Books-Religionの最近のブログ記事

・宗教とは何か
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日本におけるこの本の位置づけはリチャード・ドーキンス『神は妄想である』に対する反論本である。

宗教の現代的な価値を擁護する内容。日本人にはない問題意識のため、この神学論争は国内の論者ではほとんど見かけない。利己的な遺伝子やミームの提唱者として日本でもよく知られるドーキンスだが、今は宗教批判の先鋒に立っているのだ。宗教は迷妄であり愚かだとしてめった切りである。それに対して著者は、科学もまたある種の信仰だと切り返している。

「重要な意味において、科学者は信仰者であると同時に美学者でもあるとわたしは考える。あらゆるコミュニケーションは信頼[=信仰]をふくんでいる。」

信念はあらゆる知の土台になるという論を展開している。アリストテレスやカントや野中郁次郎の、「知識」は信念であるという言葉と同じだ。

「そもそも信仰は───どのような種類であれ───選択の問題ではない。なにかを信じるにあたって人は意識してそう決めるのではなく、知らないあいだに信じているというのが一般的だろう。あるいは、かりに意識して決めるにしても、すでにその方向にかたむいていたからともいえる。」

科学合理主義か宗教かの選択というよりは、著者はあらゆる思想の問題に普遍化していく。信じる心を人間は生得的に持って生まれており、信仰は理性を超える、人間の内面の深さを示すものだという。

「理性だけが野蛮な非合理主義を屈服させることができるのだが、そうするためにも、理性は、理性そのものより深い部分に横たわる信仰の力や資源に頼らなければならない。」

高度にレトリックを使った議論が続くため、読むのがだんだんしんどくなるが、キリスト教世界の合理主義者が、内面においてどのように科学と宗教を調和させるべきかのビジョンが示されている。

・日本神判史 盟神深湯・湯起請・鉄火起請
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最近読んだ新書で一番面白かった。名著だ。

日本書紀に盟神深湯(くかたち)という神判が出てくる。熱湯に手を入れたり、焼けた斧を握らせる神判である。古代史の話は実際に行われたのかわからないが、室町時代には、煮えたぎった熱湯の中に手を入れて火傷の具合で有罪無罪を判定する湯起請があった。そして、江戸時代には真っ赤に焼けた鉄片を握らせて判定する鉄火起請が、現実に行われていた。著者は記録に残っている湯起請87件、鉄火裁判45件の事例を、丁寧に分析して神判の実態を明らかにしていく。

土地の領有権や男女問題など解決が困難な問題がこじれて大ごとになると、湯起請・鉄火起請は行われた。当事者たちは決死の思いで神判に挑んだこと(負けたり逃げたりすると処刑されることもあった)、どんな思いで関係者はそれを見ていたか、事後どういうことになったか、などの顛末が多数語られる。細部が面白い。

熱湯に手を突っ込む。生身の人間なのだからそりゃあ絶対火傷するに決まっている、と思うわけだが、湯起請の記録上、被疑者が火傷した率を調べてみると50%なのだ。半分は無傷で無罪放免となっている。なんとも微妙な数字である。

そもそも人々は盟神深湯・湯起請・鉄火起請で、本当に神の真意を知ることができると考えていたのか?研究によると実は古代社会においてさえも盟神深湯は真実糾明法として問題があることが広く認識されていたようだ。

著者はこうまとめている。

「以上、紹介した事例からもわかるとおり、当時、共同体社会において行われていた湯起請には、人々の純粋な信仰心からだけでは説明できない要素が多々見受けられる。そもそも人々は湯起請によって真実を見きわめようということを第一義的に考えていたわけではなかった。彼等は真犯人をみつけることよりも、犯罪者が共同体内にいなかったということが証明されることを何より歓迎していたふしがある。また逆に、それにより結果的に共同体社会にとって有害な(可能性のある)者が除去されるなら、それはそれで好都合なことだとも考えていたようだ。」

為政者は神慮を持ちだすことで、自らの恣意的な政治判断に対する反対意見を封じることができた。恐怖政治の道具としても、それらは使われていた。湯起請・鉄火起請を持ち出せば係争の相手をびびらせることができるし、湯を炊く、火傷の程度を判断するのも人間だからある程度は操作もできただろう。かなり政治的なにおいのする儀式だったことがうかがえる。この国においては神判とは、神の名を借りた合理的判断のツールだったらしい。

記録上は古代に断絶していた熱湯裁判を、復活させたのは室町幕府第6代将軍足利義教だったという説が有力。義教はくじ引きで選ばれた将軍であったため、自分は神慮によって将軍職に就いたと信じて、その治世の間、神判に異常な執着をみせたという。湯起請を連発している。君主狂気とと民衆の集団ヒステリーが呼応して、ブームを盛り上げていたようだ。

残酷な神判の儀式の研究から、日本人の宗教意識、社会心理の歴史が見えてくる非常に面白い内容である。

・完全教祖マニュアル
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ネタというレベルを超えて、結構本当に使えちゃう本かもしれない実践的内容...。

「みなさんは、人に尊敬されたい、人の上に立ちたい、人を率いたい、人を操りたい、そんなことを思ったことがありませんか?でも、自分には才能がない、学がない、資産がない、そんなのは一部のエリートだけの特権だ、等と理由を付けて夢を諦めていませんか?確かに、これらの夢を叶えることは非常に難しいことです。ですが、悲観することはありません。何も持たざるあなたにも、たった一つだけ夢を叶える方法が残されています。そう、それが教祖です!新興宗教の教祖になれば、あなたの夢は全て叶うのです!」

