2008年04月06日
ブッダ 全12巻 漫画文庫
(読んだのは昨年末でしたが。)
実に8年がかりで手塚のブッダを完読した。
個人的な話だが8年前に会社を作ったときに、オフィスで息抜き用にと思って全12巻を買った。ところが仕事が忙しくて2巻までしか読めずいたら、すぐオフィス引っ越しになり、ドタバタで本を紛失してしまったのである。だから、長いこと私の記憶の中では「ブッダ」はブッダがほとんど出てこない不思議な漫画であった。
と、書くと未読の人にはわけがわからないかもしれないが、このブッダの生涯を描いた漫画は主役が途中で何度も交代する。中盤以降はブッダが主人公として一応活躍するのだが、冒頭からしばらくは、やがてブッダの弟子(あるいは敵)となる人間の話だったりする。読者はそれぞれの人物の視点に一度は感情移入を経験させられるから、後半でいくつもの支流が合流する大河ドラマとしての厚みが生まれるのだ。
手塚治虫は「ブッダ」で本当に描きたかったことって何だっただろうか、読み終わってふと考えた。ブッダの教えを読者にわかりやすく伝えることが目的だったとは思えない。確かに仏教の教義を噛み砕いて説明する部分もあるのだが、実はあまりそういう部分は作者の力が入っていないように思える。悟りを開いた後のブッダの行動はきちんと描くと説教臭いからかもしれない。
むしろ「ブッダ」の面白さは、ブッダを取り巻くわき役たちの野心と冒険に満ちたドラマにあると感じる。これらのわき役たちは仏典に登場する人物もいるが、純粋に手塚の創作キャラもいる。それぞれが主役級の熱い生き方をしているのだが、山場を越えたところで、あっさり死んでしまったりする。そういう登場人物の活躍と死の連続の物語構造が、仏教の教えである諸行無常と重なっている。手塚はそれを意図して全体を設計したのではなかろうか。
「火の鳥」級に読み応えのある一大傑作である。各巻末に寄せられた大物ファンたちの解説も価値。
・シッダールタ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005269.html
2008年04月03日
土間の四十八滝
昨年、こんな芸能ニュースがあった。
・布袋、町田康さん殴る
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070726-OHT1T00101.htm
「布袋と町田さんは旧知の仲で、布袋の曲の作詞を町田さんが手がけたり、布袋が昨年発売したコラボレーション・アルバムにも町田さんは参加している。趣味でともにバンド活動を行ったりもしているが、音楽活動を巡り双方の意見に食い違いが生まれ、トラブルとなったようだ。」
表現者としてエッジがたちまくる二人は実生活でもちゃんと殴り殴られるような仲なのだなあと感心した。作家として権威のある文学賞を総なめにしている町田康だが、その危険なパンクっぷりは本物なのだなと納得した。
これは第九回萩原朔太郎賞を受賞した詩集だ。中身はポエムというよりむき出しのソウル。それぞれ独白から個性的で強烈なドラマが立ち上がる。印象に強く残った作品の出だしを拾うとこんな感じ。
「あいつにかかったら自分なんかもう犬ですよ あれ買ってこいこれ持ってこいって追いまくられて で もう嫌んなって朝から仕事しないで魯迅ばっかり読んでたんですよ そしたら半田鏝で肉あっちこっち焼かれて折檻って感じで しかもあいつホモだったんですよ」(「俺も小僧」より)
「お車代二万円 これをしねしね遣えば、まあ、悪いけどはっきりいって二週間くらいわたくしは安泰 ところがそんなせこいことをわたくしはせぬ オッソブーコの材料代 それに二万円を全部一気に爽快に遣っちゃったい」(「オッソブーコのおハイソ女郎」より)
「経営会議で如何に叱責されようと俺は重役 常務取締役だ 兼、営業本部長だ へへんだ 羨ましいでしょ」(「その俺は重役」より)
体言止めとオノパトペを多用した独特のリズムの文体。声に出して読むことが前提とされているように感じた。あるいはラップミュージックの歌詞のようでもある。日本語の使い方にはこういうかたちもありえるのかという衝撃を受けた傑作詩集。
2008年03月20日
弥勒
新聞社で美術展企画を担当する永岡は、独自の仏教美術の魅力にひき寄せられて、ヒマラヤ地方にある小国パスキム王国に単身で潜入する。そのときかつて平和だった王国には、王の側近による政治革命と徹底的な宗教弾圧の嵐が吹き荒れていた。僧侶は皆殺しにされ美術品は破壊された。革命政府に従わぬ村人たちには拷問や制裁による死が待っていた。
永岡は言葉も通じぬままに革命軍に逮捕され、村人たちとともに過酷な強制労働を強いられる。パスキムは架空の国家だが政治状況はカンボジアのポルポト政権による大虐殺、中国の文化大革命がモチーフになっていてリアリティが感じられる。やがて人とふれあい、恐怖政治の生活の中に小さな救いを見出すことができた永岡だったが、疫病や飢饉が村を襲い状況を絶望的なものに変えていく。
弥勒菩薩は56億7000万年後に人間を救いに現れるという未来仏。永岡は美術品としての弥勒菩薩を求めてこの国に入ったのだったが、過酷な経験を経て本当の救いを祈るようになる。
「そこまで言って、笑いが浮かんできた。なんというわかりやすく、目先のことだけしか考えない祈りなのだろう。しかし本来、祈りというのはそうしたわかりやすく日常的なことではないのか。哲学と宇宙と精神だけを語ってすませられる宗教があるとするなら、それもまた衣食足りた者の学問であり遊びに過ぎない。切羽詰ったときにすがれ、救いを与えてくれるからこそ、神であり仏であって、それがなぜ悪いのか。」
篠田節子作品の中でもとりわけ内容の重たさウルトラヘビー級の長編小説。ゴサインタンが良かった人におすすめ。こちらの方が闇が深い感じである。
・ゴサインタン―神の座
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005260.html
・神鳥―イビス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005177.html
2008年03月10日
物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室
現代の世界文学を代表する偉大な作家の一人ガルシア・マルケス(とその仲間たち)が、面白い物語の作り方の秘密を明かす。その秘密とは、意外なことに、みんなで議論しながら共同作品としての物語をうみだしていくという斬新な方法であった。小説についても触れられているが、どちらかというと脚本家養成講座である。
ガルシア・マルケスは、プロのシナリオライターの友人たちとハバナに集結し、30分のテレビドラマをつくるシナリオ教室を開いた。誰か一人が原案をつくって披露する。他の参加者たちが、それに突っ込みを入れながら改善していく。真実味がない箇所や、面白みのない箇所に対して容赦なく他のメンバーから指摘が入る。みんなで修正する内容を発案、提案して物語をよりよいものに変えていく。この本にはその議論が二段組で400ページ分も収録されている。
ガルシア・マルケスは随所で議論をリードする。
「こういうストーリーは、現実というのはどの程度までたわめ、歪めることができるのか、本当らしく見える限界というのはどのあたりにあるのかといったことを知ることができるので私は大好きなんだ。本当らしさの限界というのは、われわれが考えているよりも広がりがあるものなんだ。」
このシナリオ教室では本当らしさを複数の創作者の視点でチェックして完成度を高めていく。具体的な議論ばかりなので、本気で物語を作りたいと思う人にとって参考になりそうである。
これがガルシア・マルケスの才能の秘密かと思う記述もみつけた。
「真の創造には危険がつきものだし、だからこそ不安を抱くんだ。本ができあがるだろう、そうすると、不出来なところを見落としているんじゃないかと不安になるものだから、わたしは決して読み返さないんだ。本の売れ行きや批評家の賛辞に目が入ると、みんな、つまり批評家や読者は何か勘違いをしている、実を言うと自分の本はクソみたいなものだということが明らかになるんじゃないかと不安で仕方がないんだ。それに、妙に謙遜して言うわけじゃないが、ノーベル文学賞の受賞を告げられた時、「へぇー、うまく引っかかったんだな、あのお話を信じたんだ」と真っ先に考えたんだ。」
これだけ大家になっても決して緊張感を失っていない。ガルシア・マルケスは頭の中でも、自分の作品を客観的に評価する批評家がいて、この本の内容のような脳内議論が行われているのだろうなと思った。
・2週間で小説を書く!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004901.html
・人生の物語を書きたいあなたへ −回想記・エッセイのための創作教室
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001383.html
・小説の読み書き
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004878.html
・書きあぐねている人のための小説入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001082.html
2008年03月09日
ロボット
「ヘレナ、人間はいくらか気違いであるくらいでなければ。それが人間の一番いいところなのです。」
「ロボット」という言葉は、チェコスロバキアの劇作家カレル・チャペックの作品「R.U.R ロッスムのユニバーサルロボット」ではじめて使われた。発表は1920年のことだった。20世紀後半になると、ロボットという言葉は日常生活でも使われるようになり、モノとしてのロボットの実用化も進んだ。
チャペックが描いた最初のロボットは、きっとブリキのオモチャみたいなものだろうと想像していた。ところが、この作品に登場するロボットは、外観は本当に人間と見分けがつかないし、知性も人間同様に備わっている。機械というよりは人造人間といったほうが近い。
人間の労働を肩代わりするためのロボットの生産工場が作品の舞台である。人間に奉仕するはずのロボットたちが、やがて団結し主人である人間に反乱を起こす。工場設備をのっとり、自ら生産によって増殖するロボットの群れは、人間を次々に抹殺していく。ロボットという存在は、人間の脅威になりうるものとして描かれていた。
生き残った工場首脳部はロボットにみつからぬように逃げ込んだ部屋で議論する。われわれのせいなのだろうか?と。「あんたって人は結構なお方さ!生産の主人公が社長だなんて考えているのかね?そんなことなんて、生産をつかさどっているのは需要です。世界中が自分のロボットを欲しがったのです。われわれはただその需要の雪崩に乗せられていたのです。」
企業が倫理感を持たず市場の要求にこたえるだけの存在になると、技術が暴走して世界が破綻してしまうかもしれないという未来予想と警告の作品である。
2008年03月03日
ひかりごけ
普通の人間が、米国の陪審員制度のように、裁判に参加する裁判員制度がもうすぐ開始される。一生のうちに裁判員に選ばれる確率はだいたい67人に1人だそうだ。これ、自分が当たる確率として結構高い数字に思わないだろうか?。
・裁判員制度
http://www.saibanin.courts.go.jp/
この裁判員制度の対象となる事件は軽い犯罪ではなくて、主に殺人罪などの重罪に限定されている。そうなると複雑な事情が絡んだ事件も多いだろう。量刑も死刑にするとか無期懲役にするとかいう深刻なレベルの判断になる。プロの裁判官と協力するとはいえ、果たして一般市民が有罪無罪と量刑を決めて納得のいく結果になるのであろうか?。67分の1と聞いて私は自分が選ばれた場合を真剣に考えてしまった。
裁判員制度を考える材料としてこの問題小説が再発見されていいと思う。
この本の「ひかりごけ」は人間が人間を裁くということの不条理を描いた、武田泰淳の傑作短編小説である。北の海で遭難し飢餓状態に置かれた男たちが、仲間の死体を食べて生き延びたという戦時中の「ひかりごけ」事件を題材に、半分小説で半分戯曲という形式で極限の人間ドラマを描いている。こういうのは裁けない、と思う。
これは現実のひかりごけ事件のドキュメンタリ。「1943年、陸軍所属の徴用船が厳冬の北海道・知床岬で難破。生き残った船長と乗組員の少年の二人は、氷雪に閉ざされた飢餓地獄を体験するが、やがて少年は力尽きて餓死。極限状況のなか、船長はついに少年の屍を解体して「食人」する。遭難から二カ月、一人生還した船長は、「奇跡の神兵」と歓呼されるが、事件が発覚すると、世界で初めて「食人」の罪で投獄された―。名作『ひかりごけ』の実在する主人公から、十五年の歳月をかけて著者が徹底取材した衝撃の真実、そして事件の背後に蠢く謎とは?太平洋戦争下で起きた食人事件の全容に迫る。 」
三國連太郎、笠智衆、奥田瑛二、田中邦衛という実にシブいキャストで映像化もされている。(これはまだ見ていないが)。
他に、流人の子孫たちの島で宿命の二人の男が出会う「流人島にて」、修業中の僧侶がとらわれた心の闇がテーマの「異形のもの」、街から漁村へ嫁いだ女がはじめて漁船に乗る話「海肌の匂い」の全4編が収録されている。どれも武田泰淳らしく突き詰めて考えさせる作風でズズンとくる。
2008年02月27日
シッダールタ
