Books-Scienceの最近のブログ記事
・明日をどこまで計算できるか?――「予測する科学」の歴史と可能性

天候、医療、経済の3つの領域における科学的な予測の可能性を検証した読み応えのある本。複雑な事象に関する未来予測は、数学や確率の言葉という客観の仮面を被った主観的意見に過ぎないことを明らかにしてみせる。
明日が晴れか曇りかの簡単な天気予報はできても、次の大きな嵐がいつ来るかは予測ができない。次のインフルエンザの流行や株価の大暴落も同じだ。予測はモデルをベースにするが、科学者、専門家がつくったモデルに対する信頼性をもっと疑ってかかるべきだと著者はいう。
予測モデルは方程式の組をもとにしている
↓
しかし、根本的なシステムを方程式に還元することはできない
↓
こうしたシステムのモデルは、パラメーターの変化に敏感な傾向がある
モデルが精巧になればなるほどパラメーターの不確実性は増加していく。そして複雑な系は初期値の小さな違いに敏感だ。現実に取得できるパラメーターには種類も精度も限界がある。
そして著者が指摘するもうひとつの予測不可能の原因はシステム内の局所が相互に影響して、現象を創発している場合だ。雪や嵐、株価の急騰急落、パンデミックは、システムの創発特性とみなせるものであり、第一原理からの計算で導き出せないのだという。
主にそのふたつの原因により、科学者が方程式の組でつくる予測モデルは、過去の出来事に合わせることはできても、予測の精度が向上することがない。「私たちはどうやら、未来は過去に似るという思い込みの罠に陥っているようだ。」。
もちろん簡単な予測、だいたいの目安が有益に機能する分野もある。直近の天気予報はだいたい当たるし、メールのスパムフィルターも予測モデルだし、回転ずしで何を流すかだって予測モデルでうまくいっているらしい。どこまでが予測可能でどこからは予測が無効なのかの線引きが重要なのだ。
科学雑誌NEWTONは地震と原発・放射線について、ここぞとばかりに有益な情報提供をしていて、素晴らしいです。NEWTONは昔は定期購読していたのですが、特集が竹内均前編集長の死去や特集のマンネリ気味で、ストップしていましたが、6月号と7月号は科学雑誌の真骨頂、実にいい出来です。
カラーで大判のビジュアル資料を使って、原子力発電のしくみ、放射能・放射線のはたらき、福島第一原子力発電所の状況、放射能のリスクが、徹底的にわかりやすく正確に説明されています。テレビでは科学的な詳細は省略されることが多いですが、この雑誌なら少し突っ込んだところまで教えてくれます。
ところで今回の原発事故により、原子力や放射線について、日本国民の知識が世界でトップレベルにまで引きあげられたことは間違いないでしょう。原子炉には圧力容器、格納容器、建屋があって、燃料棒とか制御棒がありますとか、ベクレル、シーベルトの意味や放射線から身を守る方法など、いまやみんな知っています。この原子力の知識レベルを、発電以外のポジティブな方面で使う方法をもっと考えたらよいのではないかと思いますが、なにかありえるでしょうか。
NEWTONはiPhone/iPad向けの電子版もよくできています。こちらは3.11以前に発行されていた内容の改訂版ですが、超巨大地震と大津波が日本を襲った場合のシミュレーションです。

今回は発生しなかったようですが、震災後に、火災旋風という恐ろしい竜巻が被災地を襲って大量の死者を出す可能性が論じられています。
初版は1998年。放射線医学の権威が書いた本。
敢えて増刷に際して「東日本大震災による原発事故にともなう放射線被ばくリスクに国内が大揺れしています。今回の被ばくは生命に危険を与えることは全くありません。本書はその科学的根本をしたためています。」という1ページを冒頭に配した。
本文では「チェルノブイリ事故後10年間の追跡調査の結果はつぎのことを証明した。原発事故の放射能を被ばくしても子どもの白血病の危険は心配無用!」と枠付きで記述している。安心したい人はこれを読むといい。
放射線の人体への影響を科学的に解説する本である。人体は放射線に弱くて強い(強い放射線には弱いが、微量には強い)とし、低線量被ばくの危険性については、まったく問題ないと断言する。
「低レベル被ばくのときは、他の発がん要因によるかく乱のため疫学的手法はあてにならないことが多い。」
「生涯被ばく値が35レムを超す心配のある高放射能汚染地区の住民は、きれいな地区へ疎開する基本方針を決めた。広範囲の汚染地区について、住民の健康状態を調べたところ、想像以上に多くの人が、いろんな異常反応を示した。異常症状のほとんどは、放射能恐怖による心理的ストレスの累積によると思われる。異常と被ばく量の相関はみつかっていない。」
(注:0.01シーベルト = 1レムだから35レムは350ミリシーベルトである)
「最近、心病む話を旧ソ連を訪問した医学者から聞いた。事故のあとの放射能の汚染除去のため、ソ連の軍隊から数十万人が被ばく量25ラドを限度にして、動員された。そして動員解除後、しばらくして病気になり、それを放射能のため不治の病になったと思いこんで、自殺した人が出たということである。 放射能恐怖症をおこさせたデマ情報のほうが、実際の死の灰よりも、比較にならないほど有害であることが実証された。」
