2008年03月25日
図説「最悪」の仕事の歴史
「世界最悪の仕事は何か」をテーマにヨーロッパ(主に英国中心)の歴史を振り返って、ワースト1を決めるという趣旨の本。そこでローマ時代、中世、チューダー王朝時代、スチュアート王朝時代、ジョージ王朝時代、ヴィクトリア王朝時代という区分で、最悪職業のノミネートが行われる。最終章で発表される史上最悪の仕事とは?
登場する職業は、金鉱夫、写本装飾師、沼地の鉄収集人、コイン奴隷、ウミガラスの卵採り、治療床屋、亜麻の浸水職人、財務府大記録の転記者、焼き串少年、御便器番、爆破火具師助手、シラミとり、疫病埋葬人、浴場ガイド、絵画モデル、船医助手、ネズミ捕り師、骨拾い、など約70種類。名前からは仕事の中身がわかりにくいが、どれも身の毛もよだつような作業や労働環境が含まれる。
たとえばローマ時代の最悪候補が「反吐収集人」である。ローマ人たちは享楽におぼれ、たくさん食べるために、食べては吐きを繰り返したらしい。セネカの著作にはこんな記述があるそうだ。「われわれが宴会で寝椅子に寄り掛かっているときでさえも、或る奴隷は客の反吐を拭き取ったり、或る奴隷は長椅子の下に身を屈めて、泥酔した客の残したものを集めます。」。
チューダー王朝時代の最悪候補はヘンリー8世のお尻を拭く「御便器番」。スチュアート王朝時代の最悪候補はガマの油売りの英国版「ヒキガエル喰い」。薬の万能さをデモンストレーションするために観衆の前でヒキガエルを丸呑みしたという。
この本に出てくる仕事は多くが現在の「3K(きつい、汚い、危険)」どころではない大変そうな仕事ばかりだ。全体の総括として共通する要素として以下の5つがあげられていた。3Kに低収入と退屈が加わっているわけだ。
1 体力が必要なこと
2 汚れ仕事であること
3 低収入であること
4 危険であること
5 退屈であること
もともとこの本は英国のテレビ番組をベースにしている。番組では実際にその職業を体験してみて、昔の人たちの厳しい労働の実態や、社会のゆがみなどを考えさせるという教育的趣旨で構成されている。
・The worst jobs in history
http://www.channel4.com/history/microsites/W/worstjobs/
番組の公式サイト
この本を読むと、そんな時代に生まれなくてよかったと思うだけでなく、社会における職業について考えさせられる。誰かがやらねばならない辛い仕事というのはどの時代にも存在している。社会には上水道と同時に下水道が必要である。
仕事の中身の最悪度だって主観的なものでもある。たとえば、人間を手術や解剖する医者の仕事は見方によっては身の毛もよだつ仕事だ。弁護士は犯罪者や事件事故ばかりを相手にするやばい仕事である。人々から尊敬され、高収入だから、それらは3K仕事には決してならない。
結局のところ、やりがいがあるかどうか、ということが最高と最悪を決める本当の要素ということになるのじゃないか、というのが私の結論であった。
2008年03月06日
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか
斬新な切り口でまっとうな歴史哲学を語る本。
著者の調べによると日本全国で1965年ごろを境に、キツネにばかされたという話が発生しなくなったのだという。本当にキツネが人を化かしていたのか、その話をみんなが信じていたのか、という問題はともかく、そのような話が出なくなったことは歴史的な事実である。
高度経済成長に伴う変化の中で、日本人は知性でとらえられるものを重視するようになった。同時に知性によってとらえられないものはつかめなくなったということでもある。
この本でとても気になった一節がある。かつての村社会における情報流通についての説明である。
「人間を介して情報が伝えられている間は、情報の伝達には時間が必要だった。大事な情報は急いで伝えられただろうが、さほど急がなくてもよい日常世界の情報は、何かの折に伝えられる。ところがその情報は重要ではないのかといえば、村ではそうでもない。なぜならそれらをとおして村人どうしの意思疎通がはかられ、ときにそれが村人の合意形成に役割をはたしていくからである。
もうひとつ、人から人に伝えられていく情報には次のような面もあった。人から人に伝達される以上、そこには脚色が伴われる、ということである。その過程で話が大きくなっていくことも、一部分が強調されることもある。だから聞き手は、話を聞きながらも、その話のなかにある事実らしい部分を自分で探りあてながら聞いていく。すなわち、聞き手が読み取るという行為が伴われてこそ情報だったのである。主観と客観の間で情報が伝えられる以上、それは当然のことであった。」
インターネット時代のコミュニケーションで失われているのがまさにこの
・何かの折に伝えられる情報が重要な共同体
・伝達過程で脚色が加えられ話が大きくなっていくコミュニケーション
ではないだろうかと考えた。
情報流通の効率化、最適化によって、情報を瞬時に正確に伝達できるようになったかわりに、キツネに化かされるような物語だとか、そういう話にリアリティを感じる心を失ってしまったということでもある。死者や動物や自然と対話する能力=キツネにだまされる能力の喪失である。
そのような社会変化の背景には、高度経済成長という「国民の歴史」があった。国民の歴史は宿命的に発展の歴史として描かれると著者は指摘する。「それは簡単な方法で達成される。現在の価値基準で過去を描けばよいのである。たとえば現在の社会には経済力、経済の発展という価値基準がある。この基準にしたがって過去を描けば、過去は経済力が低位な社会であり、停滞した社会としてとらえられる。」
それを経済力を科学技術、人権や市民社会という基準でおきかえてもおなじこと。私たちは遅れた社会から進んだ社会へと進歩発展してきたという物語を信じている。キツネや死者と対話する世界は取り残されて崩壊していった。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という問題に対する答えを探す旅は、いつのまにか進歩史観的な歴史認識に大きな疑問符をつきつけて終わる。この本のタイトルと構成に、ちょっと化かされた気がしないでもないのだが、現代人に見えていないものを可視化する内容でたいへん勉強になった。
2008年02月12日
タテ社会の人間関係 ― 単一社会の理論
1967年から版を重ねて110万部突破のロングセラー。日本のタテ社会とは何かを分析している。タテ社会というのは「伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力さには注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が非常に根強く存在している。」というように、みんなが平等という前提で、できてきた社会だという。そして誰でも上へ行く道が開かれている。
「どんな社会でも、すべての人が上に行くということは不可能だ。そして社会には、大学を出た人が必要であると同様に、中学校卒の人も必要なのだ。しかし、日本の「タテ」の上向きの運動の激しい社会では「下積み」という言葉に含まれているように、下層にとどまるということは、非常に心理的な負担となる。なぜならば、上へのルートがあるだけに、下にいるということは、競争に負けた者、あるいは没落者であるという含みがはいってくるからである。」。
しかし、この日本の伝統的タテ社会は、能力評価による競争が行われているわけではない。必ずしも仕事ができるからといって認められて出世するわけではないのだ。「論理より感情が優先し、それが社会的機能をもっていること」が特徴であると著者は指摘する。
「他の国であったならば、その道の専門家としては一顧だにされないような、能力のない(あるいは能力の衰えた)年長者が、その道の権威と称され、肩書をもって脚光を浴びている姿は日本社会ならではの光景である。しかし、この老人天国は、決して日本人の敬老精神から出てくるものではない。それは、彼がその下にどれほどの子分をもっているか、そして、どのような有能な子分をもっているか、という組織の社会的実力(個人の能力ではない)からくるものである。」
なんと痛快なタテ社会批評!
