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・アダムとイヴ - 語り継がれる「中心の神話」
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アダムとイヴの神話をめぐる文化、思想、文学、美術の解説、解釈を通して、中世から現代にいたるまで、私たちがどのような影響を受けてきたかを学べる本。人間の創造(最初の男と女の創造)、エデンの園(楽園の様子)、現在と追放(原罪を犯して追い立てられる二人)、エデンの東(追放後の運命)の4つの章からなる。美術作品の写真紹介もたっぷり。キリスト教と美術史がセットで学べる名著だと思う。

神はひとりぼっちのアダムを気の毒に思い、彼を眠らせて肋骨を一本抜いて、その助け手としての女性イヴを作った。「創世記」の記述はいかにも女性蔑視的に読み取れる。だが、プラトン主義者、ユダヤ教のラビ、グノーシス主義者などの間では両性具有としてのアダムというアクロバチックな解釈をしていたという。これなら平等に近くなるわけだが、アウグスチヌスはこれを異端だと否定する。

基本的に男の方が高級な存在であるという考え方は主流派として根強く続いていくが、歴史の中で女性の象徴イヴの扱いがたびたび揺れているのが面白い。現代のフェミニズム運動のはるか昔から、男女の平等や女性の有能さを評価する時期が幾度もあるのだ。

ルネサンス期の女流作家モデラータ・フォンテは『女性の価値』の中で「さらに、いっそう罪深いのはイヴではなくてアダムであることも強調されている。というのも「イヴが善悪の知識を得ようとして、禁断の果実を味わうにいたった」のにたいして、アダムは「そのような動機からではなくて、おいしいとイヴが言うのを耳にして、貪欲さと食い意地のせいで果実を口にした」からである。つまり理性的な判断と下したのはイヴのほうで、アダムは欲に目がくらんだだけだ、というのである。」と書いている。

そもそも禁断の果実を食べたことで、人類は永遠の命を失い、一生働かざるを得なくなるが、代わりに理性、知性を得ている。アダムとイヴの行為が罪なのかどうかは、実は微妙なところなのだ。

旧約聖書においてアダムとイヴの罪や罰は『創世記』以外ではほとんど取りざたされていないという指摘も面白い。原罪を強く言い出したのはキリスト死後にペトロが始めた教会なのだ。アダムの罪を背負ったキリストがその罪を贖うと説いた。「僧侶は罪を捏造することによって支配する」とニーチェが批判したように、宗教上の理由で巧妙に作られたものだったのかもしれない。

そして原罪を背負う裸のアダムとイブの姿はルネサンス期の芸術ではエロティシズムのモチーフとなる。芸術家が男と女の完璧な裸体を公に作品化する口実にもなっている。当時の感覚であまりにエロ過ぎて聖堂においてもらえなくなった作品も紹介されている。インスピレーションの源として最初のカップルは大人気である。

キリスト教の歴史と美術史の知識の整理ができる教養本だが、アダムとイヴに臍はあったか、イヴ以前にいた女性リリスは何者か、エデンの場所はどこか、など読者の興味をひく切り口もたくさん用意されていて、読み物としても楽しい。

鑑真

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・鑑真
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井上靖の『天平の甍』で鑑真がマイブームなわけだが、この本は、奈良時代に日本に仏教の戒律を伝えた鑑真とは、いったい何者だったかについて語る。鑑真は本当に中国で高名な僧だったのか、戒律とは何だったのか、日本にどんな影響を与えたのか。

鑑真は日本に渡ると決心してから10年間で5回に及ぶ渡航の失敗(多くは鑑真に出国してほしくない仲間の密告、そして遭難)ののち、失明するがなんとか日本に漂着する。そして日本にはじめて戒律をもたらしたというが、戒律という情報そのものだったら巻物を運んで来れば十分だったはずである。なぜ鑑真はこんな苦難を乗り越え日本に集団で来る必要があったのか。

それは制度そのものを日本に輸入しようとしていたということらしい。それまでの日本の仏教界では自分で誓うことで戒律を体得したと認められていた。しかし鑑真は三師七証という資格を持った10人の僧による正式な授戒が必要であるとした。だから日本に渡るのは一人ではダメだったのである。

戒律の内容というのがなかなか面白い。もちろん殺生をするな、うそをつくな、盗みをするな、や高尚な部分もあるが、僧侶の日常生活を細かく規定した部分もあって、たとえば排泄時にあまり力んではいけない、体力を消耗するから、とか大真面目に排泄の仕方がプロセスとしてつづられている。帰りにはちゃんと手を洗え、と。

日本人が舶来物をありがたがるのはこの頃も同じなのだ。鑑真の渡来によってその後の日本の仏教は大きく変わり、日本なりの仏教として進化していく。外国から入ってきた文化を、進んだもの、正しいものとして、ありがたがっていただくことで、自分たちの文化の発展のプロセスへに取り込んでいく。この雑食のしたたかさは、日本人の強さなのでもあるなあ。

