Books-Sociologyの最近のブログ記事

・希望論―2010年代の文化と社会 
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二人の気鋭の社会学者が2010年代の日本と世界について熱く語り合った本。対談なので、結論を出すわけではないが、その分、読者が考えを深めるための材料がいっぱい見つかる内容だ。日頃、ネットカルチャーについてもやもやしていることを次々に明瞭に言語化し軽快に批評する。この二人はやはりすごい。

気になったところを引用してコメントしてみる。

「宇野 そう、現代におけるインターネットは拡張現実「的」なのだと思います。ここで言う拡張現実的なものとは現実と虚構の現在、現実の一部が虚構化することで拡張することです。それは言い換えれば日常と非日常の混在でもある。ソーシャルメディアの普及以降、バーチャルな空間に閉じた人間関係を探すほうが難しい。インターネットは現実のコミュニケーションを「拡張」する方向にしか作用していない。」

リアルとバーチャル、リアルとネットが相互に重ねあわされる時代ということなのだが、リアルがバーチャルに移行するとか垣根がなくなるというのではなく、重なり合って拡張するのだということ。このコンセプトは現代の多くのデジタル化、ネット化現象についての基本原理だと思う。

濱野さんが世代間格差の問題について触れた個所。

「濱野 そもそも震災復興の問題に限らず、日本はこの十数年、ずっとこのデジタルディバイドが日本社会における「希望」をスポイルしてきたと思うんです。ここで僕がデジタルディバイドと言うのは、要するに世代差です。日本では若いデジタルネイティヴ世代と置いたアナログネイティヴ世代の世代間対立がはげしく、これが日本社会の変化を妨げている。ある一定より上の世代は、インターネットなんてものはよく分からないオタク系の若者だけが使っている暇つぶしツールだろとレッテルを貼るばかりで、まともに扱おうとしない。」

ある一定より上の世代の人口ボリュームがかなり多いのが日本の問題なのだと思う。生き方を変えてもらうことは不可能だろう。いっそ日本を日本と新日本に世代で分断して、二つの国にしたら希望が湧いてきたりして。でも私とか微妙な年齢だからどうしようか。

「濱野 アメリカのフロンティア精神を体現しているインターネットをそのまま日本に輸入すれば、日本社会もアメリカのように変化するはずだ。だからそれが希望なんだという立場は、たしかに美しい話に聞こえる。しかし、残念ながら、こうした「技術が社会を変える」という議論は社会学的には「技術決定論」といって、あり得ない。なぜなら技術というのは社会の一部につねにすでに組み込まれているのであって、むしろ社会のあり方こそが技術の使われ方を決定していくからです。」

そうそう。この箇所、梅田望夫批判でもあるが、シリコンバレーをそのまま日本にもってきてもうまくいかないということ。外来植物の種を持ち込んでも、日本の土壌でうまく育つかという問題であると思う。いっそ土壌を入れ替えるという手もあるわけだが、結局、日本を動かしていくには、

「宇野 あとひとつ、2010年代のネットカルチャーに「希望」を見いだすとすれば、やはりそれは「政治」との回路をどうやって取り込んでいくのかが鍵になると思います。インターネット上をうろつく匿名集団が、ある種の「集合的無意識」として大衆の欲望を映し出すことで、わけの分からない奇妙奇天烈なネタがボコボコと生み出されてくる。2ちゃんねるやニコニコ動画は、そうしたネット的「生成力」の受け皿となってきた。それはそれでいいとして、問題はそうしたインターネット上の匿名的無意識が発揮する<文化的>なパワーを、どうやって<政治的>な回路に繋げ、これからの日本社会を変えていくための原動力に変換していくかだと思うんです。」

ということなのだろうな。

二人の議論は縦横無尽に飛んでいくが、ときどき希望というキーワードで収束する。新しいデジタル世代、ネット世代の側から、世の中を変えていこうと考えたときの現実的な視座を与えてくれる良書だ。

・Social Good小事典
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ソーシャルで始まるキーワードは多い。

ソーシャル メディア
ソーシャル ネットワーク
ソーシャル ゲーム
ソーシャル ビジネス
ソーシャル キャピタル
ソーシャル ラーニング
ソーシャル リーディング
・・・

現代世界において"ソーシャル"の持つ幅広い意味を、最先端の事例紹介ベースで把握することができる素晴らしい本。グローバル視野での情報量が圧倒的。この方面のトレンドを知りたい人には安心しておすすめできる、今が旬の本。

ソーシャルグッドという言葉は、日本語としてはまだ新しいが、「「ソーシャルグッド(Social Good)」を直訳すれば「社会」と「よいこと」です。今までは、例えばNPO、チャリティ、CSR、サステナビリティ、ボランティアと呼んでいたような枠組みや行為が、もはや一言で表現出来ないような状況になっていることから、この「ソーシャルグッド」なる言葉が、「社会によい行為」を広く意味する形容詞として欧米圏を中心とした海外において簡易的に使われているように感じます。」とこの本では定義している。

アクティビズム、社会リスク対応、メディア、お金、オープンビジネス、組織より個人という6章に、たくさんのグローバルトレンドが事例ベースで紹介されている。もともとは講談社のニュースサイト「現代ビジネス」の連載であるため数ページの読み切りの記事が続く。読みやすい。

先日、著者のソーシャルカンパニー代表の市川裕康さんと、この本の読書会を開催した。

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イベントのディスカッションでは、海外と日本との違いについて質問がでていた。ソーシャルといえばソーシャルゲームやソーシャルメディアは流行っているが、ソーシャルグッドという観点ではどうなのか。震災復興のムーブメントが大きくあるわけだが、欧米に見られるような、エリート層や富裕層がソーシャルグッドに積極的にかかわっていくような、ノブレスオブリージュ的な動きがないのではないか、などという話もあった。キリスト教と仏教、文化の違いもありそうだが。

