Books-Religion: 2010年12月アーカイブ

神道の神秘

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・神道の神秘
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古神道のひとつ山陰神道の管長が書いた神道の真髄。

前半では禊ぎ、祓いの意味から人間の魂・霊界の構造まで語られている。神道の宇宙観、世界観をじっくりとのぞくことができる本だ。まじめに宗教色の濃い本なので、神社ブームにのったライト感覚の読み物ではないので注意。

「無教祖・無教義・無戒律・無偶像・無組織」と言われる神道だが、罪や救済を説かず、言葉で語ることを嫌うため、外から実態が見えず、海外の研究者からは神道は宗教ではないとさえいわれてきたそうだが、この本を読むと理論はちゃんとあることがわかる。サブカルチャーにも登場する用語知識の整理にも役立つ。

諸宗教の神霊世界の比較は興味深い図だった。キリスト教、イスラム教、仏教、儒教・道教・景教の霊界の階層構造を並べて比較するもの。たとえば、神道の浄明界は仏教の菩薩界、イスラムとキリスト教の天使界、儒教の神集岳に対応するといった具合で、高級霊から低級霊までのヒエラルキーの開示がある。

そして霊の原理。神道においては、一霊四魂(荒魂、和魂、幸魂、奇魂)といって、魂は4つの要素から成るという。

「山陰神道の教えでは、この宇宙(大環宇)は、大元霊から発した渦巻く霊の潮流である。その霊潮の中に一個の個性を備えた凝固体が発生する。ただしこの凝固体もまた回転する渦である。この凝固体のうち、無意識体である荒魂・和魂が物を発生させ、意識体である奇魂・幸魂がこれに加わって生命を発現させる。 しかも人間はこの凝固体が350から500ほど集合凝固したものであり、さらにそこに直日霊が降臨して、初めて人間になるというのである。(ちなみにこの凝固体が100から300集合したものが高等動物、50から100までが下等動物、50いかが植物であり、30以下が鉱物であるともされている。)人間が時に分霊を離れた所に送ることができるのは、このように人間自体が多数の「魂」の集合体であるからである。」

物理モデルを背景に持つ神道の理論が興味深い。

と、とても突っ込んで書かれているので神道について、学者ではなく、宗教者が書いた宗教的な内容の理解をしたい人向けによい本である。

後半には鎮魂の行法が具体的、実践的に紹介されている。現代の表層的なヒーリングや心霊ブームへの警鐘もある。

悪魔祓い

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・悪魔祓い
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ノーベル賞作家ル・クレジオが書いた現代文明批判。いろいろと読み方がありそうだが私は芸術論として読んだ。

著者は20代で研究者としてインディオ集落で数年間生活して、その土着の宇宙観に魅了された。悪魔祓いとはインディオにとっては医療行為であると同時に、歌や踊り、刺青や木像などの芸術的な表現を伴う営為である。ル・クレジオは芸術のための芸術がはびこるヨーロッパ文明と比べて、これこそ本物の芸術なのだと礼賛する。

インディオは個人的な創造を拒む。個人の創造として作品をつくる欧米の芸術家と対照的だ。「芸術は沢山だ。個人の表現はもうたくさんだ。そうではなくて、結ばれあうこと、そして共同して読むということ」と芸術のあるべき姿を追い求める。

「インディオたちは人生を表現しない。彼らには事件を分析する必要がない。反対に、彼らは神秘の表徴を生き、記された後をたどり、呪術が与える指示にしたがって、語り、食べ、愛しあい、結婚する。要するに芸術、それこそ本当の芸術と言えるもので、それは世界を前にしての個人の惨めな問いかけなどではない。芸術とは人間の集団がいだいた宇宙についての印象であり、細胞の一つ一つと全体とのつながりであるがゆえに、それは芸術なのだ。」

人間の体験は宇宙の体験に含まれているという。欧米の芸術家は常に他人のやっていない独創表現を探しているが、インディオの呪術的な世界観はそんなちっぽけな個人的創造を超越する。宇宙の神秘を、生活行為、儀式の中で、共同的によみがえらせる。

「インディオは世界を組織する。彼は伝統的な表徴に従ってしか姿を表わさないのである。現実主義がなにになろうか。インディオは、現実というものに関心がない。これに反し、この現実というものは、わたしたちを窒息させているのだ。」

他人を感動させる作品が自分にしか理解できない独創ではありえない。人生や生活に根差した感情や経験にもとづかなければ深い感動を与えることはできない。表現のための表現としての薄っぺらなアートと違って、インディオの土着文化にはすべてがある、という。
日本の岡本太郎も、芸術は人間や宇宙の根源的エネルギーの爆発だと言って、縄文土器の美を礼賛したが、デジタル・バーチャルの時代にこそ、こういう「土俗力」は「本物」として再認識されるものだなあと思う。