(注:1ミリシーベルト=0.1ラドだから25ラドは250ミリシーベルトである)
チェルノブイリ事故だって住民の被害はほとんどなかったのだから、原発事故放射能程度では人体はびくともしない、と書いている。放射線によるがんや突然変異は自然におこっているものと同じであるから、0.01%の生命の危険率は、個人にとっては心配しなくてもよいが、1億人の集団では1万人の障害者を出すことを心配しなければならない程度だと結論している。
放射線リスクにしきい値がある科学的根拠として、
1 自然要因によるDNA損傷とその修復
2 放射能致死の主因"DNAに本鎖切断"は自然にも多発
3 胎内被ばくのしきい値はアポトーシスのおかげ
4 放射能の遺伝的影響は心配無用
5 放射線がんにはしきい線量率が存在する
を各項目でデータを使って詳説している。
広島の原爆でも被ばく者は、その後の健康を意識したせいか、実は一般の人よりも長生きした話とか、チェルノブイリの「汚染地に居残った元気な老人と疎開した人のおびえた顔」の話など、放射線はどんなに微量でも毒だ説を完全否定している。
先日このブログで、微量の放射線が人体に悪い影響を及ぼすという「怖い本」を紹介したところ、ネット反響が大きかった。一部にはネガティブな反響もあって農作物等の風評被害につながるから、こういう非科学な本を取り上げるなという主旨のものがあった。
・内部被曝の脅威
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/04/post-1431.html
これがその「怖い本」。
実は私のブログは、その1週間前に微量の放射線は心配無用であるという本も紹介している。
・本当は怖いだけじゃない放射線の話
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/04/post-1427.html
他にブログでは紹介していないが放射線関係の本を私は20冊以上読んだ。放射線医学の専門知識はないので、いくら読んでも、どの本が科学的に正しいのかは正確にはわからない。しかし、書籍の交通整理なら私は専門家である。
権威ある肩書きを持つ科学者は理論と実験結果から微量なら安全であるといい、ジャーナリストや臨床医はヒロシマやチェルノブイリ等の実例から、微量でも危険であるという主張をしていることが多い。
この本でも寺田寅彦の「ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなかむつかしい。」が引用されていたが、適度に怖がること、社会が緊張感を保つことが何より大切である。
今みたいに、マスコミや政府見解が安全だ、大丈夫だという中で、世の中に安全ムードが強くなってきた(と私は認識しているのですが)中では、何らかの根拠をベースに主張している反論本の存在も重要と考える。だから、安全だ本と危険だ本を50:50くらいの割合で紹介したいと思う。読者の皆さまは自分で読んで判断してください。
・自然エネルギーの可能性と限界 風力・太陽光発電の実力と現実解

これからのエネルギー政策を考える上でまとまった論考で参考になった本。
次世代の自然エネルギーとしてイメージ先行の風力・太陽光よりも、日本の地理にあった水力・地熱発電が有望というオピニオン。現状では風力に太陽光やその他の再生可能エネルギーを足しても、国内エネルギー供給全体の0.2%に過ぎない。いくら推進政策をやったところで、風力も太陽光も大きな比重を占めるには至らないのではないかというデータがならぶ。
たとえば風力の発電施設の規模に対して、火力は2835倍、水力333倍、原子力2300倍もある。風力の平均設備利用率は20%程度に過ぎないし、大規模な風車の立地は限られてしまう。太陽電池は高コストの上に年間の日照時間が少ない日本は向いているとはいえないのだ。
一方で、山がちで雨や雪がたくさん降る日本は、水力発電には絶好の条件がそろっている。火山地帯であるから地熱発電も向いている。推進していくべきは推力と地熱の方ではないかと著者は他のエネルギーとの比較の上で結論する。
2009年の電力調査統計によると、
総出力:約2億3700万キロワット
火力 :約1億4300万キロワット
水力 : 4500万キロワット
原子力: 4900万キロワット
でそうだ。
再生可能エネルギーの活用、現在あるエネルギーシステムの改良(効率向上)、徹底した省エネ化というのも説得力がある。一定の出力を続ける原子力に、火力と水力が電力需要が少ない時間に運転調整を頻繁に行うことで需給バランスを整えている。火力の設備利用率は50%以下が多いそうだが、震災後は原子力発電分が減って火力の割合が高まるのは間違いなさそうだ。火力の発電効率を数パーセントでも高めるイノベーションは、影響が大きい。そのほか、補助金より炭素税・環境税によるエネルギー政策の転換をという意見もあった。
自然エネルギーの可能性はよくわかるが、現状1%に満たない自然エネルギーを10年や20年で、主力の代替にするのは現実的には難しいのではないか、とも思える。それより既存の発電効率の1%の改善に、数兆円を投じてみる方が賢いのではないだろうか。日本のエンジニアはドラスティックなイノベーションよりも、小さな改善が得意なような気もするし。