ソーシャルをめぐって世界でさまざまな事件や運動が起きている。ソーシャルという言葉自体の定義、ニュアンスが変容しているようにも思う。新しいテクノロジーが新しい「ソーシャル」を生み出している。凝り固まった政治や社会とは、無関係に新しい「ソーシャル」が続々と生まれてきて、世界を良くも悪くも変えていく。その変化の予兆をとらえるのに、この本はよかった。

・「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー
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イマドキの若者の風潮を絶妙にとらえていて面白かった。

「意識高い系」というのは、著者によるとこんな特徴を持っている。

1 やたらと学生団体を立ち上げようとする
2 やたらとプロフィールを「盛る」
3 すべては自己アピール 質問が長い
4 ソーシャルメディアで意識の高い発言を連発
5 人脈をやたらと自慢、そして利用する
6 やたらと前のめりの学生生活を送る
7 人を見下す

この本、読んでみて思ったことは、いやー、この意識高い系って学生時代の私じゃないか、いや完全に昔話じゃなくて、その延長線上に今の私がいるじゃないかということ。実は著者もかつては同じだったらしくて「そう、今では、ビジネス書にハマる人たちについて「そんなもの読む前に仕事しろ!」「自己啓発難民になるな!」とドヤ顔で説教をするアラフォー親父になったのだが、それは自分の経験があったから言えることなのだ。私にもそんな痛い時代があった。」なんて素直に吐露している。ですよね。

私は著者と違って意識高い系の若者が大好き。そういう学生を見ると応援したくなる。今は浅い気がしても、やり続けているうちにいろいろ経験して、やがてその浅さを自覚して乗り越えるだろうとポジティブに考えて。ただ少し気になる部分もある。

バブル時代の「意識高い系」学生も十分に軽かったのだけれど、今の「意識高い系」の学生の方がよりフワフワに軽くなったなと感じる。会社立ち上げました、とか、学生団体の代表で、とか軽く報告してくるが、実力、実践力が、昔の意識高い系の方が高かった気がしてならない。

20年前と比べていろんなハードルが下がっているのだ。学生団体や会社を起業する、広く自己アピールをするのが簡単になった。昔は会社を作るには資本金1千万円必要だったが今では1円でも起業できる。ソーシャルメディアがあるから、シャイな性格でコミュニケーション能力が弱くても、学生団体をつくりやすい。自己アピールの場はいくらでもある。そんな環境変化が、意識高い系のフワフワ度を増すことにつながったのではないだろうか。

ハードルをあげて、起業してすでに売上1億以上あります、NPOだったら認定NPO化達成してますくらい言ってくれれば、結構、君やるじゃんと思えるのだが。

著者の分析では、「意識高い人たち」と「意識高い人たち(笑)」がいて主に後者を中心に批判する本なのだが、特にフワフワしたセルフブランディングが批判の対象になっている。底の浅さが見えるプロフィールなんて無意味を超えて有害だろうと。

「いわゆるこの「セルフブランディング」に対する私の最大の疑問は、その行為がそもそも「ブランディング」になっていないのではないかということである。むしろ、自分のブランドを壊すことになっているのではないかとさえ思ってしまう。」

若者へのダメ出しが多いが著者が好きな若者ってどんなのだろうと気になった。次はそういうのも書いてほしい人だなあ。

・ソーシャル・キャピタル入門 - 孤立から絆へ
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東日本大震災以降、絆とか思いやりという言葉がメディアに氾濫したが、その中身をちゃんと確認しないと、全体主義や感情論に流されかねない。ひとのつながりは何を生み出すのか、社会科学者たちはずっと研究してきたわけだから、その成果をいま読んでおく必要がある。

著者は社会関係資本(ソーシャルキャピタル)を「心の外部性を伴った信頼・規範・ネットワーク」として定義した。外部性とは「個人や企業などの経済主体の行動が市場を通じないで影響を与えるものであり、便益を与えるものを外部経済、損害を与えるものを外部不経済」という意味。心の外部性というのは、信頼、お互い様の規範、ネットワーク(絆)といったものが果たす役割を指している。

米国ではロバート・D・パットナムが著書『孤独なボウリング』で一人でボウリングをする孤独な人間が増えたというデータからとコミュニティの崩壊を見事に語って見せたが、そういえば日本でも、ひとり消費は確実に増えている。ひとりでカラオケ、ひとりで焼き肉、ひとりで恋愛(ラブプラスとか)...。ひとのつながりを深めることが大きな目的だった行動を、現代人は一人で楽しむようになっている。大震災は、信頼、お互い様の規範、ネットワーク(絆)を再評価するいいきっかけを与えてくれたとはいえるかもしれない。

さまざまな社会学の研究が紹介されている。社会関係資本が高まれば当然、犯罪や暴力が減って安定した地域ができるそうだが、ちょっと興味深いのは「犯罪が多い地域では、人はよく知らない他者とのつながりを放棄し、仲間内だけのつきあいに限定するようになる」という現象。泥棒が多い地域では友人が増えるが、知人が減る。開放的な人づきあいができなくなるそうなのだ。狭く閉じた絆ばかりを温めるのは、排他的なコミュニティをつくってしまうことにもなりかねない。これはおそらく日本というレベルでもいえるのではないだろうか。いま日本人が持つべきは、アジアや世界にまで開いた絆である気がする。この部分を読んで、大震災直後の過度な"絆"キャンペーンに覚えた違和感に対して答えをみた気がした。

家庭内の社会関係資本(家族が仲良いということ)は、子供の学業成績、退学抑制、大学進学率に影響を与える。学級内の社会関係資本は学業成績と退学抑制に影響する。学校内の社会関係資本(教師同士の仲の良さ)も学業成績に影響を与える。などという教育関係者も知っておくべき研究結果もあった。学校選びにも(そしてたぶん会社選びにも)、人間関係を見ることは本質を見ることにつながっているといえそうだあ。

