Books-Philosophyの最近のブログ記事
新しい概念としての「拡張した心」を中心に意識の問題を考察する。
「第一に、人間の心のはたらきと呼ばれているもののほとんどは、環境と円環的再帰的にインタラクションすることで成立していることである。人間の身体内部のはたらきは、そのループの一部をなしているにすぎない。そして、その円環的な相互作用のなかには、より小さな円環的相互作用が入れ子状に含まれている。」
そして著者は人間的環境を5つの構成要素に分類する
1 改変環境 都市や農村、人間の手が入った森林
2 構築物 家屋や建造物
3 道具 何かの目的を達成するための道具
4 他者 共同したり競争する他者
5 社会制度 言語や法、株式会社や保険、民主政治など集団行動のしくみ
こうした環境と連続的に相互作用をするアクターズネットワークが人間の世界なのだという。そして社会的アフォーダンスに反応する能力を持つ、自律的な存在として人間をとらえている。意識はないが、全体の文脈の中に自由意思はちゃんとあるのだと。「拡張した心」は環境や文脈と一体化している相互作用プロセスなので、ここに心とか意識がありますと部分的に切り出せるものではない。
著者が「実在しない」と否定するのは、脳の中に外界で起きていることが投影されるという「チューブタイプ」の意識だ。クオリアがやり玉に挙げられる。クオリア論者は、意識とは外界刺激を取り込んで映すスクリーンのようなものという。情報が神経系を伝わって脳に集まり、脳の中の心の座で情報が解読されるとする。しかし、著者は脳に伝達されるのは実際には刺激や興奮であり、それはどこかに終点があるわけではないだろう、と反論する。クオリアという主観的な内的性質は、外界の知覚対象のあり方から抽象された観念に過ぎないと批判する。
"脳が世界を見ている"のではない。あなたの心は"環境に広がっている"というのがこの本のメッセージである。後半では、人間には世界の中に実在する社会的な意味を読みとって相互作用をする存在たと言う「社会的アフォーダンス論」が展開されている。人間と環境の複雑な相互作用するアクターズネットワークとしての世界という世界観、ここも面白かった。
吉本隆明の論考集。文学、批評、戦争、生き方、才能、日本。わかりやすく、話し言葉風に語っているので、読みやすいのだが、10ページおきくらいに、さらっと深いことが書いてあって気が抜けない本である。この思想家は老いてからのほうが、一般読者にとって魅力を増していると思う。
いくつか私が感銘したポイントを文学論中心に抜き出してみる。
■俺だけにしかわからない価値
「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。とてもシンプルな見分け方と言ってよいでしょう。」
読者に「俺と作者にしかわからない」と思わせる作家は超一流で、「俺たちの世代にしかわからない」レベルがそれに次ぐ一流で、それ以外は全部普通の作家であるという。吉本隆明の文学批評の評価軸が鮮明にわかる。
■文学の有効性
「結局、初めは自分を慰めるだけのための密かに書いたものが、何となくいつの間にか人の目に触れるようになって、固定の読者も増えていく、そうして、その固定の読者にとってもまた、作品がその人を慰めるために役立つというのが、文学の本質的な有効性ではないでしょうか。」
文学の価値とは、自分の慰めが他者の慰めになるということ。それ以上でもそれ以下でもない。エンタテイメントの基本ともいえる定義だ。まず自分が楽しい表現の営為に始まる。最初から大衆に迎合して表現するようなのは二流、三流だということでもある。
■本の毒
「小説によっては、犯罪や人間失格的なものに価値を見出す内容のものもあります。それを読んで心を動かされることはあり得るでしょう。そして、現実世界でも人間失格的なものを目指そうとする。これを、毒がまわったととるか、人間として高度になったと解釈するか、人によって意見は分かれるかもしれません。ただ、どちらにしても確実なのは、何かに熱中するということは、そのことの毒も必ず受けるということです。」
だから文学を読めば感性が豊かになるとばかり考えていると間違うぞという。豊かにもなろうが毒も回るから、毒とのつきあいかたも覚えておかないと死ぬぞと脅す。昔は自分の思想を読んで運動に身を投じて死んだ若者がいたわけだし、三島由紀夫も自らの毒がまわって死んだんだと、時代を背負っていた思想家の迫力の論が続く。文学や思想のもつ毒の役割を強調する。善悪二元論で割り切るな、と。
人間の生き方は思春期の頃の母親との関係性で大方決まってしまうとか、明るい社会は滅びに向かう特徴で世相は暗いくらいがいいとか、三島みたいに人工的なのは無理があるとか、吉本孝明の、ちょっと偏った気がしないでもないが、歯に衣着せぬストレートな物言いが心地いい。
昭和の思想の深さを見直す文庫本としては
・人間の建設
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/05/post-1222.html
もよかったなあ。
即興芸術の本質とはなにか?。音楽のインプロビゼーション演奏と前衛演劇の表現を題材にしながら批評家 佐々木敦が「驚くべきことは、いかにして起こるのか?」を考え抜く。
優れた即興演奏は聴く者の期待を裏切ると同時に満足させる。音楽の約束事やありがちなパターンから自由でありつつも、音楽であることを止めてはいけない。演奏者と演奏者、そして演奏者と聴取者の想像力のせめぎあいの中から、即興は生まれてくる。それは「支離滅裂」や「破綻」や「台無し」とは違う定型なき形成だ。
