Books-Religion: 2008年9月アーカイブ

・イスラーム文化 その根柢にあるもの
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イスラーム学の世界的権威 井筒俊彦が、昭和56年に行ったイスラーム文化に関する3つの講演を自ら活字になおしたもの。この講演は経済人を聴衆としていたため、専門用語が排されて、基本から大変わかりやすく整理された内容になっている。

私は子供時代の一時期をエジプトのカイロで過ごした。家の隣はモスクだった。毎日何度もコーランを聴いた。街では日々の祈祷や季節の断食が生活の中に溶け込んでいる。人々の生活の背後に日本や西欧とはまったく違う原理が働いていることが子供ながらに感じられた。

「イスラームは霊性的原理だ。だが、それは同時に社会的・政治的理想でもある」(ラシード・レター、カリフ論)。イスラームは聖と俗を分離しない。生活のすべて、人生のすべてが宗教で規定されている。たとえば善悪の判断も神によって決められたものだ。

「イスラームでは事物の本性が善悪を決めるのではない。人間の理性が善悪を判断するのではない。神の意志で善悪が決まるのです。たとえば、人の持ち物を盗む。盗みということがそれ自体として本性的に、あるいは理性的に、悪いことだから悪いというのではありません。神がそれを悪いと決定したから悪いのです。」

善悪のレイティングもイスラーム法で明確に規定されている。

「以上の五つ、すなわち絶対禅、相対善、善悪無記、相対悪、絶対悪をイスラーム法では五つの最も基本的な倫理的範疇といたします。この倫理的五分法の原理に基いて、人間のあらゆる可能的な行動をきっぱり分類して画一的に規定してしまおうというのであります。それがすなわち最も簡単な形で考えたイスラーム法の構造です。」

イスラム教徒=ムスリムという言葉は神に対する「絶対帰依」という意味を持つ。主人と奴隷の関係のような絶対的な神への帰依。自力救済の否定。エジプト人は「マレーシュ(気にしても仕方がない)」「インシャーラー(神の思し召しだ)」という言葉を日常よく使う。日本人から見ると、どうみても彼らに責任があるときでも、悪びれずに、そう言う。

イスラーム文化の思想では根本的には因果律が存在しないのだと著者は指摘している。原因があって結果があるのではなく、神が一瞬一瞬を新たに創造しているだけなのだ。だからすべては神の思し召し扱いという世界観が成り立つ。

「そうなりますと結局、われわれの経験的世界は、哲学的には因果律の存在しない世界ということになる。因果関係では内的に結ばれているものは、この世界に何一つ存在しない。また、そうであればこそ神の全能性が絶対的な形で成立しうると考えるのであります。」

因果律が存在すると神の創造性の余地が減ってしまうから、である。

そして、すべてはコーランに記述されている。

「われわれがふつうイスラーム文化の構成要素としているものは、学問をはじめとして道徳も政治も法律も芸術も、ことごとく『コーラン』の解釈学的展開の諸相なのであります。」

コーランは遠い昔に固定したテキストであるが故に、解釈には大きな違いが生まれる。仏教に顕教と密教があるように、イスラームにも多くの宗派が生まれた。この本では主に、主に次の大きな宗派についての解説がある。

・シャリーア(宗教法)に全面的に依拠するスンニー派イスラーム
・イマームによって解釈された内的真理ハキーカに基づくシーア的イスラーム
・ハキーカそのものを純粋に求める神秘主義スーフィズム

中東問題の記事を読むときに出てくるスンニー派、シーア派などが何を意味しているか根本的な理解ができる。インターネットで世界はすっかりつながった感じがあるが、文化的に断絶しているのが日本とイスラーム世界だと思う。日本人は一般に宗教を嫌うから外国の文化だけを理解しようとする。しかしイスラーム世界の場合、それでは無意味だということがわかる。イスラーム世界の文化的枠組を理解する名著である。

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