Books-Philosophyの最近のブログ記事

・方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム
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孤高の天才科学哲学者ファイヤアーベントの代表作。知のアナーキズム。ゲーデルの不完全性定理やドーキンスの生命機械論並みに、人生観を変えるくらいのインパクトがある本。

「科学は本質的にアナーキスト的な営為である。すなわち理論的アナーキズムは、これに代わる法と秩序による諸方策よりも人間主義的であり、また一層確実に進歩を助長する。」よって、進歩を妨げない唯一の原理は、anything goes(なんでもかまわない)であるというのがこの本の理論である。

ファイヤアーベントは、科学は一般にどこまでも合理的と考えられているが、実は神話に近いものであり、人類の数多くの思考形式のひとつに過ぎず、特別なもの、最良なものというわけではないと論ずる。なぜなら科学の進歩は、古い合理性の外側からやってきた非合理な発見によって牽引されてきたからである。

「繰り返して言うが、この束縛解放の実践は、単に科学史上の事実であるというだけではない。それは理にかなっていると同時に、知識の発展のために絶対的に必要とされるものである。もっと詳しく言うと、次のことを示すことができる。すなわち、科学にとってどんなに「基本的」であれ、ないしは「必要な」ものであれ、ある規則があったとすると、単にその規則を無視することのみならず、その反対のものを採用することが賢明であるような、そうした状況が必ずあるのである。」

あらゆる方法論が普遍の地位を与えられてはならず、狂気や遊戯、トンデモ科学やきまぐれのようなハチャメチャさにこそ、方法論が真に進化する可能性が秘められているという。秩序ではなく無秩序こそ重要ということになる。

「これらの「逸脱」、これらの「誤謬」は進歩の必要条件なのである。それらはわれわれが住んでいる複雑で困難な世界の中で知識が生きのびることを可能にし、われわれが自由で幸せな行為主体であることを可能にする。「混沌」がなければ、知識はない。理性の度重なる解任がなければ、進歩はない。今日科学の他ならぬその基礎を形成している観念は、ひとえに、先入見、うぬぼれ、情熱のようなものが存在したために、現存しているのである。」

発見の文脈と正当化の文脈の区別、観察語と理論語との区別、共約不可能性といった観点から、完全に合理的で普遍的な方法論よりも、アナーキーになんでもありの方法論の方が、知識の発展において価値があるということを証明していく。結構な大著だが、全体が理性という権威に対する反抗の意思に満ちており、とても血の騒ぐ熱い本である。

遊びや例外はいつだってなきゃいけないのである、それこそ本質なのである、四角定規でなんでも測れると思ったら大間違いなのである。「あらゆる方法論は限界をもち、生き残る唯一の「規則」は「なんでもかまわない(だから好きなようにしろ)なのである。」だそうだ。秩序のない現代にドロップキック万歳。


・理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 -
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/10/post-1099.html

・パラダイムとは何か クーンの科学史革命
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/post-1150.html

・知識の社会史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1069.html

・知性について 他四篇
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ショーペンハウエルによれば知性とは普遍的な事柄の認識能力である。知識欲が普遍へ向かうと学究心と呼ばれ、個別へ向かえば好奇心になる。個別への関心は動物でもあるが、普遍をとらえるのは人間だけである。だからその普遍度が哲学や芸術のように高ければ高いほど知的レベルが高い、とする。逆に知性が欲望を満たすことや実践的な物事の処理に奉仕するのは、低レベルな知性だという。

そして世の中を大多数の凡人と、一握りの天才にわける。

「大多数の人間は、その本性上、飲食と性交以外の何事にも真剣になれないという性質をもっている。この連中は、希有の崇高な資質の持ち主が、宗教や学問や芸術の形で世の中にもたらしてきたすべてのものを、たいていは自分の仮面として用いて、ただちに彼らの低級な目的のための道具として利用することになる。」

つまりショウペンハウエルに言わせれば"プロ"や"MBA"は知性のうちに入らない。ただの"学者"も失格扱い。そういう世俗で役立つことに役立っちゃうようではまだまだレベルが低いのだ。本書の天才は1億人に1人という記述もあったくらいで、著者の志はとてつもなく高い。

じゃあ、どうやったら天才に近づけるのか?。それは世俗との断絶だと答えている。

「独創的で非凡な、場合によっては不朽であるような思想を抱くためには、しばらくの間世間と事物とに対して全然没交渉になり、その結果、ごくありふれた物事や出来事さえも、まったく新しい未知の姿で現れてくるというようにすれば、それで足りるのである。というのは、まさにこのことによって、それらの物事の真の本質が開示されるからである。しかしながら、ここで求められる条件は、困難であるどころか、決してわれわれの自由にならないものなのであり、ほかでもなく、天才のはたらきなのである。」

誰からも教わることなく、自らうみだした知識を人類に教えるのが、そうした天才の役割だと説く。凡人の知性は日常にしばられているから、解放しないとだめなのだ。どんだけ高みを目指しているんだあんたはという感じである。

私はショーペンハウエルの拗ねた哲学がときどき無性に読みたくなる。不遇のショーペンハウエルは自身をその天才の一人と認識して書いているのは間違いないように思う。圧倒的な知性を持った拗ね者の独白として、その背景の心理に着目して読むと、ショーペンハウエルの厭世哲学はなんだか非常に人間的で、実は弱者的で、共感するところもいっぱいの、おもしろさを感じてしまう。

