Books-Sociologyの最近のブログ記事

・友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル
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現在の若者心理の研究。いじめ、ケータイコミュニケーション、ネット自殺などを軸に、いま10代、20代くらいの若者たちのコミュニケーション動態と深層心理を探る。

近年の調査では思春期に反抗期がなかった若者が増えているそうだ。

かつて尾崎豊の「十五の夜」の歌詞にあったような社会に対する反抗心と、現代のアンジェラ・アキが歌う「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」の未来の自分に対するメッセージを比べると歴然としているが、現在の若者世代は他者との対立の回避を最優先にする「優しい関係」の世代だ。

だが、この優しい関係は決して個々の心にとって優しくはない。「教室は たとえて言えば 地雷原」という川柳があるそうだが、見かけ上の「優しい関係」を営む場に絶対権が与えられ、息苦しさを感じている若者が多いという。

「「優しい関係」とは、対立の回避を最優先にする関係だから、互いの葛藤から生まれる違和感や、思惑のずれから生まれた怒りの感情を、関係の中でストレートに表出することはままならない。むしろそれらを抑圧することこそが、「優しい関係」に課せられた最大の鉄則である。したがって、その違和感や怒りの感情エネルギーは、小刻みに放出されることによる解消の機会を失い、各自の内部に溜め込まれていくことになる。」

著者は現代型のいじめもそこから生まれると分析する。被害者に仲間とのまなざしを集中させることで、互いの対立点を見ないで済むことができる。

「相手の事情を詮索して踏み込んだりしない、あるいは自分の断定を一方的に相手に押しつけたりしない。そういった距離感を保つ「相手に優しい関係」とは、ひるがえってみれば、自分の立場を傷つけかねない危険性を少しでも回避し、自分の責任をできるだけ問われないようにする「自分に優しい関係」でもある。だから、意図せずしてこの「優しい関係」の規範に抵触してしまった者には激しい反発が加えられる。いじめの大賞もそのなかから選ばれるのである。」

本書では「二十歳の原点」(1969年)の高野悦子と、「卒業式まで死にません」(1999年)の南条あやという二つの世代の自殺した若者の日記作品が比較分析される。この30年で若者の思想は大きく変わった。

高野の世代では未来の希望は自分が今後いかに変わっていくかにかかっている。一方で南条の世代では、自分がいかに変わらないでいられるかにかかっている。自分の存在の根拠を主体制の獲得に見出すか、生来的な身体性に見出すか、実に対照的な二つの価値観がある。

コミュニケーション面では、ケータイまわりがじっくり考察されている。メールの即レスを意識する若者たちはメッセージ内容の「意味伝達指向」ではなくつながること自体を目指す「接続指向」で生きている。ケータイではいつも会っている友達と頻繁に短いメールをする。インターネットは世界に開かれているが、使い道はやはり仲間内の優しい関係づくりなのである。

つながっていることを確認すること、複数の他者のメッセージを三角測量しで仲間内での自分の位置を割り出すこと、それがケータイの利用目的となる。自己の脆弱な存在基盤をふれあいGPSがおぎない続ける。

この本を読んでわかったのは、それぞれの世代に生きづらさがあって、それと向かい合う困難があって、その戦いには強い人と弱い人がいて、という構図が時代を超えて普遍であるということだ。世代間に優劣はつけられないし、「優しい関係」や「空気を読む」こと自体が良いこととも悪いこともいえない。ただそういうものだということを認めて、両世代がつきあうことが何よりも大切なのだろう。

・ソーシャルブレインズ入門――<社会脳>って何だろう
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「たくさんの脳が集まっているというのは、そのシーンを想像すると何となくグロテスクです。しかし、わたしたちは誰でも一つずつ脳を持っていますから、もし脳がどこにあるかという空間分布だけを図にしてみるなら、東京都だけで、およそ1300万個の脳が東京都内を行ったり来たりしていることになります。さらに、もしみなさんが、いまこの瞬間、通勤電車の中ですし詰めになっているなら、手の届く範囲に少なくとも10個以上の脳がプカプカ存在していることになります。」

ソーシャルブレインズ(社会脳)とは社会に組み込まれた状態の脳の研究である。人間が一番頭を使うのは、従来の脳科学が研究しているような単純な対象の認知ではなくて、空気を読むとか、協調する、対立するという社会関係における認知だ。ソーシャルブレインズこそ脳の本質的なはたらきであるともいえる。

認知コストの押しつけあいのしくみが社会的駆け引きの原理であるという著者の見方が面白い。何かを考える、行動規範を変えるというのは、脳に負担がかかる。だから、上司や強者は、部下や弱者に問題解決の認知コストを払わせる。人間にはもともと自分の認知コストをできるだけ少なくすまそうとする圧力があるようだ。

敷衍すると認知コストが低い状態が幸福という見方ができる。

社会ルールは社会全体の認知コストを減らす。その問題についていちいち考えなくてよくなるからだ。「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件な存在肯定」=リスペクトも、相互の信頼によって認知コストを減らす効果を持つと著者は考える。リスペクトを持ってくれている相手は、自分の利益を気にかけてくれているので、考えるべき変数が少なくなるからだ。

ソーシャルブレインズとは、「母子間コミュニケーションをコアとし、発達の過程でそれを拡張した機能」ではないかと本書は主張する。認知コストがほぼゼロだった赤ん坊時代から、少しずつリスペクトを前提としない相手への対応を学んでいく。社会脳の振る舞いというのはその人の生き方といってもいいのかもしれない。

