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女の悲しい性を描かせたら当代一の岩井 志麻子。作家の得意であるに加えて、美女と醜女が代々交互に生まれる因縁の一族という設定が秀逸だ。読み始めると止められない。
明治の終わり、岡山の寒村で一番の分限者の家に育ったシヲは妖艶な美女であったが、村人達から呪われた出自を噂されている。シヲの娘のふみ枝は牛蛙とあだ名される醜女でシヲとは折り合いが悪い。ふみ枝の娘の小夜子は祖母に似て美貌にうまれつき、母より祖母になついた。美醜は当時の女の運命を決めた。
「男を期待させ、焦らし、ひっくり返すのは、なんと楽しいことであるか。母はきっと、一度もこんな気分は味わっていないだろう。そう考えれば、小夜子は母が哀れになる。たっぷりと知っていそうな祖母が、かすかに小憎らしくなる。」
美しい女達は禍々しいほどの魅力で男をひきつけ愛欲に溺れた。淫蕩な性質も共通であり、身体が男なしには生きられなかった。醜く生まれた女達も家の資産を受け継ぐために血筋を絶やすことはなかった。そして小夜子の娘、孫、曾孫が宿業を背負って生まれてくる。すべては一族の祖先に取り憑いた怨念の仕業であった。
シヲの半生が語られる序盤が終わると、そこからは代ごとに章がわけられている。「第一章 シヲ七歳」~「第十二章 シヲ百四歳」という風に、シヲの年齢で物語は仕切られている。あのシヲの時代から今が何年というのを読み手に強く意識させる。そのせいか厚い本ではないのだが、読後に壮大な大河ドラマを読み切った満足感がある。
・赤朽葉家の伝説
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005047.html
宿命の女達の年代記という点で似ている。これに匹敵する傑作。
これは衝撃作。21世紀の世界に究極的な情報技術が登場したらどんな変化を及ぼすかを、寓話的に予言している。といっても、未来のハイテクそのものがテーマではない。原題はAir(or,Have Not Have)"。情報や金を持つ者、持たざる者の関係性がネットワークによってどう変わりうるのかこそ最大のテーマだ。
2020年、中国とチベットの間にある辺境の村で、メイは「ファッション・エキスパート」の仕事をしている。近代化から取り残された村にはネットもテレビもいまだ普及していない。彼女はときどき街を訪問して密かに情報を仕入れる。そして村に戻ると流行に疎い隣人たちを店に案内し、この服が都会で流行っていてあなたに似合うのよ、と指南する。村人が服を買ったら、メイは店側から仲介の手数料を得る。メイが情報を持ち村人は情報をもっていない非対称性から成立する情報ビジネスだ。
村の有力者の家に「テレビ」がやってくる。テレビは街の様子をメイを介さずに村人達に伝えてしまう。だから起業家マインドを持つメイは、仕事のスタイルを状況の変化にあわせていかなければと苦心している。テレビを嫌悪するものもいたが、メイはむしろそれを利用しようと前向きだ。
テレビはネットワークに接続されている。(この作品における「テレビ」は現在のインターネットと同義のようだ)。メイはネットワーク上にお店サイトを持とうと決めた。村の女達の手芸品を街の人たちに売るのだ。メイはテレビを研究する。肝心の情報は有料チャンネルだったりクレジットカードが必要で、お金がない村人達は買うことができないことを知る。村人達は次第に情報格差の問題に気がつき始める。平和だった村に持つ者と持たざる者の対立が緊張感が生まれていく。
そして1年後には全人類の脳を直説的に連結する究極のP2Pネットワーク「エア」がこの村にもやってくることを知らされる。この超インターネットを使えば、世界中の人々が仮想空間で意識を統合し、情報や知識をわけあい、遠隔コラボレーションが可能になる。世界はひとつになるのだ。
