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ノーベル経済学賞受賞の経済学者ケネス・アローは、いかなる投票方法を持ってしても、票割れなどの好ましくない状況を完全に排除することはできないということを論理的に証明して見せた。アローの不可能性定理は民主主義の致命的欠陥ともいわれる。民衆が三人以上の候補者から最適な一人を選ぶことは、とても難しいことなのだ。
公正な投票を実現すべく多くの投票方法が考案されてきた。相対多数投票、コンドルセ投票、是認投票、即時決選投票、単記委譲式投票、範囲投票、ボルダ式得点法、累積投票など、数の多さに驚かされる。
だが、どの方法を使っても欠陥はある。代表的な問題はたとえば、
・票割れの問題
考え方が似ている投票者集団が、類似した主張を掲げる二人の有力候補者(クローン)の間で分裂し、マイナーな第3者が当選してしまうなど好ましくない結果を生じさせる。相対多数投票の最大の欠陥。この状況を意図的に引き起こすために落選覚悟で立候補するマイナー候補者はスポイラーと呼ばれる。
・コンドルセ循環の問題
他の候補者一人一人と一騎打ち投票を行い、最後まで過半数を獲得して残った候補者をコンドルセ候補と呼ぶ。コンドルセ候補は理想的な当選者だが、一騎打ちの多数決選挙ではAがBに勝ち、BがCに勝ち、CがAに勝つことがあり真の勝利者が確定しない問題がある。
などである。これらは理論的な欠陥にとどまらず、実際の選挙でもよく発生する現実的な問題であることが明かされる。
米国大統領選は過去45回行われたが、スポイラーのせいで二番人気の候補者が当選したケースが少なくとも5回はあるという。直近ではブッシュがゴアを破った2000年の選挙だ。ラルフ・ネーダーがいなければ、あるいは耐スポイラー効果のある投票システムが使われていたら、結果はゴアの勝利になったという計算がある。
多数の投票方法の長所と短所が実例や特殊な想定を使って検証されていく。常識的に思える投票方法が、ときには結果を非常識に逆転させてしまうことがある。たとえばこんなケースだ。
「投票者1万人とA、B、Cの三人の候補者がいるとする。候補者Aは、九九九九人からはっきりと好まれている。この人々は、Aは優秀でBは凡庸、Cは最悪だと考えている。 ただひとりはぐれた変わり者の投票者はまったく正反対の好みを持っている。彼はCが大好きで、Aを嫌っている───そしてBについてだけは同じで、ミスター凡庸だと考えている。」
投票者が一人だけ適任者を選ぶのならば、A(9999票)対B(0票)対C(1票)で、当然ながらAが圧倒的勝利を収める。コンドルセ式、ボルダ式、即時決選投票方式などでもAが勝利する。これは一見、常識的に思える。
ところが、もしも三人それぞれに対して「こいつは"あり"」印をつけさせる是認投票を採用した場合、得票数はA(9999)、B(10000)、C(1)となってBが当選してしまうのである。なぜならBは凡庸だが全員が少なくとも"あり"だとは思っているからだ。一方、Aには敵がいるから失う票がある。全員が二番手だと思っているBが当選できるのだ。この問題に関しては「是認投票であれば、クリントンが最下位になり、ペローが1位になっていたかもしれない」という研究論文もある。
投票システムの欠陥は全体が最も満足する候補者ではない者を選び出すことがある。当然、多くの投票者は結果に不満足である。統計用語では「人間の不幸のうち、回避可能だったと予測される不幸」をベイズ後悔(Bayesian regret)というそうだ。仮にすべての投票者の脳を電気的に計測して満足度を測ることができるとする。選挙後に全員の満足度の総和が最大になる選挙システムが最良の選挙システムとする研究が紹介されていた。
そして、なんとも意外な投票方法がベイズ後悔を最小化する最良の方法の一つだということが判明する。それはネットの美人投票サイト Hot or Notが採用している範囲投票なのである。投票者は1から10までのスケールのどこかにチェックをする単純な仕組み。
・Hot or Not
http://www.hotornot.com/

美人を10段階で評価する有名なサイト。他人の評価を確認したり、美人ランキングをみることができる。あ、もちろん写真を投稿して参加もできますが。
単純な方法だが、範囲投票はランキング投票や是認投票に比べて、自分の気持ち(支持の度合い)を正確に表現できる。さらに投票者が特定の誰かを勝たせるために(あるいは落とすために)"戦略的"に投票したとしても、投票数の多さ=支持者の多さになるので、意味のある結果になるという大きなふたつの長所があるという。範囲投票は記入フォームも集計もネットだと実現しやすい形だ。電子投票が普及していくとき、Hot or Notが未来の民主主義を支える方法に進化するなんてこともあるのかもしれない。
選挙区制、比例代表、選挙人制など国内外の選挙のたびに、なんでこんなに投票は複雑になっているんだろうと思っていたのだが、この本で何が問題なのかがだいぶわかった。いい本だ。
・誰が世界を変えるのか ソーシャルイノベーションはここから始まる

原題はGetting To Maybe。「かもしれない」可能性の未来に向かう社会起業家の研究書である。多数の社会起業家の成功と失敗を複雑系や創発の理論的アプローチによって精密に分析していく。世界を変革するソーシャルイノベーションの成功の鍵とはいったい何なのか。
著者はまず人間の直面する課題を以下の3つのレベルに分類する。
1 単純(simple) ケーキを焼く
2 煩雑(complicated) 月にロケットを送る
3 複雑(complex) 子供を育てる
単純な問題はレシピが存在してそれを守れば必ず成功する。煩雑な問題は多様な分野の高度な専門知識が必要だが計画が正しいならば結果の確実性は高い。これに対して複雑な問題は厳密な計画は部分的にしか役に立たず結果の不確実性も高い。前回の成功が次回の成功を保証するものでもない。この問題は部分と全体を切り離して考えることができない。
そして、社会起業家達の挑戦は3つめの複雑な問題である。本質的に「かもしれない」に情熱的に立ち向かう人の問題なのである。社会的変革には次の3つのフェイズがあると著者は述べている。
1 初期の力と資源はコミュニティの「つながり」の中に見つかる
2 コミュニティは社会運動になり「衝突」のドアを開く
3 改革側と体制側の「協力」が資源分配に抜本的変化を起こす
