Books-Cultureの最近のブログ記事

・紙の本が亡びるとき?
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書籍の未来と文学の未来に関する論考集。

「紙の書籍が遠くない未来、これまで果たしてきた役割を終える」という前提で、出版業界と文学界に不可避に生じる変化を予測する。タイトルから期待するデジタル化のインパクトについての考察は全体の3分の1くらい。文学のおかれた環境と変化についてが3分の2を占める。

著者は書籍という媒体の特性を3つ挙げる。

1 文字情報の容器としての側面
2 主体が文字情報と接触するインターフェイスとしての側面
3 消費社会における商品としての側面

電子化による変化はすべてに大きな影響を与える。

「電子化されたデータの最大の強みは、それが、物理的・空間的な質量を有しないことである。かつて立会場で目視で取引されていた為替や株式の市場が、電子化されることでいっきに流動性を増したように、情報から質量を奪い去ることは、その効率性を飛躍的に高める。」

著者は1人が1000人の読者から1年に3000円を払ってもらえば12万人の作家を支えられるというモデルを提示している。個人ブログやメールマガジンのマネタイズ成功例(それで独立した、など)も増えているので、私も注目しているパターンだが、この計算年間に1人300万円に過ぎない。主旨は賛同だが、もうちょっと夢のある数字の方がいいんじゃないかという気もした。

文学というカタチは、電子化されることによって、読書スタイルの変化をもたらすだろう。検索とクリックが可能な電子テキストでは、これまでのように長い本をリニアに延々と読まなくなるかもしれない。

大江健三郎は「インターネットで本を読むといっても、それは本を解体することですね。一冊の本をバラバラにしていくだけ。しかしそれで終わるんだったら、人類は進化を続けなかったということです」と文学の新しい様式に懐疑的に語ったそうだが、ハイパーテキストやインタラクティブコンテンツを前提としたアートが大江健三郎的な旧態文学とせめぎあい、長い時間をかけて主流を乗っ取るということなのではないかなあと思う。

この本は、現代文学の文学部的な問題を語った章も多いので、「出版の未来」のみの本ではない。紙の小説が亡びるとき、の方が内容に近い。

・一〇〇年前の世界一周 ある青年の撮った日本と世界
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1905年、ベルリンの上流階級の青年が見聞を広めるために休職し世界一周旅行に旅立った。アメリカ、日本、朝鮮、中国、インドネシア、インド、スリランカなどを1年半かけて周遊し、各地の風景、風物をカメラで記録に残した。彩色が施されて疑似カラー化された写真はどれも傑作ぞろい。100年前の世界中にタイムスリップできる写真+紀行文のビジュアルブック(ナショナル・ジオグラフィック刊)。

シルクハットやロングスカートの人々が行きかうニューヨークや、カウボーイが馬車に乗り西部劇の舞台のようなアメリカの町、辮髪の男たちが闊歩する中国の道、など古い歴史物の映画を見ているような気分になるが、セットではなくすべてが本物。

4カ月滞在した日本の印象は特に素晴らしかったようで、「この上なく清潔で異国情緒にあふれ、細かい心遣いが行き届いた旅館」に感動し、「一気に体にまわり、華やいだ気分にさせる」燗酒に酔って、「エロチシズムを感じさせない女優や歌手のよう」な芸者たちと楽しく交流したことが記録されている。

「当時日本では、ビフテキはヨーロッパ人に対する最高級のもてなしだと信じられていた。直立不動の役人と通訳の脇で、私はこの巨大なビフテキを食べ始めた。幸い私はまだ若く、食欲は旺盛で胃も丈夫だったので、さほど苦労せずに食べることができた。この儀式に時間をかけては失礼にあたる、と同時に一口噛んでは会話を続ける必要に迫られ、それがさらに状況を複雑にした。」

30歳の時の世界旅行だったが、紀行文が書かれたのは実にその50年後、著者80歳の時だったそうだ。50年の間に著者は結婚し、子供をもうけた。世界大戦があり、ナチスを嫌った著者はドイツ国籍を捨てた。兄弟や友人の多くは亡くなっている。遠い日の思い出として自分の青春時代を回想してこれを書き下ろした。こんな走馬灯が見られる晩年ってうらやましい。若い時にいい旅をするってことは意味があるのだ。

写真が本当に素晴らしい。2時間ほど意識が時空を飛んだ。

日本辺境論

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・日本辺境論
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非常に面白い。わかりやすい。いい本だ。

日本人の島国根性の本質を「辺境人」としてずばり言い当てる。

「ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくか、もっぱらその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼうと思います。」

かつては中国であり、欧米列強であり、今はアメリカあたりが中心になっている。

「私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保証する誰かがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。」

この本が面白いのは、辺境人だからダメだ、というのではなくて、辺境人の強さもあるという、ポジティブな開き直りのベクトルで書かれているところだ。たとえば「外部に上位文化がある」というロマンは無限の「学び」につながる。どこまでいってもまだまだ上があると思い込んで道を究めていくことができる長所がある、という。

劣等感は個人において成長の糧になるものだが、民族レベルでも文化的劣等感というのはが役割を果たすことがあるのだと思う。著者は敢えて開き直って、それを日本の強みであると論じている。それでいいのだという肯定の本である。

明解な論旨で総論納得なのだが、よく考えてみると、完全に開き直ってしまえば成長もないわけである。この本はベストセラーになったが、グローバル志向の人たちからは、批判も多くあるようだ。結局、一筋縄ではいかなくて「だから日本はダメなんだ」と言い続けるのも日本の強さなのじゃないかなあ。