市場では二つの規格がデフォルトを競っていた。「ゲイツフォーマット」と「国連フォーマット」。村でベータ版のテストをするためメイは未知の技術に身を任せたが思わぬ大事故に巻き込まれる。事件の渦中でメイは世界に先駆けて「エア」の脅威と可能性を知る一人になる。辺境の村の女性が世界を変えていく大きな物語がそこから始まる。
メイは生まれた辺境の村をほとんど出ない。中心ではなく周縁からの視点にこだわって世界の変革を描いている。世界で起きていること、これから起きるであろうことの物語である。文句なしで面白い5つ星の作品。
英国SF協会賞/アーサー・C・クラーク賞/ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞受賞。
「
「スプリット・タンって知ってる?」
「何?それ。分かれた舌って事?」
「そうそう。蛇とトカゲみたいな舌。人間も、ああいう舌になれるんだよ」
男はおもむろにくわえていたタバコを手に取り、べろっと舌を出した。彼の舌は本当に蛇の舌のように先が二つに割れていた。私がその舌に見とれていると、彼は右の舌だけ器用に持ち上げて、二股の舌の間にタバコをはさんだ。
」
9月20日から蜷川幸雄監督による映画(R15指定)が公開されている。原作は第130回芥川賞(綿矢りさと共に話題になった)、すばる文学賞ダブル受賞作品。芥川賞というと淡々とした短編が多い印象があるのだが、この作品は最初から最後まで官能と暴力の刺激に満ちている。推理ミステリ要素もあったりで難しいことを考えずに楽しめる作品。
スプリットタンを施し、腕には刺青を入れ、髪を赤く染めた恋人のアマ。表情がわからないくらい顔中にピアスをした専門ショップ経営者のシバ、そして、身体改造にあこがれる主人公の女性ルイ。アマの友人シバの手でルイの身体改造が進むのにあわせて、3人の微妙な関係が緊張感を孕んでいく。
身体改造者の生態や心理の描写がリアル。彼らは喪失感を埋め合わせるために、身体改造によって、自己の存在に意味を与えようとする。傷や痛みで生を確認しようとする。世間から排除される印を自らに刻むことで、排除される者という自己のアイデンティティを確保しようとしているように思える。
身体改造の情報はインターネットにもいっぱいある。この種の情報流通はまさにネット向きだったのだろう。身体改造者が書いたブログやコミュニティも多く見つかる。興味を持つ人や、やっている人の数は増えているのかもしれない。
刺青や割礼、纏足や首輪など、人類の長い歴史の中では身体改造はかなり普遍的なものだ。それを施していないと、一人前の成員になれない社会も多くあった。身体改造をやっていない人のほうがヘンだった時代の方が長いくらいだろう。ヘンと普通は逆転したが、排除の現場にギリギリのドラマが生まれる構造も普遍的といえそう。
・BME
http://www.bmezine.com/
Wikipedia「身体改造」から「 - 世界最大級の身体改造サイト。」として紹介されているサイト。あらゆる身体改造について、情報と写真が投稿されている。
映画は予告編だけ見たが原作に忠実につくられていそうでとても期待である。
・映画 蛇にピアス 公式サイト
http://hebi.gyao.jp/
現代アメリカ文学の巨匠コーマック・マッカーシーが描いたSF文学。ニューヨークタイムズのベストセラーリストに30週以上ランクインし170万部のセールスを記録したピュリッツアー賞受賞作品。
世界は終わろうとしている。地上のあらゆるものが焼き尽くされ灰をかぶっている。空は分厚い雲に覆われ、雪を降らす。気温は下がり続けている。植物は枯れ果てた。人類の多くは何年も前に死に絶えたが、生き残ったものたちは飢え、残り少ない食糧を争って、殺し合っている。
「少年はなかなか眠らなかった。しばらくして身体の向きを変え父親を見た。かすかな明かりに照らされた父親は雨で顔に黒い筋がつきまるで古い世界の悲劇役者のようだった。一つ訊いていい?と少年はいった。
ああ。いいよ。
ぼくたち死ぬの?