・「おしゃべりな人」が得をする おべっか・お世辞の人間学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001413.html
・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html
2008年01月24日
合コンの社会学
「合コンは、様ざまな力学が錯綜する磁場だ。その「確実性」も「偶然性」も、「自由」も疑いだせばきりがない。誰もがうっすらと気づき始めている。けれど誰もはっきりとは言語化してはこなかったそれらのことを、一度立ち止まって考えるときがきている。」
若手の社会学者二人が合コンについて研究した本。
「現代の私たちは、この合コンという奇妙な装置のおかげで、きわめて直接的なお見合いとも、無味乾燥な職場結婚とも違う、ドラマティックな出逢いを手に入れた。と同時に、あいまいな着地点を目指して戦い続けなければならなくなった。「偶然」や「突然」にこだわるがために、今では、理想それ自体がぼやけてしまっている。」
異性を身長や容姿、職業や年収で選ぶのはあさましいから、「つきあってる人がいるとかいないとか、結婚したいとか子どもがほしいとか、年収がいくらとか将来の計画とか、そんなことは気にしていないふりをする。出会うために来たんじゃないふりをする。ただの飲み会を装う。」。これは合コンじゃないフリをするのが合コンのプロトコルなのだと著者らは指摘している。
ところで、この合コンという言葉はその意味が時代によって変化してきている。Wikipediaの「コンパ」に合コンに関する記述もあって以下のような内容がみつかる。何が「合同」なのかはじめて知った。そういうことなのか。
・ 合同コンパ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91
「現在一般的にコンパという名称で思い浮べられることが多いのは合コン(合同コンパ)である。これは主として男女の出会いを求めるために行われるコンパで、女子の大学進学率が急激に上昇し始める1970、1980年代ごろから盛んになり、その後学生どうしにかぎらず広汎に行われるようになった。合同コンパという名称は、男子のコンパと女子のコンパを合同で開催するというところに基づいている。また、男女合同で行楽地などに出かけることを合ハイ(合同ハイキング)と呼んでいたが、現在ではほとんど死語となっている。」
私が大学生だった頃はまだ合コンは学生のものというノリだったような気がする。それがいまや婚期を逃しそうな息子や娘に親が「合コン」にでもいってこいと勧めるくらい一般的な男女の出会いの形式になるまでの変遷も分析されている。合コンの研究は80年代から現在までの同時代的な男女交際の歴史でもあった。
著者らの研究もおもしろかったが、これ深いなと感動したのは、調査対象の合コン参加者の次のような意見。そうそう、若い頃はばかでモテないというのは多くの男にありがちな真理だと思った。
「若い頃はばかだったから、自分の話ばっかりしてた。でも今はいっさいしない。聞き役に徹する。こんだけ稼いでて、こんだけ仕事ができて、こんな車に乗っててスポーツもやってて、なんて言われて『すごいねー』なんて言う女はめったにいないから。女の子の悩みをひたすら聞いてあげる」(男性・三十代・会社員)」
2007年11月12日
反転―闇社会の守護神と呼ばれて
苦学して成った特捜の検事から、政財界と裏社会の守護神弁護士への転身、自家用ヘリ(7億円)で故郷へ凱旋し湯水のごとくカネをばらまいたバブル時代の華麗な生活、そして裏社会との濃すぎるつながりは古巣の特捜部ににらまれ、逮捕と実刑判決をくらう。著者の体験した劇的な反転人生を語った自伝。
古巣の体制の腐敗を暴露し日本社会の闇を暴く内容として、佐藤優の名著「国家の罠」に匹敵する大傑作である。
依頼人や交友関係として出てくる人物の名前が凄い。許永中、中岡信栄、末野謙一、卓見勝、阿部新太郎、佐川清、伊藤寿永光、竹下登、阿部新太郎、高橋治則、小谷光浩、渡辺芳則、山口敏夫.......。あの筋、この筋よくここまでつながったものだと関心するが著者いわく「この国は、エスタブリッシュメントとアウトローの双方が見えない部分で絡み合い、動いている」から、こうなったそうである。
権力ににらまれて詐欺罪で立件されての転落は、ポリシーをもって仕事をしてきた結果であると一貫して主張している。弁護士は犯罪者の弁護をすることが仕事であり、自身にやましい部分はないといって現在も上告中である。かつて佐藤優は自分の逮捕は国策捜査だと反論したが、検事出身の著者はこう達観している。
「最近、「国策捜査」という検察批判がよくなされるが、そもそも基本的に検察の捜査方針はすべて国策によるものである。換言すれば、現体制との混乱を避け、ときの権力構造を維持するための捜査ともいえる。だから平和相銀事件や三菱重工CB事件のような中途半端な結末に終わることが多い。本格的に捜査に突入すれば、自民党政権や中曽根派が崩壊したり、日本のトップ企業である三菱重工が傷を負う恐れのあるような事件は、極端に嫌う」。
そこで表も裏もないパワーゲームの世界では中途半端な悪はつぶされるが、勝ち組権力と結びついた巨悪は栄えるという現実を見ることになる。著者はこのゲームに負けた敗軍の将という立場で読者に語りかけている。
検察エリート街道の華々しさ、闇に暗躍したフィクサーたちの素顔、バブル紳士たちの豪遊ぶり、裏社会のトップたちの壮絶な生き様など、まず普通の人生を歩んでいる限りでは、知ることがない世界を生々しい記述で読むことができるのが魅力である。文章もうまいので文字通り私にとって徹夜本になってしまった。
「国家の罠」のファンには特におすすめである。
・国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004269.html
2007年11月07日
ステータス症候群―社会格差という病
これは抜群に面白い社会学研究。
世界中で社会格差と人々の健康には明らかな相関があることがデータで示されている。貧しい階層よりもお金持ちの階層のほうが病気をせずに長生きする。両極の中間層では階層があがるにつれて確実に健康状態がよくなっていく勾配が見られる。さらに学歴や社会的地位や身長で人々を比べてもほぼ同様の結果になる。高いほど健康なのだ。これがステータス症候群である。
なぜ社会格差は健康格差につながるのかがこの本のテーマである。
所得と健康の関係は一見、当たり前のようにみえる。健康ならば働けるので高所得になりやすい。お金があればよい生活ができて医者にもかかれるから、なおさら健康になる。逆に不健康ならば働くことができず、一層貧しくなる。医者にもかかれないから健康は悪化する。そういうことなのではないか?。実は問題はそう簡単ではなかった。
著者は長年にわたってステータス症候群を研究してきた第一人者。20年に及ぶ英国公務員を対象とする「ホワイトホール研究」などの実績で知られる英国政府のアドバイザ。公務員はヒエラルキーが明確なので分析しやすい対象なのだ。そこで明らかにされた健康格差はシビアなものだった。40-64歳の男性では、職場の階層構造の底辺にいる人は、同じ階層のトップにいる人の4倍も死亡率が高かった。
だがこれは英国の公務員だけの話ではないのだ。私たちの社会の、おどろくほど広範にわたって、階層が上の人と下の人では死亡率がちがうことを示す事例が多数紹介されている。階層が上の人ほど明らかに長生きでき、下の人は癌や心臓病で死にやすいという、厳しい現実が隠れていた。
