Books-Sociology: 2004年8月アーカイブ

世間の目
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「世間が許さない」「世間体が悪い」「渡る世間は鬼ばかり」。日本には世間がある。「世間を見返してやる」「世間に申し訳がたたない」「世間に恩返しする」など個人の強い行動原理にもなっている。

この本では、日本人にありがちな以下のような世間のシーンが分析される。

・ひとりだけ別メニューを頼めない日本人
・記者会見がたいてい「世間を騒がせて申し訳ない」ではじまるワケ
・お中元とお歳暮と義理チョコは絶対になくならない
・首相ですら過労死する国・ニッポン、長期休暇はあいかわらず職場の非常識
・取調べ室で「お手数おかけしました」とカンタンに自白する被疑者たち
・もらいものをしたら必ずお返しをしなければならない、と思ってしまう
・子どもの犯罪に親が責任を取って自殺してしまう国
・事故機の乗客名簿を一刻も早く発表したがるのは日本人だけ
・ウサマ・ビンラディンは氏づけでウサマ・ビンラディン氏、ではなぜ明石家さんまは呼び捨てで平気なのか

など。日本人がいかに切り離せる個ではなく、関係性の中で生きているかがわかる。

個人(Individual)が構成単位の社会に生きているならば、世間など関係なく自由に生きてもいいはずなのに、日本人は何かと所属する集団内の人間関係を大切にする。

「権利があれば義務がある」のも世間の特徴であるらしい。西欧思想において、本来、権利と義務は表裏一体でもなんでもない。納税していなくても投票権はあるし、犯罪者にも最低限の人権はある。権利は本来は国民の誰もが主張できるものであるはずだった。だが、日本では義務を果たしていない世間の外側に権利はないし、徹底的に無視される。

共同幻想としての「世間」は幻想であるが、共有されているために、現実的な力を持っている。世間の中に生きる人たちに、西欧流の個人や社会を説いても「アイツは世間知らずだ」と言われてしまう。故人の意思でお葬式はしません、はなかなか親戚に認めてもらえない。「お互い様」にしないといけないからである。

■お互い様、義理による贈与交換をする日本人

世間の特徴のひとつが「お互い様」。贈り物をされたら即座に送り返す習慣で、お中元やお歳暮、結婚式の祝儀、葬式の香典などが日本の典型的な形である。この本の前半で詳しく取り上げられている。

民俗学者マルセル・モースの贈与論によると、贈与互酬の慣行は、提供、受容、返礼の三つの義務を伴う交換現象で古今東西あらゆる社会にみられた。返礼は義務であったが、日本の世間では義理に変化した。

ヨーロッパではキリスト教の普及により、贈り物をする相手は個人ではなく、神となってしまった。現世で貧しい人に施すことで、あの世で神から見返りを与えられる。直接金融的な贈与交換は、神を媒介する三角関係に変貌した。この変化は、最も特徴的なのは見返りのない純粋な寄付行為に現れる。

あるMLで教えてもらったのだが、日米の寄付行為の状況は以下の通りで、個人の寄付は1000倍も違う。寄付に対する税金の優遇制度の違いなどはあるにしても、ここまで単位が違うのは、見返りのない寄付行為が日本の世間になじまないことを意味しているとも言えそうだ。日本人は契約してくれる神がいないのだ。

      法人        個人        総額

米国 4兆2475億円 21兆5169億円 25兆7644億円 
日本   4785億円      252億円    5312億円(不明含む)

■臓器の提供と日本人

カネ以外では、臓器提供が挙げられる。

私の友人のジャーナリスト神田敏晶さんは、身体のあらゆるパーツをドナー登録している。先日、骨髄バンクに取材を受けた内容が記事になっていた。

・donorsnet
http://www.donorsnet.jp/partner/interview/10/


僕の臓器提供は、ある意味で打算的なんです。1998年頃、アメリカの空港で「臓器提供に同意しておくと、グリーンカードの取得に有利だよ」と声をかけられたのがきっかけですから。本当にそうか分かりませんが、実際、申請書には臓器提供に同意していると書き込めるようになっています。

