Books-Philosophyの最近のブログ記事

・人間の境界はどこにあるのだろう?
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人権、人間の尊厳、人間性という言葉は現代において絶対的な価値として認識されている。しかし、そもそも人間とは何か、人間と非人間の違いは何かを考えてみると、簡単には答えがでないことに気がつく。

生物学の「種」という定義の根拠は意外に曖昧なものである。ネアンデルタール人のような古生物学的な人類の祖先たちと、現生人類は違うのかはいまだに揉めている。最新の遺伝子工学は人間のゲノムを完全解析して、ある意味で人間の定義を完成させたか。だが、人間の遺伝子の95%はチンパンジーと同じであるということも同時にわかってしまった。生物学的根拠において人間と他の動物を区別する明確な境界は見つからない。

「人間の定義をしようと格闘してきたことがどのように解決されたかの歴史は、驚くほど非合理的な選択基準の採用によってころころ変わり、それらを正当化するためにいかに不適切に科学が使われたかの、長い歴史である。」

人類は人間の境界を文化的な面に見出そうともしてきた。中世の西欧人たちは彼らから見て辺境の人間を、異教で未開だとして、野生の人間、野蛮人と呼び、自分たちと一線を画すものとして扱った。だが、現代になると文化は多様であり、すべては相対的なものであることが明らかになっていった。

「人間だけが理性的である、知的である、霊魂を持つ、創造性がある、良心を持つ、道徳的である、神に似ている、というのはみな神話であるようだ。多くの証拠がそれに挑戦しているのに、私たちがしがみついている信仰の対象であるように思われる。」

この本は読めば読むほど、人間と非人間の境界線を引くことの難しさ、歴史上それがいかに恣意的に動かされてきたかを知ることになる。生物学的、文化的な人間の定義の変遷が面白い。たった数百年間に人間の定義は重要な部分で変わっているのである。

現代は遺伝子操作やクローニング技術、そして人工知能、人工生物の登場によって、人間の定義について新たなコンセンサスをつくらねばならない時代なのでもある。人間の境界をどこにおくかによって、胎児、終末期の患者、昏睡状態の人、重度の精神障害のある人、老齢で認知症の人、その他死に近い人々などの扱いが左右される。人間の境界とは何かは哲学的な問いに終わらない問題なのだ。

この本で一番、印象に残ったセンテンスがこれだ。

「私たち自身、人間とは何を意味するかを知らないのだから、何が人間を人間たらしめているのかを知らないのだから、ゆえに、それを失くしても気づかないだろう。」

・愛するということ
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ドイツの思想家エーリッヒ・フロムによる愛の理論の古典。

初版は1950年代だが、すでに恋愛の資本主義化と人間疎外を批判している。

(現代社会では)「いずれにせよ、ふつう恋心を抱けるような相手は、自分自身と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。私は「お買い得品」を探す。相手は、社会的価値という観点から望ましい物でなければならないし、同時にその相手は、私の長所や可能性を表にあらわれた部分も隠された部分もひっくるめて見極めたうえで、私を欲しがっていなければならない。このように二人の人間は、自分の交換価値を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。」

「人格のパッケージ」をできるだけ高い値段で売る投資ゲームでは、その取引が劇的に成功すると、性的な関係も盛り上がって、お互いに夢中になる。「だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ」とフロムはいう。

フロムは、愛とは孤立の経験とそれによって生じる孤独を克服したいという欲求であると定義している。その欲求を一時的に満たすだけならば、市場で手頃な「対象」を見つけられればよい。しかし、「対象」と安定した愛を育み、互いを高めあう関係を築き、その関係が社会の発展にも調和していくような状態を実現するには、愛するという「能力」の習熟が求められる。

「ところが、ここ数世代の間に、ロマンティック・ラブという概念が西洋社会に広く浸透した。アメリカでは因習的な配慮がまったくなくなったわけではないが、ほとんどの人が「ロマンティック・ラブ」、すなわち結婚に結びつくような個人的体験としての愛を追い求めている。この自由な愛という新しい概念によって、能力よりも対象の重要性のほうがはるかに大きくなったにちがいない」

前半部「愛の理論」は、愛とは何かの原理を説く。そして兄弟愛、母性愛、異性愛、自己愛、神への愛の5つに分類し、愛の対象の違いによる特徴、それぞれの個人と社会にとっての重要性を語る。本来あるべき愛の姿と、現代社会における愛の不在を批判する。

後半部「愛の修練」はお互いの人格を発展させ、生産的な社会関係を発達させていくための愛の技術を解説する。規律、集中、忍耐、関心の鍛錬やナルシシズムの克服など、技能としての愛の上達法が語られている。

愛についての名言が多い(結婚式のスピーチの素材にもつかえそうだ(笑))。

「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れている。 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない」。

愛とは何かに真正面から取り組んで、完成度の高い答えを提示した本だ。

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html

・人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003812.html

・チャット恋愛学 ネットは人格を変える?
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003653.html

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002189.html

・気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002095.html

・ブルバキとグロタンディーク
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数学と構造主義の歴史を再評価する本。

ニコラ・ブルバキ。1886年、モルダヴィア出身。1935年から最近までに「数学原論」をはじめ総計で1万ページ以上の数学の教科書を執筆した天才数学者の名前である。ブルバキのカバー範囲は幅広い。集合論、代数、位相、実一変数関数、位相線型空間、積分、リー群とリー環、可換代数、多様体、スペクトル論など、抽象性の高い数学原理を追究した。人間業とは思えない知的業績には秘密がある。ブルバキの正体は一人の人間ではなくて、アンドレ・ヴェイユらが結成したフランスの若手数学者の集団なのだった。