「車輪の下」のヘルマン・ヘッセのもうひとつの代表作。アメリカ合衆国だけで500万部、全世界では43カ国で翻訳され、1000万部を超える大ベストセラーになった。和訳はいくつもあるが、これは2006年に草思社(がんばれ)から出た新訳版。現代人にわかりやすい文章。
仏陀ガウタマ・シッダールタと同じ時代、同じ場所に生きたという設定の別人「シッダールタ」の物語。もう一人のシッダールタも、仏陀と同じように「人は何のために生きるか」の答えを求めて修業に入る。そこで迷い誘惑され中年には世俗に生きる道を選ぶ。そして、老年にいたって再び道を求めて遂に悟りを得る。
この本は仏教の本であると同時に、知識や知恵についての哲学を説いた本として秀逸だと思った。何箇所か感銘した部分を引用してみる。
「「探り求めるとき」とシッダールタが言った。「こういうことが起こりがちです。その人の眼が自分の求めるものだけを見て、その人は何も見いだすことができず、何も心に受け入れることができないということです。その人はいつも求めているもののことしか考えないからです。その人は目標をもっていて、その目標にとりつかれているからです。求めるということは、すなわち目標をもつことです。見いだすということは、自由であること、開いていること、まったく目標をもたないことなのです。」
目標に向かって努力している人は視野が狭くなりがちだという指摘は鋭い。ビジネスのことばかりを考えていると環境や社会のことを忘れがちである。すべてがつながっているということを知る人が見いだす人なのだと、いう。現代のリーダーシップに一番求められていることだと思う。
「シッダールタの心の中で、本当の叡知とは何か、自分が長いあいだ探し求めてきたものは何であるかということについての認識が、自覚が、ゆっくりと成長して花開き、ゆっくりと実っていった。叡知とは、生きているあらゆる瞬間に「一如」の思想を考え、「一如」を知覚してそれと共に生きられるような心構え、心の能力、各個人がもつ技能以外の何ものでもなかった。」(一如=すべては一体で不可分)
しかし、同時に「叡知は人に伝えることができない」ということを悟る。
「それは、『あらゆる真理は、その正反対も同様に心理である』ということだ!つまりこういうことだよ。真理というものは、それが一面的である場合にのみ、表現することができ、言葉につつまれ得るのだ。思想で考えられ、言葉で表現できるものは、すべて一面的なのだ。すべて一面的で半分なのだ。すべて全体を欠き、完全を欠き、全一を欠いているのだ。」
この本は最終章で解脱の境地に至ったシッダールタが語る人生の総括にすべてがある。「愛」とは何か、「時間」とは何か、「人は何のために生きるか」に対して現代日本に生きる私にも説得力のある答えが書かれていた。90年近く前にドイツ人の作家がこれを書いたということに驚かされる。学生時代に「車輪の下」を読んでもスルーだったノーベル賞作家なのだが、こちらはズシンときた。
2008年02月22日
ルサンチマン
表紙の絵柄がかなり恥ずかしいのだが、根底にはしっかり哲学を感じる内容で、おもしろかった。セカンドライフ的な仮想世界の未来に興味のある人におすすめ。解説本を読むよりもずっと仮想世界の本質を理解できる、かなあ、はず、たぶん。
「主な登場人物 / 坂本拓郎(ボーナス時のスーパーソープランドだけが生き甲斐の30歳。工場勤務。ゲーム中では高校時代のルックスを使用)、月子(拓郎が購入した美少女ゲームのキャラクター)、越後(拓郎の旧友。引きこもり。拓郎に美少女ゲームを教えた先輩格で、ゲーム中では美男子「ラインハルト」に変身)
●あらすじ/2015年。印刷工場に勤める坂本拓郎は、今までずっとパッとしない人生を送ってきた。そんなある日、旧友の越後からギャルゲー(美少女ゲーム)を勧められるが、「現実の女が大事」と言って一度は踏みとどまる。だが、その後も彼が女に相手にされることは全くなく、30歳の誕生日、ついに大金をはたいてギャルゲー道具一式を購入する(第1話)。●」という設定ではじまる漫画全4巻。
ある著名な映画評論家は現実で生きるよりも、映画を観ている時間の方が長かったという話を聞いたことがあるが、仮想世界セカンドライフの表現力が現実と変わらないような没入感を持つようになったら、人間は仮想世界で過ごす時間の方が長くなってしまうかもしれない。
主人公はつらい日常から逃避して、仮想世界の美少女との生活へひきこもる。しかし、ひきこもるというのは外からみた見方であって、本人は仮想世界の中で、まっとうに主体性をもっていきているのである。美少女キャラクターと純愛しているのである。心は本物なのだから、この愛も本物なのかもしれない。そもそも愛って本質的にバーチャルなのであるよ、なんてことをいろいろと考えさせられる。
仮想世界では美少年のアバターで華麗な生活を送る主人公の主観世界と、ゴミためのような部屋でヘッドセットディスプレイをかぶり、全身を覆う体感スーツ(性感用のデバイスも装着)を来た主人公がいる客観世界を交互に描く。最初は大きかった、ふたつの世界の隔たりは、やがて両側からその壁を突き破っていってひとつになる。そりゃどんな世界かというと、実際に漫画を読んでみてみてください。
2008年02月18日
ゴサインタン―神の座
山本周五郎賞を受賞した篠田 節子の代表作。
地方の名士として代々続いてきた農家の後継ぎ結木輝和は40を過ぎて独身であった。農家に嫁いでくれる嫁を探して見合いを続けたが失敗続き。そこでアジアの花嫁仲介業者の世話になって、ネパールから若い妻を迎えることになる。彼女の名前はカルバナ・タミ。輝和は耳慣れない名前を嫌って自分のかつての意中の女の名前「淑子」と呼んだ。淑子は日本語も満足に話せぬまま結木家に入った。旧家の一族は彼女を日本の生活に馴染ませようとするのだが、やがてそのプレッシャーが淑子の秘めていた「生き神」としての能力を発動する。
文庫650ページの壮大な物語の冒頭はそんな風に始まる。農家へのアジアの花嫁お見合いの話はニュースなどで耳にするが、実態が生々しく書かれていて、週刊誌の特集的な好奇心で読み始めた。やがて淑子が不思議な力で家を滅ぼし、生き神教祖として変貌していく部分はホラー作品風でもあり緊張感あふれる展開である。後半の淑子を追ってのネパール行は魂の再生がテーマの精神世界の話になる。どれだけこの作家は知識のひきだしをもっているのだろうと感心する。
・神鳥―イビス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005177.html
2008年02月13日
祝福
芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久とカメラマン坂本真典のコラボレーション。
恋愛小説+蓮の写真集。
30を過ぎたライターの男と、日本で働く中国人の若い女性が、蓮の花が咲く上野の池で恋に落ちる。
ふたりが出会い、意識し、恋が芽生えて、熱愛に燃えるようになる様子が、蓮が芽吹いて育ち、蕾をつけて花開いていく写真に重ねられている。そして枯れて種を散らして次の春を静かに待つ蓮が、後半の波乱含みの展開では写しだされる。
バラでもタンポポでもなくて蓮の花。挿入された写真は1万7千枚も撮影した中から選ばれたという。蓮はその一生の中で時期によってまったく違った姿態をみせる。清純でありながらエロティックであり、儚いようでいながら力強いのである。それがふたりの恋愛や人生にうまく重なっている。
官能的な濡れ場の描写を読んでページをめくると、そこには咲き誇る花弁の写真がある。実にいやらしい。水滴に濡れた、薄紫の花弁の筋が、植物のようではなくて、息をしているようにみえてしまう。これが写真だけだったら違った感想だったろう。官能小説で秘所を花弁とか花芯とかいうけれど、まさにそのまま可視化してしまったわけである。エロい。
引用されていた錬金術師パラケルススの言葉が印象的だったのでメモ。「花々がどのように惑星たちの運行に従い、月の相に従い、太陽の循環や遠い星たちに感応して花弁を開くか、気づきなさい。」。
2008年02月06日
空中スキップ
文句なしで5つ星の短編集。漠然と面白い読み物を探しているなら、これがおすすめ。
自分を犬だと思い込んでキグルミを来た男に餌をやる家族の話だとか、ある日世界中で子供が生まれなくなってしまった騒動の話だとか、母親のために心臓の提供を迫られる息子の話だとか、普通の世界と少しずれた設定で始まる話が多い。その最初のなにかへんだなという亀裂がしだいに大きく広がって世界を覆いひっくり返す。
収録作品は341ページの本に23編だから、一話あたり15ページに満たないショートショート。奇想天外の世界観に幻惑される読書体験が23回。その短い枠の中で、どの作品にも読者の期待を裏切らない裏切り方が待っている。シュールでブラックな作風だが、同時にどことなくコミカルなので、気分が暗くならずに、次々に読み進めやすいのもいい。
23話中8割くらいの確率で個人的には大ヒットだった。1973年生まれの作家でまだ作品数は僅かだが、たいへんな大物に成長しそうな予感がする。基本は偏執妄想系だが、文体は湿度がとっても低くて、実にあっけらかんとしている。その食感がたまらない。
翻訳もよいのだと思う。
空中スキップの原題は「Flying Leap」。飛びながら跳躍する。まさにそんな読み心地の本だ。私って空を飛べるかもと思いついて跳んでみたら本当に空を飛べてしまってその先にあった物語という感じ。そういう夢のような跳躍を次々にリズミカルに読む短編集という意味でも、この空中スキップという訳語はすごく適切だなと思った。
2008年01月22日
浅野 いにお 「おやすみプンプン」「素晴らしい世界 」「ひかりのまち」「ソラニン」
最近、はまっている漫画家のひとりが浅野 いにお。まだ20代らしいが将来の大物登場の予感。
おもに現代の若者たちの明るくない青春を描く。
多くの作品では、先行きが見えない日本の社会や、人間関係が希薄な都市生活、機能不全に陥っている学校などが舞台になっていて、格差やニートやいじめや自殺など、あらゆる日本の諸問題が背景にでてくる。社会のゆがみやひずみに翻弄されつつも懸命に生きる人たちが主役である。
多面的、多元的に世界を描くことで、陥りがちな「説教臭さ」を回避している。たとえば「ひかりのまち」「素晴らしい世界」はひとつの世界を舞台にした連作短編で、話ごとに主人公が変わる。前回のわき役が次回の主役になったりする。前回に主役を襲った通り魔やストーカーが、次の主役になったりするのだが、どちらの視点にもリアルな諸事情があって、いつのまにか対立する価値観の双方に感情移入してしまった。
物語を語る技法も凝っている。伏線張りまくりの群像劇が多いのだが、表現でも大胆な挑戦をして成功している。たとえば「おやすみプンプン」は主人公がぺらぺらの紙として描かれる。名前だって「プンプン」だから匿名みたいなものだ。第1話を読んだとき、こんなに主役の姿を記号化してしまったら厚みが出ずに長編は厳しいのでは?と思ったが、顔がないことで、いつのまにか昔の自分=プンプンという風な想いで読むようになっている。技巧派なのだけれども、技がいきていて、読者はすっと世界観に入りやすいのだ。
浅野 いにおが描く漫画の内容は、時に絶望的であったり猟奇的であったりするのだが、、バッドエンドでも救いを残す終わり方をする、というか、ぼんやりと明るい方向で終わるものが多い。だから安心して読めるのが、私がはまった理由でもあるなあ。
以下、代表的な作品をおすすめの順で並べてみた。
実験的表現技法が成功した印象的な作品。小学生のプンプンが現代にありがちな家庭の不和や学校の事件に巻き込まれながら成長していく姿を描く。まだ連載中だが既刊の2巻で小学生編が一区切り終わる。
浅野いにおの基本スタイルが一番典型的にでているのがこの連作短編かなあと思う。複眼的に現代社会に生きる人々を描いた群像劇。全2巻。
新興住宅地で自殺したい人をネットで見つけてはその幇助をするのが趣味の子どもと、それを取り巻く不気味な大人たちの人間模様。
映画化決定。バンドの成功を目指して挫折した若者と、彼を応援して同棲中の彼女が、なんとか将来に希望を持って生きようとするのだけれど...。全2巻。
2008年01月14日
臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ
「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」
まずタイトルをどう読むんだという話である。
「臈たし」は「らふたし」で、意味は大辞林によると、
[1] (女性が)洗練されて美しくなる。優美である。
[2] その道の経験を積む。年功を積む。
という意味である。
わからない人は辞書をひけばいいし、辞書を引きたくない人は読まなければいいのである。そういうスタンスで書かれているのだから。
素直な感想として、これはノーベル賞作家大江健三郎の到達点とその限界を同時にあらわすような作品だなあと思った。この人は数十年間同じものを書いている。この作品も偉大なマンネリである。いつものパターンである。
例によって大作家としての自分と障害を持つ息子が登場する。ふたりの穏やかな生活のかく乱者として旧友が登場する。自分と旧友は過去に痛ましい暴力事件を経験して、強烈なルサンチマンをも共有している。自分らの出自である四国の森の、神話的な伝承と現実が二重写しになって、象徴的なイメージを結ぶ。そのイメージに喚起されてコトを起こしたり、癒されたりする。そして物語の通低音のように繰り返される欧米文学の引用がある。今回はそれが「臈たし」云々なのであった。