社会学と脳科学の融合領域に何かありそうだと教えてくれる新書。

・人間集団における人望の研究―二人以上の部下を持つ人のために
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俗に「人望がある」とか「人徳がある」というが、俗にではなくて厳密にそれってどういうことなのか、明解な答えを学べる本。「空気の研究」山本七平による昭和に書かれた名著。

その答えとはすなわち次の「九徳」を備えているタイプだという。

寛にして栗 寛大だが、締まりがある
柔にして立 柔和だが、事が処理できる
愿にして恭 まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない
乱にして敬 事を収める能力があるが慎み深い
擾にして毅 おとなしいが内が強い
直にして温 正直、率直だが温和
簡にして廉 大まかだが、しっかりしている
剛にして塞 剛健だが内も充実
彊にして義 強勇だが義しい

9つの徳は朱子学の入門書『近思録』よりきている(この本は戦前は広く読まれたものであったらしい。)。これらの徳にすべて欠ける(寛大でなくて、締りがないのような状態)と十八不徳といって最悪の人間だが、大体は寛大だが、締りがない、のように一方が欠けた九不徳が普通の人間になる。人望のある有徳の人になるには「中庸」というバランスが大切なのだ。「中庸」という自己統御を通じて、それを他に及ぼしていく状態を現出した人が「人望のある人」なのであると説いている。

「人気」と「人望」が混同されることがあるが、この二つは別物だという指摘が鋭い。舞台では人気役者だが楽屋裏ではまったく人望がない人というタイプがいる。そういう人は部下に慕われない。日本型の平等社会でリーダーに選ばれるのは、学歴や能力を超えた評価基準としての人望を備えた人なのである。人気がある人は非常識であるが故に人気があるということも多い。非常識では人望は取れない。同じ能力ならば中庸な人が選ばれるということになる。

読んでいて思ったのは、でも日本の国政選挙って人気で選ばれてしまうよなあ、ということ。中庸というのは、つきあってこそわかるもので、メディアやネットを通すとなかなか伝わらないものなのではないだろうか。中庸な人の落ち着き・風格というのは、目立ちたがり屋の競争社会=アテンションエコノミーにおいては不利に働く属性なのだと思う。

山本は「「空気」の研究」で、日本的な組織では、ホンネの投票とタテマエの投票を二回やって平均をとれば良い決定ができるというアイデアを披露していた。そこで私も考えてみたのだが、選挙では、候補者の身近な人の360度評価の開示とともに普通の選挙を行うというような改善案はどうだろうか。へえ、あの人は有名人だけど人望度は低いのね、投票するのはやめておこう、なんて判断ができるようになるのではないか。

・「空気」の研究
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1115.html

・セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方
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上野千鶴子の"処女喪失作"が四半世紀ぶりに文庫化。カッパブックスから岩波現代文庫へ。

「男は「女らしさ」を振つけし、読みとり、鑑賞し───そしてもちろん、発情する。この「らしさ」のカタログは、男たちの作ったマスメディアの中に、うんざりするほど登場する。いまからお目にかけるのは、広告というもっともポピュラーな媒体に登場する、女たちの「らしさ」のカタログであり、その隠されたメッセージを読みとく手引きである。」

四半世紀経っても男の目から見てのセクシー=「女らしさ」はあまり変わっていないように思える。四つん這いだとか、体をくねらせるとか、流し目、濡れた唇に、男はついついそそられてしまう。広告はそうした男性の心理を利用して、巧妙に商業的メッセージを発信してきた。

「女らしさ」は男性が文法をつくりだす。こんな面白い研究が紹介されている。

「女性がオールヌードでいるところに、突然、男性が現れたとき、彼女は二本の手でまっ先にどこを隠すか?」をある比較行動学者が調べところ、3つの選択肢が見つかった。

1 両手で胸を隠す
2 両手で性器を隠す
3 片手で胸を、片手で性器を隠す

調査結果では先進国の女性はほとんど例外なく両手で胸を隠した。未開社会でトップレスで暮らす女性が下半身は必ず腰巻で覆っているのと対照的な結果になった。これは先進国の文化では乳房がセックスシンボルに変わったからだという。

もともとルイ王朝時代のフランスでは貴族女性のドレスはトップレスで、女性は乳房を堂々と誇示するものであったそうだ。形のよい乳房をつくるためのブラジャーが登場してから、それは隠すものになり、シンボルとしての価値を高めていった経緯があるなんていう歴史も紹介されている。

男性によって規定されたセックスシンボルだが、とっさに女性が胸を隠すようになったというのは興味深い。論理的に考えているわけじゃなくて、自然にそうした行動に出る。俗に性的本能と思われているものは実はかなり深くまで社会的、文化的な創造物なのだ。そして乳房を隠そうとして、体をくねらせる防衛姿勢もまたセクシーのメッセージとして文法に織り込まれていく。

今読んでも面白い、「らしさ」という社会的衣服の読み方、読まれ方、読ませ方を語る本。つまるところ、いい女って何かという問題には、「口説けば落ちる」と男に思わせること、もっというなら「やらせる女」(ビートたけし)のイメージだと答えられている。美術の歴史を古代まで遡ってみても、それってかなり普遍的な真理のようだ。日本神話のイザナギ、イザナミだって誘う男、誘う女という意味があるわけだから「セクシィ・ギャル」は浮ついた話題なんかじゃなくて、人類の大問題なのであるよ。

・裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1064.html

・セックスと科学のイケない関係
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/05/post-987.html

・性欲の文化史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1020.html

・日本の女が好きである。
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/06/post-1010.html

・ナンパを科学する ヒトのふたつの性戦略
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/04/post-972.html

・ウーマンウォッチング
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-958.html

・愛の空間
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/oso.html

・性の用語集
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004793.html

・みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005182.html

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html

・武士道とエロス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004599.html

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html

・社会的排除―参加の欠如・不確かな帰属
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Diversityという言葉があるが、英語では多くの場合、この単語はDiversity and InclusionまたはInclusivenessというセットで使われる。多様性を実現しただけでは単なるバラバラなのであって、包摂の力があるからこそ組織や社会に活力がうまれる。包摂の逆がこの本のいう排除である。ホームレスやワーキングプア、ネットカフェ難民など、不安定な就労、家族を持たない、住居の形成が不確か、地域を転々とする、といった生活状況で、社会参加や確かな帰属を得ることができないでいる人々がうまれる原因を探る。

「こうした主要な社会関係から特定の人々を閉め出す構造から、現代の社会問題を説明し、これを阻止して、「社会的包摂」を実現しようとする政策の新しい言葉が、『社会的排除』(social exclusion)である。」

著者はホームレスやネットカフェ難民の実態を調査して、現代の社会的排除の構造を明らかにしていく。社会的排除は現象としては、

空間的排除 ホームレスやネットカフェ難民など
福祉制度からの排除 
 
の二つがある。

そしてこれら社会的排除の原因は大きく二つあった。安定した就労や家族を一度は持ちながら、何らかの不幸な原因で社会的に転落していく「引きはがし」組。そもそも最初からメインストリームへの参加ができなかった「中途半端な接合」組。年代的には50代と20代に二つの山があることがわかった。

引きはがしは、失業や倒産、離婚や借金、アル中や交通事故、災害や怪我などが原因だが、メインストリームにきちんと組みこまれている人は、ひとつの原因では転落しない。多くのホームレスは複合的な要因が絡んで、定点を失っている。若年のネットカフェ・ホームレスでは、就労の不安定、実家との関係の悪さ、学校の中退や義務教育止まりが、社会との接合の中途半端さの原因となっていることがわかった。

現代日本の社会的排除はアパルトヘイトのようなわかりやすいものではない。

「では、空間的に表現される社会的排除とは何であろうか。inとoutの空間関係を極端に表現すれば、outとは空間からの追放を意味する。オーバーステイの外国人の本国送還、あるいはホームレスの本籍地送還、さらにはナチズムのような特定民族の抹殺などが例に挙げられよう。だが、社会的排除論のいうoutは必ずしも極端な抹殺や消去だけを意味しない。多くは、主要な社会関係から排除されながら、生身の体はその社会空間から消えてなくなることはできないような矛盾の中にある関係である。この矛盾を解決するのが、同じ社会空間の中に、排除された人々を引受、そこに隠ぺい或いは隔離する特殊空間の存在である。」

特殊空間として、住宅以外の住まい「寮」「ヤド」「シセツ」があったが、最近では24時間営業のファミレスやファストフード、個室ビデオ店、ネットカフェなどの「ミセ」が大きな役割を果たしているという。中心と排除された周縁が同じ社会空間で過ごしている。だから軋轢も生じる。

子供の遊び仲間でも職場関係でもそうだが、一人も排除しない空気が、全体に大きな安心感を生むものだと思う。それは社会という大きな単位でも同じことだろう。どうやら本人のやる気の問題とか、貧しくてそうなったという単純な問題ではない。実態と原因をつかんで、構造的に解決していくことが重要なわけで、こうした社会的排除研究は、格差社会の傾向が強まるこれから一層重要になっていくと思った。

・「空気」と「世間」
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「空気を読め」の空気とは何か。「世間体」が悪いの世間とは何か。演出家 鴻上尚史が阿部謹也の「世間」論と山本七平の「空気」論を融合した。自分に関係のある世界のことを「世間」と呼び、自分に関係のない世界のことを「社会」と呼ぶ。「世間」が流動化してカジュアル化して現れたのが「空気」である、という定義をする。

欧米人は社会に属する人とつきあうことに比較的慣れている。日本人は見ず知らずの人に話しかけることが苦手だ。身内の空気の中に生きていると、冷たい水の社会(山本七平は水=通常性と呼んだ)の論理がわからなくなる。会社や日本を一歩出たら、そこは水の社会が広がっているのに。そこで空気の支配に対応するため「水を差す」役割の重要性が指摘されている。「王様は裸だ!」と指させる子供という、立ち位置が大切なのだ。

現代は地域共同体と会社という二つの世間の安定が壊れた。「世間と神は弱い個人を支える役割を果たしていた」という。だから、よりどころを失った日本人は、なお安心できる何かを求めている。テレビの仕事をしている鴻上尚史は、いまのお笑いブームに「共同体の匂い」への指向を読み取っている。

「お笑い番組が隆盛なのは、「笑って嫌なことを忘れたい」という理由が一番でしょうが、同時に、「他人と同じものを笑うことができる」という「共同体の匂い」に惹かれているからだと思います。 私は孤独じゃない。私たちはバラバラじゃない。なぜなら、同じものを見て、一緒に笑える人たちがいる。同じものを見て、腹から笑える人たちの中に自分がいる。それは「共同体の匂い」です。そして「共同体の匂い」を呼吸することは、人を安心させるのです。」

