Books-Cultureの最近のブログ記事

・ウルトラマンが泣いている――円谷プロの失敗
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「「日本人の一般的な感性として、亡くなった人をムチ打つようなことは、言ってはいけないのかもしれません。でも、そのときばかりは、激しい怒りがこみ上げ、「あなたが私を排除したのは、こんなことが目的だったのですか」と、叔父の霊に問うてみたいと、切実に思いました。」」

円谷プロ創業者の円谷英二の孫で、6代目社長をつとめた円谷英明氏の悔恨の書。なぜ創業者一族は追放されたのか。キャラクターブームの終焉や著作権をめぐる訴訟もあったが、度重なるお家騒動が大きな原因であり、かなり赤裸々に内情が暴露されている部分もある。著者はワンマン経営の失敗と言っているが、同族経営の失敗の典型的な事例集になっている。

「我々円谷一族の末裔は、祖父が作った円谷プロの経営を全うすることができませんでした。現存する円谷プロとは、役員はおろか、資本(株式)も含め、いっさいの関わりを断たれています。 これから約半世紀にわたる円谷プロの歩み、真実の歴史を明かそうと思います。その中には、今もウルトラマンを愛してくださる皆さんにとって、あまり知りたくないエピソードも含まれているかもしれません。」

円谷プロにはビジョナリーもマネジメントもいなかった。東宝に実質支配されていた間はマネジメント部分はまだましだったが、創業家が株式を買い戻してからはやりたい放題ができるようになり、かなり怪しい経営内容だったらしい。何度も倒産の危機が来るが、腐っても鯛なウルトラマンの権利に救われて円谷プロは21世紀まで生き延びてきたことがわかる。

現在の円谷プロは玩具産業(バンダイ)とパチンコ産業(フィールズ)に買収されており、創業家は追放されている。これを読む限りでは、追い出されるのも当然というか、新経営陣の賢明な判断だったように思われる。元社長の著者は今は会社を離れて「ブライダル会社の衣装を運ぶ仕事」に就いているという。

適切に管理しないとキャラクタービジネスは価値が損なわれてしまうものなのだなあと思うと同時に、ここまでボロボロでありながらも、みんなに愛されているウルトラマンってのは偉大なヒーローだと妙なところに感心する一冊。

・僕らの時代のライフデザイン 自分でつくる自由でしなやかな働き方・暮らし方
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これからはライフ(生活、人生)をデザインする強い意志を持つことが重要なのだと思う。これまでの一般的な日本人のマジョリティは、道から外れないこと、道を選ぶことをよしとしてきた。生き方は既存のコースから選ぶものだったと思う。だから、ライフコース("オフコース"という往年のバンド名もそういう「コースを外れる」ことなんだよね)という言葉はあっても、ライフデザインという言葉がなかった。

組織や常識にとらわれず自由な生き方をする人は、日本の社会では残念ながらまだまだ怪しくみられてしまう。生き生きとしているのはわかる。しかし、それで十分に稼げるのか、安定するのか、未来はあるのか?旧式にとらわれた人たちは疑問に思う。異なる価値体系にいる者同士で、反駁してもあんまり意味はないから、著者のような実践者たちが、「やって魅せる」しかないのだろう。この本は実践ライフデザイナーたちの生き方カタログになっている。

デザインするよりテンプレートを使った方が楽でコストが少ない。だからみんなレールの上を走れるように車輪の幅をあわせてきた。でも道なき道をあるいていくのもいいじゃないか。とりあえず飢えて死なない程度には国が豊かになったことだしと、この本を読んで思った。

ライフデザイナーたちは面白いことをしている人たちでもある。自由に生きている人がかっこいいのではなくて、何か生産的で有意義なことをやっている人がかっこいいのだ。フリーやノマドというのは、ただそれだけだと、社会的信用はないし、不安定で、今後もあんまり良いことがないのではないか。有意義なこと×フリーノマドなら生き方としてかっこいい。

尾崎豊は「自由になりたくないか?」と歌ったが、日本は当時も今も国際的にみて、自由がない社会かというと、そんな訳もない。基本的に自由はある。卒業も就職もしなくてもよいが、しなくちゃいけないんじゃないかという先入観にとらわれているだけである。近い将来、マジョリティとマイノリティの逆転の可能性というのがあるかもしれない。もともと終身雇用と年功序列の恩恵をフルに受けていた人の数というのは実はそれほど多いわけではなかったはずなのだし。