国際比較をしてみると米国の平均寿命はイスラエル、ギリシア、マルタ、ニュージーランドよりも短い。平均所得では米国はそれらの国よりもずっと上にあるにもかかわらずだ。よく考えてみると、普通の生活ができる以上の所得増が、必ずしも健康改善に直結するとは思えない。すべての階層でまっすぐ上昇する健康度の勾配の原因は、所得の絶対額が問題ではないことがわかる。
著者は科学的な調査の結果、社会階層における相対的地位が健康にとって最も重要な要素であるという事実を発見する。相対的な社会的地位は、自尊心や幸福感に強く影響し、ストレスの量も左右する。「自分自身の人生全般をコントロールできるという意味での自律性があることと、有意義な社会参加への機会があること」が、健康に顕著な影響を与えていると結論する。その改善に必要な施策も提言している。
めずらしく意味のある格差を扱った本と出会った。読み応えたっぷりの内容。
2007年09月18日
「関係の空気」 「場の空気」
「何ごともその場の空気によって決まる、というのは良いことではない。だが、その場の空気が濃くなればそれに対抗するのは難しいし何よりも損だろう」
日本には少子高齢化問題、年金問題、消費税率、若年層の雇用問題など多数の論点があるのに、激しい対立も現実的な妥協もなく、雰囲気で何となく政策が決まっていく。家庭や会社、2ちゃんねるのような仮想空間でも似たような状況は起きている。場の空気という妖怪に、日本の社会は支配されているのだと著者は指摘する。
「明らかな対立があるのに歩み寄れない。いやその前に対立そのものを浮き彫りにすることもできない。明らかに傷ついている人がいるのに、慰めることができない。気まずい雰囲気が濃くなっているのに、その場を救う言葉が出ない。世代が違うだけで、全く共有言語がない。」などの日本語の窒息が、そこかしこで起きていると問題提起する。
同質性が高い社会であるが故に、前提の確認を省略したり、論理よりも共感を重要視するコミュニケーションスタイルに、空気の妖怪は潜んでいるようである。このなあなあ文化は、時に全体主義的な同調にもつながるし、高度成長の原動力にもなった諸刃の剣であると思う。
ただし、そのネガティブ面だけでなく、西郷隆盛の腹芸交渉術を例に出して、空気コミュニケーションを肯定的にとらえる考え方も紹介されている。
「だが、そのような問題はあるにしても、個別の一対一の会話においては、日本語は「関係の空気」を利用することでコミュニケーションの質を高めてきたのは事実である。空気を使って情報の効率を高めてきたのも事実なら、空気を使って、濃密な情感を表現したり、抽象度の高い価値観の共有を確認してきたのである。」
論理的で明快にペラペラしゃべるリーダーよりも、じっと議論を見守り含蓄のある一言で意思統一をするようなリーダーが日本では人望を集めてきた。マネジメントの効用を考えても、空気の活用は合理的なはずである。
2ちゃんねるのような勝手匿名コミュニティでは、そもそも空気しか通用しないだろう。不特定多数の全員を論破して回るわけにはいかないからだ。だから、スレの住人たちの心に刺さる短い書き込みで、スレの空気を変えて誘導するような技術が、これから一層重要になるのではないかと思う。
場の空気の良い面も悪い面も分析している面白い本。
2007年07月04日
中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差―
著者は「全国童貞連合」会長。連合のサイトで顔出ししている、おそらく日本一有名な童貞男、渡部伸、執筆時34歳。「少子化問題は童貞問題である」という問題意識の本。童貞についての人口統計、切実な自身の体験談、連合会員の童貞たちの様々な考え方、フェルディナント・ヤマグチ、室井佑月らとの座談会など、もりだくさんの内容。
・全国童貞連合
http://www.cherrybb.jp/
日本家族計画協会の調べによると、25〜29歳の17.1%、30〜34歳の6.3%、35〜39歳の5.1%、40〜44歳の7.9%は「セックス経験がない」そうである。”無回答”も経験がないと考えると、40〜44歳の1割強が童貞だと予測できると著者は分析している。
こんな調査も紹介されていた。
・国立社会保障・人口問題研究所 結婚と出産に関する全国調査
http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou13_s/Nfs13doukou_s.pdf

処女を見てみると、18歳〜19歳の、「性体験のない女性」は1987年の81.0%から、2005年には62.5%に減少しており、「高校を卒業するころには、10人に4人はセックスをしている」そうである。処女率はこの15年で、20〜24歳で64.4%→36.3%、25〜29歳で53.6%→25.1%に急激に下がっているらしい。(20代後半で4分の1が処女というこの数字は妙に高い気がするが。)
著者は、さらに各種調査データを引用して、モテる男とモテない男の二極化が進み、モテる男が女性を独占しているという現実があるのだと結論している。この恋愛格差の拡大によって、モテないものは一層モテなくなる。そうした弱者が40代で1割もいる状況はマズいのじゃないか、改善しよう、声をあげようというのが著者の意見である。
童貞連合会員の、他の中年童貞たちの意見は、必ずしも著者と同じではなく、中には恋愛は無理と諦めている保守派や、性欲をなくそうと女性ホルモンを使った解脱派もいる。生々しい意見が飛び交い、現代の中年童貞の実態が浮かび上がってくる。
うーん。
童貞連合を企画し書籍に意見をまとめられる著者は十分に魅力的で、モテておかしくないと私は思うし、好きで童貞を続けている面があるように感じた。だからこの本の主張は、どう受け止めるべきなのか、よくわからない。これって本当に一般的で深刻な社会問題なのだろうか?。ネタなのだろうか。なんにせよ、やっぱり個人の問題でしかない気がするのだが。
文章は読みやすく、面白くて本としてかなり面白い新書である。最近はこういう映画も話題になったが、中年童貞って世界的に流行なのだろうか。歴史的にみると童貞=硬派=カコイイ時代もあったわけで、童貞や処女というのはいつの時代も注目される稀少性なのだよなあ。
2007年06月07日
私たちはどうつながっているのか ネットワークの科学を応用する
・私たちはどうつながっているのか ネットワークの科学を応用する

人脈ネットワークの研究成果を一般向けにわかりやすくまとめた入門書。
ネットワークの研究によって、一般的な人脈は、(1)スモールワールド(世界中の人間は結構少ない人数(6人とか)で全員がつながっている)、(2)スケールフリー(知り合いの数は人にだいぶよって違い、少ない数のハブ型人間に集中している)という二つの特性を持つことがわかってきた。これはミクシイなどを使っていて、研究者でなくても、実感できるようになったと思う。
では、そうしたネットワークはどんな風に生成されるのだろうか、ハブ型人間になる方法とは、現実社会の人脈作りに活かす教訓は何か?。図をたくさん使った理論の概説と、現実の人間関係の考察がこの本の内容である。
たとえばこんな理論が解説されている。
・弱い紐帯の理論
いつもはあまり密接につながっていない知人を通して、有用な情報がもたらされるという理論。異なる環境にいて、異なる価値観を持ち、関係も深くはない友人知人が、普段と違った貴重な情報や関係接点をもたらす。
・構造的空隙の理論
今まで縁のなかったコミュニティ同士をつなぐ「重複のないコンタクト」のこと。知人のクラスタ間を結びつける人は、知人の数が少なくても、ネットワーク構造上で重要な役割を果たす。