ブルバキは"今後2000年間にわたって通用する"新たなユークリッドの原論を作り出すことを目指した。彼らは厳密に原論の公理を定義していった。たとえば点と集合については「ある決まった"性質"」を持ち、それ自身や他の集合の要素との間にある決まった"関係"を持つことのできる"要素"から構成されるものを。"集合"と呼ぶ」といった具合に。

ブルバキの研究内容は極めて抽象的であった。彼らは実際の数字をあてはめて計算するいうプロセスをほとんど無視して、高度に一般化された数学世界を構築していた。彼らは事象の背後にある関係性=構造にこそ真理を見いだしていたのである。ブルバキはそうした構造の規則を「構成」「近接」「順序」「等価」と定義している。

時代は当初は彼らに味方した。ブルバキの最盛期は、まさに実存主義に代わって、関係性を重視する構造主義思想が、あらゆる学術分野に影響を及ぼし始めた時期だった。ブルバキの数学は、自然や社会現象の背後にある構造を数学的に証明するための強力なツールとなることができた。

「ピアジェの考えでは、数理科学は"人間の科学"を含めたあらゆる科学の基礎であり、その数学は人間の精神に隠された構造に基づいているという。ピアジェは、人間の精神の内部的仕組みを理解するために、ブルバキの説く構造を重要な要素として利用した。これら構造は脳の仕組みを決定するだけでなく、レヴィ=ストロースが示したように、社会的行動に対する脳の影響を通じて社会全体の振る舞いをも左右するのである。」

ところが、ブルバキの栄光はわずかの期間しか続かなかった。彼らは抽象的であるが故に成功したが、同時にそれは失敗の原因ともなった。20世紀後半の数学においてブルバキの業績はじわじわと色褪せていき、やがて振り返る者はいなくなってしまった。

「進歩というものは、個別から一般へと進んでいくものだ。数学者はたいてい、まずは特定の問題や定理から取り掛かり、それが解決できた後で、一般化が可能かどうか見極める。一般性は、より大きな力、より大きな意義、そしてはるかに大きな重要性を意味する。だが、一般的な命題から出発する者など、めったにいないのである。 もう一つ問題となるのが、抽象性と厳密さだ。数学においては、結果が正しく、証明の中に抜けているステップや間違っているステップがないことを保証するには、抽象性と厳密さが必要不可欠である。もちろん、これは数学の持つ極めて重要な側面で、それを広めたという点ではブルバキを高く評価すべきだ。しかし、抽象性と厳密さはあくまで道具であって、それを目的にしてはならない。ブルバキの著作では、抽象性が目的へ変わり、厳密さが全体を支配して、直感や一般的な理解の隙の入る余地さえも残されていないことがしばしばである。」

ここを読んで思ったのだが、プログラミングの世界でもブルバキ的な落とし穴は多いのではないかということだ。抽象性と厳密性を高めることを強く意識しすぎて、実装のことが忘れられていると、それはよいコードとは言えないのではないか。孤高すぎて誰にも使われないコードはブルバキの数学のように死滅してしまう気がする。

タイトルにブルバキと並んだアレクサンドル・グロタンディークは、ユダヤ系フランス人の数学者。アインシュタインと比較されるほどの明晰な頭脳を持つが、天才にありがちな変わり者。ブルバキに参加して大きな影響を与えたが、やがて衝突して脱退し、政治活動にのめり込み数学界からも離れ、1991年にはピレネー山脈に独り隠遁してしまって以来、生死も定かではない。

歴史的には、ブルバキとグロタンディークという二人(一人はバーチャルだが)の数学者が台頭し消えていった半世紀は、構造主義がつぼみから花開いてしおれていった時代であった。言語学や人類学など文系の思想と思われがちな構造主義だが、ブルバキの数学が与えた影響も大きかったことがよくわかった。構造主義の数学的根拠を具体的に知ることが出来る、文系のための理系史である。


・ソシュールと言語学
http://www.ringolab.com/note/daiya/2005/01/post-189.html

・レヴィ=ストロース―構造 現代思想の冒険者たちSelect
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000240.html

・針の上で天使は何人踊れるか―幻想と理性の中世・ルネサンス
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中世の人々は現代人には信じがたい考えを平気で受け入れていた。

15世紀の教会裁判所は、作物を荒らした害虫に対して「この付近の人間の食物を浪費し、壊滅させたカブトムシよ、今からここを立ち退き、誰にも害を与えない土地に行くことを、汝に命ず」という裁きを大真面目にくだした。そして殺人罪で豚を絞首刑にした。リンゴに悪霊が取り憑いて不気味な音を鳴らすと信じた。魔女は空を飛び交い、悪魔は死者を蘇らせると恐れ、異端者を残酷なやり方で処刑した。

そうした行いの理由は、人々に知識や推論能力が不足していたからではなくて、そこには現代と異なる「常識」が前提としてあったからである。この本は歴史の中の奇妙な妄想を10章に渡って取り上げて、なぜ当時の人々はそれを真剣に信じたのかを分析する。

「毎日駆使している「一般常識」は実は多くの前提に支えられた複雑な事柄だった。そして、その前提は概ね私たちが生まれる前から存在していた通念から生じ、他の者から伝えられるのである。」

思考の土台、物の考え方である常識は、同時代の人間にとって常に所与のものとしてあらわれる。著者はこれを相対化して客観的に眺めるために有効な手法として、こうした迷信や妄想を信じた過去を振り返る。

