日本語は天才である

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・日本語は天才である
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天才翻訳者、柳瀬尚紀が書いた日本語の蘊蓄本。

柳瀬尚紀といえば難解さで知られる世界文学ジェイムス・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」「ユリシーズ」や、知的構築の極みダグラス・ホフスタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ」、幻想文学の古典ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、映画になったロアルド・ダール 『チョコレート工場の秘密』 など、歴史的名作に名訳をつけてきた。

学生時代にフィネガンズ・ウェイクを柳瀬の翻訳で読んだ。この作品はジョイスが作った人工言語で書かれている上に、文体が章ごとにめまぐるしく変わる。アナグラムや回文などの言葉遊びが何万も続く。辞書を使って単語を置き換えても意味は通らない文ばかりだ。そもそも英語としても意味が確定できない。普通に考えれば訳出は不可能な作品だが、柳瀬は創造性を発揮して、原作の面白さを活かす形で日本語に翻訳した。異言語の「言葉の綾」を、日本語の綾に取り換えて見せた、何万回も。唖然とした。

この偉業を完遂した背景には、圧倒的な日本語の語彙とことばへのこだわりがあるのだろうなと感じていた。この本には柳瀬尚紀の日本語への異常な執着ぶりが最初から最後まで語られている。言葉の由来を説くだけではない。同音異義語を何十も挙げたり、七は本来シチであってナナじゃないのだぞと何十ページも説明したり、長大なアナグラムをいくつも評論した上でハイレベルな自作まで示したり、敬語ならぬ「罵倒語」について延々と説を述べたりしている。

そして、日本語の変幻自在の自由度、漢字や外来語を飲み込む包容度を絶賛して、日本語は天才であるという。確かに日本語の強さを納得させられるのだが、それ以上に柳瀬尚紀の天才ぶり(奇才ぶり)が明らかになる。

どうやるとこういう日本語の天才になれるのだろうか。こういう一節があった。

「背伸びしているふうに、と言いましたけれど、そもそも本は背伸びして読むものではないでしょうか。もちろん、本を読むとき、人はうつむく。そっくり返っては読めない。しかしうつむいて読みながら、気持は背伸びする。精神は上へ向く。それが本を読むということだと思います。使う言葉も背伸びしたものになる。一段上の言葉を使うようになる。そうして言葉が成長するわけです。」

本で読んだちょっと難しい言葉を、日常生活や作文で使ってみる背伸びが、日本語能力を成長させる。そういった意味では、メールより手紙の方が日本語能力は高まるのだろうな。かつては年長者の日本語を若者が真似をしたが、最近は逆でいけませんと嘆いているのもそうだよなあと思う。いいお手本がなくなったのが現代社会の日本語なのだろう。

絵文字でごてごて(しかも字が動いたりする)携帯メールや、文末にw (笑)(藁)がついたような2ちゃんねる文体が、インターネットやメールでは流行している。きしょいとかきもいとかの最近現れたばかりの若者言葉や、ら抜き表現などを、年長者が若者に迎合するように使ってしまっている。言語の伝統保守とその破壊がバランスをとるべきなのに、最近は破壊の力がアンバランスに強烈な気がする。語彙は増えているが、きれいな日本語、美しい日本語が増えていないように感じる。

柳瀬尚紀というのは、日本語を愛し伝統を守りながら、同時に破壊解体して、自身の創造行為(翻訳)をする前衛的日本語使いである。機械には絶対に無理な翻訳をして、芸術のレベルにまで高めてみせた人でもある。そういう凄い使い手が、今の日本語を主観的に、そして客観的に、どう見ているのか、がわかって勉強になった。いい日本語を使うにも、守・破・離が重要なのだな。

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このページは、daiyaが2007年5月22日 23:59に書いたブログ記事です。

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