・天平の甍
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/05/post-1651.html

汚穢と禁忌

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・汚穢と禁忌
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網野善彦の『日本の歴史をよみなおす』でケガレの文脈で触れられていた本。メアリ・ダグラス 1966年の刊。

多くの原始的宗教では聖性と不浄を明確に区別しない。聖の語源となるSacerというラテン語は神々とのかかわりにおける禁制を意味する言葉だあったそうで、聖なるものを隔離する、冒涜するという意味でも用いることができたそうだ。

日本語でもよごれとけがれを、同じ「汚れ」という字で書けるから、感性的にわかる気がする。子供の頃に、おまえ、バイ菌がうつるから近寄るなよ、やーいやーい、みたいないじめがあったが、あれなどはまさにケガレの禁忌の現代的な表れだろう。現代人の文化では表面上は聖性と不浄を別の系統としてわけているが、結構つながった部分が残っているというのがこの本の主張。

汚れとはそもそも何か。著者は「不浄もしくは汚物とは、ある体系を維持するためにはそこに包含してはならないものの謂いである。」と定義している。

動物の糞便や泥を清いとする宗教が例示されているが、農業中心の文化では、豊饒な土壌の中から価値が生まれてくるわけであり、体系の内側にあった。ところが現代文明では糞便とか泥は生産と関係がない。だから保健衛生的な意味だけで忌避されて、単なる不浄という扱いを受ける。

「汚穢とは孤絶した事象ではあり得ない。それは、諸観念の体系的秩序との関連においてしか生じ得ないのである。従って、他の文化における汚穢の法則にどのような解釈を与えても、それが断片的なものであれば必ず不毛に終わるであろう。なぜならば、汚穢の観念が唯一意味をもつのは、それが思考の全体的構造とのかかわりにおいてのみだから」

何が穢れていて、何が聖なるものか、は表面的な状態ではわからない。共有した文化の中で与えられてる意味に従っている。そうした相対性を教えてくれる本なのだが、文化の周縁としての穢れの重要な役割についても触れている。

「穢れはもともと精神の識別作用によって創られたものであり、秩序創出の副産物なのである。従ってそれは、識別作用の以前の状態に端を発し、識別作用の過程すべてを通して、すでにある秩序を脅かすという任務を担い、最後にすべてのものと区別し得ぬ本来の姿に立ちかえるのである。従って、無定形の混沌こそは、崩壊の象徴であるばかりでなく、始まりと成長の適切な象徴でもあるのだ。」

穢れや規格外をどうポジティブに取り込んでいけるか、包容力の高い文化は豊饒な文化になるということなのだろう。

・日本の歴史をよみなおす
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/02/post-1600.html

・聖なるもの―神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-944.html

・図説 金枝篇
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-563.html

・聖と俗―宗教的なるものの本質について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/04/post-372.html

・神饌 ― 神様の食事から"食の原点"を見つめる
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神饌とは神様の食事のこと。伊勢神宮、石清水八幡宮、住吉神社、北野天満宮、美保神社、日吉神社、諏訪神社、香取神社...日本各地の神社の神饌を美しいカラー写真で紹介し、各社の神事の様子を詳細に伝える。特別な許可を得て撮影された貴重な写真も含まれる。

この日本の食の伝統は半端ではない歴史を持っている。究極の神饌と言われる伊勢神宮の神饌では「日別朝夕大御饌祭の神饌は、新鮮の究極であり基本である 神宮では、一年三六五二地、台風が来ようが、雪が降ろうが、一日も休むことなく約一五〇〇年(豊受大御神が、天照御大神の御饌都神として鎮座されたのは、天照御大神の御鎮座から約五〇〇年後のこと)、外宮の御饌殿で、朝に夕に神饌をお供えする日別朝夕大御饌祭(常典御饌ともいう)が行われている。」という

神饌は清らかで美しいと同時にグロテスクでもある。獣の匂いにむせかえる猪の頭や羽のついた野鳥の肉、生の魚貝がいかにも獲りたて状態で供される。赤飯や焼き鳥のような調理されておいしそうなものもあるるが、目立つのは土地で獲れる命のお供えである。たとえば琵琶湖の老杉神社では"めずし"なるものをつくるが、これは酒粕のボール状に丸めたものに生きたタナゴを突き刺して窒息死させたもの。日本の神饌の原点というのは、荒らぶる神に捧げる生贄だったのだろうなと思えてくる。(実際、住吉神社では一夜官女といって村の娘を神の生贄に差し出していたなんて伝承が由来として紹介されている。)

お供えした後の神饌はどうなっちゃうのだろうと疑問に思ったが、儀式が終わればちゃんと人間が食べるのだそうだ。神様が召しあがったものと同じものを食べることで、神と一体となり霊力をいただくという意味があるとのこと。

神道の神秘

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・神道の神秘
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古神道のひとつ山陰神道の管長が書いた神道の真髄。