・読書について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/01/post-913.html

暗黙知の次元

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・暗黙知の次元
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ハイパーテキスト形式知の時代だからこそ読み返す意義がある、かなと思って再読。

言葉にできない知=暗黙知について書かれた古典。

「暗黙的認識をことごとく排除して、すべての知識を形式化しようとしても、そんな試みは自滅するしかないことを、私は証明できると思う。というのも、ある包括的存在、たとえばカエルを構成する諸関係を形式化するためには、まずそのカエルが、暗黙知によって非形式的に特定されていなければならないからだ。実際、そのカエルについて数学的に論じた場合、その数学理論の「意味」は、相も変わらず暗黙的に認識され続けるカエルと、この数学理論との、持続的な関係の中にあるのだ。」

ある理論が認識されるのは、それが内面化されて自在に活用されるようになってからだ、という。この考え方は、意識に上る0.5秒前に脳は準備をしているという、脳科学者ベンジャミン・リベットの意識の遅延論と符合するものなのかもしれない。

・マインド・タイム 脳と意識の時間
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005226.html
「自由で自発的なプロセスの起動要因は脳内で無意識に始まっており、「今、動こう」という願望や意図の意識的なアウェアネスよりもおよそ400ミリ秒かそれ以上先行していることを私たちは発見し、明らかにしました。」

ポランニーによれば、知識とは信念の一種である。信念は思いつきに先行する。だから発明や発見のプロセスは信念に導かれるように行われる。ポランニーによれば、

(1)問題を妥当に認識する。
(2)その解決へと迫りつつあることを感知する自らの感覚に依拠して、科学者が問題を追究する
(3)最後に到達される発見について、いまだ定かならぬ暗示=含意を妥当に予期する。
という3段階で、イノベーションを実現していく。

「すなわち、私たちは初めからずっと、手掛かりが指示している「隠れた実在」が存在するのを感知して、その感覚に導かれているのだ。」

アイデアを思いつくときの"神"が舞い降りてくる感覚を合理的に説明している。そしてそのエウレカ!な瞬間はどういう場所に訪れるのか?、ポランニーはこう答える。

「(1)発見を触発して導く場は、より安定した構造の場ではなく、「問題の場」である。(2)発見が起こるのは、自然発生的ではなく、ある隠れた潜在的可能性を現実化しようと「努力」するからである。(3)発見を触発する、原因のない行為は、たいてい、そうした潜在的可能性を発見しようとする「想像上の衝迫」である。」

形式知は暗黙知という巨大氷山の一角であり、たとえ自分の知識を書き出せる限り全部文字に書き出しても、なお知の本質的な大部分は隠れている。インターネット上に現れる知は膨大だがすべて形式知である。水面下にあるInvisibleな膨大な知をどう引き出すかが次の知の構造化の課題だ。「想像上の衝迫」はたぶん、活発なコミュニティの中にあるように思う。

・グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学
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書名を見てもっと一般向けの本かな?と勘違いしたが、読んだら実際には「編集文献学」という、あまりなじみのない文学研究領域の専門書であることがわかった。著者はひたすらに、文学研究者にとって理想的な研究プラットフォームとしての電子テキストのシステムを追究している。それはただ出版された本をデジタル化しただけのグーグルブック検索とはちょっと違うぞと異論を述べる。

「つまり真に複雑で、持続的で、アクセス可能で、美しく、洗練された電子的な(再現能力を持つ)情報収蔵所を作ることが望ましいのは、編集文献学が、単なる物体として(あるいは電子としての)単語からなるテキストだけではなく、コミュニケーションの行為すべて(誰が、何をどこで、どのようなコンテキストで、誰に向かっていったのか)を発見、保存、提示しようとしているからなのだ」

編集文献学の研究者は、公表されたテキストは、著者を取り巻く社会関係や歴史的な前後の文脈や、編集や出版の技術と切り離せない関係にある、というインターテクスチュアリティの立場を取る。だから、最終版のテキストだけでは研究に不十分で、作品の全部のバリエーションや「メイキング」情報を保存し、検索できるようにせよ、と主張しているようだ。

プラトン的な伝統的テキスト観では、「正しい」読み方を知っている同質な精神を持つエリート解釈共同体が前提とされていた。だから唯一の無謬の原本の追求幻想があった。しかし多様な知が混沌と共存するインターネット時代には、テキストの前にそのような正解や権威は望めなくなっている。むしろ、ハイパーテキストの自在なリンク技術のある世界ならば、多様な読みを可能にする環境の方が生産的でさえあるだろう。匿名コミュニティによって編集された電車男みたいなテキストは、プロセス自体がテキストのようなものだ。

著者は技術者ではないから知らないようだが、CVSやSubversionのようなプログラム開発者向けバージョン管理システムは、その理想にかなり近い気がする。できる限り、あらゆるバージョンを残し、開発時の設定を保存していく。すべてのメイキング情報や著者のコンテクストを残す、という思想に近いものを感じる。

また、編集文献学アプローチの今後の最大の敵は、おそらくグーグルではなくて、テキストの書き手=著者だろうと思う。すべてが検索してたどれる時代だからこそ、ある種の書き手は、途中の版やメイキング情報を消して、最終版だけを残したいと願うのではなかろうか。執筆時のメモなんて見せたくない心理である。デジタルな資料は、紙以上に容易に消去できる。