人や体制を変革するのではなくて、人々の関係性を変えていくことで変革を実現するプロセスなのだ。人間の社会的関係性は複雑系だ。だから、フィクションのロマンチックな解釈と違って、現実世界では、一人の偉大な英雄が大きな社会変革を引き起こすわけではない。どちらかというと彼らは変化のきっかけであるに過ぎない。そして変革が始まってからはその流れを強化する一要素になる。彼ら自身もまた変化の波の影響を受けて変容していく。
「複雑系の理論で考えれば、成功の理由は彼らが馬にまたがる将軍のように部隊を率いたことよりも、彼らの行動が新たな相互作用のパターンを示し、それを誘発したことにある。要するに、彼らは「ストレンジ・アトラクタ」をつくりだし、強化もしたわけだ。」
社会起業家は変革の大波がいつ訪れるかを見極めなければならない。その大波が形成される下地を、著者は、社会学者デュルケームの「集合的沸騰」と社会心理学者チクセントミハイの「フロー体験」(人々が何かに夢中になること)の概念を借りて説明している。
集合的沸騰とは人間同士の相互作用から生まれる興奮状態で「全員が同じ考えや同じ感情を共有する状況で、人が集合し、互いに直接的な交渉をもつときにもっとも激しくなる。」。つまりローカルセンサーの感度が高いときに生じやすいものだ。局所的なコミュニケーションによる共鳴は集合的沸騰を引き起こす。人々がフロー状態の中で自己組織化のパターンを描くようになる。
「変化が確固たるものになるには、あるいは、本物のイノベーションに必要なティッピングポイントに向かう勢いがつくには、社会的なフローが必要だ。フロー、つまり集合的沸騰が起きるとき、不可能がほんとうに可能になるように見える。社会起業家はこのフローをつくることはできない。ワゴナーの詩のアドバイス「それがおまえを見つけるのにまかせよ」に従わねばならない。」
著者の結論によれば、成功する社会起業家とは変革のドアを作る人ではない。それを見つけるのが得意であると同時にドアを信じる人である。そして変革の波に自身をみつけてもらう人でもあるのだ。
多くの社会的問題解決のスタート地点では、障害と不確実性に阻まれて見通しの良い計画を立てることができない。何から手をつけたらよいのか皆目見当もつかないような状態でも、「かもしれない」を信じて情熱的に行動する人が成功する社会的起業家になるということだ。
著者はこんなことを書いている。
「複雑系の研究者は、単純な因果関係のモデルよりも複雑系のほうが実社会のダイナミクスを描くのに適していると考えているが、人間の力の可能性を軽視、いや無視する傾向がある。」
本書の中でこの一節が強く印象に残った。分析可能な事例を分析しているだけの学者の理屈を、前例のない現実でぶち破るのが起業家なのだから、「人間の力」というのは常に研究からはこぼれおちてしまう傾向があるのだろう。学術的研究よりも、優れた伝記や小説のほうが、偉大なリーダーの仕事の本質が理解できた気になるのは、そういった意味では正しい感覚なのかもしれないと思う。
・フロー体験 喜びの現象学
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/04/post-367.html
楽しみの社会学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004302.html
1958年にロジェ・カイヨワが書いた遊戯論の古典。
特に遊びの定義と4分類は後の研究に大きな影響を与えた。
カイヨワは遊びを次の6つの性質を持った活動と定義した。
1 自由な活動
2 隔離された活動
3 未確定の活動
4 非生産的活動
5 規則のある活動
6 虚構の活動
そして、すべての遊びを次の4つに分類した。(2つが結びつく複合的な遊びもある)
アゴン(競争):サッカーやビー玉やチェスをして遊ぶ
アレア(偶然):ルーレットや富くじに賭けて遊ぶ
ミミクリ(模擬):海賊ごっこや、ネロやハムレットを演じて遊ぶ
イリンクス(眩暈):急速な回転や落下で混乱と惑乱を生じさせて遊ぶ
さらにこの分類はパイディア(遊技)とルドゥス(闘技)という対立軸に置くことができるとした。前者は気晴らし、即興、無邪気な発散という方向性であり、後者は逆に努力、忍耐、技、器用という方向性である。
この本の第一部では子供達の自然な遊びから、スポーツ、ギャンブル、演劇など文化の広大な領域をカバーする遊びの枠組みをカイヨワは構築した。そして第二部では遊びを出発点とする社会学を目指した「遊びの拡大理論」が展開される。
広く知られたように遊びには教育効果がある。カイヨワはそれを認めて、
「たしかに、遊びは勝とうという意欲を前提としている。禁止行為を守りつつ、自己の持てる力を最大限に発揮しようとするものだ。しかし、もっと大事なことは、礼儀において敵に立ちまさり、原則として、敵意なしに敵と戦うことである。さらにまた、思いがけない敗北、不運、宿命といったものをあらかじめ覚悟し、怒ったり自棄になったりせずに、敗北を甘受することである。立腹したり愚痴を言ったりする人は、信用を落としてしまう。実際、ゲームが再開されるときは、これはまったくの新規蒔き直しなのだし、何が駄目になったわけでもないのだ。だから遊戯者は、相手を咎めたり失望したりするのではなく、一そうの努力をするがいいのである。」
と述べているが、さらに遊びが人類にもたらす意味にまで解釈を拡大して、遊びこそ文化文明や社会の歴史発展に必須の重大なものとしてとらえていく。
「遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化する。遊びはこれら本能に形式的かつ限定された満足を与えるが、それは本能を教育し、豊かにし、その毒性から魂を守る予防注射をしているのだ。同時に本能は、遊び(の教育)のおかげで文化の諸様式の豊富化、定着化に立派に貢献できるものになる。」
遊びの4分類のうち二つが密接に結びつくケースがあると述べている。特にミミクリ(模擬)とイリンクス(眩暈)の対は、古代の宗教政治において重要な役割を果たした。神々の仮面をかぶったシャーマンが恍惚状態の眩暈の中で宇宙からのメッセージや超常的パワーを受け取る。やがて、こうしたシャーマンの役割は古くさいものとして排除され、、アゴン(競争)とアレア(偶然)を基調とする民主主義や科学という新しい制度によって置き換えられていく。
「以上、見てきた通り、いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリの組み合わせの優位を少しずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう。」
