Books-Sociology: 2009年9月アーカイブ

・「ふるさと」の発想―地方の力を活かす
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著者は福井県知事で"ふるさと納税"発案者の西川一誠氏。現役の自治体トップの視点に加えて、歴史的経緯や世界状況のデータを前提として、都市との関係を整理し、説得力のある地域再生論になっている。なぜ地方がそこに住む者にとっても、都市住民にとっても重要なのか、がよくわかった。

著者は「地方は都市に依存している」「都市が地方を養っている」という見方が誤りであることを簡潔に説明した。

地方は、都市に水、電気(原発は地方にある)を供給している。米も地方で生産される。そして何より人材を育てて都市に送り込む。人材って何の話かというと、つまり、

「人口82万人の福井県では、毎年約3000人の若者が進学や就職などにより県外に出て行く。そのうち戻ってきてくれるのは約1000人。毎年約2000人が減っていく計算である。福井県で成長する若者が出生から高校卒業までに受ける行政サービスの総額は、一人当たり約1800万円である。ざっと計算して数百億円規模の公的な支出が、大都市へ流出しているのと同じことになる。ライフサイクル・バランスを正そうとする考え方は「ふるさと納税」が構想された際の、基本になっている。」

都市は地方の資源を消費して成長している。歴史的に見ると明治初期の国税収入の3分の2は地租(最大の納税地域は新潟県と北陸地方)であったそうだ。人口も全国に遍在していた。現在の都市の繁栄は地方で産み出された富と人材を都市部に集中投資した結果だったのだ。

「人材こそ、都市の市場がさまざまな付加価値、利潤を生み出している経済的な源である。日本のように、優れた人材を地方から都市に供給するシステムは、人口の単純な移動と見るべきではない。なるほど都市は若い人材にとって活躍できるチャンスを与えてくれる場ではあるが、経済的には、都市と地方の間のアンバランスな所得が生まれる隠れた要因にもなっているのだ。 多くの国では人口の都市流入は年川のコスト要因になっているが、日本は必ずしもそうではない。もはや都市にとっても利益の源泉を失うことになる。」

地方の優秀な付加価値の人材というのは、私は早稲田大学時代に体感した思いがある。都市部で育ったスマートでハイセンスな学生に対して、多様で独特の粘り強さや無骨さを持つ地方出身の学生。両者が混在して刺激しあうことで、日本の次世代リーダーが育っていくのだと思う。地方出身がいなくなったら、都市の大学も視野の狭い人材しか作れないだろう。

そして、地方が持つ自然環境、伝統産業、農業、文化など、人間らしい暮らしに必要な人間的資源は、経済合理性の追求では得られないものである。都市で育っても、結婚して子供ができると郊外や地方に住む人が多いのは、経済的理由だけでもないだろう。のんびりした雰囲気や子育てのできる社会的インフラを求めての移動でもあるはず。

知事は自由な個人が作り上げる「新しいふるさと」をつくろうと提唱する。自分が望む自治体に寄付をすると今住んでいる住所の税金が翌年その分安くなる「ふるさと納税」はその制度化の第一歩だとする。

「人びとが、共感と信頼によってつながり、共に行動、活動する新しいコミュニティ」「つながりの共動社会」。豊かなソーシャルキャピタルに支えられた地域コミュニティの具体例や予兆が本書にはいくつも紹介されている。

都市と地方の情報発信量の格差の指摘もあった。東京が全体の23%でトップ、下位33件を合計しても10%に満たない。あらゆる情報に「東京バイアス」が潜んで、世論が偏って形成されてしまう現状がある。「ふるさとからの発信」という一章では、地域の外とのつながりに焦点を当てたケーススタディがある。

人間関係が豊かな地方の再生は、個人の自由と対立するものではないという意見も深く納得だった。こんな一節、

「しかし、自由と共同性は本当に対立するものなのだろうか。自由の尊重は、立場の異なる人びとや弱者などに対する共通意識が根底になくてはならない。相手に対する最小限の関心や好意、言い換えると「思いやり」の存在は、互いの自由が守られる基本である。」
都市部では安心安全のために不自由を迫られたり、高いコストを払わされたりする。人の流動性が高い都市ではソーシャルキャピタルの形成には限界がある。「新しいふるさと」のビジョンは、まだまだ精緻化が必要そうだが、都市・地方の両者にとって理想的な方向性を提示しているように思った。

・地域情報化 認識と設計
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/05/post-384.html