Books-Sociologyの最近のブログ記事

・「世間体」の構造 社会心理史への試み
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社会心理学者井上忠司による1977年出版の古い本。阿部謹也らが「世間」論の火をつけたのは90年代だから、かなり先駆けて日本人特有の行動原理を論じていたことになる。「世間」論は2000年代に入って「空気」論と一緒になって再燃している。狭い国土と民族の同質性の高さがある限り、日本人は世間というものをずっと気にしていかざるをえないのかもしれない。

世間体とは「世間」に対する「対面・体裁」のこと。世間は極端を嫌う。なにごとも世間一般の例を基準にして「世間なみ」にしていれば、はずかしい思いをしなくてすむ。やりすぎると「世間ばなれ」「世間知らず」の変わり者扱いされる。

「この「世間なみ」に生きようとがんばるエネルギーが、わが国の近代化のひとつの精神的な原動力となってきたといっても、けっして過言ではあるまい。その反面、異端のもつ大胆なエネルギーが発揮されることは、きわめてまれであった。」

世間体とは恥の文化であり、人々は子供のころから、世間の人々に笑われないようにする「笑いの教育」を教え込まれる。世間に準拠してはずかしくない行動とは何かをすりこまれる。西欧では神の目が人々の行動を律した。神の意にはずれることは「罪」意識につながった。日本では世間の目と恥が人々の行動を律してきたという。

「いうまでもなく、西欧の人間観は、個人の<自律性>ないしは<自立性>に、たかい価値がおかれてきた。自己を内がわから律することができる<自律的人間>に、たかい価値がおかれているのである。それにたいして、他者の思惑によって自己の行動を律するような<他律的人間>の価値は、たいそうひくいものとみなされている。かれらのあいだでは、「罪の文化」よりも、「恥の文化」が劣るとされている理由である。」

日本人は、他者から見てほしい自己像と実際にに見られている(と感じている)自己像とが、たえずくいちがいやすい社会構造の基盤のうえに生きていると著者は指摘している。社会全体のモラルの高さと個人の自由な生き方は、トレードオフにならざるをえないということか。

「世間体」をおもんぱかって生きてきた人々の、<生活の知恵>からうまれた「笑いの教育」が、主体性の欠如という観点からのみとらえられるとすれば、その考察は、あまりに一面的にすぎるものといわなければならない。「世間教育」と同様に、ただ封建的なものとして一掃してしまってはならないなにものかが、この「笑いの教育」にはひそんでいるのである」

世間を(70年代においてですが)再評価する本だった。それから30年たったけど、かわらない部分もある。

・「空気」と「世間」
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1117.html

・「空気」の研究
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1115.html

・タテ社会の人間関係 ― 単一社会の理論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-702.html

・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/08/post-131.html

・社会とは何か―システムからプロセスへ
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いま改めて「社会」とは何かを考える。

「社会の語が歴史のなかでどのようにして作られ、どのような課題に応えるものとして練り上げられてきたのか。その過程をたどりながら、社会の概念を鍛えなおすことが、本書のねらいであり、執筆の動機である。」

まずこの本は、戦争と革命の17世紀をこえて今につながる「社会」の概念を発明したホッブズ、スピノザ、ルソーらの古典的な社会の概念とはどんなものであったかを振り返る。社会契約論、一般意思と全体意思、ゲゼルシャフトとゲマインシャフト、死の権力と生の権力など初期の社会思想家たちの代表的な議論の変遷が説明されている。社会について基礎知識をおさらいした後で、社会科学と社会主義が語られる。前半は大学の社会学の授業みたいだ。わかりやすい。

そして、メインテーマは多様性の時代の社会論である。多様な文化、価値観を内包する社会では、これまで社会を存立させてきた約束事が成り立たなくなる。ルソーは全成員の意思の一致が可能としたが、現代では明白に不可能である。著者は、異質のせめぎあいによって進化していくプロセス、"複数性の社会"を見ていくべきだという。

「もし社会が、その内部に齟齬をかかえない等質的なシステムであったとすれば、それはやがて硬直化した制度と化し、内的なエネルギーを失っていくであろう。むしろ社会は多様性からなるプロセスなのであり、そこに生まれる軋轢や葛藤を共同で、あるいは個人的に解決しようと努力するからこそ、社会は尽きることのない活力を得ているのではないか。」

近年の"コミュニティ"という言葉の意味内容が拡散しすぎていて問題だと指摘している個所があった。なんでもかんでも"コミュニティ"のおかげにする風潮は、インターネットをめぐるネット上の言説でもしばしばそうである。社会、コミュニティ、共同体、公共圏などの一般化した言葉の本来の意味を再認識させられる有意義な本だった。

・キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像
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著者によると、子供たちが恐れているのは、経済的な格差ではなくて、人間関係の格差だという。そして格差をつけない「優しい関係」を維持するために"キャラ"がある。ボケとツッコミのような役割をバーチャルに身にまとうことで、自分を守り、人間関係を安定させるのだ。