専門家と一般人の間をつなぐのが科学コミュニケーション。
科学技術を利用して持続可能な社会を実現するには、科学コミュニケーションのやり方を、情報伝達のコミュニケーションから、共感・共有のコミュニケーションへと変えていかねばならないという主張の本。
面白い問題が紹介されていたので、ちょっと紹介する。
Q:ここに4枚のカードがあります
A
D
3
6
「一方の面が母音のカードは必ず裏が偶数」という法則があるとします。この法則を確かめるにはどのカードをめくってみればよいでしょうか?。
この問題の答えは、Aのカードと3のカードだが、一般の学生でやると正解率は25%に満たないくらいであるそうだ。
一方で、
Q:
ビールを飲んでいる人
コーラを飲んでいる人
十六歳の人
二十五歳の人
がいて、「ビールを飲む人は二に十歳以上である」という法則を確かめるには、誰に質問すべきでしょうか?、という問題を出すと、ビールを飲んでいる人と十六歳の人に聞けばいい、と9割の人が正解するという。
この二つの問題は同じ構造の問題なのに、社会的問題にした方が圧倒的に考えやすくなる。後者の問題は、深く考えずとも、感覚的に答えることさえできる気がする。
20世紀ソ連の心理学者レゴヴィツキーは、人間の概念を、教育によって習得する体系化された「科学的概念」と、生活の中で身につける自然発生的な「社会的概念」の2つに分類した。多くの人は、科学的・論理的に考えるよりも社会的な見方で考える方に慣れている。
「宇宙も原子も生命もどんな科学の話も、この世界の時間と空間の中に配置された物語として語ることで、人は実感としてわかることができるのです。」
科学者は「因果関係による理解」に慣れている。一般人は「物語による解釈」を必要とする。科学の問題を、社会の問題として、専門家と非専門家が共に考えるには、「情報伝達」のコミュニケーションだけでは不足であり、むしろ「共感・共有」のコミュニケーションこそ肝なのだ。
「私たちが私たち自身の未来を選ぶためには、まず最初に、現状把握と未来予測をしなければいけません。私たち自身が実際の分析を行うのは無理でも、専門家が出した具体策や数字に対して、私たち自身が判断をくだすのです。そのためには、批判的で健全な科学的感性や確率論的感性が、知的市民に備わっていなければなりません。次に、判断して選んだ具体策を、私たちみんなが同意しなくてはいけません。そのためには、危機に陥る原因となったそれまでの価値観を変革し、新たに選んだ価値観を共有しなくてはなりません。解体に向かった人々の間の結合も、何らかの形で再結成しなくてはなりません。すなわち、こういった知的市民の選択と採用に寄与することこそ、共感・共有に基づいた科学コミュニケーションの仕事なのです。」
従来の「サイエンスカフェ」式の科学コミュニケーションのありかたでは、もともと科学が好きな人を集めているだけで、肝心の科学に関心の薄い人たちが参加していないという問題提起や、実は話す人の人選(人柄)で成否が決まることが多いという科学コミュニケーションの現実の指摘など、本質を見ているなあと感じた。
科学コミュニケーション。これからの環境やエネルギーをどうする?と、マジで考えなくてはならない日本人全体の問題になりつつある。
20世紀前半を代表する経済学者ケインズは財政政策と金融政策で不況を打破できると考えた。同じころ孤高の経済学者シュンペーターは新結合による新しい価値の創出行為=「イノベーション」こそ決め手になると主張した。
これはJST研究開発戦略センターが「科学的知識を用いて新技術・新着想を創造し、経済的価値を増大させ、社会的要請を満足させるプロセス」を科学技術イノベーションと定義し、科学技術イノベーションの3つのポイントを
1 (科学技術の)パラダイムシフトを起こすもの
2 社会システムに大きな変化をもたらすもの
3 経済的・社会的な価値(国富)を大きく増大させるもの
と整理したうえで、日本におけるその可能性を研究した本である。
シリコンバレーのようなイノベーション・エコシステムも検討課題のひとつである。米国を調べると、実は米国にはシリコンコースト、シリコンデザート、シリコンプレーン、シリコンヒルズなど、いくつも第2、第3のシリコンバレーを指向したエコシステムが存在しているという。しかしこれらの地域は本家に迫る勢いを持っていないのが現実のようだ。米国内でさえそうなのだから、日本が真似をしてもうまくはいかないわけである。
「しかし、生態系はその地域、風土、自然に深く根ざしており、その系全体を他の場所に移植すればそれはたちまち死滅し、枯れてしまうというように、米国のイノベーション・エコシステムをそのまま日本に移植しても役に立たないことは明白である。」
著者らはシリコンバレーの模倣ではなくて日本独自のイノベーション・エコシステムを模索するべきだという。ノキアとLINUXを産んだイノベーション国家フィンランドの分析もある。
そして国内の状況を俯瞰したうえで、期待できる地域として、
1 浜松
本田技研工業、ヤマハ、河合楽器、豊田自動織機製作所、オートバイのスズキなどの発祥の地
2 福岡
シリコンシーベルト(先端システムLSI開発拠点構想)として高評価
を挙げている。