まるで新しい挑戦がないのは、ノーベル文学者として正しい戦略なのかもしれない。大江健三郎の文学とは水戸黄門なのだ。もはや読者は期待を裏切る新展開を求めてはいない。編曲、変奏のバリエーションをみて満足したいのである。読者は数十年間も大江健三郎の作品につきあううちに年齢を重ねている。対象はマンネリとはいえ感じ方が違ってくるし発見もある。そこで勝手に深みを発見して感慨深くなったりするのである。
そういう意味で、長年の読者としては水戸黄門的に結構面白かった。今回もひきこまれた、というのが素直な感想だが、日本を代表する大文学者なのだから、「治療塔」くらいまで戻って、新しい形式に挑戦してくれてもいいのではないか、と思ったりもする。
・さようなら、私の本よ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003990.html
・日本語と日本人の心
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004782.html
・「伝える言葉」プラス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004794.html
2008年01月10日
ちいさなちいさな王様
ドイツでベストセラーの大人のための絵本。
「しばらく前から、ほんの気まぐれに、あの小さな王様が僕の家にやってくるようになった。王様は、名前を十二月王二世といって僕の人差し指くらいの大きさしかないくせに、ひどく太っていた。白いテンの皮で縁取りされた、分厚い深紅のビロードをいつも着ているのだが、おなかのところははちきれそうだった。」
この小さいけれど立派な王様と、平凡な日々を暮らす「僕」が対話する。
王様の世界では、子ども時代が人生の終わりにある。王様の世界では、人はすべてができる大人として生まれ、日々少しずつ小さくなっていく。経験をつむたびにいろいろなことを忘れていく。最初はできたことが次第にできなくなっていく。でも王様の世界では小さければ小さいほど偉いとされるので、ちいさなちいさな王様はふんぞりかえっているのだ。
それをへんだという「僕」におまえたちと大して変わらないのだと返す。普通の人間は大人になるにつれて知識や経験が増える一方で、想像力や可能性はどんどん縮んで小さくなってしまうのだから、と。
そんな出だしで始まる王様と僕の物語は、各章が大人が忘れてしまうことを思い出させるレッスンになっている。途中に十数枚の象徴的な挿絵が用意されていて、王様の世界観に視覚的にひきこんでいく。作画は寓話の絵で定評のあるミヒャエル・ゾーヴァ。(私がこの本を買ったのは、ゾーヴァが気になっていたから。)
装丁もうつくしい本なので、大切な人や後輩へのプレゼントにもよさそう。
「1枚の絵から立ち上がる不思議な物語。笑いに満ちた空間。可愛らしさの奥にちらりと漂う毒気。ただならぬ気配。こみあげる懐かしさ。出版・広告・舞台・映画へとその活躍の場をひろげるベルリンの画家ゾーヴァが日本の読者のために語りおろした、絵について、人生について。独特のオーラを放ち、絵の前に立つ者を立ち去りがたくする作品を発表し続けるミヒャエル・ゾーヴァが自作を語る。未発表作品も含めた代表作45点を掲載。
2008年01月07日
ミノタウロス
20世紀初頭のロシアを舞台にした大河小説。田舎の地主の家に生まれた若者が、戦争と革命の波に飲まれてすべてを失い、悪党として獣のごとく生き抜いていくようになる様子を描いている。
ロシアの文豪の作品を一流の翻訳者が訳したかのような格調高い文体にまず驚かされる。佐藤亜紀という著者名を隠して、ロシア作家の遺稿の翻訳物として売り出したら、これが国産だと見破れる読者は少ない気がする。日本人が書いた外国文学といえる。
翻訳物を模倣した文体の技だけでなく、リアリティを持った登場人物の時代設定と描写、骨太で破たんなく展開していく歴史小説としての完成度も一級品である。特に後半の無政府状態の混沌とした状況の中で、前半で張られた伏線の収束効果で加速して、クライマックスへと向かっていくスピード感がよかった。
疾走感こそこの作品の本質だと思う。本物のロシアの大河小説というと、名前が覚えにくい登場人物が多数登場して、何本もの筋が錯綜しがちであるが、ミノタウロスは日本人が書いたせいか、その点がやけに読みやすくできているように思う。重厚なのだが、ページをめくりやすい。
「本の雑誌」で年間ベストに選ばれるなど、本好きや評論家にかなり高く評価されている一冊。
2007年12月20日
閉鎖病棟
最近、過去の傑作小説の発掘に凝っている。これは10年前発表の作品。「閉鎖病棟」とは重い症状の精神病患者のための病棟のこと。
「とある精神科病棟。重い過去を引きずり、家族や世間から疎まれ遠ざけられながらも、明るく生きようとする患者たち。その日常を破ったのは、ある殺人事件だった…。彼を犯行へと駆り立てたものは何か?その理由を知る者たちは―。現役精神科医の作者が、病院の内部を患者の視点から描く。淡々としつつ優しさに溢れる語り口、感涙を誘う結末が絶賛を浴びた。山本周五郎賞受賞作」
殺人や自殺未遂など、暗い過去を持つ登場人物たちが、閉鎖された空間の中で展開する人間再生ドラマ。心を病むに至った患者たちの苦悩の半生はそれぞれ印象深い物語であり、登場人物たちのキャラクターに感情移入しやすくなる。そして静かな病院生活の中で起きた小さな波紋が、次第に緊張感を高めて、大きなカタストロフへ向かっていく。
精神病院を舞台にしたドラマというと映画「カッコウの巣の上で」を思い出した。
・カッコーの巣の上で

「刑務所の強制労働から逃れるために精神疾患を装って精神病院に入所させられた男の巻き起こす騒動と悲劇を描いた、ケン・キージーのベストセラーを映画化した作品。 」
この映画も最高だったが、カッコウが動だとすれば、閉鎖病棟は静の物語として素晴らしい。なおテイストが似ているので東野圭吾の「手紙」が好きな人に特にお勧め。
・手紙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004787.html
2007年12月18日
高熱隧道
昭和42年に出版された吉村昭の傑作。
昭和11年から15年にかけて行われた黒部ダム第三発電所の難工事を、綿密な取材と調査で再現したドキュメンタリ小説。建設予定地は地元民でも近づかない険しい山奥であることに加えて、温泉湧出地帯で岩盤温度は165度にも達する。その超高熱の地下にダイナマイトを持った人間が入っていってトンネルを掘る。過酷な作業環境に加えて、厳しい大自然の脅威が彼らを襲う。
当然、日常的に人が死ぬ。
つぎつぎに300人の犠牲者をだしながらも、国策の名のもとに大工事は強行されていく。そんな状況のなか、悲壮な覚悟で工事完遂を目指した技師たちの視点で物語は語られる。プロジェクトの前に立ちふさがる技術的な難問を創意工夫と協力で、幾度も乗り越えていく様子は男のロマン、プロジェクトXのよう。
その一方で技師たちの判断を信じて、悲惨な死に方をした労働者たち屍の山が積みあがっていく。それでも工事を進めなければならない技師の心の葛藤。記録文学として淡々と語る文体だが、数ページおきに一人死亡するような内容の過激さに、手に汗握る感じであっという間に読める小説だった。
吉村昭の代表作のひとつに数えらるだけあって、歴史的傑作と思った。ついでに感動するのがコストパフォーマンス。これだけのドラマを420円で買えるのだから文庫本ってえらいとおもう。
ちょうど本の雑誌が文庫特集号を発売している。買ってきた。面白そうな本を正月に読もうとリストアップ中。
「年末恒例の本の雑誌増刊「おすすめ文庫王国」。今年はとことんベストテンにこだわり、人気の桜庭一樹のオールタイム文庫ベストテンから、ブーム到来警察小説ベストテン、はたまた藤沢周平の作品からベストテンを決めちゃう大胆な展開。もちろん企画ものも健在で「文庫版元番付をつくる」や「都内2書店売上ベスト100比較」など。これ1冊で読みたい文庫本が10冊は絶対見つかるでしょう。 」
2007年12月10日
円朝芝居噺 夫婦幽霊
著者の「辻原登」は作中で、明治の噺家 三遊亭円朝の幻の傑作「夫婦幽霊」口演の速記原稿を発見する。古い速記法の解読を進めるうちに、物語の内容だけでなく、その原稿に隠された秘密が明らかになっていく。その顛末の報告と「夫婦幽霊」現代語訳の公開がこの話の主な内容である。
フィクションであるから、著者が原稿を見つけたというのがまず嘘だし、幻の傑作も作者の偽作なのである。しかし、作中人物の多くは実在した本物であり(作中の著者自身もそうだが)、他の文学作品や史実の中に名を残している人もいる。どこからが真でどこからが偽なのかわからない宙ぶらりんの中での「夫婦幽霊」の語り。
語りの次元がいつのまにか変わっているような、地と思っていたら図であったというような、構成の妙という点では「アサッテの人」、さらに時代モノという点では「吉原手引草」などの最近の文学賞作品に共通する。
・アサッテの人
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005112.html
・吉原手引草
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005110.html
こうした知的からくりの面白さと同時に、幻の作品「夫婦幽霊」の出来が本当に素晴らしいことが、この作品を傑作にしている。作中で芥川龍之介が言う「先生、およしなさい。論(セオリイ)はいけません。物語(ロマンス)をお書きなさい。円朝をやりなさるんならセオリイだけではいけません」。これはこの作品についてのメタ言説なのだろう。
たいへんな知識量と書き手としての技芸がないと、この作品は書き得ない。この小説は「これはすごい」である。
2007年12月09日
死者の書・身毒丸
「古墳の闇から復活した大津皇子の魂と藤原の郎女との交感。古代への憧憬を啓示して近代日本文学に最高の金字塔を樹立した「死者の書」、その創作契機を語る「山越しの阿弥陀像の画因」、さらに、高安長者伝説をもとに“伝説の表現形式として小説の形”で物語ったという「身毒丸」を加えた新編集版。 」
高名な民俗学者 折口信夫が書いた歴史小説のようなもの、である。本文は旧かなづかいで書かれていて、本格の学者が偽書を敢えてつくろうとしたようにも思えるが、研究の間の手すさびというには終わらない作品としての完成度を持っている。
併録された自身による小説の解題「山越しの阿弥陀像の画因」で、著者は執筆動機と意図についてこう書いている。
「渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝へていると思はれながら、いつか内容は、我が国生得のものと入りかはっている。さうした例の一つとして、日本人の考へた山越しの阿弥陀像の由来と、之が書きたくなった、私一個の事情をここに書きつける。」
「まづ第一に私の心の上の重ね写真は、大した問題にするがものはない。もっともっと重大なのは、日本人の持って来た、いろいろな知識の映像の、重なって焼きつけられて来た民俗である。其から其間を縫うて、尤もらしい儀式・信仰にしあげる為に、民俗々々にはたらいた内存・外来の高等な学の智慧である」
「死者の書」というと古代エジプトのそれが連想される。実際、昔の単行本版の表紙絵はエジプトの壁画風なものだったようだ。この物語に出てくる霊のイメージは、最初は死者の魂なのだが。顕現するときには阿弥陀という仏教の姿で出てくる。死んだら仏。日本の死生観は神仏習合なであり、和・漢・洋の死生観の重ね焼きでもあり、多くの外来要素が詰め込まれている。しかし、それが全体として調和して、日本の霊性の世界を作り出している。
2007年11月22日
神鳥―イビス
「夭逝した明治の日本画家・河野珠枝の「朱鷺飛来図」。死の直前に描かれたこの幻想画の、妖しい魅力に魅せられた女性イラストレーターとバイオレンス作家の男女コンビ。画に隠された謎を探りだそうと珠枝の足跡を追って佐渡から奥多摩へ。そして、ふたりが山中で遭遇したのは時空を超えた異形の恐怖世界だった。異色のホラー長編小説。」
直木賞作家 篠田 節子の93年の作品。
登場人物のキャラクターが俗っぽいため、シリアスな民俗ホラーには向かないんじゃないかと思いきや、後半の臨場感は半端ではなくて、コミカル要素はほどよい中和剤として作用している。ホラーとして傑作である。
呪われた日本画をめぐる怪奇がテーマだ。強烈な映像を見ると焼き付いてしまい、しつこくイメージが記憶から立ちあがってくるという体験はだれしもあるのではないか。視覚を通して何かに取り憑かれる、見たものに捉われて狂っていく恐怖はそんな普通の体験の延長線上にあるように思えてリアリティを感じた。
ところで「神鳥」と書いて「イビス」と読ませる根拠を調べていたら、もともとはイビスは太陽神を導く朱鷺の頭をしたエジプトの神だということがわかった。朱鷺というと絶滅寸前の保護動物という印象があるが、実物の写真を見てみると、何を考えているのかわからない顔がかなり怖いことに気がついた。
Wikipediaより画像引用
2007年11月01日
カフカ短篇集
カフカの「掟の門」は、ほんの数ページの作品なのに、強烈に印象に残り、何度も反芻しながら、意味を考えさせられる。読書会でも開いたら何時間でも討論できそうである。
「掟の門」。男がいる。彼は「掟の門」の前で、大男の番人に阻まれ入ることができずにいる。「いまはだめだ」と言われ続けて、男は長い年月、門番が入ることを許してくれるのを待ち続けた。そして年をとって命が尽きはてようとしている。
