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イスラーム学の世界的権威 井筒俊彦が、昭和56年に行ったイスラーム文化に関する3つの講演を自ら活字になおしたもの。この講演は経済人を聴衆としていたため、専門用語が排されて、基本から大変わかりやすく整理された内容になっている。
私は子供時代の一時期をエジプトのカイロで過ごした。家の隣はモスクだった。毎日何度もコーランを聴いた。街では日々の祈祷や季節の断食が生活の中に溶け込んでいる。人々の生活の背後に日本や西欧とはまったく違う原理が働いていることが子供ながらに感じられた。
「イスラームは霊性的原理だ。だが、それは同時に社会的・政治的理想でもある」(ラシード・レター、カリフ論)。イスラームは聖と俗を分離しない。生活のすべて、人生のすべてが宗教で規定されている。たとえば善悪の判断も神によって決められたものだ。
「イスラームでは事物の本性が善悪を決めるのではない。人間の理性が善悪を判断するのではない。神の意志で善悪が決まるのです。たとえば、人の持ち物を盗む。盗みということがそれ自体として本性的に、あるいは理性的に、悪いことだから悪いというのではありません。神がそれを悪いと決定したから悪いのです。」
善悪のレイティングもイスラーム法で明確に規定されている。
「以上の五つ、すなわち絶対禅、相対善、善悪無記、相対悪、絶対悪をイスラーム法では五つの最も基本的な倫理的範疇といたします。この倫理的五分法の原理に基いて、人間のあらゆる可能的な行動をきっぱり分類して画一的に規定してしまおうというのであります。それがすなわち最も簡単な形で考えたイスラーム法の構造です。」
イスラム教徒=ムスリムという言葉は神に対する「絶対帰依」という意味を持つ。主人と奴隷の関係のような絶対的な神への帰依。自力救済の否定。エジプト人は「マレーシュ(気にしても仕方がない)」「インシャーラー(神の思し召しだ)」という言葉を日常よく使う。日本人から見ると、どうみても彼らに責任があるときでも、悪びれずに、そう言う。
イスラーム文化の思想では根本的には因果律が存在しないのだと著者は指摘している。原因があって結果があるのではなく、神が一瞬一瞬を新たに創造しているだけなのだ。だからすべては神の思し召し扱いという世界観が成り立つ。
「そうなりますと結局、われわれの経験的世界は、哲学的には因果律の存在しない世界ということになる。因果関係では内的に結ばれているものは、この世界に何一つ存在しない。また、そうであればこそ神の全能性が絶対的な形で成立しうると考えるのであります。」
因果律が存在すると神の創造性の余地が減ってしまうから、である。
そして、すべてはコーランに記述されている。
「われわれがふつうイスラーム文化の構成要素としているものは、学問をはじめとして道徳も政治も法律も芸術も、ことごとく『コーラン』の解釈学的展開の諸相なのであります。」
コーランは遠い昔に固定したテキストであるが故に、解釈には大きな違いが生まれる。仏教に顕教と密教があるように、イスラームにも多くの宗派が生まれた。この本では主に、主に次の大きな宗派についての解説がある。
・シャリーア(宗教法)に全面的に依拠するスンニー派イスラーム
・イマームによって解釈された内的真理ハキーカに基づくシーア的イスラーム
・ハキーカそのものを純粋に求める神秘主義スーフィズム
中東問題の記事を読むときに出てくるスンニー派、シーア派などが何を意味しているか根本的な理解ができる。インターネットで世界はすっかりつながった感じがあるが、文化的に断絶しているのが日本とイスラーム世界だと思う。日本人は一般に宗教を嫌うから外国の文化だけを理解しようとする。しかしイスラーム世界の場合、それでは無意味だということがわかる。イスラーム世界の文化的枠組を理解する名著である。
遠野物語の民俗学者 柳田 國男による妖怪論。
「われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったのだろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと、結合することになったのでしょうか。幸か不幸か隣の大国から、久しきにわたってさまざまな文化を借りおりましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、または幽霊などというものの本質を、解読することはできぬように思います。」
これは昭和13,4年頃に書かれたもので、農村にはまだ電気が通じておらず、マスメディアも発達していなかった頃の研究だ。村々の伝承の中には無数の妖怪が登場した。柳田は全国の有志研究者のネットワークを組織して、それらの情報を集約した結果、そこに多くの共通性を見出した。