現代の人類は誰でも能力と運次第で成功できる民主社会という壮大なゲームの構造をつくりあげた。
遊びは人間だけのものではない。動物の子供も遊ぶ。遊びは動物に共通する本能である。その基本的な本能を公共のために飼い慣らすことができたのが人間の成功の秘密だったのかもしれない。カイヨワの遊戯論は後半でいつのまにか文明論に発展していく。読み応えたっぷりである。
先行して遊びを論じたホイジンガとカイヨワの主張の関係を論じた訳者解説も充実している。講談社学術文庫。
飯尾潤政策研究大学院大教授の著。サントリー学芸賞、吉野作造賞を受賞した新書。
「はじめに」で日本の首相の権力は、アメリカ大統領よりも大きい、という意外な分析トピックで始まる。その事実の意味を知ることが、本書において日本の議院内閣制の成り立ちと仕組みを知るための導入となる。
「つまり民主政のもとでの大統領制は、大統領と議会とが別々に選出され、それぞれが正統性を有しているため、民意は二元的に代表される。それに対して議院内閣制は、議会のみが民主的に選出され、その議会の正統性を基盤として内閣が成立するために、民意は一元的に代表される。ここに着目すれば、議院内閣制のほうが大統領制よりも権力集中的な制度なのである。」
議会、内閣、首相、政治家、官僚、政党について、本来の一般的な機能役割の説明と、日本における個別的な現実の姿が語られる。歴史的経緯と国際比較によって、日本の統治構造の長所と短所が明確になっていく。著者は学者の立場からかなり中立的に現実の日本の構造を俯瞰している点が、この本のよいところだと考える。
一般に日本の官僚は優秀だと言われる。ところが意外にも官僚機構には法的な規定がないと指摘がある。国家公務員法で守られていると思われがちな公務員たちの身分だが実は人事は慣行ベースで自律的に動いている。
「だが、官僚の人事に手をつけるのは簡単ではない。たとえば、事務官と技官の区別、キャリアとノンキャリアの区別など、国家公務員法にはまったく記載されていない。実際の人事の仕組みもまた、慣行として続けられているだけで、法的に定められたものではない。むしろ国家公務員法が制定されたときの経緯から考えれば、法律の趣旨とはまったくかけ離れた慣行であるということさえできる。」
かくして官僚は政治家による介入も、法改正による影響も受けない特別なシステムを構成している。そして、彼らは自民党本部に出入りし政治家と密接に連動することで、政策形成と予算決定において、ときに政治家以上の重要な役割を果たす。「総合調整」や「族議員」「御説明」「鉄の三角同盟」などのキーワード解説を交えて、日本独自の政治と官僚の協調構造が明らかにされる。
こうした複雑な日本の統治構造はもちろん多くの問題点を抱えているが、過去を振り返ると日本の戦後の経済成長および国際社会における地位の引き上げに成功した、優秀なシステムではあった。故にそれぞれに一定の肯定的評価を含めつつも、自民党の一党優位制と目的なき政権運営、空洞化した国会と曖昧な野党機能という戦後体制の棚卸し総括が行われる。
「つまり、特定の政党が政権を独占するという一党優位性が長期にわたり、総選挙が政権選択選挙にならず、有権者の選択によって首相や内閣が成立することが非常に少なかったからである、政権の座をめぐる争いは自民党内の派閥抗争に限定され、有権者の多くは傍観者として、それを眺めるだけであり、いわば見世物を見て楽しみという状況に置かれて。」
政権与党が変わらないので首相の交代で有権者に変化のカタルシスを与えてきた。そして与党は野党にも一定の政策権限を分け与えて野党の政策もある程度は通るようにした。官僚は審議会を使って政策の方針展開を進めようとした。本来あるべき政党政治とは異なる状況で、それぞれがなんとかうまく民意集約を行うことに成功してきた工夫の産物が、今の日本の姿であるようだ。
日本において政党政治や議院内閣制はこれからどう展開していくのだろうか。国民の政治参加とフィードバックが弱いという根本的な問題解決が大切な事項として挙げられている。最大の問題は国民の意識かも知れない。著者は日本人の政治観についてこのように鋭く指摘する。
「ただ日本においてはまだまだ党派に属することへの拒否感が強い。党派性への拒否感が強いと有効な政党間競争が阻害される。政治的な中立性や政党と無関係であるということは、公正な法執行に携わる公務員には必要であっても、一般の市民生活には特に必要ない。 政治教育の必要性が一般には認められながら、なかなか定着しないのは、こうした党派性への拒否感が強いからである。党派性とのかかわりを持たずに有効な政治教育を行うことはできない。党派間の公平への配慮は必要だが、公平性の幅を狭くしてしまえば、教育機会がつまらないものになりがちである。」
そうだよなあと思った。政治や社会に対する日本人の意識は決して低いとは思わない。飲み会などの場でも政治に対する批判や意見を述べる人は結構多いしブログに政治トピックを書く人も増えている。選挙開票が娯楽番組として人気の国であるから政治全般に対する意識が低いというわけではあるまい。著者の指摘のように、党派に所属するということへの拒否感が根強いのだ。
これは社会のありようと根深い関係があるかもしれない。日本人の多くは社会的に協調性のある人間になるように家庭でも学校でも教育されている。特定の利害団体に肩入れして政治的にパワフルになれとは決して教わらないで育つ。同質性を前提とした社会では、政治性が強い人間は社会性が弱いことになったからではないかと考える。しかし、今や同質性の前提が壊れた。幅広い意見を政治団体に集約し政策決定に反映させることが公共の観点からは大切な世の中になりつつある。世論形成や情報開示という点ではインターネットの役割再考も含めて統治構造の見直しがテーマの時代になっているはずだ。
私の受けた日本の教育では、国の運営について肝心のところを教えてもらえなかったと不満に思っている。社会の教科書には、憲法の主旨、三権分立の概念、二院制、選挙制度など日本のハードウェア構成は書いてあるのだが、それらが実際にどう運用されているのかの話はほとんど書かれていなかったと思う。90年代以降の改革の意味も含めて具体的にわかりやすく説明がある。高校や大学の授業でこれを教えるべきである。政治学者が書く一般書のお手本になる名著だと思った。
「世界最悪の仕事は何か」をテーマにヨーロッパ(主に英国中心)の歴史を振り返って、ワースト1を決めるという趣旨の本。そこでローマ時代、中世、チューダー王朝時代、スチュアート王朝時代、ジョージ王朝時代、ヴィクトリア王朝時代という区分で、最悪職業のノミネートが行われる。最終章で発表される史上最悪の仕事とは?