編集文献学という極めてマニアックなテーマを哲学的に追究した専門書。読者はかなり限定されそうな本であるが、インターネット上で文学研究システムを開発したい人など読んでみるとよいかもしれない。

・理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性
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ゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理、アロウの不可能性定理。それぞれを数学と論理学の限界、科学の限界、民主主義の限界と言いかえることもできる。3つの限界から、人間は何をどこまで、どのようにして知ることができるかを、仮想的なシンポジウム形式で議論する。

仮想的な登場人物は"司会者"と数十名。"大学生""会社員""哲学者""数学者""情報科学者""科学史家""論理学者""方法論的虚無主義者"など、それぞれの立場から、限界に対する意見が表明される。専門的な話も、大学生や会社員がわかるように、司会者が誘導する。

ノーベル経済学者のアマルティア・センは、理性の限界を認識せず、既存の合理性ばかりを追う人を「合理的な愚か者」と呼んだそうだが、ほとんどの現代人は愚か者に該当してしまうだろう。なぜ知ろうとしないかと言えば、知っても知的好奇心を満たす以上に、実践的に役立つことがほとんどないから、というのが主な原因だろう。

これら3つの限界の共通点は、人間の能力や技術が不足しているからではなくて、原理的に無理だから、という性質である。どうやっても無理、絶対無理なのである。ただし、その無理というのは理論的に極限的な状況においての話である。普通の人間がそうした限界を実際に経験することはほとんどないといっていい。だから、知っていても、知らなくても大体において、大差はないのである。

しかし、知的好奇心は満たされる。理性でとらえられないもの、理性を超越したもの、を考えるのは、とても楽しい。囚人のジレンマ、ナッシュ均衡、ラプラスの悪魔、シュレディンガーの猫、アインシュタインの相対性理論、神の非存在論、コンドルセのパラドクス...限界を説明するための何十個もの理論が紹介されている。科学や哲学の世界を積み上げ式で全部理解していくとしたら大変だが、こうした限界点を一周めぐることによって効率よく人間の知の全体像が見えてくる気がした。。

ただ、どうだろ、原理的に無理でも、原理の認識を変えることはありえるかもしれない。脳を改造して、私たちの認識や思考能力を根本的に書き換えることができるようになったら、こうした限界を近い将来に超越することもあるんじゃないかなあ。

・現代の批判―他1篇
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キルケゴールが1846年に書いた本なのだが、ここで批判対象の現代はそのまま私たちの現代とつながっており、この160年間というもの、現代性というのはほとんど変わっていないのかと可笑しくなる。基本にあるのは、革命時代は本質的に情熱的で躍動の時代だった、それに比べて現代は情けない、トホホという論調である。

「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。 アルコール飲料などの消費量の統計表があるのと同じように、分別の消費について年代順の統計表を作ってみたとしたら、今日いかに莫大な量の分別が消費されているかを知って、ひとはびっくりすることだろう。」

キルケゴールに言わせると、現代は情報過多というより分別過多なのだ。物を知りすぎて、わかったつもりで、考えてしまうから手が出ない。先進国で晩婚化がすすむ原因もここにあるのかもしれない。相手のことや未来のことを考え始めたらきりがない。情報と分別があるとき、人は見る前に跳べなくなる。

「現代は平均しておそらく過去のどの世代よりも物知りだといえるだろう。しかし現代には情熱がない。だれもがたくさんのことを知っている。どの道を行くべきか。行ける道がどれだけあるか、われわれはみんな知っている。だが、だれひとり行こうとはしない。もしだれかがついに自分自身のなかにある反省に打ちかって行動に出る人があったとしたら、その瞬間に無数の反省が外部からその人間に向かって抵抗することだろう。もっとよく考えてみようではないかという提案だけが、燃えあがる感激をもって迎えられ、行動は無感動をもって遇せられるからである。」

「もっとよく考えてみよう」は、ある意味では、分別財、検討財とでも呼べるようなビジネス書の市場を形成している。ビジネス書の大半は読まれて検討されるだけで実践されない。検索エンジンもまたその延長といえる。多くのページがヒットするがほとんど読まれない。グーグルのなかでぐるぐる逡巡するのが現代であり、それを見通したグーグルは時代の勝者なのだ。

「人生いかに生くべきかといった課題は現実の関心を失ってしまい、成熟して決断となるべき内面性のこうごうしい成長をはぐくむような幻想などありはしない。人々はお互いに好奇の目を向けあい、決断できぬままに、かつ、逃げ口上をちゃんと心得て、なにかやる人間が現れるのを待望し───現れたら、そいつを賭けの種にしようというわけなのだ。」

かくして情熱を失った人々は、自ら起業するよりも、なにかやる人間の会社への株式投資を選ぶ。結局のところ、分別と情熱というのはトレードオフなのだろうか。キルケゴールは、人は直接的に感激した後、いったん冷静な賢さの時期が来るが、さらにそれを乗り越えて考え抜いた極致にこそ、強烈な無限性の感激があると書いている。そうした高度には一般人は到達することはほとんどないのだ、とも。

・アブダクション―仮説と発見の論理
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これは絶賛すべき素晴らしい本である。人間の創造的能力、ひらめきの正体をずばり言い当てている。本当におすすめ。記号学で知られる偉大な論理学者・科学哲学者チャールズ・パース(1839~1914)の思想を一般向けにわかりやすく説明している。

アインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言った。観察によってデータをいくらたくさん集めても、既存の理論の検証が進むだけである。帰納法からは斬新な新理論、イノベーションは生まれない。論証を行うのみである演繹法からも無論、新しい理論は出てこない。

パースは人間の推論には演繹と推論とアブダクションの3つの形式があるのだと指摘した。

アブダクションとは、

驚くべき事実Cが観察される
しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

という推論形式である。

説明すべき事実に対してたくさんの仮説を立てて、その中からもっともらしい仮説を選び出す拡張的な推論プロセスである。パースは分析的推論として演繹があり、拡張的推論として帰納とアブダクションがあると整理した。

「手短にいうと、アブダクションは科学的探究のいわゆる「発見の文脈」(the context of discover)において仮説や理論を発案する推論であり、帰納はいわゆる「正当化の文脈」(the context of justufication)において、アブダクションによって導入される仮説や理論を経験的事実に照らして実験的にテストする操作です。つまりアブダクションの「拡張的」帰納は仮説や理論を検証するための実験を考えることなのです。」

アブダクションは帰納と比較して創造性の高い拡張的推論だが、過謬性の高い、論証力の弱い推論でもある。だが既存の枠組みを超えるイノベーションを生み出すために不可欠な、もっとも優れた推論なのだとパースは高く評価する。

「アブダクションは最初にいくつかの仮説を思いつくままに提起する示唆的な段階と、それらの仮説のなかからもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟慮的な推論の段階から成り立っている」

第一段階として仮説はどこから生まれるのか?という疑問がわく。アイデアは頭の中から自然と涌いてくるものだ。何の法則も根拠も見えない。そこには創造的な飛躍があるのだと著者は論じる。

「帰納的飛躍は観察可能な同種の事象のクラスにおける部分から全体への一般化の飛躍であり、これに対し、仮説的飛躍はわれわれが直接観察したものからそれとは違う種類の何ものか、そしてしばしば直接には観察不可能な何ものかを仮定する創造的推測の飛躍です。」

なぜヒトは「ひらめく」ことができるのか?。なぜ人間は創造性を持っているのか。それは進化生物学的に説明がつくとアブダクション研究者は考えた。生きていくための問題をとくためには発想力が必要だ。アブダクションは人類進化の過程で自然に適応するために人間精神に備わった「自然についての正しく推測する本能的能力」なのだと看破した。

「「ところで、アブダクティブな示唆は閃光のようにわれわれに現れる」ということについてですが、パースはこの洞察の働きについて、それは何か説明不可能な「非合理的要素」とか不可解な神秘的能力というようなものではなく、それは自然に適応するために人間に本来備わっている本能的能力である、といいます。それはつまり、人類進化の過程のなかで自然の諸法則との絶えざる相互作用を通して、それらの自然の法則の影響のもとで育まれ発展してきた人間の精神に備わる「自然について正しく推測する本能的能力」である、というのです。」

アブダクションでは、そうした「示唆的段階」で生み出したたくさんの仮説(アイデア)の中から、

1 もっともらしさ もっともらしい理にかなった仮説
2 検証可能性 実験的に検証可能な仮説
3 単純性 より単純な仮説
4 経済性 実験に経費、時間、思考、エネルギーが節約できる仮説

という基準でもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟考的段階に進む。

科学的探究過程ではアブダクションに続いて、仮説を解明する演繹が続く。選ばれた仮説から必然的または非情に高い確率で導かれる経験的帰結を導出するのが演繹であり、証明である。そしてすべての考えられる帰結が集められたら、それらの仮説が経験的に正しいかどうかを帰納法で判断する。科学は3つの推論を経て進歩してきた歴史だという。

「一般には仮説を形成することが科学的な仕事の中ではもっとも難しいのであり、偉大な能力が不可欠となる部分である。これまでのところ、仮説を規則にしたがって発明することを可能にするような方法は見出されていない。」とバートランド・ラッセルはベーコンの帰納法の限界を批判したそうだ。アブダクションという厳密でない推論こそ人類の叡智の中核をなす能力と言える。

パースの思想が意外にも進化生物学と接近する部分がとても面白く感じた。パースらによると人間には創造性が進化の過程でビルトインされているわけだ。それを信じてアイデアをどんどん出していけば、きっとイノベーションを生み出せる、ということになる。創造性に富んだ個体だけが生き残ってきたのだから。さあブレスト、ブレスト!。

・自己信頼[新訳]
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アメリカの思想家、詩人 ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803~82)。18歳でハーバード大学を卒業し、教師、牧師を経て、ニューハンプシャー州コンコードに定住し、独自の思想の著述と講演を展開した。成功哲学、自己啓発の祖みたいな人である。

この本は「自己信頼」と題された短い論文だが名言の連続で構成されている。感動的な演説を聴いたかのような読後感が残る100ページの小冊子である。1ページ当たりの文字数はとても少ないのですらすら読める。読みやすい訳文が光る。

「自分の考えを信じること、自分にとっての真実は、すべての人にとっての真実だと信じること───それが天才である。」

「自分を信じよ。あなたが奏でる力強い調べは、万人の心をふるわせるはずだ。」

「一個の人間でありたいなら、社会に迎合してはならない。不滅の栄誉を得たいなら、善という名目に惑わされることなく、それが本当に善かどうかを探究する必要がある。」

「私にとって、自分の本性に係わる法則以外に神聖な法則はない。善や悪はたんなる呼び名にすぎず、簡単に他の言葉と置き換えられる。正しいものは私の性質に即したものだけであり、悪い物は私の性質に反したものだけである。」