いつかはな。今はまだだ。
やっぱり南へ行くんだよね。
そうだ。」
父と幼い息子はこの絶望的な状況に出口を求めて、遠い南の海を目指す。荷物を積んだショッピングカートを押しながら、二人は破滅していく世界を歩き続ける。略奪者たちの影に怯えながら、食糧確保と安全な寝場所の確保が課題の日々。父は息子を自分の命に代えても守り通そうと決意する。
ここは極限的な性悪説の世界だ。万人が原初的な闘争状態にある。他者を見たら、奪われる、殺されると思わないと、生きてはいけない。温情は禁物である。他人に何かを与えればそれだけ自分の生きるリソースが目に見えて減るのだ。誰も人を信じることが出来ない。
世界の破滅以降に生まれた息子にとって、父だけが唯一の信じられる人間だ。父は苦難の旅のなかで、かつて存在した世界の様子を教え、息子の心に希望の火を点そうと努力する。
パニックSFの緊張感と文学的な深さを兼ね備えた傑作である。映画化が決定している。映画史に残るような、究極のロードムービーになるかもしれない。
これは今年の読書ベスト3には入るだろう。飛びぬけて面白い。
主人公は江戸時代の街道のような場所を転々と流れていく旅人である。「主の大刀」を大権現様に奉納しにいくという大義名分がある旅なのだけれど、目的達成への道はまったく一筋縄にいかない。ゆく先々でしばしば喧嘩や盗難に巻き込まれたり、女や金の誘惑に負けて長逗留しているうちに、怠惰で無計画が災いして主人公をめぐる状況が破たんする。逃げるように次の場所へ次の場所へと移動していく宿屋めぐりだ。
主人公はある事件で意識が飛んでしまって以来、自分がいる世界は偽の世界だと思っている。主がいらっしゃる世界こそ真の世界であり、自分の本来いるべき世界はここじゃないのだと信じている。だから、なにもかもがうまく行かないのも、これが偽の世界だからであって、本当の俺の実力はこんなもんじゃないんだ、今の俺は仮の姿なんだと心の中で叫んでいる。
主人公がいる世界は辻褄があわないことだらけの異世界だ。超常現象みたいなことが年中起きる。実際そこは異次元なのかもしれない、あるいは、主人公の頭がおかしいのかもしれない。読めば読むほどに何が現実なのかよくわからなくなっていく。同じ町田の大傑作「告白」と同様に主人公のとめどない思考をそのまま文章化している。脈絡のない細部の記述が、例によってパンクなルサンチマン(世の中に対する恨みつらみ)に満ちた町田節炸裂だ。文体の魅力でぐいぐい牽引する。長大な物語も結構すらすらと読み進められる。
物語の構造は複雑で簡単には説明できない。文学部の研究対象になりそうなくらい話は込み入っている。しかし、読み終わってみると、いくつものメッセージが明確に、強烈に伝わってくるのがすごいのだ。いやここはメッセージという言葉よりクオリアという言葉を使ったほうがいいのかもしれない。読者の心の中に言葉にできないものがしっかりと残される。
だから、私のこの本の感想は「なんだかよくわからないがすごくよくわかった。」というものだ。極上の小説にしか達成できないことだと思う。宿屋めぐりとは人生のクオリアを解き放ったアート作品。大傑作、まず読みましょう。
・告白
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/10/post-474.html
・フォトグラフール - 情報考学 Passion For The Future
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/post-745.html
・土間の四十八滝 - 情報考学 Passion For The Future
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/post-733.html
「15歳のぼくは、母親といってもおかしくないほど年上の女性と恋に落ちた。「なにか朗読してよ、坊や!」―ハンナは、なぜかいつも本を朗読して聞かせて欲しいと求める。人知れず逢瀬を重ねる二人。だが、ハンナは突然失踪してしまう。彼女の隠していた秘密とは何か。二人の愛に、終わったはずの戦争が影を落していた。現代ドイツ文学の旗手による、世界中を感動させた大ベストセラー。 」