・信頼の解き放ちの理論
赤の他人を信頼できるかどうか(一般的信頼)の度合いが高い社会では、離れたコミュニティにいる者同士が、近道を作って情報交換をすることが容易になる。内輪びいきの安心を大切にする日本より、初対面の相手を見極めつつ信頼するアメリカの方が、人間同士の距離を短く詰めやすい。
・BAモデルの理論
新たな構成員が増え続けて成長していくネットワークのモデルの一つ。人は強いものに魅かれやすい。「この人は有力だからつながっていこう」という心理によって、新規参加者は既に知り合いの多い人を優先選択する。その結果、少数のハブ型人間が一層影響力を強めて、スケールフリーの性質を強くしていく。
ネットワークの研究はどうしてもハブにばかり目が行きがちだが、ネットワーク内のクラスター(少ない人数の密なコミュニティ、数人の仲良し)の重要性について著者は強調している。クラスターは安心を提供すると同時に柔軟性をネットワークに与える。
全員がハブ型人間を目指して、知り合いの数を重複なく効率的に増やしていくと「共通の知人が少ない」ために変化に弱いネットワークになりかねない。会社でいえば「意思疎通がうまくいかない」「人が抜けたら控えがいない」という状況になってしまう。お互いが心配しあうような少人数の仲良し関係は、個人の心の生活を豊かにするだけでなく、ネットワークの頑健性を高めるものにもなる。
うまくいっている会社には、楽しい社外サークルや飲み会グループがあるものだが、小さなコミュニティ活動が、会社がうまくいっていることの理由である可能性もあるのだな、と思った。
そして、ハブ型人間になるには、能力(人は強いものに魅かれる)、先住(早いうちにネットワークに入ること)、運(ネットワーク形成をやり直したらとハブは今とは別の人かもしれない)の3要素が重要だそうである。
能力と運はともかく先住性は取り組みやすい。先住性は自分でネットワークを立ち上げれば一番目の住人になれる。インターネット上ならコミュニティの立ち上げは容易だ。ただし、外向きの矢印を増やすハブ型人間は、たくさん張った枝の維持コストも半端ではないから気をつけないといけないというアドバイスも書かれてあった。
むやみに人間関係を拡大しようと必死な人は、アテンションは集められても、レスペクトが集まらないのではないかと感じる。人間関係の数と方向性の他に、関係の質というものがあると思う。まだまだこの分野は研究の可能性がたくさんありそう。
・つながりの科学―パーコレーション
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000406.html
・人脈作りの科学―「人と人との関係」に隠された力を探る
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002338.html
2007年05月29日
格差が遺伝する! ~子どもの下流化を防ぐには~
子どもの成績のよしあしは何によって決まるのか?。小学校2〜6年の子どもを持つ母親1443人を対象にしたアンケート結果で、成績の良い子どもの家庭には、次のような条件がそろっていたそうである。
・父親の所得が高い
・母親の結婚前の所得が高い
・父親、母親、祖父の学歴が高い
・母親が料理をするのが好きである
・父親が土日休みである
つまり、高所得高学歴で余裕のある家には、生活の質の高さがあり、それが意欲の高さにつながり、成績の高さにつながる。成績が良い子の家の父母は、てきぱきと仕事をしたり、将来設計をきちんと考える、前向きの傾向があるそうだ。
子ども自身の性格面でも、
・成績のよい子の方が明るく、がんばりやで、スポーツ好き
・成績の悪い子は消極的で、だらしなく、友だちが少ない
という特徴があるという結果になっている。同時に、性格が明るいから成績が良いのではなくて、成績が良いから明るい性格になるという、因果関係も取りあげられている。そうして身につけた社会的に好ましい性格は、子ども自身の将来の成功につながりやすいだろう。
このアンケート調査は、この本ではその全貌が示されていないので、どこまで正しいものなのか分からない部分もあるのだが、質問項目や結果分析が週刊誌の見出し風でわかりやすい。格差間の大きな差異、おおまかな特徴はとらえているようだ。
その他にもこんなデータも明かされる。
・成績「上」の子どもがいる家庭の15%が日本経済新聞を購読している
・成績の良い子の母親は昼寝より読書が習慣の「がんばる派」
・英語への取り組みは成績とはあまり関係ない
・下流的な若者ほど白いご飯を食べている人が少ない(母親が料理好き)
・成績「上」の子どもの母親に「プレジデント・ファミリー」読者が多い
そして母親を、のび太ママ、スネ夫ママ、ジャイアン母ちゃん、しずかちゃんママに4分類する。「しっかりした性格で成績もよい」しずかちゃんママの子どもが成績が最も良いという。各母親の行動パターンが解説されている。
「下流社会」という流行言葉をつくった著者の新作。この本の読者層(子どもの親)にとって、気になる見出しが満載である。「下流」が話題になっても社会闘争のようにならないのは、その主な関心層が、中流以上に属していると感じている層なのではあるまいか。
日本の格差は世界の格差と比較したら小さい。高級車が走る道端で生き倒れの死体が転がっているような格差ではない。その流動性が低くなってきたのが日本の未来に影を落としているという点が問題なのだと思う。
この調査は初期条件(親の年収や学歴や行動パターン)による格差の固定を裏付ける趣旨だったが、逆に、初期条件が悪かったのに、格差を乗り越えたグループを調べてみたらどうだろうか。将来への希望とビジョンが見えてくる気がする。
ところで調査結果の中に「成績の良い子は勉強時間が長い」「成績の悪い子は勉強時間が短い」というデータがあった。いろいろな因果関係が分析されていて、この項目はあっさりとしか扱われなかったが、結局、本質は、勉強する時間の量なのではないのかなあと個人的には思った。
2007年04月17日
裁判官の爆笑お言葉集
裁判の傍聴をライフワークにする著者が書いた、本当にあった裁判官のお言葉と解説。裁判官という、真面目で仏頂面のイメージが崩れ去っていく。面白い。
たとえば有名な話では、「この前から聞いてると、あなた切迫感ないんですよ」と姉歯被告は裁判官に怒られた。
裁判には、裁判官が説諭、付言、所感、傍論などの個人的見解を述べる部分があり、そこに人間性あふれる名言、迷言、失言、暴言が飛び出すことがある。著者はたくさんの裁判を傍聴し、そうした発言ばかりを収集して、文脈つきで紹介している。
「死刑はやむを得ないが、私としては、君には出来るだけ長く生きてもらいたい。」
「二人して、どこを探しても見つからなかった青い鳥を身近に探すべく、じっくり腰をすえて真剣に話し合うよう、離婚の請求を棄却する次第である。」
「暴力団にとっては、石ころを投げたぐらいのことかもしれませんが、人の家に銃弾を撃ち込むと相当、罪が重くなるわけです。」
「変態を通り越して、ど変態だ。」
など、裁判官らしからぬ私的な感情が混じった「お言葉」がある。
データとして、面白いお言葉を連発する裁判官の名前も記載があるので、裁判ウォッチャーの参考にもなる。
そういえば、ホリエモンの裁判について、面白いニュース記事を思い出した。
http://www.asahi.com/special/060116/TKY200703160146.html
『
小坂裁判長は判決理由読み上げ後、堀江前社長に向かい、東京地裁に送られてき