「「即興」には常に「予測を予測する」というメタ的な審級がある。それはいわば「先読み」のひたすらな連鎖である。「演奏者」は「聴取者」の現前の認知によって、そのような「メタ予想」の交錯に巻き込まれざるを得なくなるし、逆に「聴取者」の方もまた、刻々と脳裏に浮かぶ自らの「予測」を「演奏者」がどこかで「予測」しつつ音を紡いでいることを忘れるわけにはいかない。こうして両者の「予測」と「メタ予測」(と「メタメタ予測」......)が激しいフィードバックを繰り返しながら、ある一度ごとの「インプロ」は生成されているのである。」
そもそも完全に自由な即興なんてあるのかという問題がある。表現者はあらかじめたくさんのイディオム、語彙を持っていて、適宜繰り出すだけではないのか?。実はイディオムの介在こそが非イディオムを可能ならしめるものなのだと著者はいう。
1)「イディオム」の編成/収斂を極力拒絶し、安定的な「構造」の成立を阻害しつつも、しかし「破綻」だけは回避し、広義の「構造」化への傾向性は担保すること
2)その場に存在する「他者」との応接、関わり合いを、一方的/根底的に反故にしないこと。
演奏=クリエイション、演奏=コミュニケーションという二つの制約条件に縛られながら、共同体の文法や言語体型、価値判断からの逃走と闘争を指向する。予定調和と思われないギリギリのラインでの破壊的創造が即興なのである。
即興やライブの魅力はデジタル複製コンテンツの時代にあって、むしろ希少性と言うか「本物」として価値は高まっていくものだと思う。
「演劇もダンスも僕が興味があるものって実は同じものなのかもしれなくて、それは要するに演劇もダンスも「今ここで一回しか起きない」っていう、「今ここ」っていうものに繋ぎ止められている。基本的には可能性の縮減の方だと思うんですよ。制限。今ここで起きた事をもう一回やってって言われても、もうそれって同じじゃないじゃんというのがあるわけじゃないですか。それがもう決定的で、そこの部分っていうのをどういう風に考えるかっていうのが、いわゆる複製芸術とかって言われるものとの違いだと思うんですよ。」
言語による即興の本質の解体は難しい。DVDや録画で後からでも見られるのにライブで見たいと思う心理は万人にある。それは即興ライブへの経験に基づく期待であり、即興の価値を証明することがいかに難しくても、それは必ず存在しているはずだ。
アレクサンドロス大王の家庭教師だった哲学者アリストテレスは、プラトンの弟子で、プラトンはソクラテスの弟子だった。ソクラテスはギリシア哲学の源流だが、彼自身は著作を残しておらず、弟子のプラトンらが、その思想を後世に伝えている。
ソクラテスはちょっと空気の読めない人だったようだ。
同時代の賢者と呼ばれる人たちを訪ねては問答して、彼らが無知を暴いて回った。そして彼らが無知であることに無自覚であるのに対して、自分は無知であることを自覚しているから、自分の方が優越していると人々に説いた。その結果、怒った賢者たちによって「ソクラテスは善良な市民を惑わす教えを広めている」と告発され裁判にかけられる。自業自得な気がするが、死罪が求刑の法廷で被告人が答弁したのが『ソクラテスの弁明』である。
私は無知であることを知っているから賢者であるという思想や、自分は貧乏だがそのことこそ私が清く正しいことの証明だとか、死を逃れるよりも悪を逃れることの方が難しいぞなどと反論をするが、高所からの物言いが、裁判感や陪審員に気に入られるはずもなく、死刑が確定してしまう。
実はこの死刑はソクラテスが牢屋から逃亡すれば、容易に逃れることができるものだった。そこで親友クリトンが牢に行って脱獄しなさいと勧めると、国法を守って死ぬことの正しさを滔々と語った。それが併録されている『クリトン』だ。結局、死ななくてもよかったのに、頑固なソクラテスは信念に殉じて毒を飲んで最期を遂げたといわれている。
スピーチの天才100人 達人に学ぶ人を動かす話し方
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/04/100-4.html
この本がきっかけで読んだわけだが、
"出発の時間になりました。これから私たちはそれぞれの道を行くことになります。私は死に、みなさんは生き続けます。どちらがよい道なのかは、神にしかわかりません ─── 「ソクラテスの弁明」紀元前399年、ギリシアのアテネで(プラトン著「ソクラテスの弁明」より)"
の文脈がよくわかった。
・切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

大量の情報からおいしい部分を摂取する電子書籍の時代は、深い読みが難しくなるのかもしれない。そういう時代の変わり目に、敢えて深い読書論を説く。強く響いた。
読むという行為は真剣勝負だ。そもそも他人が書いたものは読めないという。
「本を読むということは、下手をすると気が狂うくらいのことだ、と。何故人は本をまともに受け取らないのか。本に書いてあることをそのまま受け取らないのか。読んで正しいと思ったのに、そのままに受けとらず、「情報」というフィルターにかけて無害化してしまうのか。おわかりですね。狂ってしまうからです。」
ニーチェやカフカが本当の意味で読めてしまったら気が狂う。他人の夢をそのまま見るということは、正気を失うということだ。著者は世界の歴史を動かしてきたのはリテラシーにまつわる革命であったとみる。ルターやムハンマド、中世の宗教改革を振り返り、テクストを、本を、読み、読み変え、書き、書き変えること、すなわち文学(リテラシー)こそ革命の根源にあるというのがこの本の主な主張だ。