そして科学技術イノベーションが期待できる分野としては、
1 IRT技術 情報技術+ロボット技術
2 太陽光利用技術
3 合成生物学
の3つを挙げている。それぞれの分野での日本の優位性や展望がまとめらている。
前半のイノベーション概念の整理部分はとてもよくまとめられているし、続く日本の現状の把握は情報としては有益だ。しかし、後半の各論は日本の科学技術イノベーションの取り組みの中から、現状において、いくらかうまくいっている部分を抽出してみましたという感じがある。成功例が小粒な気がする。
事前に正解がわからない世紀の問題であるから、本に確固とした結論を求めても無理である。具体的にこの道を行くということは、こうした分析資料を読んだ上で、傍観者ではない読者が自ら考えて、リスクを負って行動した結果、実現されるということなのだろう。
科学技術政策は誰が決定すべきなのか。
科学=真理を知る
技術=モノをつくる
という異なる要素を合わせたのが科学技術という言葉だ。「科学」の価値中立性は担保されるにしても、「技術」は経済的な利益構造と抱き合わせになる。また科学技術が解決すべき問題には「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題」が増えてきたという。社会技術としての科学技術という面が強くなってきたのだ。
そして社会の複雑化、多様化、グローバル化によって、科学技術の政策は、科学者だけで決定すべきものではなくなってきた。この本は、市民、科学者、問題の当事者らがコミュニケーションとって合意をつくる「公共ガバナンス」の必要性を説く。
科学者が一般人に教えるという「知識のある者から、ない者へ」式の、読者の無知を前提にした「欠如モデル」の科学コミュニケーションはもはや時代遅れになるという。科学者、政府、産業界、一般市民の、双方向的な対話や、政策決定への参加を重視する「公共的関与」というスタイルが求められている。
従来の狭い視野の専門家の限界を超える可能性も示されている。映画『ロレンツォのオイル』では副腎皮質ジストロフィーという難病の息子のために自力で治療法を発見した父親が登場するが、現実に「専門家顔負けの素人の専門性」も無視できないものだという例が挙げられている。切実な当事者ならではの深い経験や知識、洞察、ローカルナレッジを活かす方法も有効なのだ。
コミュニティ・ベイスド・リサーチという方法論。そこで必要なコミュニケーションのスタイル。
1 社会的地位を度外視するような社交様式
2 それまで問題なく通用していた領域を問題化すること
3 万人がその討論に参加しうること
現代の科学技術は「不確実性」と「社会の利害関係・価値観との絡み合い」という宿命を持つ。スーパーコンピューターの研究費の仕分けで「2番じゃだめなんですか?」といった議員に対して、ノーベル科学者が反論した事件があったが、異論を唱え反論を重ねること自体はとても意味のあることなのだ。
この本の「おそろしく単純な生命モデル」という副題は一般向けの書籍としてはウソである。概念の発明者である著者にとっては単純なのかもしれないが、多くの読者にとっては相当に難解なモデルだと感じられるはずだ。しかし、難解であっても生命の本質を探る探究は面白い。
「自動掃除ロボットがプログラム上想定外だった猫を、一個の対象として記号化し、対処できるかということだ。世界の事物を適宜、カテゴリー化し、分類して名づけ、記号をつくる営為は、極めて知的な活動の賜物であり、言語的な創造を意味するものだ。外部環境と入出力を通してやりとりできる計算機であり、自ら運動して様々な外部刺激を受け取れる機能をもつと想定される機械、人工的エージェントに、果たしてここまで知的な活動が可能なのか。」
外部から刺激を受けて状態を変える機械=オートマトンのコンピュータ・シミュレーションとしてモデルは示される。生命壱号とはあるパターンで運動するアメーバみたいなものである。
「境界と内部状態、外部の空状態、この三つの状態のみから構成される格子空間において、境界格子から「空」侵入点を選び、「空」を通過させる。境界と内部状態から構成される集合体は、「空」の通過を通して、変形と移動を繰り返す。このとき「空」は、自らの経路を記憶し、それを避けながら、集合体を通過する。生命壱号の基本的機構はこれだけだ。」
生命活動には認知と知覚、進化、運動、個体発生など説明しなければならない事象が多くあるが、これらをタイプ(一般的概念)とトークン(個別的具体例)の両義性というアイデアで突破していくのが生命壱号モデルである。ライフゲームの格子の境界線に魔法をかけたようなイメージ。ラフ集合理論を使った数学的な検証部分は私にはちょっと難しかった。
認識と存在の哲学に強い関心があって、かつ、創発、オートポイエーシス、アフォーダンス、ライフゲームなどのキーワードがヒットする人向け。
動物の群れがみせる知的な振る舞いを研究することで、人間の集団行動の原理をも解明しようとする、群衆の叡智の研究書。
アリ フェロモンの痕跡で巣から食物までの最短経路を探す
ミツバチ 8の字ダンスで偵察結果を伝えあい最適条件の家を探す
シロアリ スティグマジーで高度に複雑な建築を実現する
鳥 適応的模倣で群れが瞬時に最適の形で飛行する
バッタ 大量発生すると破壊と死の暴走現象を引き起こす