た、ハンディキャップのある子どもを持つ母親からの手紙を紹介し始めた。
「大きな夢を持ち、会社を起こし、上場企業までにした被告に対し、あこがれに似
た感情を抱いて働く力をもらった。ためたお金でライブドア株を購入して今でも持ち
続けている」。手紙にはそう書かれていたという。
小坂裁判長は「被告のこれまですべての生き方を否定されたわけではない。この子
のように勇気づけられた多くの人がいる。罪を償い、その能力を生かし、再出発を期
待している」と諭した。堀江前社長はそれを聞きながら、何度も深くうなずいてい
た。
』
これなどは、思いつきの行動ではなくて、あらかじめ手紙を準備した演出である。これで本当にホリエモンに対して説諭効果があるのか、裁判官がやりたかっただけなんとちがうか、とか思うわけだが、それがこうして報道されると、ニュースのドラマ性が高まって、注目が集まるのは確かだ。
この本を読んで、裁判って一度も傍聴したことがないのだが、一度、見てみたくなった。
2007年04月09日
郊外の社会学
都市でも田舎でもなくて郊外こそ、テーマにすべきなのではないかと郊外居住者として思ってきた。珠玉混交のネットの集合知を信頼できるものに変える仕掛けとして、地域コミュニティの信頼ネットワークというソーシャルキャピタルがこれから重要になってくると考えている。
それにはおそらく二つの世代が深く関係してくる。ひとつは私の属する30代の世代。郊外に居住して子供もできて、生活環境としても教育環境としても地域コミュニティを無視できなくなったインターネット第一世代。そして、会社を退職して地域の人になる60代の団塊の世代である。
この二つの世代の多くが都心でもなく田舎でもなく、郊外に多くが居住しているはずなのである。その割に郊外の生活の質や内容が政治や社会の論点として取り上げられることが少ないなあと思う。
私が子供時代から住む神奈川県藤沢市には秋に大規模な「市民まつり」がある。「世界最大の金魚すくい」なるイベントが10年くらい前に発案されて人気を呼び、ギネスブックに登録されて話題になっている。一方で伝統的な地元の寺社の祭りもある。これは新興住宅地としての新住民や商工会主体の人工的なコミュニティと、伝統的地元コミュニティによるふたつの祭りである。
郊外のふたつの祭りを通した著者の関わり方に自分の姿がそのまま重なる。
「こうした「新しい祭り」に対する違和感は、旧来の地域の伝統のなかにこそ、「祭り」という名に値するものがあるという感覚に由来する。私もまた石原と同じく、団地やマンション、町内会が主催する「祭り」の神も闇も存在しない白々しさには「嘘っぽさ」を感じる方だ。だがしかし、神と闇のある祭りを「本物」だと感じるからといって、私は地元の神社の氏子ではないので神輿を担いだりして参加することはなく、夜店の間をそぞろ歩き、信心もなしに賽銭箱に小銭を投げ込んだりして、祭り気分を味わうにとどまっている。」
新しい祭りの白々しさ、つくりもの臭さは、不動産デベロッパーの開発した新興地区の「○○台」「○○夕が丘」式ネーミングや「ショートケーキハウス」のような家のデザインにも通じる。郊外のつくりものっぽさは近年の大型ショッピングモールの進出によって加速しているように思える。だが、それが新しい地域文化を作り上げていることも認めざるを得ない。
「こうして郊外という場所と社会が私たちの生きる日常の分厚い膨らみとなるにつれ、「郊外の神話」は地域という構造のなかで年々繰り返される”制度化された祝祭”になっていったのだ」
つくりものっぽさの背景にあるのは、人間関係の希薄さである。良くも悪くもつながらざるを得なかった伝統的コミュニティの人間関係と違って、新しい祭りは希望者の自由参加を主体とする。ショートケーキハウスのクリスマス・イルミネーション現象も個々の家が自分の家だけをデコレーションする。この本ではそうした個々の表現の集まりを「集列体」と呼んでいる。
郊外は都市に従属している。郊外の住民の多くは日中は都市部へ通勤している。地域共同体といっても決して地域を共有しているわけではなく、都市への移動を共有する「共移体」というのが現在の郊外コミュニティの本質なのだと著者は結論している。
集列体、共移体は、地域の濃い人間関係を持たないから、地域を超えたメディアや大衆消費文化の影響を受けて文化が形成されていく。つくりものっぽさ、白々しさはマスメディアとの距離感に由来するものなわけだ。
つくりものは時間の経過で本物になるのか、いつまでたっても偽物のままなのか。全国各地に、地域性が消去された、金太郎飴のような同質の郊外文化が量産されていくのか。ニュータウンという「立場なき場所」の立場がどう定まるかというのは、郊外住民の生活の質に大きな影響を与える日本の、結構大きな論点であると思う。
郊外に住む著者の本音と社会学のキーワードとの紐づけが勉強になる本だ。
2007年02月18日
ウェブが創る新しい郷土 ~地域情報化のすすめ
「地域情報化 認識と設計」の共著者であり、シンクタンク出身で地域情報化のエキスパートである丸田一氏がWeb2.0と地域情報化の接点にスポットライトをあてる。
近年の地域活性化の大きなトピックが「こどもの安全」と「2007年問題」(団塊の世代の引退)であるそうだ。こどもを守るには地域コミュニティによる監視と協力が不可欠であるし、会社を引退して家に居る高齢者が増えることも間違いない。人は人生の最初と最後で地域に戻ってくるわけだ。
長い間、多くの日本人にとって地域を出て、地域へ戻ることは典型的な人生のモデルであった。
「郷土は、自分を育てあげてくれたたくさんの人の顔や、生活環境、自然風土に関する実態的な記憶で構成されたイメージである。「故郷」が書かれた大正時代と、私の幼少期の昭和40年代とでは社会環境が大きく異なるが、幼い自分に関する個人イメージが郷土を形づくっていることに変わりない。
「故郷」の三番に「こころざしを果たして、いつの日にか帰らん」という一節が登場する。この故郷に帰るという心情は、洋の東西を問わず、故郷を捨てて「都市」を目指した近代人に付きまとってきたものである。ここに現れている、郷土(出現)→都市(突破)→郷土(成熟)という人生ゲームが広く一般化したことで、人生ゲームの始めと終わりを飾る郷土が、都市に彷徨える現代人にとって確実な自己証明書になってきた。」
ところが現代の若い世代の多くは「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」のイメージを持たない。リアル郷土のイメージが希薄な世代である。錦を飾る郷土が見えにくくなってしまっていた。
そこへ、こどもの安全の確保、引退者の大量出現への対応という時代の要請と、ITという道具の普及が変化をもたらした。新しい地域活性化の試みがこの本にはたくさん紹介されている。たとえば地域SNSが次々につくられて数千人規模にまで成長したケース。誰もが講師になれる生涯学習プログラムの熱気。NPO法人が情報化の仕事を受注し地域コミュニティ内のSOHOが請け負う仕組みで事業を創出したケースなど。成功例または成功の兆しがたくさん解説されていた。
地域は信頼性の高い情報プラットフォームになる可能性を秘めている。国領二郎慶応大学教授の意見が引用されている。
「外部効果の強い、つまり貢献に対するリターンが外部に流出しやすく、参加の貢献のインセンティブが弱くなりやすいネット上の情報共有も、地域(物理的近接)のバインドのなかであればメリットを可視化、内部化しやすく、持続可能な誘因と貢献のモデルを構築しやすい」
生活空間の関係性があれば、おかしなことはできないというわけだ。
