Books-Culture: 2005年2月アーカイブ

・「ケータイ・ネット人間」の精神分析
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■インターネットにひきこもる人々

気になっていた本が文庫化されたので読んだ。精神分析の研究者が語るケータイネット文化論。日本人、現代人の心理はケータイネットの出現でどう変わってたか、これからどうあるべきか。

近頃の若者は的オヤジのぼやきかと思ったらそうでもない。ケータイネットを自分もつかってみたら、なかなか面白いじゃないか、という話から、ケータイ文化の光と影の検証へとつながる。

前半で「インターネット5つの魅力」がまとめられている。

1 匿名で別人格になれる
2 「全知全能」な自分を感じられる
3 自分の気持ちを純粋に相手に伝えられる
4 特定の人と、親密な一体感が持てる
5 イヤになったら、いつでもやめられる

ケータイネットは今までになかった、人間のつながりを作り出す。別人格である仮想の自分と、仮想の相手と好きなときに好きなだけかかわることができる。ケータイはPCよりもパーソナルで、これらの特徴が強化される。

面と向かって話しているのに携帯の画面をみつめてばかりの人、街中や車内で周りの迷惑を考えずに大声で携帯で会話している人、携帯で知り合った人とのかけおち。ケータイ依存が私たちの普段の生活に浸透して、便利な反面、不快な体験をすることもある。ケータイ仮想世界に没入した結果、少年が凶悪犯罪を起こしたり、心中事件が起こったりもしている。

■1.5の人間関係

ケータイネット時代の人間関係は1.5の関係だと著者は言う。

生きた人と人による2人の関係は2.0の関係である。さらに誰かが加われば3.0の関係になる。これに対して、半分人格を感じているペットやゲームのキャラクターであった場合、これに0.5の人格といえる。よって人と仮想的なモノとの関係は1.5の関係と定義できる。

1.5の心理条件としては、

1 1.0の人間や生きた存在の代理としての役割を担う
2 人間的、主観的な思い込みを託す
3 この思い込みをある程度人々と共有することができる
4 「ごっこ」であり半ば醒めたかかわりである
5 自分勝手で自分本位な部分がある

が挙げられている。

1.5の関係は悪いことではないが、1.5の関係は2.0の関係に比べてわずらわしさがない。自分の思い込みの鏡であるから、依存性が高い。オンラインゲームにはまる原因はまさに1.5の関係の魅力である。だが、1.5に中毒になったあまり、現実の生活を破綻させる例がでてきた。

たとえば、配偶者のいる男女が、インターネットで出会った恋人とメールだけで熱く盛り上がり、ついには家庭を放棄してしまう。だが、実際に新しい恋人と生活してみると、想像していたのと違う人格で長く続かず、結局分かれてしまう。誰かと話していても目はケータイの画面をみつめている。そんな事例が幾つか取り上げられていた。

ケータイネット、インターネットは居心地がよく中毒になりやすいと言われる。それは非物質的なもので限りがなく、ついつい「あと1分間」シンドロームに陥って、深夜まで続けてしまう。この現象を「1.5へのひきこもり」と著者は呼んでいる。

その理由を1.5は居心地がよく母親の胸に抱かれている安心感があるからだと総括されている。

■父性の復権が重要という提言

1.5に慣れてしまうと、現実の人間の持つ棘を恐れるようになる。次第に距離をとり始める。このヤマアラシのジレンマをシゾイド的人間心理というらしい。シゾイド化した社会は、自分の鏡ばかり見つめている自己愛型人間の社会で、いつまでも大人になれない未熟な社会だと著者は糾弾している。「ケータイネットに没頭している若者の姿は、母親の乳房しか目に入らない乳児の姿である。」

そして、母親的な1.5の関係から、より社会的で父親的な2.0の関係を復権させよ、と結論する。ケータイネット、仮想空間の人間関係を1.5の関係であり、母親的システムへのひきこもりだと総括したのは鋭いと思った。大枠では著者の主張が正しいと共感した。

しかし、若者の自己愛的、自分勝手な人間関係への変化は、ケータイネット、仮想空間だけが原因ではない気もする。これは経済的に豊かになり、助け合わずとも死ななくなり、価値観が多様でありえる先進国社会に共通の傾向なのではないか、とも私は考える。

人間関係は2.0だけが正しいわけではないことに、ケータイネットを通じて、皆が気がつき始めたということのような気がする。インターネット上では、一度も会ったことのない人とチームを組んで立派なビジネスやボランティア活動を行う人たちがいる。彼らは必ずしも互いを全人格的に理解しているわけではないだろう。実際に会ってみたら幻滅する関係もあるはずだ。

実際には会わない。自分の思い込みの1.5的な相手とつきあう。でも、結果が出るのであれば、それでもいいじゃないか、その方がいいじゃないか、とも思う。会って幻滅したらできなかったであろう、1.5の自己愛勝手な思い込み集団によって、大規模な協同作業の営為が、仮想ネット空間では次々に実現されているからだ。

「50年間顔を合わせず地球の裏側の親友と協同作業をしてきた人がいる」「人生の大切な分岐点にだけ価値のある提言メールを送ってくれる恩人がいるがあれは誰なんだろう?」。そんな体験をする人もきっと出てくるだろう。そういう関係は本当の人間関係ではないからだめだと、切り捨てるのは惜しい。

仮想的な1.5を2.0より劣ったものと考えるのではなく、2.0と並んで大切なものとらえて、いかに二つを充実させていくかが、これからのユビキタスネットワーク時代の可能性でもあるのじゃないかなあと思った。

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