たとえば河童である。
「私たちの不思議とするのは、人は南北に立ち分かれて風俗も既に同じからず、言葉は時として通訳を要するほど違っているのに、どうして川童という怪物だけが、全国どこへ行ってもただ一種の生活、まるで判こで押したような悪戯を、いつまでも真似つづけているのかという点である。」
ちなみに妖怪を当時の人々はオバケと呼んだ。これは亡くなった人の霊である幽霊の類とは似て非なるものである。
柳田はまず、オバケ(妖怪)は、
・出現場所がだいたい決まっている
・相手を選ばずに現れる
・出る時刻は決まっていない
という性質を持つのに対して、
幽霊は
・向こうからやってくる、追いかけてくる
・これぞという特定の者にだけ現れる
・およそ丑三つ時ぐらいに出る
という違いがあると定義した。
幽霊は個人的なものであるのに対して、妖怪はもっと人々の広く共有する民俗や自然に根ざしたものということ。
柳田は昔の日本の農村部では「人が物を信じ得る範囲は、今よりもかつてはずっと広かった」というが、結局、何が当時の日本人にそういう想像力を働かせていたのだろうか。この本はそれを具体的に追求する小論集である。
柳田は事例の収集に凝るのみで特に結論を出すわけでもないのだが、話を総合すると、それは昔の生活には薄暗がりがよくあったことに起因するのではないかと思った。それは電灯照明が普及していないからこその薄暗がりでもあるし、メディアが未成熟であるが故の情報の薄暗がりでもある。
見たことがない他所者が夕暮れに村はずれの道を通るのに出会う、ということは村人にとってとても怖ろしいことであったという。黄昏(タソガレ)とは「誰かそれ」に由来する言葉だ。薄暗い場所で見知らぬ者と出くわす恐怖を日本人が共有していたから、できた言葉なのだ。
谷崎潤一郎は「陰影礼賛」で薄暗がりが日本人の侘びさび的感性を育んだと書いたが、妖怪を生んだのもまた同じ薄暗がりだったのではないかと思う。そうした美的感性が衰退し、妖怪がいなくなったのも、文明の光とメディアネットワークによる薄暗がりの全滅によるものだとすれば納得がいく。
・陰翳礼讃
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005012.html
柳田が14歳のときに青空に無数の星が輝く様子を幻視した体験を告白しているところも興味深い。資料を集めて冷静に分析するだけでなく、そうした怪異をリアルに感じることができる心性を持った人だったからこそ、民俗学の祖となりえたのだろう。
妖怪というと水木しげるの妖怪論も面白いのだが創作要素が強い。本物志向を求めるならばフィールドワークから集成されたこの妖怪論がかなり濃い内容だ。巻末の妖怪の名簿(特徴説明つき)は貴重な資料と思う。
お葬式でお坊さんとゆっくり話す機会があった。いろいろな本を読むのが好きだという話になったとき、私は調子に乗って「仏教(の本)は哲学や科学と似ていて宗教っぽいくないのが好きです」と言ってしまった。お坊さんはニヤリと笑われて「いやいや、仏教は突然天から何かが降ってくるみたいなところがあるものです」と返された。冷や汗たらたらだった。
禅思想の大家 鈴木大拙の本はどれも難解なのだがこの本は講演の口述筆記を中心にまとめたものなので、すこしだけ読みやすかった。いやそれでも半分わかったという気がするレベルだが。これは「無心」ということが仏教思想の中心であり東洋思想を特徴づける重要概念だとして、大拙が8回の連続講義を行った記録である。
無心ということは木や石ころみたいな絶対的受動性の世界だ。分別を超えた無分別であり、絶対無価値の世界を指しているという。神や仏を無条件に受け入れるということでもあるのだろう。そして同時に天啓=ひらめきの舞い降りる創造的な状態でもあると思う。
「この受動性がいろいろな型となって、真宗には真宗の、禅宗には禅宗の、キリスト教にはキリスト教のそれぞれの型がある。その型で受け入れるが、ちょっと見たところでははなはだ違ったようでも、その本を探して来ると心理学的に受動性というものがいずれの宗教にもある。」
前述のお坊さんが言われた「突然天から何かが降ってくる」というのと同じ意味だと思った。私のように知的好奇心から仏教を頭で理解しようとする限り、この宗教の受動性という本質はつかみづらい。
「阿弥陀さんは、あるから信ずるのではなくして、信ずるからあるのです。信ずることができるからあるのです。その絶対の受動性の中にはいってくるから信ずるのです。受動性のものに動的性格が出てくるから、そこに一種の信なるものが出るのです。」
