教育力

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・教育力
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冒頭で「教育の根底にあるのはあこがれの伝染である」と著者は結論をいう。いきなり納得して、続きを読みたくなった。

私は中学、高校(退学)と長い間、落ちこぼれだった。それでも入試が難しい大学に入れたのは、近所の小さな私塾の一人の英語教師のおかげだった。そこのT先生は東大でギリシアの方言研究をしていて非常勤講師をする傍らで、恐らくは生計を立てるために、高校生向けの塾を開いていた。

来る日も来る日も、学校の教科書は使わず、古今東西の名文の全文和訳ばかりを生徒にやらせていた。希望者は授業前に黒板に自分の和訳をびっしりと板書しておく。授業ではそれを先生が添削する。キング牧師の「私には夢がある」演説や、シェイクスピアの一節、ジョージ・バーナード・ショーのエッセイなど、歴史に残る名文ばかりが授業の題材であった。今でも内容を覚えている。

私はまず先生に憧れた。日本の最高峰の東京大学でギリシアの方言を教えている。その内容はさっぱり知らないが、まだ見ぬ高尚な世界の奥行きを漠然と感じた。それから歴史的な名文をいきなり自分の手で訳すチャンスに恵まれたことが嬉しかった。偉人になったつもりで全文を訳して添削してもらうことに一喜一憂した。

あれから20年。先生の名前を検索したら、有名大学の学部長の名前がヒットした。経歴からしておそらく同一人物らしい。本当に凄い人だったのだと感心したが、実は先生の実力はどうでもよいのだ。先生と教材に憧れることができたのが、私にとっては最上の教育だったのだと思う。憧れたから与えられたものを盲目的に学ぶことができた。

現代の学校教育は学生が自ら何を学ぶかを細かく選択できる。好みの料理を好きなだけ食べられるビュッフェ形式みたいなものである。数字やカタカナがとっつきにくい物理や世界史は、やりたくなければ、やらないで済む。学生の個性を尊重していくという目的でこういうスタイルになっている。

しかし、それでは偏りが生じてしまう。カタツムリなんか食べる気がしないよ、ということではエスカルゴのうまさは一生分からないで終わる。

「武士の時代であるならば「黙ってやっておけ」で全部済む」「『論語』をなぜやるのか」という質問を許されていない世界であり、「やれ」と言われたらやるしかない。そして人生を過ごすうちに「ああ、やってよかったな」というふうに思えてくる。そういう順序だったわけである。
 だが、いまの社会は、個人の主体性が重んじられるようになっていて、「何でもいいから、とにかくやれ」というのでは、説得力がない。だから教師としては「ただやれ」という強制力だけではなく、むしろそのことに対するあこがれを喚起する力が重要になるのだ。」

そして、その憧れを生み出すのは関係性である。

「個人の才能と、関係の中で生まれてくる力との二つに分けた場合、関係の中で生まれてくる力を一般の人よりはずっと信じているのが、教師としての条件だと思う。
 たとえば、二人一組になってずっと話していたり、ディスカッションしたり、お互いにチェックし合ったりしている中で伸びていく力である。これで両方が伸びていく場合は、その二人にそれぞれ個別に才能があったという言い方もできるけれども、そういう関係性がクリエイティブであったと言った方が当たっているだろう。関係をクリエイティブにできるかどうか、というところに教師の力量が問われるのである。」

学習意欲は内発的だとか外発的だとかいう議論があるが、著者が言うように、関係性が本質だというのが正しそうだ。

この本は人気作家 斉藤孝が、本業の教育者としての視点で真面目に書いていて、とても参考になった。

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このページは、daiyaが2007年4月24日 23:59に書いたブログ記事です。

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