文筆生活の現場―ライフワークとしてのノンフィクション

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文筆生活の現場―ライフワークとしてのノンフィクション
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第一人者から新人まで12人のノンフィクション作家が、自分のフリーライター生活を赤裸々に語った本。ライターになった経緯、日々の暮らしと収入、テーマに対する問題意識、フリーライターのあるべき姿論など。

執筆者の顔ぶれはこんなかんじ。

だれがライターを殺すのか?(佐野真一)
ジャーナリストの戦略的処世術―ライフワークとライスワークの狭間で(武田徹)
朝日新聞社を辞めて、僕が手に入れた自由(烏賀陽弘道)
「自分でなくともよい」の迷いから解き放たれる瞬間(藤井誠二)
無謀といわれたルーマニア2年間の長期取材には十分な勝算があった(早坂隆)
白黒のつかないグレーゾーンに魅せられて(森健)
ふつうの男が戦時下のチェチェン報道で果たす責任(林克明)
オウム取材卒業―虚像“エガワショウコ”にとまどい続けた私(江川紹子)
顔面バカジャーナリストはレバノンで誕生した(石井政之)
「科学ジャーナリズムなき国」で書き続けるために(粥川準二)
売上げ三一一万二二六三円をめぐる赤裸々な自問自答(大泉実成)
個人主義者でいるために―ニッチ産業としての位置(斎藤貴男)

現実を伝えるドキュメンタリとしてはとても良い本だと思った。これからフリーライターを志す人の参考になる実情がよく分かる。その代わり、この本に語られる12のケースには夢がない。一言で言うとほとんどのライターは「武士は食わねど爪楊枝」状態ということが分かってしまう。彼らは夢を持っているが、それは多くの人にとっては理解しにくい夢だし、優秀な後進を惹きつけるものではないと感じる。

ここにはジャーナリズムとコマーシャリズムは共存できないという意識がある。売れなくても”良い本”を書きたいというタイプが多い。これが多分、元凶になっている気がする。

本はたくさんの人に読まれて、大きな影響力を持ってこそ価値があると私は考えているので、本の価値判断のプライオリティーは、以下の順だと考えている。

1 売れる、良い本
2 売れる、普通の本 と 売れない良い本
3 売れない、普通の本

以前にも書いたように、

・Passion For The Future: 出版考、ふたつの知、情報の適者生存、金儲け
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001061.html

理想は、面白く、わかりやすく、売れる本こそ、価値のある本だと思う。

以前、書評した糸井重里氏の本で、「私はインターネットをやっていない人に読んでもらいたくて、Webサイトで情報発信をしている。本当の読んでもらいたい読者はネットをこれから使う人たちだ」という趣旨の内容が書かれていた。積極的に読者の裾野を広げていく意図に、とても感銘した。

・Passion For The Future: インターネット的
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001291.html


取材活動、調査活動にも資金は必要だし、資金があれば勉強もできる。プロのジャーナリストであるならば、儲けながら、より良いものを書くというのが、あるべき姿なのだと思う。

もちろん、他の社会現象と同様に、ここにもべき乗則の原理が働いていて、全出版物に占める売れる本の割合は常にごく僅かなのだろう。だとすると、少数の売れっ子と、そうでない8割のフリーライターという構図は今後も変わらないだろう。ただ、彼らがどういう意識で書くかによって、出版されるものの内容は変わってくるはずである。

日本の大新聞が作り上げた古典的なジャーナリストの倫理観は私は嫌いである。ストイックな「真実の報道」主義者は、特権階級を嫌うはずなのに、自分だけが透明で偏りのない意見を言える特権階級になろうとしているのだと思う。「愚かな大衆」を前提としているようにも思える。その意識がそのままフリーライターにも受け継がれている気がする。

インターネットの普及により、当事者が自ら情報発信をするようになった。”大衆”もまた複数の情報ソースに当たって事実を確認できるようになった。もはや”大衆”はそれほど愚かではなくなっていると思う。透明な事実の報道かどうかは、読み手が決めるものでいいような気がする。

この本の執筆陣には年収1000万円を超えたケースもいるらしいのだが、ほとんどは最初から、カネと仕事は両立しないものと諦めているケースが多い。それでよしとする文化をやめれば日本のフリーライターはもっと良いものが書けるはずだし、社会的地位も向上するはずだと思う。現在の出版不況の原因も「良い本」とは何かをめぐる古い意識が、業界にあるからのような気がしてならない。

インターネットのコンテンツの質の底上げに、フリーライターは黎明期より随分貢献していると思う。フリーライター生活が経済的にも豊かになれば、インターネットのコンテンツの質も高くなるはずだと思う。

と、いろいろ書いてみたが、実はフリーライターでもある自分に向けて書いている。がんばろう、フリーライター!

#芸術をやっているのだというフリーライターは別。

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コメント(2)

sa :

>ほとんどは最初から、カネと仕事は両立しないものと諦めているケースが多い。それでよしとする文化をやめれば日本のフリーライターはもっと良いものが書けるはずだし、社会的地位も向上するはずだと思う。現在の出版不況の原因も「良い本」とは何かをめぐる古い意識が、業界にあるからのような気がしてならない。

ピンポン! 当りです。

>インターネットのコンテンツの質の底上げに、フリーライターは黎明期より随分貢献していると思う。フリーライター生活が経済的にも豊かになれば、インターネットのコンテンツの質も高くなるはずだと思う。

そうだ、そうだ。

>がんばろう、フリーライター!

ビジネスモデルですよね、問題は。

zoffy :

一方、スポーツライターは一攫千金を狙って「Number」のスポーツノンフィクション大賞を目指したりしてますね。金子達仁というわかりやすいリファレンスモデルがあったからかな。

スポーツも昔はそれほど食える分野ではなかったハズ。他の領域でも当てる人が出れば換わるかも?

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このページは、daiyaが2004年8月11日 23:59に書いたブログ記事です。

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