鈴木大拙は古今東西の思想家宗教家の無心論を縦横無尽に引用しているが、心学の祖 石田梅巌の南無阿弥陀観が興味深く読めた。
「南無阿弥陀仏になれば、我と云ふものあるべきや。我なければ虚無の如し。虚無に南無阿弥陀仏の声有て唱れば、此即ち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏直に御名を唱玉ふは説法にあらずや。此説法の功徳に依て、弥陀を念ずる行者も、念ぜらるる方の仏も、双方ともに一体と成り、苦楽の二つを離れ終るなり。離れ終って無心無益の不可思議となる。是を名て自然悟道とも云ひ、能所不二、機法一体とも云ふにあらずや」
心を空っぽにして南無阿弥陀仏と唱えると、唱えた行者も仏も一体となって無心無益の不可思議になる、というわけだ。唱えた行者が無心になるという平面的な展開ではなく、行者と仏が観照しあってメタレベルに突き抜けた無心になるということなのだ。こうしたひらめきが舞い降りて思考のフレーム自体を根本から作り替えてしまう悟りの瞬間は宗教体験に限らず普遍なのではないかと思う。
「それゆえわれわれのいわゆる心というものは、はっきりと自覚できる面もあるが、また全く自覚できない面もある。そうしてこの無自覚方面の方が、空間的にいえば、自覚面よりもずうっと広いといってよろしい。あるいは深いといってよろしい。この深い広い無自覚面、あるいは無自覚層といってよいが、そこからいわゆる百鬼夜行的にいろんなものが自覚面へ飛び出す。飛び出たところで初めて気がつくが、その先はどこからどうして来たものか全くわからぬ。これを妄想と仏教では言う。」
この妄想をうむ我執を次元を超越して新たな安定状態を求めると無心が出てくるらしいのだが、無心というのは何もないのではなく、むしろ全部入りなのだ。物理学に似ている。百鬼夜行的いろんなものがランダムに出てくる世界をミクロの量子力学的世界とすれば、無心はマクロの世界に生じる現象である、という解釈で読めそうに思う。無意識や本能にまかせるのが無心ではないのだ。ここでいう無心はもっと洗練された人間化された安定状態を指しているのである。
この講話集ベースの本を読んで鈴木大拙が難解なのは言葉の専門性もあるが、三段論法や弁証法で話が展開しないからじゃないかなと改めて気がついた。「如何なるか是れ無心」に対して「日々是好日」でも「麻三斤」でも「解打鼓」でも正解だという禅問答と一緒なわけだ。それに慣れると二次元の絵が三次元に突然立ち上がってくるような驚きが随所に見つかる濃い内容の本であると思う。
・禅的生活
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002275.html
・シッダールタ
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-708.html
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E9%9C%8A%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A
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迫力のある写真集。
比叡山の千日回峰行は、比叡の山を毎日30キロから40キロ巡って礼拝する行である。期間は延べ1000日(7年間)に渡る。回峰700日目では9日間の断食、断眠、不臥で祈り続ける「堂入り」という医学的には生存が危うい難行もある。晴れて千日回峰を達成した行者は「大阿闍梨」と呼ばれ、生き仏として崇められる。
千日回峰行には厳しい掟がある。もしも途中で修行が続けられなくなったら死なねばならない。そのために行者は短刀を持ち歩いている。7年間の間に怪我や病気で歩けなくなったらそれを使って自害する覚悟なのである。
酒井雄哉大阿闍梨は、驚くべきことに昭和の終わりに連続2回もこの千日回峰行を達成している。千日回峰はこの400年間で46人が満行しているが、二千日満行はたったの3人しかいないのである。
この本は千日回峰中の大阿闍梨を数年間に渡って撮影した写真集。
「昔流の言葉で言えば、行はわしの人生の最後の砦だからね。勉強してもだめ。仕事やってもだめ。何をやっても人間失格で、最後にたどりついたのが、お山での行だから。その砦を守れるかどうかは、自分が捨て身になって、全力投球しなくちゃならんということやね。」
大阿闍梨の言葉や千日回峰行の解説もあるが、いくら読んでも言葉だけでは理解できない部分がある。なぜ死を覚悟で厳しい修行に臨むのか。日々何を思いながら続けていたのか。独り山を歩き、仏に祈る大阿闍梨の写真は、それを理屈でなくわかったような気にさせてくれる迫力がある。