前半では禊ぎ、祓いの意味から人間の魂・霊界の構造まで語られている。神道の宇宙観、世界観をじっくりとのぞくことができる本だ。まじめに宗教色の濃い本なので、神社ブームにのったライト感覚の読み物ではないので注意。

「無教祖・無教義・無戒律・無偶像・無組織」と言われる神道だが、罪や救済を説かず、言葉で語ることを嫌うため、外から実態が見えず、海外の研究者からは神道は宗教ではないとさえいわれてきたそうだが、この本を読むと理論はちゃんとあることがわかる。サブカルチャーにも登場する用語知識の整理にも役立つ。

諸宗教の神霊世界の比較は興味深い図だった。キリスト教、イスラム教、仏教、儒教・道教・景教の霊界の階層構造を並べて比較するもの。たとえば、神道の浄明界は仏教の菩薩界、イスラムとキリスト教の天使界、儒教の神集岳に対応するといった具合で、高級霊から低級霊までのヒエラルキーの開示がある。

そして霊の原理。神道においては、一霊四魂(荒魂、和魂、幸魂、奇魂)といって、魂は4つの要素から成るという。

「山陰神道の教えでは、この宇宙(大環宇)は、大元霊から発した渦巻く霊の潮流である。その霊潮の中に一個の個性を備えた凝固体が発生する。ただしこの凝固体もまた回転する渦である。この凝固体のうち、無意識体である荒魂・和魂が物を発生させ、意識体である奇魂・幸魂がこれに加わって生命を発現させる。 しかも人間はこの凝固体が350から500ほど集合凝固したものであり、さらにそこに直日霊が降臨して、初めて人間になるというのである。(ちなみにこの凝固体が100から300集合したものが高等動物、50から100までが下等動物、50いかが植物であり、30以下が鉱物であるともされている。)人間が時に分霊を離れた所に送ることができるのは、このように人間自体が多数の「魂」の集合体であるからである。」

物理モデルを背景に持つ神道の理論が興味深い。

と、とても突っ込んで書かれているので神道について、学者ではなく、宗教者が書いた宗教的な内容の理解をしたい人向けによい本である。

後半には鎮魂の行法が具体的、実践的に紹介されている。現代の表層的なヒーリングや心霊ブームへの警鐘もある。

悪魔祓い

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・悪魔祓い
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ノーベル賞作家ル・クレジオが書いた現代文明批判。いろいろと読み方がありそうだが私は芸術論として読んだ。

著者は20代で研究者としてインディオ集落で数年間生活して、その土着の宇宙観に魅了された。悪魔祓いとはインディオにとっては医療行為であると同時に、歌や踊り、刺青や木像などの芸術的な表現を伴う営為である。ル・クレジオは芸術のための芸術がはびこるヨーロッパ文明と比べて、これこそ本物の芸術なのだと礼賛する。

インディオは個人的な創造を拒む。個人の創造として作品をつくる欧米の芸術家と対照的だ。「芸術は沢山だ。個人の表現はもうたくさんだ。そうではなくて、結ばれあうこと、そして共同して読むということ」と芸術のあるべき姿を追い求める。

「インディオたちは人生を表現しない。彼らには事件を分析する必要がない。反対に、彼らは神秘の表徴を生き、記された後をたどり、呪術が与える指示にしたがって、語り、食べ、愛しあい、結婚する。要するに芸術、それこそ本当の芸術と言えるもので、それは世界を前にしての個人の惨めな問いかけなどではない。芸術とは人間の集団がいだいた宇宙についての印象であり、細胞の一つ一つと全体とのつながりであるがゆえに、それは芸術なのだ。」

人間の体験は宇宙の体験に含まれているという。欧米の芸術家は常に他人のやっていない独創表現を探しているが、インディオの呪術的な世界観はそんなちっぽけな個人的創造を超越する。宇宙の神秘を、生活行為、儀式の中で、共同的によみがえらせる。

「インディオは世界を組織する。彼は伝統的な表徴に従ってしか姿を表わさないのである。現実主義がなにになろうか。インディオは、現実というものに関心がない。これに反し、この現実というものは、わたしたちを窒息させているのだ。」

他人を感動させる作品が自分にしか理解できない独創ではありえない。人生や生活に根差した感情や経験にもとづかなければ深い感動を与えることはできない。表現のための表現としての薄っぺらなアートと違って、インディオの土着文化にはすべてがある、という。
日本の岡本太郎も、芸術は人間や宇宙の根源的エネルギーの爆発だと言って、縄文土器の美を礼賛したが、デジタル・バーチャルの時代にこそ、こういう「土俗力」は「本物」として再認識されるものだなあと思う。

・解明される宗教 進化論的アプローチ
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ある寄生虫はアリの脳に寄生して行動を乗っ取り、アリが捕食者にみつかりやすい行動をとらせる。アリが食われれば寄生虫は牛や羊の胃の中に入り込むことができるからだ。宗教は人間の脳に寄生して種を破滅させる観念のウィルス(ミーム)みたいなものだと"ブライト(宗教を信じない)"代表のデネットはいう。