「若い人たちは、グループのなかで互いのキャラが似通ったものになって重なり合うことを、「キャラがかぶる」と称して慎重に避けようとします。それは、グループ内での自分の居場所を危険にさらすからです。しかし、グループ内に配分されたキャラからはみ出すことも、また同時に避けようとします。それもグループ内での自分の居場所を危険にさらすからです。一般に、芸人の世界はボケとツッコミの相補関係で成り立っていますが、彼らもまた、ボケ役とツッコミ役のように互いに補完しあうキャラを演じることで、人間関係の維持を図ろうとしているのです。」

自分の居場所を、世界を放浪して見つけようとした旧世代に対して、今の子供たちは居場所を人間関係の中にみつけようとしている。世界がネットワークでつながってしまって、結局、どこにいようと同じになったということとも関係があるかもしれない。かつては、インドに行って悟ることも価値があったが、今は携帯やメールがあって、煩悩も人間関係も世界中を追いかけてくる。

結婚や就職が困難になったということは、社会的に認められた役割の仮面をかぶることが難しくなったということでもあるだろう。旧世代だって仮面を被って安心していた部分はある。著者はここで内キャラと外キャラという区別を与えている。

「こうしてみると、人間関係における外キャラの呈示は、それぞれの価値観を根底から異にしてしまった人間どうしが、予想もつかないほど多様に変化し続ける対人環境のなかで、しかし互いの関係をけっして決裂させることなく、コミュニケーションを成立させていくための技法の一つといえるのではないでしょうか。深部まで互いに分かりあって等しい地平に立つことを目指すのではなく、むしろ互いの違いを的確に伝えあってうまく共生することを目指す技法のひとつといえるのではないでしょうか。彼らは、複雑化した人間関係の破綻を回避し、そこに明瞭性と安定性を与えるために、相互に協力しあってキャラを演じあっているのです。複雑さを縮減することで、人間関係の見通しをよくしようとしているのです。」

現代では対抗文化の消滅によって、それを共有して強いつながりを意識することができなくなったというの指摘もあった。ヒッピー文化にせよ、不良文化にせよ、エスタブリッシュメントに対する対抗という姿勢が、現代のフラットな若者文化には希薄である。かつてのボブ・ディランや尾崎豊みたいなわかりやすい存在が音楽シーンに見当たらない。仮面、キャラもまたロングテール化してしまったのが、現代なのだなあ。

・影響力 その効果と威力
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人間関係における影響力とは何かを社会心理学的に総括する新書。よくまとまっている。とても勉強になる。そして面白い。

まず10の影響力が分類されて個別に説明されている。

1 賞影響力 賞のコントロール
2 罰影響力 罰のコントロール
3 専門影響力 専門的知識
4 正当影響力 高地位、資格
5 参照影響力 理想像
6 魅力影響力 魅力性
7 情報影響力 説得力ある情報の提示
8 対人関係影響力 コネクション
9 共感喚起影響力 苦境の提示
10 役割関係影響力 役割に基づいた要求

基本は賞罰であり、その上に3~6の影響力が形成される。7~10は影響する人がリソースを持たない場合の影響力という分類になっている。

身近なところではたらく影響力の中身も解説が多くある。

たとえば、ある人を好意的に思うようにさせる要因

(a)近接性「近くにいる人、好きになる」
(b)容貌「見た目を整え、好印象」
(c)類似性「似ている人に惹かれてる」
(d)返報性「好意を示して、いい関係」

の4つがあるという話。結局のところ、単純接触の効果も高いので、名前を連呼する政治家の活動も、個人的にはうざいなあと思うわけだが、大局的には功を奏するやり方みたいである。

集団になると極端な意見になる集団極性化現象。偶然聞いた話は信憑性が高い「漏れ聞き効果」の検証。長い話をする場合は最初と最後が強く印象に残るという初頭効果と新近効果。集団内の影響力のメカニズムがたくさん紹介されている。

少人数のときにはみんながちゃんと働くのに、大勢になると手を抜く人が現れる「社会的手抜き」の研究が特に興味深かった。組織の力が人数に比例しないのはなぜかということがよくわかる。

社会的手抜きが起きる条件は

・行為者にとって課題がつまらなく、重要でない。
・課題が簡単である(多くの努力や技術が必要とされない)
・各行為者がまったく同じ課題を行う
・一緒に課題を行う他者が見知らぬ人である
・自分以外の他者の作業能力が高いと期待される
・男性である
・西洋文化圏である

ということが研究の結果分かってきている。日本人は比較的手抜きをしないらしいのだが、うなずくところが多い。そうだよなあ。男ばかりのときには手抜きが起きる、よね。数の力で勝負したい場合は女性だらけのチームを作るのがいいのかもしれないなあ。

・孤独の科学---人はなぜ寂しくなるのか
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人間の社会的つながりと孤独感に関する、社会学、心理学、医学、脳科学、経済学などのアプローチによる多面的な研究。

「1985年、アメリカ人の代表的サンプルに「心を許せる親友は何人いますか」と尋ねたとき、いちばん多い答えは3人だった。2004年、再び同じ質問をしたとき、いちばん多い答え(全回答の25%)は、ゼロだった。21世紀のアメリカ人の4人に1人が、何でも包み隠さず話せる相手は一人もいないと答えたのだ。」