登場する職業は、金鉱夫、写本装飾師、沼地の鉄収集人、コイン奴隷、ウミガラスの卵採り、治療床屋、亜麻の浸水職人、財務府大記録の転記者、焼き串少年、御便器番、爆破火具師助手、シラミとり、疫病埋葬人、浴場ガイド、絵画モデル、船医助手、ネズミ捕り師、骨拾い、など約70種類。名前からは仕事の中身がわかりにくいが、どれも身の毛もよだつような作業や労働環境が含まれる。
たとえばローマ時代の最悪候補が「反吐収集人」である。ローマ人たちは享楽におぼれ、たくさん食べるために、食べては吐きを繰り返したらしい。セネカの著作にはこんな記述があるそうだ。「われわれが宴会で寝椅子に寄り掛かっているときでさえも、或る奴隷は客の反吐を拭き取ったり、或る奴隷は長椅子の下に身を屈めて、泥酔した客の残したものを集めます。」。
チューダー王朝時代の最悪候補はヘンリー8世のお尻を拭く「御便器番」。スチュアート王朝時代の最悪候補はガマの油売りの英国版「ヒキガエル喰い」。薬の万能さをデモンストレーションするために観衆の前でヒキガエルを丸呑みしたという。
この本に出てくる仕事は多くが現在の「3K(きつい、汚い、危険)」どころではない大変そうな仕事ばかりだ。全体の総括として共通する要素として以下の5つがあげられていた。3Kに低収入と退屈が加わっているわけだ。
1 体力が必要なこと
2 汚れ仕事であること
3 低収入であること
4 危険であること
5 退屈であること
もともとこの本は英国のテレビ番組をベースにしている。番組では実際にその職業を体験してみて、昔の人たちの厳しい労働の実態や、社会のゆがみなどを考えさせるという教育的趣旨で構成されている。
・The worst jobs in history
http://www.channel4.com/history/microsites/W/worstjobs/
番組の公式サイト
この本を読むと、そんな時代に生まれなくてよかったと思うだけでなく、社会における職業について考えさせられる。誰かがやらねばならない辛い仕事というのはどの時代にも存在している。社会には上水道と同時に下水道が必要である。
仕事の中身の最悪度だって主観的なものでもある。たとえば、人間を手術や解剖する医者の仕事は見方によっては身の毛もよだつ仕事だ。弁護士は犯罪者や事件事故ばかりを相手にするやばい仕事である。人々から尊敬され、高収入だから、それらは3K仕事には決してならない。
結局のところ、やりがいがあるかどうか、ということが最高と最悪を決める本当の要素ということになるのじゃないか、というのが私の結論であった。
斬新な切り口でまっとうな歴史哲学を語る本。
著者の調べによると日本全国で1965年ごろを境に、キツネにばかされたという話が発生しなくなったのだという。本当にキツネが人を化かしていたのか、その話をみんなが信じていたのか、という問題はともかく、そのような話が出なくなったことは歴史的な事実である。
高度経済成長に伴う変化の中で、日本人は知性でとらえられるものを重視するようになった。同時に知性によってとらえられないものはつかめなくなったということでもある。
この本でとても気になった一節がある。かつての村社会における情報流通についての説明である。
「人間を介して情報が伝えられている間は、情報の伝達には時間が必要だった。大事な情報は急いで伝えられただろうが、さほど急がなくてもよい日常世界の情報は、何かの折に伝えられる。ところがその情報は重要ではないのかといえば、村ではそうでもない。なぜならそれらをとおして村人どうしの意思疎通がはかられ、ときにそれが村人の合意形成に役割をはたしていくからである。
もうひとつ、人から人に伝えられていく情報には次のような面もあった。人から人に伝達される以上、そこには脚色が伴われる、ということである。その過程で話が大きくなっていくことも、一部分が強調されることもある。だから聞き手は、話を聞きながらも、その話のなかにある事実らしい部分を自分で探りあてながら聞いていく。すなわち、聞き手が読み取るという行為が伴われてこそ情報だったのである。主観と客観の間で情報が伝えられる以上、それは当然のことであった。」
インターネット時代のコミュニケーションで失われているのがまさにこの
・何かの折に伝えられる情報が重要な共同体
・伝達過程で脚色が加えられ話が大きくなっていくコミュニケーション
ではないだろうかと考えた。
情報流通の効率化、最適化によって、情報を瞬時に正確に伝達できるようになったかわりに、キツネに化かされるような物語だとか、そういう話にリアリティを感じる心を失ってしまったということでもある。死者や動物や自然と対話する能力=キツネにだまされる能力の喪失である。
そのような社会変化の背景には、高度経済成長という「国民の歴史」があった。国民の歴史は宿命的に発展の歴史として描かれると著者は指摘する。「それは簡単な方法で達成される。現在の価値基準で過去を描けばよいのである。たとえば現在の社会には経済力、経済の発展という価値基準がある。この基準にしたがって過去を描けば、過去は経済力が低位な社会であり、停滞した社会としてとらえられる。」
それを経済力を科学技術、人権や市民社会という基準でおきかえてもおなじこと。私たちは遅れた社会から進んだ社会へと進歩発展してきたという物語を信じている。キツネや死者と対話する世界は取り残されて崩壊していった。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という問題に対する答えを探す旅は、いつのまにか進歩史観的な歴史認識に大きな疑問符をつきつけて終わる。この本のタイトルと構成に、ちょっと化かされた気がしないでもないのだが、現代人に見えていないものを可視化する内容でたいへん勉強になった。
1967年から版を重ねて110万部突破のロングセラー。日本のタテ社会とは何かを分析している。タテ社会というのは「伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力さには注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が非常に根強く存在している。」というように、みんなが平等という前提で、できてきた社会だという。そして誰でも上へ行く道が開かれている。