「アラビア語のイスラームが「服従(身をまかせること・神に帰依すること)」という意味であることを、思い起こすべきである。イスラム教徒(ムスリム=神に帰依する者)たる者は、自分の利害関心よりもイスラム教の拡大を優先させるべきだという観念は、まさにその語源に組み込まれている。しかしこれはイスラム教だけの話ではない。そうだとすれば敬虔なキリスト教徒にとって、自分自身の幸福や命よりも重要なことは何だろうか?<御言葉>だ、と彼らはいうだろう。神の<御言葉>を広めることが彼らにとっての最高善であり、<御言葉>を広めるために子や孫を持たないように求められれば、それは命令となり、彼らは懸命にそれに従おうとする。彼らは、ミームの命令に従って、自分の生殖本能をひるむことなく鈍化させる。」

デネットは宗教の正体を、脳のHADD(行為主体を敏感に探知する装置)に見る。私たちは複雑な事象に対して行為者の存在を想定する習性がある。暗闇で物音がすればそこに何かがいるのではないかと思う。この習性があったおかげで、人類は未知の現象に対して効率的に対処することができ、結果として生き残ることができたが、占いや「神」を生みだす原因にもなった。わからないことは「神の御心」ですべてが説明できるからだ。

進化の上で有利に働く脳の機能が生み出した観念が、やがて自己複製の力を発揮して繁殖し、人類の行動を縛るものになる。感染した人々はその観念のために自らを犠牲にすることさえ幸福に感じる。感染者は組織化されて強力な政治力を持ち、それと異なる観念を持つ組織に対して戦争さえ辞さないようになる。

デネットは宗教は人工物ではないという。生物学的な基盤や仕組みの上に必然的に生まれてしまうガン細胞みたいな自然現象であるとみなす。人間のような認知・知覚の主体があれば自然に宗教の観念は生まれてきて、社会的インタラクションの中で伝播していくというメカニズムを、生物学、社会学、物理学、認知心理学などの研究を引きながら証明する。

そして宗教のはたらきを総合的に見たうえで、には確かに良いところもあるが、道徳的な生き方とか、心の健康は宗教でなくてももたらすことができるという。むしろ、宗教は美点よりも害の方が多いとデネットは考えているようである。

「第二次世界大戦は、確かに多くの人々から良いところを引き出したし、それを生き抜いた人々は、それは自分の人生において、最も重要なことであり、それなしには自分の人生に意味はなかっただろうと、しばしば語っている。しかし、これは、また世界大戦をすべきだということをまったく意味していない。」

サンタクロースがいないとわかっても、何の害もない、と述べている。

米国では進化論が科学的に検証されていることを知っている人が25%しかいない。メガチャーチと呼ばれる巨大な教会組織が、宗教を超えて社会や政治において力を増している。そして9.11に始まるイスラムとの対立。教育界で幅を利かせるインテリジェントデザイン論。デネットはそうしたアメリカの深刻な状況に対する危機感がこの分厚い本の執筆動機だと強調している。

リチャード・ドーキンス『神は妄想である』やテリー・イーグルトン『宗教とは何か』などの議論につらなる大物哲学者による宗教無用論。日本ではカルト宗教に対する批判くらいしかないわけで、ちょっと縁遠い問題意識だが、世界の問題の根幹を考える上で、このテーマは避けて通れないもののようだ。

ああ神様、「神様」って本当にいるのでしょうか?

・宗教とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/07/post-1274.html

・呪われたナターシャ―現代ロシアにおける呪術の民族誌
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ソ連崩壊以降のロシアでは呪術や超能力、オカルトへの興味が高まっているらしい。

その理由がなかなか込み入っているのだ。

「呪術「体験」の「リアリティ」が支持されるにあたっては、ポスト社会主義という時代性も深く関わっている。ロシアでは、教育、医療、農業などにおける近代化は、科学を標榜した無神論の名の下に推し進められた。それが崩壊したことにより、ソ連時代の近代化のあり方への疑問や科学概念へのゆらぎが生じ、結果としてふたたび呪術が入りこむ余地が生じているのである。」

ロシアではかつて社会主義が宗教と呪術を弾圧していた。その体制が崩壊して以降、呪術は蒙昧な迷信ではなく科学的根拠を持つ実践だったのに不当に禁じられていた、祖先の教えは正しかったのだ、という言説が、反動として現れたということらしい。呪術の見かけ上の科学的体裁も整えられた。現代医学のイディオムを取り込んだだけでなく、呪文はプログラムとして作動するインフォメーションコードだとするコンピュータ科学との融合もあった。呪術本のベストセラーや専門書店もあるのだから驚きである。