社会関係資本のよいところばかり取り上げる本ではない。ダークサイドとしてしがらみや村八分、反社会的ネットワークなども挙げられている。絆は大切だと素直に思う人も、「絆」に違和感を覚える人も、楽しく、納得しながら読める本だ。

・限界集落の真実: 過疎の村は消えるか?
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「限界集落」とは65歳以上の高齢者が人口の半数を超え、独居老人世帯が増加し、社会的共同生活が困難な集落を指す。限界を超えると人口、戸数がゼロになり「消滅集落」となる。過疎化現象の末路として80年代に問題提起され、その後2007年の参議院選挙で地域間格差の問題に絡んで再びクローズアップされた。そして国は過去7年間で191の集落が消えたと発表した。

高齢化→集落の限界→消滅。遂に過疎化も行きつくところまでいったかと、私もそう受け止めていた。ところが地域社会学者の著者は「消滅しそうな集落など、いったいどこにあるのか?」と意外な問題提起をしている。

著者は長い間常識ととらえられてきた「限界集落」というモデル自体に疑問を呈する。そして自らフィールド調査を行って、高齢化で共同生活に支障をきたして消滅に至った集落は実際には1件もないという調査結果を発表する。確かに1960~70年代には急激な人口減少と挙家離村により集落の消滅があったが、その後はダム建設とか廃鉱による廃村はあっても、自然消滅というケースは一件もみつからない。国の発表の191の村が消滅したという数字は、中身をよく調べるべきだったのだ。

生きた集落というのはしぶといらしい。高齢化が進んで戸数が減った集落でも、案外に老人たちは元気にやっている。子供世代も盆暮れ正月には帰ってくる。近くの街に住んでいる息子らが農業を手伝うためちょくちょく帰ってくる家もある。アンケートでは将来的には田舎に戻りたいという声も多いという。だから現実には、今住んでいるおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったからといって、ムラが消えるということにはならないのだ。

農地や山林などの家産、そして親の扶養責任、郷土意識などの責務や価値が、いったんは出て行った人々をムラにつなぎとめているという。だから少なくとも過去20年では限界集落という問題はなかったと著者は結論している。高齢化よりも、少子化によって次の世代が生まれなくなるこれからの方が危険なのだ。

限界集落の誤解はメディアのせいでもあると著者は指摘している。「限界集落はもう駄目だ」と言うイメージであおると地域もネガティブに考え始めてしまう。「かわいそうな」集落と、下りてくる国の救済的な過疎対策という図式がつくられていく。本当は、過疎地の集落の内側だけでなく、親子孫の3世代の生き方、都会と田舎の人口の還流といった全体でみなければ、本当の問題がみえてこない。

「過疎地の現場では、取材に来た記者に「大変でしょう?」と聞かれて、ついうっかり「ええ、大変です」と答えてしまっていることが多いようだ。それどころか、「問題はないか?」としつこく問う記者に、根負けしている様子さえうかがえる。場合によっては、遠いところまで来て気の毒だと、現場の方であわせてあげていることもありそうだ。実際、それに似たようなことを筆者は何度も目撃してきた。そんな取材でつくり上げられていく限界集落のイメージが、あたかも現実であるかのように一人歩きしていることに、多くの人々が困惑しているのが実情なのである。」

周辺から中心はよく見えているが、中心から周辺を見るのはきわめて難しいということが、本書の問題意識の根幹にある。

・見て見ぬふりをする社会
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見て見ぬふりが破滅を引き起こす。エンロンの経営破綻、イラクのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待、スペースシャトルチャレンジャーの打ち上げ失敗、BP社の製油所爆発事故など、大事故、大事件の関係者は危険を知っていたが、みな見て見ぬふりをしているうちに破綻に至っている。こうしたことは最近の日本にも多い。福島原発の危険性も、オリンパスや大王製紙の不正も、当事者は見て見ぬふりをしていた。この本は、大企業の役員会や、専門家の頭脳集団が、なぜそんな状態に陥ってしまうのかの研究だ。

世界で起きた大事故、大事件の背景に見て見ぬふりがあり、その原因として権威への服従、周囲への同化、傍観者効果、遠い距離、分業、極度の疲労、頑固な信念、倫理観の崩壊などがあるとし、それぞれ典型ケースを使って説明されている。組織文化や個の資質もあるが、私たちの脳にもひとつの原因があるらしい。

脳には愛によって活性化する領域があると同時に愛によって活性が止まる領域があることがfMRIの検査でわかっているそうだ。たとえば子供や配偶者のことを考えている間は、脳の否定的な感情や社会的判断を司る領域が不活性になる。そして我々はしばしば知ることができて、知るべきである情報があるのに、知らずにいる方が心地いいから知ろうとしない。認知不協和。こうした現象の中には神経科学で検証されているものもある。

権威への服従も見て見ぬふりの大きな原因だ。ヒエラルキーと服従は自らの生命の危険が及ぶような場面でさえ見て見ぬふりを引き起こす。飛行機の墜落事故のうちの4分の1がコックピット内の「破滅的な服従」で引き起こされている。商業路線の機長があまりに高い権威を持っているために、副操縦士や乗務員が機長の判断に異を唱えることができなかったことが事故につながっていたのだ。

悪いのは裸の王様のトップだけでもない。大きな組織の中では誤りを発見しても、構成員はトラブルメーカーだと思われたくない、どうせ何を言っても変わらないと思って黙ってしまう。傍観者だらけの組織がトップの暴走を許し、そして組織の各所が互いの欠点や悪い所を同化させていく。