読むことや書くことが人の生き死にに関係しない社会になって久しい。ネットの時代には、ブログで書いた意見を批判されたら、翌日にスイマセン、僕、間違ってましたとかけば終わりだ。「転向」や「総括」なんてものものしい単語は死語になりつつある。
近代の思想や批評が、「「すべて」のものについてちょっとは気の利いた一言を差し挟むことができる技術」になりさがってしまったと知識人の堕落を批判する。
「ありとあらゆるものについて、「すべて」について、「それ知っているよ、これこれこういうことでしょ、それってそういうものに過ぎないよね」と脊髄反射的に言えるようになること。それによってメタレヴェルに立ち、自らの優位性を示そうとすること。これが思想や批評と呼ばれていたし、今でも呼ばれている。」
確かにいまは情報を効率よく処理して立ち回る方が、賢く見えてしまう時代だ。言葉に魂がこもらない時代には「言霊」もない。この本は読むこと、書くことの意味が軽薄になっていく今、敢えて命がけの読書の価値を再考する。
茂木健一郎のエッセイ集。表紙は河口洋一郎のCG。
『Nature Interface』誌連載をまとめたもの。タイトルのクオリア・テクニカとは、
「街頭テレビ、コンピュータゲーム、ケイタイ電話。新しいテクノロジーが登場する度に、人々を熱狂させたものは、便利さや速さやパワーではなく、それまでにないクオリアとの出会いだったのではないか。 環境や身体といった、伝統的な自然の中から生まれてくる質感が「クオリア・ナチュラレ」(自然のクオリア)だとすれば、テクノロジーの生み出す新しい質感は、「クオリア・テクニカ」(技術のクオリア)である。」
というもの、つまり、つくりものの質感のことである。都会に住んでいると、人は360度、人工物に囲まれている。さらにパソコンで仕事をする人、ゲームが好きな人、ケータイ中毒の人は長時間を、画面の中、仮想世界の中で過ごしている。人生の大半はクオリア・テクニカの世界なのだ。つくりものには違いないが、人間にとってもはやこれは本質的なものであることは間違いない。
著者は、「人間の肌のしっとりとした様子、ガラスのコップの透明な照り輝き、風に吹かれて揺れる若葉の緑、といった鮮烈なクオリアは、主観的には、どう考えてもある有限の数値で置き換えられるようには思えない。しかし、有限のビットのデジタル信号に基づく情報処理により、生々しいクオリアを感じさせることが技術的には可能である以上、そのようなクオリアも、客観的な立場からは、ある数字にマッピングが可能である、ということになる。」という。
ブルーレイやDVDの映像に私たちは感動する。リアリティを感じさせるのに有限のビットで十分なのだ。ラブプラスの二次元彼女にだって人は本気で萌える(これは一部限定ですが)。デジタルの表現力、バーチャルの可能性は無限に等しいということだろう。有限のビット数がきっかけになって脳にその情報以上のものが生み出されていくからだ。
脳におけるクオリアのはたらきの考察、創造性、イノベーション、インターネット、文明論など著者らしいテーマが続く。4ページで1つの短いエッセイが27本。どれも気づきのエッセンスだけなので、さらっと読めるが、それぞれじっくり考えさせられる内容。創造的な未来へ向かう提言も多い。
私は「イノベーションとセレンディピティ」がよかった。
「セレンディピティという概念が、現代的な文脈で注目される理由は、今日においても、イノベーションは必ずしも対象に関しての完全な知識に基づいて切り拓かれるわけではないからである。「やってみないとわからない」とよくいわれるが、まさに、十分な知識がない状態でも、知識がないからこそ、実験すること、試作してみることには意味がある。知識に基づいて新たな技術がトップダウンによって創りだされるということはむしろ稀であり、知識がないままにとりあえず「やってみる」ことで多くのイノベーションが達成されているのが実感であると考えられるのである。」
情報化の時代は、いろいろなことが、やってみるまえにわかってしまう。だからこそ、やってみることの価値、やってみないとわからないことの可能性があるのだと思う。クオリアの非加算性ということと似ている。
いま考えるべきキーワードが散りばめられた本だ。もう少し咀嚼整理されると読みやすくなると思うのだが、考えるための素材としてはこれくらいの全部入り感があったほうがいいのかもしれない。
正直書き方が難解で私には理解できなかった部分もかなりあるが、現代のネットワーク文化の本質に迫った議論を展開している、ような気がする本である。面白かったな。
著者は文化的な営みをすべて情報処理のプロセスとして見立てる。その上で、神話を「文化における情報処理の様式」ととらえる。ここでいう神話は、レヴィストロースの神話というより、日々生起している現代サブカルチャーやネットカルチャー(ニコニコ動画、2ちゃんねるなど)を指している。神話とはあらゆる"ネタ"だと思う。
1 神話はコミュニケーションを通じて「理解可能性」や「意味」、あるいは「リアリティ」といったものを提供するシステムだということ
2 神話は変換、変形、圧縮、置換といった操作を内蔵したシステムだということ。
3 時間にまつわる処理が本質的である
皆が共有している神話があると、コミュニケーションが活発になって、文化がどんどん進化するということである。「ネットワークを拡張する想像の力に対して、ネットワークを凝縮する象徴の力」。神話は同時代のさまざまな変換アルゴリズムに従って変容してきた。ここではサブカルチャーとネットカルチャーを題材に、この10年くらいの変容パターンが分析されている。
文学の分析の章ではこんなことが言われている。