著者が言うように、インターネットの一番の肯定面は、自分で「共同体」を選べること、複数の共同体にゆるやかに所属すること。そこに著者は可能性を見る。「空気嫁」というジャーゴンがあるように、ネットのコミュニティにも濃密な空気があるが、複数のコミュニティに出入りができるなら縛られないという考え方もできる。

ただ、昔のコミュニティというのはひとつしか属せなかったはずだ。そうした閉鎖的な空気と、ネットのゆるい空気はまた別物かもしれないとも思う。空気というフレーム自体が進化するフェイズを迎えている気もする。いや人間はそう簡単には変わらない?。情報アーキテクチャーと同時に考えるべき重要なテーマだと思う。

空気と世間という伝統的な視点を、同時代の文脈で見事に読み替えていて、大変に面白く読む価値のある本だった。

・「空気」の研究
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1115.html

・表現力のレッスン
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/10/post-855.html
・真実の言葉はいつも短い
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/07/post-787.html

・地域の力―食・農・まちづくり
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全国で市民と自治体が協力して魅力ある発信を行っている地域を、10か所以上も取材して豊かさの新しいモデルを追究したルポ。料理を彩る「つまもの」として、地元に落ちているもみじや南天の葉っぱを売るビジネスが成功した徳島県上勝町。58年ぶりに路面電車を開業させた富山県富山市。都市農業を広める東京都練馬区と神奈川県横浜市。多様な生き方を可能にする、多様な地域のくらしのモデルが示されている。

地元の声をたくさん紹介している。地域の雰囲気と住民が動くモチベーションの本質がみえてくる。いくつかピックアップしてみると、

「お金じゃないんよ。空いた時間に外へ出たいのもあるし、世の中の役に立ちたいのもあるし、みんなで集まりたいのもあるし。」

「人間にとって出番があることが一番大事。人を元気にするには出番と評価ですよ」

「みんな売上高より順位を気にしてますよ。田舎は隣に負けたくないという気持ちが強いけん。」

「とくに、若い女の子にはパワーとエネルギーがあるから、おっさんはすぐ動くんだよ(笑)」

問題意識や大義名分だけではなかなか人は動かないが、身近なところで楽しいということが重要。地域振興の秘訣としてよく語られる「よそ者、若者、バカ者」の活躍がやはり目立つ。

ここにでてくる地域に共通するのは、

1 地域資源に新たな光を当てて、暮らしに根ざす中小規模の仕事と雇用を発生させた
2 共創型のリーダーの存在
3 IターンとUターンが多い
4 メインの仕事で現金収入を得る傍ら地域の仕事をする人が多い

ということだと著者がまとめている。産業振興より住民のくらしの質を高めようという視点で考えると、結果としては経済的にも上向くみたいだ。

そして地域に根差す多様な地域づくりには、その数だけアイデアが必要である。アイデアマンやデザイナーを今本当に必要としているのは、地域なのだなと思った。

・「ふるさと」の発想―地方の力を活かす
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1075.html

・地域情報化 認識と設計
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/05/post-384.html

・「空気」の研究
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日本人に独特の伝統的発想「空気を読む」、「水を差す」とはどういうことか。近代日本社会の情況論理、状況倫理の徹底研究。山本七平、昭和52年初版の名著。負け戦を知りつつ戦艦大和を出撃させた軍部の「空気」は、現代社会、ネット社会でもいまだ根強く残っている。

「われわれの社会は、常に、絶対的命題をもつ社会である。「忠君愛国」から「正直ものがバカを見ない世界であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その"空気"で支配されてきた。そしてそれらの命題たとえば「正義は最後には勝つ」そうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じつづけてきた。そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して相対化している世界というものが理解できない。そしてそういう世界は存在しないと信じ切っていた。だがそういう世界が現実に存在するのである。否、それが日本以外の大部分の世界なのである。」

論理的判断の基準と空気的判断の基準のダブルスタンダードが日本の特徴である。自由な議論の場をつくるためには、必要に応じて話に「水を差す」ということが、実は重要なことなのだ。論理的な議論を重視する西欧社会においては、水こそ通常性なのである。水と空気の比率の違いは、民主主義や多数決原理のあり方にも表れてくる。

「多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人のうちなる対立という「質」を、「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。日本には「多数が正しいとはいえない」などという言葉があるが、この言葉自体が、多数決原理への無知から来たものであろう。正否の明言できること。たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである。」

今の日本で多数決というのは、責任を曖昧にするときにもよく使われる。失敗したときに誰かが責任を負わずにすむ意思決定方法として登場する。いわば全員で決めることで全員が責任を放棄する方法でもあるわけだ。そういう安易な多数決が日本を滅ぼしていくのだと思う。空気と多数決について、著者はこう続ける。

「これは、日本における「会議」なるものの実態を探れば、小むずかしい説明の必要はないであろう。たとえば、ある会議であることが決定される。そして散会する。各人は三々五々、飲み屋などに行く。そこでいまの決定についての「議場の空気」がなくなって、「飲み屋の空気」になった状態での文字通りのフリートーキングがはじまる。そして「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー......」といったことが「飲み会の空気」で言われることになり、そこで出る結論は全く別のものになる。」