「人は同じような考えの者同士で固まっていたいという本能があるせいで、違う種類の人々や価値観や経験に触れることが少なくなる。ゆっくりと、しかし確実に、自分の知っていることだけに集中し、他のすべてが見えなくなっていく。現代は以前より選択肢自体は増えたのに、狭い好みを守るようになった。」

多様性、透明性のインターネット空間だって同じだ。結局のところ人間の習性で情報交換のコミュニティには似た者同士が集まる。異なる価値観で異議を唱えるのは勇気がいるし、下手をすると排斥されてしまう。検索で異論を発見できる、容易にエビデンスをリンクで示せる、というところは希望かもしれないが。

見て見ぬふりを生みだす私たち自身の脳や集団の持つ性質を深く理解することが、見て見ぬふりを防ぐのに大切なのだと本書は教えている。

・リトル・ピープルの時代
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とても面白い。虚構の時代から拡張現実の時代へ。ユニークな社会文化論。

シリーズ最新の仮面ライダー フォーゼは、初代仮面ライダー世代の私からみたらとにかくヘンだ。バッタみたいな仮面ではなくて、ロケットみたいな被り物を被っている。昔だったら正義の味方ではなくてショッカーの怪人の一人のような外見だ。ストーリーもシリーズ初の学園物で異色の展開。主人公はリーゼントに短ランのツッパリ風だが、転校してくるや「全校生徒と友達になってやる」と宣言して皆に呆れられる。空気の読めない主人公をアメフト部長一派がリンチしているとモンスターが現れる。主人公は友達が持っていたフォーゼドライバーを装着して、仮面ライダーに変身し、怪物を倒す。そして仮面ライダー部を結成して学園の平和を乱すゾディアーツと戦う日々が続いていくことになる。

・仮面ライダーフォーゼの教科書
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仮面ライダーはシリーズ作品として40年間、脈々と続いてきた。しかしこういう特撮モノは、マニアをのぞいたら子供時代の数年間ハマるだけの番組だから、昭和も平成も広く知っている人は少ない。実はこのシリーズは知らない間に、社会の変化を反映する形で、単純な勧善懲悪からより複雑な人間ドラマへと変化を続けていたのである。

著者は、日本を代表する二つのヒーロー ウルトラマンと仮面ライダーの40年間のほぼ全作品を、並の頭の読者ではついていけないほど丁寧に丁寧に分析していく。すると、あら不思議、そこに日本の時代精神の変遷が鮮やかに浮かび上がってくるのだ。それは著者によれば、ビッグブラザーの死であり、リトルピープルの台頭という変容である。

「もはやビッグ・ブラザーのもたらす縦の力、遥か上方から降りてくる巨大な力ではなく、私たちの生活世界に遍在する横の力、内部に蠢く無数のリトル・ピープルたちの集合が発揮する不可視の力こそが、現代においてはときに「悪」として作用する「壁」なのだ。大きなものから距離を取り、解体していくことではなく、遍在する小さなものにどう対するか、接するか、用いるか。無数に蠢くリトル。ピープルたちにいかにコミットするか───そのモデルを提示することこそが、現代における「正義/悪」を記述する作業に他ならない。」

小説『1984』に登場したリトルピープルのはたらきって、具体的にはなんだろうか?著者は貨幣と情報のネットワークが代表的なそれであると指摘している。

「ビッグブラザーという近代を支えた疑似人格回路は「政治の季節」の終わりとともに徐々に壊死を始め、人々はこの回路がもたらす「大きな物語」を虚構の中に求めるようになっていった。しかし、グローバル/ネットワーク化の浸透によってビッグブラザーが完全に死した現在───国民国家よりも貨幣と情報のネットワークが上位の存在として君臨するようになった現在、私たちが虚構に求める欲望もまた変化することになる。貨幣と情報のネットワークが世界をひとつにつなげた今、虚構は<ここではない、どこか>───すなわち外部に越境することではなく、<いま、ここ>───この現実の生活世界の内部を掘り下げて、そして多重化することでその姿を現す。」

現代社会は大きな物語という外部を失い、ひたすら自己目的化するコミュニケーション連鎖が広がっている。その世界から逃げるのではなく、むしろ内部へ深く深く潜ることで世界を変えていくことができると主張する。必要なのは革命ではなく、ハッキング。

もうひとつの世界という虚構の大きな物語をつくりだした時代は終わり、現実の世界に小さな物語を立ち上げる拡張現実の時代に我々は生きている、と。何が正しいか、何が価値があるかわからない時代になった、自分が信じられるものを信じるしかない。小さな物語万歳、要するにTwitterとかニコ動とかラブプラスとか、もっとやれ、どんどんやれ、無数のリトルピープルが拡張現実をハックすれば世界が変わるぞと、わかりやすくいえばそういうことみたいである。

仮面ライダーとウルトラマンの徹底分析の章は正直、長くてマニアックで、読むのが大変骨が折れたが、時代精神の変容を抽出した結論としての文化論は、納得と共感できる内容で、素晴らしい出来だと思った。途中で投げるともったいない。頑張って全部読むといい本だ。

利他学

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・利他学
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これは面白かったなあ。利己的に活用もできそうな利他学の本。

人はなぜ赤の他人を助けるのかの科学。

自分が損をして相手を助ける。赤の他人ではなく血を分けた近親者を助ける利他行動は、わかりやすい。自分が犠牲になっても、相手と共有した遺伝子が次の世代へ残っていくから、そうするという理由で、説明がつく。それに同じ場所に暮らすものどうしなら、今日は助けても、明日は助けてもらうことになるかもしれない。お互いさまの直接互恵性は利他行動の基本だ。

しかし、人間は見返りを期待できない赤の他人も助ける。電車では老人に席を譲るし、道で困っている人を見捨てない。見返りが期待できない大きな集団の中で、間接互恵性を発揮する大きな理由として「評判」があるという。「あの人は親切だ」いう評判があれば、集団内で利他的にふるまってもらえる可能性が高くなる。