「「奇妙な歴史」を学ぶことでも、この新鮮な視点が得られる。昔の理性的な人々が悪霊に取り憑かれたリンゴや、豚の死刑や、魔女や異端を信じていたのなら、現代の理性的な私たちの考えにも「奇妙さ」が潜んでいる可能性を考えるべきだろう。」

この奇妙さは同時代でも宗教や慣習が異なる社会の間で生じる問題だろう。たとえばアフリカで現在も数百万人に対して行われていると言われる女子割礼、インドの名誉殺人、そしてイスラムの神の名による宗教戦争。どれも日本人にとっては奇妙であるし、道徳的に認めがたいが、逆の立場では私たちの考えこそ奇妙にみえるのだろう。

「常識的な」判断は特定の社会に浸透している思考を反映するものであり、しばしば社会によって変わるものなのだ。社会に浸透している認識と一致していれば、その考え方は合理的だとみなされる。ある文化───たとえば、私たち自身の文化───において支配的な考え方が馴じみのあるものなら、その考え方に従った行動は、まず間違いなく道理にかなっていると見なされるだろう。逆に他の社会の思考についての理解が十分ではない場合、その思考に従って普通に行われた行為の多くは、馬鹿げていると思われやすいのだ。」

奇妙な迷信と妄想の歴史的な研究は、現行の常識や理性の普遍性を疑い相対化していく。中世ヨーロッパにおいて、キリスト教と人々の常識がどのように相互作用して形成されていったかがよくわかる。そしてそれは現代にも外挿できる理論であることに気がつかされる。とてもスリリングな、常識の解体新書。

ミクロコスモス I

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・ミクロコスモス I
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思想家 中沢新一の最近の評論、エッセイ、講義録をまとめたもの。どれも読みやすい。
レヴィ=ストロース構造主義の総括整理が個人的にはよかった。

西洋の精神は「論証」「抽象」「実証」の精神であるのに対して、レヴィ・ストロースの「構造」は、そのイメージに反して抽象的でも形式主義的でもない「具体の科学」そのものだとし、もうひとつの知のはたらき=野生の思考をこう説明する。

「彼の「構造」は単なる文化コードではない。それは自然と文化のインターフェイス上に働く自然智的コードだ。そのために、「構造」は弁別的知性の上で働いていないこといなるので、当然それは「無意識」の働きということになる。「構造」とは、もっとも厳密な意味で「詩的」なレヴェルの現実である。」

「私たちは根本的に自分の思考のあり方を変えなくてはならないのであって、そのとき身体が重要な拠点になる。ただしその身体は、リビドー的な無意識が渦巻くカオスとしての身体ではなく、いたずらにスポーツする健康なだけの身体でもない。たいせつなのは、身体のなかで具体的なかたちで動いている、ある種の知的なものの動きを知ることである。その知性の働きのことを、レヴィ=ストロースは「構造」と名づけたのである。仏教ではそれは「知恵」と呼ばれたことを考えても、彼の思想はまったくアジア人である私たちには近しいものに感じられるのである。」

レヴィ=ストロースの構造主義といえば、たとえば近親相姦のタブーに関する研究がよく知られている。親戚関係の誰と性交してはいけないかは、部族によって異なるのだけれど、どの部族にも必ず、してはいけませんというタブーが存在する。そうしたタブーの存在という普遍的な構造は、部族間の女性の交換を保証するための規則であると結論した。結果として生物学的多様性や文化の流動性が生まれる。そうしたはたらきは西洋の合理的精神ではなく、無意識のはたらき=野生の思考がうみだすものである、としたのがレヴィ・ストロースだった。

「論証」「抽象」「実証」など現代を覆う科学的認識では、自然の美しさ、複雑さ、それがもたらす感覚的喜びが否定されてしまう。自然に内在する知性作用によってこそ、私たちはもっと高次の豊かな認識に到達できるはずだとし、「これこそが「自然の叡智」と呼びうるものである。私たちの二十一世紀をどう切り開いていくかという思想の鍵がここにある、と私は思う」と著者は書いている。総括したうえで現代における意義を語っているのが、この著者らしさ、学者でなくて思想家らしいさだなと思った。

この本にはこのほか、岡本太郎、グノーシス、アースダイバーネタ、芸術人類学など、幅広いテーマの考察が並ぶ。寄せ集め風だが、一気に読ませる内容になっていて満腹。

・世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて
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「私が本書で考えたいのは、資本=ネーション=国家を超える道筋、いいかえれば「世界共和国」に至る道筋です。」。評論家 柄谷行人著。

資本主義と国民国家というスキームでは、主役が資本であって肝心の人間が疎外されている。著者はこのスキームを超える世界観として、カントが提唱した世界共和国の概念にポストモダンの理想を追求している。

資本=ネーション=国家の基盤は貨幣を仲立ちにした交換様式である。この交換には非対称性が伴う。貨幣には商品と無条件に交換する権利があるが、商品には貨幣と交換する権利がない。商品は売れなければ価値がないからである。この非対称性が、資本の支配をもたらしている。

福祉国家資本主義、国家社会主義、リベラリズムという、既存の国家の形態に加えて4つめに、平等と自由を原理とする新しい交換原理を基盤とした「世界共和国」があるという。チョムスキーは、この第4の形態の例として、アナキズムや評議会コミュニズムを入れているが、これらはこれまでのところ、現実には存在しない「統整的理念」に終わってきた。