動物たちの達成は見事で、まるで群れに頭脳があるかのように思える。だが個体の動きを見ていくと極めて単純なルールでしかない。動物たちの群れは個々のルールを知っていても全体を予想できないという点が共通している。この本はオバカな個体の集団がすごい成果を生みだす秘密を探る旅である。
たとえばシロアリは個体同士がコミュニケーションをするのではなく、造っている構造物を通じて互いの行動に影響を与えている。他のアリが土くれをつみあげているのを見ると周囲のアリもそれに倣う。ある高さにまで柱のように積まれると、近くにある柱とつなぐような動きに変わり、結果としてアーチ構造の建築が実現される。動物たちの行動パターンにはこうした間接的協働が多くみられる。
人間の組織でいえば、全体のプロセスがうまくできていれば、会議などしなくてもうまくいくということだろう。組織の生産性を考える時、我々は直接コミュニケーションだけでなく、他のメンバーのやっていることへの反応も見直すべきなのだろう。だらだら残業する人がいるとみんなそうなるというのはよくある会社のパターンだ。
動物の群れが群衆の叡智を発言する時の条件が整理されている。
1 ローカルな知識を重視すること(情報の多様性を維持する)
2 単純なルールを適用すること(複雑な計算の必要性をなくす)
3 メンバー間で相互作用を繰り返すこと(ささやかだが重要なシグナルを増幅し、意思決定を迅速化する)
4 定足数を設定する(意思決定の精度を高める)
5 個々のメンバーの行動に適度なでたらめさを残す(集団が常に型どおりに解決策を選ぶのを防ぐ)
俗に"頭脳集団"という言葉があるが、現実には全員が頭脳だと組織としてのアウトプットは期待されるほどのものにならないことが多いように思う。むしろ天才がいなくても、全体として天才が指揮しているかのような組織を設計することが重要なのだ。群れの科学はネットワークとも親和性が高い。これから面白くなりそうな分野である。気になる人は、まずこれを読んでおくといいのでは。
「地球上に生命が誕生してから約20億年間、生物は死ななかった。ひたすら分裂し、増殖していたからだ。ではなぜ、いつから進化した生物は死ぬようになったのか?」。
高等生物は放っておくと寿命がきて自ら死んでしまう。遺伝子にプログラムされた細胞の死=「アポトーシス」の視点から、ヒトの死を考える。新書で一般向け読み物だが、科学から倫理・哲学的意味にまで踏み込む深い内容。
「細胞は、内外から得たさまざまな情報─周囲からの「あなたはもう不要ですよ」というシグナルや、「自分は異常をきたして有害な細胞になっている」というシグナル─を、総合的に判断して"自死装置"を発動するのです。」
ヒトの手も指の間の細胞がアポトーシスで死んでいくことで形成される。カエルやチョウぼ変態も不要になった細胞が死んでいくことで実現されている。「細胞を大めにつくって、不要な部分をアポトーシスによって削る」のである。人体の細胞は1日にステーキ一枚分も死んでいるという。
著者は、このアポトーシスは有性生殖と深い関係があると考えている。単細胞生物時代は単純な自己複製だから死はなかった。進化史上は性とともに死が現れたそうだ。エロスと表裏一体のタナトス。生物はなんと文学的にできているのだろうか。
性=遺伝子の組み換え、死=遺伝子の消去というふたつの原理で、優れた子孫を残していく。個体は長く生きていると、化学物質や活性酸素、紫外線、放射線によって遺伝子がキズをおう。このキズは修復せずに生殖細胞にも変異を及ぼす。老化した個体は遺伝子がキズモノになっている。
「老化した個体が生き続けて若い個体と交配し、古い遺伝子と新しい遺伝子が組み合わされば、世代を重ねるごとに遺伝子の変異が引き継がれて、さらに蓄積していくことになるでしょう。もしこのようなことが繰り返されると、種が絶滅して、遺伝子自身が存続できなくなる可能性もあります。」
だから個体は老いたら死んでいくのが、種全体のためであるということになる。後半では、こうした死の科学を哲学的見地から議論する。ドーキンスの利己的な遺伝子論、クローン人間や不老不死の実現に対する批判的な意見を展開している。この生と死の哲学議論がとても面白かった。
高齢化社会において死とどう向き合うかは大問題だ。不老不死やクローン人間を科学が実現して、死を回避しようとするのもひとつの方法だ。だが、数十年のスパンではうまくいきそうにない。著者のように、死に積極的な意味を見出して、いかに受容していくかを考える方が現実的なことなのかもしれない。
・長寿を科学する
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/10/post-1092.html
・ヒトが永遠に生きる方法―世界一やさしい身体の科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/07/post-108.html
・死ぬまでに知っておきたい 人生の5つの秘密
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/12/-5.html
・100歳まで生きてしまった
http://www.ringolab.com/note/daiya/2003/09/100.html