・バートン版 カーマ・スートラ
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古代インドの性愛の聖典カーマ・スートラ。高尚な文学作品から怪しげな大衆誌まで、広く引用されるカーマスートラであるが、実際に原典を読む人は少ないのではないかと思って読んでみた。大変面白い刺激に満ちていた。

「人間は、人生百年のさまざまな時期に、ダルマ、アルタ、カーマを実践すべきだが、この三つは調和を保って、おたがいに衝突しないようにしなければならない。幼少時代には学問を身につけ、青年期と中年期にはアルタとカーマに専念し、老年期にはダルマを成就すべきで、こうしたモタシャの獲得に、いいかえれば、輪廻から解放されるように努力しなければならない。」

ダルマ(法)、アルタ(利)、カーマ(愛)。カーマの真髄がこのカーマスートラに書かれているという。どんなことが書いてあるのか?

まず最初に性器の大きさと欲望と情熱の強さによる男女の組み合わせが定義される。男性器は大きさにより兎男、牛男、馬男の三階級に分類される。女性器は、鹿女、馬女、象女に分類される。性欲と情熱の強さは弱、普通、強がある。性器の大きさ別で9通りの組み合わせ、性欲と情熱の強さでも9通りができる。性器の大きさが一致する3種類を等結合、異なる6種類を不等結合と呼び、それぞれに性交時に持ちうるべき技巧が異なっている。

パターンに分類して語るというのが、カーマ・スートラの基本となっている。技巧として挿入の他に、抱擁(接触抱擁、貫通抱擁、摩擦抱擁、圧迫抱擁)、接吻(形式接吻、鼓動接吻、接触接吻、直線接吻、傾斜接吻、上向接吻、圧迫接吻)、口淫(男色の文脈が多い)があるのはわかるが、ひっかき、愛咬(噛むのだ)、愛打(叩く)、針で刺す、殴るなどもあって激しい。

個別の技巧が真面目なものもあるが、現代に読むと愉快なものも多い。たとえばキスのテクニックはこうだ。

「接吻するときには、どちらが先に相手の唇をとらえるかについて賭けるのもよい。女が負けた場合は、泣くふりをして手で恋人を払いのけ、彼に背を向けて「もう一度賭けましょう」とすねてみせるべきである。二度目も負けたら、さらに悲しそうな顔をし、恋人が警戒をゆるめるか眠るかしたら、彼の下唇をおさえて、逃がさないように歯で加える。」
実に楽しそうだ(笑)。

情事に際して男は女の出身地別に応じた喜ばせ方をしなければならない、として出身地別の女の悦ばせ方も挙げられている。

カーマ・スートラは実はモテ方、彼女(彼氏)の作り方指南書でもある。これが結構トンデモない。妻の獲得方法として、現代では明らかに違法な方法論も多数のべられている。たとえばお祭りの日に娘の乳母を買収してお目当ての娘に薬を飲ませてさらい、寝ている間に肉体を楽しめ、やってしまえばこちらのものだから、あとは結婚するだけ、なんて方法論が何十個も並べられていてびっくりする。

このGW中はまんがで読破シリーズで難解本の概要を楽しむことにした。

・純粋理性批判 (まんがで読破)
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カントの純粋理性批判は長年の積読書である。もう10年くらい書庫に放ってある。いつか必ず読むつもりなのだが、いつなのかは不明だ。とりあえずまんがで概要を読めたのはうれしい。西洋哲学の伝統をコペルニクス的に展開させた批判哲学。

まんがで読破シリーズ中でも、さすがに本書は難解になっている。本シリーズは古典の内容に忠実に漫画化するもの(小説に多い)と、古典を解説する現代を舞台にした漫画化との2パターンがある。純粋理性批判は後者である。哲学に詳しい女性教師が、生徒会の哲学好きな学生たちに教えるという形をとっている。