アメリカでは200万部以上が売れて、映画化が決定している。「タイタニック」のケイト・ウィンスレットがハンナを演じるそうで相当の大作になりそうだ。現在撮影中で2010年に公開予定。今頃読んでおくと、映画の頃には程よく忘却していてちょうどよいかもしれない?。
舞台は第二次世界大戦末期のドイツ。15歳の少年が一回り年上の大人の女性ハンナと恋に落ちる。愛の行為の合間に少年は求められるままに物語を朗読して女に聞かせた。しかし突然女は少年の手の届かない場所へ行ってしまう。戦後、大人になった少年は司法修習生となった。研修で訪れた裁判所で、ナチスの協力者として裁かれる女の姿を偶然に発見する。
かつて愛し合った男女が一度もことばを交わすことなくプラトニックな関係を何十年間も続ける。別の人生を歩んだ二人だが、そこには切ることの出来ない絆があった。その関係性は「恋愛」とか「友情」のような、わかりやすい既成の言葉に収まらないものだ。読者の年齢や経験によって多様な解釈が生まれそうだ。
これは読まないと損なかなりの傑作。新潮の100冊入り。夏の読書におすすめ。
ソ連SFの巨匠ストルガツキー兄弟が原作小説を書きタルコフスキーが映画化した「ストーカー」。大江健三郎が著書の中で何度も言及していたので知り、ずっとその映画が気になっているのだがDVDが品切れで、なかなか見ることができない。数年が経過。
もう先に原作を読んでしまうか、と思って手に取った。
あるとき異星人の「来訪」があった。彼らは人類にまったく接触することなく、痕跡「ゾーン」のみを残して地球を去っていった。「ストーカー」とは危険な「ゾーン」に不法侵入して、異星人たちが残した正体不明の物体の数々を持ち出してくるアウトローな職業の呼び名だ。
彼らがゾーンから運び出す「空き缶」「魔女のジェリー」「うごめく磁石」「黒い飛沫」などと通称される謎の物体は、地球の物質とは異なる性質を持ち、希少価値として闇市場で高く取引される。ゾーンの奥深くには人々の願望を叶える「願望機」があるという噂だ。ゾーンはあらゆる死の危険に満ちた空間だがストーカーたちは高い報酬を求めて侵入を繰り返す。
ロシア語の原題は「路傍のピクニック」。人類に比較して圧倒的に高度な知的生命体は、地球にピクニックにきたけれども、彼らにとって人類の存在は地球にたかっている虫レベルの意味しかなかった。人類がゾーンで漁っているモノは、人類へのメッセージなどではなくて、彼らの行楽で残したゴミの山に過ぎない、という皮肉なテーマなのである。ストーカーは命がけでゴミを漁っていることになる。
設定がハードSFである上にアウトローの主人公の生き様がハードボイルドに描かれるので全体的に超硬派な印象だ。人間の生き様、人生観を描いているのはロシア文学の伝統っぽくもある。文学作品として上質なSF作品。
恒川光太郎の「夜市」「雷の季節の終わりに」につぐ期待の3作目。
3本の短編を収録。
「秋の牢獄」
「これは十一月七日の水曜日の物語だ」。目が覚めると昨日はなかったことになって、再び同じ秋の1日を繰り返してしまう不思議世界の物語。
「神家没落」
日本の各地に神出鬼没する因縁の家に閉じこめられた男が異世界からの脱出方法を探るが...。
「幻は夜に成長する」
念じた相手に思い通りの幻覚を見せる霊狐の力を受け継いでしまった少女の物語。
異界モノでは既存の神話や伝承をベースにする作家が多い中で、恒川光太郎はかなり独創的な異世界モノを追求している。この3本はどれも異次元や超能力がテーマだ。神話や伝承の豊穣なイメージに敢えて頼らず、海外のハードSF作品に通じるような普遍性の物語の方へ向かう作家のように思える。案外、グレッグ・イーガンなどの影響を受けているのだったりして。
大作家になる予感を感じて注目している恒川光太郎、3冊目も期待通りハイレベルな内容だったが、次は小説家としての記念碑的な、決定的な長編を出してほしい。
第一作「夜市」収録の名作「風の古道」は漫画になったようだ。夜市』は円谷エンタテインメントで映画化が決定しているらしい。
・夜市
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004796.html
・雷の季節の終わりに
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/11/post-489.html