このアプリは常用決定。便利。

・FastweetLive
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Twitterのつぶやきをハッシュタグやキーワードで検索して、結果をリアルタイムに表示するiPhoneアプリ。検索結果の更新は自動で行われるので、セットしたら後は見ているだけでいい。とにかくイベントとの相性が抜群。もちろん、アプリ内からつぶやくこともできる。

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たまたま開発者のグルコース安達さんとアーキタイプ(日本最強のベンチャーインキュベータ)忘年会で一緒になり、FastweetLiveユーザーだらけのハッシュタグ付き忘年会を初体験。飲み会なのにみんなiPhoneいじりまくるのってどうよと思ったが、遠く離れた席の話題もわかるので、結構盛り上がっていました。後日、飲み会の感想を言えるのも良いところ。

イベント以外の使い方としては、よく行く地名を登録しておくとレストランなどのお店の情報がよく見つかる。新発売の商品名を登録しておくと、一早くレビューや感想をみつけることもできる。Twitterを情報収集源に使っている人は必携。

・古代中国の虚像と実像
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「二千年以上も昔の話であるから、こうした誤解は放っておいてもたいした害はないのだろうが、私は非科学的なものが嫌いなので、あえて虚像を指摘し、それを正す文章を書くことにした。 夢のない話を延々とするので、「現実的な話は聞きたくない」という人は、本書を読まないことをお薦めしたい。」

実にむかつく本である。

ちょっと著者を張り倒したくなる。

だが、古代中国好きには面白いことが書いてあるため、読み進めないわけにもいかない。
夏王朝はなかった。
紂王は酒池肉林をしなかった。
『孫子』は孫子がつくっていない。
焚書はあったが坑儒はなかった。
徐福は日本に来なかった。
四面楚歌も虞美人も作り話だ。
孔子の論語は当時から理想論だった

数々の物語を生み出した「古代のロマン」や、有難い「人生の指針」の根拠が、事実ではなくて後世の作り話やウソだったことが暴かれていく。

史料からの推定だけでなく、殷王朝で為政者が政治の意思決定に使った甲骨占卜を実際に骨を焼いて試してみているのが面白い。出土した甲骨は実際には吉や大吉ばかりであり、王の行動を否定するものはほとんどないことに著者は注目していた。あらかじめ甲骨に掘られていた筋は結果を操作するためのものではないかと考えて、実証して見せたのだ。

「つまり、殷王朝の甲骨占卜は、表面上は政策を決定する手段であるが、実際には決定された政策を宣言あるいは承認する儀礼的な行為だったのである。したがって、殷王朝は不確かな占いに頼って政治をしていたのではなく、占いを政治的に利用していたということになる。」

と結論する。いい研究なのだが、この著者のおかげで甲骨占卜の神秘性はなくなってしまう。

そういう話ばかりが延々と続くので、古代中国を舞台にした映画や漫画をみるとき「でも、ほんとうは違うんだよなあ、これ」と思いだすことになるだろう。古代中国が好きな人は、読むべきか読まざるべきか、実に悩ましい本である。

・米原万里の「愛の法則」
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作家、エッセイストでロシア語同時通訳者でもあったの米原万里の講演録集。

1本目「愛の法則」は女は男を次の3つに分類するという話。

A ぜひ寝てみたい男
B まあ、寝てもいいかなってタイプ
C 絶対寝たくないタイプ

で、世の中カテゴリCが90%を占めている。歴史的に見ても、女性は多くの男を競わせて優秀な一人を選ぶことになっている、竹取物語やかえるの王子など、女が主人公の物語では普遍的にそういう法則があるでしょう、という。その理由を性淘汰による進化論的視点や社会学的なキーワードで読みとく。

2本目の講演は、ロシア語通訳でもあった著者らしく国際関係論。

グローバリゼーションとは、イギリスやアメリカが、自分たちの基準で、自分たちの標準で世界を覆いつくそうとすること。国際化とは、世界の基準に自分をあわせようとすること。めざすべきはどちらでもないのではないかという話。

「これは日本人の伝統的な習性で、その時々の世界の最強の国が、イコール世界になってしまう傾向がありいます。しかも、世界最強の国というときに、何を基準に世界列強と判断するか。基本的には軍事力と経済力、これだけを見て、文化を見ません。文化を見ないにもかかわらず、なぜか世界最強の軍事力と経済力を持つ国は文化も最高だと錯覚してしまう傾向があります。」

だから今の日本はアメリカを最高だと考えて英語ばかりを勉強する。驚いたことにサミットの同時通訳では日本だけが、英語以外の外国語をいったん英語に翻訳してから日本語に翻訳しているのだという。これでは微妙なニュアンスが削られてしまうし、すべてが英語文化の色眼鏡で見ることになる。英語偏重の危険、直接の関係を築いてこその国際化、国際化を錯覚すると自国の文化を喪失しかねない、と言い、本当の意味での国際化とは何かを啓発する。

日本の国際化というと遣唐使に始まり現代のMBA留学まで、一部のエリート層が海外のこれまたエリート文化を学んで持ち帰り、多くの日本人はその流儀に倣うことが国際化だと考えてきたように思う。関係性が間接的なのである。

他2本のテーマの講演があるが、男女関係、国際関係での経験をネタに、人と人とが直接コミュニケーションすることの大切さ、面白さを語るという点で4編とも共通している。ユーモアたっぷり軽妙な語り口だが、ところどころに鋭い指摘があってどきっとする。