従来の「認識は対象に従って規定される」を「対象が認識に従って規定される」と想定してみたのがコペルニクス的転回なのよ、とか、カントは認識をア・プリオリな認識とア・ポステリオリな認識の二つにわけていたのよとか、先生が生徒にカントの基本を教えているコマが多い。本シリーズとしては、とにかく文章量が多いのが特徴だ。漫画のよさをあまり活かしきれなかったかもしれない。ただ説明文章はちゃんと選ばれていて、カントの哲学の要約にはなっていると思った。


・ツァラトゥストラかく語りき (まんがで読破)
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2冊目。うーん、しかし、これはダメだな。原作と違う。物語性を高めて原作に興味を持たせるというのはいい作戦なのだが、これでは違いすぎるので、物語的ではない散文の原作を読んだらうんざりしてしまうだろう。

・死に至る病 (まんがで読破)
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3冊目。キェルケゴール

「絶望とは、人間の精神のみが患う病である。時は19世紀のヨーロッパ。社会や個人への不安を抱え、自己疎外に陥った人々の魂の救済、精神の教化と覚醒のため、哲学者キェルケゴールの探求が始まる―。21世紀、今も私たちをとらえて離さない「死に至る病」を、現代の視点から綴ったオリジナルストーリーと絡めて漫画化。」

悩める現代の少年に哲学に詳しい叔母さんが死に至る病の内容を教えるという形でわかりやすく解説している。キェルケゴールの人生についても言及しており、なぜそうした哲学思想を持つにいたったかも知ることができてよかった。

というわけで、このシリーズは外れもあるが結構よいものも多い。また読んでみよう。

・まんがで読破『カーマ・スートラ』『死者の書』『我が闘争』
http://www.ringolab.com/note/daiya/2013/04/post-1792.html

・日本文化の論点
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本書のいう日本文化最大の論点とは「AKB48」なのだが...。

能動態と受動態の中間としての「中動態」として人間をとらえることが現代社会を読み解く切り口だという論が光っている。それは自分が対象に働きかけていると同時に自分もまた対象になっているような状態のこと。

ビジネスマンは人間を、マーケティングの対象として、あるいは、マスメディアの受け手として、受動的な存在とみなす傾向がある。だが情報技術を使いこなす現代の人間は、自ら情報を発信してメディアになったり、さまざまな社会的活動に参加したり、半ば能動的な存在でもある。

中間的な存在としての人間の社会論、文化論を語るにあたって、「日本的想像力」や「情報技術」というキーワードを説明するのに、AKB48ブームをめぐる諸現象を研究するといいというのが著者の考え。「リトル・ピープルの時代」では仮面ライダーでありウルトラマンだった役割を今回はAKB48が担っている。今回も著者の思い入れが強すぎて、ついていけなくなるところがある、が、現代社会の分析の鋭さはやはりすごい。AKBのことはわかったようなわからないようだが、情報社会が日本の何を変えつつあるかはよくわかった。面白い本だ。

書き言葉をめぐる考察にブロガーとしては強く共感した。

「有史以来、人間がここまで日常的に書き言葉でコミュニケーションをとっている時代はない。たとえば僕たちは携帯のメールやライン(LINE)で連絡をとりあい、ブログやツイッターやフェイスブックに日々の雑感を記している。この一点をもってしても、現代における情報化の進行は人類の文化そのものを大きく変化させようとしているはずです。」

映像の世紀の後にきたのは活字の世紀なのだよね。ソーシャルメディアをよく使う人間は、新聞や書籍は読まなくなったかもしれないが、以前にもましてテキストをたくさん読んでいる。新しい文体ということになるかもしれないが、文章を書く能力は今後、見直されるべきだと思った。

「今まで書き言葉とは基本的に自分の外側にある特別なもので、それを本というパッケージングされたものを通して摂取してきた。そのため、それを積み上げることが教養を得ることであり、成長だと考えられてきたわけです。しかし今の僕たちはすでに、言葉や教養、知識体系などさまざまな情報ネットワークに接続されているため、個々の情報をどこで区切るかのほうが問題になっている。」

読解力という点でも、パッケージ的な書籍を著者の本意を読み取って正しく解読する能力よりも、検索で芋づる式に集めた断片的な情報を、どう立体的に再構成するかという構想能力が重要になりそうだ。

・リトル・ピープルの時代
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/11/post-1550.html

・穢れと神国の中世
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中世において穢れの観念はどのように生まれて広まったのかの研究。

