閉じつつ開かれる世界―メディア研究の方法序説

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閉じつつ開かれる世界―メディア研究の方法序説
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著者の東海大学の水島助教授とは面識がある。インフォシーク編成部長として黎明期からバブル時代にかけてネット広告の最前線で働き、引退。東大の情報学で有名な西垣通教授に弟子入りしメディア研究に没頭。現在は東海大学で教鞭をとっている。

学者として最初の渾身の一作。期待度200%で熟読。3割もまだ理解できていないような気はするのだが、勇気を出して書評させていただきます。

■境界、3項、連続する記号過程、正八面体

著者は、パースの記号論の三項図式の拡張を試みる。まずソシュールから入る。

ソシュールは記号の意味作用のはたらきには二つの項、”シニフィエ”(意味するもの)、”シニフィアン”(意味されるもの)があるとした。単純化すれば、林檎(意味されるもの)を表す「林檎」という言葉(意味するもの)という二項の関係である。

これに対して、パース記号学は3項目に”解釈内容”を持ち込んだ。その記号を使う主体が、どのような意図でその記号を使い、そして、どのように受け止められたか、という視点が入ってくる。それは林檎のクオリアみたいなもの。

ラカンは記号について「記号の機能を掴もうとすると、いつも記号から記号へとたらいまわしにされてしまう(略)つまり記号の体系は出口のないひとつの秩序を設立している。」と書いた。

例えば密室とそこで出生以来育てられた独りの人間と、机の上に辞書があるとする。辞書はシニフィエとシニフィアンの参照ネットワークである。特定の記号で特定の意味を指し示す用具である。よく編纂された辞書であれば、その関係性に矛盾はないから、自律した閉じた意味世界を構成している。だが、いかなる経験も持たない人間は、辞書に書かれた事柄を知らないのだとしたら、意味を芋づる式にいくら調べても、何も分かったことにならない。閉じた世界では生きた意味がない。

言葉は使われてはじめて意味が確定するものでもある。ラカンはコミュニケーションにおけるラング(言語)とパロール(発話行為)を区別した。



しかし、同時に記号は、ソシュールの定義やラカンの解釈を前提とすると、体系として自律しており、しかも恣意性の中に「閉じている」。ここに私たちは、記号という概念が孕む二重性に気がつくことができる。体系、すなわち構造的には「閉じている」のだが、活動としては「開かれている」。このことをハイデガーは「記号は、ある存在的な用具的存在者でありながら」「同時用具性、指示関係の全体性および世界性の存在論的構造に際会させるものという機能を備えているのである」という。記号は、閉じた世界に拘束されながら、その世界を立ち上がらせる媒介を担うのである。

こうしたことから、記号がその機能を発揮する位置はすなわち「境界」であると言うことができよう。システムの干渉の場でもある。先に挙げたパースの「記号の定義」も、このことを証明している。つまり、”話しかける”ものとしての記号は、ある人の心の中に、同じ記号を映し出す場合もあるし、また新たな記号を創造する場合もある。この「新しさ」はどこから来るのだろうか。

記号が機能を発揮する「境界」とはすなわちメディアのことである。新しい意味が創発される、カオスの縁とも言える。こうした意味と世界が立ち上がるメディアのトポロジーを明らかにすることが、この本の前半の主題である。

パースの3項(意味するもの、意味されるもの、解釈内容)の3点を結ぶと3角形ができる。これが意味作用の基本図形である。この3角形が、内的世界(自我の領域)から外的世界へ(他者の領域)と意味を伝達する記号過程の運動を担う。

3項は外部と内部それぞれにあると考えられる。よって連続する記号過程のモデルには最低「内と外」の二重化が必要だ。3項×二重化=6つの頂点が必要ということになる。6種類の頂点を重複して使用せずに描ける三角形を組み合わせて作る、最もシンプルな多面体は正八面体である。意味作用は正八面体のトポロジー上で3項が運動することで、閉じつつ開かれる世界を現出させているというのが著者の主張である。

この意味作用の構成要素同士の構造が明らかになったことで、メディア研究の叙説が完成することになる。第2部では、こうして定義した道具を使って、現代のメディア、インターネット、コミュニティを解読する。

■電子メディアと多元的実在論

例えばネットサーフィンとWebに書くこと=電子的エクリチュール、についての記述を引用。


ハイパーテクストの空間構制は、本来の記号たる語とともに示される、指標記号としてしか存在しないクリッカブルなリンク表示が、行為の最中に記号としての役割を換え、消えてしまうことで、自らの行為を指標記号でありながら中心化させる「回転する記号過程」に誘い込む。項の位置すなわち意味の生成を担う。もちろん、平行して”読むこと”は作動しているが、そこでハイパーテクストから構成される「張り合わされたコンテクスト」と「ネット上で時間を費やした」ことの満足感とも、没入感とも、徒労感ともつかない自己意識は、必ずしもリニアな関係にはない。