新興宗教の教祖になりたい人のためのマニュアルだ。

「インテリは組織運営の核として絶対に必要なものです。ですが、実際問題としては、組織の主たる層は一般人ですし、そして、一般人は哲学など毛ほどの興味もありません。」

既存宗教を焼きなおして教義を作り、幹部になるインテリをリクルートし、教えを簡略化して大衆に迎合し、教団組織を成長させていく。教えは反社会性を入れながら、同時に社会的弱者を救うものにせよ。現生利益をうたおう。葬式をやろう。信者には不安を与えて救済してやる。食物規制や断食も効果的。科学的体裁もとるといい。迫害されたらその事実を利用しよう。異端は追放しよう。教祖になるための教えとチェックリストが続く。

教祖の基本要件は「なにか言う人」と「それを信じる人」がいること。

「たとえば、いま、あなたの目の前に、奥さんの膝でガタガタ震えている男がいるとしましょう。彼は姉さん女房に泣きつき、自分を襲った怪奇現象を必死に訴えています。「本当なんだ。超自然的存在がオレの首を絞めたんだ」。彼女は夫を慰めて言います。「あなたの言うことを信じるわ」。そうです。この瞬間、夫は「教祖」になったのです。ちなみに、この男の名をムハンマドといいます。ご存じ、イスラム教の教祖ですね。」

いろいろな既存の宗教の発展形態を調べたうえで、現代において新たに宗教を興すにはこうするのが現実的であり、近道だよということがまとめられている。実際に興す人は稀だろうが、会社にせよ学校にせよ、地域コミュニティにせよ、成功している集団には少なからず宗教っぽさが感じられるものだ。特殊なリーダーシップ論として読むと、いろいろと勉強になる真面目な内容である。

・殉教 日本人は何を信仰したか
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「日本における殉教のあり方は、世界のどこにもない特殊なものである。ローマ時代、キリスト教徒が迫害された時代は別として、わずか二十数年という短期間に確実に四千人を超える大量の殉教者が出たことは稀である(松田穀一「日本切支丹と殉教」)。特に日本における殉教は、後述するようにいかなる勧誘にも拷問にも屈せず行われた点で、特筆すべきものだと思われる。」

江戸時代のキリスト教弾圧は有名だが、実際には内面の信仰を厳しく問うわけではなく、表向き信仰を捨てたふりをすれば容易に許される程度のものだったそうだ。しかしキリシタンたちは、迫害されて死ねば天国に行けると信じて、敢えて役人が管理するキリシタン名簿に載りたがり、捕まると進んで信仰を告白し、厳しい拷問にも屈せずに死んでいった。

著者はキリシタン弾圧の実態を史料を読み解くことで、当時の政治的社会的な背景や実際にとられた政策を明らかにしていく。また日本で殉教のイメージを広めたキリスト教徒作家の遠藤周作「沈黙」の、フィクション的な歴史認識の偏りを正していく。なぜ死を賭してまで当時の日本人信者は信仰に固執したのか。

ひとつにはキリシタンになった武士たちにとって、潔く死ぬ殉教の精神は、武士一般のメンタリティの延長線上にあったのではないかという。迫害の張本人である家康は、取り調べで信仰を捨てた家臣を褒めるのではなく「臆病で卑怯な者」と非難したこともあったそうだ。武士道と信仰は、何かのために死ぬことに価値を見出す点で似ている。だから信仰を捨てることは武士を捨てることと考えられていた節がある。

それから著者は、刑場で信者たちが殉教者の遺体を集めて持ち帰り、聖遺物として崇めたという事実に注目した。ヨーロッパの民衆も同じように聖遺物を信仰していたが、それまでの日本人の感性では遺体は穢れであって、信仰の対象になどならなかった。この事実は内面の奥深くまでキリスト教化が進んでいたことを現すと同時に、絶対者キリストではなく、その使徒や殉教者を崇める多神教化としてとらえることもできる。土俗信仰が氏神をまつっていたように、キリシタンたちは聖人や殉教者を自然に信仰対象にしたのだと考えられる。信仰が当初の大名・武士から、民衆へと広まるにつれて、西洋世界と同じように卑俗化が進んだことがわかる。

イエズス会から派遣された外国人宣教師たちがおかれた複雑な立場にはドラマも多かった。危険を冒して日本に入り、日本人信者と一緒に捕まって死んでいく。キリシタンの信仰生活において宣教師の影響は非常に大きい。

受け入れ素地としての武士的エートスの存在と、キリスト教教義の魅力、生命を賭けて伝道する打算のない宣教師たちの姿が、当時の日本人を深い信仰に導き、自発的な殉教を選ばせるまでに深化させたというのが本書の結論である。

過酷な拷問や凄惨な殺戮の様子が多く紹介されている。信仰を棄てるといえばすぐに許されるのに、敢えて死にに行く。人が「○○のために死ぬ」というとき、○○にはリアルなものより、「神」「正義」「愛」のようにバーチャルなものが入るものなのだなあ、としみじみ思った。バーチャルなものは人間にとって何より大切であると同時に、とても危険なものなのだ。

・切腹
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/10/o.html
同じ著者による。こちらも抜群に面白い。

・ルルドの奇跡 聖母の出現と病気の治癒
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ビジュアルな資料を多数使って、キリスト教の聖地ルルドの歴史を紹介する本。