私は社会人になって5年くらい東京で暮らしたが、結婚を機会に地元へ戻ってきた。定住すると決まって、さらに、こどもが生まれると特に地域のことは考えざるをえなくなる。しかし、昔ながらの隣近所の濃いつきあいは自分に馴染みそうにない。だから地域の掲示板を眺めていて、どうしても何か言いたいときに書き込むくらいの関係性がしっくりくる。私と同じ世代もそう考えている人が多いのではないかと思う。
閉じつつ開いたコミュニティ。地域情報化はそうした時代の空気にマッチした仕組みをつくることが成功の鍵になるのではないかと思った。、
・Passion For The Future: 地域情報化 認識と設計
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004496.html
2006年05月15日
地域情報化 認識と設計
地域情報化は西欧をモデルにした国家の「計画」の時代から、地域独自のモデルをそれぞれが「設計」する時代になったという基本認識のもとに、学者とアクティビィストが結集してまとめた先端成果。
地域振興を考えているリーダーにも、「次は地域情報がビジネスになる」とたくらんでいるビジネスマンにも、参考になる本である。ハコモノでもなくキワモノでもない、ホンモノの地域情報化の知恵が詰まっている。
■「イ・ト・コ」と「仕掛け」
前半で地域情報化のキーワードが以下のように分析されている。
「
このように「地域」を強調するのは、地域コミュニティの共通の価値観や利益に基盤をおく信頼関係が、ネット社会の弱みというべき無秩序さや「ただ乗り傾向」を引き起こしやすいマイナスを補って、情報開示、参加、互助などの力をフルに発揮する土壌を提供してくれるのである。
これを理解するのに役立つのが「イ・ト・コ」と「仕掛け」というフレームワークである。周囲が沈滞する中で突出して活性化している地域を見ると、「インセンティブ=協働参加の誘因」と「トラスト=信頼関係」を、「コネクタ=関係性をつなぐ人」が構築して、ネットワークによって可能となる情報共有の「仕掛け」に命を吹き込んでいる、という共通の成功要因が見てとれる
」
インセンティブ、トラスト、コネクタ、仕掛け。地域情報化のキーワードは、意外にもWeb2.0のキーワードともそっくりだ。散在する力を結集し創発現象を引き起こすための仕組みをつくることが、ここでもホットな話題なのだ。同じ地域で生活している住民同士の信頼の束(ソーシャルキャピタル)は、安定した協働プロセスの基盤になる。
■地域情報化のインセンティブ
一番、興味深かったのが第9章「地域情報化のインセンティブ」であった。私と5年間一緒に会社を経営した小橋昭彦氏が書いている。彼は都会からのUターン組で、兵庫県の農村からインターネットの情報発信に取り組んでいる。地域づくりで総務大臣表彰を受けた。地域情報化のシンクタンクを立ち上げた。ときどき上京しては大学などで講義をしているようなのだが、具体的に何を考えているのかは実はこの本で初めて知った。
・小橋昭彦■今日の雑学
http://www.kobashi.ne.jp/
・こころのふるさと 田舎.tv
http://www.inaka.tv/
・情報社会生活研究所★生活者視点で日本をシフトアップ!
http://shiftup.jp/
彼が住むのは私も何度か訪れたことがあるが、何の変哲もない、良い田舎である。強い特徴があるとは思えなかったのだけれど、彼が主宰するイベント周辺には遠方からも大勢が参加しており、東京並の活気がある。まさに前述の「周囲が沈滞する中で突出して活性化している地域」である。もちろん最初から活気があったわけではなかったようだ。彼が「コネクタ」として創発のうねりを作り出したのは間違いない。
彼が都会と業界、そしてネットで実績をつくり自分の作法を確立するまではそばで見ていたのでよく知っている。彼は書き物(雑学本のベストセラー作家)やクリエイティブ(業界賞を何度も受賞したコピーライターでもある)など、自分一人でできる仕事では絶対的な自信を持つ人だが、変革のリーダーとしては随分穏やかで控えめな印象があった。だから、その後、なにが起きていたのか、物語として気になっていた。
■緑の培地理論
その成功プロセスを「緑の培地」理論として分析する。
彼は都会でIT分野で活動実績をつくり地元へUターンした。この半分部外者というスタート地点では、既存の地域プラットフォームに対して遠慮がはたらく。「出すぎた真似」はしたくない。そこで新しい地域情報化のプラットフォームを飲み会などでソフトに提案し、自分の作法で活動できる小さな場所を最初につくった。
そして、彼は都会や業界の人脈を、地域の既存プラットフォームに紹介して、情報化活動につなげていく。複数のプラットフォーム上の人脈をメタプラットフォームで外部と接続し、世界を狭くする。停滞していた地域に新しい情報やヒトが流れ込む。地域が外部から注目を受ける。これが、ありがたがられて、彼の作法も地域内で一定の居場所を認めてらえるようになった。
自分の作法を認めてもらうことの嬉しさは地域コミュニティに限らず、あらゆるコミュニティで新参者にとってのインセンティブになると思う。地域の信頼関係(ソーシャルキャピタル)がある場所ではなおさら強いものなのだろう。認めてもらったお礼に、彼は地域の人間を他のプラットフォームへ紹介してあげたくなる。地元と彼の間にインセンティブの正のフィードバックループが確立される。
彼は「地域を変えたいから」「郷土愛」といった大義名分よりも、自分の作法を地域に認めてもらえる個人的楽しさが、活動へのインセンティブとして働いたと書いている。「主役になれる」ことがやりがいにつながる。こうして、彼は「コネクター」という新しいタイプの「地元の名士」になった。
この本には、「人を元気にする」、「誰もが主役になれる」をキーワードに、ハコモノやキワモノではない地域情報化論が展開されている。彼のような実践家と丸田一氏、国領次郎氏、公文俊平氏などの学者が協働して、リアルとバーチャルのソーシャルネットワークを、どう結びつけるか、のヒントを集積している。地域情報化に関心のある人には強くおすすめの一冊である。
2006年05月07日
「みんなの意見」は案外正しい
とても面白い本だ。
この本のテーマ「集団の知恵(原題:Wisdom Of Crowds)」はいまインターネットでホットな話題でもある。集団の知恵(リンク)で検索精度を向上させたGoogleや、有志の知恵によるオープンソースプロジェクト開発の話題も取り上げられている。
「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがある一方で「烏合の衆」ということばもある。この本は前者の文殊の知恵に光を当てる。多数の成功事例をとりあげ、それが成立する条件を「認知」「調整」「協調」という3つの視点から分析していく。
集団の知恵がはたらく賢い集団の4要件として、以下の要素がまとめられている。
1 意見の多様性(各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている)
2 独立性(他者の考えに左右されない)
3 分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)
4 集約性(個々人の意見を集約して集団の一つの判断にするメカニズムの存在)
「