「どんな社会でも、すべての人が上に行くということは不可能だ。そして社会には、大学を出た人が必要であると同様に、中学校卒の人も必要なのだ。しかし、日本の「タテ」の上向きの運動の激しい社会では「下積み」という言葉に含まれているように、下層にとどまるということは、非常に心理的な負担となる。なぜならば、上へのルートがあるだけに、下にいるということは、競争に負けた者、あるいは没落者であるという含みがはいってくるからである。」。
しかし、この日本の伝統的タテ社会は、能力評価による競争が行われているわけではない。必ずしも仕事ができるからといって認められて出世するわけではないのだ。「論理より感情が優先し、それが社会的機能をもっていること」が特徴であると著者は指摘する。
「他の国であったならば、その道の専門家としては一顧だにされないような、能力のない(あるいは能力の衰えた)年長者が、その道の権威と称され、肩書をもって脚光を浴びている姿は日本社会ならではの光景である。しかし、この老人天国は、決して日本人の敬老精神から出てくるものではない。それは、彼がその下にどれほどの子分をもっているか、そして、どのような有能な子分をもっているか、という組織の社会的実力(個人の能力ではない)からくるものである。」
なんと痛快なタテ社会批評!
・「おしゃべりな人」が得をする おべっか・お世辞の人間学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001413.html
・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html
「合コンは、様ざまな力学が錯綜する磁場だ。その「確実性」も「偶然性」も、「自由」も疑いだせばきりがない。誰もがうっすらと気づき始めている。けれど誰もはっきりとは言語化してはこなかったそれらのことを、一度立ち止まって考えるときがきている。」
若手の社会学者二人が合コンについて研究した本。
「現代の私たちは、この合コンという奇妙な装置のおかげで、きわめて直接的なお見合いとも、無味乾燥な職場結婚とも違う、ドラマティックな出逢いを手に入れた。と同時に、あいまいな着地点を目指して戦い続けなければならなくなった。「偶然」や「突然」にこだわるがために、今では、理想それ自体がぼやけてしまっている。」
異性を身長や容姿、職業や年収で選ぶのはあさましいから、「つきあってる人がいるとかいないとか、結婚したいとか子どもがほしいとか、年収がいくらとか将来の計画とか、そんなことは気にしていないふりをする。出会うために来たんじゃないふりをする。ただの飲み会を装う。」。これは合コンじゃないフリをするのが合コンのプロトコルなのだと著者らは指摘している。
ところで、この合コンという言葉はその意味が時代によって変化してきている。Wikipediaの「コンパ」に合コンに関する記述もあって以下のような内容がみつかる。何が「合同」なのかはじめて知った。そういうことなのか。
・ 合同コンパ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91
「現在一般的にコンパという名称で思い浮べられることが多いのは合コン(合同コンパ)である。これは主として男女の出会いを求めるために行われるコンパで、女子の大学進学率が急激に上昇し始める1970、1980年代ごろから盛んになり、その後学生どうしにかぎらず広汎に行われるようになった。合同コンパという名称は、男子のコンパと女子のコンパを合同で開催するというところに基づいている。また、男女合同で行楽地などに出かけることを合ハイ(合同ハイキング)と呼んでいたが、現在ではほとんど死語となっている。」
私が大学生だった頃はまだ合コンは学生のものというノリだったような気がする。それがいまや婚期を逃しそうな息子や娘に親が「合コン」にでもいってこいと勧めるくらい一般的な男女の出会いの形式になるまでの変遷も分析されている。合コンの研究は80年代から現在までの同時代的な男女交際の歴史でもあった。
著者らの研究もおもしろかったが、これ深いなと感動したのは、調査対象の合コン参加者の次のような意見。そうそう、若い頃はばかでモテないというのは多くの男にありがちな真理だと思った。
「若い頃はばかだったから、自分の話ばっかりしてた。でも今はいっさいしない。聞き役に徹する。こんだけ稼いでて、こんだけ仕事ができて、こんな車に乗っててスポーツもやってて、なんて言われて『すごいねー』なんて言う女はめったにいないから。女の子の悩みをひたすら聞いてあげる」(男性・三十代・会社員)」
苦学して成った特捜の検事から、政財界と裏社会の守護神弁護士への転身、自家用ヘリ(7億円)で故郷へ凱旋し湯水のごとくカネをばらまいたバブル時代の華麗な生活、そして裏社会との濃すぎるつながりは古巣の特捜部ににらまれ、逮捕と実刑判決をくらう。著者の体験した劇的な反転人生を語った自伝。
古巣の体制の腐敗を暴露し日本社会の闇を暴く内容として、佐藤優の名著「国家の罠」に匹敵する大傑作である。
依頼人や交友関係として出てくる人物の名前が凄い。許永中、中岡信栄、末野謙一、卓見勝、阿部新太郎、佐川清、伊藤寿永光、竹下登、阿部新太郎、高橋治則、小谷光浩、渡辺芳則、山口敏夫.......。あの筋、この筋よくここまでつながったものだと関心するが著者いわく「この国は、エスタブリッシュメントとアウトローの双方が見えない部分で絡み合い、動いている」から、こうなったそうである。
権力ににらまれて詐欺罪で立件されての転落は、ポリシーをもって仕事をしてきた結果であると一貫して主張している。弁護士は犯罪者の弁護をすることが仕事であり、自身にやましい部分はないといって現在も上告中である。かつて佐藤優は自分の逮捕は国策捜査だと反論したが、検事出身の著者はこう達観している。