「自分自身にこだわるのだ。ゆめゆめ模倣などしてはならない。」

エマソンは自分の信じた道を行けばそれが絶対正しいと繰り返す。一貫性がなくてもそのとき考えたことを断固として語れ、それで他人に誤解されても気にするな。「偉大であることは誤解されることなのだ」と説く。徹底した自己信頼は「もし私が悪魔の子なら、悪魔に従って生きていくまでです」という断固っぷりである。

自身を失いそうなとき、迷いのあるとき、心の栄養補給ドリンクとなる本だ。逆に躁状態で読むと効き過ぎて困ったことになるかもしれない。エマソンの言葉は強烈に薬にも毒にもなる。本物なのである。

自省録

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・自省録
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「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。」

ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)が残した内省の記録。彼は多忙な君主としての公務の合間に、心に浮かんだ感慨、思想、自戒の言葉をノートに書き綴る習慣があった。ストア哲学に傾倒したマルクスの言葉は、どれも真摯な真理の探究であり胸に響くものが多い。

「すべてかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も。」

悔いの残らぬよう今を精一杯に生きろ、宇宙や自然の法則には逆らわず、喜んで受け容れ、徳の高い生き方をせよ、自分に対しても他者に対しても誠実であれ、など生真面目な自戒の文句が続く。

「突然ひとに「今君はなにを考えているのか」と尋ねられても、即座に正直にこれこれと答えることができるような、そんなことのみ考えるよう自分を習慣づけなくてはならない。」

心の中までキレイにすべきなのである。

「明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか?(以下略)」

寝坊している場合じゃないのである。

そして一番感銘したのはこれかな。

「君の頭の鋭さは人が感心しうるほどのものではない。よろしい。しかし「私は生まれつきそんな才能を持ち合わせていない」と君がいうわけにはいかないものがほかに沢山ある。それを発揮せよ、なぜならそれはみな君次第なのだから、たとえば誠実、謹厳、忍苦、享楽的でないこと、運命に対して呟かぬこと、寡欲、親切、自由、単純、真面目、高邁な精神、今すでに君がどれだけ沢山の徳を発揮しうるかを自覚しないのか。こういう徳に関しては生まれつきそういう能力を持っていないとか、適していないとかいい逃れをするわけにはいかないのだ。それなのに君はなお自ら甘んじて低いところに留まっているのか。」

驚くべきことにこれらの言葉は、時の最高権力者が、他者に教えを垂れているのではなくて、自分自身に厳しく問いかけるための言葉だったのだ。現代にはこんなに内面から徳の高いリーダーがいるだろうか。

日本の弓術

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・日本の弓術
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大正から昭和の初めまでの5年間、日本に滞在したドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、高名な師範に弟子入りして弓術を教わった。その学びは西洋の合理性と論理性、日本の非合理性と直観性とがぶつかりあい、やがて融合していくプロセスになった。ヘリゲルは弓術五段を得てから帰国し、祖国で弓術の習得体験を通して東西文化の本質を突く講演を行った。これはその記録である。

ヘリゲルは最初は当然のように意志の力で身体を制御しようと試みた。注意深く師の動きを観察して、正しい弓の引き方を会得しようとする。だがうまくいかない。深く悩む弟子に師範はこう教えを垂れる。

「あなたがそんな立派な意志をもっていることが、かえってあなたの第一の誤りになっている。あなたは頃合よしと感じるあるいは考える時に、矢を射放とうと思う。あなたは意志をもって右手を開く。つまりその際あなたは意識的である。あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを、学ばなければならない。」

的に矢を当てようとしてはいけない。腕の力でなく心で弓を引けという師の言葉に、合理性の国からやってきたヘリゲルは戸惑うが、やがて熱心な研鑽の日々を経て、日本の一見非合理な精神性の文化に、西欧の合理性文化をも超越した真理を見いだすに至る。技術の修練を通して無心の境地に至ったものだけが体得する暗黙知の世界を発見したのだ。

それは言葉に出来ない極意を伝授するための、禅にも通じるような神秘的修練方法なのだとヘリゲルは語る。言葉や論理で伝達できるものの限界と、それを超える無心の境地が日本文化の根底にあることを自国の人々に伝えようとする。

「言葉に言い表すことのできない、一切の哲学的思弁の以前にある神秘的存在の内容を理解することほど、ヨーロッパ人にとって縁遠いものはない。すべての真の神秘説に関しては経験こそ主要事であり、経験したことを意識的に所有することは二の次であり、解釈し組織することは末の末であるということをヨーロッパ人はわきまえていない。」

ヘリゲルは日本人の精神的態度、生活様式の根底に潜む非合理性と直観性を幼稚で未熟なものではなく、合理性の限界を超えた次元にあるものとして高く評価した。この本が書かれてから戦後半世紀以上の西洋的な教育を経て、現代の日本人はむしろ当時の聴衆の感覚に近いかも知れない。ヘリゲルの講演によって日本文化の本質を再認識させられる。