・匂いのエロティシズム
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「面白いのは、爽やかさとか清潔感といった言葉に適した香りを選ばせると、民族や文化、あるいは世代の違いによってかなりばらつきが見られるのに、性的な魅力に結びつく匂いとなるとかなりの普遍性が見られるとうことだ。」

ムスク(麝香)、アンバー、シベットといった動物に由来する匂いが、世界中で香料や媚薬として使われてきた。代表格のムスクは匂いの成分としては腋の下の匂いや体臭に近いことがわかっている。だがヒトはフェロモンに刺激されて、直接的に性行動が発動する動物とは異なる。

多くの哺乳類は生殖器や肛門から発情兆候の匂いを発するが、二足歩行になったヒトは鼻の位置が高くなって、匂いをかぐのが困難になったので嗅覚が退化し、視覚刺激に反応するエロスを持ったというのがフロイトの説。だが、ヒトはもっと複雑なのではないかというのが著者のエロモン仮説である。

人間は嗅覚的な匂いだけでなく、視覚や言葉にも性的な匂いを感じ取って反応する。「この、新たな意味を帯びた性的な匂いのことを、私はエロモンと呼んでみたい。フェロモンが本能に訴える匂いであったとすれば、エロモンはエロスに訴える匂いであり、人間的な意識が無くてはあり得ないものと考えるわけである。」

脳の生殖管理ソフトがバージョンアップして、フェロモンのような単純刺激ではなく、視覚や五感も総動員したマルチメディア対応のソフトウェアに進化したのではないかと著者はいう。マルチメディアとエロスの相性が良いのは、テクノロジーの歴史をみたら明らかだ。

「人間的な意識を前提とする「匂いのエロティシズム」は、だから本能的でも原初的でもない。エロスの匂いを感じ、匂いにエロスを感じることは、先祖帰りでも生物進化の逆行でも何でもないのである。むしろ、あらゆるものをエロス化してきた以上、フェロモンのような本能的な匂いとは全く別の、新たな匂いのエロスの形さえ創造できるのが、われわれ人間なのではないだろうか。」

性行動と社会関係、脳の進化、フェティシズム、文学研究など、性と匂いをキーワードにして幅広く著者の持論が展開されている。香料会社のパフューマー(調香師)なだけあって、香料の歴史や効果などの蘊蓄部分が濃い。

・アメリカで大論争!! 若者はホントにバカか
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いかにデジタル・テクノロジーが若者の知性を奪い、国の将来を脅かすかを語り、全米で大議論を巻き起こした問題提起の本。

米国の少年少女の読書時間は1日平均たった7分しかないこと、読んだとしてもマンガであること。博物館や美術館には行かずに、ゲームやネットばかりの時間の使い方をしていること。ローマ法王はイギリスのパリにいると答えたり、アメリカ建国の経緯を知らなかったり63%がイラクの位置を知らないなど、山のように若者の無知を示すデータが並ぶ。

著者によるとデジタル・テクノロジーによって引きこもり環境をつくって閉じこもることが、若者がバカになった原因だと断言する。

「若者たちは世間の現実に無関心だ」と言うだけでは不十分である。若者たちはわざと現実との関係を断っているのだ。言いかえれば、身近な現実に閉じこもっていて、友人、勉強、ファッション、車、ポップミュージック、テレビ・ラジオの連続ホームコメディ、フェイスブック(友人などと交流するソーシャル・ネットワーキング・サービスの一つ)以外を遮断しているのだ。日々受け取っている情報や相互のやりとりは、ごく一部に限られていたり表面的であって、政府、外交、内政、歴史、芸術が入りこむことは絶対にない。」

ネットを使えば自分が知りたい情報だけに囲まれて生きることができる。

「ある討論会で16歳の女性パネリストはこう明言した。RSS(サイトの情報を配信するフォーマット)」ばかり頼っていれば「もっと広い世界」が見えなくなってしまうのではとの問いに、「もっと広い世界なんかみたくありません。自分が見たいものだけ見たいのです」。」

こうして視野が狭くなっていくことは確かに情報化時代の落とし穴だ。ネット世代の情報収集を、RSSに象徴させて問題提起をしたのは鋭いなと思った。

だが現在のサブカルチャーが次の世代のカルチャーになることを考えると、上の世代が知らない世界を若い世代は先取りしているのだとも言える。知っていることの総量が減った=バカという構図は必ずしも当たっていないのではないか?とも思える。

著者は読書に関する討論会での若者とのやりとりを次のように紹介している。

「きみたちは、今の下院議長が誰かより、『アメリカン・アイドル』で誰が選ばれたかのほうを6倍も知りたいんだ」と私があおってみたところ、1人の女子学生がこう切り返してきた。『アメリカン・アイドル』のほうが重要なんです。」

そして、若者は世界の指導者よりアイドルが重要だと考えるようなバカだと語る。

だが、これはどうだろうか。私は著者もバカであると思う。若者はある意味では正しい判断をしているのではないか。アメリカン・アイドルで彼らが投票で選ぶ同世代のスターは将来、ただのアイドルを超えて、若者世代の指導者になる可能性がある。少なくとももうすぐ引退の下院議長より、彼らの人生にとって重大な影響力を持つだろう。上の世代のリーダーは選べないが、次世代のリーダーは自分たちで選ぶことができるのだから。

若者はホントにバカか?。これはアメリカだけの問題ではない。日本でも同様のことを言う人たちがいる。

結局、バランスの問題なのだと思う。

老人が最近の若者はバカだ、けしからんと言い続けてきたのが人類の歴史だろう。それを検証しようと思って私は、

・「近頃の若者はなっとらん」と上の世代が下の世代を批判した最古の文献(石板や壁画含む)を教えてください。出典(URLが望ましい)をつけてください。
http://q.hatena.ne.jp/1259504330