ルルドの奇跡の調査にあたったタルブのローランス司教は1862年に次のように報告している。

「われわれは、神の母である無原罪のマリアが、ルルドの町に近いマッサビエルの洞窟で2月11日から18回、実際にベルナデッダ・スビルーの前に出現したこと。この出現があらゆる真実味を帯びていること、信者たちがこれをたしかな事実として信じていることを正当と判断する。」

ローマ教皇もルルドの奇跡を本物と認めて、ベルナデッダを聖人のひとりに列した。

教会の承認、聖堂の建設、鉄道網の整備、小説『ルルド』(エミール・ゾラ、1894)出版、聖母被昇天修道会の活躍、奇跡的な治癒の医学検証などの出来事を経て、ルルドは巡礼の聖地として確立されていく。ルルドの泉の水は多くの病人を奇跡的に治癒していると評判が広がった。現在では毎年130カ国から600万人以上がルルドの聖域を訪れている。

ルルドの聖地化で興味深いのは、核となる聖母マリアの出現を実際に見たのは内気な少女ベルナデッタただひとりだということ。他の人々は何かを見ているベルナデッタの姿を見たに過ぎない。キリスト教の神はひとりの人間またはごく少数の限られた人々の前に姿を現してメッセージを託す伝統があるが、ルルドもまたその一例である。

それから、ルルドへ行けば病気が治るとして病人の巡礼者が多いが、医学検証による奇跡的な治癒の公式認定者はこれまでにたった67人しかいない。教会はルルドの聖性は承認したが、そこで起きる奇跡を簡単には認めたがらない。それにも関らず、巡礼者は増えていく。

結局、みんな信じたいのだ。19世紀の目撃以降、信じたかった人たちの働きが、いくつかの幸運にも助けられて、この聖地と大規模な巡礼運動をつくりだしていった。信じたい人たちが信じる人たちを増殖させていったのが、ルルドの奇跡の実態だったのではないか。

聖地の誕生と巡礼の実態という切り口でビジュアルにキリスト教文化の一端を知ることのできる一冊。

・公式サイト
http://www.lourdes-france.com/

・グノーシス主義の思想―"父"というフィクション
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若手研究者による意欲的なグノーシス主義研究書。

2世紀頃のキリスト教異端の一派であるグノーシス主義という思想は、反権威、反伝統の知のかたちとして、しばしば20世紀の思想家によって語られた。おかげで現代のSFやアニメにも広く影響を与えている。最近では、ファイナルファンタジー13は明らかにグノーシス主義の影響を受けている。"悪い創造主"が出てきたらまずグノーシスを疑えである。

グノーシス主義は二重構造が特徴だ。みんなが神様と崇めているのは偽物の劣った神(造物主)であり、本当の至高神は天界の最上部にいる。人間は至高神の性質を受け継いでいるので、やがて叡智とともに神のもとへ帰昇することができると信じた。現体制は偽物で、本物はきっとどこかにあるんだという反権威主義的な発想である。

グノーシスの神話は筋立ても含意もかなり難解であり、こうした研究書を通して、読み解くしかないのだが、本書は「グノーシス主義は、プラトン主義的形而上学、ストア主義的自然学、混淆主義的変身譚を内部に取り込み、それらの要素を縦横に紡ぐことによって物語を構築しながら、同時に、それらすべてに反逆するという「離れ業」をやってのけた」と3つの要素の関係性でグノーシスを解釈していく。この分野では若手の一冊目だそうだが先行研究に対する批判も含む挑戦的な内容。

著者はグノーシス主義に登場する鏡のモチーフに対して、精神分析の理論でアプローチする。そもそもグノーシスとは認識という意味であり、私とは何かという自己認識の問いをを突き詰めていく鏡の思想だ。その鏡の認識と、古代末期の父なる存在の動揺と喪失という時代精神を結び付ける。

「グノーシス主義の思想が示しているのは、自分自身を知るということが、実に終わりのない変転の過程である、ということにあると思われる。鏡を見ることによって自分自身を知ることは、知的な自己同一性を獲得させるものであるとともに、見られる自己の発見、感性的主体の発見、性的主体の発見と同義であり、主体は自己を知ることによって、逆説的にも他者の欲望のネットワークへと常に譲り渡されていく。その過程で「わたしとは何か」という問いに最終的な答えが与えられることはない。また同時に、他者との関わりが完全に安定したものになるということもない。」

グノーシス主義とは何か。この本は同時代の他の宗教や思想との関係性を丁寧に説明していて、その文化的な位置づけの理解を深めることができた。他の研究に対する意見表明もある所からも、グノーシスについて"かじったことはある"レベルの読者を対象にしているようだ。情報量は多い。次の2冊とともにグノーシス一般向け文献としておすすめ。

・グノーシス―古代キリスト教の"異端思想"
http://www.ringolab.com/note/daiya/2005/12/post-325.html
まず一冊目はこれがいいと思う。基本を教えてくれる。

・グノーシスと古代宇宙論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/04/post-557.html
グノーシスは同時代の宇宙論から理解すると腑に落ちる。

日本の神々

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・日本の神々
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日本のカミの原型とは何かの源流をたどる。日本には弥生時代から8世紀の古事記・日本書紀成立までの1200年以上のアンドキュメンテッドな豊穣な歴史がある。それが記紀成立時に国策イデオロギーによって大きく変容した。さらに後代の神社神道、国家神道によって改変される過程で古来の要素はどんどんそぎ落とされていった。著者はその歴史の流れを逆流すべく、奄美・沖縄の古い神話からアイヌの神の世界まで、記紀以前の日本の神々の姿に関する手がかりを収集して、日本の神の原型を追究する。

