Books-Sociology: 2006年2月アーカイブ

・お金に「正しさ」はあるのか
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貨幣に媒介されてあらゆるものが流通してしまう現代。芸術、学術、性愛、そして人間の生命でさえも値段が算出されて売り買いの対象になってしまう。この社会では「市場で取引の対象になり得ること」と「社会的に価値が認められていること」は密接に結びついている。売れないものは価値がないし、売れるものを作れない人間は半人前という扱いになる。

ビジネス社会では、市場で売れるものは良いものであり、儲かることは正しいことだと私たちはしばしば錯覚してしまう。この論理を敷衍すると市場において流通することが、社会的正義であることにもなる。戦争を推進する正義もしばしば、経済的下部構造の得失原理に突き動かされる。

この本では、貨幣の強い影響力についてマルクスの資本論の一節が引用されている。


物はそれ自身としては人間に対して外的なものである。したがってまた譲渡しうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、対することが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない。それがいま家父長的家族の形態を取ろうと、古代インドの村やインカ国等々の形態をとろうと、同じことである。商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる(『資本論(一』))

貨幣経済は本来は共同体の境界での内外の取引に使われるものであった。だから、親密な家族関係においては物の売り買いは本来は存在しないはずだが、対外関係で発生した貨幣の強い影響力は共同体内部にさえも浸透していく。親子や恋人の間にも貨幣を媒介した物の流通が意識されるようになる。愛や恋にも値段がつけられる。

芸術や学術のように「すぐには金に換算できない」知的な営みの価値も、実際には「すぐには」がポイントなのだと著者は言う。すぐには換算できない価値も残っていてほしいと願うから人々はそれに投資するが、まったく貨幣に変換する見込みがゼロならば、そもそも社会的関心とならないだろうという。

表現者は現在の経済価値と無縁な「ものめずらしい」物を作り出そうとする。だが、市場経済では、多様な関心を持つ人間がいるので、そのものめずらしさに経済的価値を認める人たちがでてくる。いや、私はまったく稼ぐことに関心がないという表現者は、その実、余剰で生きていられる人なわけだ。食べないと死んでしまうわけだから。

結局、人間の営みはどうやっても貨幣価値から逃れることができないということになる。

すべてを飲み込んでしまう貨幣の魔力を著者は「ファンタスマゴリー」効果と呼んでいる。これは、人間が作り出した「商品」が逆に人間の振る舞いを支配するようになる現象を形容するための隠喩として、マルクスが資本論の中で使った言葉だ。語の由来は、物に光を当てたときにできる影を観客の前に大きく写す幻灯装置のことである。人間の欲望という光によって、貨幣の影絵はすべてを包み込む。

ファンタスマゴリーから逃れることができないのであれば、正義も貨幣を媒介して実現するしか方法はないのだと著者はお金と正しさの関係について結論している。ファンタスマゴリーを否定して「人間ひとりの命は地球より重い」というのは詭弁だともあとがきに書いている。

昨年賛否両論だった、「ホワイトバンド」キャンペンは貨幣と正しさについて考えさせられるいい機会だった。。

・ほっとけない 世界のまずしさ
http://www.hottokenai.jp/


この運動の背景にある営利企業サニーサイドアップは上手にファンタスマゴリーを正義と結びつけるころで儲ける、したたかな会社であるようだ。

・さて次の企画は
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050911

このほっとけない運動に対するアンチとしてこんなサイトもみつけた。

・ほっときたい 世界のまずしさ
http://www.hottokitai.jp/
・FrontPage - ホワイトバンドの問題点
http://whiteband.sakura.ne.jp/

実のところ、ホワイトバンド運動の本質はマネーなのかラブなのかよくわからない。

結局、貨幣もまた刃物と同じで、それを使うものの意図次第ということなのだろう。これは「会社は誰のものか」という本で「志の高い人のものであるべき」とした結論とも通じるものがあるなあとおもう。主語をテクノロジーと変えても同じことが言えるだろう。