「戦後日本の純文学の歴史において、これまで高く評価されてきたのは大江健三郎や三島由紀夫、中上健次といった作家である。簡単にまとめれば、彼等は古典的な文芸に遡り、その資源を現実の世界に二重写しにすることによって──つまり、自分自身の肉声を一度遮断し、古い集団言語を再利用することによって──神話を構築してきた作家たちだと言ってよい。<中略>それに対して、もう少し下の世代に当たる村上龍や村上春樹は、集団言語を組成する際に、古典に遡るのではなくむしろ市場の財の助けを借りた。」
これは文学評論だけでなくて、他の評論の分野ででそうかもしれない。特にネットワーク社会で起きていることは、新しいタイプの出来事であって、古い伝統社会の物語の枠では解釈ができなくなっている。伝統的な解釈をするマスメディアの評論家よりも、ブロゴスフィアやソーシャルネットワークで、受ける(売れる)物言いができる評論家が、Webの市場で人気が出る、というのと同じだと思う。
古い神話はもともとは口承でゆっくりと伝わってきたものだと思うが、ネット時代の神話は変換・変形・圧縮・置換のスピードも速そうだ。ライフゲームのように神話素同士が発火や消滅を繰り返し、何百世代を経過していく様子が、まるで生き物のように見える。そういう様子が、この本のいう「神話が考える」という状態のことなのかなあ。まだよくわからない。
・アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1040.html
この本が好きな人はこの本もどうぞという関係。
・知識人として生きる ネガティヴ・シンキングのポジティヴ・パワー

知識人であるために敢えて宗教色の強いインテリジェント・デザイン論を、裁判において支持する証言者をして物議を醸した(冒頭でなぜ支持したか釈明している)という、ユニークな経歴もある社会学者・哲学者が書いた知識人論。
そもそも現代において「知識人」と言う言葉はネガティブにもとらえられがちだが、本書が言うように、従来の知識人の果たしてきた役割に、「市場」がとってかわるようになったことと関係があるだろう。
「変わったのは、かつては責任を持った傲慢な一部の人たち(検閲者)によってなされていた「決定」が、今では多数の無邪気で無責任な人たち(消費者)の間に拡散してしまったということである。」
知識人に変わって「起業家」は市場に人々が求める商品を提示して革命を起こす。いまや知識人なんかより、グーグルやアップルの方がよほど革命的なのだ。では知識人なんてものは不要になってしまったのだろうか?。
「知識人とは、時勢における政治の実践者だ。彼等は後の世代をその支持者とする。彼等の本来の役割は、あらゆる優勢なものは常に一時的であり、覆されるものだということを示し、収支バランスを保つことである。つまり、知識人は、一般的な政治の問題において、その矛先を弱いものではなく、強いものに向けなければならないということだ。すなわち強いものを小さくするか、弱いものを大きくするかのどちらかだ。要するに、知識人は非神話化の実行者あるいはソフィストになることができる。」
著者の主張を、グーグルやアップルの神話を非神話化する役割としてこそ知識人は必要という意味に読んだ。起業家にはそれはできないことなのだ。
「...ある知識の正確な意味は、その創成の時点では、必ずしも完全には把握されていないので、知識生産に最も多く投資する人が、その主な受益者とはならないこともあり得る。それでも、これらの「労せずして稼ぐ」受益者を排除しようとすれば、なお高くつくことになろう。この逆説的な状況は、経済学者が知識を「公共財」と呼ぶ場合に意味されているものを捉えているわけだ。」
いかにも「知識人」らしく、言い回しが凝っていて、全体的に難解な書物だが、冒頭でこの本が言いたいことはやさしく要約されている。つまり、以下のようなメッセージだ。
知識人は、
1 自分自身で評価する能力はきちんと持ったままで、しかし、ものを多面的に読めることができるようにしよう
2 どんなメディアにおいても、どんな思想内容をも、自由に伝えることができるように、自らを鍛えよう
3 どんな論点も、完全に違っているとか、完全に無視できる、などとは考えないようにしよう
4 誰かの意見に対して、自らの意見を言うとき、それを強化するのではなく、むしろ、反対のバランスをとるように計らおう
5 公的な議論では、真実に対しては粘り強く論じ、しかし誤謬に関しては寛容に許容しよう
という志をもつ人であり、それは絶対的な真理を確定させる科学者や、世にでて意見を言うことがない哲学者などともスタンスが異なると定義する。
ネガティヴ・シンキングのポジティヴ・パワーという副題がついているが、実際にいると同時代的には「嫌な奴」であろう。戦争しようと皆が熱くなっているときに、一人冷静に反戦を主張できる人のことだ。だが派手なパフォーマンスはしないから目立たない。大変に損な役回りだろうし、どうやって生きていけばいいのだろうか?。著者は「知識人についてびよくある質問」として問答集でそうした疑問に対して答えている。
スペシャリストの時代から再びジェネラリストの時代へ。絶対的な一つの真実ではなく、社会における「真実全体」を追い求めよう、というメッセージは、グローバリズムとダイバシティがせめぎあう現代において、知の担い手のあるべき姿のひとつを提示している
ように思った。
・知識人とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/01/post-517.html
・知識の社会史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1069.html