そして、日本で多数決をやるなら、会議で多数決をとったあと、同じメンバーで飲み屋で多数決をとって、2回の平均を答えとせよ、と結論している。飲みニケーションを大切にする日本組織的なボスの信頼感というのは、まさにそんな二重多数決を自然にやっていることにあったのだろう。

日本人の血が、程度の差はあれど、多くの読者に共感を生むだろう。面白い。阿部謹也の「世間」論と山本七平の「空気」論は、日本人の場を考える上で双璧をなす2大フレームワークだなあ、とつくづく思うのであった。


・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html
・タテ社会の人間関係 ― 単一社会の理論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005254.html

・人を助けるとはどういうことか 本当の「協力関係」をつくる7つの原則
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面白い本だ。おすすめ。

「相手の役に立つこと」を社会心理学的に探究した「支援学」の大家の本。

著者によれば、助け合いの秘訣とは「社会経済」と「面目保持(フェイスワーク)」を理解することだ。社会において助ける人間は感情的に一段高い場所にいて、助けられる人間は一段低い場所にいる。この不均衡が互いの求めていることを見えなくするのだという。感情の帳尻合わせが良好な支援関係には必要なのだ。

「どんな種類にせよ、関係を築くためには、社会経済や面目保持という文化的なルールに敏感であることが求められる。人はそれぞれの関係から何かを得ており、それが適正だと確信できるように。人生という日々のドラマの中で、人は自分の面目や他人の面目がつぶれないように役を演じている。成長するにつれて、われわれは無数の状況への対処法を学ぶ。どの状況も役者や観客の役割を適切に果たすことを求めている。」

普通、人は困っていても、見知らぬ人に助けてもらうのは不安だ。防衛的になったり、事によっては恥辱を感じて憤慨する。依頼者は本当は助けてもらいたいのではなく、話を聞いてもらって安心したり、注目や評価をしてもらいたいだけかもしれない。あるいは差し伸べられる支援に対して、非現実的あるいはステレオタイプな期待を持っていて、それと違う支援を受けると不満を感じるかもしれない。

「要するに、そもそもどんな支援関係も対等な状態にはない。クライアントは一段低い位置にいるため、力が弱く、支援社は一段高い位置にいるため、強力である。支援のプロセスで物事がうまくいかなくなる原因の大半は、当初から存在するこの不均衡を認めず、対処しないせいだ。支援関係を当然なものと見なさずに、実際に築かなければならない理由は、不均衡なのが明らかなのに、それを正す社会経済が明らかでないからである。」

手を差し伸べることで、支援者の権力が強まり、相手の立場をさらに低いものにしてしまうような支援は有益ではない。不均衡な立場では本当のニーズが打ち明けられず、支援内容が不適切なものになりがちだ。有難迷惑なお節介の発生原因である。

支援者の役割は3つあると著者は話す。

1 情報やサービスを提供する専門家
2 さらに突っ込んだ診断と処方まで行う医師
3 クライアントとの関係を最適化するプロセスコンサルタント

である。そして、3を上手にこなすには、双方の本当のニーズを明らかにするための問いかけが大切だという。純粋な問いかけ、診断的な問いかけ、対決的な問いかけ、プロセス指向型の問いかけの4つがある。これらのツールを使って関係性を壊さずに社会経済をバランスさせることが支援学の秘訣なのだ。

チームでメンバーが互いの顔をつぶさずに、本質を批評しあうには、日本人の飲みニケーションも一考だと、米国MITの先生である著者が、高く評価しているのが興味深い。無礼講的空間が、互いの意見を受け入れやすくする。

「こうしたコミュニケーションを安全に生まれさせるには、「オフライン」として定義される、時間や空間が必要である。それによってグループは、対面という基準を棚上げにし、通常は強迫的と取られかねないことを言える雰囲気を作り出せるようになる。前に例としてあげたが、日本の管理職が上司と酒を飲みながら言いたいことを言うのは、この方法の一つである。」

相互作用のネットワークの中で生きる現代人にとって、支援学は必須のテーマだと思う。学校でもこういう話をどんどん教えたらいいのに。上司と部下、クライアントとコンサルタント、教師と生徒、親と子供、夫と妻など、多様な関係性で支援のケースが提示されていて、幅広い読者の役に立つ名著である。

・人は原子、世界は物理法則で動く―社会物理学で読み解く人間行動
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『歴史の方程式』『複雑な世界、単純な法則』のマークブ・キャナンによる社会物理学論。冒頭で紹介される経済学者トーマス・シェリングによる、二つの人種分離実験は印象的だ。

なぜ大都市では黒人スラム街や白人の高級住宅街のように、人種ごとに居住区が分離してしまうのか。シェリングは第一の実験で、黒人と白人が周囲に他の人種が一人でもいたら引っ越す、という人種差別のルールでシミュレーションを行った。結果は、当然のことながら白と黒のはっきりする分離状態が再現された。

第二の実験では、人々に人種差別意識などなく、異人種と軒を接することに満足する人々を想定した。ただし、自分の家が異人種の家に取り囲まれてしまうような、極端なマイノリティ状態になるときだけ転居するようにルールを設定した。これは人種差別の意識とはいえない、人間の自然な感情である。

ところが誰一人として差別意識を持たない第二の実験でも、人々はきれいに分離してしまった。融合に満足する個人の集団でも、罪のない小さな選好があることが原因で、人々は物理法則に従う水と油のように分離を進めてしまう。

人間の複雑な心がわからなくても、集団としての振る舞いは物理学と同じアプローチで解明することが可能なはずだ、というのが社会物理学の考え方だ。個人が何を考えていようと、全体として現れるパターンに法則性を見出そうとする。