「最近、「国策捜査」という検察批判がよくなされるが、そもそも基本的に検察の捜査方針はすべて国策によるものである。換言すれば、現体制との混乱を避け、ときの権力構造を維持するための捜査ともいえる。だから平和相銀事件や三菱重工CB事件のような中途半端な結末に終わることが多い。本格的に捜査に突入すれば、自民党政権や中曽根派が崩壊したり、日本のトップ企業である三菱重工が傷を負う恐れのあるような事件は、極端に嫌う」。
そこで表も裏もないパワーゲームの世界では中途半端な悪はつぶされるが、勝ち組権力と結びついた巨悪は栄えるという現実を見ることになる。著者はこのゲームに負けた敗軍の将という立場で読者に語りかけている。
検察エリート街道の華々しさ、闇に暗躍したフィクサーたちの素顔、バブル紳士たちの豪遊ぶり、裏社会のトップたちの壮絶な生き様など、まず普通の人生を歩んでいる限りでは、知ることがない世界を生々しい記述で読むことができるのが魅力である。文章もうまいので文字通り私にとって徹夜本になってしまった。
「国家の罠」のファンには特におすすめである。
・国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004269.html
これは抜群に面白い社会学研究。
世界中で社会格差と人々の健康には明らかな相関があることがデータで示されている。貧しい階層よりもお金持ちの階層のほうが病気をせずに長生きする。両極の中間層では階層があがるにつれて確実に健康状態がよくなっていく勾配が見られる。さらに学歴や社会的地位や身長で人々を比べてもほぼ同様の結果になる。高いほど健康なのだ。これがステータス症候群である。
なぜ社会格差は健康格差につながるのかがこの本のテーマである。
所得と健康の関係は一見、当たり前のようにみえる。健康ならば働けるので高所得になりやすい。お金があればよい生活ができて医者にもかかれるから、なおさら健康になる。逆に不健康ならば働くことができず、一層貧しくなる。医者にもかかれないから健康は悪化する。そういうことなのではないか?。実は問題はそう簡単ではなかった。
著者は長年にわたってステータス症候群を研究してきた第一人者。20年に及ぶ英国公務員を対象とする「ホワイトホール研究」などの実績で知られる英国政府のアドバイザ。公務員はヒエラルキーが明確なので分析しやすい対象なのだ。そこで明らかにされた健康格差はシビアなものだった。40-64歳の男性では、職場の階層構造の底辺にいる人は、同じ階層のトップにいる人の4倍も死亡率が高かった。
だがこれは英国の公務員だけの話ではないのだ。私たちの社会の、おどろくほど広範にわたって、階層が上の人と下の人では死亡率がちがうことを示す事例が多数紹介されている。階層が上の人ほど明らかに長生きでき、下の人は癌や心臓病で死にやすいという、厳しい現実が隠れていた。
国際比較をしてみると米国の平均寿命はイスラエル、ギリシア、マルタ、ニュージーランドよりも短い。平均所得では米国はそれらの国よりもずっと上にあるにもかかわらずだ。よく考えてみると、普通の生活ができる以上の所得増が、必ずしも健康改善に直結するとは思えない。すべての階層でまっすぐ上昇する健康度の勾配の原因は、所得の絶対額が問題ではないことがわかる。
著者は科学的な調査の結果、社会階層における相対的地位が健康にとって最も重要な要素であるという事実を発見する。相対的な社会的地位は、自尊心や幸福感に強く影響し、ストレスの量も左右する。「自分自身の人生全般をコントロールできるという意味での自律性があることと、有意義な社会参加への機会があること」が、健康に顕著な影響を与えていると結論する。その改善に必要な施策も提言している。
めずらしく意味のある格差を扱った本と出会った。読み応えたっぷりの内容。
「何ごともその場の空気によって決まる、というのは良いことではない。だが、その場の空気が濃くなればそれに対抗するのは難しいし何よりも損だろう」
日本には少子高齢化問題、年金問題、消費税率、若年層の雇用問題など多数の論点があるのに、激しい対立も現実的な妥協もなく、雰囲気で何となく政策が決まっていく。家庭や会社、2ちゃんねるのような仮想空間でも似たような状況は起きている。場の空気という妖怪に、日本の社会は支配されているのだと著者は指摘する。
「明らかな対立があるのに歩み寄れない。いやその前に対立そのものを浮き彫りにすることもできない。明らかに傷ついている人がいるのに、慰めることができない。気まずい雰囲気が濃くなっているのに、その場を救う言葉が出ない。世代が違うだけで、全く共有言語がない。」などの日本語の窒息が、そこかしこで起きていると問題提起する。
同質性が高い社会であるが故に、前提の確認を省略したり、論理よりも共感を重要視するコミュニケーションスタイルに、空気の妖怪は潜んでいるようである。このなあなあ文化は、時に全体主義的な同調にもつながるし、高度成長の原動力にもなった諸刃の剣であると思う。
ただし、そのネガティブ面だけでなく、西郷隆盛の腹芸交渉術を例に出して、空気コミュニケーションを肯定的にとらえる考え方も紹介されている。
「だが、そのような問題はあるにしても、個別の一対一の会話においては、日本語は「関係の空気」を利用することでコミュニケーションの質を高めてきたのは事実である。空気を使って情報の効率を高めてきたのも事実なら、空気を使って、濃密な情感を表現したり、抽象度の高い価値観の共有を確認してきたのである。」
論理的で明快にペラペラしゃべるリーダーよりも、じっと議論を見守り含蓄のある一言で意思統一をするようなリーダーが日本では人望を集めてきた。マネジメントの効用を考えても、空気の活用は合理的なはずである。
2ちゃんねるのような勝手匿名コミュニティでは、そもそも空気しか通用しないだろう。不特定多数の全員を論破して回るわけにはいかないからだ。だから、スレの住人たちの心に刺さる短い書き込みで、スレの空気を変えて誘導するような技術が、これから一層重要になるのではないかと思う。
場の空気の良い面も悪い面も分析している面白い本。
著者は「全国童貞連合」会長。連合のサイトで顔出ししている、おそらく日本一有名な童貞男、渡部伸、執筆時34歳。「少子化問題は童貞問題である」という問題意識の本。童貞についての人口統計、切実な自身の体験談、連合会員の童貞たちの様々な考え方、フェルディナント・ヤマグチ、室井佑月らとの座談会など、もりだくさんの内容。