「日本の神の源流をたどってみると、西洋の神にみるような、意志をもち人格をそなえた存在からはなはだ遠いものをカミと呼んでいるいことを知る。本居宣長は「可畏きもの」をカミと言った(「古事記伝」)。」

「原初的なカミは非人格的、非意志的であってむしろタマと呼ぶにふさわしいものであった。「霊魂そのものにはそれ程はっきりと思慮記憶があるものとは古人は思はず、霊魂を自由な状態において考へたのであると折口信夫は言っている(民族史観における他界観念)」

「その本質に於て何等合理性を持たず、人格的規範を伴はぬために倫理的道徳的色彩を帯びず、特に低級な迷信の巣となるかと思へば、高級宗教とも結合する可能性がある」(仲原善忠の引用)

古事記・日本書紀のお話の中で活躍する神々は個性的でキャラクターが立っているのに、現実の神社や祭りで祀られる地域土着のカミサマというのは、一般にとらえどころがない存在であるなあと思っていたのだが、つまりはマナのような超自然的パワーの概念的存在だったのだ。概念的であったが故に、後年の体制イデオロギーや仏教との融合によって容易に変容を遂げることができたのでもあったのだろう。

この本では、日本の原初的神観念について、地域的にも時代的にも幅広い史料に基づいて、とても説得力のある論理が展開されている。国つ神の正体や民間信仰の原型について興味のある人に強くおすすめの一冊。

・アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1057.html

・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-959.html

・日本人の原罪
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-946.html

・[オーディオブックCD] 世界一おもしろい日本神話の物語 (CD)
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/cd-cd.html

・日本史の誕生
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/08/post-799.html

・読み替えられた日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-700.html

・日本神話のなりたち
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-573.html

・日本古代文学入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004835.html

・ユングでわかる日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004178.html

・日本の聖地―日本宗教とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004661.html

・劇画古事記-神々の物語
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004800.html

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ...人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html

・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html

・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html

・仏陀―その生涯と思想
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「この人を見よとわたしはいう。なんとなれば、ここにわたしどもが考えうるかぎりの、最高の人間像があるからである。」初期の経典や史実を紐解くことで、偶像としての虚飾を排し、一人の人間としての仏陀の実像に迫った、高名な仏教学者の傑作。

著者は人間の理想像としての仏陀を正確にとらえようとする。そのために阿含部と呼ばれる仏教の最初期の教典に重きを置いて、修飾されない仏陀本来の姿を再現する。たとえば仏陀は誕生したとき「天上天下唯我独尊」と言ったのは後生の作り話だし「生まれによりて聖者になるのではない」ことが仏陀の真の偉大さなのだと教える。

生誕から出家、最初の説法、有名な山上の説法、伝道の長い旅、祇園精舎、最後の説法、入滅まで、人間としての仏陀の生涯を代表的エピソード単位で追いかけながら、それぞれの教えの本来的な意味を著者が解説している。仏陀を偉大に見せるためのお化粧を、初期教典検証によって取り除き、その素顔が見えてくる。

相手を見て理を説くべきだという「対機の説法」はブッダが教えた伝道の方法論だが、それ故に仏教の基本知識のある者とない者向けには、説教の内容が変わる。日本の仏教はさらに神道や民俗信仰が融合して伝わっているので、多くの日本人にとって仏教はなんとなく知っている状態である。そういう状態はこの本が書かれた昭和20年代頃と大差がないかもしれない。著者は仏教本来の教えと、天国と地獄があるような伝道上の方便を区別して説明している。わかりやすさより"本物志向"で仏教を知りたい人向けだ。

後半にでてくる「中道の教え」は無宗教の私が仏教哲学に魅力を感じる部分だ。

琴を弾くのが上手なソーナという弟子との対話で、仏陀はいう。琴の糸があまりに強く張られていたらよい音がするだろうか?。次に、あまりに弱く張られていたらどうだろうか?。どちらにもソーナは否と答える。仏陀は「それでは強すぎず弱すぎず程よく張られていたら良い音がするであろう」、それこそが目指すべき究極の状態として中道の教えを説いた。

「その教えとは、いうまでもなく、中道の教えである。中道の教えは、釈尊の教説のあらゆる部分を貫いて存する。哲理について言えば、有無の二端をはなれることであり、実践に即して言えば、苦楽の二極におもむかざることであり、さらに修道の実際についていえば、いま釈尊がソーナのために説いたように、「諸根の平等をまもり、平等の精進に住し、かの中における相を取る」こととなるのである。」

ここで「中道度メーター」というものを設定してメーターの極端を目指せばいいなどと安直に考えるのは、たぶん間違いなのだろう。ブッダが言ったのは「良い音」という公理の異なる世界での価値だったのだから。

手塚治虫の漫画「ブッダ」やヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」で仏教に興味を持った読者に特におすすめ。

・シッダールタ
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-708.html

・ブッダ 全12巻 漫画文庫
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/12-2.html

・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
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「日本の古代信仰のもっとも中心的な課題は、霊魂の観念であり、それも遊離魂よりはむしろ霊力、呪力の観念であるが、日本の学界ではこの種の霊魂観念に関する問題意識が乏しく、そのために呪術・宗教のもっとも基本的な概念である「神聖」ということも、清浄なことと解して疑うことなく、賀茂祭のミアレ木や阿礼幡など、各種の儀礼に用いられる呪物も、神の依代だとする誤解が常識化している」

