2004年02月23日

出版考、ふたつの知、情報の適者生存、金儲けこのエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加


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ある小さなコミュニティで(議論の刺激剤的な言葉と言う意味合いもあったのですが)、「すべての出版はビジネスであり、金儲けだと考えています」と発言したことで、いろいろやりとりがあり...。

以下の文章を書いたのでブログに多少修正してメモとして残しておこうと思います。文脈から切り離してしまうと意味があるかどうか分かりませんが。

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出版。書かれた書物の段階では、ある人から見て高尚な本も低俗な本も、ともに「流通する商品」であると考えます。売れること、読まれること、多くに評価されることが本の価値ということになるのだと私は思っています。

無論、そうでない価値もあるとは知っていますが、現状の出版産業や言説空間の枠組みでは、商品を超えてマスに対して持続的に(=稼ぎながら)、主張をしたいとなると、それは私の定義では一般的な「出版」活動を超えてしまっています。ビジネスとしての出版と表現者がどう関わっていくべきか、自分のテーマとして考えてみました。


私は、科学者ギルド、専門家ギルドの小さな知と、マスの大きな知は異なるものだと考えています。つまり、マスに間違って伝わるということはないのだと思うのです。

マスに対して情報を伝達する場合、情報の送り手から見ると、曲解されたり、ディティールが失われたりして、本意が理解してもらえないと感じられることが多いと思います。私もライターの仕事をしていて、そのように感じます。が、それはそういうものとも思います。

マスは無知でも推論能力に欠けるわけでもないと思います。中には科学者や専門家も含まれているでしょう。ただ多様なのだ、と思うのです。マスに選択され、多様な受け止められ方をすることで、大きな知が形成される。多様性は全体の存続に必要な性質と思います。

大抵は、マスの選択は、ミーム論的に、適者生存の法則が働いて、面白いもの、分かりやすいもの、売れるものが優先されると思います。大きな知は、科学者や専門家ギルドの論理では、間違っていると指摘したくなりますが、マスの選択は歴史そのものであって、「間違う」ことはないというのが本当だと考えます。つまり、大きな知は現象なのだと考えています。

大きな知は、小さな知からみて、一見、「間違って」いても、それはより普遍的なものを守ろうとする動きの結果なのであって批判の対象ではないと考えます。守ろうとしているものは以下のような価値だと思います。

・必要なこと、求めていたこと、快いこと、生活に便利なこと
  →面白い
・一部の人に詳細までわかることよりも多くの人に大枠が理解されること。
  →わかりやすい
・経済が動くこと。儲かること。その知に関わるものが生活の糧を得ること。
  →売れる

例えば、例をとるなら、売れる言説には以下のようなものもあるとおもいます。

【ゲーム脳】
ゲームをするとキレやすい子どもが育つ

という言説の背後には、「人や自然とかかわる経験をこどもにさせたい」という大きな知があるのでしょうし、

【インターネットは便所の落書きだ】

は、「インターネットの情報には信頼できないものもあるから広く情報を見て総合的に判断した方が良い」という知があると思うのです。

間違ってマスに伝えたことをギルド内で批判することはたやすいと思います。でも、自らがそれを糾す際に、マスに選択される形、つまり、面白く、分かりやすく、売れる表現方法の上で語ることができるかというと、できる人は少ないと感じています。古典的には知と修辞学は同居していたはずが、専門家による知の細分化によって、修辞学は知の使い手と分離しがちになっているというのが原因のひとつなのではないでしょうか。

メッセージはコンテクスト内で意味を持つのだとすれば、流通に関わるものが知にコンテクストを与えないといけないとも思います。送り手側が「なんでつまらない本ばかり売れるんだ」と嘆く出版不況があるとしたら、送り手と流通が、良い本をベストセラーランキングへ入れる努力に失敗していることが原因と考えます。

記号表象レベルで、シニフィエ・シニフィアンが分離できないのと同じように、メッセージ内容と表現方法は分離できないものと思います。

そして、小さな知のレベルでいくら「正しく」とも、その正しさの依拠するものは、それがギルド内でのテンポラリな合意であるということだけだと思います。ギルドの外では、その正しさは、必ずしも選択理由にならないと考えます。科学者ギルドの知も長い時間が経過すると、科学的に誤っていたことが分かってしまったりして、正しいかどうかは分からないものと思います。

私が、「出版はビジネスであり、金儲けである」という表現を使って言いたかったことは、知の流通手段がビジネスであることは、ふたつの知をつなぐあり方として必然であるということでした。


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Posted by daiya at 2004年02月23日 23:59 | TrackBack このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加
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