「むろんカントは、こうした「世界市民的な道徳共同体」は政治的、経済的な基盤が根底になければ成立しないと考えていました。しかも、彼はそれをきわめて具体的に考えていた。たとえば、カントのいう「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」という道徳法則は、資本主義においては実現できません。貨幣と商品(資本と賃労働)の非対称性があるかぎり、そこにおかれた個人は他者を手段としてのみ扱うことを余儀なくされるのです。もちろん、国家による統制や富の再分配によって、資本主義のもたらす階級格差を解消しようとすることは可能です。しかし、階級格差をもたらすシステムそのものを変えるべきなのです。」

「目的として扱う」とは自由な存在として扱うということ。自分が自由な存在であることが他者を手段にしてしまうことではならないとし、自由の相互性の実現こそカントの見出した道徳法則であった。

著者は再分配、互酬、商品交換という既存国家の交換原理に代わる新しい交換原理Xを世界共和国の基盤として見出す。カントはその世界を小生産者(かつての多数であった職人的労働者)たちのアソシエーションと、「神の国」の実現のために諸国家がその主権を譲渡する世界共和制として考えた。

著者はその考えを現代的に読み替えて、共同体の想像的回復(普遍宗教的な運動)によるアソシエーションと、各国が軍事的主権と国際連合へ譲渡し、それによって国際連合を強化再編する道筋に、世界共和国実現の可能性があると結論している。

難しい本なのだが、ひらたくいえば、自由や平等や友愛という崇高な理念にひとりひとりが共鳴するなら、相互の自由を尊重する交換原理による、新しい社会主義的な世界共和国は理論的には実現できるはずだという思想家の意見表明である。

今日、世界の運営方法を個人が直接に話し合う場として、インターネットがあると思う。オンラインで小さなネットワークや共同体は無数に生まれているが、国家に対抗する力にまでは育っていない。ネットで理想を唱えても、各人の足場は国家にあるからだ。著者は「下から」の運動は「上から」封じ込めることによってのみ、分断をまぬかれ、徐々に新交換原理にもとづくグローバルコミュニティは実現に向かうと書いている。

何が足りないのだろうか。やはりリーダーなのだろうな。

時間はどこで生まれるのか

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・時間はどこで生まれるのか
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「ミクロの世界に時間というものが仮にあるとしても、マクロの世界における時間とミクロにおける時間は、同一のものではない。また、マクロの世界においても、物理学的時間と人間(生命)が感じる時間は同一のものではない」

マクダカートによる時間の分類が最初に紹介されている。

A系列の時間 自分がいる「今」という視点に依存する主観的な時間
B系列の時間 歴史年表のように過去から未来を見渡す客観的な時間
C系列の時間 順序関係がない、単なる配列

人間が普段、感じているのはA系列の時間である。デカルト哲学やニュートンの科学が相手にしているのはB系列の時間であった。(時間という概念でB系列のイメージを持つ人が多そうである。)。マクダカートはこうも述べている。

「A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。しかし、C系列は実在する可能性がある。」

C系列は時間とは呼べないので、時間は実在しないともいえる。

「時間は、もともと人間の感覚から生まれた概念である。毎日、太陽が昇り、星座が動き、狩りに出た良人の帰りを待ち、新たな生命が生まれ、そして死んだ人は還らない。こうした日常経験の中から、われわれの祖先は時間という言葉を創りだしたのである。」

だから、時間は実在しているのではなく、脳に組み込まれたアプリオリな概念なのである。ミクロの世界、量子力学の世界では、粒子の位置と速度は同時に確定することができない(位置を測定するには粒子に触ることになり、触れると速度が変わってしまう)。粒子のふるまい自体も確率論的で順序や因果関係もない。ミクロの世界に時間の向きや流れは存在しないのだいえる。

これに対してマクロでは、時間というものが仮定される。不可逆なプロセスが存在するからである。エントロピー増大の法則がはたらく世界の中で、人間は秩序に価値を見出す。価値ある秩序とは未来へ向かう意思がなければ存在しない。生命の生きる意志が過去から未来へ向かう時間の向きと流れをうみだしていると著者は結論している。

「われわれは、なぜ秩序に価値を見出すのか。その答は明らかである。それはわれわれが生命だからである。生命こそは秩序そのものであり、秩序なくしては存在しえないものなのだから。それゆえ、われわれはわれわれと似た秩序をもつものに価値を見出すのである。」

人間が感じている主観的時間と、科学実験や計画策定のための客観的時間を統合し、時間とは何かの本質に迫った面白い哲学本である。

・「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001835.html

・時間の分子生物学 時計と睡眠の遺伝子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002803.html

・瞬間情報処理の心理学―人が二秒間でできること
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000624.html

孔子伝

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・孔子伝
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先日96歳で他界された漢学研究の白川静著。

孔子とキリストには共通点がある。幼少時代が不明であること。中年になってから大成したこと。活躍した時間は短かったこと。弟子を率いて諸国を流浪したこと。世俗的な意味での成功とは無縁であったこと。本人の書いたものはほとんどなく、その教えは、弟子たちが後世に教典にまとめたもののみであること(「論語」と「聖書」)、など。

しかし、一般には、キリストが宗教者という印象が強いのに対して、孔子は思想家・哲学者の印象がある。著者は、孔子はシャーマンの出自を持ち、政治改革への参画をもくろみながら、ときには任侠者も巻き込んで、移動しながら好機を求めた反体制教団の長だったのではないかという仮説をこの本で打ち出している。

孔子の死後に編纂された論語は、教義としての側面が強いから、孔子の姿は徹底的に美化されている。だが、よく読むと孔子の行動には人間臭い部分もある。愛弟子の顔回への贔屓が目立つし、資金調達が得意な子貢には、経済的に支えられているはずなのに、性格的にそりがあわないのか、随分と冷たい態度をとっている。