・全国童貞連合
http://www.cherrybb.jp/
日本家族計画協会の調べによると、25〜29歳の17.1%、30〜34歳の6.3%、35〜39歳の5.1%、40〜44歳の7.9%は「セックス経験がない」そうである。”無回答”も経験がないと考えると、40〜44歳の1割強が童貞だと予測できると著者は分析している。
こんな調査も紹介されていた。
・国立社会保障・人口問題研究所 結婚と出産に関する全国調査
http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou13_s/Nfs13doukou_s.pdf

処女を見てみると、18歳〜19歳の、「性体験のない女性」は1987年の81.0%から、2005年には62.5%に減少しており、「高校を卒業するころには、10人に4人はセックスをしている」そうである。処女率はこの15年で、20〜24歳で64.4%→36.3%、25〜29歳で53.6%→25.1%に急激に下がっているらしい。(20代後半で4分の1が処女というこの数字は妙に高い気がするが。)
著者は、さらに各種調査データを引用して、モテる男とモテない男の二極化が進み、モテる男が女性を独占しているという現実があるのだと結論している。この恋愛格差の拡大によって、モテないものは一層モテなくなる。そうした弱者が40代で1割もいる状況はマズいのじゃないか、改善しよう、声をあげようというのが著者の意見である。
童貞連合会員の、他の中年童貞たちの意見は、必ずしも著者と同じではなく、中には恋愛は無理と諦めている保守派や、性欲をなくそうと女性ホルモンを使った解脱派もいる。生々しい意見が飛び交い、現代の中年童貞の実態が浮かび上がってくる。
うーん。
童貞連合を企画し書籍に意見をまとめられる著者は十分に魅力的で、モテておかしくないと私は思うし、好きで童貞を続けている面があるように感じた。だからこの本の主張は、どう受け止めるべきなのか、よくわからない。これって本当に一般的で深刻な社会問題なのだろうか?。ネタなのだろうか。なんにせよ、やっぱり個人の問題でしかない気がするのだが。
文章は読みやすく、面白くて本としてかなり面白い新書である。最近はこういう映画も話題になったが、中年童貞って世界的に流行なのだろうか。歴史的にみると童貞=硬派=カコイイ時代もあったわけで、童貞や処女というのはいつの時代も注目される稀少性なのだよなあ。
・私たちはどうつながっているのか ネットワークの科学を応用する

人脈ネットワークの研究成果を一般向けにわかりやすくまとめた入門書。
ネットワークの研究によって、一般的な人脈は、(1)スモールワールド(世界中の人間は結構少ない人数(6人とか)で全員がつながっている)、(2)スケールフリー(知り合いの数は人にだいぶよって違い、少ない数のハブ型人間に集中している)という二つの特性を持つことがわかってきた。これはミクシイなどを使っていて、研究者でなくても、実感できるようになったと思う。
では、そうしたネットワークはどんな風に生成されるのだろうか、ハブ型人間になる方法とは、現実社会の人脈作りに活かす教訓は何か?。図をたくさん使った理論の概説と、現実の人間関係の考察がこの本の内容である。
たとえばこんな理論が解説されている。
・弱い紐帯の理論
いつもはあまり密接につながっていない知人を通して、有用な情報がもたらされるという理論。異なる環境にいて、異なる価値観を持ち、関係も深くはない友人知人が、普段と違った貴重な情報や関係接点をもたらす。
・構造的空隙の理論
今まで縁のなかったコミュニティ同士をつなぐ「重複のないコンタクト」のこと。知人のクラスタ間を結びつける人は、知人の数が少なくても、ネットワーク構造上で重要な役割を果たす。
・信頼の解き放ちの理論
赤の他人を信頼できるかどうか(一般的信頼)の度合いが高い社会では、離れたコミュニティにいる者同士が、近道を作って情報交換をすることが容易になる。内輪びいきの安心を大切にする日本より、初対面の相手を見極めつつ信頼するアメリカの方が、人間同士の距離を短く詰めやすい。
・BAモデルの理論
新たな構成員が増え続けて成長していくネットワークのモデルの一つ。人は強いものに魅かれやすい。「この人は有力だからつながっていこう」という心理によって、新規参加者は既に知り合いの多い人を優先選択する。その結果、少数のハブ型人間が一層影響力を強めて、スケールフリーの性質を強くしていく。
ネットワークの研究はどうしてもハブにばかり目が行きがちだが、ネットワーク内のクラスター(少ない人数の密なコミュニティ、数人の仲良し)の重要性について著者は強調している。クラスターは安心を提供すると同時に柔軟性をネットワークに与える。
全員がハブ型人間を目指して、知り合いの数を重複なく効率的に増やしていくと「共通の知人が少ない」ために変化に弱いネットワークになりかねない。会社でいえば「意思疎通がうまくいかない」「人が抜けたら控えがいない」という状況になってしまう。お互いが心配しあうような少人数の仲良し関係は、個人の心の生活を豊かにするだけでなく、ネットワークの頑健性を高めるものにもなる。
うまくいっている会社には、楽しい社外サークルや飲み会グループがあるものだが、小さなコミュニティ活動が、会社がうまくいっていることの理由である可能性もあるのだな、と思った。
そして、ハブ型人間になるには、能力(人は強いものに魅かれる)、先住(早いうちにネットワークに入ること)、運(ネットワーク形成をやり直したらとハブは今とは別の人かもしれない)の3要素が重要だそうである。
能力と運はともかく先住性は取り組みやすい。先住性は自分でネットワークを立ち上げれば一番目の住人になれる。インターネット上ならコミュニティの立ち上げは容易だ。ただし、外向きの矢印を増やすハブ型人間は、たくさん張った枝の維持コストも半端ではないから気をつけないといけないというアドバイスも書かれてあった。