・インターネットはいかに知の秩序を変えるか? - デジタルの無秩序がもつ力
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/04/post-1210.html
孤高の天才科学哲学者ファイヤアーベントの代表作。知のアナーキズム。ゲーデルの不完全性定理やドーキンスの生命機械論並みに、人生観を変えるくらいのインパクトがある本。
「科学は本質的にアナーキスト的な営為である。すなわち理論的アナーキズムは、これに代わる法と秩序による諸方策よりも人間主義的であり、また一層確実に進歩を助長する。」よって、進歩を妨げない唯一の原理は、anything goes(なんでもかまわない)であるというのがこの本の理論である。
ファイヤアーベントは、科学は一般にどこまでも合理的と考えられているが、実は神話に近いものであり、人類の数多くの思考形式のひとつに過ぎず、特別なもの、最良なものというわけではないと論ずる。なぜなら科学の進歩は、古い合理性の外側からやってきた非合理な発見によって牽引されてきたからである。
「繰り返して言うが、この束縛解放の実践は、単に科学史上の事実であるというだけではない。それは理にかなっていると同時に、知識の発展のために絶対的に必要とされるものである。もっと詳しく言うと、次のことを示すことができる。すなわち、科学にとってどんなに「基本的」であれ、ないしは「必要な」ものであれ、ある規則があったとすると、単にその規則を無視することのみならず、その反対のものを採用することが賢明であるような、そうした状況が必ずあるのである。」
あらゆる方法論が普遍の地位を与えられてはならず、狂気や遊戯、トンデモ科学やきまぐれのようなハチャメチャさにこそ、方法論が真に進化する可能性が秘められているという。秩序ではなく無秩序こそ重要ということになる。
「これらの「逸脱」、これらの「誤謬」は進歩の必要条件なのである。それらはわれわれが住んでいる複雑で困難な世界の中で知識が生きのびることを可能にし、われわれが自由で幸せな行為主体であることを可能にする。「混沌」がなければ、知識はない。理性の度重なる解任がなければ、進歩はない。今日科学の他ならぬその基礎を形成している観念は、ひとえに、先入見、うぬぼれ、情熱のようなものが存在したために、現存しているのである。」
発見の文脈と正当化の文脈の区別、観察語と理論語との区別、共約不可能性といった観点から、完全に合理的で普遍的な方法論よりも、アナーキーになんでもありの方法論の方が、知識の発展において価値があるということを証明していく。結構な大著だが、全体が理性という権威に対する反抗の意思に満ちており、とても血の騒ぐ熱い本である。
遊びや例外はいつだってなきゃいけないのである、それこそ本質なのである、四角定規でなんでも測れると思ったら大間違いなのである。「あらゆる方法論は限界をもち、生き残る唯一の「規則」は「なんでもかまわない(だから好きなようにしろ)なのである。」だそうだ。秩序のない現代にドロップキック万歳。
・理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 -
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/10/post-1099.html
・パラダイムとは何か クーンの科学史革命
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/post-1150.html
・知識の社会史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1069.html
ショーペンハウエルによれば知性とは普遍的な事柄の認識能力である。知識欲が普遍へ向かうと学究心と呼ばれ、個別へ向かえば好奇心になる。個別への関心は動物でもあるが、普遍をとらえるのは人間だけである。だからその普遍度が哲学や芸術のように高ければ高いほど知的レベルが高い、とする。逆に知性が欲望を満たすことや実践的な物事の処理に奉仕するのは、低レベルな知性だという。
そして世の中を大多数の凡人と、一握りの天才にわける。
「大多数の人間は、その本性上、飲食と性交以外の何事にも真剣になれないという性質をもっている。この連中は、希有の崇高な資質の持ち主が、宗教や学問や芸術の形で世の中にもたらしてきたすべてのものを、たいていは自分の仮面として用いて、ただちに彼らの低級な目的のための道具として利用することになる。」
つまりショウペンハウエルに言わせれば"プロ"や"MBA"は知性のうちに入らない。ただの"学者"も失格扱い。そういう世俗で役立つことに役立っちゃうようではまだまだレベルが低いのだ。本書の天才は1億人に1人という記述もあったくらいで、著者の志はとてつもなく高い。
じゃあ、どうやったら天才に近づけるのか?。それは世俗との断絶だと答えている。
「独創的で非凡な、場合によっては不朽であるような思想を抱くためには、しばらくの間世間と事物とに対して全然没交渉になり、その結果、ごくありふれた物事や出来事さえも、まったく新しい未知の姿で現れてくるというようにすれば、それで足りるのである。というのは、まさにこのことによって、それらの物事の真の本質が開示されるからである。しかしながら、ここで求められる条件は、困難であるどころか、決してわれわれの自由にならないものなのであり、ほかでもなく、天才のはたらきなのである。」
誰からも教わることなく、自らうみだした知識を人類に教えるのが、そうした天才の役割だと説く。凡人の知性は日常にしばられているから、解放しないとだめなのだ。どんだけ高みを目指しているんだあんたはという感じである。