21世紀に増大する孤独感は、あらゆる不幸の源になるという事実を、多くの研究結果が示している。孤独感を感じている人は、病気になりやすい。集中力や判断力が損なわれる。老いが早まる。社会的な成功と遠ざかる。鬱になりやすい。悪影響のリストは何十も続く。

他人から拒絶された時の脳の反応は、身体的な痛みを感じた時の脳の反応と部位を共有しており、脳にとって寂しさは痛みなのだそうだ。人間のような社会的動物は、社会的つながりを失うと生存が脅かされる。だから、孤独感を感じる能力は、遺伝子に織り込まれいる。

社会的つながりには、個人的なつながり(近しい人間に支持される)、関係的なつながり(より広い範囲で友人や親族と親交を持つ)、集団的なつながり(特定の集団への帰属意識を持つ)の3つの側面があるとされる。3つは密接に関係していて、どれを欠いても問題が生じる。

そして実際に孤立しているかどうかよりも、その人が孤独を感じるかどうかの方が本質的な問題だと著者はいう。結婚していようが、ファンに囲まれていようが、主観的に孤独をストレスと感じてしまうならば、悪い影響が出る。孤独の感受性は遺伝するということもわかっている。

研究によると孤独感は人間の幸福度にも社会的成功にも多大な影響を及ぼす。

「私たちの行った縦断分析によれば、孤独感の低さと収入の増加はどちらも幸福感の増大と関連があるものの、収入の増加は幸福感の増大には貢献せず、孤独感を減らすこともない。じつは、両者の関係は逆なのだ。幸福感の増大は、社会的なつながりに対するポジティブな効果を通して、収入の増加に貢献する。幸せな人は孤独感が減り、孤独感が低い人はより多くのお金を稼ぐ傾向にある。」

統計的にみると、孤独な人は収入が低く不幸になり、孤独でない人は収入が高く幸福になるのだ。

社会的つながりにおいて、ポジティブな面を評価することが、大切だということが、研究によって示されている。たとえばパートナーが昇進したときに共にに喜びあうことは、パートナーが昇進しそこなったときに気遣うよりも重要であり、夫婦が前途は愉快で楽しいという見通しを持つことが、苦しい時に慰めあうより重要になるという。

日常的に幸運や達成をお祝いする習慣は、幸福な人生の秘訣ということか。

・強い者は生き残れない 環境から考える新しい進化論
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強い者は最後まで生き残れない。他人と共生、協力できる者こそ生き残る。

近代ゲーム理論の大きな2つの成果であるナッシュ均衡と、ジョン・メイナード・スミスらの進化的安定戦略(ESS)。従来理論によれば、人間の利他的な協力行動は、いくつかの場面で生存に少し有利に働くもの、というレベルで理解されてきた。大部分は、利己的に自己の取り分の最大化を図る個体のゲームとして説明されてきた。

しかし、人類文明は、大々的な協力行動の成果であるように思われる。協力は社会の規範ともなっている。現代のゲーム理論には何らかの欠陥があるのではないか?と進化生物学者で「素数ゼミの謎」の著者はにらんだ。

「ゲーム理論の最大の落とし穴は、何よりもその目的がプレイヤーの最大利益を求めることにあるという点に尽きる。人間が社会を作ったそもそもの動機は「存続のための協力」だったが、そんなことはすっかり忘れ去られてしまったかのようだ。」

余裕のある時は利己的ゲームもよいが、結局は環境そのものや所属集団自体が亡びてしまったら元も子もない。厳しい環境変化のもとで生きる生物は、互いの協力によって、環境からの独立を果たし、共生関係によって生き延びてきたのだという。

血縁選択と包括適応度、履歴効果、遺伝子の進化と表現系の進化、予測と対応、リスクに対する戦略、環境改変などさまざまな生物の進化戦略が紹介されている。生物進化にとっては共生関係こそ基本であり、最適が最善ではない、最強が生き残るわけではないというロジックが繰り返し展開されていく。そして最後は人間社会の話になる。

「人間社会は環境の不確定性に備えるための「協力」から始まった。それが民主主義のスタートラインのはずだった。ところが、その民主主義との両輪であるはずの自由主義が高度に発達するにつれて、様相が変わってきた。「個人の利益を最大限に追求する」ために、経済活動においてはゲーム理論の「ナッシュ解」が成立してしまっているのである。」
確かに、私たちは自然環境から独立して生きている。社会規範こそ人間にとってのゲームのルールであり、もはやむきだしの強さ=現実の強さではない。思えば弱肉強食のような戦国時代にだって、天皇を担いだり、忠義を大切にしたり、敵に塩を送ったりと、不合理なことをやってきたのが人間の歴史だった。私たちはゲームをやっているのではなくて、個や集団の視点から見えるドラマを生きているのが本当なのではないかというのが、この本を読んでの私の感想。

・友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル
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現在の若者心理の研究。いじめ、ケータイコミュニケーション、ネット自殺などを軸に、いま10代、20代くらいの若者たちのコミュニケーション動態と深層心理を探る。