むやみに人間関係を拡大しようと必死な人は、アテンションは集められても、レスペクトが集まらないのではないかと感じる。人間関係の数と方向性の他に、関係の質というものがあると思う。まだまだこの分野は研究の可能性がたくさんありそう。
・つながりの科学―パーコレーション
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000406.html
・人脈作りの科学―「人と人との関係」に隠された力を探る
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002338.html
子どもの成績のよしあしは何によって決まるのか?。小学校2〜6年の子どもを持つ母親1443人を対象にしたアンケート結果で、成績の良い子どもの家庭には、次のような条件がそろっていたそうである。
・父親の所得が高い
・母親の結婚前の所得が高い
・父親、母親、祖父の学歴が高い
・母親が料理をするのが好きである
・父親が土日休みである
つまり、高所得高学歴で余裕のある家には、生活の質の高さがあり、それが意欲の高さにつながり、成績の高さにつながる。成績が良い子の家の父母は、てきぱきと仕事をしたり、将来設計をきちんと考える、前向きの傾向があるそうだ。
子ども自身の性格面でも、
・成績のよい子の方が明るく、がんばりやで、スポーツ好き
・成績の悪い子は消極的で、だらしなく、友だちが少ない
という特徴があるという結果になっている。同時に、性格が明るいから成績が良いのではなくて、成績が良いから明るい性格になるという、因果関係も取りあげられている。そうして身につけた社会的に好ましい性格は、子ども自身の将来の成功につながりやすいだろう。
このアンケート調査は、この本ではその全貌が示されていないので、どこまで正しいものなのか分からない部分もあるのだが、質問項目や結果分析が週刊誌の見出し風でわかりやすい。格差間の大きな差異、おおまかな特徴はとらえているようだ。
その他にもこんなデータも明かされる。
・成績「上」の子どもがいる家庭の15%が日本経済新聞を購読している
・成績の良い子の母親は昼寝より読書が習慣の「がんばる派」
・英語への取り組みは成績とはあまり関係ない
・下流的な若者ほど白いご飯を食べている人が少ない(母親が料理好き)
・成績「上」の子どもの母親に「プレジデント・ファミリー」読者が多い
そして母親を、のび太ママ、スネ夫ママ、ジャイアン母ちゃん、しずかちゃんママに4分類する。「しっかりした性格で成績もよい」しずかちゃんママの子どもが成績が最も良いという。各母親の行動パターンが解説されている。
「下流社会」という流行言葉をつくった著者の新作。この本の読者層(子どもの親)にとって、気になる見出しが満載である。「下流」が話題になっても社会闘争のようにならないのは、その主な関心層が、中流以上に属していると感じている層なのではあるまいか。
日本の格差は世界の格差と比較したら小さい。高級車が走る道端で生き倒れの死体が転がっているような格差ではない。その流動性が低くなってきたのが日本の未来に影を落としているという点が問題なのだと思う。
この調査は初期条件(親の年収や学歴や行動パターン)による格差の固定を裏付ける趣旨だったが、逆に、初期条件が悪かったのに、格差を乗り越えたグループを調べてみたらどうだろうか。将来への希望とビジョンが見えてくる気がする。
ところで調査結果の中に「成績の良い子は勉強時間が長い」「成績の悪い子は勉強時間が短い」というデータがあった。いろいろな因果関係が分析されていて、この項目はあっさりとしか扱われなかったが、結局、本質は、勉強する時間の量なのではないのかなあと個人的には思った。
裁判の傍聴をライフワークにする著者が書いた、本当にあった裁判官のお言葉と解説。裁判官という、真面目で仏頂面のイメージが崩れ去っていく。面白い。
たとえば有名な話では、「この前から聞いてると、あなた切迫感ないんですよ」と姉歯被告は裁判官に怒られた。
裁判には、裁判官が説諭、付言、所感、傍論などの個人的見解を述べる部分があり、そこに人間性あふれる名言、迷言、失言、暴言が飛び出すことがある。著者はたくさんの裁判を傍聴し、そうした発言ばかりを収集して、文脈つきで紹介している。
「死刑はやむを得ないが、私としては、君には出来るだけ長く生きてもらいたい。」
「二人して、どこを探しても見つからなかった青い鳥を身近に探すべく、じっくり腰をすえて真剣に話し合うよう、離婚の請求を棄却する次第である。」
「暴力団にとっては、石ころを投げたぐらいのことかもしれませんが、人の家に銃弾を撃ち込むと相当、罪が重くなるわけです。」
「変態を通り越して、ど変態だ。」
など、裁判官らしからぬ私的な感情が混じった「お言葉」がある。
データとして、面白いお言葉を連発する裁判官の名前も記載があるので、裁判ウォッチャーの参考にもなる。
そういえば、ホリエモンの裁判について、面白いニュース記事を思い出した。
http://www.asahi.com/special/060116/TKY200703160146.html
『
小坂裁判長は判決理由読み上げ後、堀江前社長に向かい、東京地裁に送られてき
た、ハンディキャップのある子どもを持つ母親からの手紙を紹介し始めた。
「大きな夢を持ち、会社を起こし、上場企業までにした被告に対し、あこがれに似
た感情を抱いて働く力をもらった。ためたお金でライブドア株を購入して今でも持ち
続けている」。手紙にはそう書かれていたという。
小坂裁判長は「被告のこれまですべての生き方を否定されたわけではない。この子
のように勇気づけられた多くの人がいる。罪を償い、その能力を生かし、再出発を期
待している」と諭した。堀江前社長はそれを聞きながら、何度も深くうなずいてい
た。
』
これなどは、思いつきの行動ではなくて、あらかじめ手紙を準備した演出である。これで本当にホリエモンに対して説諭効果があるのか、裁判官がやりたかっただけなんとちがうか、とか思うわけだが、それがこうして報道されると、ニュースのドラマ性が高まって、注目が集まるのは確かだ。
この本を読んで、裁判って一度も傍聴したことがないのだが、一度、見てみたくなった。