孔子は遥か古代の伝説の王である周公を信奉して復古を説いているが、その割に古代の王国について正しい知識があったか怪しい。孔子は、仕えている主人が亡くなったら3年の喪に服せと説いたが、昔からそうしてきたものだからという。しかし、古代を調べてみると3年の服喪の規定は根拠が乏しい。孔子の古代知識は誤っていたのではないかと著者は検証してみせる。

そして、孔子のさまざまな言動の細部と矛盾を分析していくと、当時の巫術を司る集団に出自があるのではないかと指摘する。シャーマン出身で、ライバル陽虎の策略に抗いながら、現実的な力を持ったカルト教団を率い、諸国を移動する宗教改革者。隠棲の賢者というイメージが崩されていく。

・孔子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002572.html

タオ―老子

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・タオ―老子
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道(タオ)名の無い領域

これが道だと口で言ったからって
それは本当の道じゃないんだ
これがタオだと名づけたって
それは本物の道じゃないんだ
なぜってそれを道だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名の無い道の領域が
はるかに広がっていたんだ。

老子道徳経全81章の現代語訳。

著者の加島 祥造氏は1993年に「タオ―ヒア・ナウ」で英語訳からの和訳を試みている。今回は原文から直接現代日本語に訳している。こちらのほうが情感がこもっていて著者の老子への共感が伝わってくる文体である。

超訳的手法も入っていて「インターネットのウィンドウを覗きこんだって、分かりゃしない <中略> 情報を集めれば集めるほど ますます分からなくなるんだよ」などという表現もある。

自然に回帰すること(無為自然)で宇宙の神秘と一体化することが究極の道TAOであると説く老子の教えは、欧米でも禅ZENの実践とともに高く評価されている。人生のあらゆる荷物を捨てて、争うことをやめて、善も悪もない、宇宙のエネルギーに身をゆだねよ、というメッセージである。

無欲で無知なのがよいわけだが、無欲無知なだけではダメみたいである。タオを知る人は結果として無欲で無知になるということだろう。ではタオとは何なのかというと、冒頭の引用が語るように言葉で定義することができない。定義してわかったように思うのは、老子によると知識病なのである。タオを知る人は知識病にかかっている自分に気がつくことで、それを乗り越えることができる。

老子の思想は後年に道教に影響を与える。道教の達人は不老不死の仙人であるから、これも仙人の生き方の理想といってもいいのかもしれない。地球環境にも人間の精神にも負荷を欠けない究極のストレスフリー思想として、ストレスだらけの現代で再評価を受けているのも納得である。

・老子道徳経 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90%E9%81%93%E5%BE%B3%E7%B5%8C

自分自身への審問

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・自分自身への審問
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1999年。「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤 淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒と せられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」という書置きを残して江藤淳は自殺した。遺書まで名文だった。

芥川賞作家で、孤高のジャーナリスト、辺見 庸は、2004年春に脳出血で倒れた、命はとりとめたが、半身麻痺などの重い後遺症が残った。追い討ちをかけるように、腹部からガンが発見される。著者は、江藤淳の死を自らの姿に重ねながらの病床で、生死の境目にいる者としての感慨、現代日本社会への異議申し立て、そして、自分の生き様に対しての厳しい審問を行う。


...生物学的な生でしかなくなる私の、仮にあるにしてもおそらく海牛か薄羽蜻蛉みたいにごく乏しい心性(いや驚くほど豊かな心性かもしれないが)というものが、果たしてどんなものか私には実地に試してみたい衝動がないわけではない。にしても、結果どうであったかを表現できないとしたらつらい。その意思があるのに表現できなくなることと自死できなくなること......いまそれをとても恐れている。逆に、なにがしか表現でき自死できる可能性を残している限りは、軽々しく絶望を口にしてはならないと自分にいい聞かせている。


私を襲ったあれこれの病気が実際、因果応報であるにせよ、私はそれを哄笑して否定し、生まれ変わったら再びいわゆる罰当たりを何度でもやらかして、またまた癌にでも脳出血にでもなり、それでも因果応報を全面否定するつもりだ。それほど私はこの考えを忌み嫌っている。そのことと、私が秘めやかな罪や恥辱を感じているのはまったく別のことだ。」

壮絶。作家が文字通り命を削って書く文章。自己の生き様の手厳しい総括。これ以上はないほど重い内容であるが、表現者として、これだけは言っておきたいということが圧縮されている。ままならない身体状況でありながら、どこまでも冷徹な思考に圧倒された。

系統樹思考の世界

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・系統樹思考の世界
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系統樹思考(tree-thinking=樹思考)と分類思考(group-thinking=群思考)という対比を、ここで考えてみましょう。前者は対象物の間の系譜関係に基づく体系化を意味し、後者は同じ対象物を離散カテゴリー化によって体系化することを指しています。たとえ対象が同じであっても、系統樹思考と分類思考では問題の立て方そのものが根本的に異なっています。分類思考は眼前にある対象物そのもののカテゴリー化(すなわち分類群の階層構造化)を目標とするのに対し、系統樹思考は対象物をデータ源としてその背後にある過去の事象(分岐順序や祖先状態)に関する推論を行うからです。

人間は先天的には分類思考をする、という。私たちは何かを見たら、似ていると認知して、あるカテゴリーへと分類する。世界にはばらばら(離散的)の群れがあると自然に考える。これに対して文化的に獲得する系統樹思考は、モノの歴史を推定して、カテゴリーを決めている。著者が専門とする生物の進化の系統はその考え方の代表例だし、祖先との関係を可視化する系図もそうである。