という質問をネットに投げかけたのであるが(リンク先を読むと答えがわかる。同時に私がバカだったことが分かる)、数千年前の古代エジプトやアッシリアの石板にもそんなぼやきが書かれていたのだ。

だが実際に若者がバカで滅びたことは一度もなかった。むしろ優れていたから人類の歴史は進歩してきた。同時にそれは上の世代が若者はバカだと警鐘を鳴らし続けてきた歴史と見ることもできる。両世代のせめぎ合いによって、人類はなんとかなってきたのだ。だから、若者はバカではないが、若者バカ論が絶えてもいけないのだ。

そういう意味においてこの本は時代の抑制力であって、まるっきりバカでもないが極めて主張が一面的である。本書の対抗馬である『ダメなものは、タメになる』と一緒に読むとバランスがとれると思う。

・ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/post-937.html

・ゲームと犯罪と子どもたち ――ハーバード大学医学部の大規模調査より
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/06/post-1015.html

・図説「愛」の歴史
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鑑賞に値する美しいビジュアルブック。『21世紀の歴史』を書いたフランス政府顧問のジャックアタリが、38億年前の単細胞生物の生殖から未来の複雑な男女関係まで、愛を視点に地球史を展望した。愛や結婚をモチーフにした美術作品や写真など合計200点を超えるカラー資料をまじえた豪華絢爛な絵巻。

今から8000年くらい前、富が集中した中国や中東で人間の寿命は30歳を超えた。男が生殖における自身の役割、すなわち精子の役割に気がついたのが、この頃だったとされる。それまでの人類はどうやら性交と生殖の具体的な仕組みを知らなかったらしい。だからカップルの関係は長く続かず、子供も両親と長く一緒には暮らさなかった。

寿命が延びたことで、男女は長期的な愛の関係を育むようになったのである。愛のかたちはそこからぐっと多様化、複雑化する。ギリシア人は愛をエロス、フィリア、アガペーの3つの形に区別した。ローマ人は結婚の形式を調停結婚、自発的結婚、ファール共祭式結婚、略奪の4つに分けていた。

愛もまた時代に翻弄される。アラビアやインド、古代ギリシア・ラテンの慣習の影響を受けた十字軍兵士たちの帰還がヨーロッパにエロティシズムと愛をもたらし、人口の3分の1を奪ったペストの惨禍によって人間の価値、愛の価値は高まった。

西欧ではキリスト教が、教会の監視の下で官能性を拒否し、生涯一人の配偶者を愛する一夫一婦制を広く普及させた。その影響下に今の私たち日本人はある。だがそれを当り前と思うなというのが本書の主旨である。アタリは実在する多くの愛の形のバリエーションの提示によって、現代の私たちの持つ愛のイメージを徹底的に相対化する。

キリスト教は愛に宗教的表現を与え、一夫一婦制にもとづく愛を制度化した。だが、このタイプの生殖と欲望と愛の関係は、人類史からみたらほんのわずかな時期の、一部の人たちの習慣にすぎないという。もっと自由な愛の形のバリエーション(生殖と欲望と愛の分離)があったし、今後も起きるはずだ、と。

そしてアタリの愛の未来をこう予想する。

「遠い将来には、根源に帰るかのように、新たな形の人間関係が生まれることが予想される。その関係は欲望の即時の満足を基礎にしたものであり、またしだいに繁殖という関心事から解放されていくものである。関係の起源を両者の間で前もって決めておく一時契約の結婚。それぞれが隠すことなく同時に複数の恋愛パートナーをもちうる多恋愛(Polyamour)。それぞれが同時に公然と複数の家族に属する多家族(Polyfamile)。それぞれがさまざまな性行動をとる集団内で、複数のメンバーに操をたてる多貞節(Polyfidelite)。子どもたちは両親がかわるがわる世話をしにくる安定した場で育つことになるだろう。」

ネットワーキングならぬネットラビングとでも呼ぶべき関係の登場と合法化が進むというのがだが、そして最も有望な関係性とは、なんと三者関係なのである。大統領顧問が三者関係推奨なのである、本当か?!

「ネットラビングの中でももっとも安定的で特別な形は、同性または異性の3人の人間が、ある場合には所帯をもって、同じ家で暮らし、全員または2人ずつ性的関係をもつような関係である。」

本書には具体的に3人で結婚した例が紹介されている。

「そうした3人組のケースはいくつか知られている。たとえば3人のオランダ人、ヴィクトル・ド・ブルゾンと2人の妻、ビアンカとミルジャムは一夫一婦婚と同じように一緒に暮らしている。この3人の関係は公証人立会いによる契約によって合法化されており、法的にも認められている。ビアンカとヴィクトルは18年間夫婦として過ごしていたが、その後この2人を愛したミルジャムが、最初の夫と離婚して人と一緒になったのである。」

名前で検索すると海外にニュースが見つかった。

・Dutch 'marriage':1 man, 2 women
Trio becomes 1st officially to tie the knots
http://www.wnd.com/news/article.asp?ARTICLE_ID=46583

この記事によると、ブルゾン(男性46歳)とビアンカ(女性31歳)の夫婦と、ミルジャム(女性35歳)はインターネットのチャットルームで知り合ったそうだ。女性二人の間には嫉妬がまったくばい。理由は二人の女性がバイセクシャルだから。ブルゾンは100%ヘテロセクシャル(一般的な異性愛者)であるから、4人目を加えると不倫になることになるので、追加はありえない、そうである(ロジックが実に複雑ですが、ま、そうか?)。