・会社は誰のものか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003567.html

貨幣も会社も技術も、ネットワークを通じてファンタズマゴリーの効果で、自己増殖し、過去にないほどに大きな影響力を持つようになっている。「正しさ」を「神」にも「聖なるもの」にも依拠できなくなった現代。この本を読んでおもったのは、最も大切なのは、したたかに貨幣のファンタスマゴリーを利用して、公共性のあるビジョンを実現するリーダーであるような気がした。。

・国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて
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昨年度のベストセラー。出版時、絶賛する書評が多すぎて、天邪鬼な私は今頃読んでしまった。

やはり、凄まじい本だった。

著者は佐藤優 元外務省主席分析官。「鈴木宗男事件」で背任と偽計業務妨害容疑で東京拘置所に512日間拘留され、第一審判決は懲役2年6ヶ月、執行猶予4年。事件当時「巨悪のムネオ」の右腕としてマスメディアに大々的に取り上げられた人物。政敵田中真紀子がいう「伏魔殿」の「ラスプーチン」である。

政治・官僚ドキュメンタリとして近年まれに見る極めて面白い本だ。

もちろん、この本の内容は控訴中の人間の弁明であるから、何が真実なのかは分からないが、「政治の闇」に深く切り込んだ一冊であることは間違いないように思える。著者の容疑内容(背任であって贈収賄ではない)や逮捕前後の行動からも、私心のなさはうかがえる。この本における自らの行動と経緯の説明も一貫した理念にもとづくものとして説得力がある。

登場するのは政治家と官僚、検察の頭脳明晰なエリートたち。ある意味、この全員が確信犯なのであり、著者の言う「国家の罠」を組織的に作り出す構成員たちである。だが、いくら優秀な才能とはいえ感情のある人間である。必死の攻防の中にドラマが生まれる。

連日の担当検察官の取調べとその中で生まれる著者との奇妙な友情は感動的でさえある。互いの知力の限りを尽くして、逮捕された官僚と、追い込みをかける検察官は、静かな戦いを繰り広げる。検察官自ら、これは「国策捜査」だと宣言し、無罪はありえないので落としどころを共に探る提案を出す。


被告が実刑になるような事件はよい国策捜査じゃないんだよ。うまく執行猶予をつけなくてはならない。判決は小さい扱いで、少し経てばみんな国策捜査で摘発された人々のことは忘れてしまうというのが、いい形なんだ。国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへんな能力があるので、今後もそれを社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが特捜検事の仕事なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追及するのはよくない国策捜査なんだ

国家組織を円滑に運営していくには、時代の変化に対応して、古い部分を切り捨てなければならない。著者は時代の変化を、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換と分析している。二つの路線が交錯する場所に鈴木宗男がいて、時代のけじめのために、我々は犠牲になるのだという認識がある。

著者が弁護団に依頼した弁護方針は

1 国益を重視し日本外交に実害がないようにすること

2 特殊情報(外交上国家機密に関わるようなこと)の話が表に出ないようにすること

3 鈴木宗男との利害が対立した場合は、鈴木氏の利益を優先すること

であった。

飽くまで外交官のロマンに殉じる覚悟の表明であった。

こんな著者の心意気とプライドを認めた担当検察官は、取調べの密室の中で著者の言い分の最大の理解者になっていく。しかし、お互いの利益は相反している。やるべき仕事がある。完全に気を許すことはできない。二人は最後まで握手をすることはなかった。だが、国家の罠の対岸で互いの立場を尊重しあう深い絆を形成していたように思える。その過程が本書の最大の読みどころである。

読み終わって私は著者に90%共感したのだが、10%疑念もある。結局のところ、この本を書いている人も、出てくる人も、共に一般人からは「魑魅魍魎」の一員である。とにかく情報戦を得意とする著者であるから、出版も完成度の高い弁明作戦の一環と思えなくもない。政治の世界からは手を引くような記述はあるのだが...。

そういえば、

・鈴木宗男氏
http://www.muneo.gr.jp/html/flash_index.html

復活してすっかり元気なようである。

「大怪我で入院して帰ってきた人気悪役プロレスラー」みたいな印象で、今度は外務省の汚職を追求する方に回っている。歯切れのいいコメントにうっかり、好感を抱いてしまったりする。そこらへんが魑魅魍魎政治家やらラスプーチンの怖さなのである。