歴史を持つ対象を系統樹に位置づけるには、通常科学の推論方法である演繹と帰納だけでは間に合わない。サルがヒトに進化する様子は観察では確認できないし、ヒトに残るサルの痕跡を集めても、サルが直接のヒトの祖先だとは確定できない。だから、「理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「よりよい説明」を与えてくれるかを相互比較する」アブダクションが系統樹思考では重要な役割を占める。サルがヒトに進化したという説明が、他の説明と比べてもっともらしいと考えられるから、そのような系統樹を描いたのだ。

ツリー構造はIT技術でもたとえばXMLで使われており、おなじみの構造である。ある応用的な要素が、ある基本的な要素の子要素であるという形になっている。構造自体は疑いようがないけれど、親と子の要素の意味を考えてみると、この本が論じている系統樹思考があるのだと気がつく。果物という要素の下に、リンゴがあったりする。なんでそうなんだと考えていくと、リンゴは果物であるという説明が、野菜や肉だというより、もっともらしいからである。

生物学の進化論、言語学、世界中の神話や宗教など系統樹思考が文化文明の中に普遍的に現れる様をこの本は紹介している。なぜ普遍的な思考になったのか、諸要因とともにこんな説明がある。

「分類思考が静的かつ離散的な群を世界の中に認知しようとするのは、私たちが多様な対象物を自然界や人間界に見るとき、記憶の節約と知識の整理にとってたいへん有効な手法であると考えられます。そのような認知カテゴリー化は、記憶の効率化を通じて、私たちの祖先たちの生存にきっと有利に作用したでしょう」。

なるほど、私たちの世界認識の在り方は、記憶メカニズムに最適化されているのかもしれない。そうであるなら科学の進歩は、世界についての知識量を増やすのではなくて、一番簡単な説明方法を探す旅だといえそうだ。悟りの境地に至るというのもそういうことかもしれない。

日頃慣れ親しんでいるツリー構造の考え方を、改めて哲学的に考えてみる有意義な機会になった本。

・情報学的転回―IT社会のゆくえ
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日本の情報学の第一人者、西垣教授の本は必ず読んでいる。難解なものが多いが、口述筆記で書かれたこの本は、とても読みやすい。


情報学的転回とは必ずしも、ITの高度利用によって人間の生活を効率化し、グローバル経済を活性化することではない、ということです

冒頭のこのことばでまず引き込まれた。

この本の情報学的転回とは、情報という概念が、私たちの思考の在り方、世界観、人間観を大きく変えていくという意味である。ビジネスや効率性ばかりが強調される「IT革命」よりも、もっと本質的な、人類の文化文明の大変革を論じている。

著者は情報には3種類があると定義している。

1 生命情報 生きている生物にとっての情報

2 社会情報 生命情報から意識的に抽出され記述された情報

3 機械情報 機械が処理する記号の情報

コンピュータが扱うのは3の機械情報である。記号化された情報から、人間は、生命や社会にとっての「意味内容」をこの記号から解釈して読み取る。飽くまで意味内容は読むものの内側にあるはずである。ところが、西欧発祥のIT文明は、機械情報の中に、聖なるもの、本質的なものがあるかのように扱ってきた。


要するに、唯一の正しい論理がある。それは神の言葉である。これにしたがって、相互に矛盾しない論理命題の合理的な体系が存在する。世界という客観的な実在を象徴する記号群が存在する。その記号群を使って、宇宙や世界のあらゆる事物や現象というものが記述されていく。これをおこなえるのは神さまですね。

それをエイヤッと世俗化して、メカニズムだけを取り出すと、コンピュータになる。コンピュータが論理をルールにもとづいて操作する。そこでは思考というのは一種の計算になります。人間の心というものは、いわばその一部であって、思考を行うものである。これは世俗化されたユダヤ=キリスト教ではないでしょうか。

この機械情報、機械文明に振り回された人間の異議申し立てこそ、いま起きようとしている情報学的転回なのだと著者は述べている。


しかし今、機械情報からもう一度、はじめの生命情報へと戻る方向性が出てきた。機械情報文明がどんどん盛んになることによって、そこからもう一度、自分たちは生物なのだ、生命流の中の結節点のようなものなのだという自覚が生まれつつあります。

生命流という考え方と仏教の類似性を指摘したりして、東洋と西洋の宗教比較にも言及されている。機械情報の時代を超えて、人間にとって、より本質的な生命情報にもとづく文明を志向すべき時期だというのが、この本の言いたいことであるように思った。

「聖性」という概念が重要なキーワードになっている。これは、先日書評したミルチャ・エリアーデの「聖なるもの」と同じことを言っているように思える。私たち=宗教的人間(homo religious)は情報を解釈するとき、背後に「真実」や「実在」を前提としている。

・聖と俗―宗教的なるものの本質について
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004394.html

何を信じるか、本当だと思うか、の根本は、オントロジー(実在論)だ。機械情報の記号だけでオントロジーをやろうとすると、生命情報を取りこぼしてしまう。意味作用は生命にしか備わっていないからだ。いくら実在の影を集めてみたところで、実在にはたどりつけない。

個人的には、機械情報による人工知能アプローチの限界、社会情報によるフォークソノミー(コミュニティ)という突破口、インタフェース(アフォーダンス)と意味作用の可能性など、この本を読んだ結果、いくつか情報学の未来を考える視点が明確になった気がする。