著者は現代における呪術を研究するに当たって、ナターシャという1956年生まれの女性のケースを詳細に分析する。ナターシャは呪術をかつては迷信だとして信じなかったのに、今は自分の人生の不幸はすべて、かけられた呪いのせいだと信じている。写真入りでナターシャや呪術師、超能力者が登場するが、見たところ穏健そうな普通の人たちである。妄想女といってしまえばそれまでだが、そのリアリティを共有している人が結構な数いるわけだから、彼女にとっては立派にリアルなのだ。

昔と異なるのは現代のロシアでは、呪術が流行しているとはいっても、ほとんどの地域住民は信じていないということ。村の中でも僅かな信者が、呪術の本や新聞などのメディアによってネットワーク化されて「リアリティ」を共有している。そして学術研究の呪術情報と、実践者の呪術情報と、マスメディアの呪術情報が循環してそのリアリティを強化して行っている図式があるという。

日本でも今、ホメオパシーの効力が問題にされているが、占いや迷信の類はほかにいくらでもメディアにあふれかえっている。スピリチュアルや風水で人生設計や住居設計をする人も多い。ロシアだけではあるまい。こうした呪術や迷信という病は、いくら科学の時代になっても、教育レベルがあがっても、心を持つ人間の社会であるかぎり根強く生き残り続けるものなのだろう。

・宗教とは何か
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日本におけるこの本の位置づけはリチャード・ドーキンス『神は妄想である』に対する反論本である。

宗教の現代的な価値を擁護する内容。日本人にはない問題意識のため、この神学論争は国内の論者ではほとんど見かけない。利己的な遺伝子やミームの提唱者として日本でもよく知られるドーキンスだが、今は宗教批判の先鋒に立っているのだ。宗教は迷妄であり愚かだとしてめった切りである。それに対して著者は、科学もまたある種の信仰だと切り返している。

「重要な意味において、科学者は信仰者であると同時に美学者でもあるとわたしは考える。あらゆるコミュニケーションは信頼[=信仰]をふくんでいる。」

信念はあらゆる知の土台になるという論を展開している。アリストテレスやカントや野中郁次郎の、「知識」は信念であるという言葉と同じだ。

「そもそも信仰は───どのような種類であれ───選択の問題ではない。なにかを信じるにあたって人は意識してそう決めるのではなく、知らないあいだに信じているというのが一般的だろう。あるいは、かりに意識して決めるにしても、すでにその方向にかたむいていたからともいえる。」

科学合理主義か宗教かの選択というよりは、著者はあらゆる思想の問題に普遍化していく。信じる心を人間は生得的に持って生まれており、信仰は理性を超える、人間の内面の深さを示すものだという。

「理性だけが野蛮な非合理主義を屈服させることができるのだが、そうするためにも、理性は、理性そのものより深い部分に横たわる信仰の力や資源に頼らなければならない。」

高度にレトリックを使った議論が続くため、読むのがだんだんしんどくなるが、キリスト教世界の合理主義者が、内面においてどのように科学と宗教を調和させるべきかのビジョンが示されている。

・日本神判史 盟神深湯・湯起請・鉄火起請
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最近読んだ新書で一番面白かった。名著だ。

日本書紀に盟神深湯(くかたち)という神判が出てくる。熱湯に手を入れたり、焼けた斧を握らせる神判である。古代史の話は実際に行われたのかわからないが、室町時代には、煮えたぎった熱湯の中に手を入れて火傷の具合で有罪無罪を判定する湯起請があった。そして、江戸時代には真っ赤に焼けた鉄片を握らせて判定する鉄火起請が、現実に行われていた。著者は記録に残っている湯起請87件、鉄火裁判45件の事例を、丁寧に分析して神判の実態を明らかにしていく。

土地の領有権や男女問題など解決が困難な問題がこじれて大ごとになると、湯起請・鉄火起請は行われた。当事者たちは決死の思いで神判に挑んだこと(負けたり逃げたりすると処刑されることもあった)、どんな思いで関係者はそれを見ていたか、事後どういうことになったか、などの顛末が多数語られる。細部が面白い。

熱湯に手を突っ込む。生身の人間なのだからそりゃあ絶対火傷するに決まっている、と思うわけだが、湯起請の記録上、被疑者が火傷した率を調べてみると50%なのだ。半分は無傷で無罪放免となっている。なんとも微妙な数字である。

そもそも人々は盟神深湯・湯起請・鉄火起請で、本当に神の真意を知ることができると考えていたのか?研究によると実は古代社会においてさえも盟神深湯は真実糾明法として問題があることが広く認識されていたようだ。

著者はこうまとめている。

「以上、紹介した事例からもわかるとおり、当時、共同体社会において行われていた湯起請には、人々の純粋な信仰心からだけでは説明できない要素が多々見受けられる。そもそも人々は湯起請によって真実を見きわめようということを第一義的に考えていたわけではなかった。彼等は真犯人をみつけることよりも、犯罪者が共同体内にいなかったということが証明されることを何より歓迎していたふしがある。また逆に、それにより結果的に共同体社会にとって有害な(可能性のある)者が除去されるなら、それはそれで好都合なことだとも考えていたようだ。」