「世界の測量」は小説である。ドイツ国内で130週間に渡ってベストセラー(35週は1位)に入り120万部を売り上げ、世界45カ国語に翻訳された。2006年度に「ハリーポッター」や「ダ・ヴィンチ・コード」をおさえて世界で2番目に売れた驚異的セールスの本である。
近代地理学の祖 アレキサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)と、数学の王 カール・フリードリヒ・ガウス(1777-1855)という、二人のドイツが生んだ大天才の、数奇な人生を描いている。
タイトルの「測量」は世界の大きさや自然の仕組みを発見しようとする人間の行為を象徴している。現代の先端科学は未知の世界を測るには巨大な粒子加速器や宇宙船を必要とするようになってしまった。天才といえど発見は一人ではできなくなった。フンボルトとガウスが生きた18世紀中頃から19世紀中頃は、人間が世界を自らの身体と頭脳で測ることができた最後の時代だったのである。
二人の天才の行動パターンは対照的だった。探検家として未踏の世界へ決死の旅に出て測量を続けた行動派のフンボルト。実測データで世界の姿を示そうと冒険旅行に半生を費やした。ガウスもドイツ国内で測量の仕事をしていたが本当の関心は数学や天文学にあった。言葉を話すより前に計算ができたという神童伝説で知られるガウスは計算や思考を重要視していた。引きこもり型であった。
世界を測るアプローチと活動領域は異なる二人だったが厳格にして頑固に真理を探究する姿勢はそっくりだ。そして共にその性格があったが故に、現代自然科学の礎となる大発見の数々を成し遂げた。二人の偉業は世界史における「ドイツ的なもの」の最高到達点だった。(それがこの本がドイツで爆発的に売れた理由ではないだろうか。ドイツでの大ブームは国の歴史的英雄を取り上げたNHK大河ドラマみたいなもの、かもしれない。)
フンボルトの動的な章と静的なガウスの章が交互に配置されている。どちらも天才であるが故に許された自分勝手の奇人変人であり、物語を彩るエピソードにはことかかない。テンポが良くて読みやすい「哲学的冒険小説」。
東京郊外で突然発生した日本脳炎らしき感染症が異常な速度で患者を増やしていく。撲滅されたはずの病の突然の復活に、対応におわれる市の保健センター職員と看護婦らの奮闘を描くパニック小説。
この作品には特効薬を開発する医者だとか、危機一髪でワクチンを届ける救急隊員のような、派手な活躍をするヒーローやヒロインは一人も出てこない。感染防止と原因究明のために力を尽くすのは市役所や病院という大きな組織の末端にいる人々。彼らが戦う相手は病原菌やウィルスではなく、前例がないことには意志決定ができない硬直化した官僚制度であった。篠田節子は八王子市役所に勤務していた体験を活かして、リアルに市と病院の現場の動きを描写している。
現代人が感染症で死ぬ確率というのは、テロや原子爆弾で死ぬ確率よりも遙かに高い。メディアがあまり取り上げないけれど、世界にとって自分にとって最大の脅威のはずだなあと思って興味を持って関連書を読んできた。この作品はこうした本が警告する危機を、説得力たっぷりに描いている。
・感染症―広がり方と防ぎ方
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/01/post-511.html
・感染症は世界史を動かす
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004403.html
・インフルエンザ危機(クライシス)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004247.html
・世界の終焉へのいくつものシナリオ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004729.html
上記の本で少し取り上げられていた学童への予防接種反対論をこの本で詳しく知った。大規模な感染で多数の死者を出すことを考えれば、集団への予防接種は有効な手段のはずなのだ。
しかし生ワクチンによる予防接種は、少量の病原体を身体に入れるという原理上、数万人~数十万人に一人くらいの小さな確率で感染者を出してしまう。市がそれを強制的にまたは無料で実施すれば、市は万が一の自体に対して責任を負わされる。だから、市民各自の費用で任意接種の方が無難ということになってしまう。結果としてパンデミックを防げない状態になってしまう、らしい。この作品の中でも予防接種反対論の壁と主人公達は戦っている。