情報技術と宗教という、一見妙な取り合わせで、情報学のあるべき姿を論じている。情報の哲学を考えるにあたって、とても有益で、面白い一冊。


西垣教授の本:

・基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html

・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

・生命記号論―宇宙の意味と表象
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生命圏を記号圏としてとらえる新しい見方を提示した本の新装改訂版。初版は1993年。

記号というと普通は言語を連想する。だが、著者は記号の指す範囲を大きく拡大して次のように定義する。


記号圏とは、大気圏、水圏、生物圏と同様に地球上のある領域を指す。記号圏は他のどの圏内にも入り込み、その隅々まで広がっており、音、匂い、身振り、色、形、電界、熱放射、全ての波動、化学信号、接触その他のありとあらゆる種類のコミュニケーションを統合して出来上がった一大圏である。一言で言えば、生命に関する記号全てのことである。」

基本はパースの記号論であり、意味するものとされるものの二項の意味世界に、解釈する主体を加え、3項のダイナミックな関係として、全体を捉えなおそうとする思想である。メッセージは単独で存在できるものではなく、解釈する主体があってはじめて記号の意味が確定される。

この記号関係でやりとりされるインフォメーションとは何かについては、解釈者の志向性によって生み出されるもの説明されている。


インフォメーションとは何らかの志向性を持った生物と結び付けられる。この志向性を持った生物とは、栄養濃度を感受して、餌が最も豊かであるスポットに向かって偽足を伸ばして行こうとするアメーバであったり、あるいは木の上に熟した果物を見て、それを取るために手を伸ばしている人間であったりする。別の見方をすれば、インフォメーションは翻訳にその基盤を求め、この意味で、パースの定義による記号に対応する。

生物はそれぞれの環世界に生きている。必要な情報を選択的に感覚器官から受けとっている。これが志向性であり、インフォメーションの基盤である。そしてインフォメーションの量と質を決めるのは、記号論的自由の大きさにあるというのがユニークな意見である。ここでいう自由とは、個体や種が周囲と相互に伝達できる「意味の深さ」を指している。
次に、対象を生物個体同士の水平関係という視点から、系統という垂直関係という視点に移動して考えると、生命記号圏においての究極の内部観測者は、人間や生物の個体、もしくは脳や意識ではないという。

つまり進化という目でみると、


人間において思考を行っているのは脳ではない。身体全体でもない。考えることができるようにしているのは私たち全てがその産物である自然の歴史そのものである。

たとえば、DNAの遺伝情報のネットワークは、塩基配列の組み合わせという記号関係そのものである。交配が行われれば、二つの系の間で情報交換が行われ、新しい世代の記号が決まっていく。ここには、人間の個体の意識は入り込む余地がない。そのメッセージ交換の意味を解釈しているのは、ヒトの系統そのものであり、さらに大きく見れば、自然史そのものであることになる。

ヒトが登場する何億年も前から生物はいたのだから、意識が観測者ではありえない。現在の生命圏は、過去の生命情報のやりとりの結果なのであるから、その歴史そのものが観測者であったとする。人間の意識は特権的な存在ではなくなる。

意識の解体もテーマの一つとなっている。

「意識とは身体の実存的環世界を、肉体が空間的物語的に解釈したものである。」

という結論がある。

これは、ノーレット・ランダーシュの「ユーザイリュージョン」とほぼ同じことを指している。私たちが見ているものは本質じゃないのである。幻想なのである。だが、その幻想を信じて必死に生きている私たちがつくりだす歴史は本物なのである、というのが私の理解。

この本は訳者 松野 孝一郎氏のあとがき「記述の限界とそれへの開き直り」も読みどころになっている。内部観測者について本も出している訳者は、あとがきにおいて、本文を引用しながら自論をどんどん展開している。総括にもなっていて読解の参考になった。

・動物と人間の世界認識
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000786.html

・ユーザーイリュージョン―意識という幻想
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html

・基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html

・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

・ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学
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哲学者バートランド・ラッセルの入門書。

ラッセルは「プリンキア・マテマティカ」の中で、次の条件を満たす「理想言語」の必要性を述べている。

・名前としては、世界に確実に実在するとわかっているものの名前だけを含む
・個々の名前はただひとつのものだけを指す
・実在するものの間に成り立つ関係を表わす語が、名と名を結びつける。つまり、世界の論理構造をそのまま反映する

私たちが日常使う言葉には「世界に確実に実在するもの」以外の虚構の対象が入り混じっている。そのようなニセの指示句をラッセルは「不完全記号」と呼んだ。不完全記号は言葉の多義性を含んでいるが、それゆえに、話がわかりやすくなったり、簡潔に言うことができる長所がある。

ラッセルは不完全記号の使用も認めつつ、いざというとき、不完全記号を解体し、真の名前、つまり実在する対象を一義的に指す名だけからなる表現に変換できることを担保するために、日常言語に換わる人工的な理想言語を構想した。

「世界に確実に実在するもの」とは、より小さな構成要素を持たない単純者のことである。自らの存在を他の構成要素に依存していないため、実在する確かさが最大である単純者の名だけを使うことで、厳密に意味を確定できる言語を模索したことになる。

この本では「犬」が例でよくでてくる。個々の犬はもちろん実在する。個々の犬(タイプ0)の集合を一つ上の階層(タイプ1)まとめる名前に「セントバーナード」、「柴犬」、「ドーベルマン」などの犬の集合がある。さらに上の階層(タイプ2)には「犬種」という集合の集合がある。ラッセルのタイプ理論は、実在するものをすべてこうして階層化する。