為政者は神慮を持ちだすことで、自らの恣意的な政治判断に対する反対意見を封じることができた。恐怖政治の道具としても、それらは使われていた。湯起請・鉄火起請を持ち出せば係争の相手をびびらせることができるし、湯を炊く、火傷の程度を判断するのも人間だからある程度は操作もできただろう。かなり政治的なにおいのする儀式だったことがうかがえる。この国においては神判とは、神の名を借りた合理的判断のツールだったらしい。

記録上は古代に断絶していた熱湯裁判を、復活させたのは室町幕府第6代将軍足利義教だったという説が有力。義教はくじ引きで選ばれた将軍であったため、自分は神慮によって将軍職に就いたと信じて、その治世の間、神判に異常な執着をみせたという。湯起請を連発している。君主狂気とと民衆の集団ヒステリーが呼応して、ブームを盛り上げていたようだ。

残酷な神判の儀式の研究から、日本人の宗教意識、社会心理の歴史が見えてくる非常に面白い内容である。

・完全教祖マニュアル
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ネタというレベルを超えて、結構本当に使えちゃう本かもしれない実践的内容...。

「みなさんは、人に尊敬されたい、人の上に立ちたい、人を率いたい、人を操りたい、そんなことを思ったことがありませんか?でも、自分には才能がない、学がない、資産がない、そんなのは一部のエリートだけの特権だ、等と理由を付けて夢を諦めていませんか?確かに、これらの夢を叶えることは非常に難しいことです。ですが、悲観することはありません。何も持たざるあなたにも、たった一つだけ夢を叶える方法が残されています。そう、それが教祖です!新興宗教の教祖になれば、あなたの夢は全て叶うのです!」

新興宗教の教祖になりたい人のためのマニュアルだ。

「インテリは組織運営の核として絶対に必要なものです。ですが、実際問題としては、組織の主たる層は一般人ですし、そして、一般人は哲学など毛ほどの興味もありません。」

既存宗教を焼きなおして教義を作り、幹部になるインテリをリクルートし、教えを簡略化して大衆に迎合し、教団組織を成長させていく。教えは反社会性を入れながら、同時に社会的弱者を救うものにせよ。現生利益をうたおう。葬式をやろう。信者には不安を与えて救済してやる。食物規制や断食も効果的。科学的体裁もとるといい。迫害されたらその事実を利用しよう。異端は追放しよう。教祖になるための教えとチェックリストが続く。

教祖の基本要件は「なにか言う人」と「それを信じる人」がいること。

「たとえば、いま、あなたの目の前に、奥さんの膝でガタガタ震えている男がいるとしましょう。彼は姉さん女房に泣きつき、自分を襲った怪奇現象を必死に訴えています。「本当なんだ。超自然的存在がオレの首を絞めたんだ」。彼女は夫を慰めて言います。「あなたの言うことを信じるわ」。そうです。この瞬間、夫は「教祖」になったのです。ちなみに、この男の名をムハンマドといいます。ご存じ、イスラム教の教祖ですね。」

いろいろな既存の宗教の発展形態を調べたうえで、現代において新たに宗教を興すにはこうするのが現実的であり、近道だよということがまとめられている。実際に興す人は稀だろうが、会社にせよ学校にせよ、地域コミュニティにせよ、成功している集団には少なからず宗教っぽさが感じられるものだ。特殊なリーダーシップ論として読むと、いろいろと勉強になる真面目な内容である。

・殉教 日本人は何を信仰したか
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「日本における殉教のあり方は、世界のどこにもない特殊なものである。ローマ時代、キリスト教徒が迫害された時代は別として、わずか二十数年という短期間に確実に四千人を超える大量の殉教者が出たことは稀である(松田穀一「日本切支丹と殉教」)。特に日本における殉教は、後述するようにいかなる勧誘にも拷問にも屈せず行われた点で、特筆すべきものだと思われる。」

江戸時代のキリスト教弾圧は有名だが、実際には内面の信仰を厳しく問うわけではなく、表向き信仰を捨てたふりをすれば容易に許される程度のものだったそうだ。しかしキリシタンたちは、迫害されて死ねば天国に行けると信じて、敢えて役人が管理するキリシタン名簿に載りたがり、捕まると進んで信仰を告白し、厳しい拷問にも屈せずに死んでいった。

著者はキリシタン弾圧の実態を史料を読み解くことで、当時の政治的社会的な背景や実際にとられた政策を明らかにしていく。また日本で殉教のイメージを広めたキリスト教徒作家の遠藤周作「沈黙」の、フィクション的な歴史認識の偏りを正していく。なぜ死を賭してまで当時の日本人信者は信仰に固執したのか。