死や出産など「穢れ悪しき事」に触れた人間は、一定期間、行動を慎まねばならない。穢れを帯びた人間は、寝起きする場所や食事を別々にされたり、神社や山に出入りすることを禁じられた。そして穢れの観念は、穢れたものと清浄なもの、「われわれ」意識と排除される他者を生み出すことにもなった。

穢れの起源は古く「延喜式」にさかのぼる。人間や動物の死や出産について細かく何が穢れか、その性質が規定されている。穢れは穢の発生源と同じ空間に着座したことを以て成立し、穢れはその場にいた人間と同一の場に着座した人間に伝染する。しかし無制限に伝播することはなく基本的には伝染するのは一段階だけなのだ。これは人間の普遍的な感性というよりは、かなり恣意的な文化的な観念である。

高速移動の交通手段も、マスメディアもない時代に、どうやって穢れという人為的な観念を日本列島で人々は広く共有することができたのか。考えてみれば不思議なことだ。著者は穢れ観念の広がりの原因を、災いと、それを体系化する論理の一斉体験に見出す。干ばつや疫病、そして蒙古襲来という列島を襲った災厄があり、その解決の実践手段として列島各地の神社の神事の取り組みがあり、穢観念と行動規範が全国へ広まっていったという仮説だ。

穢れ意識はそれを共有する「われわれ」というナショナリズム意識が芽生えさせもした。さらに穢れを祓い秩序を維持していくには、不浄を処理する職業も必要となる。排除される他者を生み出す原因ともなったと著者はいう。中世の史料を紐解きながら、穢れ観念と国家意識の萌芽を関係づけていくストーリーが面白かった。

芸人の肖像

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・芸人の肖像
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小沢昭一のライフワークだった昭和の芸能写真とエッセイ。

萬歳、神楽、説経節、浪花節、落語、講釈、寄席の色物、モノ売り、流し、相撲、幇間、踊り子、ストリッパー、見世物小屋、猿回し...テレビではなく町や村にあった大衆の芸能を記録に残している。

今となっては貴重な史料。芸人同士だったおかげか被写体が自然に画面に収まっている。吉原の幇間(ほうかん、いわゆる"太鼓持ち")の写真がある。お座敷で釜飯をよそっている。時代小説なんかにでてくる太鼓持ち役って、いかにもこんな顔の人だったのだろうなと思わせる愛嬌のある顔。

考察も深い。家々を回りご祝儀をもらう昭和の門付芸人たちの人懐こさと同居する凄み。その正体を小沢はこう考えている。

「門付芸は本来、村から町、町から村へと、神の代理人めかして祝祷して歩いた放浪遊行の芸能者によって行われ、その芸には呪術的要素が強かったという。その呪術はこの国の芸を担う人びとが、自分たちの上に重くのしかかった賤視をはねのけ、高飛車に世渡りしてゆく手だてともなったようだ。事実、人びとは流れの乞食芸人とさげずむ一方、むげに断ると呪われるような気がして、畏れもしたのであった。」

そして底辺社会で必死に生きる芸人たちが本気の芸をつくりだす。

「かつて、定着社会からはみ出た放浪芸人たちは、呪術まがいのたぶらかしを、舌先三寸にのせて人びとの上に投げかけて、その日を生きて行ったのである。それはまさしく命がけのわざであった。そういうしたたかな言葉の魔術をいまわれわれは失っている。からくも残った万歳や説教や琵琶法師やさらには行者打ちといわれる大道薬売りの口上など、野風にさらされたさまざまな節や喋べくりの中に私は、銭をふんだくれる腕前を発見したのである。」

この「銭をふんだくれる腕前」は今のテレビのお笑い芸人の技であり、ジャパネットたかたのビジネスに通じるものでもあり現代へと続く系譜なのだろう。

・私は河原乞食・考
http://www.ringolab.com/note/daiya/2013/02/post-1767.html

・昭和40年男 2013年 04月号
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前から気になっていた雑誌を買ってみた。毎号買おうかと思った。昭和40年代生まれの男のための懐古趣味的な雑誌。バックナンバーが結構な数あるようだが、よくネタが続くものだ。

この号のテーマはマブチモーター、学研電子ブロック、ウォークマン、ラジカセ、学研のかがく、TVのリモコンなど。特に巻頭特集「俺たちを虜にしたテクノロジー」のマブチモーター特集がよかった。