著者は古代の儀礼、神話、歌を資料として、霊魂と呪物・呪術に用いられた言葉を分析し、古代人の宗教意識を解明していく。最初に取り上げられているのは霊魂(タマ)の観念の分別である。古代語には呪力霊力(マナ)を表すタマと、遊離霊としてのタマがあるという話。

魂という言葉はタマシヒ(タマ=霊魂、シ=の、ヒ=霊力)からきている。平安の頃の用法ではタマシヒは霊力であり霊威であり、生まれつきの天分や才能を意味した。人魂になって飛ぶような遊離魂の意味ではなかったという。古い和歌にその使い分けがはっきりと見られることが示される。

タマやヒと並んで、神聖を表すのが「イ」「ユ」であった。それは生命力の強い自然物の接頭語として、また霊力を与える動きを意味する動詞にも使われた。イク(生)、イハフ(祝)、イム(忌)などがそうだ。神々の名前には共通する音が使われた。ヒ(ヒ、ヒル、ヒヒル、ヒレ、ヒラ、ヒロメク)、チ(チハフ、チハヤブル)、ニ(ニホフ、ニフブ)、タマが代表格として挙げられている。

「呪力の信仰は言葉にも認められ、言霊信仰では、めでたい言葉はめでたい結果を、不吉な言葉は不吉な結果をもたらすとする」という古代人の考え方によって、呪術や祭祀に係わる多くの言葉の中にこうした音が取り込まれていった。こうした言葉のフェチシズム体系が言霊の正体ということか。

呪術を信じた人々にとって、当時、言葉を操る行為は魔術に近かったのだろう。一方、現代の日本人は言葉はコミュニケーションのツールであると割り切っている。おかげで呪術的な側面をほぼなくしてしまったのだなと思う。この本を読むと、かつて日本語に備わっていた霊的パワーを考古学的に知ることができる。古事記・日本書紀が好きな人は一読の価値あり。

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ...人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/01/post-51.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/2005/03/post-210.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/05/aaulesif.html

・図説 金枝篇
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-563.html

・聖なるもの―神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について
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長いタイトル...。

何かを「聖なるもの」と認識するときの"ヌミノーゼ"な感情についての論考。1917年にドイツの宗教学者ルドルフ・オットーによって書かれた宗教学の古典。ヌミノーゼはヌーメン(神性、神霊)という言葉から作られた造語。

ヌミノーゼは複合的な感覚だ。

・被造物感(絶対的なものの前にして感じる絶対依存感)
・畏るべき神秘
-優越するもの
-エネルギッシュなもの
-全く他のもの
・魅惑するもの
・不気味なもの

などの感覚が混ざっていると分析されている。

「私達たちは畏れつつ聖所を敬うが、そこから逃げようとはしないで、かえって中に入ろうとする。」とルターが言ったように、神様に対する私達の感情はアンビバレントなものだ。

私は平均的日本人の無宗教(敢えていえば仏教か)なのだが、キリスト教的なヌミノーゼの感覚はわからないでもない。私はカトリックの幼稚園に通ったが、その入り口にあった純白のマリア像が、怖くてたまらなかった。シスターや保母らに「いつでも神様がみていらっしゃるのですよ」と教え込まれた。それは悪い人間を罰すると同時に真善美の象徴だった。

ヌミノーゼの感覚能力は経験によって誘発されるが、経験に先立つアプリオリなものだと著者は考える。言語学においてチョムスキーが主張する先天的な言語能力と同じように、ヌミノーゼの感覚能力は原初的なものだとする。人間は自然の驚異に対して神的・デーモン的な畏怖を感じることによって、生き延びてくることができた種であるのかもしれない。

そして本書は「聖なるもの」の非合理的な部分と合理的な部分に関する考察である。いくつかの心理的な要素で説明しようとしているが、同時に著者はヌミノーゼなものは完全に要素に還元できるものではないと論じている。宗教は心理学や社会関係で説明できるものではなく、宗教以外の何者でもないというのである。

「宗教において非合理的な要素がいつでも活発で、生気があることは、合理主義を防ぐ備えがあることである。宗教が合理的な要素で豊かに満ちていることは、狂信や神秘狂(Mysizismus)に沈み込んだり、それに固執することを防ぎ、高級宗教、文化宗教、もしくは人類宗教になることを初めて保証する。」

だからキリスト教は偉大なのだというオチに落ち着く。

宗教はいろいろあるが根本はこのヌミノーゼの感覚にあると思う。その根深さ、複雑さが現代世界の争いに繋がっているのだとすれば、この古典は今また読まれるべき本な気がする。

・日本の10大新宗教
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この本は気になっていたことが次々に明らかになって面白い本だった。宗教学者の島田裕巳著。天理教、大本、生長の家、天照皇大神宮強と璽宇、立正佼成会と霊友会、創価学会、世界救世教と神慈秀明会と真光系教団、PL教団、真如苑、GLA。著者が選んだ日本の10代新宗教を各一章を使って説明していく。

たとえば高校野球の名門PL学園。「嗚呼、PL 永久の学園~」という校歌まで有名だ。PLが「パーフェクトリバティ」の略だということまでは知っていた。だが、背後にあるPL教団とは何なのか、キリスト教系なのか仏教系なのかというレベルから知らなかった。関西では日本一の花火大会でも有名らしい。