私は神田さんをよく知っているため、たぶん、この人、本当は打算というより、仕組みそのものに共感して、登録したのだと思っている。この記事の3ページ目に本音がでていると思った。


「なんで登録したの?」と人に聞かれたとき、人の役に立つからと答えるのは照れちゃいますけど 社会的な特典があれば話しやすい。「実はいろいろ良いことがあってさ」なんて、さりげなく自慢できるし。

世間では、純粋な寄付は好奇の目で見られがちで説明を求められる。ひとりだけ道徳意識が高すぎるのは、世間では具合が悪いことになってしまう。特典は折り合いをつける方便となる。日本への着地にはこうした工夫がいくつか必要そうだ。

神田さんのように進歩的な考え方を持っているのは少数派で、まだまだ見ず知らずの他人に、自分の臓器を無償提供しようとする個人は少ない。この本では、世間の内側である、自分の親戚にならば提供したいとしたドナーの移植が承認された事例が紹介されていた。本来、親戚という条件付での臓器提供は、公平の原則に反してしまう行為である。ドナー制度にとっては危険な事例とも言えるのだが、確かにこれなら納得の提供者が多いのではないか。

■肥大化する世間と新しい身分制度

著者は、世間は力を弱めるどころか、逆に強大化していると考えている。世間では未だに幅を利かせている学歴の固定化がその一因となっている。

東京大学入学者を調べると85年の段階では中高一貫校出身者の割合は50%だったが、99年には64%となり増加傾向にある。親の職業の7割は大企業管理職、医師、弁護士などが占めるようになったという。この本では、お金持ちが社会の高い地位を世襲していく現象が顕著になっていることが紹介されている。新たな身分制度の登場である。親を見れば数十年後の自分の到達点が予想されるために、人生の早い段階で、諦めてしまう若者が増えているという。

「世間など関係ない。私は自由に私のやり方でいく」と世間からの独立宣言をすることは実は簡単なのだと思う。極端な話、「気に入らない奴は殺して刑務所にいってきます」はアリだけれども、その場合、困るのは当人ではなくて、家族や親戚である。「定職に就かないでしばらくフラフラしてみます」というのも、当人の自由だけれど、「世間体」という価値観を持つ周囲は困ってしまう。近しい人を困らせたくないなら、自分も世間のルールに従うしかない。心の優しい人ほどこの世間と身分制度につかまってしまいそうだ。

その一方で、大検制度の柔軟化だとか、大学入試の多様化など、学ぶ機会の均等化という道も昔よりは開かれている。早い段階で諦めてしまわなければ、この身分制度から逃げる方法はいくらでもあるように思う。

■楽しみながら世間を見返しひっくり返す社会?

世間の問題をいろいろ考えさせられる本であった。私の結論としては、

楽しみながら世間を見返す人が増えること

が解決なのではないかと考えた。

世間は実体があるわけでもないが純粋に自分の心の中にあるものでもなく、関係性の中の人間(間人)である、と、この本では定義している。世間などないのだと見て見ぬフリをするのは、世間が外を見る視点と同じであまり解決になっていないような気がする。それでは皆が幸せになれない。

古典的だが「世間を見返す」人たちが、世間を少しずつ変えてきていると思う。世間は「世界」に弱いのだと思う。世界の圧倒的価値を持ち込まれると急に、世間は内側から変わってしまう。古い言葉だと「故郷に錦を飾る」だ。

従来、この見返しのプロセスは悲壮感漂うのが一般的だったと思う。若い頃自分を認めなかった世間への復讐という要素も多分にあったと思う。だが、今開催中のオリンピック選手や、ベンチャー起業家(がんばれホリエモン)などを見ていると、楽しみながら、世間が認めざるをえない成功を達成してしまう人たちが増えているなあと思う。

世間に勝って復讐するのではなく、世間を自分のアイデアで変えるプロセスを楽しむプロセスのスポーツ化がいいのではないか。見返しというよりひっくり返しという表現の方が面白いかもしれない。私も笑いながら世間をひっくり返す何かをベンチャー起業家としてやってみようと思っている。