「一人一人は完全に自由な個人でも、個人の行動が組み合わさると、集団としては予測可能な結果がもたらされる。これが物理学で見られる現象にそっくりなのは、物理学では、原子レベルの混沌とした状態が熱力学や惑星運動の時計仕掛けのような精確さに取って代わられるからである。」

「人間をかなり単純な諸規則に従う原子や分子のようなものと見なし、それらの規則がもたらすパターンを突き止める努力をすべきなのだ。」というシェリングの考え方で、社会的な人間をシンプルな原子モデルに置き換える。直感に頼った思考、他者との関わりにおける学習と適応、人の模倣をしたがる心理、仲間との協調という、ふるまい属性をもった人間が相互作用すると、人間社会に実際によく見られるパターンが生み出される。現代のコンピュータを使って大規模に解析すれば、社会の法則を見出すことができるというのが著者の主張だ。

自己組織化、べき乗則、利己主義・利他主義、人間の合理性、社会的本能など、社会科学を自然科学に近づけるアプローチ。近年の行動経済学とも関係が深い内容。ゲーム理論やカオス理論を超えるものになるのだろうか。

歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000778.html

・「ふるさと」の発想―地方の力を活かす
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著者は福井県知事で"ふるさと納税"発案者の西川一誠氏。現役の自治体トップの視点に加えて、歴史的経緯や世界状況のデータを前提として、都市との関係を整理し、説得力のある地域再生論になっている。なぜ地方がそこに住む者にとっても、都市住民にとっても重要なのか、がよくわかった。

著者は「地方は都市に依存している」「都市が地方を養っている」という見方が誤りであることを簡潔に説明した。

地方は、都市に水、電気(原発は地方にある)を供給している。米も地方で生産される。そして何より人材を育てて都市に送り込む。人材って何の話かというと、つまり、

「人口82万人の福井県では、毎年約3000人の若者が進学や就職などにより県外に出て行く。そのうち戻ってきてくれるのは約1000人。毎年約2000人が減っていく計算である。福井県で成長する若者が出生から高校卒業までに受ける行政サービスの総額は、一人当たり約1800万円である。ざっと計算して数百億円規模の公的な支出が、大都市へ流出しているのと同じことになる。ライフサイクル・バランスを正そうとする考え方は「ふるさと納税」が構想された際の、基本になっている。」

都市は地方の資源を消費して成長している。歴史的に見ると明治初期の国税収入の3分の2は地租(最大の納税地域は新潟県と北陸地方)であったそうだ。人口も全国に遍在していた。現在の都市の繁栄は地方で産み出された富と人材を都市部に集中投資した結果だったのだ。

「人材こそ、都市の市場がさまざまな付加価値、利潤を生み出している経済的な源である。日本のように、優れた人材を地方から都市に供給するシステムは、人口の単純な移動と見るべきではない。なるほど都市は若い人材にとって活躍できるチャンスを与えてくれる場ではあるが、経済的には、都市と地方の間のアンバランスな所得が生まれる隠れた要因にもなっているのだ。 多くの国では人口の都市流入は年川のコスト要因になっているが、日本は必ずしもそうではない。もはや都市にとっても利益の源泉を失うことになる。」

地方の優秀な付加価値の人材というのは、私は早稲田大学時代に体感した思いがある。都市部で育ったスマートでハイセンスな学生に対して、多様で独特の粘り強さや無骨さを持つ地方出身の学生。両者が混在して刺激しあうことで、日本の次世代リーダーが育っていくのだと思う。地方出身がいなくなったら、都市の大学も視野の狭い人材しか作れないだろう。

そして、地方が持つ自然環境、伝統産業、農業、文化など、人間らしい暮らしに必要な人間的資源は、経済合理性の追求では得られないものである。都市で育っても、結婚して子供ができると郊外や地方に住む人が多いのは、経済的理由だけでもないだろう。のんびりした雰囲気や子育てのできる社会的インフラを求めての移動でもあるはず。

知事は自由な個人が作り上げる「新しいふるさと」をつくろうと提唱する。自分が望む自治体に寄付をすると今住んでいる住所の税金が翌年その分安くなる「ふるさと納税」はその制度化の第一歩だとする。

「人びとが、共感と信頼によってつながり、共に行動、活動する新しいコミュニティ」「つながりの共動社会」。豊かなソーシャルキャピタルに支えられた地域コミュニティの具体例や予兆が本書にはいくつも紹介されている。

都市と地方の情報発信量の格差の指摘もあった。東京が全体の23%でトップ、下位33件を合計しても10%に満たない。あらゆる情報に「東京バイアス」が潜んで、世論が偏って形成されてしまう現状がある。「ふるさとからの発信」という一章では、地域の外とのつながりに焦点を当てたケーススタディがある。

人間関係が豊かな地方の再生は、個人の自由と対立するものではないという意見も深く納得だった。こんな一節、

「しかし、自由と共同性は本当に対立するものなのだろうか。自由の尊重は、立場の異なる人びとや弱者などに対する共通意識が根底になくてはならない。相手に対する最小限の関心や好意、言い換えると「思いやり」の存在は、互いの自由が守られる基本である。」
都市部では安心安全のために不自由を迫られたり、高いコストを払わされたりする。人の流動性が高い都市ではソーシャルキャピタルの形成には限界がある。「新しいふるさと」のビジョンは、まだまだ精緻化が必要そうだが、都市・地方の両者にとって理想的な方向性を提示しているように思った。