・酒井雄哉のホームページ
http://www.sakai-yusai.com/
そして公式ホームページがあるというのもすごい。
いきなり関西の神社に嫁いだ女性ライターのドタバタ体験記。
一般人にとって神社の舞台裏は謎である。全国に神社は8万社以上あり、神職として働く人は約2万人といわれるそうだが、どうやったら神職になれるのか。神主や巫女は祭事がない日は何をしているのか?どうやって神社は収入を得ているのか。神主というのは、やっぱり毎日清く正しく生活しているのか?結婚前は神社と寺のちがいさえ知らなかった著者なので、軽妙な文章の中で神社の基礎知識をわかりやすく教えてくれる。
神社の若奥様の1年間を日記のように綴ったドキュメンタリである。小さいけれど歴史のある、この神社は大阪の街中にある。御神輿はガレージに格納され、まつりの日には神楽殿にミラーボールが回り演歌歌手がショーをする。「えべっさん」に日には境内は近所のおじさんおばさんの酔っ払いでいっぱいになる、ような地元密着型である。
ある種の店を構えているわけであるから、神社の1年間は結構忙しいのであった。一に掃除、二に掃除で、神社を清潔に保たねばならない。関係者、協力者への気遣いのこまやかさも求められる。祭りのイベントの前後は大忙しで、大晦日から元旦は36時間不眠不休で働いている。そしてなにより大切なのは毎年同じことを繰り返すということだった。
「神社では、どんなに小さな行事でも、かならず心待ちにしている人がいるし、どんな小さな木を一本植えても、その生長を楽しみに見にきている人がいるのだという。だからおかあさんは、境内の植物の世話と掃き掃除を絶対にかかさないし、いちどやり始めた行事は、途中でやめたりしない。「今は人が来なくても、三十年やれば増えてくるやろ」「あと五十年もすれば立派な木になるやろ」などという、スパンの長い発言は、おかあさんだけでなく神社にたずさわる人たち全般の特徴である。」
軽妙に神社の裏話を書いているのだが、暴露的ではない。一般読者の神社への興味を深めてもらおう、好きになってもらおうという著者の意図が伝わってくるのが、読んでいて気持ちがよかった。現代の神社や神道の実態を楽しく知ることができる。
バチカン公認のエクソシストの実態を、ロサンゼルスタイムスの女性記者が、エクソシスト本人や患者たちへの取材を通して明らかにしていく。
「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起させ、大声をあげて出て行った」マルコ伝 第一章二十三節〜二十六節
聖書にはイエスが人間に憑依した悪魔を追い出す場面が何度もでてくるので、カトリックでは悪魔祓いの儀式が公式に認められてきた。その儀式を執り行う聖職者はエクソシストと呼ばれる。前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世も在任中に三度、エクソシストとして悪魔祓いを行ったという。エクソシストはバチカンが公認しているのである。司教のエクソシストもいる。
現代イタリアでは悪魔憑きに悩まされる人が増えていそうで、エクソシストの数は1986年には20人だったが、現在ではほぼ350人に増えた。バチカンはエクソシストの公開講座まで開いていて、その存在や活動は決して秘密というわけではない。しかし、バチカン首脳部は、悪魔祓いが扇情的にメディアで取り上げられることを嫌って、その宣伝活動を控えめに抑えている実情があった。
悪魔の憑依が増えているとはいっても、本物は珍しいそうだ。エクソシストたちが最初にすることは、偽者の憑依を見抜くことにある。毎日相談を受けるエクソシスト曰く、自分でも十数年で十人しか本物の憑依現象とは出会うことがなかったと述べている。大半の事例は、精神的な病やオカルト好きの妄想に過ぎない。
「本物の憑依に見られる4つの症状」というリストが紹介されている。
・人間の能力をはるかに超えた力を発揮する
・本人が持っている本来の声とはまったく違った声で話す。もしくは被術者が知るはずのない言語を話す
・遠い場所で起きていることや、被術者には知りえない事実を知っている
・聖なるシンボルに対して冒涜的な怒りや嫌悪を感じる。
著者が立ち会った悪魔祓いの記述はまるで映画「エクソシスト」のワンシーンのようである。エクソシストが聖水や聖書をふりかざして、獣のような声で叫ぶ患者と霊的に戦う。他のどんな手段でも直せなかった病が、悪魔祓いによって治ってしまうケースがある。
著者はジャーナリストの中立的立場から、悪魔の憑依現象が本物なのか偽者なのかを断定はしない。カトリック教会と悪魔祓いの歴史、本物のエクソシストと患者たちの実態の報告をした上で、後半では悪魔祓いは解離性障害の一種ではないかなど、科学的な見地からの批判的分析も紹介されている。