この4つの要件を満たした集団は、正確な判断が下しやすい。なぜか。多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団に予測や推測をしてもらう。その集団の回答を均すと一人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺される。言ってみれば、個人の回答には情報と間違いという二つの要素がある。算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ。
」
多様性のある、自立した個人の意見を集約できる場所に、集団の知恵がうまれる。ネットビジネスのキーワードとして話題のロングテール現象が起きる市場は、そうした条件が揃いやすそうに思った。
もちろん、集団の議論や投票はうまくいくことばかりではない。障害となる要素が多数ある。情報不足な集団が誤った判断を積み重ねてしまう「情報カスケード」現象や、暗黙の調整現象である「シェリングポイント」現象、公共性の失敗としての「フリーライダー」現象など、社会学や心理学、意思決定の科学から、多数の興味深い関連理論が紹介される。
集団の知恵に対して専門家の知恵の価値については著者は次のように語っている。
「
情報通で、手法も洗練されたアナリストが正しい意思決定に役に立たないと言っているのではない。(それに素人が寄ってたかって手術したり、飛行機を操縦したりするような事態は到底歓迎できない)。ここで言おうとしているのは、専門家がどんなに情報を豊富に持っていて手法が洗練されていても、それ以外の人の多様な意見も合わせて考えないと、専門家のアドバイスや予想は活かしきれないということだ。これは組織の問題を一人で解決してくれる専門家を追い求めるのは時間の無駄だということでもある。
」
ネット時代は知識の流通スピードも速いから専門知の陳腐化も速くなる。集合知と専門知の両方を活かせる人が、次世代の専門家の姿なのかもしれない。成功例として、みんなの意見をうまく活かして経営している「はてな」のような会社が思い浮かぶ。
しかしながら、現実の世界では集合知が機能するシーンのほうが少ないように思われる。大抵の組織では、よりよい結論を求めて、ではなくて、合意を形成するために、会議や委員会を行うことが多いと思うし、議論となれば、専門家や声の大きい人の意見に流されてしまうのである。賢い集団の4要件を揃えるには、難関がいくつもある。
また、理想的な結論が出ても「それ誰がやるの?」ということもあるし、逆に次善(以下)の策であっても「それ私が責任を持ってやります」という人がいる案を選ぶこともある。意思決定と行動が分離できない組織では、正しい意思決定は難しい。そもそも民主主義や市場の解が必ず正しいとも限らない。
ただ、私がこの本を読んで思ったのは「集団の知恵」方式は、参加型であり、より多くの人が決定プロセスに関与することができて「楽しい」ということ。その楽しさに決定と行動を結びつけるヒントが隠されているのではないかと思った。
・第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004336.html
・会議が絶対うまくいく法
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000203.html
・なぜ自然はシンクロしたがるのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003279.html
・創発―蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001285.html
2006年04月27日
「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス
・「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス

社会学のフィールドワーク論。
「
聞き取るという営みは、単に相手から必要とする情報を効率よく収集する、という発想では、とてもできない。相手を情報を得るためだけの源であるかのように見ていると、それが伝わった瞬間、おそらく聞き取りは硬直し、相手との<いま、ここ>での出会いは失われていくだろう。
」
観測することが対象に影響を与えてしまう相互性という点では、量子物理学の観測とほとんど同じである。自然科学の客観的な観察が成り立つのは、実は実験室でできるごく限られた世界に過ぎない。「語りのちから」によって、聞き取る側の意見や価値観も変動していく。
「
現代の社会学には、私たちの暮らしの大半をおおっている「あたりまえ」の世界を解きほぐして、そのなかにどのような問題があるのかを明らかにしていこうとする営みがある。それはエスノメソドロジー(ethnomethodology)と呼ばれているものだ。
」
たとえば男性と女性が会話をすると、一般に、女性の発話に男性が割り込む回数が多い。女性は男性の話にあいづちをうったり、うなずく回数が多い。男女同権がタテマエ的には成立している、「あたりまえの」私たちの社会でも、男女の間には隠れた権力関係が存在していることがうかがえる。
多くの人が、ニート問題や差別問題、犯罪者の経歴などについては、無意識のうちに高みや客観的な立場から発言してしまいがちだ。たとえば「私は差別したことも差別されたこともない普通の人間なのですが、あなたの差別体験を教えてください」など発言してしまう人がいる。その普通感が差別の源かもしれないのにである。
無意識のあたりまえがあることを著者はいくつもの事例を使って指摘している。道具としての「カテゴリー化」、特定のコミュニティで特権的な地位を占める語り=「モデル・ストーリー」、全体社会の支配的言説=「マスター・ナラティブ」「ドミナント・ストーリー」が、聞き取りをするもの、されるもの両者の言説の背景にあることを理解する必要があると著者は書いている。
社会学の学生や教員向けに読み物として書かれているが、部外者として何かを当事者から聞き取る際のノウハウ本として読むことができる。
2006年04月09日
男女交際進化論「情交」か「肉交」か
明治のはじめ頃、男子学生の恋の相手はふたつあった。ひとつは遊郭や盛り場で働く女性で、もうひとつは同じ男子学生。前者を相手にすると「軟派」、後者なら「硬派」と呼ばれた。意外にも「硬派」は本来は同性愛を志向する男性を指すことばだったのである。女子学生というものが少なかったこともあるが、成人してお見合い結婚することが当然の時代では、今でいう男女交際という概念自体が存在していなかったのだ。
「男女交際」という言葉は福沢諭吉らによってつくられた。福沢は英語の”Society”を「交際」と訳して日本に紹介した人物でもある。男尊女卑の当時の環境を欧米に対して遅れたものと考え、日本を男女同権につくりかえる上で、必要な制度として男女交際は生まれた。明治16年の離婚率は37.6%で、これは2002年の数字とほぼ同じ。安定した社会を築く上でも男女のマッチングの最適化は国の重要課題といえた。
東大学長を主宰とする「男女交際会」に紳士淑女が集まり、ぎこちなく会話を始める様子が当時の文献から引用されている。真面目に書かれた会の事業内容は、自由談話、文学書などの解題批評、美術品の鑑賞、会員の5分間演説(夫人中心)、講話、家族懇親会、音楽会など。当時の一流知識人たちは、頭ではわかっていても、なかなか異性に親しく話しかけられず、当惑していたようだ。
男女交際が一般化すると、恋愛哲学が生まれた。たとえば恋愛神聖論である。それはこの本のタイトルにもなっている「情交」と「肉交」の論争であった。恋愛と性欲がこの時代は厳しく区別され、精神性に重きが置かれた。
