奇想の20世紀

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・奇想の20世紀
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「未来を空想する力を人類は失いつつあるのではないか。しかしわずか一〇〇年前には「未来予測」は凄まじいブームであった。産業、経済、政治、消費、娯楽など、あらゆる分野で未来が予測され、次々に現実となった。その大予告編とも言うべきスペクタクルが万国博覧会であり、一九〇〇年パリ博は、二十世紀最大のファンタジーであった。十九世紀が夢見た二十世紀という「未来」を振り返り、二十一世紀の我々の「夢」を展望する。 」。著者は荒俣宏

19世紀にテレビやブロードバンドのある未来生活を思い描いていた風刺画家アルベール・ロビダのビジョンが冒頭で紹介される。当時は科学小説家のジュール・ベルヌのライバルという関係であったらしい。ジュール・ベルヌが科学の驚異を肯定的に歌い上げたのに対して、ロビダは批判的に取り上げたため、大衆の人気は圧倒的にベルヌのものになり、ロビダはほとんど忘れ去られてしまった人だそうだ。だが、その未来ビジョンはかなり正確に20世紀の科学文明の光と影を言い当てていていて面白い。

こうした19世紀末の未来予想ブームの背景には、世界の未来技術、未来生活のデモンストレーションとしての万博が開催されていた。エッフェル塔やクリスタルパレスが万博のために作られて未来の象徴となった。

しかし、「エッフェル塔もビネの記門も、いまだ十九世紀的美意識をひきずる教養層、指導層には、バッドテイスト(悪趣味)の一語によって切りすてられた。その意味からすれば、未来の窓である万博自体が、ハイテイストあるいはグッドテイストであったためしはないだろう。一九〇〇年パリ万博は、まさしく「最高で、なおかつ最低の世紀」二十世紀のイメージを明らかにしたイヴェントであった。」

指導層教養層にとっては、いくぶんバッドテイストなもの、即座には受けられないものが、未来として実現していくというのは、どの時代も一緒だ。人間社会の多くの面で進歩史観が通用した19世紀は、素直に明るい未来を予測できた最後の時代であると著者は総括する。未来を予想することが楽しかったからこそ未来予想ブームがあったのだろう。

著者が問題提起する「未来を空想する力を人類は失いつつあるのではないか」というのは、少子化、高齢化、環境悪化、経済優位性の相対的な低下など、あまりよい未来の材料がない時代状況と関係が深いのかもしれない。少なくとも二十世紀高度成長期には「鉄腕アトム」のような未来ビジョンがあったし、その物語が親しまれ、それを科学で本当に実現しようとする人たちがいた。現在はそれにあたるものがない気がする。

この本には、一九世紀の人たちの想像力の歴史が総括されている。博覧強記で知られる著者だけに、幅広い方面の出来事がまさに博覧会的に並べられていて飽きない。

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このページは、daiyaが2007年9月 9日 23:59に書いたブログ記事です。

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