追体験する、選び直す、ということを学校の場でやってみるのだ。

日本社会にとっての民主主義というゲームシステムの選び直しということでもある。

この本を読んでいて、「ゲーム」という言葉からの連想で、「オンラインゲーム」って似た部分があるよなと考えた。うまく運営されているゲームには、参加するプレイヤーたちの主体的な決定によって、民主的なルールができあがっている。皆がゲームを気持ちよく楽しむために、何が荒らし行為や詐欺行為にあたるか、何が好ましいか、といったルールが、ゲームシステムとは別にコミュニティ運営のシステムとして、決まっていく。

プレイヤー間には、ゲーム内の職業の違いや、成長レベルの差、ゲームを遊べる時間の差、反射神経や会話能力などの差、保有資産の差など、リアル社会と同じような個性や能力の差が存在している。うまく運営されているパーティは、そうした違いがあっても、皆が楽しめるようなローカルルールが運用されている。本当はリアルな教育の場にこそ、そうした個性と社会性のバランスを学ぶゲームが必要なのではないかと思った。

個性とは何か?、わかるとできるの違いは?、学校は何をすべきか?などの各論も深い内容が多く勉強になった。知識や技能を与えるだけでなく、この本の形式のように、個人や社会はどうあるべきかを、考えあう教育が必要なのである。

・世界初 地図記憶法―あなたも記憶の天才!
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この記憶法はとても簡単で誰でもできる。

円の中に十字を書く。その中心になる地名を決めたら、その上下左右、斜めの線上に、対応する地名を書く。複雑な地図でも、こうすることで、簡単化できる。作図することで記憶にもよく定着する、というもの。

確かに、曖昧だった関西地方の地理や、アジアの国々の配置が数分で記憶できた。読むだけでは弱いが、実際に作図してみると、ほとんどの人はできるようになるのではないか。歴史を勉強したい人や、地域を回る営業マン、国際関係の教養強化(場所を知っているだけでもだいぶ違う)に役立つ。2,3個覚えれば本代の元はとれるだろう。

この記憶法あまりに単純なので、やり方を解説する本文は全体の1割もない。残りのページは日本や世界のさまざまな作図練習問題である。最後にわかりやすい地図の書き方指導もついている。

著者はさまざまな記憶法を開発しているらしい。サイトもあった。

・つがわ式 世界一速い英文記憶法
http://blog.livedoor.jp/tsugawashiki/

私は方向音痴で地図を読むのが苦手だったので、この本は良かった。

ところで地図記憶で驚かされるのはこどもの柔軟な記憶力である。我が家の息子(2歳)は、毎日地図パズルで遊んでいる。日本地図を卒業し、最近では世界地図に熱心である。彼はプラスチック製で、地域別に色分けされた、くもんの地図パズルシリーズが大好き。

・くもんの世界地図パズル
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・くもんのNEW日本地図パズル
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まだ世界地図はピース数が多いので、完成させるには親が呼び出される。年中、つきあわされるおかげで私もだいぶ覚えてきた。だが、こどもの記憶力はうらやましい。おとなの私の場合は、最初に大きなピースや縁のピースを置いて、残りを埋めていく戦略をとる。
だが、こどもは違った。アフリカの小国や、東欧の似たような国のピースを、最初におくことができるのである。国名は全部はじめてなわけだから、一般になじみのある、ない、は関係ない。アンゴラだろうがリトアニアだろうが、いきなりピースの形状と場所を覚えてしまうらしい。

世界地図では、アジア、北アメリカ、南アメリカ、オセアニアは、彼ひとりで完成できるようになった。いまはヨーロッパ8割、アフリカ7割くらい覚えているようで、全部単独完成も近そうだ。

実は、彼を手伝う親の私は完成版の印刷物をカンニングしている。このままいくと、こどもに地理感覚で確実に抜かれてしまうので、地図記憶法の本など読んでいるわけである。

・企業倫理とは何か 石田梅岩に学ぶCSRの精神
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続出する企業の不祥事の中で、CSR=企業の社会的責任やコンプライアンス=法令順守という言葉が注目されている。

EUホワイトペーパーにおけるCSRの定義は以下の通り。


持続可能なビジネスの成功のためには、社会的責任ある行動が必要であるという認識を、企業が深め、事業活動やステーク・ホルダー(利害関係者)との相互関係に、社会、環境問題を自主的に取り入れる企業姿勢である。