利他性を引き出す方法が社会心理学の実験からわかってきている。この本で一番面白かった部分だ。たとえば人間はその場に「目」があると利他的になる。本物の人間の目でなくても、「ホルスの目」のようなシンボルで十分で、目があるだけで「ビッグブラザー」が意識され、他者への分配が増えたり、公共心が高まったりする。目の代わりに鏡でも自意識を高める効果があるそうそうだが、とにかく視覚的に「見られている」という意識が利他心を引き出すかぎなのだ。

そしてもうひとつの要素が異性の存在。ただし男性の場合のみに限られるそうだが。ある実験では、魅力的な女性に見られていた男性参加者は報酬額の6割を寄付したが、他の条件の参加者はせいぜい3割4割の寄付にとどまった。なんとも男はわかりやすくできている。

そして人は、見た目で他者の利他性をかなり正確に認識する能力を持っている。顔にしわがよる頻度、うなずきの頻度、眼輪筋が動く程度、微笑みの左右対称性が高いほど、一度の微笑みあたりの時間が短いほど、その人物の利他性は高いと判断される。およそこの基準で高利他主義者と低利他主義者は判別可能なのだ。微笑んだ時の目じりのしわはポイント。

「他者の目がある」「鏡がある」「異性の視線」。そういう環境をつくれば人間は利他的になる。それってどういう空間だろうと考えてみたが、実名実写真のフェイスブックの環境がまさに満たしているのではないだろうか。現実の革命をも起こすコラボレーションがしばしば発生している秘密が、実は顔写真なのではないかと思った。

それから利他主義者はそれが報われる環境に生活しているという研究結果も示されている。万人の万人に対する闘争のような環境では利他主義者は成り立たない。親切な人が報われる社会には親切な人がすみつくというわけ。ひとりひとりの心がけ次第で、世の中は良くも悪くもなる、ということだろうか。

社会科学の本だが、対人スキルのノウハウも学べる非常に濃い本である。コミュニケーションの本質を考えたい人におすすめ。

・人を助けるとはどういうことか 本当の「協力関係」をつくる7つの原則
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/-7.html

・災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/03/post-1401.html

・気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/09/post-136.html

・強い者は生き残れない 環境から考える新しい進化論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/04/post-1202.html

・アメリカを変えたM世代――SNS・YouTube・政治再編
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アメリカで1982年~2003年に生まれた世代をミレニアムの頭文字をとってM世代と呼ぶ。アメリカ史上もっとも人口が多く、もっとも多様な人種が混在する世代であり、彼らは米国の未来に大きな影響力を持ち始めている。政治におけるM世代の影響を中心に、米国のいまを著名な政策コンサルタントと世論調査の専門家が解説する。年長の世代が、今の若者たちも、自分たちが若者だった頃と同じように行動すると思ったら大間違いだから、目を覚ませという警鐘を鳴らす内容にもなっている。

M世代は、楽観的で、性別や人種にこだわらず、グループ志向、コミュニティ志向が強い平和主義者たちだ。そして彼らはデジタルネイティブであり、FacebookやTwitterを使ってネットワーク化が進んでいる。選挙に際しては"ネットルーツ"と呼ばれる政治勢力を形成し、数の多さも背景に有力な有権者層を構成している。政治に関心はあるのに、その世代に「政治的ボス」はいないというのもネット時代ならではだ。テレビをあまり見ない。

そしてM世代の3分の2が自分の人生を「素晴らしい」または「かなり良い」と評価している。75%が5年後の生活は今より良くなっていると予想している。この楽観性は、他の世代が若かったころと比較しても際立っており、若いからではない、M世代のユニークな特徴だそうだ。不況で育って将来に明るい未来を描けないでいる日本の若年層と対照的である。

世代理論家のウィリアム・ストラウスとニール・ハウはアメリカの近代史を

1 理想主義世代
多数派で内面を大事にする。自分の価値観で行動。ベビーブーマー世代。

2 反発世代
少数派の世代。独立独歩で起業家精神と現実感覚が強い。X世代。

3 市民社会世代
多数派で社会性を大事にする。M世代、1サイクル前のGI世代

4 順応世代
リスクを避け、体制におもねり、妥協しがちな少数派世代。まだ幼稚園児。

の4つの世代が20年ごとに循環するサイクルとみている。重要なのは、多数派であり改革派でもある、1の理想主義世代と3の市民社会世代である。サイクルの中で、社会をひとつの完成形にするのがM世代なのだ。

M世代は、議会による法律制定より、有権者による採択の方が、人々の利益になる法律を生み出しやすいと考えている、という調査結果にみられるように、直接民主制承認の傾向がある。みんなで議論をして決めるのが好きだ。男女も人種も年齢も、何事も差別せず、分け隔てなく接する。まさに民主主義とネットワークの申し子みたいな世代である。

2012年の大統領選挙ではより多くのM世代が投票権を獲得して、政治再編を巻き起こすだろうといわれている。従来のアメリカ政治の論点だった、銃や中絶でリベラルか保守かという価値観の問題はM世代にとってはあまり関心がない。マスメディアを握ったものよりも最新の情報技術を活用した候補が支持を得ることも間違いないと著者は予想している。

アメリカのこれから、特に来年の大統領選挙のゆくえを考えるのに、大変示唆に富む面白い本だった。あとがきでは日本にも、対応する4つの世代があるとあとがきで監訳者が書いているが、米国のように人口が多い世代ではないから、政治勢力としてはあまり期待できないのではないかと思ったりもする。

最近みた論文にこんな選挙制度改革論があった。

・次世代へのコミットメントに国民的合意を
世代間資源配分の公平を目指す
選挙制度の改革
http://www.nira.or.jp/pdf/monograph33.pdf