近年の調査では思春期に反抗期がなかった若者が増えているそうだ。

かつて尾崎豊の「十五の夜」の歌詞にあったような社会に対する反抗心と、現代のアンジェラ・アキが歌う「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」の未来の自分に対するメッセージを比べると歴然としているが、現在の若者世代は他者との対立の回避を最優先にする「優しい関係」の世代だ。

だが、この優しい関係は決して個々の心にとって優しくはない。「教室は たとえて言えば 地雷原」という川柳があるそうだが、見かけ上の「優しい関係」を営む場に絶対権が与えられ、息苦しさを感じている若者が多いという。

「「優しい関係」とは、対立の回避を最優先にする関係だから、互いの葛藤から生まれる違和感や、思惑のずれから生まれた怒りの感情を、関係の中でストレートに表出することはままならない。むしろそれらを抑圧することこそが、「優しい関係」に課せられた最大の鉄則である。したがって、その違和感や怒りの感情エネルギーは、小刻みに放出されることによる解消の機会を失い、各自の内部に溜め込まれていくことになる。」

著者は現代型のいじめもそこから生まれると分析する。被害者に仲間とのまなざしを集中させることで、互いの対立点を見ないで済むことができる。

「相手の事情を詮索して踏み込んだりしない、あるいは自分の断定を一方的に相手に押しつけたりしない。そういった距離感を保つ「相手に優しい関係」とは、ひるがえってみれば、自分の立場を傷つけかねない危険性を少しでも回避し、自分の責任をできるだけ問われないようにする「自分に優しい関係」でもある。だから、意図せずしてこの「優しい関係」の規範に抵触してしまった者には激しい反発が加えられる。いじめの大賞もそのなかから選ばれるのである。」

本書では「二十歳の原点」(1969年)の高野悦子と、「卒業式まで死にません」(1999年)の南条あやという二つの世代の自殺した若者の日記作品が比較分析される。この30年で若者の思想は大きく変わった。

高野の世代では未来の希望は自分が今後いかに変わっていくかにかかっている。一方で南条の世代では、自分がいかに変わらないでいられるかにかかっている。自分の存在の根拠を主体制の獲得に見出すか、生来的な身体性に見出すか、実に対照的な二つの価値観がある。

コミュニケーション面では、ケータイまわりがじっくり考察されている。メールの即レスを意識する若者たちはメッセージ内容の「意味伝達指向」ではなくつながること自体を目指す「接続指向」で生きている。ケータイではいつも会っている友達と頻繁に短いメールをする。インターネットは世界に開かれているが、使い道はやはり仲間内の優しい関係づくりなのである。

つながっていることを確認すること、複数の他者のメッセージを三角測量しで仲間内での自分の位置を割り出すこと、それがケータイの利用目的となる。自己の脆弱な存在基盤をふれあいGPSがおぎない続ける。

この本を読んでわかったのは、それぞれの世代に生きづらさがあって、それと向かい合う困難があって、その戦いには強い人と弱い人がいて、という構図が時代を超えて普遍であるということだ。世代間に優劣はつけられないし、「優しい関係」や「空気を読む」こと自体が良いこととも悪いこともいえない。ただそういうものだということを認めて、両世代がつきあうことが何よりも大切なのだろう。

・ソーシャルブレインズ入門――<社会脳>って何だろう
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「たくさんの脳が集まっているというのは、そのシーンを想像すると何となくグロテスクです。しかし、わたしたちは誰でも一つずつ脳を持っていますから、もし脳がどこにあるかという空間分布だけを図にしてみるなら、東京都だけで、およそ1300万個の脳が東京都内を行ったり来たりしていることになります。さらに、もしみなさんが、いまこの瞬間、通勤電車の中ですし詰めになっているなら、手の届く範囲に少なくとも10個以上の脳がプカプカ存在していることになります。」

ソーシャルブレインズ(社会脳)とは社会に組み込まれた状態の脳の研究である。人間が一番頭を使うのは、従来の脳科学が研究しているような単純な対象の認知ではなくて、空気を読むとか、協調する、対立するという社会関係における認知だ。ソーシャルブレインズこそ脳の本質的なはたらきであるともいえる。

認知コストの押しつけあいのしくみが社会的駆け引きの原理であるという著者の見方が面白い。何かを考える、行動規範を変えるというのは、脳に負担がかかる。だから、上司や強者は、部下や弱者に問題解決の認知コストを払わせる。人間にはもともと自分の認知コストをできるだけ少なくすまそうとする圧力があるようだ。

敷衍すると認知コストが低い状態が幸福という見方ができる。

社会ルールは社会全体の認知コストを減らす。その問題についていちいち考えなくてよくなるからだ。「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件な存在肯定」=リスペクトも、相互の信頼によって認知コストを減らす効果を持つと著者は考える。リスペクトを持ってくれている相手は、自分の利益を気にかけてくれているので、考えるべき変数が少なくなるからだ。

ソーシャルブレインズとは、「母子間コミュニケーションをコアとし、発達の過程でそれを拡張した機能」ではないかと本書は主張する。認知コストがほぼゼロだった赤ん坊時代から、少しずつリスペクトを前提としない相手への対応を学んでいく。社会脳の振る舞いというのはその人の生き方といってもいいのかもしれない。