私はショーペンハウエルの拗ねた哲学がときどき無性に読みたくなる。不遇のショーペンハウエルは自身をその天才の一人と認識して書いているのは間違いないように思う。圧倒的な知性を持った拗ね者の独白として、その背景の心理に着目して読むと、ショーペンハウエルの厭世哲学はなんだか非常に人間的で、実は弱者的で、共感するところもいっぱいの、おもしろさを感じてしまう。
・読書について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/01/post-913.html
ハイパーテキスト形式知の時代だからこそ読み返す意義がある、かなと思って再読。
言葉にできない知=暗黙知について書かれた古典。
「暗黙的認識をことごとく排除して、すべての知識を形式化しようとしても、そんな試みは自滅するしかないことを、私は証明できると思う。というのも、ある包括的存在、たとえばカエルを構成する諸関係を形式化するためには、まずそのカエルが、暗黙知によって非形式的に特定されていなければならないからだ。実際、そのカエルについて数学的に論じた場合、その数学理論の「意味」は、相も変わらず暗黙的に認識され続けるカエルと、この数学理論との、持続的な関係の中にあるのだ。」
ある理論が認識されるのは、それが内面化されて自在に活用されるようになってからだ、という。この考え方は、意識に上る0.5秒前に脳は準備をしているという、脳科学者ベンジャミン・リベットの意識の遅延論と符合するものなのかもしれない。
・マインド・タイム 脳と意識の時間
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005226.html
「自由で自発的なプロセスの起動要因は脳内で無意識に始まっており、「今、動こう」という願望や意図の意識的なアウェアネスよりもおよそ400ミリ秒かそれ以上先行していることを私たちは発見し、明らかにしました。」
ポランニーによれば、知識とは信念の一種である。信念は思いつきに先行する。だから発明や発見のプロセスは信念に導かれるように行われる。ポランニーによれば、
(1)問題を妥当に認識する。
(2)その解決へと迫りつつあることを感知する自らの感覚に依拠して、科学者が問題を追究する
(3)最後に到達される発見について、いまだ定かならぬ暗示=含意を妥当に予期する。
という3段階で、イノベーションを実現していく。
「すなわち、私たちは初めからずっと、手掛かりが指示している「隠れた実在」が存在するのを感知して、その感覚に導かれているのだ。」
アイデアを思いつくときの"神"が舞い降りてくる感覚を合理的に説明している。そしてそのエウレカ!な瞬間はどういう場所に訪れるのか?、ポランニーはこう答える。
「(1)発見を触発して導く場は、より安定した構造の場ではなく、「問題の場」である。(2)発見が起こるのは、自然発生的ではなく、ある隠れた潜在的可能性を現実化しようと「努力」するからである。(3)発見を触発する、原因のない行為は、たいてい、そうした潜在的可能性を発見しようとする「想像上の衝迫」である。」
形式知は暗黙知という巨大氷山の一角であり、たとえ自分の知識を書き出せる限り全部文字に書き出しても、なお知の本質的な大部分は隠れている。インターネット上に現れる知は膨大だがすべて形式知である。水面下にあるInvisibleな膨大な知をどう引き出すかが次の知の構造化の課題だ。「想像上の衝迫」はたぶん、活発なコミュニティの中にあるように思う。
・グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学

書名を見てもっと一般向けの本かな?と勘違いしたが、読んだら実際には「編集文献学」という、あまりなじみのない文学研究領域の専門書であることがわかった。著者はひたすらに、文学研究者にとって理想的な研究プラットフォームとしての電子テキストのシステムを追究している。それはただ出版された本をデジタル化しただけのグーグルブック検索とはちょっと違うぞと異論を述べる。
「つまり真に複雑で、持続的で、アクセス可能で、美しく、洗練された電子的な(再現能力を持つ)情報収蔵所を作ることが望ましいのは、編集文献学が、単なる物体として(あるいは電子としての)単語からなるテキストだけではなく、コミュニケーションの行為すべて(誰が、何をどこで、どのようなコンテキストで、誰に向かっていったのか)を発見、保存、提示しようとしているからなのだ」
編集文献学の研究者は、公表されたテキストは、著者を取り巻く社会関係や歴史的な前後の文脈や、編集や出版の技術と切り離せない関係にある、というインターテクスチュアリティの立場を取る。だから、最終版のテキストだけでは研究に不十分で、作品の全部のバリエーションや「メイキング」情報を保存し、検索できるようにせよ、と主張しているようだ。
プラトン的な伝統的テキスト観では、「正しい」読み方を知っている同質な精神を持つエリート解釈共同体が前提とされていた。だから唯一の無謬の原本の追求幻想があった。しかし多様な知が混沌と共存するインターネット時代には、テキストの前にそのような正解や権威は望めなくなっている。むしろ、ハイパーテキストの自在なリンク技術のある世界ならば、多様な読みを可能にする環境の方が生産的でさえあるだろう。匿名コミュニティによって編集された電車男みたいなテキストは、プロセス自体がテキストのようなものだ。