「全国の私立高校のうち、およそ三分の一が宗教団体を経営母体としている。そのうち六割がキリスト教系の学校である。仏教系はキリスト教系の半分で、神道系はごくわずかである。そして、新宗教系は二十校ほどに過ぎない。」

私立高校の宗教性の高さに驚くが、新宗教の割合が著しく低いのは、歴史のある宗教でないと子供を通わせようとする親が少ないからだろうか。逆にある程度広まった古い宗教は、一般にもかなり受容されているということでもある。そういえば仏教系の私の家系は私を含めて3代がキリスト教系の幼稚園に通っている。ある程度認知された宗教にはかなり寛容なのである。

「あらゆる宗教は、最初、新宗教として社会に登場するとも言える。」

「キリスト教系を除けば、神道とも関係がなく、仏教とも関係がないような新宗教は存在しない。」。

であるがゆえに、新宗教も既成の権威を出発点としてつくられていくもののようだ。まったく新しい宗教的権威をゼロから作り上げることは不可能ということか。この本は10大新宗教の系統が整理されているのが勉強になった。

・イスラーム文化 その根柢にあるもの
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イスラーム学の世界的権威 井筒俊彦が、昭和56年に行ったイスラーム文化に関する3つの講演を自ら活字になおしたもの。この講演は経済人を聴衆としていたため、専門用語が排されて、基本から大変わかりやすく整理された内容になっている。

私は子供時代の一時期をエジプトのカイロで過ごした。家の隣はモスクだった。毎日何度もコーランを聴いた。街では日々の祈祷や季節の断食が生活の中に溶け込んでいる。人々の生活の背後に日本や西欧とはまったく違う原理が働いていることが子供ながらに感じられた。

「イスラームは霊性的原理だ。だが、それは同時に社会的・政治的理想でもある」(ラシード・レター、カリフ論)。イスラームは聖と俗を分離しない。生活のすべて、人生のすべてが宗教で規定されている。たとえば善悪の判断も神によって決められたものだ。

「イスラームでは事物の本性が善悪を決めるのではない。人間の理性が善悪を判断するのではない。神の意志で善悪が決まるのです。たとえば、人の持ち物を盗む。盗みということがそれ自体として本性的に、あるいは理性的に、悪いことだから悪いというのではありません。神がそれを悪いと決定したから悪いのです。」

善悪のレイティングもイスラーム法で明確に規定されている。

「以上の五つ、すなわち絶対禅、相対善、善悪無記、相対悪、絶対悪をイスラーム法では五つの最も基本的な倫理的範疇といたします。この倫理的五分法の原理に基いて、人間のあらゆる可能的な行動をきっぱり分類して画一的に規定してしまおうというのであります。それがすなわち最も簡単な形で考えたイスラーム法の構造です。」

イスラム教徒=ムスリムという言葉は神に対する「絶対帰依」という意味を持つ。主人と奴隷の関係のような絶対的な神への帰依。自力救済の否定。エジプト人は「マレーシュ(気にしても仕方がない)」「インシャーラー(神の思し召しだ)」という言葉を日常よく使う。日本人から見ると、どうみても彼らに責任があるときでも、悪びれずに、そう言う。

イスラーム文化の思想では根本的には因果律が存在しないのだと著者は指摘している。原因があって結果があるのではなく、神が一瞬一瞬を新たに創造しているだけなのだ。だからすべては神の思し召し扱いという世界観が成り立つ。

「そうなりますと結局、われわれの経験的世界は、哲学的には因果律の存在しない世界ということになる。因果関係では内的に結ばれているものは、この世界に何一つ存在しない。また、そうであればこそ神の全能性が絶対的な形で成立しうると考えるのであります。」

因果律が存在すると神の創造性の余地が減ってしまうから、である。

そして、すべてはコーランに記述されている。

「われわれがふつうイスラーム文化の構成要素としているものは、学問をはじめとして道徳も政治も法律も芸術も、ことごとく『コーラン』の解釈学的展開の諸相なのであります。」

コーランは遠い昔に固定したテキストであるが故に、解釈には大きな違いが生まれる。仏教に顕教と密教があるように、イスラームにも多くの宗派が生まれた。この本では主に、主に次の大きな宗派についての解説がある。

・シャリーア(宗教法)に全面的に依拠するスンニー派イスラーム
・イマームによって解釈された内的真理ハキーカに基づくシーア的イスラーム
・ハキーカそのものを純粋に求める神秘主義スーフィズム

中東問題の記事を読むときに出てくるスンニー派、シーア派などが何を意味しているか根本的な理解ができる。インターネットで世界はすっかりつながった感じがあるが、文化的に断絶しているのが日本とイスラーム世界だと思う。日本人は一般に宗教を嫌うから外国の文化だけを理解しようとする。しかしイスラーム世界の場合、それでは無意味だということがわかる。イスラーム世界の文化的枠組を理解する名著である。

妖怪談義

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・妖怪談義
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遠野物語の民俗学者 柳田 國男による妖怪論。

「われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったのだろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと、結合することになったのでしょうか。幸か不幸か隣の大国から、久しきにわたってさまざまな文化を借りおりましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、または幽霊などというものの本質を、解読することはできぬように思います。」

これは昭和13,4年頃に書かれたもので、農村にはまだ電気が通じておらず、マスメディアも発達していなかった頃の研究だ。村々の伝承の中には無数の妖怪が登場した。柳田は全国の有志研究者のネットワークを組織して、それらの情報を集約した結果、そこに多くの共通性を見出した。