日本のイタコが思い浮かぶのだが、訳者解題で翻訳者が日本とキリスト教国の文化の違いを指摘していた。憑依現象において、キリスト教圏では神と悪魔の二項対立になるが、日本ではキツネ憑きのようにもっと混沌とした物が憑く。だから、悪魔祓いというのは日本の土壌にあわず、普及しなかったのではないかという。
キリスト教圏の文化の影の部分を垣間見ることができるドキュメンタリだ。
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構造主義的アプローチで日本神話群を分析する研究書。日本神話はそれぞれ縄文、弥生、古墳時代に流入したとみられる3層にわけられるという。
第一層はオホゲツヒメ、ウケモチ、ワクムスヒなどが主人公として語られる食物の起源を語る神話だ。殺された神の遺体から穀物などが豊穣に生まれてくるようになったという内容で、ハイヌウェレ型神話と呼ばれる。インドネシア、メラネシア、南北アメリカにかけて近似した神話が分布する。
第二層は水田耕作に伴う神話群で、イザナギ・イザナミ、ヲロチ退治、海幸山幸の神話などが含まれる。イザナギ、イザナミは兄妹が結婚して国産みをする。最初の子は海に流してしまう。木のまわりをまわって結婚の誓いを立てるなど細部まで似た神話が、中国にもあるそうだ。
第三層はイザナギの黄泉の国訪問やオホクニヌシの成長物語などだが、ギリシア神話との類似性が顕著なものがいくつもある。朝鮮半島を通って、西の文化の流れをくむスキタイ神話(ヘロドトスが後世に伝えた)経由でもたらされた影響らしい。
世界に類似した神話が存在するのは、インド・ヨーロッパ語族の移動の歴史と関係が深いらしい。著者はこの語族の神話を研究した著名な学者デュメジルの、三機能体系という理論を日本神話の起源に適用して説明する。
三機能とは
第一機能 宗教
第二機能 戦闘
第三機能 食糧生産
の3つである。
「他所ですでにくり返して詳論してきたように、日本神話は明らかに、アマテラスとスサノヲとオホクニヌシを三大主神格とし、これら三神のあいだに三つ巴とも言える葛藤を軸にして、主な部分が組み立てられている。そしてその中のアマテラスが祭政の第一機能を、スサノヲが暴力と武力の第二機能を、オホクニヌシが豊穣、愛欲、医療などの第三機能をそれぞれ明らかに代表することによって、神話の全体が、フランスの比較神話学者デュメジルのインド・ヨーロッパ語族の神話に共通するものであったことが明らかにされている、「三機能体系」にまさに則って構成されている。」
日本神話で最も奇妙に感じる「国譲り」を著者はこの三機能体系で説明がつくと述べている。国作りをしたオオオクニヌシ一派が、後から降臨した天皇家の祖先に支配権を譲り渡す話である。
「つまり、この神話には、第一機能と第二機能をそれぞれ担当する祭司と戦士が、神聖な王家とともに支配層を構成して、国土に土着して生産のための労働に従事するはずの庶民たちの第三機能を統監するという、デュメジルの言う三区分イデオロギーに特徴的な理念が、きわめてはっきり表明されていると思われるのだ。」
三機能を統合することにより、支配者層が安定した権力基盤を獲得するというパターンは、若干の変化はあるものの、スキタイ、高句麗にも同様の構造がある。さらに遠くギリシア世界との類似性もあるという指摘が「ロムルス・ヘラクレス・インドラとヤマトタケル」という章で語られている。
神話素のような物語の構成要素のDNA解析を試みる手法で、複雑な日本神話のなりたちが、世界の神話に対置され、きれいに整理されていく面白い一冊。
日本古代文学入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004835.html
・ユングでわかる日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004178.html
・日本の聖地―日本宗教とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004661.html
・劇画古事記-神々の物語
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004800.html
・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html
・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html