社会学と脳科学の融合領域に何かありそうだと教えてくれる新書。

・人間集団における人望の研究―二人以上の部下を持つ人のために
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俗に「人望がある」とか「人徳がある」というが、俗にではなくて厳密にそれってどういうことなのか、明解な答えを学べる本。「空気の研究」山本七平による昭和に書かれた名著。

その答えとはすなわち次の「九徳」を備えているタイプだという。

寛にして栗 寛大だが、締まりがある
柔にして立 柔和だが、事が処理できる
愿にして恭 まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない
乱にして敬 事を収める能力があるが慎み深い
擾にして毅 おとなしいが内が強い
直にして温 正直、率直だが温和
簡にして廉 大まかだが、しっかりしている
剛にして塞 剛健だが内も充実
彊にして義 強勇だが義しい

9つの徳は朱子学の入門書『近思録』よりきている(この本は戦前は広く読まれたものであったらしい。)。これらの徳にすべて欠ける(寛大でなくて、締りがないのような状態)と十八不徳といって最悪の人間だが、大体は寛大だが、締りがない、のように一方が欠けた九不徳が普通の人間になる。人望のある有徳の人になるには「中庸」というバランスが大切なのだ。「中庸」という自己統御を通じて、それを他に及ぼしていく状態を現出した人が「人望のある人」なのであると説いている。

「人気」と「人望」が混同されることがあるが、この二つは別物だという指摘が鋭い。舞台では人気役者だが楽屋裏ではまったく人望がない人というタイプがいる。そういう人は部下に慕われない。日本型の平等社会でリーダーに選ばれるのは、学歴や能力を超えた評価基準としての人望を備えた人なのである。人気がある人は非常識であるが故に人気があるということも多い。非常識では人望は取れない。同じ能力ならば中庸な人が選ばれるということになる。

読んでいて思ったのは、でも日本の国政選挙って人気で選ばれてしまうよなあ、ということ。中庸というのは、つきあってこそわかるもので、メディアやネットを通すとなかなか伝わらないものなのではないだろうか。中庸な人の落ち着き・風格というのは、目立ちたがり屋の競争社会=アテンションエコノミーにおいては不利に働く属性なのだと思う。

山本は「「空気」の研究」で、日本的な組織では、ホンネの投票とタテマエの投票を二回やって平均をとれば良い決定ができるというアイデアを披露していた。そこで私も考えてみたのだが、選挙では、候補者の身近な人の360度評価の開示とともに普通の選挙を行うというような改善案はどうだろうか。へえ、あの人は有名人だけど人望度は低いのね、投票するのはやめておこう、なんて判断ができるようになるのではないか。

・「空気」の研究
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1115.html

・セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方
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上野千鶴子の"処女喪失作"が四半世紀ぶりに文庫化。カッパブックスから岩波現代文庫へ。

「男は「女らしさ」を振つけし、読みとり、鑑賞し───そしてもちろん、発情する。この「らしさ」のカタログは、男たちの作ったマスメディアの中に、うんざりするほど登場する。いまからお目にかけるのは、広告というもっともポピュラーな媒体に登場する、女たちの「らしさ」のカタログであり、その隠されたメッセージを読みとく手引きである。」

四半世紀経っても男の目から見てのセクシー=「女らしさ」はあまり変わっていないように思える。四つん這いだとか、体をくねらせるとか、流し目、濡れた唇に、男はついついそそられてしまう。広告はそうした男性の心理を利用して、巧妙に商業的メッセージを発信してきた。

「女らしさ」は男性が文法をつくりだす。こんな面白い研究が紹介されている。

「女性がオールヌードでいるところに、突然、男性が現れたとき、彼女は二本の手でまっ先にどこを隠すか?」をある比較行動学者が調べところ、3つの選択肢が見つかった。

1 両手で胸を隠す
2 両手で性器を隠す
3 片手で胸を、片手で性器を隠す

調査結果では先進国の女性はほとんど例外なく両手で胸を隠した。未開社会でトップレスで暮らす女性が下半身は必ず腰巻で覆っているのと対照的な結果になった。これは先進国の文化では乳房がセックスシンボルに変わったからだという。

もともとルイ王朝時代のフランスでは貴族女性のドレスはトップレスで、女性は乳房を堂々と誇示するものであったそうだ。形のよい乳房をつくるためのブラジャーが登場してから、それは隠すものになり、シンボルとしての価値を高めていった経緯があるなんていう歴史も紹介されている。

男性によって規定されたセックスシンボルだが、とっさに女性が胸を隠すようになったというのは興味深い。論理的に考えているわけじゃなくて、自然にそうした行動に出る。俗に性的本能と思われているものは実はかなり深くまで社会的、文化的な創造物なのだ。そして乳房を隠そうとして、体をくねらせる防衛姿勢もまたセクシーのメッセージとして文法に織り込まれていく。