・数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ

18世紀中頃、ベルリン科学アカデミーの院長モーペルテュイは観察から
「自然の中に何らかの変化を引き起こすのに必要な作用の量は可能なかぎり小さい」
という原理を発見した。自然現象には無駄がない。最も単純な道を通って効果を生む。たとえば光は屈折させても点ABCの間の最短距離を進んでいくように見える。光は無駄な経路を避けて作用量を最小に節約しようと心がけているのだと結論した。世界は合理的に作られている。そこに世界の創造主としての神の叡智をみた。
我々が生きているこの世界は、ありえたかもしれない世界の中で、最も好ましい世界、最善世界である。ガリレオもライプニッツもこの世界は神によって創られたと信じていた。科学者の役割は神が創造をおこなうときに従ったルールを、人間が再発見することにほかならなかった。あらゆる自然法則を貫く最小作用の原理はキリスト教世界の形而上学と物理学を統一する大理論だとモーペルテュイは唱えた。
後に、最小作用の原理は数学的にも物理学的にも誤っていることが発見される。実現可能な一経路は、最小でもなく最大でもなく、アップダウンのある山上りの途中の峠のような停留ポイントに落ち着くと考える(停留作用の原理。)のが正しいことがわかった。
モーペルテュイの最小作用の原理は科学的には誤っていたわけだが、自然のはたらきには無駄がないという思想は、日常の経験的には共感しやすいものだと感じる。だから400年以上にわたって根強く残ってきた歴史がある。そして神と善の概念が切り離されても、現代社会の最適化の原理=最善の原理という考え方に通じるものだ。つまり現代では経済合理性が神になったということなのだろう。「神の見えざる手」というし。
力学と幾何学の関係性の本でもある。ビリヤード玉の運動モデルを使って、可積分系から非可積分系への移行、計算から幾何への移行とカオス状態の意味を説明する。ビリヤードの単純な運動モデルが、少し条件をひねっただけで、単純な計算が不能な、幾何的モデルに変貌していくのが面白い。
後半では最適化の精神を生物学、経済学、社会学の話題として展開していく。我々人間は理性を使って最善世界をどうつくるべきなのかという話になる。たどりつくのはデカルトの「仮のモラル」とにたもの。
「特定の理論を絶対視せず、科学が進歩してそれが使えなくなったら、新しい理論に乗りかえるように、よりよいモラルが見つかるまでの間、いわば「当面のモラル」でやっていくのだ。いいかえると、科学だけでなくモラルにおいても、わたしたちはすべてを包含する決定的な真理には到達していない。」。
著者は考えられる限り、これが一番賢明な方法じゃないかという。合理的精神と科学の方法論こそ最善であるという科学者の強い意見表明で終わる。合理性信仰の流れを肯定的にまとめた400年間の歴史書だ。
現代のタブーに真っ向勝負。
『フェルマーの最終定理』『暗号解読』『ビッグバン宇宙論』を著した現代最高の科学ライター サイモン・シンが、次はどんな定理に挑むかと思ったら、意表をついて「代替医療」を斬る本を出してきた。ドイツの代替医療研究の大学教授と組んでの共著。翻訳はサイモン・シンの名訳を生み続けてきた青木薫氏。
まだ「代替医療」という言葉が一般にわかりにくい気がするのだけれど、要は、鍼、ホメオパシー、カイロプラティック、ハーブ治療などを指す。代替医療のほとんどは科学的にはインチキで治療効果はまったくないという事実を科学的に明らかにした本だ。それらを職業や商売にしている人たち(国内でも何十万人もいるだろう)に死刑宣告をしたようなもので、かなりヤバイ本かもしれない。今後、論争が起きそうだ。
やり玉に挙げられるのは、ホメオパシー、鍼、カイロプラティック、ハーブ療法、アロマセラピー、イヤーキャンドル、オステオパシー、結腸洗浄、指圧、スピリチュアル・ヒーリング、デトックス、伝統中国医学、ヒル療法、マグネットセラピー、マッサージ療法、瞑想、リフレクソロジーなど30種類以上。それぞれに科学的な根拠の有無が明らかにされる。わずかに効果を認められたものもあるが、著者らの結論では、ほとんどが科学的には"アウト"だ。
「人びとが代替医療に心惹かれるきっかけは、多くの代替医療の基礎となっている三つの中心原理であることが多い。代替医療は、「自然」で、「伝統的」で、「全体論的」な医療へのアプローチだといわれる。代替医療を擁護する人たちは、代替医療を選択する大きな理由としてこれら三つの中心原理を繰り返し挙げるが、実は良くできたマーケティング戦略にすぎないことが容易に示される。」
自然、伝統的、全体論的であること自体には何の意味もないのに、そう書いてあると人は騙される。
確かに鍼やカイロや指圧で病気が治る人はいる。治療行為や薬に効果はなくても、心理的な効果=プラセボ効果が伴うからだ。しかしプラセボ効果は科学的な医療にも伴うわけで、代替医療の専売特許ではない。代替医療には科学的な医療と比較して多くの危険性があるし、代替医療に切り替えた結果、通常の医療を受けない患者が出てくる。プラセボ効果のみの代替医療では、多くの患者の病気は悪化していくのみである。だから代替医療の酷い実態を世の中に広く知らしめなければならないという使命感で著者らはこの本を書いている。