「「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」いのちの火が消えかけていた。うすれていく意識を呼びもどすかのように門番がどなった。「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」」
そこから人生の教訓のような普遍的なものを読み取ることができるし、カフカの時代の社会や政治背景と紐づけて何かを読むこともできる。フロイト流の精神分析論を展開することもできる。カフカは生前にほとんどの作品を公開することなく逝った作家なので、何が著者の意図だったのかは確定できない。この多義性と不確定性がカフカの不条理の面白さなのだなあと改めて思った。
この短編集の収録作品では「掟の門」「橋」がおそらく一般的な人気作品だと思うが、私が一番好きなのは「こま」だ。たった2ページ、1シーンだけの超短編だ。ある哲学者が子供たちの回すこまをじっとみている。回っているこまをつかもうとする。
「つまり彼は信じていたのだ。たとえば、回転しているこまのようなささやかなものを認識すれば、大いなるものを認識したのと同じである。彼は大問題とはかかわらなかった。不経済に思えたからである。ほんのちょっとしたささやかなものでも、それを確実に認識すれば、すべてを認識したにひとしい。」
ここを読んでいて、電車をひと駅乗り過ごしてしまった。
超短編が多いので、移動や休み時間に読みやすい。
「火夫」は珍しくドラマチックな展開をする。「万里の長城」は政治や経営の哲学考察として読める。
【収録作品】
掟の門
判決
田舎医者
雑種
流刑地にて
父の気がかり
狩人グラフス
火夫
夢
バケツの騎士
夜に
中年のひとり者ブルームフェルト
こま
橋
町の紋章
禿鷹
人魚の沈黙
プロメテウス
喩えについて
万里の長城
2007年10月27日
よもつひらさか
短編ホラー集。怖いというより、不思議な話が多い。
ふたつの意味で粒ぞろい。まず尺の長さが粒ぞろい。本編は約370ページで12編だから、一作あたり約30ページである。1時間に2本か3本読めるこのボリュームは、通勤時間や休み時間にちょっと読むのに最適だった。そして、各作品の完成度も高レベルで粒ぞろい。一編を読むともう次も読みたくなる。はずれがなかった。
主題は幅広い。幽霊、ドッペルゲンガー、のろいなどのオーソドックスなオカルトものから、猟奇犯罪やネットストーカーまでバリエーションがある。個人的には最後に収録された表題作の「よもつひらさか」が好きである。現世と黄泉の国の境界にあると言われる坂に迷い込んだ男の話。諸星大二郎の漫画好きには特におすすめ。
黄泉比良坂は神話上の場所であるが、島根県東出雲町にある伊賦夜坂がそれであると比定されており、現地には石碑も建っているらしい。一度行ってみたい場所であるが、なかなか島根県に行く用事がないのであった。来年こそは出雲大社と一緒に見に行くぞ、と計画中。
・黄泉比良坂物語
http://www.town.higashiizumo.shimane.jp/1497.html
2007年10月24日
青い鳥
重松清、学校を舞台にした8本の短編連作集。傑作。
私は小学校も中学校も高校も、学校生活というものが嫌いで、毎朝、行きたくないなあ、と思っていた。登校時間は本当に憂鬱だった。教室に友達がまったくいないわけでもなかったけれど、同質な「みんな」の輪に入るのは苦手で、一人でいることが多かった。小中と長期の欠席が日常茶飯事で「義務」でなくなった高校は1年行かずに中退した。私の人生はどうなっちゃうんだろうと自分でも思ったが「みんな」には同化したくなかった。落ちこぼれでいいから、私はみんなと違う存在でいたかった。家や図書館でひとり、本ばかり読んでいた。ああ、なんと寂しく惨めな少年時代...。
学校が大好きだったという人も世の中には多い。ウチの妻などはそうなのだ。だから小学校や中学校のお互いの思い出を話したりすると、基調においてかみ合わない。私は学校というのは嫌なところだった、教師は敵、やれやれ大人になって良かったよ、という”恨みマイナー調”で話す。妻は大切な青春時代の一コマ、あの先生どうしているかな、できれば戻ってみたいなんて考えているのであろう、”幸福メジャー調”で話す。メジャーとマイナーが衝突し、この話題では常に平行線をたどる。最近はそれが我が家の子供の教育方針問題において、火種となりかねない不穏な様相をみせている、のであった。(まあ気にしませんがw)。
で、この本は私と同じように、学校が嫌いだった人に、おすすめである。
選択国語の臨時講師、村内先生の短期赴任先は、いじめや自殺、学級崩壊や児童虐待などの問題を抱えた問題クラスばかりである。吃音でうまくしゃべることができない先生は、最初の授業から好奇の眼で見られ、からかわれて、迷惑だとまで言われる。だが、村内先生は、多くをしゃべれない代わりに、生徒に寄り添い、たいせつなことだけを話す。孤独な先生だからこそ、孤独な生徒に語りかけることができる。
問題学級を渡り歩く、吃音でうまくしゃべれない臨時の国語講師。かなり寓話的な初期設定だが、8本の連作の中で、少しずつ、そのキャラの存在感が濃くなっていく。村内先生ならきっとこういうときには、こういうにちがいない、なんていう想像ができてしまう。重松清はまったく新しい教師の理想像を確立したと思う。これテレビドラマや映画にしたら、金八先生や夜回り先生を超える名キャラクターになりそうだが、学校好きのマジョリティには、あんまり受けないのかなあ?。
・送り火
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005057.html
・ビタミンF
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005084.html
2007年10月11日
十牛図―自由訳
禅の悟りに至る道を、十枚の牛の絵を使って表したものが十牛図である。
この牛とは自分の心を象徴しており「心牛」である。人は失われた牛を探し求め、見つけ、手なずけ、連れ帰り、牛を忘れ、自分も忘れて、悟りの境地に至るのだ、という内容。詳しくは目次にあるとおり。
自由訳 十牛図(じゅうぎゅうず)のもくじ
第一図 尋牛(じんぎゅう) 牛を捜しにゆく
第二図 見跡(けんせき) 牛の足跡をみつける
第三図 見牛(けんぎゅう) 牛を見つける
第四図 得牛(とくぎゅう) 牛をつかまえる
第五図 牧牛(ぼくぎゅう) 牛を飼い馴らす
第六図 騎牛帰家(きぎゅうきか) 牛に乗って家に帰る
第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん) 牛は消え私だけがいる
第八図 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう) 人も牛もいなくなる
第九図 返本還源(へんぼんかんげん) 生まれ変わる
第十図 入てん垂手(にってんすいしゅ) 俗に入り教化する
それぞれの絵には教えの漢文漢詩がつけられている。十牛図の自由訳、現代語訳は他にも複数出ているが、これは「千の風になって」の新井満による自由訳。原典のコンセプトを守りながら、できるかぎりわかりやすい日本語で訳すというコンセプトで貫かれている。イメージ写真や、章ごとの重要部分のまとめもあって、とっつきやすく、読みやすいのが特徴である。
「本書は悟るための手引書です。どうか本書を活用して一日も早く悟ってください」と著者は帯に書いている。やさしい日本語になっているが、当然、読めば誰でも悟れるわけはない。やはり第七図以降の理解が難しいと思う。全身全霊で分かった!という「大悟」段階の先は、頭でわかるという次元を超えてしまうからである。だからこそ昔の人は言葉ではなく絵にすることで、悟りのツールとしたのだろう。
悟れるかどうかはともかく、何らかの求道者であれば、共通の極意として受け取れる古典だなあと思った。30分で本文を読んで、そのあと2時間くらいその意味を考えてみる。そういう読み方で読む本だと思う。
・現代語訳 般若心経
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004792.html
・タオ―老子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004803.html
・現代語訳 風姿花伝
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005081.html
2007年10月10日
箱舟の航海日誌
初版は1925年だから80年以上前だ。医師で神秘思想家のケネスウォーカーのロングセラー作品。イギリスでは児童文学の古典として読まれているが、日本ではほとんど知られていないという。旧約聖書のノアの箱舟をベースにした別バージョンを、子供向けにわかりやすく語る。
ノアが箱舟をつくり、あらゆる動物を乗せて漂流するという骨子は、旧約聖書の原作通りなのだが、動物たちが意思を持ち、しゃべっている点がまず違う。救われるべき動物たちは、無垢な存在で箱舟ではオートミールの食事を食べている。漂流中の不便に多少の不平はあっても、みんなで仲良く暮らしていけるはず、だった。
一頭の「スカブ」という、禁断の肉食動物が紛れ込んでいたことから、物語は妙な方向へ展開していく。はじめは根暗で陰気な存在に過ぎなかったスカブだが、しだいに箱舟の動物社会に不穏な空気を広め始める。動物社会の分裂。そして、聖書の中では語られなかったノアの方舟の大航海の真相がここに明かされる。
本来は児童文学なのだが、大人のための寓話として、随分と考えさせられる小説である。最初は良き意図を持って秩序正しく暮らしていた社会が、小さなきっかけから、次第に悪徳に魅せられるものが増えて、堕落していくという、人間社会の普遍的な様子を描いている。
もともとスカブは、根っからの悪魔的存在ではなく、ある偶然で、肉食という本能に目ざめることになった弱者である。生来の悪人ではなかったのだが、結果的には悪の扇動者になってしまう。悪の起源とは何か、なぜ人は悪徳に魅かれることがあるのか、なぜ社会は分裂していくのか、など、子供向けの文学であるが、背景で扱われているテーマはどれも大きくて深い。
2007年10月02日
凍
東京ー名古屋の新幹線で読んだ。往路でも復路でも物語の中に心は引き込まれて、気づいたら目的地だった。沢木耕太郎の傑作。
登山家の山野井泰史・妙子夫妻が2002年に体験した、壮絶なヒマラヤ登山のドキュメンタリ小説である。このふたりはテレビや新聞で紹介されているのを見たことがあった。夫妻は手や足の指を、何度も凍傷で失っている。妙子夫人は両手両足で合計18本を切断しているそうだ。常人であればそれだけで大変な障害で、日常生活にも支障をきたすと思うのだが、彼らは困った風にさえ見えない。その後も難しい登山に積極的にチャレンジしているのだ。どうなってるの?と不思議に思った記憶がある。
この小説を読んで、その心理が少しわかった気がする。死と隣り合わせで心身の限界に挑戦しているときに、一番の生の充実を感じる人たちなのだ。夫妻がふたりとも、アドレナリン駆動の人生を選んでいるから勢いは倍増して、冒険は加速していく。
数年前にみた映画「運命を分けたザイル」を思い出した。ストーリーはかなり似ている。限界を超えて、超えて、超えて。人間の生きる力。「凍」に通じる感動がある。
「アンデス山脈にある前人未到のシウラ・グランデ峰登頂に挑んだジョーとサイモン。しかし天候の悪化によって、ジョーが片足を骨折する。サイモンは、2人とも命を落とすか、あるいは動ける自分だけが助かるべきかで悩み、ジョーとの命綱であるザイルを切る選択に迫られる。実話を基にしたノンフィクション文学のベストセラーを、ドキュメンタリーかと見紛うような映像で再現した一作。」
2007年09月30日
アサッテの人
第137回芥川賞受賞、第50回群像新人文学賞のW受賞作。整理されていない文章に首をかしげながら読み進めると、後半で、すべては計算済みの作者の作戦だったとわかるインテリ文学。
この物語の主人公である「叔父さん」はときどき、今日の世界とは断絶した「アサッテ」の世界に生きている。日常会話の中で唐突に「ポンパ」「チリパッパ」「ホエミャウ」と意味不明の、本人にしかわからない言葉を挿入して周りを驚かす。
叔父の残した日記にその経緯を読み解いていくのがこの小説の筋である。「世界から疎外されている」という意識と「世界に囚われている」という意識はだれしもが持つものだと思うが、その矛盾を突き詰めると逃げ場がなくなる。アサッテにとりつかれた叔父は、より純粋なアサッテを追い求めて、壊れていく。
現実と断絶したアサッテというのは狂気の入口であると同時にクリエイティビティの源泉でもあると思う。アサッテの人で連想したのが最近見た写真集「私は毎日、天使を見ている。」の奇妙な美であった。
エルサルバドルの精神病院の患者のポートレート中心の写真集である。タイトルは患者の言葉である。精神病院をテーマにする写真集は、写真史上はよくあるのだが、最近ではレアである。人権や肖像権の問題があって作るのが難しくなった。患者たちの純粋な、でもどこかアサッテな目が印象的である。無垢でも邪悪でもない、意味が読み取れない目なのである。
・渡邉 博史 I See Angels Every Day. 私は毎日、天使を見ている