ここで大切なのが自発性だと著者は述べている。企業の社会的責任は、法律で規制されているからだとか、守らないと企業イメージが悪くなって業績に響くから、などという受身の姿勢で果たす責任ではない。社会的責任を果たすために企業があると考えるべきなのだ。「ハンドブックを読んで気をつけましょう」という種類の問題ではなく、それはトップ経営者の自覚と倫理観にまでさかのぼるものであるはずだ。

この本は、江戸時代のアマチュア学者 石田梅岩の商人道の思想から、現代の企業経営の在り方を問い直す。石田梅岩とその門弟の著書を現代語訳して、著者が平易な解説をつけている。原文は問答形式だから考えながら読みやすい。

石田梅岩の教えは、倹約や誠実さが大切だとする。長い眼で見るとそうした企業が繁栄し、世の中全体が良くなるというもの。当時の商人に人気があったのは、企業は正しいやり方でどんどん儲けて社会にそれを還元していきなさいという利益の正当性をうたっていたからである。何のための金儲けかという問いに明確な答えを出し、上位階級の武士に対して、商人にプライドをもたせる道であった。

資本の論理と倫理のバランスをどうとるか。江戸時代に既に考え抜いた学者がいた。とてもシンプルでわかりやすい。会社は誰のものか、経営者はどうあるべきか、のそもそも論を根底から考えてみたい人におすすめ。

・会社は誰のものか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003567.html

・お金に「正しさ」はあるのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003807.html

・ハーバードからの贈り物
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味わい深い本。

ハーバード大学ビジネススクールでは、最終講義で教授が、これから世界に羽ばたく卒業生に向けて、特別な送る言葉を話す伝統があるそうだ。この本はその特別なメッセージだけを15人分、エッセイとして文章化し収録している。

・ビジネスの成功に必要なものはなにか?

・どういう生き方をすべきか?

・人生の岐路にたったときどう決断すべきか?

贈る言葉はどれも想いが込められていて感動的。

登山の遭難体験で知った本当に大切なものについて語る教授。貧しかったけれども誰よりも尊敬できる生き方をした自分の母親について語る教授。高い地位につくとはどういうことか戒めを語る教授。

企業会計の選択授業でハーバード1,2の人気を争うヘンリー・B・ライリング教授は、ビジネスで成功する能力として5つを挙げた。

1 失望から立ち直る能力
2 運に恵まれていることを知ること
3 リーダーシップの資質
4 公正さ
5 判断力

感動的なエピソードでなぜそれが必要なのかを語る。ぐっときた。

この本を読むと「初心」に戻らされる。背筋をピンと伸ばしたくなる。目頭が熱くなる話もある。

私はハーバードと関係ないわけだけれども、こうした贈り物をもらったことがある。高校を1年で中退したときのこと。一番私に良くしてくれた英語教師のF先生が退学した私に一枚の葉書を送ってくれた。

そこに書いてあったことば。

「人生我以外皆師也」

葉書を頂いたときには、意味がよく分からなかった。でも、齢を重ねるごとに先生は私のことを本当によくわかってくださっていたのだなと思うようになった。私のゴーイングマイウェイな性格に対して「オマエ、人の話をよく聞けよ」ということであり、退学した学生に対して「どんな環境でも学ぼうと思えば学べるぞ」という、見事に適切な、送る言葉だったのだと大人になってから気がついた。

昔話のように書いてしまったけれど、

今は人の話をよく聞けるようになったのか?

自問自答してみると、さあ、よく分からない。分からないけれど、高校生だった私には「尊敬する人」がいなかった。でも今は何人かいる。その違いは大きいと感じる。

偶然にも上述のヘンリー・B・ライリング教授は「賢者は経験から学ぶが、真の賢者は他人の経験から学ぶ」とも書いている。これからの人に贈る言葉の定番なのかもしれない。そして、この本には価値ある「他人の経験」のエッセンスが集約されている。

・アメリカ 最強のエリート教育
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■少数エリートの米国、まだまだ横並びの日本

日本経済新聞が発表した2004年3月期の日米上場企業報酬調査が紹介されていた。結果は「主要百社の従業員の平均給与は年間で八00万円、役員報酬はその4倍。米有力企業の経営トップの報酬は平均で九億円とされている」であるとのこと。だいたい日本の一般労働者と大企業社長の給与格差は20倍程度であるのに対して、アメリカでは200倍以上の格差になるという。

米国でのこの大きな収入格差は人生の早い時期にだいたい決まってしまうという。

それには、

・名門の家柄出身である
・私立のプレップスクールに通う
・アイビーリーグなど一流大学を卒業する
・トップクラスの専門職大学院を卒業する

といったことが強い条件となる。

米国というと自由競争、能力主義の国という印象が強いが、エリート中のエリートについては、実態は必ずしもそうなっていないようだ。年間2万ドル、3万ドルの私立校の学費を支払える家庭から、生え抜きのエリートが登場している。