・中空構造日本の深層
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元文化庁長官の心理学者 河合隼雄の論考。もはや古典。日本の神話、昔話の分析を通して日本人の深層構造を理論化した。

1 アメノミナカヌシとタカミムスヒとカミムスヒの、アメノミナカヌシ
2 アマテラスとツクヨミとスサノオの、ツクヨミ
3 ホデリとホスセリとホオリの、ホスセリ

古事記にはそれぞれ3柱がセットで生まれてきたのに、その後の神話にほとんど登場しない影の薄い神がいる。たとえばアメノミナカヌシは漢字で書くと天之御中主であり、まさに世界の中心に位置する重要な神のはずなのに、その他の二柱と違って、古事記冒頭の記述以降はちっとも出てこない。アマテラス(太陽神)、ツクヨミ(月神)、スサノオ(海神)の組では、多くの文化で太陽神と月神はセットで活躍するのに、日本神話ではツクヨミの登場場面はほとんどない。ホデリは海幸、ホオリは山幸で有名な兄弟の争いの物語があるのに、一緒に生まれたホスセリはチョイ役で目立たない。

そしてスサノオは神々の世界を追放された手のつけられぬ暴れん坊であると同時に、出雲に降りて偉大な神となる。アマテラスは実の兄弟のスサノオに翻弄されて戸惑う存在である。著者はこういった動きを、日本の神話では何かの原理が中心を占めるということがなく、中空のまわりを巡回していると表現している。

「つまり類似の事象を少しずつ変化させながら繰り返すのは、中心としての「空」のまわりを回っているのであり、永久に中心点に到達することのない構造であると思われる。このような中空巡回形式の神話構造は、日本人の心を理解する上において、そのプロトタイプを提示しているものと考えられるものである。」

日本人はひとつの原理に統合されることを嫌う。天皇は第一人者だが権力者ではないというように敢えて「無為の中心」としておく。そしてその周囲の対立者たちもまた完全な善や完全な悪という立場をとらず、一方が他方をやりこめると次は必ずゆりもどしがくるという風に、巧妙に中空構造を保つよう均衡を維持してきた。

「中空が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行うためには、統合に必要な原理や力を必要とし、絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。空を中心とするとき、統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデルである。」

「わが国が常に外来文化を取り入れ、時にはそれを中心においたかのごとく思わせながら、時がうつるにつれそれは日本化され、中央から離れていく。しかもそれは消え去るのではなく、他の多くのものと適切にバランスを取りながら、中心の空性を浮かびあがらせるために存在している。」

中空構造論から、日本には、自らの力で全体を統率する大統領的なリーダーが出てこないのは人材がいないからではなく「リーダーというよりはむしろ世話役」として全体のバランスをはかる人がまとめ役として求められてきたからだというリーダーシップ論にも発展する。

今読むと、多様な思想を共存させるエコシステムとして、日本人の精神の深層にある中空・均衡構造は、ネットワーク時代の世界が持つべき構造のヒントになりえる気もする。欧米型の中心統合構造に対して日本は劣っているのではなく、むしろ中空・均衡構造という優れた構造を持っているのだと胸を張るべきなのだ。まあ、胸を張って言わないのが中空均衡構造のリーダーでもあるのだけれど。

・仏教が好き!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001708.html
中沢新一と河合隼雄の仏教についての対談集。

・日本語と日本人の心
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004782.html
大江 健三郎,河合 隼雄,谷川 俊太郎という豪華な3人のパネルディスカッション

・人間の境界はどこにあるのだろう?
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人権、人間の尊厳、人間性という言葉は現代において絶対的な価値として認識されている。しかし、そもそも人間とは何か、人間と非人間の違いは何かを考えてみると、簡単には答えがでないことに気がつく。

生物学の「種」という定義の根拠は意外に曖昧なものである。ネアンデルタール人のような古生物学的な人類の祖先たちと、現生人類は違うのかはいまだに揉めている。最新の遺伝子工学は人間のゲノムを完全解析して、ある意味で人間の定義を完成させたか。だが、人間の遺伝子の95%はチンパンジーと同じであるということも同時にわかってしまった。生物学的根拠において人間と他の動物を区別する明確な境界は見つからない。

「人間の定義をしようと格闘してきたことがどのように解決されたかの歴史は、驚くほど非合理的な選択基準の採用によってころころ変わり、それらを正当化するためにいかに不適切に科学が使われたかの、長い歴史である。」

人類は人間の境界を文化的な面に見出そうともしてきた。中世の西欧人たちは彼らから見て辺境の人間を、異教で未開だとして、野生の人間、野蛮人と呼び、自分たちと一線を画すものとして扱った。だが、現代になると文化は多様であり、すべては相対的なものであることが明らかになっていった。

「人間だけが理性的である、知的である、霊魂を持つ、創造性がある、良心を持つ、道徳的である、神に似ている、というのはみな神話であるようだ。多くの証拠がそれに挑戦しているのに、私たちがしがみついている信仰の対象であるように思われる。」

この本は読めば読むほど、人間と非人間の境界線を引くことの難しさ、歴史上それがいかに恣意的に動かされてきたかを知ることになる。生物学的、文化的な人間の定義の変遷が面白い。たった数百年間に人間の定義は重要な部分で変わっているのである。