http://www.hiroshiwatanabe.com/HW%20website%20Folder/Pages/Angels/Angels%20thumbnails.html
著者のサイトで写真を見ることができる。
2007年09月26日
沈黙のフライバイ
第38回星雲賞日本短編部門受賞作「大風呂敷と蜘蛛の糸」を含む5作品収録の短編集。
2001年の小惑星エロスへの、NASAのシューメーカー探査機着陸成功のニュースはまだ記憶に新しい。小惑星の地面の写真が地球に送信されてきたのが衝撃的だった。人類の異世界への接触。月面着陸のように、一般の新聞やテレビでそれほど大きな話題にならないのが不思議であった。
・Final NEAR Shoemaker Descent Images of Eros from 2001 Feb 12
http://near.jhuapl.edu/iod/20010214/index.html
写真が公開されている。
「轍の先にあるもの」はこの画像にインスピレーションを受けた作者が、ネット上で科学者たちとの議論をヒントに書いた未来科学小説である。このニュースを見た若手研究者がやがてその謎を解明するべく宇宙へ飛び出すまでを描いている。作品中には本物の画像も引用されており、現実と想像がシームレスにつながっていく。
野尻抱介の作品の登場人物は、日本のオタク型理系人間の良さが出ているなあと思う。地味で淡々と緻密。派手なアクションはせずに、知的に静かに興奮する。理性的判断を優先し、人間関係の距離を保つ。決して海外SFの主人公みたいに、情熱や正義感に駆られて、英雄的な行動に出たりはしない。主役としての、日本人の研究者の描き方がリアルに感じるのである。理系の研究者の20年後、30年後として、本当にありえそうな気がしてくるのである。
グレッグ・イーガンやテッド・チャンがどんなにSF作家として天才であっても、日本人が主役のリアリティというのは望めそうにない。この人にはこれからも日本人のSFを頑張って書いてほしいなあと思う。
宇宙エレベーターの建設手法や、凧をつかった大気圏脱出手法など、新しい考え方が示されていると同時に、わかりやすい点も素晴らしい。
2007年09月25日
匂いをかがれる かぐや姫 ~日本昔話 Remix
一寸法師、かぐや姫、桃太郎の3つの昔話テキストを、まず英語に自動翻訳してから、さらに何本かの翻訳ソフトを経由して、日本語に再翻訳する、という手順で、不思議な「新・昔話」ができあがった。
一寸法師の出だしはこんな風である。
【原文】
昔々のことです。ある村に、子宝に恵まれない仲のいい夫婦が暮らしていました。「神様、指先ほどの子供でもかまいません。どうぞ授けてください」」
【翻訳→再翻訳】
「古代です。チャイルド宝に恵まれなかった親しいカップルは、特定の村に生きていました。「神よ、指先のような子供さえ嫌だと思いません。すみませんが寄贈してください。」」
まっとうな原文と挿絵のバージョンと、翻訳文とそれに対応した摩訶不思議な挿絵のバージョンが交互に出てくる。英語対訳も掲載されているので、どの単語や言い回しが原因で、そんな妙な訳が出てくるのか、確認することができる。
桃太郎は言う。「怪物アイランドに怪物ハントであります。」。機械の自動生成なのに思わずニヤっとさせられてしまう表現が多くて楽しい作品になっている。まだ人間の編集、調整が随所に加えられているらしいが、これは、これから始まるかもしれないコンピュータ文学時代の、黎明期の作品と言えるだろう。
翻訳精度の低さが原因にせよ、ソフトウェアがネタを生みだしたことに変わりはない。究極的には、読者ひとりひとりのツボを検知して、ネタを創造し、物語をパーソナライズする自動最適化小説も現れるのではないだろうか。(実際、ゲームではそれに近いことができているわけで夢物語じゃないだろう)。
50年後のWikipediaに「コンピュータ文学の歴史の第一歩はソフトウェアの誤変換、誤訳、誤認識を笑い飛ばす作品から始まった」なんて書かれているかもしれない。
2007年09月24日
吉原手引草
第137回直木賞受賞作。
吉原で全盛を誇った花魁が突然、謎の失踪を遂げる。当時の状況を解明するため、主人公は引手茶屋、遣手、床廻し、幇間、女衒、女芸者など17人の関係者を一人ずつインタビューして回る。それぞれの身の上話にも話は及んで、吉原の人間模様の中に、失踪事件の真相が浮かび上がってくる。
時代劇ミステリなのだが、前半はタイトル通り「吉原手引書」として、当時の風俗文化や廓の組織構造が語られている部分が、大変面白い。花魁と遊びたければ、まずどうすればいいのか、粋な遊び方と無粋な遊び方、気になる料金体系など。遣手婆という言葉があるが、「遣手」とは職業だったのか、とか、本物の太鼓持ち(幇間)とはどんな役割だったのかなど、芸者以外の職業についても詳しい。そうした廓の手引きをされているうちに、数か月前まで、その社会の頂点にいた花魁の失踪事件の全貌が明らかになっていく。
花魁失踪の悲劇が物語の中心にあるが、話し手たちの語り口は、明るくてユーモラスなものばかり。おしゃべりの積み重ねで物語が進行していく。演劇的で軽快なテンポが気持ちがよい。それでいながら真相解明のミステリとしても、結構、緻密に設計されている。実に粋な娯楽小説だったなあという読後感。
2007年09月19日
文盲 アゴタ・クリストフ自伝
悪童日記の三部作で知られる作家アゴタ・クリストフによる100ページの短い自伝。作品内では抽象化、匿名化されていた出来事や登場人物の多くは、少女時代の具体的な体験に起因するものだったことが次々に明かされる。
アゴタ・クリストフは、母国ハンガリーから21歳の時に、難民としてスイスへ亡命して定住し、そこで出会ったフランス語で作品を発表してきた。叙情的な記述を徹底排除して、事実を淡々と客観的に書く彼女の文体は、母語ではない言語で書く作家だからだと言われているが、自身は以下のように語っている。
「わたしはフランス語を三十年以上前から話している。二十年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。そんな理由から、わたしはフランス語もまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。」
「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。確かだと思うこと。それは、どこにいようと、どんな言語であろうと、わたしはものを書いただろうということだ。」
この本のタイトル「文盲」というのは、母語のようには決して使えない外国語で書くことを運命づけられた自身の姿を指している。微妙なニュアンスをうまく伝えることができなくても、感動の物語を書くことができるというのが驚きである。
あとがきで訳者がアゴタ・クリストフの近況を書いている。彼女は書くべき大きなテーマをすべて三部作に書いてしまったので、既に高齢であるし、もはや新しい大作は期待できないのではないかという。
・「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004896.html
・「昨日」「どちらでもいい」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004928.html
2007年09月10日
神聖喜劇
超弩級の絶対的な傑作。大西巨人の小説「神聖喜劇」の完全漫画化。こんな物凄い作品があるとこれまで知らなかったのが不覚であった。全6巻を夏休みに読破。読者を選ぶ作品だが、以下の概要で興味のある人にはおすすめである。
「一九四二年一月、対馬要塞の重砲兵聯隊に補充兵役入隊兵百余名が到着した。陸軍二等兵・東堂太郎もその中の一人。「世界は真剣に生きるに値しない」と思い定める虚無主義者である。厳寒の屯営内で、内務班長・大前田軍曹らによる過酷な“新兵教育”が始まる。そして、超人的な記憶力を駆使した東堂二等兵の壮大な闘いも開始された」(原作の紹介より)
東堂太郎は一度読んだら忘れない驚異的な記憶力の持ち主であった。軍隊の規則書を丸暗記している彼は、不条理な軍隊生活や上官たちの言動に疑問を持つ。そしてその矛盾を言葉で訴え始めることから生じる個人と組織の闘争が物語の主軸である。
序盤のテーマは「責任阻却の論理」。新兵たちは、上官から、軍隊では「知らない」とは言うな、「忘れた」と言えと教育される。東堂は軍隊の規則のどこにも書かれていない命令が、何に由来するものなのかを徹底的に考え抜く。見事な結論に至る。この部分を読んで感動した人は、この本の読者に向いている。第6巻まで読もう。さらに感動すること請け合いである。
漫画だが極めて文字が多いので、読むのはかなりの時間がかかる。むしろ小説だと思って読むと軽く読めると思う。全編を通して描きたかったことは、戦争批判、差別批判という見かけを超えて、組織のばかばかしさであると思う。軍隊、会社、組合、官僚機構など、組織というものがいかに人間を疎外しているか、そのすべての要素が丁寧に語られている抵抗の文学である。
2007年08月29日
ビタミンF
「38歳、いつの間にか「昔」や「若い頃」といった言葉に抵抗感がなくなった。40歳、中学一年生の息子としっくりいかない。妻の入院中、どう過ごせばいいのやら。36歳、「離婚してもいいけど」、妻が最近そう呟いた……。一時の輝きを失い、人生の“中途半端”な時期に差し掛かった人たちに贈るエール。「また、がんばってみるか」、心の内で、こっそり呟きたくなる短編七編。直木賞受賞作。 」
「送り火」がよかったので重松 清の直木賞受賞作を含む短編集も読んだ。
・送り火
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005057.html
ビタミンにA、B,CはあってもFはない。ビタミンFは作者が考えた心の栄養素の名前であり、Family,Father、Friend、Fightなどの頭文字であるそうだ。7つの短編からなる。中年の、父親の、家族のさまざまなやりきれなさと切なさが交互に出てくる。泣かせる作品主体の「送り火」に対して、こちらはマスオさんの悲哀が作風。私はマスオさんとはタイプが違うと思うのだが、不覚にもぐっときてしまうのであった。
それで、「重松 清いいよ、読んでみたら?」と妻に勧めてみたところ「あなたもこういう”中年小説”を読むようになったのねえ」と笑われてしまった。重松 清はまさに中年小説の名手だ。中年小説は青春小説とは違って、深い絶望もまぶしい希望もでてこない。中途半端な年齢を中年と呼ぶ、のか。
ちなみに、中年というのは何歳のことか。Wikipediaによると以下のような年齢の範囲を指すものである、とのこと。意外にも私よりひとまわり年配を呼ぶことば。私はまだ中年ではないのだ。ふう、と安堵しているの心の中の私が、中年なんだろうなあ。
・中年 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B9%B4
「中年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
中年(ちゅうねん)とは成人として中くらいの年齢。すなわち青年期を過ぎた頃から初老の域に入るまでを指す。
・一般的には40代頃から50代頃を指す事が多い。30代については中年、壮年、青年、若年と様々に言われ、一定しない。
・平成10年度の国民生活白書「中年-その不安と希望」では中年世代を、おおむね40代〜50代と定義づけている。
・厚生労働省の一部資料(健康日本21など)では、幼年期0~4歳、少年期5~14歳、青年期15~24歳、壮年期25~44歳、中年期45~64歳、高年期65歳~という区分をしたものもあり、壮年期の定義も一定しない。」
2007年08月20日
夕凪の街 桜の国
現在公開中の映画の原作。
・映画『夕凪の街 桜の国』OFFICIAL SITE
http://www.yunagi-sakura.jp/
「夕凪の街」「桜の国」は時代の異なるふたりの女性の物語である。舞台はヒロシマ。合計でたった120ページの短い漫画で、絵柄も地味なのだが、重なり合う二話は緻密に構成されており、2時間の映画に匹敵する人間ドラマが描かれている。大傑作。
映画監督 黒木和雄の原爆三部作「Tommorrow」「美しい夏キリシマ」「父と暮らせば」と作風がよく似ているなあと思う。戦争や原爆の悲惨さを直接は描かず、残されたものの生活や心を静かに描く。
・父と暮らせば
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002020.html
・「アトミック・カフェ」と「美しい夏 キリシマ」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003460.html
作者は私と同世代で戦争を知らないこどもたちである。取材をベースにこの作品を作り上げたという。体験のないものでも戦争を語り継ぐことができることを証明したといえそうだ。平成16年度文化庁メディア芸術賞漫画部門大賞、第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞した。
同時に、戦争体験世代が直接語る漫画として、対極的な水木しげるの戦争作品も読んだ。壮絶な戦争体験の、直接的な漫画化だった。この体験があるからこそ、生死の境を超越した妖怪モノがあったのだなと、なんだか納得する。
・総員玉砕せよ!