・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html
・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html
・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html
・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html
・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html
・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html
少し値が張る本だが、長大な民族学の古典「金枝篇」を見事に要約し、原典にはなかった写真やイラストで本文の理解を深める工夫が素晴らしい。装丁もよく、本として完成度が極めて高い内容。フレーザーを読むならこれがおすすめ。
「
ローマの近くにネミという村があった。その村には、古代ローマの時代より、森と動物の女神、豊穣の神ディアナと、ディアナの夫ウィルビウスを祭った神殿があった。この神殿では、男は誰でもその祭司になり、「森の王」の称号を得られるというしきたりがあった。ただし、祭司になるには、男はまず神殿の森の聖なる樹から1本の枝 -「金枝」-を手折り、それで時の祭司を殺さなければならなかった。こうしてこの神殿の祭司職が継承されてきたのである。祭司になるのに、なぜ時の祭司を殺さなければならないのか? なぜまず聖なる樹の枝を手折らなければならないのか?この二つの質問にたいする答えを求めるのが本書『金枝篇』の目的である。
」
呪術には、「似たものは似たものを生み出す、結果はその原因に似る」という類似の法則と、「かつて互いに接触していたものは、その後、物理的な接触がなくなっても距離をおきながらひきつづき互いに作用しあう」という感染の法則の二つの原理がある。類似の法則からは類感呪術が、感染の法則からは感染呪術が発生する。
類感呪術とはたとえば敵に似せた像を傷つけることで、その敵本人を呪い殺すような術である。感染呪術とは相手の身に着けていたものや髪などを使って本人に影響を与えようとする術のことである。
冒頭に引用したネミの祭司殺しや金枝とはいったいなんなのか。世界中の神話を比較分析することで、共通項をみつけ、荒唐無稽に思える神話に隠された人類にとって普遍的な意味を見出そうとする。
フレーザーは世界中の民族の呪術やまじないの膨大な数の事例を収集した。フィールドワーカーではなく書斎にいながら文献で情報を集めるタイプであったそうだ。フレーザーの仕事は”未開人”を見下しているような態度の記述もあったり、根拠のないデータが混ざっていたりして、後世の評価は肯定的なものばかりではないようだが、出版当時、大きな話題になり、民族学の基礎を築いたのがフレーザーであり、金枝篇であったことは間違いない。
「
結局のところ、科学という総合概念、つまり、ふつうの言葉でいえば、自然の法則だが、それは、人間のものの考え方が生み出したくるくる変わる幻影を説明するためにひねり出された仮説にすぎないことを忘れてはならない。われわれはその幻影を世界とか宇宙といった大仰な呼び方で権威づけているだけなのだ。とどのつまり、呪術も宗教も科学も人間のものの考え方がつくり出した理論にほかならないのである。科学が呪術や宗教に取って代わったように、科学もまた、いつの日か、もっと完璧な仮説によって取って代わられるかもしれない。
」
もはや古典だが、いま改めて読んでも面白い一冊である。
古代の異端思想グノーシスに関する本格的な研究書。
「さて、神なるヌースは男女であり、命にして光であるが、ロゴスによって造物主なるもう一人のヌースを生み出した。彼は火と霊気の神であって、ある七人の支配者(ディオイケーテース)を造りだした。この者たちは感覚で把握される世界を円周によって包んでいて、その支配は運命と呼ばれている。」(古代ヘルメス文書ポイマンドレースより)
グノーシスの宇宙観では、神は二人いる。至高神と造物主である。至高神は宇宙を開闢したあと造物主を生み、目に見える物質界の創造はそれにまかせた。造物主はこの世界や生物をつくり、惑星を司る7人の支配者にその世界を委ねた。これにより神の叡知界→星辰界→地上世界という創造と被造、支配と被支配のヒエラルキーが確立される。
世界の創造は至高神の働きではなく、造物主の手によるものであった。これに対し人間は至高神から直接生まれた神の子であるとされる。もともとは最高レベルの神の叡智界に属していた。しかし、造物主の創造した世界を観察したいという好奇心が原因で、地上へ転落し、物質的身体に閉じ込められ、本来は下位の存在であるはずの造物主や星辰界の支配下におかれてしまった。