"次世代に「投票権」を

次世代への適切な投資を実現させるための政策として、2009 年に全人口の 16%を占め
ながらもその意思を無視されている未成年に選挙権を与え、その権利を彼らの親に代表
てもらう、というのはどうであろうか。

これはポール・ドメイン(Paul Demeny)氏が提案した投票方式である。このドメイン
投票方式に従うならば、子供のいる有権者は、本人の 1 票の他に子供の数だけ票を所有することになる。子供に親が 2 人いる場合は、子供 1人につき 0.5 票を親が投票することが妥当であろう5。日本の場合、2007年の人口構造を使って計算すると、この投票方式を導入した場合の票の分布は図表 5 のようになる。親が投票する票は全体の 24%から
37%に増加する一方、55 歳以上の票は全体の 43%から 35%に減り、勤労・将来世代の票が55歳以上の票と拮抗するようになる。これにより長期的な政策の影響を受けやすい次世代の意思が、政策決定に反映されやすくなるだろう。"


少数派の若年層の世代を守るには、これくらいの思い切ったアイデアが必要なのではなかろうか。

・創造的福祉社会: 「成長」後の社会構想と人間・地域・価値
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「創造的」という言葉と「福祉」という言葉の結婚の先に未来をみる。

著者のこれからの福祉国家、社会保障のあり方の考え方は

1 事後から事前へ 人生前半の社会保障
2 フローからストックへ ストックに関する社会保障
3 「コミュニティ」そのものにさかのぼった対応と政策統合

というものだ。

これまでは退職期、高齢期に集中していた生活上のリスクが就職難で若年層にも及ぶようになった。生計を立てるフローが危ないだけではない。格差を表わすジニ係数をみると、日本人の年間収入では0.308、貯蓄では0.556、住宅・宅地資産では0.573となっているそうだ。だから日本社会はフロー面よりストック面での格差が大きい社会なのだという。福祉政策においては、市場経済からの落伍者への事後的救済策としてではなく、「コミュニティそのものにつないでいく」ことも重要であるとする。

著者は、未来のセーフティネットを、その中で生きていける、いきがいの持てるコミュニティと定義する。そこでは、労働に対する非貨幣的な動機づけ、コミュニティや場所の価値の再発見、そして多様な幸福の追求が可能になる。コミュニティといっても農村モデルへの回帰などではないのが現実的だ。

「したがって、日本社会における根本的な課題は、個人と個人がつながるような「都市型のコミュニティ」ないし関係性をいかに作っていけるか、という点にまず集約される。これについては1 「規範」のあり方(集団を超えた付言的な規範原理)という点が大きな課題となり、また2 日常的なレベルでのちょっとした行動パターン(挨拶、お礼、見知らぬ者同士のコミュニケーション等)や、3 各地におけるNPOなど新たなコミュニティづくりに向けた様々な活動や事業の試みが重要となると考えられる(広井 「2009b」)」

たとえば「日本の大都市では見知らぬ者どうしがちょっとしたことで言葉を交わしたりコミュニケーションをとるということがほぼ全くない。」とか。地域ソーシャルネットワークやソーシャルアパート(ルームシェアの発展形)などの取り組みが、そうした社会の実現に近かったりするかもしれない。

そして少子高齢化社会と環境親和型社会の解として「経済成長を絶対的な目標としなくても十分な『豊かさ』が実現されていく社会」=「定常型社会」という理想を掲げる。これまでは経済成長や生産拡大に寄与する行為や人材が価値あるものとされ「創造性」もまたその枠組みの中で定義されてきた。しかし、幸福や生きる価値に重きを置いた「規範的価値と存在の価値の融合」に寄与する多様な創造性を評価すべきだという。相反するように聞こえる「創造的」と「福祉」という言葉がそこでつながる。

・いつだって大変な時代
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歴史を振り返ると人はつねに「いまは大変な時代だ」と言い続けてきた。現在意識は常に大変だということを自覚しないとなにか間違うよ、と指摘する堀井憲一郎(落語論、ずんずん調査、ディズニーリゾート便利帖などウィット効きすぎなエッセイスト)の論考集。
つねに「大変な時代」になってしまう理由がいくつも挙げられているが、たとえばひとつは自分が大切という意識だ。

「私たちは、とにかく「自分が特別だ」とおもいたいのである。ほかはともかく自分だけは別だ。これが、いまの私たちのとても大事な支えである。アイデンティティと言ってもいい。その延長上として、「特別な自分が生きているいま」は特別であってもらわないと困るのです。」

確かに我々は同時代を歴史の大きな転換期とみなしたがる。顕著に大きな変化がない場合には「過渡期」なんて言葉に言い換えたりする。この特別だと思いたい人々の心理をうまく操るのが政治家であったりもするから気をつけないといけないのだ。

そして、著者はこんなこともいっている。これも共感した。

「日常生活は、ふつう、自分やその周辺のことだけで手一杯になってしまう。でも、社会とつながっていたくない、と言うわけにはいかず、自分も社会の一員だということを示そうとするとき、手っ取り早いのが「いまは大変な時代ですね」という言葉なのだ。日常を維持して、毎日を過ごしていくためには、いまは大変な時代だ、と考えていたほうがラクなのである。それは生きて行く活力としてとても必要なものなのだ。 ただ、それを「じっくりとものを考えるとき」にスライドしないほうがいい、という話でもある。」

大変な時代と言うのは掛け声に過ぎないのに、本当に状況を大変だと認知してしまうと、客観的な見方ができなくなってしまう。経済恐慌が起きようが、原発が爆発しようが、まあそういうこともあるだろうくらいに構えて、メディアや為政者に踊らされない余裕を、3.11後の私たちは身につけるべきなのかもしれない。