「昭和20年3月3日、南太平洋・ニューブリテン島のバイエンを死守する、日本軍将兵に残された道は何か。アメリカ軍の上陸を迎えて、500人の運命は玉砕しかないのか。聖ジョージ岬の悲劇を、自らの戦争体験に重ねて活写する。戦争の無意味さ、悲惨さを迫真のタッチで、生々しく訴える感動の長篇コミック。」
2007年08月18日
なまなりさん
夏である、怪談である。
怪異蒐集家で「新耳袋」作者の一人、中山市朗の新境地。新耳袋が超短編集だったのに対して、本作では丸一冊の長編。なまなり=生霊に祟られた知人の体験を二日間にわたって聞き取るという形式が臨場感を高めている。著者はもともとラジオ放送作家なだけあって、語りとしての怪談にうまく落としこまれていて、怖い、怖い。真夏の夜に一息で読む怪談本としておすすめである。
・中山市朗−怪談の間−
http://sakugeki.com/kwaidan/top.html
著者のオフィシャルサイト
「『新耳袋』完結後、中山市朗が蒐集した壮大な長編怪異体験談。二日間にわたって語られた、“なまなりさん”を巡る怨念や祟り。目の前で起こる信じがたい事実……。祟りとは本当に存在するのだろうか? 全編を体験者が語る、怪談文芸の新境地。」
さて、紹介はもう1年前になるがPSPのゲームになった「新耳袋」は本当に名作だったと思う。二ノ章を首を長くして待っているのだが、なかなか発売されない。関係者の方、早く出してください。
・実話怪談「新耳袋」一ノ章
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003803.html
で、続編が出ないので、新耳袋みたいな漫画として「不安の種」を発見した。テイストがそっくりである。数ページの怪談を次々に漫画で読ませる。状況説明は最小にして、ゾッとするシーンをイメージでつないでいく。小説やゲームの「新耳袋」ファンなら楽しめる。
2007年08月14日
悪霊
久々に大ヒットな漫画を読んだ。(ぜんぜん新作じゃないけど。)
「この島では祭りの宵に出歩いてはいけない。濃密な「気」に満ち満ちたこの島では…。わだつみから来るもの、屋敷に住まうものが宵を占める。幻のホラー・コミックが、遂に蘇る。「リング0」脚本家、高橋洋特別解説収録。」
高寺彰彦は、大友克洋の元アシスタントだったということで、絵柄は似ている。天が落ちて地が揺らぐような、大友作品のダイナミックでスピーディな迫力は、この「悪霊」でも発揮された。
言い伝えのある島に人々が集まってくるという初期設定は、ゲーム「かまいたちの夜2」を連想させる。」。あれが良かった人はこれもよいはず、である。抑制されたホラーが少しずつ、壮大なスペクタクルへと発展していく。
古今東西のさまざまなホラー要素が各所で使われている。元ネタはあれかなと考えながら読むのも楽しかった。たとえば増築され続ける屋敷というモチーフは、米国の「ウィンチェスターハウス」日本の「二笑亭」あたりが元ネタであろうか。
・ウィンチェスターハウス Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA
「部開拓ではウィンチェスター銃が多用されたので犠牲者が特に多い西部へ引っ越し、怨霊を鎮めるためにその家を拡張し続け、霊魂の居場所を作ってやるしかない」と。夫人はすぐさまニューヘイブンの家を売却。現在のサンノゼはサウスウィンチェスター通り525番地に引っ越し、お告げの通り生涯に渡り実に38年もの間休むことなく増築を続けた。その結果、部屋数160、寝室40を有する4階建ての大豪邸と化した。豪邸内部は悪霊が侵入しにくく出て行きやすいよう、突き当たる階段や天窓が床にある部屋など奇怪な設計をし、さらには不吉とされる番号「13」を重視した階段や石畳などを多用したため、さながら迷宮を彷彿とさせる構造となった。」
・「二笑亭」wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%AC%91%E4%BA%AD
「二笑亭(にしょうてい)は、東京深川の地主渡辺金蔵(1877年?〜1942年6月20日)が自ら設計し大工を指揮して建築させた個人住宅(渡辺邸)である。
関東大震災後の1925-1926年、渡辺は世界一周旅行に出かけた。帰国後、(関東大震災後の)区画整理が終るとバラック建ての自邸を本建築に改築する工事を始めた。着工は1927年12月頃で、1931年8月に新築(竣工)届が出されたが、その後も工事が続けられた。この間、渡辺の奇行に耐え切れなくなった家族は別居し、渡辺1人と女中のみが残っていた。その後、「電話返却事件」(後述)をきっかけに1936年4月24日に渡辺が加命堂脳病院に入院させられ、2年後の1938年4月頃に取り壊された。
」
とても面白かったので同じ作者のこれも読んでみた。3作収録されているが、表題作はどちらかというとコメディ系のドタバタ。それ以外はハードボイルドな警察モノ。高寺彰彦の作風を知る上での研究に、よいかも。
「SF界きっての2大巨頭の原作を得た沈黙の鬼才・が、圧倒的な描写力で迫るスラップスティック作品の最高傑作、いよいよ復刊!雑誌掲載時のカラー扉を加筆のうえ完全収録!!」
2007年08月05日
送り火
東京の私鉄沿線(たぶん京王線あたりがモデル)に住む人たちの人生の悲哀を描いた連作短編集。駅のホームで無念の死を遂げた男の幽霊と出会う話や、この世のものと思えない謎の住人たちに悩まされる引っ越しの話など、ちょっぴり「アーバンホラー」の味付けがされている。
親子、夫婦、家族がメインテーマで、読む者をほろっとさせたあとに、じわっとさせる。この、涙を誘った後に、希望を残し温かい気持ちにして終えるのが作者の得意である。パターンだよなあと思いつつも、毎話、新鮮な変化がつけられており、結局、ほろ、じわっときてしまって、やられたなあと思う。あざといボールかなと思っていると、ぎりぎりストライクに入ってくる感じで、絶妙だ。
作者のプロフィールを調べてみると、フリーライター出身の実力派で、オールマイティな作家なのだった。別の作品も読もうと思った。
・重松清 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%9D%BE%E6%B8%85
「重松 清(しげまつ きよし、1963年3月6日 - )は、日本の作家。岡山県久米郡久米町(現・津山市)の生まれ。中学、高校時代は山口県で過ごす。山口県立山口高等学校、早稲田大学教育学部卒業。角川書店の編集者として勤務(みうらじゅんなどの担当をしていた)後にフリーライターとして独立。ドラマ・映画のノベライズ、雑誌記者、ゴーストライターなどなんでも手がけた(その当時の名は田村章で、北野武監督の『キッズ・リターン』や『あしたいのちはもっと輝く!』などの小説版を執筆した)。二児の父。」
そして直木賞、山本周五郎賞、坪田譲治文学賞などを受賞している。
「また『ファイナルファンタジーシリーズ』で有名な坂口博信が手がけるXbox 360用のゲームソフト『ロストオデッセイ』においてサブシナリオを担当する。矢沢永吉の熱心なファンでもある。また岡本太郎のファンでもある彼は大阪万博の象徴である「太陽の塔」の内部に入り後世の人類の為、太郎のメッセージを代弁している。2007年年度の第74回NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲の作詞を担当する。作曲は高嶋みどり」
2007年07月29日
邂逅の森
「秋田の貧しい小作農に生まれた富治は、伝統のマタギを生業とし、獣を狩る喜びを知るが、地主の一人娘と恋に落ち、村を追われる。鉱山で働くものの山と狩猟への思いは断ち切れず、再びマタギとして生きる。失われつつある日本の風土を克明に描いて、直木賞、山本周五郎賞を史上初めてダブル受賞した感動巨編。」
一言でいえばこれはレゾンデートル(存在理由)についての物語である。読者の90%は感動することうけあいの傑作である、と思う。だから、あまり内容についてこまかく説明したくないのだが...。
唐突であるが「アンパンマンのマーチ」って歌をご存じだろうか。これがよく聞いてみると、とてもじゃないが幼稚園生向けとは思えない深遠な人生哲学の歌である。歌詞の重さを意識するようになってからというもの、この歌がかかるのを聞くたびに、自分のレゾンデートルについて考えさせられてしまうのである。
たとえば1番の歌詞はこうである。
「「アンパンマンのマーチ」
作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし 編曲:大谷和夫
そうだ、うれしいんだ生きる喜び
たとえ胸のキズが痛んでも
なんのために生まれて、なにをして生きるのか?