たとえば河童である。

「私たちの不思議とするのは、人は南北に立ち分かれて風俗も既に同じからず、言葉は時として通訳を要するほど違っているのに、どうして川童という怪物だけが、全国どこへ行ってもただ一種の生活、まるで判こで押したような悪戯を、いつまでも真似つづけているのかという点である。」

ちなみに妖怪を当時の人々はオバケと呼んだ。これは亡くなった人の霊である幽霊の類とは似て非なるものである。

柳田はまず、オバケ(妖怪)は、

・出現場所がだいたい決まっている
・相手を選ばずに現れる
・出る時刻は決まっていない

という性質を持つのに対して、

幽霊は

・向こうからやってくる、追いかけてくる
・これぞという特定の者にだけ現れる
・およそ丑三つ時ぐらいに出る

という違いがあると定義した。

幽霊は個人的なものであるのに対して、妖怪はもっと人々の広く共有する民俗や自然に根ざしたものということ。

柳田は昔の日本の農村部では「人が物を信じ得る範囲は、今よりもかつてはずっと広かった」というが、結局、何が当時の日本人にそういう想像力を働かせていたのだろうか。この本はそれを具体的に追求する小論集である。

柳田は事例の収集に凝るのみで特に結論を出すわけでもないのだが、話を総合すると、それは昔の生活には薄暗がりがよくあったことに起因するのではないかと思った。それは電灯照明が普及していないからこその薄暗がりでもあるし、メディアが未成熟であるが故の情報の薄暗がりでもある。

見たことがない他所者が夕暮れに村はずれの道を通るのに出会う、ということは村人にとってとても怖ろしいことであったという。黄昏(タソガレ)とは「誰かそれ」に由来する言葉だ。薄暗い場所で見知らぬ者と出くわす恐怖を日本人が共有していたから、できた言葉なのだ。

谷崎潤一郎は「陰影礼賛」で薄暗がりが日本人の侘びさび的感性を育んだと書いたが、妖怪を生んだのもまた同じ薄暗がりだったのではないかと思う。そうした美的感性が衰退し、妖怪がいなくなったのも、文明の光とメディアネットワークによる薄暗がりの全滅によるものだとすれば納得がいく。

・陰翳礼讃
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005012.html

柳田が14歳のときに青空に無数の星が輝く様子を幻視した体験を告白しているところも興味深い。資料を集めて冷静に分析するだけでなく、そうした怪異をリアルに感じることができる心性を持った人だったからこそ、民俗学の祖となりえたのだろう。

妖怪というと水木しげるの妖怪論も面白いのだが創作要素が強い。本物志向を求めるならばフィールドワークから集成されたこの妖怪論がかなり濃い内容だ。巻末の妖怪の名簿(特徴説明つき)は貴重な資料と思う。

・無心ということ
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お葬式でお坊さんとゆっくり話す機会があった。いろいろな本を読むのが好きだという話になったとき、私は調子に乗って「仏教(の本)は哲学や科学と似ていて宗教っぽいくないのが好きです」と言ってしまった。お坊さんはニヤリと笑われて「いやいや、仏教は突然天から何かが降ってくるみたいなところがあるものです」と返された。冷や汗たらたらだった。

禅思想の大家 鈴木大拙の本はどれも難解なのだがこの本は講演の口述筆記を中心にまとめたものなので、すこしだけ読みやすかった。いやそれでも半分わかったという気がするレベルだが。これは「無心」ということが仏教思想の中心であり東洋思想を特徴づける重要概念だとして、大拙が8回の連続講義を行った記録である。

無心ということは木や石ころみたいな絶対的受動性の世界だ。分別を超えた無分別であり、絶対無価値の世界を指しているという。神や仏を無条件に受け入れるということでもあるのだろう。そして同時に天啓=ひらめきの舞い降りる創造的な状態でもあると思う。

「この受動性がいろいろな型となって、真宗には真宗の、禅宗には禅宗の、キリスト教にはキリスト教のそれぞれの型がある。その型で受け入れるが、ちょっと見たところでははなはだ違ったようでも、その本を探して来ると心理学的に受動性というものがいずれの宗教にもある。」

前述のお坊さんが言われた「突然天から何かが降ってくる」というのと同じ意味だと思った。私のように知的好奇心から仏教を頭で理解しようとする限り、この宗教の受動性という本質はつかみづらい。

「阿弥陀さんは、あるから信ずるのではなくして、信ずるからあるのです。信ずることができるからあるのです。その絶対の受動性の中にはいってくるから信ずるのです。受動性のものに動的性格が出てくるから、そこに一種の信なるものが出るのです。」

鈴木大拙は古今東西の思想家宗教家の無心論を縦横無尽に引用しているが、心学の祖 石田梅巌の南無阿弥陀観が興味深く読めた。

「南無阿弥陀仏になれば、我と云ふものあるべきや。我なければ虚無の如し。虚無に南無阿弥陀仏の声有て唱れば、此即ち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏直に御名を唱玉ふは説法にあらずや。此説法の功徳に依て、弥陀を念ずる行者も、念ぜらるる方の仏も、双方ともに一体と成り、苦楽の二つを離れ終るなり。離れ終って無心無益の不可思議となる。是を名て自然悟道とも云ひ、能所不二、機法一体とも云ふにあらずや」

心を空っぽにして南無阿弥陀仏と唱えると、唱えた行者も仏も一体となって無心無益の不可思議になる、というわけだ。唱えた行者が無心になるという平面的な展開ではなく、行者と仏が観照しあってメタレベルに突き抜けた無心になるということなのだ。こうしたひらめきが舞い降りて思考のフレーム自体を根本から作り替えてしまう悟りの瞬間は宗教体験に限らず普遍なのではないかと思う。