アメリカの公立中学、高校は学区制であるが、教育レベルの差は地域によって歴然とした差があるらしい。これは学校運営の財源が学校区の固定資産税でまかなわれるためで、裕福層の住む学区は財源が豊かで質の高い教育が提供される。これに対して低所得者層の多い地域では日常的にドラッグや学校内犯罪が蔓延しているとのこと。

頂点と底辺の格差が早い段階で決まってしまうため、一部の極めて優秀な例外を除いて、ふたつのグループが競うことはない。これに対して日本では、特に高度成長期には大学を出ていると大抵は課長に昇進できだし、50代くらいまでは誰が部長や役員になるかが完全には分からず、出世競争が長く続くということが指摘される。

米国人のいう平等は「機会平等」でチャンスは誰にでもあることを意味するが、日本人にとっては「結果平等」であるという違いがある。だが、結果の格差の大きさを見ると、米国の機会平等はかなり過酷なものであることがうかがえる。

■アイビーリーグ、ザ・テン・スクールズ、専門職大学院

「アイビーリーグ」という言葉はよく聞くが具体的には以下の8大学を指している。この本には私立の名門高校「ザ・テン・スクールズ」もリストが掲載されていた。

アイビーリーグ
 ・ハーバード大学
 ・イエール大学
 ・ペンシルバニア大学
 ・コロンビア大学
 ・プリンストン大学
 ・ブラウン大学
 ・ダートマス大学
 ・コーネル大学

ザ・テン・スクールズ(7,8割は寄宿舎生活)

 ・チョート・ローズマリー・ホール
 ・ディアフィールド・アカデミー
 ・ヒル・スクール
 ・ホッチキス・スクール
 ・ローレンスビル・スクール
 ・ルーミス・シャフィー・スクール
 ・フィリップ・アンドーバー・アカデミー
 ・フィリップス・エグゼクター・アカデミー
 ・セント・ポールズ・スクール
 ・タフト・スクール

これにビジネススクール、ロースクール、メディカルスクールの専門職大学院のトップクラス数校が、エリート養成装置として機能しているという。

この超エリート層には、自分たちが社会の各分野をリードしなければならないという責任感と、ノーブレスオブリージュ(高い地位や身分に伴う義務を果たす意識)という価値観を持ち、決して威張らず謙虚に振る舞い、社会に貢献する活動に情熱的に取り組む人たちも多いという。

この本で著者はエリート層との華麗なつきあいを次々にと披露して実体験に基づく話をたくさん提示している。関係があるが故に、米国の最強エリート層は抜群に頭がよくて、人柄も優れている、非の打ち所がないと、美化しすぎな部分を感じるが、日米の寄付金の比較や、トップ大学のノーベル賞受賞者の在籍率などを見ると、確かにそうした面はあるのかもしれないと思った。日本のエリートというのは高い地位を約束した社会に対して、責任を果たしていない。

ただ、日本の場合、米国のような本物のエリートが誰なのか分かりにくいという面がありそうだ。名門高校と東京大学くらいは、ああ、エリートだなと分かるわけだが、決定打ではないし、米国ほどのバリエーションもない気がする。また、日本の場合、エリートは官僚や大企業の幹部候補になるわけだが、トップに到達するまでにはかなり長い時間がかかる。組織の頂点として目立つ期間が短いせいか、あまり目立っていないイメージだ。

この本は米国のエリートが受けている教育について、ちょっとミーハー視点で総括する。著者の思い入れが偏っているような気もするが、情報としては結構、面白い本だ。米国人が自己紹介したときに、ちゃんと反応してあげるべき?キーワードが参考になった。

潰れる大学、潰れない大学
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2002年の出版なので最新の状況はないが、現在の大学改革の動きを整理するのに役立つ本。考えたことを、メモ的に書いて書評。


18歳人口は1992年度の250万人をピークに減少をたどり、2001年度は約150万人。2009年度には志願者数と入学者数がともに約70万人となり、数字上は全員が入学できる「全入時代」がくるとされる

■新規の大学設立

先月、神戸に行った際に、神戸電子専門学校の教員の方と一晩語ることができた。神戸電子は地元密着の専門学校なのだそうだが、来年度に「オープンソースの大学を作るんですよ」と言われてびっくりする。ApacheやSendmailなどのオープンソース技術の運用と研究に特化した大学なのだそうだ。