なぜ人は信じてしまうのか、なぜ効果があるように見えるのか、なぜ代替医療に注意すべきなのか?。サイモン・シンは本書でも、数学の証明の本のときのように、極めて論理的で明解な説明をしている。現代人の多くが多少は代替医療の情報に騙されている。代替医療にかかるのは個人の自由だが、前提として多くの国民が科学的な根拠の有無を知っておくべきだろう。
というわけで、かなり説得力のある本なのだが、代替医療側から論理的な反論の書が出てきたら面白くなるなあ。
・ビッグバン宇宙論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/07/post-412.html
・フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/01/post-340.html
・暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004028.html
・フィールド情報学入門 ―自然観察,社会参加,イノベーションのための情報学

「本書では、フィールドを「分析的、工学的アプローチが困難で、統制できず、多様なものが共存並立し、予測できない偶発的な出来事が生起し、常に関与することが求められる場(片井 修)と定義する。フィールド情報学はこうしたフィールドで用いられる起源の異なるさまざまな方法を、記述、予測、伝達という情報の視点から集約することを目指している。本書はフィールド情報学を志す初めての教科書である。」
社会科科学のアプローチを使って情報学的に、社会や自然というフィールドを科学する。
・リモートセンシングや地理情報システムで、広域から人々の行動情報を集める
・バイオロギングによって生物の活動を長期的に記録する
・社会をシステムダイナミックスとして記述する
・マルチエージェントシミュレーション
・参加型の観察による分析 エスノグラフィー
など、社会や自然をどう情報としてとらえていくかの研究が多数紹介されています。
ところで私の会社は先週、こんな研究成果のビジネス化の発表をしました。
・Twitter上の「つぶやき」や「プロフィール」からオピニオンリーダーを検知する 『Twitterオピニオンレーダー』を開始
http://www.datasection.co.jp/news/twitter_20100304.pdf
・Twitter上のオピニオンリーダー分析サービス、データセクションが発売(日経ネットマーケティング)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nmg/20100304/213157/?ST=nmg_page
今年の私の会社としては、従来の統計と自然言語処理による定量的な分析から、定性的で創造的な「デジタルエスノグラフィー」に取り組むのがテーマです。具体的にはブログやツイッターを分析して、商品開発やプロモーション企画に活かすためのコンサルティングソリューションを展開しています。
こういったテーマに関しての論者として3月9日(火)
情報処理学会創立50周年記念(第72回)全国大会 フィールド情報学セミナー
http://www.ipsj.or.jp/10jigyo/taikai/72kai/event/17.html
フィールド情報学とは?
http://www.ai.soc.i.kyoto-u.ac.jp/field/
にパネルとして出演することになりました。
橋本 大也(データセクション株式会社 取締役会長)
【パネルにおけるポジション】
データセクションではBlogosphere(ブログ生態系)というフィールドから、データを大規模に収集し、書き手の行動パターンやプロファイルを分析するビジネスインテリジェンスシステムを開発した。日々の書き込みを深く読むことで、消費者のマイクロトレンドを発見したり、オピニオンリーダーの行動を予測することができる。大手広告代理店と連携した"流行創出"事業、保険会社と共同で上場企業の風評リスクを早期に察知する"風評リスク事業"など、フィールド情報分析の事業化に取り組んでいる。
略 歴 1970年生まれ。起業家。データセクション株式会社取締役会長。大学時代にインターネットの可能性に目覚め技術ベンチャーを創業。主な著書に『情報力』『情報考学--WEB時代の羅針盤213冊』『新・データベースメディア戦略。』『アクセスを増やすホームページ革命術』等。(株)早稲田情報技術研究所取締役、(株)日本技芸
取締役、株式会社メタキャスト 取締役、デジタルハリウッド大学准教授、多摩大学大学院経営情報学研究科客員教授等を兼任。
フィールド情報学セミナーではビジネスにおける事例や展望をご紹介する予定です。
「生きている天才100人」で日本人最高位に選ばれたロボット研究者 石黒浩氏。どきっとするくらいリアルな女性と子供アンドロイド、自身にそっくりな遠隔操作の"ジェミノイド"を制作したり、ロボットと人間が演じるロボット演劇をプロデュースしたり、「先にまずロボットやアンドロイドを作ってみて、そこから人間を知る」構成論的アプローチで、人間の脳や心のしくみ解明に迫る。