・マブチモーター FA-130RA
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マブチモーターが今もそのまま入手可能というのはうれしい。

私の育った土地では駄菓子屋でもベーゴマやメンコと並んでマブチモーターが売られていた。モーターという電子部品が単体で売られているのが素敵だった。キットではないわけで完全自由発想の工作に使う。制作中ののプラモデルの改造に使うとか、箱や板を使った工作に使うとか、夏場だとミニ扇風機を作るとか、衝動買いしてから用途を考えるのが楽しかった。駄菓子屋にあったということは、私のような小学生が結構な数いて売れたということなのだろう。

楽しい工作シリーズ No.150 単3電池ボックス 1本用 スイッチ付
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スイッチ付のタミヤの単3電池ボックスと組み合わせて使うことが多かった。こういう部品をプラモや板にセロテープや瞬間接着剤で固定する。だから見栄えは悪い手作り工作になった。逆に市販の工業製品の完成度の高さに憧れることができた。プロの技術力は凄い、子供の自分たちとは違う、と。誰が作ってもそれなりの完成度が得られる今時のキットでは、決して得られない教育効果があったと思う。

電子パーツ屋が減りつつある秋葉原駅前をみていて思うのだが、モーター、スイッチ、豆電球とか発光ダイオードとか、そういうものをもっと子供の身近に配置して興味のある子は入手できるようにしてやると、モノづくりの再生につながるのではないかと思う。そういう私がものづくり屋になったかといえばそうでもないんだけど(笑)。

・世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析
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2009年ごろに始まったヤンキー文化の研究は、細々とながらも脈々と続いてきて、深まっているなあと実感できる本。かつてナンシー関は日本人はミーハー、オタク、ヤンキーの3つに分類できるという名言を残したが、日本には地方を中心に半端ではないボリュームのヤンキー指向層がいる。ヤンキーそのものではなくても、EXILE、浜崎あゆみ、YOSAKOIソーラン節、矢沢永吉、B'z、金八先生、ドン・キホーテなど、ヤンキー的なものをあげ始めたらきりがない。これは、なぜ日本人のマジョリティが、ヤンキー的なものにひきつけられるのか、そもそもヤンキーとは何かを分析した本。


ツヨメでチャラくてオラオラなヤンキー。著者はヤンキー文化が「互いに「舐められない」ことを目指してキテレツ要素をどんどんため込んでいった結果、あのようなバッドセンスが成立する」と指摘する。

「ツヨメとは目立つこと、すなわち「人目を引くファッション、社会から外れたライフスタイル」を指す。ファッションで言えば「日焼けサロンで焼いた黒い肌、明るい色の髪、露出の激しい、ド派手でカラフルな服装」などが「ツヨメ」ということになる。」というふうに、ヤンキーをめぐる要素をわかりやすく解説してくれる。ヤンキーに縁遠い人でも理解できる。

「ヤンキーの美学においては、ギャグやパロディがメタレベルを形成しない。それは常にベタな形でイカしたものととらえられ、さらにパロディックなエレメントをめいっぱいはらみながらいっそう誇張され、それがまた新たな美学につながる、という特異な回路を持っている。」

つっぱりハイスクールロックンロールや、なめ猫がなぜヤンキーに受けたのか、という疑問を深堀りしていくことで、その本質がみえていく展開が面白かった。また政治や社会における位置づけとしてのヤンキーは決して不良でマイノリティの破壊者ではなく

「キャラはシステムを否定しない。システムを変えてしまっては、キャラが崩壊しかねない。その意味でキャラの成功とは、"成り上がり"として。システムを回す側に立つことだ。」

筋を通す、ハンパはしないというポリシーを持つ彼らこそ、この国を支える代表的な保守派だという分析にうなった。そうか彼らこそ代表的日本人なのかもしれないのである。


すごいヤンキーの画像ください(珍走団・レディース・DQN・厨房) - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2124841280410253792

・ヤンキー文化論序説
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-951.html

・ヤンキー進化論 不良文化はなぜ強い
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/06/post-1019.html

歌舞伎町

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・歌舞伎町
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危険な世界を安全な領域から存分に味わえるのが魅力のカラー写真集。