だから人間は「不死であり、万物の権威を有しながら、運命に服して死ぬべきものを負っている。こうして組織の上に立つ者でありながらその中の奴隷と化している」という実に不本意な状態にある。人間は再び昇天し至高神と一体になるべきだと考え、造物主や星辰界を敵対視する。この世界も神も偽物であるという世界拒否の姿勢が特徴的だ。
過去にグノーシスに興味を持ち、一般向けの本を何冊も読んだが、そもそも、なぜこのような二重の支配構造、世界拒否が組み込まれているのかが分からなかった。この本では、グノーシス思想の成立したヘレニズム世界の古文書「ポイマンドレース」に現れる宇宙論に注目し、他の古文書との比較研究によってグノーシス思想の本質に迫っていく。
ヘレニズムの文化の中心都市エジプトのアレクサンドリアはグノーシス思想の生まれたころ、ローマ帝国の属州として駐留ローマ軍総督の支配を受けていた。総督のギリシア語官名がディオイケーテースであり、この言葉は星辰の7人の支配者を指す言葉でもあることを著者は指摘する。
グノーシスの宇宙構造を造物主=ローマ皇帝、星辰界の支配者=総督と読み替えれば、不思議な二重構造の意味がはっきりする。当時のヘレニズム都市の政治の構造がそのままグノーシス思想に反映されていることになる。
著者は、多数の古文書を時代背景とともに分析して、グノーシスの本来の姿を丁寧に描き出す。グノーシス思想は、フィクションやオカルトの素材としてよく取りあげられているが、詳細な内容と歴史上の位置づけがこの本を読んでとても明確になった。
・グノーシス―古代キリスト教の“異端思想”
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004060.html
この本には「入魂の」という表現がふさわしい傑作。
著者の藤原新也は60年代にインドを放浪し、処女作「印度放浪」で作家として世に出た。バックパッカーの元祖みたいな人である。この本は、その34年後に、著者が取材したオウム真理教事件への考察にむすびつけ、かつてのインド放浪を総括する形になっている。
「近頃の若者」と「熱く生きてきた俺様」を比べるのがオヤジの悪いところである。人生観、価値観は各世代や各人に固有のもので、評価軸が違うものを並べて、どちらが凄いと比較することは無意味だと思う。そういう話は時代錯誤で退屈なのが普通だ。
しかし、それぞれの評価軸で高い、低い、ホンモノ、ニセモノは歴然としてあると思う。この60代の著者の俺様論は、その評価軸上では圧倒的ホンモノだと思う。内容的には、近頃の若者はバーチャルで軟弱だ、俺様がこの目で見てきたリアルはこうだ、参ったか、と著者は言うのである。そのリアルは、私のリアルとは違うのだけれど、正に熱くてリアルである。
藤原新也は、自分で見てきたものしか信じない偏狭者だが、その代わり、人の何倍もよく見ている。インドでは人間がモノみたいにバラバラにされて火葬され、イヌに食われる様子をみつめる。火葬を手伝ってみたりもするし、自身がイヌに食われそうにもなる。経験を通して、人間は燃やすと60ワットくらいの光を出す、あれは黄泉の犬だぜ、なんてことをいう。そして、それが自分や時代にとってどんな意味や価値を持つかを考えている。
現代はネットで調べれば世界中の情報が簡単に手に入ってしまうバーチャルの時代だ。インドを放浪するより、アメリカへMBAを取得しに行く時代である。この本の中で藤原新也は、そういう近頃の若者ツトムと直接対決する。情報と感性の時代のツトムと、世界や人生に意味と価値を追い求めた著者の世代の対比が鮮やか。
藤原新也の世界は劇画的だなと思う。世界を描く線の数が多いのだ。あらゆることを意味や価値に結びつけて、自分の哲学の完成を追及している。いちいち深いのだ。反発を感じつつも、魅了される。
オカルト好きにはたまらないビジュアル資料集。

(この画像はパブリックドメイン、ウィキメディアより)
これは有名なセフィロトの樹(生命の樹)である。10のパーツが22本の線で結ばれた幾何学的な模様をいう。この意味は、どういうものかというと、
「生命の樹(せいめいのき、Tree of Life)は、旧約聖書の創世記(2章9節以降)にエデンの園の中央に植えられた木。命の木とも訳される。カバラではセフィロトの木(Sephirothic tree)という。「禁止命令を無視して」知恵の樹の実を食べた人間が、生命の樹の実も食べるのではないか、と 日本では主なる神と訳されているヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)が恐れてアダムとイヴを追放することに決めたとされる。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