愛のかたちの歴史を振り返ると、意外にスピーディに進化してきたことがわかる。常に倫理も制度も後追いだ。実はキリスト教世界では1965年の第二ヴァチカン公会議で、結婚の目的はたんに生殖だけでなく、夫婦の愛情と幸福であることがようやく認められた、と書かれている。こうした今は奇抜な関係性だって、50年、100年で当たり前になる、のかもしれない。

・21世紀の歴史――未来の人類から見た世界
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/21-1.html

・音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉
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聴き方の本というよりは、音楽を語る言葉を磨くための本である。人は音楽を自由に聴いているようでいて、過去の経験や知識に大きな影響を受けている。だから作品のポテンシャルを深く味わうには、聴き方の癖=「型」を自覚して、感動を言語化していくことが大切だという。「型」が持つ共同体形成の力

人はなぜある音楽には感動し、ある音楽には無反応なのか。音楽の趣味とは何なのか。人間は理解可能なものしか理解できないのと同じで、感動にも、あらかじめ反応の下地が必要だというのだ。

「自分の感性の受信機の中のあらかじめセットされていない周波数に対して、人はほとんど反応出来ない。相性がぴったりの音楽との出会いとは、実はこれまで知らなかった自分との出会いかもしれないのだ。」

クラシック、ロック、ジャズなど音楽ジャンル特有の「型」というものがある。こういう風にきたらこうだよね、というパターンは、ある程度言語化され、社会的に共有される。型を踏襲したり、新鮮味を与えるために敢えて離れたりする名演には聴衆の喝采が送られる。型を感じるための受信機がセットされていないと、音楽はそもそも味わえないのだ。小林秀雄の「ひたすら聴けばわかる」という見方は嘘である。

聴き手だけでなく評論家たちも型を仕事に使う。型との関係性を言語で説明するのが批評行為ということだろう。プロの演奏者たちも型を言葉にしている。身体・運動感覚の言語化には特徴的な現象がみられるという話が興味深い。

プロの音楽家たちがリハーサルで使う特長的な言葉づかいを著者は抜き出した。わざ言語と呼ばれる類の「砕けていて端的であり、感覚的で生々しい」フレーズである。

「40度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて」
「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」
「おしゃべりな婆さんたちが口論している調子で」
「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を」

身体性の語彙を芸術家たちは共通語として活用するわけだが、これは芸術だけでなく職人技の仕事全般にも通じる話だろう。暗黙知を共有するための符号なのだろう。それでわかる人はわかるし、わからぬ人は永遠にわからない。

聴き型を知っているかどうかで音楽の演奏の仕方、批評の仕方、味わい方のすべてが変わってくるということがよくわかる。音楽は「言葉にできない」のではなく、むしろ言葉によって作られていく面もあるのだ。

・CD&DVD51で語る西洋音楽史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/06/cddvd51.html

・西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)  岡田 暁生 (著)
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/04/post-970.html


・知識の社会史
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古今東西の社会と知識の関係を、大きく全体像を鳥瞰すると同時に、細部も観察する。博覧強記の著者だからできた包括的な知識の歴史学。古代から現代までの知識人、首都、図書館、宗教と官僚制、出版と市場、知識と分類などがキーワードである。

冒頭、知識とは何かの定義から始まる。バークは、

「情報」(Information)= 「生の」素材 特殊で実際的なもの
「知識」(Knowledge)=「調理された」素材 思考によって体系化されたもの

としている。「生の」、「調理された」は人類学者レヴィ・ストロースのフィールドワークでの「自然」と「文化」の分類と同じ言葉である。そうすると知恵(Wisdom)とかデータも定義が欲しくなるのだが、知識の社会史は分類の歴史でもあった。

集めた情報を体系化し、再編成していくやり方は時代や地域によって大きく異なる。西洋の近代の学問体系に大きな影響を与えたベーコンは、心には3つの能力(記憶、理性、想像力)があるとして、その図式のもとにあらゆる知識を分類した。たとえば歴史を「記憶」、哲学を「理性」、詩学を「想像力」に分類した。分類思想の変遷は、大学の学部構成や、図書館・博物館の配列といった知識を生み出す制度にも影響を与えている。

知識の社会史は、知識を生み出す体制とそれを破壊するイノベーターの歴史でもある。制度化されることの重要性について、著者はこう書いている。

「一般的にいって、周縁にいる個人は輝かしい新思想を生み出しやすい。他方、その思想を実践に移すには制度を築く必要がある。たとえば、われわれが「科学」と呼んでいるものの場合、十八世紀の制度改革は学問分野の実践に大きな効果を及ぼした。しかしながら制度は遅かれ早かれ固定化し、さらなる変革への障害になる。定着した制度は既得権益の場となり、その制度に権益をもつ集団によって占められ、その知的資本を失うことへの恐怖が生まれてくる。クーンが「通常科学」と呼んだものの支配は、このようにして社会的にも制度的にも説明できるのである。」

中心と周縁、異端と正統、愛好家と専門職、改革と日常仕事、公式と非公式など、しばしば対立する二つの集団の相互作用ぎあいによって、知識を創造する社会自体が進化してきたのだ。

「読者はきっと伝統の維持者よりも改革者の肩をもちたい気になるだろうが、有給の知識の歴史においては、その二つの集団は同じくらい重要な役割を果たしてきたのである。」
バークは中盤で知識の地理学という視点を問題提起的に持ち出す。かつて「この山脈のこちら側では真理であっても、反対側の世界では誤りとなる。」とモンテーニュは言ったそうだが、歴史的にみて情報や知識は、どこにいるかによって異なるものだった。