ひとつにはキリシタンになった武士たちにとって、潔く死ぬ殉教の精神は、武士一般のメンタリティの延長線上にあったのではないかという。迫害の張本人である家康は、取り調べで信仰を捨てた家臣を褒めるのではなく「臆病で卑怯な者」と非難したこともあったそうだ。武士道と信仰は、何かのために死ぬことに価値を見出す点で似ている。だから信仰を捨てることは武士を捨てることと考えられていた節がある。

それから著者は、刑場で信者たちが殉教者の遺体を集めて持ち帰り、聖遺物として崇めたという事実に注目した。ヨーロッパの民衆も同じように聖遺物を信仰していたが、それまでの日本人の感性では遺体は穢れであって、信仰の対象になどならなかった。この事実は内面の奥深くまでキリスト教化が進んでいたことを現すと同時に、絶対者キリストではなく、その使徒や殉教者を崇める多神教化としてとらえることもできる。土俗信仰が氏神をまつっていたように、キリシタンたちは聖人や殉教者を自然に信仰対象にしたのだと考えられる。信仰が当初の大名・武士から、民衆へと広まるにつれて、西洋世界と同じように卑俗化が進んだことがわかる。

イエズス会から派遣された外国人宣教師たちがおかれた複雑な立場にはドラマも多かった。危険を冒して日本に入り、日本人信者と一緒に捕まって死んでいく。キリシタンの信仰生活において宣教師の影響は非常に大きい。

受け入れ素地としての武士的エートスの存在と、キリスト教教義の魅力、生命を賭けて伝道する打算のない宣教師たちの姿が、当時の日本人を深い信仰に導き、自発的な殉教を選ばせるまでに深化させたというのが本書の結論である。

過酷な拷問や凄惨な殺戮の様子が多く紹介されている。信仰を棄てるといえばすぐに許されるのに、敢えて死にに行く。人が「○○のために死ぬ」というとき、○○にはリアルなものより、「神」「正義」「愛」のようにバーチャルなものが入るものなのだなあ、としみじみ思った。バーチャルなものは人間にとって何より大切であると同時に、とても危険なものなのだ。

・切腹
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/10/o.html
同じ著者による。こちらも抜群に面白い。

・ルルドの奇跡 聖母の出現と病気の治癒
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ビジュアルな資料を多数使って、キリスト教の聖地ルルドの歴史を紹介する本。

ルルドの奇跡の調査にあたったタルブのローランス司教は1862年に次のように報告している。

「われわれは、神の母である無原罪のマリアが、ルルドの町に近いマッサビエルの洞窟で2月11日から18回、実際にベルナデッダ・スビルーの前に出現したこと。この出現があらゆる真実味を帯びていること、信者たちがこれをたしかな事実として信じていることを正当と判断する。」

ローマ教皇もルルドの奇跡を本物と認めて、ベルナデッダを聖人のひとりに列した。

教会の承認、聖堂の建設、鉄道網の整備、小説『ルルド』(エミール・ゾラ、1894)出版、聖母被昇天修道会の活躍、奇跡的な治癒の医学検証などの出来事を経て、ルルドは巡礼の聖地として確立されていく。ルルドの泉の水は多くの病人を奇跡的に治癒していると評判が広がった。現在では毎年130カ国から600万人以上がルルドの聖域を訪れている。

ルルドの聖地化で興味深いのは、核となる聖母マリアの出現を実際に見たのは内気な少女ベルナデッタただひとりだということ。他の人々は何かを見ているベルナデッタの姿を見たに過ぎない。キリスト教の神はひとりの人間またはごく少数の限られた人々の前に姿を現してメッセージを託す伝統があるが、ルルドもまたその一例である。

それから、ルルドへ行けば病気が治るとして病人の巡礼者が多いが、医学検証による奇跡的な治癒の公式認定者はこれまでにたった67人しかいない。教会はルルドの聖性は承認したが、そこで起きる奇跡を簡単には認めたがらない。それにも関らず、巡礼者は増えていく。

結局、みんな信じたいのだ。19世紀の目撃以降、信じたかった人たちの働きが、いくつかの幸運にも助けられて、この聖地と大規模な巡礼運動をつくりだしていった。信じたい人たちが信じる人たちを増殖させていったのが、ルルドの奇跡の実態だったのではないか。

聖地の誕生と巡礼の実態という切り口でビジュアルにキリスト教文化の一端を知ることのできる一冊。

・公式サイト
http://www.lourdes-france.com/

・グノーシス主義の思想―"父"というフィクション
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若手研究者による意欲的なグノーシス主義研究書。

2世紀頃のキリスト教異端の一派であるグノーシス主義という思想は、反権威、反伝統の知のかたちとして、しばしば20世紀の思想家によって語られた。おかげで現代のSFやアニメにも広く影響を与えている。最近では、ファイナルファンタジー13は明らかにグノーシス主義の影響を受けている。"悪い創造主"が出てきたらまずグノーシスを疑えである。