この階層は、個々の犬の持つ属性(吠える、四本足、しっぽがある、など)が、個々の犬という構成要素よりも、上位に位置する集合になる。理想言語的には、階層(タイプ)の位置関係は厳密に区別されねばならない。

だから、

1 犬は、吠える
2 この犬は、吠える

という2つの文章があったとき、厳密な理想言語的解釈では、2は下位のタイプ(この犬)の述語として「吠える」という上位のタイプが使われているから、意味が特定できる。しかし、1は、一般名詞としての「犬」と「吠える」は共に集合であり、タイプ1であるため、意味を成さなくなる。タイプ理論では、主語より述語は高階になければならない。
これでは述語が不完全記号になっている。

しかし、誰が読んでも1は日常言語としては意味が通る。そこでラッセルは記述理論によって、本来あるべき隠れた文章を補い、不完全記号を解体して意味を確定する方法を編み出した。

1は

「いかなるXについても、もしXが犬であるナラバ、Xは吠えるものである」

が本来の意味であり、日常言語では省略して「犬は吠える」と言っている、とフレーズを足すことで論理的にも意味が一つに確定できるようにした。こうしてみると、1は主語述語ではなく述語述語であったことになる。

タイプとは別にオーダーという系列もある。

「ナポレオンは、偉大な将軍に必要な属性をすべて持っていた」

という例が挙げられている。

その属性とは勇敢であり好色であり、頑健であり慎重であったりする。無数に属性を列挙できるがその中には「偉大な将軍に必要な属性をすべて持っている」という属性も仮定できる。

自己言及が含まれると状況は複雑になる。

タイプ1 勇敢、好色、頑健、慎重
タイプ2 偉大な将軍に必要な属性

という階層があることになる。タイプ1の述語としてタイプ2がある。

しかし「偉大な将軍に必要な属性をすべて持っている」は「偉大な将軍に必要な属性」に含められない非述語的な属性である。そこで、これをオーダーという別次元の系列とし、述語同士のもうひとつの階層関係と定義した(分岐タイプ理論)

要素の集合と階層を扱うタイプ理論だが、集合のややこしい問題に「自分自身の要素でない集合の、集合」がある。

「あなたが今日考えたものの集合」という場合、無数の考えたものに加えて「あなたが今日考えたものの集合」自体が含まれる。これは自分自身を要素とする集合である。逆には自分自身を要素としない集合がある。

「自分自身を要素とする」「自分自身を要素としない」は曖昧ではないので、「自分自身の要素でない集合である」ものは必然的に決まる。そうなれば「自分自身の要素でない集合、の集合」が考えられることになる。

だが、「自分自身の要素でない集合の、集合」とはなんだろうか。定義自体が矛盾しているようにも読めるが、これを考えた時期のラッセルは言語的に意味をなす表現は必ず指示対象を持つと考えていた。実在するにも関わらず、意味が特定できないものが、厳密な論理の果てにうまれてしまう。これがラッセルのパラドクスである。

自己言及を禁止することで、一応はこのパラドクスを回避できることはわかっている。だが、自己言及の禁止によって、扱えなくなる問題が数多くある短所があることなどがこの本に詳細に説明されていた。私の理解はまだまだ怪しいが、ラッセルは論理的に非常識を扱う風で興味深い。

もっともっと知りたくなる好奇心を書き立てられた入門書であった。

・考える快楽―グレイリング先生の哲学講義
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イギリスの哲学者が、「ガーディアン」紙上に寄稿した、人生の61の根源的テーマについてのエッセイ集。古典のように格調高い文章で淡々と以下のような主題を語る。


第1章 美徳と愚行―勇気とは、もって生まれた才能とひきかえに、人生が課した重荷に耐えることだ(道徳を説く、寛容、慈悲 ほか)

第2章 人生の苦しみと妄信―貧しき者は、すでに地獄での刑期を終えている(ナショナリズム、人種差別、種差別 ほか)

第3章 喜びと楽しみ―みずからを教育するからこそ、余暇を高貴に過ごせるのだ(理性、教育、卓越 ほか)

教師的な淡々とした語りの中に、毅然とした態度で著者自身の知見が述べられるのが、この本の読みどころ。

たとえば、

「寛容」では、


だからこそ、「寛容は不寛容にたいして寛容であるべきか」という問いにたいする答えは断固とした「ノー」であらねばならない。寛容は、それ自身が侵されないようにする必要がある。それは難しいことではなく、誰でも自分の見解を述べることはできるが、人に無理じいしてはならないと言いさえすればいい

「卓越」では、


民主主義を掲げている統治の大半は選挙による寡頭政治に過ぎないし、世界には、真の意味での民主主義はほぼ存在しない。それでも民主主義の精神は、よきにつけあしきにつけ、西欧社会を包囲している。そのよいほうの側面は、すべての人間を公平に扱うよう圧力をかけることにあり、悪いほうの側面は、すべての人間をそっくりおなじに扱うよう圧力をかけることにある。

「キリスト教信仰」では辛らつで


聖職者たちとは、二千年ほども流行おくれになっている道徳の詭弁にしがみつき、古代の超自然信仰を公然ともつ人々だ。社会状況に似つかわしい、思慮深く、教養のある、偏見のない意見にたいして、自分たちの見解のみが優先権を与えられるべきだと主張するのは、異常というしかない。

などと書いている。静かな中に確固とした思想を感じる。

原題はThe Meanings of things。考える価値のあることについて、自分なりの意味を考えることの重要性を教えてくれる一冊。

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