今読んでも面白い、「らしさ」という社会的衣服の読み方、読まれ方、読ませ方を語る本。つまるところ、いい女って何かという問題には、「口説けば落ちる」と男に思わせること、もっというなら「やらせる女」(ビートたけし)のイメージだと答えられている。美術の歴史を古代まで遡ってみても、それってかなり普遍的な真理のようだ。日本神話のイザナギ、イザナミだって誘う男、誘う女という意味があるわけだから「セクシィ・ギャル」は浮ついた話題なんかじゃなくて、人類の大問題なのであるよ。

・裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1064.html

・セックスと科学のイケない関係
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/05/post-987.html

・性欲の文化史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1020.html

・日本の女が好きである。
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/06/post-1010.html

・ナンパを科学する ヒトのふたつの性戦略
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/04/post-972.html

・ウーマンウォッチング
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-958.html

・愛の空間
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/oso.html

・性の用語集
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004793.html

・みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005182.html

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html

・武士道とエロス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004599.html

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html

・社会的排除―参加の欠如・不確かな帰属
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Diversityという言葉があるが、英語では多くの場合、この単語はDiversity and InclusionまたはInclusivenessというセットで使われる。多様性を実現しただけでは単なるバラバラなのであって、包摂の力があるからこそ組織や社会に活力がうまれる。包摂の逆がこの本のいう排除である。ホームレスやワーキングプア、ネットカフェ難民など、不安定な就労、家族を持たない、住居の形成が不確か、地域を転々とする、といった生活状況で、社会参加や確かな帰属を得ることができないでいる人々がうまれる原因を探る。

「こうした主要な社会関係から特定の人々を閉め出す構造から、現代の社会問題を説明し、これを阻止して、「社会的包摂」を実現しようとする政策の新しい言葉が、『社会的排除』(social exclusion)である。」

著者はホームレスやネットカフェ難民の実態を調査して、現代の社会的排除の構造を明らかにしていく。社会的排除は現象としては、

空間的排除 ホームレスやネットカフェ難民など
福祉制度からの排除 
 
の二つがある。

そしてこれら社会的排除の原因は大きく二つあった。安定した就労や家族を一度は持ちながら、何らかの不幸な原因で社会的に転落していく「引きはがし」組。そもそも最初からメインストリームへの参加ができなかった「中途半端な接合」組。年代的には50代と20代に二つの山があることがわかった。

引きはがしは、失業や倒産、離婚や借金、アル中や交通事故、災害や怪我などが原因だが、メインストリームにきちんと組みこまれている人は、ひとつの原因では転落しない。多くのホームレスは複合的な要因が絡んで、定点を失っている。若年のネットカフェ・ホームレスでは、就労の不安定、実家との関係の悪さ、学校の中退や義務教育止まりが、社会との接合の中途半端さの原因となっていることがわかった。

現代日本の社会的排除はアパルトヘイトのようなわかりやすいものではない。

「では、空間的に表現される社会的排除とは何であろうか。inとoutの空間関係を極端に表現すれば、outとは空間からの追放を意味する。オーバーステイの外国人の本国送還、あるいはホームレスの本籍地送還、さらにはナチズムのような特定民族の抹殺などが例に挙げられよう。だが、社会的排除論のいうoutは必ずしも極端な抹殺や消去だけを意味しない。多くは、主要な社会関係から排除されながら、生身の体はその社会空間から消えてなくなることはできないような矛盾の中にある関係である。この矛盾を解決するのが、同じ社会空間の中に、排除された人々を引受、そこに隠ぺい或いは隔離する特殊空間の存在である。」

特殊空間として、住宅以外の住まい「寮」「ヤド」「シセツ」があったが、最近では24時間営業のファミレスやファストフード、個室ビデオ店、ネットカフェなどの「ミセ」が大きな役割を果たしているという。中心と排除された周縁が同じ社会空間で過ごしている。だから軋轢も生じる。

子供の遊び仲間でも職場関係でもそうだが、一人も排除しない空気が、全体に大きな安心感を生むものだと思う。それは社会という大きな単位でも同じことだろう。どうやら本人のやる気の問題とか、貧しくてそうなったという単純な問題ではない。実態と原因をつかんで、構造的に解決していくことが重要なわけで、こうした社会的排除研究は、格差社会の傾向が強まるこれから一層重要になっていくと思った。

・「空気」と「世間」
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「空気を読め」の空気とは何か。「世間体」が悪いの世間とは何か。演出家 鴻上尚史が阿部謹也の「世間」論と山本七平の「空気」論を融合した。自分に関係のある世界のことを「世間」と呼び、自分に関係のない世界のことを「社会」と呼ぶ。「世間」が流動化してカジュアル化して現れたのが「空気」である、という定義をする。

欧米人は社会に属する人とつきあうことに比較的慣れている。日本人は見ず知らずの人に話しかけることが苦手だ。身内の空気の中に生きていると、冷たい水の社会(山本七平は水=通常性と呼んだ)の論理がわからなくなる。会社や日本を一歩出たら、そこは水の社会が広がっているのに。そこで空気の支配に対応するため「水を差す」役割の重要性が指摘されている。「王様は裸だ!」と指させる子供という、立ち位置が大切なのだ。