答えられないなんて、そんなのはイヤだ
今を生きることで、熱い心燃える
だから君は行くんだ微笑んで
そうだ、うれしいんだ生きる喜び
たとえ胸のキズが痛んでも
ああアンパンマン
やさしい君は 行け みんなの夢守るため」
幼い子供にいきなり「生きる喜び」「胸のキズ」とは、作詞者やなせたかし恐るべしである。これ何百回も聞いて育つ子供は、そのときは意味がわからなくても、ある種の生き方、価値観について刷り込まれているに違いない。好き嫌いありそうだが、メッセージソングとして、アコースティックギターで静かに弾き語りをしたら、かなりかっこいいのではないかとさえ思える。
現実には「なんのために生まれて、なにをして生きるのか?」は、かなり生きてからでないと、わからない。しかし、人間はそれがまだわからない若い時期に、人生の重要な選択を迫られる。だからいろいろなことがうまくいかない。選択の幅が狭かった時代にはなおさらであった。
この小説の登場人物たちは、思うようにはならない人生を、それぞれに必死に生きながら、レゾンデートルを探している。それは職業にかける情熱であったり、愛や嫉妬であったり、友情であったり、山の信仰であったりする。ひとりのマタギの男の物語の上に、いくつものレゾンデートルが強烈に衝突して、次々に熱いドラマが生まれていく。
本物の人生の物語を読みたい人、おすすめ。
2007年07月23日
赤朽葉家の伝説
これは傑作。素晴らしい。桜庭一樹という作家をベタ褒めしたい。
「“辺境の人”に置き忘れられた幼子。この子は村の若夫婦に引き取られ、長じて製鉄業で財を成した旧家赤朽葉家に望まれ輿入れし、赤朽葉家の“千里眼奥様”と呼ばれることになる。これが、わたしの祖母である赤朽葉万葉だ。―千里眼の祖母、漫画家の母、そして何者でもないわたし。高度経済成長、バブル景気を経て平成の世に至る現代史を背景に、鳥取の旧家に生きる三代の女たち、そして彼女たちを取り巻く不思議な一族の姿を、比類ない筆致で鮮やかに描き上げた渾身の雄編。」
1953年から現在まで、それぞれの時代を生きた3人の女性の物語が、3部構成の回想形式で語られる。各世代の生きざまは、日本の時代状況を色濃く映し出す。
第一部 1953年〜1975年 赤朽葉万葉
第二部 1979年〜1998年 赤朽葉毛毬
第三部 2000年〜未来 赤朽葉瞳子
昔の話ほど強烈で面白い。
思い出話や昔話は時間の経過とともに、淘汰され、デフォルメされて、伝説や神話になるからだ。だから、この作品では、未来を透視する力を持つ祖母が主役の、第一部「最後の神話の時代」が最も印象的である。
現代に近づくにつれて次第に平凡な物語になっていくのだが、その物語性の時間に対する遠近感が、この作品の最大の魅力だと思う。時代のパースペクティブが開けていくにつれて、過去の意味が大きくなっていく。第二部のタイトルは「巨と虚の時代」とつけられているが、いつの時代も祖先の時代は、生きる意味に溢れた激動の時代だったようにに見えるものなのではないだろうか。
一方で、平凡に思える「わたし」の今の人生もきっと、やがて時の流れの中で、伝説や神話の一部になっていくのだ、とそんな風にも思えてくる。なにしろ、この小説の設定はよく考えればたった50年前なのである。まだ存命の、私の祖母の時代なのである。
ところでこの作品は、どういうわけか日本推理作家協会賞受賞を受賞しているが、推理小説でもミステリ小説でもないと思う。時代の流れと人間の生きざまを壮大に描いているので、大河小説と呼ぶのがふさわしいと思う。娯楽性と文学性の両方を満足させる傑作。おすすめ。
第60回日本推理作家協会賞受賞。第137回直木賞候補作。
2007年07月12日
悪人
「なぜ、もっと早くに出会わなかったのだろう――携帯サイトで知り合った女性を殺害した一人の男。再び彼は別の女性と共に逃避行に及ぶ。二人は互いの姿に何を見たのか? 残された家族や友人たちの思い、そして、揺れ動く二人の純愛劇。一つの事件の背景にある、様々な関係者たちの感情を静謐な筆致で描いた渾身の傑作長編。」
ある殺人事件をめぐる加害者、被害者の群像劇。傑作長編。
まったく内容は違うのだが、町田康の傑作犯罪小説「告白」と読後感が似ている。「悪人」は朝日、「告白」は読売で、共に新聞連載小説だったからかもしれない。テンポが似ているのだ。数ページごとに拍子があるような。そのリズム感がちょっとずつ加速していく感じ。長編であることが読んでいて嬉しくなってしまう。
・告白
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004743.html
この作品には美男美女がでてこない。華麗な生き方をしている人がいない。舞台は地方都市の郊外で、ぱっとしない人生に、何かを諦めて生きているような人たちが登場人物である。そんな脇役のような人物たちが、読み進むうちに、ちゃんと思い入れできる主役キャラクターに見えてくるのが、この作品の読みどころ。
事件をめぐる関係者ひとりひとりに対して、ドキュメンタリ風に、強いスポットライトを当てていく。ストーリーもいいが、それ以上に、各章で人物が入れ替わる一人称による内面描写が魅力なのだ。人物デッサンの積み重ねによる厚みがすばらしい作品だと思う。そこにたちのぼる「人間の匂い」にむせかえる。
今年ここまでに読んだ新作長編小説でベスト、かな。
2007年07月11日
宇宙のランデヴー4 〈上〉 〈下〉
「謎の知性体によって建造された巨大宇宙船ラーマ3が、火星軌道上で2000人の人類を収容し、太陽系を離脱してから、すでに3年の歳月が流れていた。このあいだに、独裁者ナカムラが権力を掌握し反対派を容赦なく弾圧―地域の良心として活動していたニコルは投獄され、死刑を宣告された。リチャードは2体の小ロボットをニュー・エデンに潜入させ、必死の救出作戦を開始したが…壮大なスケールの宇宙叙事詩ついに完結。」
宇宙のランデヴー 327p、2(上334p・下327p)、3(上346p・下367p)、4(上460p・下457p)と7冊、文庫で2600ページを超える長い物語がついに完結である。
さて、2600ページを読破しての正直な感想を書こう。
初作「宇宙のランデヴー」はSF史上に輝く大傑作である。続編の3作品は凡作である。続編は引っ張りすぎなのである。初作から15年後に書かれた続編の読者たちは、ラーマの正体を知りたくて読み始めたはずである。だが、そこにはチープな印象の人間ドラマが延々と展開されていた。ときどきラーマの本題がチラっと現れるため、読者はニコルとリチャードたちの物語につきあわざるをえない。当初はそれが不満であった。
ただ慣れというのがある。評論家にはそっぽを向かれた続編であるが、ファンの読者は結構いるようである。実は私もいつのまにか、この世界に慣れ親しみ、3の後半あたりでは、物語が終わってほしくないと思うようになっていた。初回を見てしまった連ドラを毎週見たいと思う感覚に近い。続編3作はそういうスペース・ソープ・オペラなのである。
長く登場人物たちとつきあうと、苦楽をともにしてきた感が醸成されてきて、4のあたりでは泣かせるシーンもある。本来、そういう作品ではなかったはずなのだが。スタートレックに近い。
人間ドラマ部分のアイデアはおそらく共著者のジェントリー・リーによるものだと言われている。文明批判や宗教色はアーサー・C クラークの要素であろう。当時、実現しなかったが、映画化、ドラマ化が予定されていたらしい。多分に映像化を意識した絵作りが感じられる。
それで結局、ラーマの秘密は明かされるのか?。答えはイエスである。最後の100ページはラーマの創造者たちについて真正面から語られている。はぐらかさない。極めてまともでオーソドックスな答えが用意されている。最後まで謎で終わりというわけではないので、安心して読んでいいと思う。
私にとって特別な作品であった「宇宙のランデヴー」。その続編をいつか読みたいと思っていたので、長い読書であったが大きな達成感があった。
さて、当時は実現しなかったと書いたが、現在もモーガン・フリーマンらRevelations Entertainmentがハリウッドで映画化の企画を進めているそうだ。資金集めに苦労しているそうだが、絶対に実現して欲しい。ちなみにこの会社は映画のP2P技術によるネットワーク配信に着手していることでも知られる。公開後はネットで観られるかもしれない。
数年後の映画公開の頃、このエントリは多くの人に参照されているといいなあ。
・Revelations Entertainment
http://www.revelationsent.com/flash/index.html
・Rendezvous with Rama - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Rendezvous_with_Rama
・Sir Arthur C. Clarke
http://www.arthurcclarke.net/
・宇宙のランデヴー
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004864.html
・宇宙のランデヴー2(上)(下)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004872.html
・宇宙のランデヴー3〈上〉〈下〉
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004873.html
2007年07月07日
奴婢訓
ガリバー旅行記で知られる18世紀の作家スウィフトが書いた風刺文学の古典。2006年にリクエスト復刊。岩波文庫。
召使、料理人、従僕、小間使い、女中など「使用人」のための処世訓。
「ご主人の呼んだ当人がその場に居ない時は誰も返事などせぬこと。お代りを勤めたりしていてはきりがない。呼ばれた当人が呼ばれた時に来ればそれで十分と御主人自身認めている。あやまちをしたら、仏頂面で横柄にかまえ、自分の方こそ被害者だという態度を見せてやる。怒ってる主人の方から、直きに、折れて来る。」
「買い出しの時は肉を出来るだけ安く値切って買う。勘定書を奥へ出す時には、主人の名誉を傷つけぬよう、最高値段を書いておく。」
「大きなお邸の奥方附だったら、その奥様の半分も美しくなくても、おそらく旦那様から可愛がってもらえる。この場合、気をつけて絞れるだけは絞り取ること。どんな一寸したいたずらでも、手を握るだけでも、先ずその手にギニイ金貨一枚入れてくれてからでなくては、許してはいけない。それから徐々に、向うが新しく手を出す毎に、こちらが許す譲歩の程度に比例して、せびり取る金額を倍増にして行く。そして、たとえ金は受取っても、必ず手向いをして、声を立てますとか、奥様にいいつけますとか、脅かしてやる。」
これは、いかに主人の見えないところで手を抜き、見えるところではごまをすり、悪事がばれたらどう切り抜けるか、といったバッドノウハウの集大成である。
これを読んでいて、大学時代に最初の授業で面白い処世訓を教えてくれた先生を思い出した。「君たちの年頃はいろいろあるだろう。たとえば私の授業の前日に、運命の彼女と出会ってしまい、翌日のラブラブデートの約束を取り付けることに成功したとする。その彼女は私の授業より君たちの人生にとって重要だと思ったなら、ためらわないで授業を休みなさい。しかし、私に「デートで休む」などと絶対に言ってはいけないよ。遠い親戚が亡くなったことにでもするように。そうしないとお互いの立場というものがなくなってしまうのだから。社会に出てからも同じようにするように。」と先生は教えていた。
奴婢訓のような、暗黙の言い訳や適当な手抜きのノウハウは、生きていく上で実はかなり重要な技術なのであって、これを部下がまったく知らないと、本人もつらいし、上司も困るのだと思う。そういう意味では、奴婢訓は逆説パロディであると同時に、本当に役立つマニュアルなのでもあるだろう。
スウィフトは当初は、真面目に召使の正しい心得を書くつもりでこの作品を書き始めたそうである。しかし、書いているうちに召使の側から、皮肉っぽく書く方が面白くなると気がついて、こういう作品になったらしい。結局は未完で終わるのだが、2世紀が経過してもなお、ここに書かれている風刺性は基本的に有効なままである。
2007年06月25日
天涯の砦
「地球と月を中継する軌道ステーション“望天”で起こった破滅的な大事故。虚空へと吹き飛ばされた残骸と月往還船“わかたけ”からなる構造体は、真空に晒された無数の死体とともに漂流を開始する。だが、隔離されたわずかな気密区画には数人の生存者がいた。空気ダクトによる声だけの接触を通して生存への道を探る彼らであったが、やがて構造体は大気圏内への突入軌道にあることが判明する…。真空という敵との絶望的な闘いの果てに、“天涯の砦”を待ち受けているものとは?期待の俊英が満を持して放つ極限の人間ドラマ。」
久々に手に汗握りながら読む作品に出会った。非常事態スペクタクルの傑作。「老ヴォールの惑星」の小川一水の長編。スピーディな展開と緊迫感。ユニークな設定の登場人物たちが、極限状況下で織りなす人間ドラマ。映像的でわかりやすい。そのままハリウッド映画にできそう。
沈没していく船からの脱出を描いた70年代のヒット映画「ポセイドン・アドベンチャー」と作風は似ている気がする。この映画も素晴らしかった。希望と絶望が交互にやってきて、葛藤する複雑な人間模様があって、パニック映画のお手本だなあと今でも思う。
これを2006年にリメイクしたのが「ポセイドン」。最新のCG技術を使って、豪華客船の沈没シーンを迫力映像で描いている。最初の10分間は見物である。
ポセイドン・アドベンチャーに興奮した人には間違いなく天涯の砦はおすすめである。海中以上に、宇宙における人間の無力感を感じさせて、ドキドキである。
・老ヴォールの惑星
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004637.html