現代は遺伝子操作やクローニング技術、そして人工知能、人工生物の登場によって、人間の定義について新たなコンセンサスをつくらねばならない時代なのでもある。人間の境界をどこにおくかによって、胎児、終末期の患者、昏睡状態の人、重度の精神障害のある人、老齢で認知症の人、その他死に近い人々などの扱いが左右される。人間の境界とは何かは哲学的な問いに終わらない問題なのだ。

この本で一番、印象に残ったセンテンスがこれだ。

「私たち自身、人間とは何を意味するかを知らないのだから、何が人間を人間たらしめているのかを知らないのだから、ゆえに、それを失くしても気づかないだろう。」

・愛するということ
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ドイツの思想家エーリッヒ・フロムによる愛の理論の古典。

初版は1950年代だが、すでに恋愛の資本主義化と人間疎外を批判している。

(現代社会では)「いずれにせよ、ふつう恋心を抱けるような相手は、自分自身と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。私は「お買い得品」を探す。相手は、社会的価値という観点から望ましい物でなければならないし、同時にその相手は、私の長所や可能性を表にあらわれた部分も隠された部分もひっくるめて見極めたうえで、私を欲しがっていなければならない。このように二人の人間は、自分の交換価値を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。」

「人格のパッケージ」をできるだけ高い値段で売る投資ゲームでは、その取引が劇的に成功すると、性的な関係も盛り上がって、お互いに夢中になる。「だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ」とフロムはいう。

フロムは、愛とは孤立の経験とそれによって生じる孤独を克服したいという欲求であると定義している。その欲求を一時的に満たすだけならば、市場で手頃な「対象」を見つけられればよい。しかし、「対象」と安定した愛を育み、互いを高めあう関係を築き、その関係が社会の発展にも調和していくような状態を実現するには、愛するという「能力」の習熟が求められる。

「ところが、ここ数世代の間に、ロマンティック・ラブという概念が西洋社会に広く浸透した。アメリカでは因習的な配慮がまったくなくなったわけではないが、ほとんどの人が「ロマンティック・ラブ」、すなわち結婚に結びつくような個人的体験としての愛を追い求めている。この自由な愛という新しい概念によって、能力よりも対象の重要性のほうがはるかに大きくなったにちがいない」

前半部「愛の理論」は、愛とは何かの原理を説く。そして兄弟愛、母性愛、異性愛、自己愛、神への愛の5つに分類し、愛の対象の違いによる特徴、それぞれの個人と社会にとっての重要性を語る。本来あるべき愛の姿と、現代社会における愛の不在を批判する。

後半部「愛の修練」はお互いの人格を発展させ、生産的な社会関係を発達させていくための愛の技術を解説する。規律、集中、忍耐、関心の鍛錬やナルシシズムの克服など、技能としての愛の上達法が語られている。

愛についての名言が多い(結婚式のスピーチの素材にもつかえそうだ(笑))。

「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れている。 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない」。

愛とは何かに真正面から取り組んで、完成度の高い答えを提示した本だ。

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html

・人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003812.html

・チャット恋愛学 ネットは人格を変える?
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003653.html

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002189.html

・気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002095.html

・ブルバキとグロタンディーク
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数学と構造主義の歴史を再評価する本。

ニコラ・ブルバキ。1886年、モルダヴィア出身。1935年から最近までに「数学原論」をはじめ総計で1万ページ以上の数学の教科書を執筆した天才数学者の名前である。ブルバキのカバー範囲は幅広い。集合論、代数、位相、実一変数関数、位相線型空間、積分、リー群とリー環、可換代数、多様体、スペクトル論など、抽象性の高い数学原理を追究した。人間業とは思えない知的業績には秘密がある。ブルバキの正体は一人の人間ではなくて、アンドレ・ヴェイユらが結成したフランスの若手数学者の集団なのだった。

ブルバキは"今後2000年間にわたって通用する"新たなユークリッドの原論を作り出すことを目指した。彼らは厳密に原論の公理を定義していった。たとえば点と集合については「ある決まった"性質"」を持ち、それ自身や他の集合の要素との間にある決まった"関係"を持つことのできる"要素"から構成されるものを。"集合"と呼ぶ」といった具合に。

ブルバキの研究内容は極めて抽象的であった。彼らは実際の数字をあてはめて計算するいうプロセスをほとんど無視して、高度に一般化された数学世界を構築していた。彼らは事象の背後にある関係性=構造にこそ真理を見いだしていたのである。ブルバキはそうした構造の規則を「構成」「近接」「順序」「等価」と定義している。

時代は当初は彼らに味方した。ブルバキの最盛期は、まさに実存主義に代わって、関係性を重視する構造主義思想が、あらゆる学術分野に影響を及ぼし始めた時期だった。ブルバキの数学は、自然や社会現象の背後にある構造を数学的に証明するための強力なツールとなることができた。

「ピアジェの考えでは、数理科学は"人間の科学"を含めたあらゆる科学の基礎であり、その数学は人間の精神に隠された構造に基づいているという。ピアジェは、人間の精神の内部的仕組みを理解するために、ブルバキの説く構造を重要な要素として利用した。これら構造は脳の仕組みを決定するだけでなく、レヴィ=ストロースが示したように、社会的行動に対する脳の影響を通じて社会全体の振る舞いをも左右するのである。」

ところが、ブルバキの栄光はわずかの期間しか続かなかった。彼らは抽象的であるが故に成功したが、同時にそれは失敗の原因ともなった。20世紀後半の数学においてブルバキの業績はじわじわと色褪せていき、やがて振り返る者はいなくなってしまった。

