ラーメン屋の行列を横目にまぼろしの味を求めて歩く

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・ラーメン屋の行列を横目にまぼろしの味を求めて歩く
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もう食べることができないまぼろしの味についてのエッセイ集。面白い。

昔はよかったとぼやく老人のつぶやきなんだけれど、名文がいっぱいだ。

「そもそもラーメンは、厳選された素材がどうのという料理ではない。どこかウソっぽいのに、しみじみと旨いというキラキラとした秘密を持っていた。その「悪」の魅力が、ラーメンの精神的スタンスだった。それがあってこそ社会の荒涼とした現実と自分との関係を噛みしめることができる、実存主義的食べ物であった。」

まず標題のラーメン論が深いのである。今のラーメンにはないラーメンの本質が語られている。3丁目の夕日の中のラーメン論というかなんというか。70年代、私の子供の頃のラーメンって確かにそうだったなと思い出す。

「キザな言い方をすれば、ラーメンには吹きだまりの詩情があった。悲しいのについつい口ずさんでいる街の歌がある。それがラーメンの味なのだ。あーあ。スープから東京の哀しさが匂った昔のラーメン。もうまぼろしになってしまったのだ。」

サントリー学芸賞の作家だけあって名文だ。1949年に新橋の美術商の長男として生まれて、銀座や東京の旨いものに親しみ、その後中国やパリで食べ歩きをした人なので、各国料理文化への造詣の深さ、舌の確かさは信頼できそうだ。しかし、この人の魅力は、そういうメインストリームの評論ではなくて、話が進むにつれて、だんだんジャンキーな味覚に偏っていくところにある。

鰻丼から鰻をよけて、焦げたにおいと脂が覆ったタレのかかったご飯だけ食べるのが好き。中華料理店でおみやげにやきそばを買ってきてアルミホイルに包んだまま冷蔵庫で24時間寝かし、ラードが白く固まっているがソバに味がしみ込んだ状態が好き。カツ丼も天丼も蓋をして熱いご飯で蒸されてシネッとしたのが好き。ああ、なんだかよくわかるんだけど偏った好みを熱弁する。

「染み込んだもの。それがまた染み込んだ先の味と混じり合って、またまた別のものに染み込んでいく。その染み込みは己の温度によってなされる。そのなんとも下世話な感じ。下品で慣れ慣れしい。しかし人を納得させる旨さ。いい湯加減の風呂にどっぷりつかった安心感。そんな下手な味に私は「下手味」と名をつけた。」

食通の下手味を紹介するというのが著者の真骨頂なのである。

で、そうした著者のお気に入りはしだいにまぼろし化している。現代のグルメブームには批判的な言及も多い。たとえば、ネットのクチコミについては次のような鋭い指摘がある。

「そのうち一大発見をした。驚くべきことにほとんどがランチへの評価だったのだ。つまり昼飯食べに会社の外に出た、もしくは主婦が食べ歩きをしたその体験記であり感想なのだが、それがグルメ評論家の記事のように、高所から料理の出来不出来がチェックされ採点されている。そうですか、世の中の飲食店はすべてランチだけで評価される時代になっていたのですか。」

そういえば食べログもそうだが、ランチの話ばっかりだ。夕食でちゃんといいものを食べたいとなると、信頼できる情報はまだネットには少ない。食べ歩くうちに舌が肥えてくると、世評の高さよりも自分なりの価値観の味を追求したくもなる。そういった大人のグルメ情報はネットのクチコミサイトにはまだ不足しているなあと思う。ひとつの評価軸で評価をしてくれる、こういうグルメ評論家はありがたい。ま、まぼろしの味ばかりで実際には食べられない話が多いんではあるけれど。

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このページは、daiyaが2010年5月12日 23:59に書いたブログ記事です。

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