著者は技術者ではないから知らないようだが、CVSやSubversionのようなプログラム開発者向けバージョン管理システムは、その理想にかなり近い気がする。できる限り、あらゆるバージョンを残し、開発時の設定を保存していく。すべてのメイキング情報や著者のコンテクストを残す、という思想に近いものを感じる。
また、編集文献学アプローチの今後の最大の敵は、おそらくグーグルではなくて、テキストの書き手=著者だろうと思う。すべてが検索してたどれる時代だからこそ、ある種の書き手は、途中の版やメイキング情報を消して、最終版だけを残したいと願うのではなかろうか。執筆時のメモなんて見せたくない心理である。デジタルな資料は、紙以上に容易に消去できる。
編集文献学という極めてマニアックなテーマを哲学的に追究した専門書。読者はかなり限定されそうな本であるが、インターネット上で文学研究システムを開発したい人など読んでみるとよいかもしれない。
ゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理、アロウの不可能性定理。それぞれを数学と論理学の限界、科学の限界、民主主義の限界と言いかえることもできる。3つの限界から、人間は何をどこまで、どのようにして知ることができるかを、仮想的なシンポジウム形式で議論する。
仮想的な登場人物は"司会者"と数十名。"大学生""会社員""哲学者""数学者""情報科学者""科学史家""論理学者""方法論的虚無主義者"など、それぞれの立場から、限界に対する意見が表明される。専門的な話も、大学生や会社員がわかるように、司会者が誘導する。
ノーベル経済学者のアマルティア・センは、理性の限界を認識せず、既存の合理性ばかりを追う人を「合理的な愚か者」と呼んだそうだが、ほとんどの現代人は愚か者に該当してしまうだろう。なぜ知ろうとしないかと言えば、知っても知的好奇心を満たす以上に、実践的に役立つことがほとんどないから、というのが主な原因だろう。
これら3つの限界の共通点は、人間の能力や技術が不足しているからではなくて、原理的に無理だから、という性質である。どうやっても無理、絶対無理なのである。ただし、その無理というのは理論的に極限的な状況においての話である。普通の人間がそうした限界を実際に経験することはほとんどないといっていい。だから、知っていても、知らなくても大体において、大差はないのである。
しかし、知的好奇心は満たされる。理性でとらえられないもの、理性を超越したもの、を考えるのは、とても楽しい。囚人のジレンマ、ナッシュ均衡、ラプラスの悪魔、シュレディンガーの猫、アインシュタインの相対性理論、神の非存在論、コンドルセのパラドクス...限界を説明するための何十個もの理論が紹介されている。科学や哲学の世界を積み上げ式で全部理解していくとしたら大変だが、こうした限界点を一周めぐることによって効率よく人間の知の全体像が見えてくる気がした。。
ただ、どうだろ、原理的に無理でも、原理の認識を変えることはありえるかもしれない。脳を改造して、私たちの認識や思考能力を根本的に書き換えることができるようになったら、こうした限界を近い将来に超越することもあるんじゃないかなあ。
キルケゴールが1846年に書いた本なのだが、ここで批判対象の現代はそのまま私たちの現代とつながっており、この160年間というもの、現代性というのはほとんど変わっていないのかと可笑しくなる。基本にあるのは、革命時代は本質的に情熱的で躍動の時代だった、それに比べて現代は情けない、トホホという論調である。
「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。 アルコール飲料などの消費量の統計表があるのと同じように、分別の消費について年代順の統計表を作ってみたとしたら、今日いかに莫大な量の分別が消費されているかを知って、ひとはびっくりすることだろう。」
キルケゴールに言わせると、現代は情報過多というより分別過多なのだ。物を知りすぎて、わかったつもりで、考えてしまうから手が出ない。先進国で晩婚化がすすむ原因もここにあるのかもしれない。相手のことや未来のことを考え始めたらきりがない。情報と分別があるとき、人は見る前に跳べなくなる。
「現代は平均しておそらく過去のどの世代よりも物知りだといえるだろう。しかし現代には情熱がない。だれもがたくさんのことを知っている。どの道を行くべきか。行ける道がどれだけあるか、われわれはみんな知っている。だが、だれひとり行こうとはしない。もしだれかがついに自分自身のなかにある反省に打ちかって行動に出る人があったとしたら、その瞬間に無数の反省が外部からその人間に向かって抵抗することだろう。もっとよく考えてみようではないかという提案だけが、燃えあがる感激をもって迎えられ、行動は無感動をもって遇せられるからである。」
「もっとよく考えてみよう」は、ある意味では、分別財、検討財とでも呼べるようなビジネス書の市場を形成している。ビジネス書の大半は読まれて検討されるだけで実践されない。検索エンジンもまたその延長といえる。多くのページがヒットするがほとんど読まれない。グーグルのなかでぐるぐる逡巡するのが現代であり、それを見通したグーグルは時代の勝者なのだ。
「人生いかに生くべきかといった課題は現実の関心を失ってしまい、成熟して決断となるべき内面性のこうごうしい成長をはぐくむような幻想などありはしない。人々はお互いに好奇の目を向けあい、決断できぬままに、かつ、逃げ口上をちゃんと心得て、なにかやる人間が現れるのを待望し───現れたら、そいつを賭けの種にしようというわけなのだ。」