グノーシス主義は二重構造が特徴だ。みんなが神様と崇めているのは偽物の劣った神(造物主)であり、本当の至高神は天界の最上部にいる。人間は至高神の性質を受け継いでいるので、やがて叡智とともに神のもとへ帰昇することができると信じた。現体制は偽物で、本物はきっとどこかにあるんだという反権威主義的な発想である。

グノーシスの神話は筋立ても含意もかなり難解であり、こうした研究書を通して、読み解くしかないのだが、本書は「グノーシス主義は、プラトン主義的形而上学、ストア主義的自然学、混淆主義的変身譚を内部に取り込み、それらの要素を縦横に紡ぐことによって物語を構築しながら、同時に、それらすべてに反逆するという「離れ業」をやってのけた」と3つの要素の関係性でグノーシスを解釈していく。この分野では若手の一冊目だそうだが先行研究に対する批判も含む挑戦的な内容。

著者はグノーシス主義に登場する鏡のモチーフに対して、精神分析の理論でアプローチする。そもそもグノーシスとは認識という意味であり、私とは何かという自己認識の問いをを突き詰めていく鏡の思想だ。その鏡の認識と、古代末期の父なる存在の動揺と喪失という時代精神を結び付ける。

「グノーシス主義の思想が示しているのは、自分自身を知るということが、実に終わりのない変転の過程である、ということにあると思われる。鏡を見ることによって自分自身を知ることは、知的な自己同一性を獲得させるものであるとともに、見られる自己の発見、感性的主体の発見、性的主体の発見と同義であり、主体は自己を知ることによって、逆説的にも他者の欲望のネットワークへと常に譲り渡されていく。その過程で「わたしとは何か」という問いに最終的な答えが与えられることはない。また同時に、他者との関わりが完全に安定したものになるということもない。」

グノーシス主義とは何か。この本は同時代の他の宗教や思想との関係性を丁寧に説明していて、その文化的な位置づけの理解を深めることができた。他の研究に対する意見表明もある所からも、グノーシスについて"かじったことはある"レベルの読者を対象にしているようだ。情報量は多い。次の2冊とともにグノーシス一般向け文献としておすすめ。

・グノーシス―古代キリスト教の"異端思想"
http://www.ringolab.com/note/daiya/2005/12/post-325.html
まず一冊目はこれがいいと思う。基本を教えてくれる。

・グノーシスと古代宇宙論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/04/post-557.html
グノーシスは同時代の宇宙論から理解すると腑に落ちる。

日本の神々

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・日本の神々
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日本のカミの原型とは何かの源流をたどる。日本には弥生時代から8世紀の古事記・日本書紀成立までの1200年以上のアンドキュメンテッドな豊穣な歴史がある。それが記紀成立時に国策イデオロギーによって大きく変容した。さらに後代の神社神道、国家神道によって改変される過程で古来の要素はどんどんそぎ落とされていった。著者はその歴史の流れを逆流すべく、奄美・沖縄の古い神話からアイヌの神の世界まで、記紀以前の日本の神々の姿に関する手がかりを収集して、日本の神の原型を追究する。

「日本の神の源流をたどってみると、西洋の神にみるような、意志をもち人格をそなえた存在からはなはだ遠いものをカミと呼んでいるいことを知る。本居宣長は「可畏きもの」をカミと言った(「古事記伝」)。」

「原初的なカミは非人格的、非意志的であってむしろタマと呼ぶにふさわしいものであった。「霊魂そのものにはそれ程はっきりと思慮記憶があるものとは古人は思はず、霊魂を自由な状態において考へたのであると折口信夫は言っている(民族史観における他界観念)」

「その本質に於て何等合理性を持たず、人格的規範を伴はぬために倫理的道徳的色彩を帯びず、特に低級な迷信の巣となるかと思へば、高級宗教とも結合する可能性がある」(仲原善忠の引用)

古事記・日本書紀のお話の中で活躍する神々は個性的でキャラクターが立っているのに、現実の神社や祭りで祀られる地域土着のカミサマというのは、一般にとらえどころがない存在であるなあと思っていたのだが、つまりはマナのような超自然的パワーの概念的存在だったのだ。概念的であったが故に、後年の体制イデオロギーや仏教との融合によって容易に変容を遂げることができたのでもあったのだろう。

この本では、日本の原初的神観念について、地域的にも時代的にも幅広い史料に基づいて、とても説得力のある論理が展開されている。国つ神の正体や民間信仰の原型について興味のある人に強くおすすめの一冊。

・アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1057.html

・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-959.html

・日本人の原罪
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-946.html

・[オーディオブックCD] 世界一おもしろい日本神話の物語 (CD)
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/cd-cd.html

・日本史の誕生
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/08/post-799.html

・読み替えられた日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-700.html

・日本神話のなりたち
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-573.html

・日本古代文学入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004835.html

・ユングでわかる日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004178.html

・日本の聖地―日本宗教とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004661.html

・劇画古事記-神々の物語
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004800.html

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ...人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html

・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html

・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html