・地域情報化 認識と設計
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/05/post-384.html

・アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
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技術と社会が密接に連動するかたちで変容していくプロセスを「アーキテクチャ」を軸に展望した新人気鋭の社会学者 濱野氏の本。先端的な内容でありながら、キーワードと先行研究を紐づけて整理しており、中身が濃い。

かつて法学者ローレンス・レッシグは現代社会を規定しているのは「法律」「規範」「市場」と「アーキテクチャ」の4つだと言った。著者はこの「アーキテクチャ」を環境管理型権力としてとらえて、その特徴を、

1 任意の行為の可能性を「物理的」に封じてしまうため、ルールや価値観を被規制者の側に内面化させるプロセスを必要としない。

2 その規制(者)の存在を気づかせることなく、被規制者が「無意識」のうちに規制を働きかけることが可能。

と要約している。

とりわけ設計自由度が高いだけに、規制されている側が気がつかず、密かにコントロールされてしまうのが、情報システムのアーキテクチャの凄さであり怖さである。著者は、アーキテクチャの例として、ミクシィの足あとや携帯電話カメラのシャッター音を挙げている。足あとやシャッター音は、ユーザーの行動を無意識のうちに活性化させたり、抑制したりしながら、全体を設計者の求める方向へ収束させる。

日本のネットコミュニティが生み出した独特のアーキテクチャとして、ニコニコ動画のコミュニケーションが詳しく取り上げられている。それまでのリアルタイムコミュニケーションは、盛り上がりの後から来た参加者は楽しむことが出来なかった。ニコニコ動画では擬似的なリアルタイムを演出することで、祭りを持続させることができた。

「つまり「真性同期型アーキテクチャ」が<後の祭り>を不可避的に生み出してしまうシステムだとすれば「疑似同期型アーキテクチャ」は、いうなれば<いつでも祭り中>の状態を作り出すことで、「閑散化問題」を回避するシステムである、ということができるのです。」

コミュニティの内部では普遍的で客観的であるかのように成立している基準が、外側からは解読不可能であるという「限定客観性」の問題を取り上げている部分も興味深い。内輪の線引きのやり方にネットコミュニティの本質があると指摘する。

「情報社会とは、こうした「限定客観性」の有効範囲を、ほかならぬアーキテクチャ(情報環境)によって画定する社会のこと」

"声がどこまで聞こえるか"はシステムによって任意に距離に設定可能なのが情報システムなのである。もちろん、情報の使い手側もさまざまなツールや利用知識でそれらに抗うこともできるのだろうが、マジョリティはシステムの作り出す空間に慣れてしまう。経済もまたアーキテクチャに作られていく。

「もはやあらゆる作品やコンテンツは、書籍などの「コンテナー」にパッケージングされていた「内容」それ自体が消費されるというよりも、人々の「コミュニケーション」(繋がり)を効率的に喚起するかどうか、という点において消費されている」

アーキテクチャを通じた「繋がりの社会性」を、いま起きているネットコミュニティの動向をケースに、内外の社会科学者の仮説・理論とつなげながら読み解こうとする意欲的な内容で大変面白かった。

・絶対貧困 世界最貧民の目線
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「物乞う仏陀」に続いて読んだこれも当たりですっかり石井光太ドキュメンタリのファンになってしまった。

世界の5人に1人は1日1ドル以下で暮らしている。物乞い、物売り、ストリートチルドレン、売春婦...路上やスラムに暮らす世界最貧民の実情を生々しくレポートする。その貧困の悲惨さを強調するのではなく、彼らがどんな生活をして、日々何を考えているのか、を潜入取材による同じレベルの目線で明らかにしていく。

・男女はどんな恋愛をしているか
・どんなセックスをしているか
・出産や葬儀はどうしているか
・トイレはどのようになっているか
・路上でどのように、いくらくらい稼ぎ、そして巻き上げられているか
・貧困女性が多く従事する性産業の実態

など。大きくスラム編、路上生活編、売春編の3章構成。知らないことの連続。

「しかし、スラムだって路上だって、売春宿だって、そこで生きているのは、私たちと同じ人間なのです。恋もすれば、嫉妬もするし、自慰だって不倫だってするわけで、かならずしも涙に暮れた純粋無垢な被害者しかいないわけではないのです。」

マクロばかりみて理解したつもりでも、貧困層の人生を内側からの目線でも考えなければ、貧困問題の真の問題解決にならないということがよくわかる。いや外側、内側と言うより上半身でも下半身でも、といったほうが正しそうだ。ここに赤裸々に綴られた下半身の事情が、失業率や犯罪発生率の数字よりも、読む物の心に迫ってくるものがある。

「今後、世界のグローバル化はますます加速していくはずです。その時に大切なのは、海外での出来事を自分たちのこととして考えることです。「遠い国の出来事」として見て見ぬふりをするのではなく、我が身に降りかかってくる問題として受け止め、行動をしていくことです。」

まさに実践者である。シモネタ事情を中心に語っていても、著者の貧困層を見る目が温かいから下品には落ちない。ツカミの効いた読み物として読ませ、後からじっくりと考えさせる。素晴らしいノンフィクション。

・物乞う仏陀
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/post-935.html

・石井光太オフィシャルサイト
http://www.kotaism.com/

・現代の若者
http://kotaism.livedoor.biz/

・最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/08/10-10.html

・日本の女が好きである。
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『美人論』の井上章一による美人とそうでない人の研究。