現代は地域共同体と会社という二つの世間の安定が壊れた。「世間と神は弱い個人を支える役割を果たしていた」という。だから、よりどころを失った日本人は、なお安心できる何かを求めている。テレビの仕事をしている鴻上尚史は、いまのお笑いブームに「共同体の匂い」への指向を読み取っている。

「お笑い番組が隆盛なのは、「笑って嫌なことを忘れたい」という理由が一番でしょうが、同時に、「他人と同じものを笑うことができる」という「共同体の匂い」に惹かれているからだと思います。 私は孤独じゃない。私たちはバラバラじゃない。なぜなら、同じものを見て、一緒に笑える人たちがいる。同じものを見て、腹から笑える人たちの中に自分がいる。それは「共同体の匂い」です。そして「共同体の匂い」を呼吸することは、人を安心させるのです。」

著者が言うように、インターネットの一番の肯定面は、自分で「共同体」を選べること、複数の共同体にゆるやかに所属すること。そこに著者は可能性を見る。「空気嫁」というジャーゴンがあるように、ネットのコミュニティにも濃密な空気があるが、複数のコミュニティに出入りができるなら縛られないという考え方もできる。

ただ、昔のコミュニティというのはひとつしか属せなかったはずだ。そうした閉鎖的な空気と、ネットのゆるい空気はまた別物かもしれないとも思う。空気というフレーム自体が進化するフェイズを迎えている気もする。いや人間はそう簡単には変わらない?。情報アーキテクチャーと同時に考えるべき重要なテーマだと思う。

空気と世間という伝統的な視点を、同時代の文脈で見事に読み替えていて、大変に面白く読む価値のある本だった。

・「空気」の研究
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1115.html

・表現力のレッスン
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/10/post-855.html
・真実の言葉はいつも短い
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/07/post-787.html

・地域の力―食・農・まちづくり
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全国で市民と自治体が協力して魅力ある発信を行っている地域を、10か所以上も取材して豊かさの新しいモデルを追究したルポ。料理を彩る「つまもの」として、地元に落ちているもみじや南天の葉っぱを売るビジネスが成功した徳島県上勝町。58年ぶりに路面電車を開業させた富山県富山市。都市農業を広める東京都練馬区と神奈川県横浜市。多様な生き方を可能にする、多様な地域のくらしのモデルが示されている。

地元の声をたくさん紹介している。地域の雰囲気と住民が動くモチベーションの本質がみえてくる。いくつかピックアップしてみると、

「お金じゃないんよ。空いた時間に外へ出たいのもあるし、世の中の役に立ちたいのもあるし、みんなで集まりたいのもあるし。」

「人間にとって出番があることが一番大事。人を元気にするには出番と評価ですよ」

「みんな売上高より順位を気にしてますよ。田舎は隣に負けたくないという気持ちが強いけん。」

「とくに、若い女の子にはパワーとエネルギーがあるから、おっさんはすぐ動くんだよ(笑)」

問題意識や大義名分だけではなかなか人は動かないが、身近なところで楽しいということが重要。地域振興の秘訣としてよく語られる「よそ者、若者、バカ者」の活躍がやはり目立つ。

ここにでてくる地域に共通するのは、

1 地域資源に新たな光を当てて、暮らしに根ざす中小規模の仕事と雇用を発生させた
2 共創型のリーダーの存在
3 IターンとUターンが多い
4 メインの仕事で現金収入を得る傍ら地域の仕事をする人が多い

ということだと著者がまとめている。産業振興より住民のくらしの質を高めようという視点で考えると、結果としては経済的にも上向くみたいだ。

そして地域に根差す多様な地域づくりには、その数だけアイデアが必要である。アイデアマンやデザイナーを今本当に必要としているのは、地域なのだなと思った。

・「ふるさと」の発想―地方の力を活かす
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1075.html

・地域情報化 認識と設計
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/05/post-384.html

・「空気」の研究
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日本人に独特の伝統的発想「空気を読む」、「水を差す」とはどういうことか。近代日本社会の情況論理、状況倫理の徹底研究。山本七平、昭和52年初版の名著。負け戦を知りつつ戦艦大和を出撃させた軍部の「空気」は、現代社会、ネット社会でもいまだ根強く残っている。

「われわれの社会は、常に、絶対的命題をもつ社会である。「忠君愛国」から「正直ものがバカを見ない世界であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その"空気"で支配されてきた。そしてそれらの命題たとえば「正義は最後には勝つ」そうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じつづけてきた。そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して相対化している世界というものが理解できない。そしてそういう世界は存在しないと信じ切っていた。だがそういう世界が現実に存在するのである。否、それが日本以外の大部分の世界なのである。」

論理的判断の基準と空気的判断の基準のダブルスタンダードが日本の特徴である。自由な議論の場をつくるためには、必要に応じて話に「水を差す」ということが、実は重要なことなのだ。論理的な議論を重視する西欧社会においては、水こそ通常性なのである。水と空気の比率の違いは、民主主義や多数決原理のあり方にも表れてくる。

「多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人のうちなる対立という「質」を、「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。日本には「多数が正しいとはいえない」などという言葉があるが、この言葉自体が、多数決原理への無知から来たものであろう。正否の明言できること。たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである。」