・オープンソースの大学 神戸情報大学院大学
http://www.kobedenshi.ac.jp/kic/

規制緩和に伴う、新しい大学というとデジタルハリウッドの株式会社立の大学院と来年度開講予定の4年生大学や、法律学校のLECの大学院などが話題になっている。これに続いて、このオープンソース大学や、大前健一のビジネスブレークスルー大学の開校が申請されているようだ。

新司法試験・法科大学院・試験の合格を目指す:LEC法科大学院サイト
http://www.lec-jp.com/houka/index.shtml

基本は少子化と定員割れによる大学の統廃合が進む中で、こうした新しいタイプの大学が新設されようとしている。

■国立大学の独立行政法人化、TLOと特任教授制度

2004年、国立大学は独立行政法人化された。従来の上から降りてくる予算だけでは大学が経営できなくなった。国立大の代表格、東大の改革というと、CASTIと特任教授制が有名である。

・株式会社東京大学TLO [CASTI]
http://www.casti.co.jp/

CASTIは東京大学の研究を一般企業に移転する、いわゆる産学連携推進のためのTLO機関。大学の研究を特許化し、一般企業へ実用化の提案を行うこと中心に産学連携を推進する。特許をベースにベンチャー企業を設立する。

・米国における産学連携の変遷について
http://www3.jetro.go.jp/ma/tigergate/info/techinfo/pdf/456/456_2.pdf
・「平成15年度大学発ベンチャーに関する基礎調査」結果について−報道発表−経済産業省
http://www.meti.go.jp/kohosys/press/0005172/

・東京大学 先端研 特任教授制度
Our Project and Tokunin Member (in Japanese)
http://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/projects/tokunin_member.html

民間からも就任者の多い特任教授の任期は4年間。将来の待遇は保証されない。研究費は自力で獲得。成功すれば多額の報酬を得られる。

■私大の改革、東の慶応のIT、西の立命館の国際化

私大の世界では、ITに特化した慶応大学藤沢キャンパス(SFC)の取り組みは有名である。これに対して、関西では立命館大学が大分県別府に開校したアジア太平洋大学(APU)が注目されている。この本では二つの取り組みについての当事者への取材が詳しい。

・デジタルキャンパスに見る近未来のコミュニケーション - CNET Japan
http://japan.cnet.com/column/tm/
慶応大学SFCの日常を学生が特派員的に伝える。

立命館は国際化をキーワードにした。全世界の人口比に近くなるように、世界の各国から留学生をスカウトしている。キャンパスは小さな地球になる。

・立命館アジア太平洋大学(APU)
http://www1.apu.ac.jp/apu_jp/home.nsf

・国・地域別学生数(2004年5月1日付)
http://www1.apu.ac.jp/apu_jp/home.nsf
最新の学生の国・地域別出身統計。

■○○卒の価値を高める、皆が認める学歴主義

このテーマはそれほど詳しくないのだが、直感的に、大学改革はこれからが面白そうだと思った。時代錯誤の矛盾が多いからだ。

そもそも従来の近代の大学と産業界の関係には無理があったのだと思う。「大学で専門教育を受けてその知識を将来の仕事で活かす。」がタテマエだと思うが、学生時代はバリバリ研究して論文を書くのが良いという、研究者の道を歩かせながら、いざ就職すると、一部の研究職を除いて、学校での知識が役立たなくなってしまう。卒業後の世界では「アカデミック」は必ずしも良い意味で使われない言葉になってしまう。

この際、一般教養は高校までで終わりにして、大学の学部からは将来のキャリア別に

・ビジネスマン育成の大学
・技術者育成の大学
・一流研究者の育成の大学

など、学部から、専門特化してしまうのが良いと思う。大きな方向性としては現在の大学改革もこの方向性のようだ。

大学単位、学部単位で強いカラーが生まれるのは良いことのような気がしている。これまでは○○大学出身といっても、それで何ができるのか、よく分からなかった。「学歴不問」は良いことだけれども、それじゃあ大学の存在価値と4年間の時間は何なの?という気がする。

奨学金や社会人入試の拡大で、誰でも入れるけれど、よほど勉強して実力をつけなければ出られない大学。知識を持っているっていうのはすごいことなんだなと思わせる人材を輩出する大学。そんな大学ばかりであれば、良い意味での学歴主義があってもいいと考える。

関連:

「大学のイメージ」に関する調査【東京私立大学編/関西私立大学編】
http://www.mdb-net.com/w_report/report08.htmlあの大学のイメージは?

・大学における教育内容等の改革状況について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/03/04032301.htm

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