韓国人フォトグラファーが歌舞伎町に毎晩通い続けて撮りためた16年間分のエッセンスを出版した。この人は歌舞伎町の修羅場で活躍する"戦場"カメラマンだ。

「てめぇ、客引きのくせに...」。酔って絡むサラリーマン男性。しつこさにぶちきれた客引きが男性を引き倒す。それをみた客引きの仲間がかけつけてきて、倒れた男性をさらに踏みつける。その様子をタバコを吸いながらニヤニヤと見物する野次馬たち。

ヤクザと黒人が自転車を投げつける大喧嘩の様子。ヤクザの飛び蹴りが鮮やかに決まるシーンもある。歌舞伎町ではよくあることなのかもしれないが、タクシーのボンネットの上を歩く酔客。逃げる犯罪者を全速で追いかける警察官。無銭飲食者を押さえつけボコボコにする警察官。通り魔に切りつけられて顔中血だらけの被害女性。ホストクラブのビルから飛び降り自殺した女性。花魁道中の如く街を練り歩く妖艶なキャバ嬢たちや、衣類をはだけて無防備に眠り込む女子学生。驚くべきことに、カメラマンはこんなシーンをわすか数メートルの至近距離から撮影している。

解説で書かれているが、決してヤクザにみかじめ料を払って撮影しているわけではない。撮影条件は一般人と同じだ。だから当然のように、怒った撮影対象から暴行されカメラを何度も壊されている。組の事務所に監禁される、盗撮扱いで警察に通報されるのも当たり前。警察ややくざとは一定の距離を置きながらも、顔なじみはつくっておき、いざというときの場をなんとか切り抜けていく。本人の解説から垣間見えてくる凄まじい撮影の実情も本書の魅力だ。

ただでさえ街でのスナップが危険な時代に、歌舞伎町で毎日撮るなんて、本物のクレイジーだ。

・前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48
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昨日のブログの続き。濱野智史氏の本。

AKBのコンサート帰りの勢いで、気鋭の若手社会学者が、その頭脳をもったいないくらいフル稼働させて、本気で書いてしまった過剰なアイドル宗教論。面白い。AKBのブームがあと何年続くかわからないのに書いてしまう思い切りのよさも好き。評価が定まる前に言わなきゃ本物の評論家じゃないのだから。

AKBとは、制服を着た少女を「推す」という関係性を根拠とした宗教であり、「サリンの代わりに握手券と投票券をばらまくオウム」であると見立てる。そして「比喩的にいうならば、AKBの総選挙は現代の「ゴルゴタの丘」であり、センターは「十字架のキリスト」なのだ。その彼女たちの壮絶なマジに感染するからこそ、私たちは彼女たちを「推す」のだ。AKBという宗教の信者、すなわちヲタになるのである。」という。

著者自身がファンのひとりとして、「レス」(メンバーと目線があうこと)、握手会の「良対応」「塩対応」、「賢者タイム」など、アイドルオタクの独特の生態、慣習をレポートする。ディティールが面白い。

一般人が知らない世界観や文化が確立されていて、現代アイドルには相当に奥深いものがあることがまずわかる。しかしさすがにキリストにたとえるのは言い過ぎでは?とおもったら記述があった。

「「関係の絶対性」においては、アンチがいるからこそスターが生まれる。キリストのような超越的存在が生まれる。いやもちろん、現時点ではキリスト教の規模を超えてはいない。しかし少なくとも、情報社会/ポスト近代という、匿名のアンチガ無数に蔓延るこの末法の世において、むしろアンチの存在をスルーするのでもなくブロックするのでもなく、正面から向きあうことによって誰よりも利他性と再帰性を帯びうることができるのが、AKBの「センター」なのだ。私たちはその「可能性の中心」こそを捕まえる必要がある。」

現代人は何にはまるのか、なぜはまるのかを考えさせらる本だった。

人間というのはそもそも何かに熱狂したがるようにできているのだと思う。極端で発散し、何かに依存して癒されるという性質があるのじゃないかと。しかし現代の日本社会はそれが許されない。宗教団体や政治団体は危ないから近寄らないようにしましょう、不偏不党で自分のアタマで考えることが大切ですと、子供を教育をしている。そうやって育つとおおっぴらに宗教や政治にはまれなくなる。そこへ、はまってよいモノとしてAKBという疑似的な宗教・政治システムが巧妙に設計された。抑圧されてきた若者たちが、それに狙い通りとびついているのが、今の状況なのではないかと思う。現代人の精神性の本質的な部分にかかわっているからこそ、濱野氏みたいにAKBに「可能性の中心」をみるのは意味があると思う。