・SF作家 小川一水のホームページ 小川遊水池
http://homepage1.nifty.com/issui/
2007年06月13日
はじめての文学 川上弘美
芥川賞選考会の委員にも就任して、現代文学の代表的作家になった川上弘美。この本は、はじめて文学と向き合う若い読者に向けた自選アンソロジー。漢字にはルビがふられており、中学生、高校生の読者を意識しているようだ。
作品の選び方は決してお子様向けではなくて、「はだかエプロン」の話もあるし、倦怠感漂う男女関係の話もある。得意とするもののけの話もある。はじめて読む大人にとっても、著者の多様な作風の作品を少しずついれているので、入門ガイドとしておすすめ。
「ためになる、とか、視野が広がる、とか、そういうことも多少はありましょうけれど、それよりもっと大きいのは、なんというかこの「隠微な快楽」の味なのです。」。あとがきのなかで著者は、想像力をめぐらせて自由に読むことこそ小説本来の楽しみ方だとすすめている。
このブログで何冊か川上弘美の作品は紹介していて、収録作品のいくつかは重なっている。二回目だった作品も、深く読むと別の味わいが感じられたりして、やはりこの作家は凄いなと再認識した。
特に書き出しがうまいことに気がついた。
「恋人が桜の木のうろに住みついてしまった」 運命の恋人
「くまにさそわれて散歩に出る。河原に行くのである」 神様
「一月一日 曇 もぐらと一緒に写真をとる」 椰子・椰子
「十四本のろうそくを、あたしは埋めた」 草の中で
いきなり短文で読者を異世界へ誘う。どういう話だろうとふらふら入っていくと、いつのまにか隠微な川上ワールドに閉じ込められて、終わるまで出られなくなる。
過去に書いた川上弘美作品の書評。
・ざらざら
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004886.html
・龍宮
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004759.html
・真鶴
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004871.html
特に真鶴がおすすめ。これを読んで以来、ずっと行きたかった真鶴へGWに行ってきました。真鶴岬は上空で風がぐるぐる回っている感じがして、不穏な空気を感じました。真鶴港の海は引き込まれそうな青緑色にひかれました。小説に感化されすぎかな。そういう雰囲気が写ったらいいなと思って、写真に撮ってきました。




2007年06月02日
宇宙のランデヴー3〈上〉〈下〉
「最初の訪問から70年をへて再度太陽系を訪れた謎の飛行物体ラーマは、それを脅威とみなした人類の核攻撃を受け、破壊されたかに見えた。しかし―ラーマは生きていた!人類の調査隊員3人をその内部に閉じこめたまま、ラーマは太陽系を離れ、どことも知れぬ目的地をめざして虚空を飛びつづける。そして深宇宙の彼方でラーマが停止したとき、そこに待ち受けていたのは、人間の想像をはるかに超えた巨大な構造物だった。」
そして”3”である。”2”の数十年後に3回目のラーマの接近があるという始まり方をするものだと、私は予想していたので、冒頭から面食らった。これは、前作で太陽系を離脱していくラーマに取り残された、あの3人の物語だったのである。
3人はラーマの内部に生存可能な環境をみつけて長い孤独な生活を始める。事実上の主役となるニコルは、そこで子供を産み家族をつくる。そしてラーマは星間飛行を終えて停止する。それは長い旅の終わりではなく、壮大な宇宙叙事詩の幕開けであった。
ここから物語はまったく新しい展開を始める。人類のラーマへの大量移住と人類社会の腐敗。地球外生命体との接触。ニコルの一族の運命は予想もつかない方向へ転がっていく。
”2”は”3”と”4”の舞台を作るためのプロローグに過ぎなかったようだ。率直に言って続編群は作品としての完成度は初作に遠く及ばない。だが、アーサー・C・クラークらの想像力の果てを確認したい熱心なファンは読まざるを得ないだろう。謎の答えが少しずつ明かされる。随所に盛り込まれる文明批判の視点を説教臭く感じるかどうかが、好き嫌いの分かれ目になりそうである。
ところで第一作のときから私はラーマの構造を視覚化できずに困っていた。巨大な円筒体の内部に関する詳細な記述はあるのだが、イラストは一枚もないため、物理的な形状を想像するのが難しかった。
ラーマの構造を絵にした人がいないかとネットで調べていたところ、ラーマ世界の全体や物語のシーンにインスパイアされて3DCGを描く人たちのサイトを発見した。ラーマの神秘的で荘厳な印象を損なわずに立体的に描写している。壁紙にしたいほどの完成度。
・Welcome to RAMA3D
http://www.rama3d.com/
・宇宙のランデヴー
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004864.html
・宇宙のランデヴー2(上)(下)
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004872.html
・宇宙のランデヴー3〈上〉〈下〉
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004873.html
2007年05月26日
宇宙のランデヴー2(上)(下)
宇宙のランデヴー 続編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004864.html
「西暦2130年、忽然と太陽系に現われた謎の飛行物体―ラーマと名づけられたこの物体は巨大な宇宙船と判明した。内部への侵入に成功した調査隊の必死の努力にもかかわらず、この異星人の構築物は人類の理解をはるかに超え、多くの謎を残したまま太陽系を去っていった。それから70年後、第2のラーマが太陽系に姿を現わしたが…名作『宇宙のランデヴー』で解明されぬまま残された謎に人類が再び挑む、ファン待望の続篇。」
アーサー・C・クラークが傑作「宇宙のランデヴー」を1973年に書いてから16年後の1989年に出版された、まさかの続編。しかも当時既にSFの権威であったクラークが、NASAジェット推進研究所主任研究員のジェントリー・リーとの共著として書いた。物語の舞台は前作から70年後、再び別のラーマが地球に接近する。今度は十分に準備を重ねた調査チームが組織され、2つめのラーマの謎に迫っていく。
ラーマを主役にして人間ドラマの要素が薄かった前作に対して、この続編では探査メンバー間の葛藤が物語の核となっている。映画を意識していたのだろうか、登場人物の性格や関係がわかりやすいのだが、深みがない。そのため、この続編の批評家たちの評価は決して高くないのだが、前作のラーマの世界観にヤられてしまった人は読まざるを得ないのである。
進化レベルがまったく異なる知的生命体が接触した場合、高次の存在は下位の存在をどうとらえるだろうか。もしかすると、人間がアリの巣をみかけても話しかけたりはしないように、高次な知的生命体も人類に敢えてコンタクトしたりはしないかもしれない。前作では人類の接触に反応せずに悠々と太陽系を通過していったラーマだったが、2回目の接触では何が起きるか、が読者の最大の関心であろう。その基本部分では満足できた。宇宙のランデヴー3も読もうと思った。
共著者ジェントリー・リーには22世紀までの未来を予想したこんな著作もある。
・22世紀から回顧する21世紀全史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000419.html
・宇宙のランデヴー
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004864.html
2007年05月16日
宇宙のランデヴー
この作品の発表は1973年で、私が和訳を文庫で読んだのはもう20年前になる。当時は読み終わったあとしばらく絶句してしまうような衝撃的な体験だったことを覚えている。そしてこの本がきっかけでSF小説を読むようになった。私にとって特別な本である。
この正月にはじめて読み返してみた。20年はこどもが生まれて成人する時間だから、結末を含めて物語の筋は忘れていた。だから、今回もまた感動してしまった。次は60歳になったら読み返そうと思う。
2130年、太陽系に直径40キロの円筒状の人工物が接近する。近くを航行する軍の宇宙船にその正体を調べる指令がくだされる。この人工物体は宇宙を100万年間もの長旅をした末に、太陽系を通過するのである。古代の神の名をとってそれはラーマと名づけられた。ラーマから人類には何のメッセージも送られてはこない。
ノートン中佐ら探査メンバーはラーマにドッキングして、未知の内部空間へと侵入していく。ラーマの軌道が太陽系を離脱するまでに残された時間はわずかである。ラーマとはいったい何なのか?、知的生命との遭遇はあるのか?、ラーマの太陽系接近の目的は?。ラーマが次々に見せる驚異は隊員たちの理解を遥かに超えて謎は一層深まっていく。
映画の原作「2001年宇宙の旅」が特に有名なアーサー・C・クラークだが、私はこの作品が一番好きだ。最高傑作だと思う。人間ドラマが描けていないという批判もあるようだが、ラーマを主役に宇宙の神秘が見事に描かれている。この作品では人間は物語の道具に過ぎないのだと思う。それでいいのだ。
「これは何なのだ」「いったいどうなってしまうんだ?」という読み手の好奇心をクラークは、ラーマの神秘を少しずつ開示することによって刺激し続ける。センス・オブ・ワンダー全開の物語。
人類が月面着陸を果たしたのは1969年である。1973年の段階で宇宙に対してここまでの想像力を発揮していた著者の頭脳も驚異である。ヒューゴー賞/ネビュラ賞ほか多数を受賞した古典。80年代になってから続編(2,3,4)も発表されている。今年の正月に再読の勢いで4まで2700ページ超を全部読んだので、近日、続編も書評をアップしたい。
The Arthur c. Clarke Foundation
http://www.clarkefoundation.org/
2007年05月10日
すばらしい新世界
「人工授精やフリーセックスによる家庭の否定、条件反射的教育で管理される階級社会---かくてバラ色の陶酔に包まれ、とどまるところを知らぬ機械文明の発達が行きついた”すばらしい新世界”!人間が自らの尊厳を見失うその恐るべき逆ユートピアの姿を、諧謔と皮肉の文体でリアルに描いた文明論的SF小説」
オルダス・ハックスリーによる1932年発表の作品だが、その機械文明風刺の矛先は、科学が進んだ21世紀において一層、、鋭く時代に突き刺さっているように思える。作品中の”すばらしい”新世界では、人々は人工孵化で生まれて、与えられた階級の役割を果たすように条件付けされる。心が生まれながらに統制されているから、住人達は現在に不満も疑いも持つことがない。
「万人は万人のもの」という思想が徹底され、特定のだれかを愛することは恥ずかしいこと、結婚して子供を産むなんて野蛮なことと皆が信じている。社会構造の全般的理解は必要悪で最低限にとどめておくべきという倫理感が浸透しているから、階級間の闘争もなく、社会は安定している。たまに嫌なことがあったら薬物を使って即座に解消することが推奨される。こうして人々は完璧に設計された社会の一部になりきることで、幸福な人生を生きている。
新世界に紛れ込んでしまった「野蛮で未開の」男がトリックスターとして騒動を巻き起こし、この「逆ユートピア」の愚かさ、滑稽さが描き出されていく。しかし、新世界は、実は私たちの作っている現実世界の逆像なのであり、その笑いは読者の信じている価値観や道徳の基盤をも相対化していく。
この作品冒頭にこんな一文が掲げられている。
「ユートピアはかつて人が思ったよりもはるかに実現可能であるように思われる。そしてわれわれは、全く別な意味でわれわれを不安にさせる一つの問題の前に実際に立っている。「ユートピアの窮極的な実現をいかにして避くべきか」......ユートピアは実現可能である。生活はユートピアに向かって進んでいる。そしておそらく、知識人や教養ある階級がユートピアを避け、より完全ではないがより自由な、非ユートピア的社会へ還るためのさまざまの手段を夢想する、そういう新しい世紀が始るであろう。 ニコラ・ベルジャアエフ」
「より完全ではないがより自由な」。いい考え方ですね。
2007年04月23日
紗央里ちゃんの家
第13回ホラー小説大賞 長編賞受賞作
「叔母からの突然の電話で、祖母が風邪をこじらせて死んだと知らされた。小学五年生の僕と父親を家に招き入れた叔母の腕もエプロンも真っ赤に染まり、変な臭いが充満していて、叔母夫婦に対する疑念は高まるけれど、急にいなくなったという従姉の紗央里ちゃんのことも、何を訊いてもはぐらかされるばかり。洗面所の床から、ひからびた指の欠片を見つけた僕は、こっそり捜索をはじめるが…。第13回日本ホラー小説大賞長編賞受賞作。 」
お化けや猟奇殺人は怖いが、それよりも、確固としたものだと信じていた現実が壊れていくことが一番怖い。そういう壊れ感が絶妙な、完成度の高いホラー小説。分類としては「独白するユニバーサルメルカトル」「姉飼」と同じ方向性といえそう。猟奇趣味だが、それだけには終わらない。
映像が全盛の時代にあって難しいはずなのに、近年のホラー小説はかなり健闘していると思う。ホラー映画やテレビの映像が、読者の想像力のライブラリを充実させているからなのではないかと、ふと思った。小説を読んで、脳内映像化する際に、過去に実際に観た映像を参考にするからである。
好きな和製ホラー映画


































