現代を客観化、相対化して、批判的に読み解くエッセイ集。ムーミンでいうならスナフキンみたいな人だ。

・落語論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1050.html

・東京ディズニーリゾート便利帖
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/ix.html

・2100年、人口3分の1の日本
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歴史人口学者が書いた刺激的な本。長期的視野で人口オーナスの行方を鮮明にする。

  "人口ゼロ成長"をめざせ
 15年ぶり 白書で6項目の提言
    子供は2人が限度

1974年(昭和49年)4月16日の毎日新聞記事の紙面複写が引用されている。戦後2度目の「人口白書」では、当時1億1千万人の人口増加傾向を、いかに早期に止めるかが国家の課題であった。「静止人口」を目指して政府主導の「少子化」がすすめられた。現在の「少子化対策」の逆で出生率を下げる施策がうたれた。そしてついに2005年には人口の減少が確認された。今日の日本の人口減少は37年前の"夢の実現"にあたる。
そもそも縄文以来の歴史を振り返ると日本列島の人口は4回減少したことがあったそうだ。過去の減少も、気候変動や戦争、災害ではなく、「文明の成熟化」が主な原因だったというのは興味深い。ただし今回はエネルギー資源や原材料があまり残っていないから、人口の再増加が期待できないかもしれないという予見も示される。

現在の変動傾向が続けば、100年後、日本人口は4000万人になる。この本には、人口4000万人時代の暮らしと経済、都市と地方、人間関係、そして外国人5000万人の未来、人口100億人の世界が論じられている。

マクロの変化も重要だが、一般読者として興味深いのは、人々の暮らしや人間関係、都市と地方の様子がどのような影響を受けて、どのように変貌を遂げるのかだ。

・人口の4割が高齢者で独り暮らしの老人が2030年には700万人
・人生90年時代の長すぎる老後・長い結婚生活。「永遠の愛」は誓わない時代に?
・四国、東北、北海道は2035年までに人口が20%減り、一部の大都市が増える
・人口の3分の1が外国人になる?
・豊かな田園国家という方向性もありえる

歴史や人口統計という現実的なデータにもとづきつつも、著者が語るのは、現状とは大きく違う刺激的なイメージだ。人口論がただの計算ではなくて、文学的構想力、社会的想像力をふくみうるおもしろい学問分野なんだなと見直した。

人口減少の問題は労働人口の比率が低下して、経済を支える層が少なくなってしまうこと。日本の場合は、高齢者の高い労働意欲や女性の低い社会進出度に大きな成長の可能性がある。そして、成長を続けるには大胆な産業構造の変革が必要だとのこと。私はIT畑だからどうしても○○×ITで掛け算したくなるわけだが、

女性 × IT =
高齢者 × IT =

もしくは

女性 × 高齢者 × IT =

で、ブレストしてみるか。

・人口負荷社会
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/07/post-1474.html

・人口負荷社会
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地震予知や景気予測と違って人口動態は、かなり高い精度で未来を予測できることがわかっており、将来展望の基盤である。

少子高齢化の何が問題なのか、"人口オーナス"をキーワードに日本の未来に与える影響を明確にする。人口オーナス(負荷)とは人口の中で働く人の割合が低下することが経済的にマイナスに作用することを指す。プラスの作用を及ぼす人口ボーナスの反対後である。

2005年と2050年では、日本の人口には、

人口総数の減少 1億2800万人 → 9500万人
高齢化の進展  老年人口(65歳以上)の比率が20.2% → 39.6%
少子化の進展  年少人口(0~14歳)の比率が13.8% → 8.6%

という大きな変化がほぼ確実視されている。これまでの人口増加時代に設計された日本の社会保障制度は人口オーナス時代に問題を引き起こす。たとえば年金の破綻はわかりやすい例だ。労働力人口が減って高齢者人口を支えられなくなる。長期的には深刻な労働力不足、資本不足の原因にもなるという。労働力としての女性の社会進出と高齢者の就業率の引き上げなどが必要になる。

特に有効そうに思えるのが女性の社会参加だ。日本女性の経済・社会への参入度合いは国際比較で異常に低いというのは知っていたが「女性の貢献がそのまま現在の経済活動に上積みされると仮定されると、日本の女性がノルウェーやスウェーデン並みに経済活動に参画していけば、日本のGDP、一人当たり所得のレベルは23%も高まる計算になる。女性の経済参画の力は相当大きいのである。」というほどの改善の余地があるとは驚いた。

それから少子高齢化が民主主義を脅かすという著者の指摘は極めて重要だと思った。高齢者が増加することは、選挙民に占める高齢者の比率が高まる「シルバー民主主義」の原因となる。

「日本の投票者の分布は現在すでに大きく高齢者に偏ったものとなっており、その度合いは今後急速に強まることになる。これは人口オーナス期の社会的意思決定を方向付けることになる。 こうした投票者構成の変化によって、政治的意思決定は、勤労世代よりも引退世代の意思が反映されやすくなったり、将来世代への負担の転嫁が行われやすくなったりするだろう。」

未来の世代の意思が無視される民主主義はまずい。少数派でも若者の意思が反映されるように、投票制度などを改めないといけないのだ。多数決の論理でシルバー政策ばかり考えていたら、日本の未来はその先がなくなってしまう。

少子高齢化は日本を追う形でアジア諸国でも急速に進むことが予測される。日本は課題解決の先進国としてモデルを示すことで、再びアジアの経済リーダーのポジションを得ることができるという。いままさに考えるべき重要課題だと改めて強く認識させられる。

・一万年の進化爆発 文明が進化を加速した
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非常に面白い。知的好奇心をかきたてられる。

ヒトの生物的進化は緩慢になったのではなく、むしろ加速している?。

今日のヒトという種は、誕生以後600万年間の平均の100倍のスピードで進化しているという仮説。数万年から数十万年の長さが必要だと考えられてきた、ヒトの大きな進化も、数千年あるいはもっと短い時間で実現されていると著者はいう。進化の加速の前提はヒトが増えて混ざったことだ。