「進歩というものは、個別から一般へと進んでいくものだ。数学者はたいてい、まずは特定の問題や定理から取り掛かり、それが解決できた後で、一般化が可能かどうか見極める。一般性は、より大きな力、より大きな意義、そしてはるかに大きな重要性を意味する。だが、一般的な命題から出発する者など、めったにいないのである。 もう一つ問題となるのが、抽象性と厳密さだ。数学においては、結果が正しく、証明の中に抜けているステップや間違っているステップがないことを保証するには、抽象性と厳密さが必要不可欠である。もちろん、これは数学の持つ極めて重要な側面で、それを広めたという点ではブルバキを高く評価すべきだ。しかし、抽象性と厳密さはあくまで道具であって、それを目的にしてはならない。ブルバキの著作では、抽象性が目的へ変わり、厳密さが全体を支配して、直感や一般的な理解の隙の入る余地さえも残されていないことがしばしばである。」

ここを読んで思ったのだが、プログラミングの世界でもブルバキ的な落とし穴は多いのではないかということだ。抽象性と厳密性を高めることを強く意識しすぎて、実装のことが忘れられていると、それはよいコードとは言えないのではないか。孤高すぎて誰にも使われないコードはブルバキの数学のように死滅してしまう気がする。

タイトルにブルバキと並んだアレクサンドル・グロタンディークは、ユダヤ系フランス人の数学者。アインシュタインと比較されるほどの明晰な頭脳を持つが、天才にありがちな変わり者。ブルバキに参加して大きな影響を与えたが、やがて衝突して脱退し、政治活動にのめり込み数学界からも離れ、1991年にはピレネー山脈に独り隠遁してしまって以来、生死も定かではない。

歴史的には、ブルバキとグロタンディークという二人(一人はバーチャルだが)の数学者が台頭し消えていった半世紀は、構造主義がつぼみから花開いてしおれていった時代であった。言語学や人類学など文系の思想と思われがちな構造主義だが、ブルバキの数学が与えた影響も大きかったことがよくわかった。構造主義の数学的根拠を具体的に知ることが出来る、文系のための理系史である。


・ソシュールと言語学
http://www.ringolab.com/note/daiya/2005/01/post-189.html

・レヴィ=ストロース―構造 現代思想の冒険者たちSelect
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000240.html

・針の上で天使は何人踊れるか―幻想と理性の中世・ルネサンス
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中世の人々は現代人には信じがたい考えを平気で受け入れていた。

15世紀の教会裁判所は、作物を荒らした害虫に対して「この付近の人間の食物を浪費し、壊滅させたカブトムシよ、今からここを立ち退き、誰にも害を与えない土地に行くことを、汝に命ず」という裁きを大真面目にくだした。そして殺人罪で豚を絞首刑にした。リンゴに悪霊が取り憑いて不気味な音を鳴らすと信じた。魔女は空を飛び交い、悪魔は死者を蘇らせると恐れ、異端者を残酷なやり方で処刑した。

そうした行いの理由は、人々に知識や推論能力が不足していたからではなくて、そこには現代と異なる「常識」が前提としてあったからである。この本は歴史の中の奇妙な妄想を10章に渡って取り上げて、なぜ当時の人々はそれを真剣に信じたのかを分析する。

「毎日駆使している「一般常識」は実は多くの前提に支えられた複雑な事柄だった。そして、その前提は概ね私たちが生まれる前から存在していた通念から生じ、他の者から伝えられるのである。」

思考の土台、物の考え方である常識は、同時代の人間にとって常に所与のものとしてあらわれる。著者はこれを相対化して客観的に眺めるために有効な手法として、こうした迷信や妄想を信じた過去を振り返る。

「「奇妙な歴史」を学ぶことでも、この新鮮な視点が得られる。昔の理性的な人々が悪霊に取り憑かれたリンゴや、豚の死刑や、魔女や異端を信じていたのなら、現代の理性的な私たちの考えにも「奇妙さ」が潜んでいる可能性を考えるべきだろう。」

この奇妙さは同時代でも宗教や慣習が異なる社会の間で生じる問題だろう。たとえばアフリカで現在も数百万人に対して行われていると言われる女子割礼、インドの名誉殺人、そしてイスラムの神の名による宗教戦争。どれも日本人にとっては奇妙であるし、道徳的に認めがたいが、逆の立場では私たちの考えこそ奇妙にみえるのだろう。

「常識的な」判断は特定の社会に浸透している思考を反映するものであり、しばしば社会によって変わるものなのだ。社会に浸透している認識と一致していれば、その考え方は合理的だとみなされる。ある文化───たとえば、私たち自身の文化───において支配的な考え方が馴じみのあるものなら、その考え方に従った行動は、まず間違いなく道理にかなっていると見なされるだろう。逆に他の社会の思考についての理解が十分ではない場合、その思考に従って普通に行われた行為の多くは、馬鹿げていると思われやすいのだ。」

奇妙な迷信と妄想の歴史的な研究は、現行の常識や理性の普遍性を疑い相対化していく。中世ヨーロッパにおいて、キリスト教と人々の常識がどのように相互作用して形成されていったかがよくわかる。そしてそれは現代にも外挿できる理論であることに気がつかされる。とてもスリリングな、常識の解体新書。