地味だが極めてリアルなパニックホラー。この病の最盛期は夏なので今が読み頃。
今年は篠田節子をたくさん読んでいる。以下。
・レクイエム
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/05/post-752.html
・カノン
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/post-740.html
・弥勒
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005292.html
・ゴサインタン―神の座
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005260.html
・神鳥―イビス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005177.html
「凍える森」は20世紀前半に発生したドイツの大量殺人事件を題材にした小説。
ドイツミステリー大賞受賞で今年映画化が決まっている。
現実の事件の情報は、Wikipediaにも掲載されていた。研究サイトもある。
・ヒンターカイフェック事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「ヒンターカイフェック事件とは、ドイツ史上最も謎の多い犯罪として知られる殺人事件。ヒンターカイフェックは、 バイエルン州の都市インゴルシュタットとシュローベンハウゼンの間(ミュンヘンの約70キロメートル北)にあった小さな農村。1922年3月31日の夕方、村の農場の住人6名がつるはしによって殺害された。事件は現在も解決されていない。6名の犠牲者は、農場の主人の男性(63歳) とその妻(72歳)、夫妻の娘(35歳、未亡人)とその子供2名 (7歳の女の子と2歳の男の子)、そして農場の使用人の女性である。」
そして「何年にもわたり100名以上が容疑者として尋問されたが」事件は未解決のまま現在に至る。この小説は近隣住民の証言集として構成されている。証言は語り口調で2,3ページと短いのでペースよく読み進められる。ときどき犯人視点の断章が挟み込まれる。証言の言葉の含みや矛盾をたどって真犯人を見つけ出す推理小説の醍醐味が最後の数ページまで味わえる。
宗教と因習にとらわれた農村の息苦しいムードが全体に漂う。一言で言うとドイツ版の八墓村。人間関係が密な村社会にあって被害者一家は人づきあいを嫌うはぐれものだった。証言が重ねられるたびに、少しずつ事件の全貌が明らかになっていく。暗い闇の向こうに知られざる一家のおぞましい秘密があることが見え始める。
伏線や隠し方が巧妙で何度か読み返して楽しめる名推理小説。
「はるかに高く遠く、光の過剰ゆえに不可視のまま、世界の中心にそびえる時空の原点―類推の山。その「至高点」をめざす真の精神の旅を、寓意と象徴、神秘と不思議、美しい挿話をちりばめながら描き出したシュルレアリスム小説の傑作。」
1944年に36歳で夭折したシュールレアリスム作家ルネ・ドーマルの代表作。20世紀の奇書。私たちは道を極めようとするときそのプロセスを登山にたとえる。究極の理想、神の領域に向かって登る。しかし、その至高点は、生身の人間にとって目指すことはできるが現実には到達しえない象徴的存在「類推の山」である。
主人公は雑誌「化石評論」に天と地を結ぶ山についてエッセイを書いた。旧約聖書のシナイ山、エジプトのピラミッド、ギリシアのオリュンポス、バベルの塔、中国の神仙の山々など世界の神話伝承には人間が神性に高まりうる通路としての「類推の山」が存在しているという内容だ。
この記事に読者から一通の手紙がやってきて物語が始まる。
「前略、あなたの<類推の山>についての記事を読ませていただきました。私はいままで、自分こそあの山の実在を確信するただひとりの人間だと信じていたのです。今日、それが私たち二人になったわけで、明日は十人、いやもっとふえるかもしれない─── そうなれば探検を試みることができるでしょう。私たちはなるべく早く接触をもたなければなりません。よろしければすぐにでも下記の番号のいずれかにお電話ください。お待ちしています。」