「そのような大きな集団で望ましい変異が広がるには、旧石器時代のような小さな集団で広まるよりもずっと長い時間がかかると思うかもしれない。しかし、有利な対立遺伝子の頻度は、よく混ざり合った集団ではインフルエンザのように時間とともに指数関数的に増大するので、1億人の集団に広まるのには、1万人の集団に広まる時間の2倍しかかからない。」

進化加速の大きな原因は約一万年前に始まった農業であると指摘されている。農業によって人口は爆発的に増加し、食事、病気、社会、長期計画など大きな変化と利益を得た。農耕社会では、求められる性質が狩猟社会とは異なるものになった。いま好ましいとされる心や知能も農業社会がつくりだしたものである。そして利己的で勤勉で禁欲的な人々の割合が、狩猟採集民を急速に駆逐していった。船乗りと酒場で働く女性たち、行商人と農家の娘たちが、最近の人類の進化に重大な役割を演じたという話もある。

著者が提唱する、生物学的な変化が歴史を動かす大きな要素であるという仮説もとても魅力的だ。土地面積に対して高生産性の酪農が広まるには、乳製品を摂取するヒトに乳糖耐性の遺伝子が広まっているという前提が必要だとか、アメリカ大陸をヨーロッパ人が簡単に征服できたのは、先住民が、武力にではなく感染症に対する抵抗力を持っていなかったからだ、など、人類の社会的歴史を生物学的歴史に読み変える。

本当に数百年や数千年でヒトは進化するものなのか?。人類は家畜や作物を大きくつくりかえてきた。たとえばイヌの品種のほとんどはここ数百年で人類がつくりだしたものだ。そもそも野生のイヌなどいなかった。

「イヌは品種によって、学習の速度と能力に著しい差がある。新しい命令を学ぶのに必要な反復の回数は、品種によって10倍以上の開きがある。平均的なボーダーコリーは、5回目の反復で新しい命令を学び、95%の確率で正しく反応できるのに対し、バセットハウンドは、80から100回繰り返し学習させても、正しい反応が得られるのは25%程度である。」

著者は最終章では人類にもアシュケナージ系ユダヤ人(アインシュタイン、ジョン・フォン・ノイマン、リチャード・ファインマンなど科学関連のノーベル賞の4分の1を獲得)の研究を紹介する。ヒトにおいても比較的短い時間で、顕著に能力を獲得することがありえるというのだ。優生学と差別の復活につながりそうな危険性をはらんでいるが、とても説得力がある内容で、ジャレド・ダイアモンドのベストセラー『銃・病原菌・鉄』の如く魅力的な物語が含まれている。

・ウィキリークスからフェイスブック革命まで 逆パノプティコン社会の到来
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いま進行中のウィキリークスとフェイスブックによる革命とその潮流が実現しようとしている「完全透明化社会と「ゲリラ的な市民運動」を、ジョン・キム教授が論じる。ウィキリークスの成り立ちと主な告発事件の顛末、ジャスミン革命、エジプト革命を実現させたフェイスブックの状況など、グローバル視点でいま起きていることを整理する。ガバメント2.0、オープンガバメントというキーワードに興味のある人は必読の本だ。

パノプティコンは囚人を効率よく監視する建築物。円形の監獄の中央に監視塔をおき円周部分を牢屋にする。監視塔の窓にはブラインドをかけ、牢屋側は中が丸見えにする。こうすると、仮に監視塔に看守がいなかったとしても、囚人としては24時間完全に監視されている心理になる。現実にはつくられたことがないコンセプトモデルだが、自分自身を監視させる究極の監獄建築といわれる。18世紀に思想家ジェレミー・ベンサムが発案した。

内部告発サイトのウィキリークスと、巨大SNSのフェイスブックによって、市民に強力なネットワークが張り巡らされた現代では、政府が市民を監視するのではなく、政府が市民を監視する「逆パノプティコン社会」が実現されようとしていると著者は論じる。

近年の日本でもネット上で政治への関心は高まってきていたと思う。震災と原発の影響でその流れは加速しているように感じる。政府の役割を見直す「ガバメント2.0」というキーワードもよく議論されるようになってきた。

キム教授は、これからは、政府がサービスを準備して市民はその中から欲しいサービスを選ぶ「自動販売機モデル」から、政府が提供するプラットフォーム上で市民が自らアプリを公開し、別の市民がそれを使う「iPhoneモデル」へと政府の在り方が変わっていくという見方を示す。

確かに市民が役人や政治家を一方的に批判するのは建設的ではない。新聞の投書欄など読んでいると、政府や自治体に文句を言う投稿が目立つが、批判としては筋が通っていても、未来への展望はみえない。自分たちがやるという前提があってこそ、建設的な意見が出てくるはずだ。

ウィキリークスは過激であり一過性の動きになるのではないかという見方もあるが、著者は「現在のウィキリークスの混合ジャーナリズム(hybrid journalism)のもつ長期的なインパクトは、もしかしたら、音楽産業に対するナップスターのようなものとなるかもしれない。 ナップスターは法的措置で閉鎖に追い込まれ、最終的には表舞台から姿を消したが、P2Pというユーザー同士のファイル交換自体はなくならなかった。より技術的に洗練されたかたち、法律的に迂回しやすい、捕まりにくいかたちの進化バージョン・サービスが次々と出てきていて、ファイル交換は、ナップスターのときよりもさらに繁栄している。」と述べている。ネットが普及した以上、完全透明化の流れはもはや止められない、と。

行き詰り停滞した経済ではなく、政治・社会の視点でインターネットの今を見つめなおすことで、現状の突破口がみえてきそうな内容だった。

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