「それゆえわれわれのいわゆる心というものは、はっきりと自覚できる面もあるが、また全く自覚できない面もある。そうしてこの無自覚方面の方が、空間的にいえば、自覚面よりもずうっと広いといってよろしい。あるいは深いといってよろしい。この深い広い無自覚面、あるいは無自覚層といってよいが、そこからいわゆる百鬼夜行的にいろんなものが自覚面へ飛び出す。飛び出たところで初めて気がつくが、その先はどこからどうして来たものか全くわからぬ。これを妄想と仏教では言う。」

この妄想をうむ我執を次元を超越して新たな安定状態を求めると無心が出てくるらしいのだが、無心というのは何もないのではなく、むしろ全部入りなのだ。物理学に似ている。百鬼夜行的いろんなものがランダムに出てくる世界をミクロの量子力学的世界とすれば、無心はマクロの世界に生じる現象である、という解釈で読めそうに思う。無意識や本能にまかせるのが無心ではないのだ。ここでいう無心はもっと洗練された人間化された安定状態を指しているのである。

この講話集ベースの本を読んで鈴木大拙が難解なのは言葉の専門性もあるが、三段論法や弁証法で話が展開しないからじゃないかなと改めて気がついた。「如何なるか是れ無心」に対して「日々是好日」でも「麻三斤」でも「解打鼓」でも正解だという禅問答と一緒なわけだ。それに慣れると二次元の絵が三次元に突然立ち上がってくるような驚きが随所に見つかる濃い内容の本であると思う。


・禅的生活
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002275.html
・シッダールタ
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-708.html

ヨブへの答え

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・ヨブへの答え
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ユングの傑作。宗教を心理学で解体する。宗教とは何かにひとつの答えを返しており衝撃的。

聖書に出てくるキリスト教の神ヤーヴェは全知全能であるにも関わらず間違いを犯す。最初につくった人間のアダムとイブからして、彼が課したルールを破り堕落していった失敗作だ。人間の心はお見通しのはずなのに、ひどく疑って試練を与える。そして意のままにならないと怒って罰を下す。そして自らを称賛する人間に極限的なまでの慈愛をみせることもある。

「彼の力が宇宙のすみずみまで大きく鳴り響いているわりには、彼の存在の基礎は心細い、つまり彼が実際に存在するためには意識に映されることが必要である。存在は、当然誰かに意識されてこそ意味がある。だからこそこの創造主は、人間が意識化するのを無意識のうちに妨げたいと思っていながら、なおかつ意識的な人間を必要としているのである。だからこそヤーヴェは怒り狂って盲目的な破壊に走り、そのあとで物凄い孤独と辛い虚無感に苛まれ、次いで自分を自分自身と感じさせてくれるものへの何とも言えぬ憧れが再び目覚めてくる。」

ヨブ記の中のヨブは神を敬う正しい人である。その行いや言動から良い人間だとわかりきっているのに、神はヨブにサディスティックなまでに厳しい試練与えて痛めつける。理不尽で不可解である。それでもヨブは神への従順をひたすらに誓い続ける。この二者の茶番劇みたいな行動は、いったい何なのか?ユングはこう分析する。

「彼(ヤーヴェ)は一人で両者、迫害者にして助け手であり、どちらも同じように真実である。ヤーヴェが分裂しているというよりは、むしろ一個の二律背反であり、全存在にかかわる内的対立であって、それが彼の恐るべき行動の・彼の全能と全知の・不可欠の前提なのである。このことを認識しているからこそ、ヨブは彼の前で「わが道を明らかにせん」ことに、つまり自らの立場を鮮明にすることに、固執するのである。なぜならヤーヴェは怒りの面をもつにもかかわらず、その反対に、訴えを起こした人間の弁護者でもあるからである。」

神はすべてであるが故に、善でも悪でもある全体性の性質を持っている。ヨブはそれを認識したうえで、普通に考えると理不尽に見える神にひれ伏しているのである。このヨブは神よりも知的で道徳的に高い位置にいる。だから追い越された神は人間をふたたび超越するために、神であり人であるキリストの姿に変身せねばならなかったのだという。

ユングはその全体性の神の正体は人間の無意識のはたらきであると指摘する。

「神と無意識とはどちらも超越的な内容を表すための極限概念である。しかし、無意識の中には全体性の元型が存在していて夢などの中に自発的に現われるし、また意識的な意志から独立したある傾向があって、それがこの元型を中心にして他のもろもろの元型を関係づける働きをしているということを、経験的には確かに確認することができる。」

無意識の中の元型がせめぎあって、ある程度は自発的に神を作りだしている。だからこそ、神の姿は時代状況を反映して、そこに生きた人々の無意識を反映する形で変化してきたとユングは指摘する。旧約聖書や新約聖書の時代から1950年代の法王宣言まで、歴史を追って、無意識と神の対応関係を見事に分析している。

ユングというと、例のシンクロニシティ研究の超越的な難解さが連想されるが、この本はまったくちがって、論理的でわかりやすく書かれている。伝統的な宗教における神という表象の正体を心理学を使って論理的に説明している。訳者の素晴らしい解説があるおかげで一層、内容を立体的に理解することができるのも高評価。

・グノーシスと古代宇宙論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004955.html

・グノーシス―古代キリスト教の"異端思想"
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004060.html

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