”書くこと”についても同じことがいえる。ジョージ・ランドウはハイパーテクストに対する読者の(”読むこと”の)介入を、テクストの断片化(レクシ)という特性の中に捕らえ、その中で作家性を保持することの困難さに注目している。

リンクの張り合わせの結束点に書く言葉や、相手に反応して書くチャットやメールの言葉は、断片的、記号的であり、近代的知性の価値観では、発展途上の、未成熟な主体の言葉と考えられる。また、電子メディアのインタフェースやインタラクションの稚拙さも「身体の忘却」や「分断化された世界」として指摘する。だが、著者はこうした電子メディア上での主体の未成熟や一貫性のなさを、むしろ、肯定的にとらえようとしている。


分割された身体、断片化した映像やテクストに囲まれた生活環境を単に「相対主義的」に捉えるだけでは、私たちは傍観者の域から脱出することはできない。それを逐次再編し、そして再びその拘束を解き、さらにまた再編するという繰り返しを私たちは自らの「生」として営まねばならないのだ。それこそが意味を生成し続ける無限の記号過程なのである」


ここで示された「多元的実在論」こそが、伝統的存在論でもポスト・モダン的相対主義でもない”第三の道”であるとともに、電子メディア的環境において全面化したシーケンス、インタラクション、モード ---- すなわち「メディアなるもの」をかたち作る構成素を、「世界」へ媒介する「主体」のとるべき姿なのである。

つまり、ネットは便所の落書きかもしれないが、必死に便所の落書きを読み書きする人たちがいる限り、立派にメディアであり、可能性に満ちているのだということだろう。そして、人間は近代的知性が強制した「一貫した自己」から離れて、多くのパースペクティブから物事をあるがままに捉える(ハイデガー的)、多元的自己へと進化できるということを著者は主張したいのだと思う。

人間はネットワーク上で無矛盾でいられない存在であることが暴露されたのだと私は考えている。あらゆるレベルの知がリンクされるネットワーク上では、どんな賢者も一貫性を完全には守ることができない。また守ることが価値ともいえない。表面上、一貫性だけを守ろうとすれば、精神破綻(いわゆる”電波系”)するか、唯我論的後退しかありえない。

多元的であることは、その場しのぎでやり過ごすことでもなくなった。その場しのぎの言葉を書けば、ますます主体の未成熟を露呈してしまうことになる。多元的自己と多元的他者を同時に意識しながら、想像力を持って読み、書くことが、電子的エクリチュールの知の、あるべき姿なのだと私は考える。

「連続的記号過程」という言葉が頻出する本だったが、連続的はすなわち生きていることである。必死に持てる能力を総動員して考えていることである。相手の考えに想像をめぐらせていることである。そうした生きている記号過程を肯定するのが、著者の結論とした多元的自己ということなのだと思う。

■次はわかりやすいのをお願いします

結局、この本は丸々2回、部分的には追加で何度も読み返した。3ヶ月近く読んでいたことになる。学者として最初の単行本出版に、著者の思い入れが強くて、持てる知識を満杯にして送りだされた本。深い意味の込められた文章の連続だが、受け止める読者は、相当量の哲学的予備知識がないと、かなり消耗するのだが、難解さの向こう側には明確な思想が感じられるので、ついつい何度も挑戦したくなる。スルメや固焼煎餅みたいな濃い味わいを楽しみながら、ゆっくり、読むのが適している。

関連書籍も読み返しながら読むことで大変勉強になった。メディア研究をまず研究の仕方から疑い、再構築する意味がよくわかった。中途半端なカルチャラルスタディーとはまったく逆のベクトルを持った正統派メディア論(叙説)である。メディア論を根元からじっくり考えたい人におすすめの一冊。

とはいっても...。

元ビジネスマンの経験を活かして次回はぜひ読みやすい本も水島先生には出していただきたい。2ちゃんねるだとかメーリングリスト、ブログだとかソーシャルネットワーキングだとか、著者も詳しいはずの、ネットの最先端メディア現象を、ネットにどっぷりだった経験を活かして、わかりやすく読み解く本。この本は叙説であるので、きっとこれに続く本で書かれるのだと首を長くしてお待ちしております。


関連:
Passion For The Future: 基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html

Passion For The Future: こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

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このページは、daiyaが2004年9月26日 23:59に書いたブログ記事です。

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