というものである。雑誌「ムー」にはよく登場するし、その手の本ではおなじみである。10のパーツにはそれぞれ象徴的な意味があって、天上と地上のすべての事物の創造の計画を表しているとされるわけで、凄いことである。
・生命の樹 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%A8%B9
詳しい解説。
だからどうした?という人はこの本は向かない。
このビジュアル本にはこうした神秘主義や錬金術師たちが描いた中世の図画がカラーで多数収録されている。どれもこれも実に怪しげであるが、もしかして何か神秘の意味が隠されているかもしれないと思うと、見入ってしまう。こうした怪しい作品ばかりを大きなカラーの図でじっくり鑑賞してみたかった私は、毎晩帰宅してから、深夜ににじーっと見ている。変かもしれないが、疲れを忘れる。
これを描いた古代から中世の人たちは、真剣に世界の真理をこうした図に見ていたわけである。当時の先端科学者であった錬金術師たちは、ネズミのシッポやら水銀や処女の生き血やらを、焼いてみたり、煮込んでみたりしながら、分かった秘密をこうした図に隠したのだ。ひとつの絵を10分くらいじっと見ていると、当時の人たちの精神構造が垣間見えてくる。いや見えないが、わかったような気になる。そうした瞬間が楽しい。
中世ファンタジーやロールプレイングゲームの元ネタになっている画像も多い。詩人ウィリアム・ブレイクの絵も何枚かある。フリーメイソンものももちろんある。これだけ集めて、カラーで、良質の紙で、1500円は、好事家にはお買い得である。
この本はタッシェン社のアートブックのシリーズの一冊だ。近所の書店にコーナーがあってよくみる。美術史やデザインに興味のある人は楽しめるものが多い。中でもこの「錬金術と神秘主義―ヘルメス学の陳列室」は独特である。
・TASCHEN Books: All Titles
http://www.taschen.com/
著者は僧侶で芥川賞作家の玄侑 宗久。
まず般若心経を全文引用してみる。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶 般若心経
全文で262文字に釈迦の教えが凝縮されている。意味の圧縮率が抜群である。
著者によれば、般若とは理知によらない体験的な、全体性の知の様式のこと。「般若波羅蜜多」とは般若によって理想郷に渡ること、知慧の完成した状態を指す。このお経は般若波羅蜜多に至るための呪文なのである。
有名な「色即是空、空即是色」という節は、私たちが見たり感じたりするすべて(色)は実相ではなく、変化し続ける空であり、変化し続ける空だからこそ、そこからあらゆるものが立ち上がってくるのだという意味。これは無から何かが生まれてくる量子力学の世界観に似ていると著者は指摘する。
「こうした認識が仏教的認識と重なるのは、じつは偶然ではありません。「原子物理学と人間の認識」というボーアの論文のなかには、「われわれは仏陀や老子がすでに直面した認識論的問題に向かうべきである」と書かれています。」
「ハイゼンベルクは講義録『物理学と哲学』(1955−56)のなかで、「第二次世界大戦以降における物理学への日本の大きな貢献は、おそらく、極東の伝統的哲学的思想と量子理論の哲学的本質との間にある種の近縁性があることを示唆している。」
量子力学そのものが仏教哲学にインスパイアされたものであった可能性があるのだ。こういった現代的な知見を使ったわかりやすい解釈がこの解説本の魅力である。もちろん、頭でわかることを超えることが般若ではあるのだが。
そして続く第二部の般若心経の現代語訳は短いが、著者の渾身の翻訳文が示されており、本書のクライマックスである。なるほど全文ではこういう意味だったのかと、お経を聞くのが楽しくなってくる。
・Yahoo!ショッピング - 般若心経枕カバー
http://store.yahoo.co.jp/yume/24553.html
すごい。夢にでそう。何が。
・般若心経
http://www.dynasys.co.jp/FreeSoft/Hnw/index.htm
般若心経の表示と読経ソフト。
・高野山真言宗成田山真如院
http://www.naritasan.org/
般若心経Flash。
・The Heart Sutra
http://kr.buddhism.org/zen/sutras/conze.htm
般若心経の英訳。日本語よりわかりやすいかも。