こうして、探検隊が結成され、一行はエベレストよりも高い天にも届く高峰を探す。存在するはずのない場所への長い旅始まる。それは「別の事物、彼岸の世界、異なる種類の認識」を求めたドーマルの魂の自伝でもあった。
物語はドーマルが執筆途中で肺結核で死んだため、類推の山に至る旅は第5章で未完に終わっている。だが、ドーマルの妻と仲間の作家がその事実を明かす「後記」と「覚書」を追加したことで作品としての完成度は高まった。物語の中断がドーマル自身が道半ばにして倒れたことと二重写しに見えて、作家の当初の意図以上にシュールな作品となったのである。象徴の山の頂は人間には登れないものなのだ。
神話的な物語なので今読んでも古さを感じない。全編が美しいメタファーに満ちている。
・「百頭女」「慈善週間または七大元素」
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/06/post-771.html
こちらも20世紀シュルレアリスムの奇書。
「親指Pの修行時代」の松浦理恵、2008年度読売文学賞受賞作。
この本は話題になっていたから買ったのだけれど半年くらい床に積んでいた。帯に「あの人の犬になりたい」、背表紙(帯)には「さまよえる犬の魂」と書いてある。つまりSM系と獣系の複合官能小説だろうか?と思ったが、読売文学賞?いまひとつ中身が想像できない上に500ページもあるので、先週まで手つかずになっていた。ところが読み始めたら止まらなかった。もっと早く読めば良かったと後悔。
主人公の房江は強い「犬化願望」を持っている30代の女性陶芸家。本来自分は犬に生まれてくるべきだったのにと感じながら人生を生きている。
「性同一性障害ってあるじゃない?『障害』っていうか、体の示す性別と心の性別が一致していないっていうセクシュアリティね。それと似てるのかな。わたしは種同一性障害なんだと思う。」
「こういうわたしにセクシュアリティというものがあるとしたら、それはホモセクシュアルでもヘテロセクシュアルでもない、これは今自分でつくったことばだけど、ドッグセクシュアルとでも言うべきなんじゃないかと思う。」
こんな房江がある日、本当に犬になってしまう。人が犬になってしまうというのはどういうことかというと、それはネタばれになるので読んでいただくとして、房江は残りの人生を犬生として犬の視点で生きる。愛する飼い主との触れあう幸せに浸りつつ、飼い主を取り巻く複雑な人間模様を足下から見守る。
前半の犬と人間の幸せな相互依存をユーモラスに語っている部分は犬好きにはたまらない魅力。そして登場する人間同士の不幸な相互依存は次第に緊張度を強めていき後半に波乱のドラマを引き起こす。常に身近に寄り添う犬はすべての目撃者になる。
吾輩は猫である、とか、高みの見物(北杜夫、ゴキブリが主役の傑作)とか、人間と共生関係にある生き物視点で人間模様を語る小説は昔からあるのだけれど、だいたいはナレーターのような客観的語り部として生き物が出ていた。この作品では語り手自身が元人間であるが故に、登場人物たちに深く共感しながら物語に参加していく。これはやはり人と相互依存しやすい犬だから成り立つ設定だったろう。
・電子書籍 『犬身 第一回』松浦 理英子|Timebook Town
http://www.timebooktown.jp/Service/bookinfo.asp?cont_id=CBJPPL1B0046100S
この小説は初出が電子書籍だ。一流の作家が電子書籍で出版して文学賞を受賞するというのは文学のIT化が着実にするんでいるということだなあ。
文庫化されたタイミングで読書。天才町田康の短編集、読者の心をつかみ、ゆさぶり、首しめるような全7編。
とりわけ「どぶさらえ」が最高。
「先ほどから、「ビバ!カッパ!」という文言が気に入って、家の中をぐるぐる歩きまわりながら「ビバ!カッパ!」「ビバ!カッパ!」と叫んでいる。 なぜ気に入ったかというと、単純に「ビバ!カッパ!」という音の響きが連なりが気に入ったからだけれども、ただそれだけならこんなに何度も言わせない。せいぜい水道水をカップに入れ、ぐいと飲み干したる後、「ビバ!カッパ!」と一声叫んでそれで終わりだろう、それをばこうして何度も何度も言うというのは、そのビバ、カッパ。という文章に明確なビジョンが伴っているからである。」という出だしで始まる怨念の小説。