著者は、外国人に日本の政治や社会を批判されても反感がおこらないが、日本の女はぶさいくだと言われれば立腹してしまう自分に気がついたという。「日本の政治や社会は、すこし愛していない。ああ、おれが心から愛しているのは、日本の女だったのか」。美人をめぐる社会学の論考集である。

著者は相変わらず美人の変遷を追いかけている。ここでは古墳時代から中世まで遡って考えたとき「高松塚美人も樹下美人も、みな下ぶくれにえがかれている。源氏物語絵巻も、その点はかわらない。みな、おむすび顔になっている。だが、どうだろう。あんな顔面をもった人間は、ほんとうにいたのだろうか。」と問題提起する。

そして絵画類から美人史を復元する試みは、「セーラームーン」の絵を見て20世紀には顔の二割を占めるような大きい目が美人の条件だったとするのと同じだと指摘している。写実的でない絵画からは、こういう図柄が美人を表すという約束が読み取れるに過ぎない。下ぶくれ美人なんていなかったかもしれないのである。青銅器は出来たばかりは黄金に輝いていたという事実を知ったのと似た驚きがあった。

時代は降って容貌の美醜による行動の違いを分析するというのは、現代ではタブーである。美人群とブス群とで同じ実験をやって結果を比べるなんてわけにはいかない。ところが、戦前であれば結構ありだったらしく、著者は興味深い研究記録を過去から発掘してくる。

たとえばある研究では女性の囚人260人を美しさで5段階に分類した。姦通罪をおかした女性を調べると平均以下の不美人に集中していたという。不倫をするのは不美人が多いのはなぜか。それは美人妻は浮気をしても夫から訴えられない傾向があるからだなどという凄い結論が出ていたりする。

女学校の卒業生の追跡調査も生々しい。こちらでも女学生の美醜を複数の人間が見て5段階にレイティングした後、10年後の結婚状況を調べた。すると最も美人と最も不美人の層が結婚できていたのである。

「容貌5段階の最上五点のものと最下点一点のものとは全部結婚して結婚率100%である。然るに中間の四点及び三点のところでは結婚率50%......二点のところでは僅かに20%。」という結果になった。これは美人は早く結婚できて当然だが、最も不美人な層は容貌に自惚れがなく結婚申し込みがあれば喜んで応じたためだろうと解釈されている。

客観的な意味で美人、不美人は多数の評価を平均すれば厳然とあるものだろうし、その条件が女性の個人の人生に極めて大きな影響を及ぼすことも事実だろう。タブーにしないで、もっと研究する価値のあるテーマであるように思える。

このほか美人を巡るテーマは多彩。雑誌連載ベースのソフトな読み物。

・愛の空間
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/oso.html

・性の用語集
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/11/post-482.html

・刺青とヌードの美術史―江戸から近代へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/07/post-807.html

・ナンパを科学する ヒトのふたつの性戦略
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/04/post-972.html

・ウーマンウォッチング
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-958.html

・「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき
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集合知の現象をモデル化して、なぜ多様な意見が正解をみつける鍵になるのかを解明しようとする意欲的な研究書。群衆の叡智、集合知という言葉は流行しているが、その原理に踏み込んだ研究本はまだ少ない。「多様性が一様性に勝る」。「多様性が能力に勝る」。その理由を解明していく。

著者はまず集合知を4つのツール要素に分解する。

多様な観点:状況や問題を表現する方法
多様な解釈:観点を分類したり分割したりする方法
多様なヒューリスティック:問題に対する解を生み出す方法
多様な予測モデル:原因と結果を推測する方法

集合知を4つの組み合わせによる「ツールボックス」として考える。このツールボックスの中身が集団の知能を意味する。衆愚と集合知の違いを、それぞれのツールの数学的モデルも使って説明していく。

もちろん群衆の叡智や多数決が万能という意味ではない。むしろ限定的である。著者は集合知の働く条件を以下のように結論している。

1 問題が難しいものでなければならない
2 ソルバーたちが持つ観点やヒューリスティックが多様でなければならない
3 ソルバーの集団は大きな集合の中から選び出さなければならない
4 ソルバーの集団は小さすぎてはならない

条件1から4が満たされれば、ランダムに選ばれたソルバーの集団は個人で最高のソルバーからなる集団より良い出来を示す。専門の科学者達が解けないでいる問題を、多様なツールボックスを持つ非専門家集団が解いてしまうことがありえる、ということになる。

観点の多様性は特に重要そうだ。本書で取り上げられる法則の一つに「ある問題を解くのがどれほど難しいかは、その問題を符号化するのに使う観点に左右される。」という難しさの主観性の法則がある。複雑に考えすぎていた物事が、異なる観点から眺めると簡単な問題であったときづくことがあるという意味だ。

エリート専門家集団は似たもの同士であるが故に、画一的なツールボックスしかもっていない。構成員が固定観念を避けアイデンティティの多様化を心掛けることで、集合的な知性を飛躍的に高めることができるそうだ。

この研究書は、集合知について分析対象を広げすぎている気もするが(数学などを持ち込んでいる割に結論がぼけた)、糸口となるキーワードや観点がたくさん見つかる。「「みんなの意見」は案外正しい」の先をじっくり自分で考えてみたい人の良い材料になると思う。

・「みんなの意見」は案外正しい
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/05/post-381.html