情報がネットワークでフラット化したはずの現代だって同じである。

・ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2009091300077
「【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。」

こんなニュースがあったが米国内でもどの州に住むかによって、人類が猿から進化したかどうか、真理が異なる。中東と欧米では宗教によってテロや戦争を引き起こすくらいの真理の隔たりがある。重大事に関する真理は未だに知識の地理性によって決まっている。

しかし、知識の社会史を鳥瞰してみると、場所によって真理が異なること自体は悪いことともいえないようだ。世界の中心はどの時代にも、ひとつではなくていくつもあるということを理解する柔軟さが必要なのだ。

ほかに知識流通の市場の歴史や、読書における精読と速読の対立などという話も面白かった。
この知識の社会史こそ「情報学」として学校で教えたらいいのにと思った。

・読書の歴史―あるいは読者の歴史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1047.html

・「歌」の精神史
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日本人の叙情精神を「歌」という切り口で平家物語から現代歌謡曲まで通史的に振り返る。短歌や俳句も「歌」であるし、琵琶法師の平家物語や瞽女唄だって「歌」である。乃木将軍の辞世の句も、サラダ記念日も、浪花節や演歌、JPOPも歌である。

だからこの本は、こんな章立てだ。 幅広い。

・空を飛ばなくなった歌?美空ひばりと尾崎豊
・「短歌的抒情」の否定と救済?小野十三郎と折口信夫
・『サラダ記念日』の衝撃?斎藤美奈子と富岡多惠子
・浪花節と演歌?朝倉喬司と春野百合子
・『平家物語』の無常観?小林秀雄、唐木順三、石母田正
・吉川英治と『平家物語』
・挽歌の伝統と「北の螢」?古賀政男と阿久悠
・西行と啄木のざわめく魂
・道元と白楽天
・親鸞の「和讃」
・親鸞和讃と今様歌謡
・瞽女唄と盲僧琵琶?小林ハルと永田法順
・西條八十と北原白秋?日本的叙情

最後の転換期は美空ひばりと尾崎豊のあたりにあると著者は指摘する。

「私は美空ひばりの歌には、いつでも独特の悲哀感が漂っていたように思う。だが尾崎豊の歌には、苦しみと怒りの叫びがいつでもこだましていた。悲哀感は、それこそ「川の流れのように」人びとの胸の裡に浸透し、その内攻する心の扉の中に融けこんでいく。世代の垣根をこえ、誰にでもある観jこうの高ぶりや不安を慰撫して、それを鎮める役割をはたす。悲哀感とは、何よりも時代の感性を生みだす母胎のようなものではなかったのか。」

古の時代から昭和まで、日本人にとって「歌」とは「身もだえの調べ」が本質であった。琵琶法師の平家物語は時の流れに無常を嘆くわけだし、親鸞の和讃は自己の罪悪性に対する悲嘆でもあった。またかつて歌には魂鎮めとしての挽歌(死者を弔う)、相聞歌(愛の歌)という要素もあった。歌謡の底流には、寂寥感や喪失感から何かを嘆く叙情、生命の高揚感や無常観が流れていた。

湿っぽい歌を我々日本人はは長い年月、脈々と愛し、育ててきたのだ。

ところが現代では、湿った叙情に対する軽蔑、敵意さえ感じられるようになった。悲嘆や身もだえは現代の歌謡には、演歌をのぞいて見られなくなった。これは日本の1000年以上の長い歌謡史において、大変な変化であり喪失なのであると著者は結論する。

ユニークな視点で歴史資料を調べ、明解な解説をされていて、まさに歌の精神史として完成されている、よい本だ、面白かった。ただ現代のポップミュージックが本当に叙情を失ったかというと個人的にはちょっと疑問符だ。

私も、確かに昔の(自分が学生だった頃の)歌謡曲は良かったなあ、今聴いても泣けるなあと感じる。それに比べると最新のオリコンチャートのJPOPでは泣けない。悲哀感を感じない。

いまどきの歌謡の歌詞というのは、たとえば

"複雑にこんがらがった社会で組織の中で頑張るサラリーマン。安直だけど純粋さが胸を打つのです。知らぬ間に築いていた「自分らしさ」の檻の中でもがいてるなら照準を絞ってステップアップしたい。とはいえ暮らしの中で、今 動き出そうとしている歯車のひとつにならなくてはなぁ。"

みたいなものだ(ミスチルのマッシュアップ)。著者が言うように「言葉が、うたう対象と距離をおくように慎重に配置されている」ように感じる。なんだか冷静なレイアウトで叙情がないように思える。

ただこれで本当に泣けないかというとどうだろうか?。歌謡というのは同時代の大衆のもの(特に若者)であって、これを聴いて育った世代は結構、これで身もだえできるんじゃないのか?とも思う。実際、著者が叙情がないと指摘する尾崎豊の歌に、私は叙情をたっぷり感じられるのである。

歌謡の伝統は代々受け継がれてきたものであり、常に新しい世代の心を動かす歌が残ってきたのだろうから、1931年生まれの著者が、今の歌謡に響かなくても、大丈夫かもしれないと思ったりもする。まあ、それはともかく日本の「歌」の精神史として非常に興味深い議論の本であった。

・放送禁止歌
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001449.html

・案外、知らずに歌ってた童謡の謎
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003167.html

・裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話
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大変にユニークであり中身も濃く、面白い。5つ星の本。