人間のように心をもったロボットを作ることはできるのか?という問題に対して、著者は「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」と言い、心を持っていると信じさせるための条件を探す。
自律型ロボットのロボビーの展示では、
「このロボビーと遊んでみた人は全員一様に、ロボビーには感情があると言う。むろん、我々開発側としては、感情生成機能は一切実装していない。しかし、たとえば、しばらく遊んだ後でロボビーが突然「バイバイ」と言って離れていくと、「ロボビーは冷たい」とか「ロボビーは怒ったのかな」と言う。あるいは、ロボピーが部屋の隅で「誰か遊んでね」とつぶやいていると、「ロボビー、寂しそう」と言う。さらにおもしろかったのは、研究所に来た客が、あるロボビーと遊んでいると、部屋の隅にいたもう一台のロボビーがやってきて、その二人の間に割ってはいり、「遊んでね」と言って別の遊びを始めた。その様子は、本当にそのロボビーが嫉妬しているように見えた。」
ロボット演劇においても、演劇のプロの指導で設計された動作をするロボットを見た観客たちは、ロボット役者に心を感じた。これは「役者に心はいらない」のと同じである。本物の役者だって演技中は何を考えていようが、観客に見える動作が決まっていれば、情動を表現できる。
ロボットが人間にそっくりであればあるほど、そうした力が強くなる(不気味の谷という例外はあるが)という仮説のもとで、著者はひたすら人間にそっくりのアンドロイド制作を続けてきた。
よく雑誌やテレビで取り上げられている自身とそっくりの"ジェミノイド"は、遠隔操作で動かすロボットだ。リモートで人間が操作する、訪問者とジェミノイドとの対話が五分ほど続くと、操作する者は、ジェミノイドの体が自分の体であるかのような錯覚を覚える。ジェミノイドの頬を突っつかれると、本当に自分が頬を突っつかれた気分になるらしい。不意に触られると不快感を覚えもするという。人の心は容易に憑依する性質があるということか。
ロボット工学の技術論はほとんど出てこなくて、人間らしさ、人間とは何かをひたすら追究していく著者の姿勢は、哲学者のよう。人間と同等の常識や高度な推論系を持つ人工知能なんていつまで待っても完成しないだろうが、このアプローチだったら案外に近い将来、人間と見分けがつかないアンドロイド、出来てしまうかもしれない。生きている天才に期待。
・自分そっくりのコピーロボット開発に世界仰天!石黒浩/Tech総研
http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/rnc/docs/ct_s03600.jsp?p=000923
・大阪大学でロボット演劇「働く私」が上演
~「エンターテインメント型実証実験」で近未来を疑似体験
http://robot.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/11/27/1468.html
・ロボット
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/03/post-714.html「ヘレナ、人間はいくらか気違いであるくらいでなければ。それが人間の一番いいところなのです。」
「パラダイム」概念の創始者トーマス・クーンの研究。
一般にパラダイムという言葉は「考え方の枠組み」や「新しい物の見方」という程度の意味で使われているが、クーンの原義は「その領域の研究活動を特徴づける模範例となる科学的業績」を指す。枠組みや見方ではないのである。この誤解はクーン自身の乱用も原因だったらしい。クーンは文献の中で21通りもの異なる意味で使っていると他の研究者から指摘されている。そこで「専門母型」という厳密な概念も生み出したが、こちらは流行らなかった。
クーンによると科学の歴史的展開は「前科学→パラダイムの形成→通常科学→変則事例の出現→危機→科学革命→新パラダイムの形成→通常科学」というサイクルを繰り返す。器官として長いのは知識を累積させて連続的に進歩を重ねる通常科学の時代だ。だが、地動説、重力、相対性原理の発見のような新たなパラダイムが形成されると世界観は革新される。クーンはその模範例の出現に科学の断続的で飛躍的発展のきっかけをみた。
同時にふたつのパラダイムを信じることはできない。しかし、通約不能な新旧パラダイムを奉じる科学者同士は、まったくコミュニケーションができないわけではないとクーンは考えた。「あるパラダイムから別のパラダイムへの移行は、それゆえ論理学の問題ではなく、クーンによればそれは社会学や心理学が解明すべき問題なのである。」ともいう。
「コミュニケーションの途絶状態にある参加者たちにできることは、お互いを異なる言語共同体のメンバーと認めた上で、翻訳者となることである」。
その時、翻訳者は常に「唯一の正しい翻訳」を確定できないことを前提としいる。"トンデモ"とか"異端"に対して寛容であることが一流のイノベーターの条件ということになるのだろう。(寛容度を極限まで高めるファイヤアーベントの「知のアナーキズム」も後半でパラダイム論と絡めて論じられている。)