この感覚、実によくわかるのだ。この現象は私にもときどき起こるから。私の場合「寒山拾得」「六根清浄」「十返舎一九」など小さな「っ」が入って且つ古くさい感じの言葉が一度心に浮かんでくると、リフレインが止まらなくなってしまうことがある。この言葉は意味なんだっけと思いながら何百回も唱えることになる。こういうの、結構一般的な現象なのだろうか?。
この作品でも町田康が捕まっているのは「っ」が入っているフレーズなのだった。尊敬する作家と共通点が見つかって単純にうれしくなってしまう。だが作家が凄いのはそうした困った現象をも表現技法に取り入れることだ。「どぶさらい」では、頭の中をぐるぐるまわる言葉が、渦を巻いて大きくなって、主人公を駆り立て、やがて外の世界に飛び出していく。いつもの町田節が冒頭から炸裂している。
それから「どぶさらい」と並んで「あぱぱ踊り」も傑作だと思う。社会に生きていると、こいつは正座させて小一時間問い詰めたい奴すなわちトンデモ勘違い野郎がいるものだが、そういう「俺様」をムキになって徹底的に追い詰めていく。その追い詰めプロセスを楽しむ独特の娯楽作品である。かなり笑えた。
最初から最後までいつもの如く人を喰った作風。解説で松岡正剛氏が指摘しているように、そもそも「浄土」というタイトルの作品が収録されていないし、その説明もない。たぶん、町田康は確信犯的に、説明しない効果を狙ってニヤニヤしているのだろうなあと思うと悔しいけれども、本は面白かった。
・悪人
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/07/post-603.html
・告白
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/10/post-474.html
・フォトグラフール
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/post-745.html
・土間の四十八滝
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/post-733.html
中島らも、1990年発表、吉川英治文学新人賞受賞作。35歳のときの深刻なアルコール依存症による入院体験を小説に書いたわけだが、らも氏はその14年後に酔っぱらって階段から落ちて死んでしまった。お酒を愛し追究しそして翻弄された作家の、本物アル中フィクション。
「退屈がないところにアルコールがはいり込むすき間はない。アルコールは空白の時間を嗅ぎ当てると迷わずそこにすべり込んでくる。あるいは創造的な仕事にもはいり込みやすい。創造的な仕事では、時間の流れの中に「序破急」あるいは「起承転結」といった、質の違い、密度の違いがある。イマジネイションの到来を七転八倒しながら待ち焦がれているとき、アルコールは、援助を申し出る才能あふれる友人のようなふりをして近づいてくる。事実、適度のアルコールを摂取して柔らかくなった脳が、論理の枠を踏みはずした奇想を生むことはよくある。」
クリエイティブな業績があるアーティストは、お酒もクスリも創造性の源としてしばしば引き合いに出される。だが、飲まないで面白いものを書く人もいるわけだから言訳に過ぎないと言える。だから、要は作家としていかにかっこよくそれを言うかだろう。自堕落でかっこよい言訳の小説なのだ、これは。
「「教養」のない人間には酒を飲むことくらいしか残されていない。「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる能力」のことでもある。」
底なし沼の「ズブズブ」感がたまらない小説である。冷静にアルコール依存症という病気を分析している部分もあるのに、気を抜くとやっぱり飲んでいる。わかっちゃいるけどやめられないまま、また飲む言訳を探す。これはアルコールに限らない。依存する人間の弱さと怖さが魅力の入院小説。
・ガダラの豚
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/06/post-762.html
