・私は河原乞食・考 (岩波現代文庫)
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俳優の故小沢昭一氏による名著。初版は1969年。大阪の現役ストリッパーや香具師やホモセクシュアルたちにインタビューをして、日本の大衆芸能の本質に迫っていく。小沢氏は学者ではないから、インタビュー対象に対して、同じ目線で、気安く話を引き出せるから面白い話がいっぱい発掘できた。

「日本の芸能史のなかで、性と芸能は不可分であった。原始芸能と性信仰の切り離し得ないことは、少し民俗芸能や祭りに関心をもてばすぐに認められるところだ。」という信念があるので、第一章は「はだかの周辺」から始まる。トクダシ、外人ヌード、残酷見世物小屋の当事者たちから、それがどんな生業なのか興味深い話を聞き出している。

第二章は、愛嬌芸術と呼ばれる香具師の口上の採録が素晴らしい。文字起こしされた口上は文字を目で追うだけでも引き込まれる、目が離せなくなる。舌先三寸のタンカで客寄せをすることが彼らの稼ぎを左右する。人を引き付ける、あの手この手が仕込まれており、これ自体が洗練された芸である。

著者は日本の芸能を高尚な伝統芸能として持ち上げたりはしない。むしろ、河原乞食というタイトルのように、芸能は相当に素性の怪しいものだと論じている。

「日本の芸能史は、賤民の芸能史である。 この日本に現在ある諸芸能---能、歌舞伎、文楽から、漫才、浪花節、曲芸にいたるまで、それらをすべて海だし、磨きあげて来たのは、貴族でも武士でも、学者、文化人のたぐいでもなく、つねに日本の体制から外にはじ出されていた、賤民といわれるような人々の力であった。江戸時代、士農工商の階級は、幕府支配体制がつくり出したものだそうだが、芸能者はその士農工商の下であり、かわらもの、とさげずまれて、あるときは一匹二匹とかんじょうされたりもした。」

そして「芸能界と暴力団のクロイ関係」といわれるものも、実は根が深くて、昨日今日の関係ではない。」として、反権力志向で、社会病理と隣接した存在として芸能を位置づけていく。40年前の本なので、すでにこの本自体が史料的価値を帯びているわけだが、現代にも感じる芸能の危うさ、怪しさの正体、起源を理解するのによい本だ。

・間道―見世物とテキヤの領域
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1046.html
テキヤ稼業(的屋、香具師ともいう)のドキュメンタリ。

・さいごの色街 飛田
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/01/post-1579.html

・江戸300藩 殿様のその後 [Kindle版]
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明治維新。大政奉還と廃藩置県により、各藩の大名たちは「お殿様」ではなくなった。明治、大正、昭和、そして平成と、元お殿様たちはどう生きたのか。末裔たちはいま何をしているのか。

著者は徳川宗家含めて幕末にあった約300の藩の最後の殿様たちのその後を調べまくった。ひとつの藩につき数行から数ページの記述であるが、かなり面白い。学校を設立したり、地場産業を興したり、元武士だから軍人として偉くなったり、さまざまな方面で活躍をしていた。

「本来、明治維新を革命とするならば、大名家は消滅すべき存在なのだが、そこが、明治維新の不思議な部分である。旧体制の代表的存在の大妙な抵抗勢力とはならず、むしろ近代日本の補佐的役割を果たしていく。」

皇室を支える、教育(学校設立など)、地方経済(地域産業振興)、政治、軍事(軍人として生きる)、文化の継承という6つの分野で、多くの元お殿様たちは活躍をした。「旧大名家は日本の近現代史形成の確かな一翼を担った存在だった」といえると著者は結論している。

徳川宗家や御三家などの大きな藩はそれなりに余裕があるのだが、1万石の小さな藩の殿様たちはかなり苦労した人たちも多かったみたいだ。サラリーマンとして、いろいろな会社で活躍した殿様が多い。