かくして情熱を失った人々は、自ら起業するよりも、なにかやる人間の会社への株式投資を選ぶ。結局のところ、分別と情熱というのはトレードオフなのだろうか。キルケゴールは、人は直接的に感激した後、いったん冷静な賢さの時期が来るが、さらにそれを乗り越えて考え抜いた極致にこそ、強烈な無限性の感激があると書いている。そうした高度には一般人は到達することはほとんどないのだ、とも。
これは絶賛すべき素晴らしい本である。人間の創造的能力、ひらめきの正体をずばり言い当てている。本当におすすめ。記号学で知られる偉大な論理学者・科学哲学者チャールズ・パース(1839~1914)の思想を一般向けにわかりやすく説明している。
アインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言った。観察によってデータをいくらたくさん集めても、既存の理論の検証が進むだけである。帰納法からは斬新な新理論、イノベーションは生まれない。論証を行うのみである演繹法からも無論、新しい理論は出てこない。
パースは人間の推論には演繹と推論とアブダクションの3つの形式があるのだと指摘した。
アブダクションとは、
驚くべき事実Cが観察される
しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。
という推論形式である。
説明すべき事実に対してたくさんの仮説を立てて、その中からもっともらしい仮説を選び出す拡張的な推論プロセスである。パースは分析的推論として演繹があり、拡張的推論として帰納とアブダクションがあると整理した。
「手短にいうと、アブダクションは科学的探究のいわゆる「発見の文脈」(the context of discover)において仮説や理論を発案する推論であり、帰納はいわゆる「正当化の文脈」(the context of justufication)において、アブダクションによって導入される仮説や理論を経験的事実に照らして実験的にテストする操作です。つまりアブダクションの「拡張的」帰納は仮説や理論を検証するための実験を考えることなのです。」
アブダクションは帰納と比較して創造性の高い拡張的推論だが、過謬性の高い、論証力の弱い推論でもある。だが既存の枠組みを超えるイノベーションを生み出すために不可欠な、もっとも優れた推論なのだとパースは高く評価する。
「アブダクションは最初にいくつかの仮説を思いつくままに提起する示唆的な段階と、それらの仮説のなかからもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟慮的な推論の段階から成り立っている」
第一段階として仮説はどこから生まれるのか?という疑問がわく。アイデアは頭の中から自然と涌いてくるものだ。何の法則も根拠も見えない。そこには創造的な飛躍があるのだと著者は論じる。
「帰納的飛躍は観察可能な同種の事象のクラスにおける部分から全体への一般化の飛躍であり、これに対し、仮説的飛躍はわれわれが直接観察したものからそれとは違う種類の何ものか、そしてしばしば直接には観察不可能な何ものかを仮定する創造的推測の飛躍です。」
なぜヒトは「ひらめく」ことができるのか?。なぜ人間は創造性を持っているのか。それは進化生物学的に説明がつくとアブダクション研究者は考えた。生きていくための問題をとくためには発想力が必要だ。アブダクションは人類進化の過程で自然に適応するために人間精神に備わった「自然についての正しく推測する本能的能力」なのだと看破した。
「「ところで、アブダクティブな示唆は閃光のようにわれわれに現れる」ということについてですが、パースはこの洞察の働きについて、それは何か説明不可能な「非合理的要素」とか不可解な神秘的能力というようなものではなく、それは自然に適応するために人間に本来備わっている本能的能力である、といいます。それはつまり、人類進化の過程のなかで自然の諸法則との絶えざる相互作用を通して、それらの自然の法則の影響のもとで育まれ発展してきた人間の精神に備わる「自然について正しく推測する本能的能力」である、というのです。」
アブダクションでは、そうした「示唆的段階」で生み出したたくさんの仮説(アイデア)の中から、
1 もっともらしさ もっともらしい理にかなった仮説
2 検証可能性 実験的に検証可能な仮説
3 単純性 より単純な仮説
4 経済性 実験に経費、時間、思考、エネルギーが節約できる仮説
という基準でもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟考的段階に進む。
科学的探究過程ではアブダクションに続いて、仮説を解明する演繹が続く。選ばれた仮説から必然的または非情に高い確率で導かれる経験的帰結を導出するのが演繹であり、証明である。そしてすべての考えられる帰結が集められたら、それらの仮説が経験的に正しいかどうかを帰納法で判断する。科学は3つの推論を経て進歩してきた歴史だという。
「一般には仮説を形成することが科学的な仕事の中ではもっとも難しいのであり、偉大な能力が不可欠となる部分である。これまでのところ、仮説を規則にしたがって発明することを可能にするような方法は見出されていない。」とバートランド・ラッセルはベーコンの帰納法の限界を批判したそうだ。アブダクションという厳密でない推論こそ人類の叡智の中核をなす能力と言える。
パースの思想が意外にも進化生物学と接近する部分がとても面白く感じた。パースらによると人間には創造性が進化の過程でビルトインされているわけだ。それを信じてアイデアをどんどん出していけば、きっとイノベーションを生み出せる、ということになる。創造性に富んだ個体だけが生き残ってきたのだから。さあブレスト、ブレスト!。