人類のはじらいの文化は、野蛮から文明化社会へ、不作法から洗練へ向かったという一般的な見方(ノルベルト・エリアスの文明論に代表される)を真っ向から否定する研究書。原始社会の人々は裸体や排泄する姿を人前に晒すことに恥を感じない野蛮な社会だったというのは根拠がないウソであるという。むしろ原始社会と言われる社会の方が恥の感性は発達しており、裸体の社会的管理も厳格だったりするのである。

全裸で暮らす≪未開の≫部族は、一見、裸に対して羞恥心を持たないかのように思えるが、実は彼らはお互いの裸体を見ないように暮らしているのだ。うっかり男性自身を硬直させないよう女性に近づかないように心掛ける。もし少女の陰部をみつめたりすればその親に報復されたり、村から追放される厳しいルールがある、などということが解説されている。

男が女を見るというだけではない。たとえばいくつかの社会では父親や目上の男の陰部を見てはならない。それは大変な恥辱を与える失礼なことだった。聖書でも父ノアの陰部を見てしまったハムが呪われている。見えても視線を向けてはならなかった。

「裸の社会では、服を着た人たちより礼儀正しく振る舞わねばならない。言葉、身振り、視線もすこぶる慎重で用心深くなければならない。」

原始社会には物理的な個室の壁や衣服がない代わりに心理的な「幻の衣」をまとい、「幻の壁」を作りだして、恥を社会的に管理していたのである。羞恥心の発達は現代人以上に高度で複雑で繊細だったことに驚かされる。

たとえば排泄を見られたら死んでもおかしくなかった。

「ミクマク族の兄弟が森の中にいた時、若い娘は兄の衣服に跳ね上げた便の汚れをみつけたが、それは彼が今しがた傍らの藪の中で用を足したことを物語っていた。それを指摘された兄は、余りの恥ずかしさに大枝で首を吊ってしまったのである。」

小学校でトイレで大の用が足せない子供の感覚は人類史的には結構まともなのである。

「ニューギニアのハーゲンベルグ族は、排泄の最中を偶然見つかると恥ずかしさの余り両手で顔を覆い、首を吊るべきかどうか考える。<中略>用を足している女性を見た男性は、そばへ行き、自分といっしょに寝ないかと尋ねるのが当たり前である。普通、彼女はそれに同意する。なぜなら性交後二人はたがいに親密な関係になったため、恥はなくなるからである。」

うっかり女性が用を足しているトイレのドアを開けてしまった場合、結婚して責任をとるべき社会というのもあるのだ。なんて世界は広いのか。

中世ヨーロッパの魔女裁判の取り調べにおいても死ぬほどの羞恥心が利用された。魔女の疑いがある婦人に対して、悪魔の印がないか検査のため、毛を剃るぞと脅したのである。すると「陰部のあたりの毛を剃られるのはひどく恥ずかしかったので、多くの婦人はへなへなとなり、拷問なんかせずとも一切を白状した」という。

古代ギリシアの裸の英雄、中世の浴場、近代の水浴び、日本やロシアの裸体の扱い、ヌーディストの視線、ベッドでのはじらい、幼児の性、便器、排尿・排泄・放屁、召使いや奴隷の前での露出、刑罰、俳優と娼婦の露出など、裸体とはじらいの関係について、古今東西の文化を比較検討していく。すると裸と恥がヨーロッパだけでなく世界中の原始的社会でも密接に結びついており、はじらいとは人類に普遍の感性であることがよくわかる。恥ずかしさが文化文明を発達させてきた一因でもあるのだ。

この本は写真資料と参考文献が大量に掲載されているのが特徴だ。特に写真資料は古今東西において恥とされたり卑猥とされた絵や写真ばかりだ。学術書なので、そこまできわどいものはないが、ちょっとした珍宝館みたいである。私が一番猥褻だなと思ったのは、フランスの農夫の寝間着の写真だ。上から被るように着るものなのだが、陰部のあたりにスリットが開いている。これは宗教的に性が抑制されていたため、最低限の肌の露出で夫婦の義務を果たせるようにした工夫なのだが、逆にその目的のためだけに開いた切り込みが、いま見ると実に艶めかしく、いやらしい。

本書で人類の歴史を振り返ってみると、ヌードがメディアにあふれた現代日本は、むしろ羞恥心や社会的抑制が極めて衰退しているようにも思える面もある。だが今だって女性は黒いベールで顔を隠す国もあれば、壁のない公衆便所で並んで排泄するのが普通の国もある。どちらが文明化されて洗練されているかなんて一概にはいえないわけだ。そうした「文明化の神話」を裸体とはじらいの関係史をひもとくことで打ち壊すのが本書の著者の真のねらいなのであった。

・欲望の植物誌―人をあやつる4つの植物
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人間が品種改良したからではなく、植物は自ら周囲の動物の欲望をあやつることでこそ今の姿になったのだという独特の視点に立った共進化論と歴史学のエッセイ。本書で取り上げられる4つの植物とそれらがあやつる人間の欲望は以下の通り。

リンゴ → 甘さ、甘いものが欲しい
チューリップ → 美、美しいものを手に入れたい
マリファナ → 陶酔、ハイになりたい
ジャガイモ → 管理、自然を管理したい

人間はこうした欲望を満たすために植物を利用しているが、逆に植物の視点に立てば、人間に運ばれ食べられることで広域に繁殖することに成功している。

たとえばリンゴはタネが熟すまでは目立たない緑色で甘味もない。タネには毒があって果実しか食すことはできない。だからタネは果実を食べた動物によって運ばれ、未消化のまま地面に落とされる。かくしてリンゴは動物が求める果糖と引き換えに分布域を拡大してきた。