今の日本で多数決というのは、責任を曖昧にするときにもよく使われる。失敗したときに誰かが責任を負わずにすむ意思決定方法として登場する。いわば全員で決めることで全員が責任を放棄する方法でもあるわけだ。そういう安易な多数決が日本を滅ぼしていくのだと思う。空気と多数決について、著者はこう続ける。

「これは、日本における「会議」なるものの実態を探れば、小むずかしい説明の必要はないであろう。たとえば、ある会議であることが決定される。そして散会する。各人は三々五々、飲み屋などに行く。そこでいまの決定についての「議場の空気」がなくなって、「飲み屋の空気」になった状態での文字通りのフリートーキングがはじまる。そして「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー......」といったことが「飲み会の空気」で言われることになり、そこで出る結論は全く別のものになる。」

そして、日本で多数決をやるなら、会議で多数決をとったあと、同じメンバーで飲み屋で多数決をとって、2回の平均を答えとせよ、と結論している。飲みニケーションを大切にする日本組織的なボスの信頼感というのは、まさにそんな二重多数決を自然にやっていることにあったのだろう。

日本人の血が、程度の差はあれど、多くの読者に共感を生むだろう。面白い。阿部謹也の「世間」論と山本七平の「空気」論は、日本人の場を考える上で双璧をなす2大フレームワークだなあ、とつくづく思うのであった。


・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html
・タテ社会の人間関係 ― 単一社会の理論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005254.html

・人を助けるとはどういうことか 本当の「協力関係」をつくる7つの原則
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面白い本だ。おすすめ。

「相手の役に立つこと」を社会心理学的に探究した「支援学」の大家の本。

著者によれば、助け合いの秘訣とは「社会経済」と「面目保持(フェイスワーク)」を理解することだ。社会において助ける人間は感情的に一段高い場所にいて、助けられる人間は一段低い場所にいる。この不均衡が互いの求めていることを見えなくするのだという。感情の帳尻合わせが良好な支援関係には必要なのだ。

「どんな種類にせよ、関係を築くためには、社会経済や面目保持という文化的なルールに敏感であることが求められる。人はそれぞれの関係から何かを得ており、それが適正だと確信できるように。人生という日々のドラマの中で、人は自分の面目や他人の面目がつぶれないように役を演じている。成長するにつれて、われわれは無数の状況への対処法を学ぶ。どの状況も役者や観客の役割を適切に果たすことを求めている。」

普通、人は困っていても、見知らぬ人に助けてもらうのは不安だ。防衛的になったり、事によっては恥辱を感じて憤慨する。依頼者は本当は助けてもらいたいのではなく、話を聞いてもらって安心したり、注目や評価をしてもらいたいだけかもしれない。あるいは差し伸べられる支援に対して、非現実的あるいはステレオタイプな期待を持っていて、それと違う支援を受けると不満を感じるかもしれない。

「要するに、そもそもどんな支援関係も対等な状態にはない。クライアントは一段低い位置にいるため、力が弱く、支援社は一段高い位置にいるため、強力である。支援のプロセスで物事がうまくいかなくなる原因の大半は、当初から存在するこの不均衡を認めず、対処しないせいだ。支援関係を当然なものと見なさずに、実際に築かなければならない理由は、不均衡なのが明らかなのに、それを正す社会経済が明らかでないからである。」

手を差し伸べることで、支援者の権力が強まり、相手の立場をさらに低いものにしてしまうような支援は有益ではない。不均衡な立場では本当のニーズが打ち明けられず、支援内容が不適切なものになりがちだ。有難迷惑なお節介の発生原因である。

支援者の役割は3つあると著者は話す。

1 情報やサービスを提供する専門家
2 さらに突っ込んだ診断と処方まで行う医師
3 クライアントとの関係を最適化するプロセスコンサルタント

である。そして、3を上手にこなすには、双方の本当のニーズを明らかにするための問いかけが大切だという。純粋な問いかけ、診断的な問いかけ、対決的な問いかけ、プロセス指向型の問いかけの4つがある。これらのツールを使って関係性を壊さずに社会経済をバランスさせることが支援学の秘訣なのだ。

チームでメンバーが互いの顔をつぶさずに、本質を批評しあうには、日本人の飲みニケーションも一考だと、米国MITの先生である著者が、高く評価しているのが興味深い。無礼講的空間が、互いの意見を受け入れやすくする。

「こうしたコミュニケーションを安全に生まれさせるには、「オフライン」として定義される、時間や空間が必要である。それによってグループは、対面という基準を棚上げにし、通常は強迫的と取られかねないことを言える雰囲気を作り出せるようになる。前に例としてあげたが、日本の管理職が上司と酒を飲みながら言いたいことを言うのは、この方法の一つである。」

相互作用のネットワークの中で生きる現代人にとって、支援学は必須のテーマだと思う。学校でもこういう話をどんどん教えたらいいのに。上司と部下、クライアントとコンサルタント、教師と生徒、親と子供、夫と妻など、多様な関係性で支援のケースが提示されていて、幅広い読者の役に立つ名著である。