幕末の実態理解がすすむ本だ。

Kindleで読書。

・八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
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NHK大河ドラマの毎年恒例のオフィシャルムック。前編となっているが、おそらく今年も
後編、完結編と3冊でる。オフィシャルなので編集段階で撮影済みのドラマの写真、配役紹介とインタビューがたっぷりある。毎週見る人はお茶の間に置いておくべき一冊。

綾瀬はるかが「『勝った側ではなく、負けた側を描くドラマなので、有名でない人たちがたくさん出てきます。大河ドラマにしては珍しいかも』って言われたんです」とインタビューに答えているが、今回のドラマは幕末の知る人ぞ知る人物の発掘がテーマになりそうだ。

ドラマのファンブックという側面だけではなく19世紀半ばの幕藩体制の弱体化から西洋列強の脅威、幕府の崩壊、明治維新にいたる歴史背景の解説もある。ここで八重の生涯が対応していて、

1845~1856 1歳から12歳 ならぬことはならぬ
1857~1868 13歳から24歳 幕末のジャンヌダルク
1869~1890 25歳から46歳 ハンサムウーマン
1891~1932 47歳から88歳 日本のナイチンゲール

とまとめられていた。ドラマもだいたいこの4部ということか。

ところで俳優の役柄への思い入れ部分ってどの程度、本人が書いているのだろうか。ちょっと文章がうますぎであり、優等生的な抱負ばかりであり、ちょっと疑ってしまうが、まあゴーストライターで当たり前か、私のライター倫理意識が高すぎるか(笑)。

今年の私の一番の注目はなんといっても八重の父親役の松重豊だ。昨年の『孤独のグルメ』の主演に強烈な印象があって、厳格なお父さん役なのに、黙々と食べる五郎さんに見えてしまう。

・新島八重 明治維新を駆け抜けた才女
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/11/post-1732.html

・新島八重 愛と闘いの生涯
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/11/post-1731.html

・幕末銃姫伝―京の風 会津の花
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/07/post-1677.html

・芸術新潮 2012年 11月号
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芸術新潮という雑誌は特集テーマによって年に2,3回買うのだが、今年はやはりこの25年ぶりという縄文特集号が最高だった。土器、土偶の美しい写真でいっぱいの「縄文の歩き方」。

解説の小林達雄教授の解説がむちゃくちゃ面白い。どこまで史料的根拠があるのかよくわからないところもあるが、なぜ土偶はこんなへんな形に進化していったのか、とか縄文人の日常生活はこうだったとか、きわめてわかりやすい説明をする。

たとえば縄文時代は男はダラダラ、女はテキパキと暮らしていたのだという。男たちは狩りに出ても今日はどうする?とか話しているうちに日が暮れて「今日はもうダメだね」でだいたい帰ってきてしまう。女たちはテキパキ働いて植物性食糧を集めて食事を作っていたはずだと教授は言う。

「それでも肉を食べたいという圧力が強くなってくると、ちゃんと男も狩りに出かけます。狩りは危険も伴いますから、狩猟を担当する男というのは普段それなりに遊ばせてもらえるわけです。狩りがいつも成功するとは限らないが、獲物を獲り尽くさないで持続可能な狩りを続けていけるという利点となる。要はサボっているんだけど(笑)、それが上手い具合に全体のバランスを調整します。 いずれにせよ、しゃかりきに働きすぎることなく、冬場の何もしない余暇の存在が、縄文人の文化力を底上げしたのだと思います。」

頑張りすぎずテキトーに生きていると、環境と調和してよい感じになるよいう説。また土偶がなぜあんなヘンな顔になったかについては、初期は目には見えないナニモノカの気配を表現していただけのものだったが、顔をつけてしまったために人型に進化していったが、飽くまでもこれは人ではないので、人とは違うヘンな顔で進化していったという説。どちらも本当なのか?と思うが説得力のある文章。

MIHO MUSEUMの館長が「これこそ生の芸術。生命の力をひしひしと感じます。今の若い人が土偶に興味を持つのは、自分の中に絶滅危惧みたいなものあって、こういう血の騒ぐような力づよさを輸血しなきゃ、人間として危ないという飢餓感を覚えているからではないでしょうか」といっているが、ハイテクやデジタルなガジェットとは対極の存在感があっていい。

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