チューリップなら引き替えにしたのは花の美であった。マリファナなら動物の脳に作用する化学物質であり、ジャガイモでは品種改良の容易さであった。

「私たちはつねづね「栽培化」という行為を自己中心的に、人間から植物への働きかけと捉えがちだ。しかしこれは同時に、植物が私たちや私たちの抱く欲望をーーー美意識というもっとも特異な欲望でさえもーーー自らの利益のために用いた戦略でもあるだろう。」
なぜ花が美しいのか。なぜ果実はおいしいのか。なぜマリファナに酔うのか。なぜジャガイモ栽培が楽しいのか。

「植物の進化にとっては、相手の生物の欲望こそがもっとも重要な鍵となったのだ。理由は単純で、相手の欲望をより多く満たすことのできる植物ほど、より多くの子孫を残すことができるからだ。こうして美は、生き残り戦略として生まれてきた。」

最近、テレビや新聞で人間の活動が原因で○○が異常大量発生などというニュースを見るが、本来、自然に異常も平常もないわけである。それは○○という種が、人間の活動をうまく利用して、繁殖に成功したというだけの話である。○○という種の歴史から見たら偉大な一歩なのである。

栽培植物もまた人間の意図や意識が作りだしたと考えられがちだが、実際には人間と植物の相互作用のなかから自然に生まれてきているのではないかと著者はいう。人間を自然の外側に置く思想では共進化の姿を理解できないからだ。

「より均整のとれた花や、より長いフライドポテトを求めて手を伸ばすたび、知らず知らずのうちに進化を決定づける一票を投じているのだ。もっとも甘いもの、もっとも美しいもの、そしてもっとも「酔わせる」ものが生き残っていくプロセスは、弁証法的に展開する。すなわち、人間の欲望と植物の可能性の宇宙のあいだに交わされるプロセスは、ギブ・アンド・テイクの繰り返しのなかで進んでいくのだ。そこで必要とされるのは二人一組のパートナーであって、決して意図や意識ではない。」

欲望を持った植物と人間の恋愛の結果が現在の自然の姿なのだ。

博学の著者は植物をめぐる多様な世界史、文化、社会、技術の話題をこの本の中で全方位で考察している。思えば、環境問題では環境"破壊"、環境"保護"など人間が自然の生殺与奪の権利能力を握っているかのような言葉が使われる。だがそれは植物の側だって握っているものなのだということを思い出させてくれる。

・アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る
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ヤマト王権成立の5~7世紀にはタカミムスヒが最高神で、律令国家が成立する8世紀頃にアマテラスが最高神にとってかわったのではないかという仮説である。

「四世紀までの日本には、第三章で述べるが、唯一絶対の権威をもつ至高神は存在しなかった。そこは豪族連合段階の社会にふさわしい、人間的で魅力あふれる多彩な男女の神々が自由奔放に活躍する多神教的世界だった。それは神話としての魅力には富んでいるが、先生王権が依拠する思想として適切とはいえない。それに比べると北方系の天降り神話は、唯一絶対性・至高性という点ではるかに勝っていて、統一王権を権威づけ、求心力を高める、思想的武器としての力を十分もっていた。」

日本書紀と古事記を比較して、先祖について記載のある氏の登場回数を数えると、地名を名とする半独立の伝統を持つ氏である臣・君・国造系と、職掌を名とする天皇の身内的氏である連・伴造系の2グループで、顕著な違いが見られるという指摘と分析が鋭いと思った。正史が編纂された当時の読者は何を気にしたかに着眼しているのだ。

「現在私たちが『古事記』を読むとき、このような氏の名にいちいち目を配る人はまずいないだろう。しかし、とくに天武の生存中にもしこの書が完成していたならば、おそらくその時代の支配層の人々にとっては天武自身が編纂した欽定本の歴史書に、自分の氏の名が記されているかどうかは、きわめて大きな意味をもったに違いない。ところがこの欽定本には、あきらかに臣・君・国造系にたいする極端なまでの重視、あるいは優遇と、連・伴造系に対する軽視、あるいは冷遇が見られるのである。」

そしてそれが氏族制国家の終焉と律令国家体制への移行のあらわれだという自説展開へつながる。日本書紀の「神代 上」と「神代 下」の二元構造は誰が見ても明らかだ。古い建国神話と新しい天下り神話を"国譲り"で無理矢理接着したからだと著者は分析する。
日本書紀は一君万民の国家を支える新体制のイデオロギーに必要な神話体系として編まれたとされる。その時代に、本来は皇祖神ではなく土着の太陽神であったアマテラスを格上げし、古いタカミムスヒから段階的に置き換えていったのではないかという推論がある。
記紀において武勇伝や活躍シーンの多いスサノオとかオクニヌシなどと比べると、アマテラスという神は最高神である割に、天の岩戸事件での振る舞いに象徴されるような受け身な行動が多い存在である。謎の最高神の秘密を探るミステリーの解明に挑んだ意欲的な新書。記紀好きはぜひ。

・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
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・日本人の原罪
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-946.html

・[オーディオブックCD] 世界一おもしろい日本神話の物語 (CD)
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・日本史の誕生
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・読み替えられた日本神話
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・日本神話のなりたち
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-573.html

・日本古代文学入門
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・ユングでわかる日本神話
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・日本の聖地―日本宗教とは何か
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・劇画古事記-神々の物語
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・日本人の神
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・日本人はなぜ無宗教なのか
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・「精霊の王」、「古事記の原風景」
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・古代日本人・心の宇宙
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・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ...人は何を恐れたのか
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・神道の逆襲
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・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html

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