「
つまり「上等」な人々には「上等」な恋愛ーーー精神的恋愛ーーーが、「下等な」人々には「下等」な恋愛がある、という差別的な構造を恋愛のなかに築いていったのです。そしてそのもっとも高度なものとして、最終的に登場したのが「プラトニックラブ」でした。それは高学歴の男女にだけ許されるある種特権的な恋愛形態だったのです。
」
そして本当の自由恋愛が確立されるまでには長い道のりが必要であった。女性の社会進出が進む中で高学歴で結婚しない女性が増え「オールドミス」と呼ばれて批難された。実際、女子高等師範学校の卒業生の56%は未婚であった。当時の恋愛哲学や世の中の風潮では、不美人、貧乏、学問好きは結婚対象としては敬遠されていたからだ。
しかし、時代がさらに進んで、女性の地位向上が進むとやがて女性の知性も好ましい属性として評価されるようになった。知的な女性は美しい。そして、性欲もまた人間にとって自然なもの、精神性と両立するものとして認められるようになった。男女交際とは、意外に人工的に形作られてきたものだということが、よくわかる。
明治から現在に至るまでの男女交際と恋愛哲学の進化史が、豊富な各時代の風俗を伝える文献と解説により、とても面白く読める本であった。恋に落ちるのはいつの時代も変わらないのだけれど、男女交際のスタイルは自然ではなく文化なのだ。
・人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003812.html
・チャット恋愛学 ネットは人格を変える?
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003653.html
・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html
・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html
・オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002189.html
・気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002095.html
2006年02月15日
お金に「正しさ」はあるのか
貨幣に媒介されてあらゆるものが流通してしまう現代。芸術、学術、性愛、そして人間の生命でさえも値段が算出されて売り買いの対象になってしまう。この社会では「市場で取引の対象になり得ること」と「社会的に価値が認められていること」は密接に結びついている。売れないものは価値がないし、売れるものを作れない人間は半人前という扱いになる。
ビジネス社会では、市場で売れるものは良いものであり、儲かることは正しいことだと私たちはしばしば錯覚してしまう。この論理を敷衍すると市場において流通することが、社会的正義であることにもなる。戦争を推進する正義もしばしば、経済的下部構造の得失原理に突き動かされる。
この本では、貨幣の強い影響力についてマルクスの資本論の一節が引用されている。
「
物はそれ自身としては人間に対して外的なものである。したがってまた譲渡しうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、対することが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない。それがいま家父長的家族の形態を取ろうと、古代インドの村やインカ国等々の形態をとろうと、同じことである。商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる(『資本論(一』))
」
貨幣経済は本来は共同体の境界での内外の取引に使われるものであった。だから、親密な家族関係においては物の売り買いは本来は存在しないはずだが、対外関係で発生した貨幣の強い影響力は共同体内部にさえも浸透していく。親子や恋人の間にも貨幣を媒介した物の流通が意識されるようになる。愛や恋にも値段がつけられる。
芸術や学術のように「すぐには金に換算できない」知的な営みの価値も、実際には「すぐには」がポイントなのだと著者は言う。すぐには換算できない価値も残っていてほしいと願うから人々はそれに投資するが、まったく貨幣に変換する見込みがゼロならば、そもそも社会的関心とならないだろうという。
表現者は現在の経済価値と無縁な「ものめずらしい」物を作り出そうとする。だが、市場経済では、多様な関心を持つ人間がいるので、そのものめずらしさに経済的価値を認める人たちがでてくる。いや、私はまったく稼ぐことに関心がないという表現者は、その実、余剰で生きていられる人なわけだ。食べないと死んでしまうわけだから。
結局、人間の営みはどうやっても貨幣価値から逃れることができないということになる。
すべてを飲み込んでしまう貨幣の魔力を著者は「ファンタスマゴリー」効果と呼んでいる。これは、人間が作り出した「商品」が逆に人間の振る舞いを支配するようになる現象を形容するための隠喩として、マルクスが資本論の中で使った言葉だ。語の由来は、物に光を当てたときにできる影を観客の前に大きく写す幻灯装置のことである。人間の欲望という光によって、貨幣の影絵はすべてを包み込む。
ファンタスマゴリーから逃れることができないのであれば、正義も貨幣を媒介して実現するしか方法はないのだと著者はお金と正しさの関係について結論している。ファンタスマゴリーを否定して「人間ひとりの命は地球より重い」というのは詭弁だともあとがきに書いている。
昨年賛否両論だった、「ホワイトバンド」キャンペンは貨幣と正しさについて考えさせられるいい機会だった。。
・ほっとけない 世界のまずしさ
http://www.hottokenai.jp/
この運動の背景にある営利企業サニーサイドアップは上手にファンタスマゴリーを正義と結びつけるころで儲ける、したたかな会社であるようだ。
・さて次の企画は
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050911
このほっとけない運動に対するアンチとしてこんなサイトもみつけた。
・ほっときたい 世界のまずしさ
http://www.hottokitai.jp/
・FrontPage - ホワイトバンドの問題点
http://whiteband.sakura.ne.jp/
実のところ、ホワイトバンド運動の本質はマネーなのかラブなのかよくわからない。
結局、貨幣もまた刃物と同じで、それを使うものの意図次第ということなのだろう。これは「会社は誰のものか」という本で「志の高い人のものであるべき」とした結論とも通じるものがあるなあとおもう。主語をテクノロジーと変えても同じことが言えるだろう。
・会社は誰のものか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003567.html
貨幣も会社も技術も、ネットワークを通じてファンタズマゴリーの効果で、自己増殖し、過去にないほどに大きな影響力を持つようになっている。「正しさ」を「神」にも「聖なるもの」にも依拠できなくなった現代。この本を読んでおもったのは、最も大切なのは、したたかに貨幣のファンタスマゴリーを利用して、公共性のあるビジョンを実現するリーダーであるような気がした。。
2006年02月14日
国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて
昨年度のベストセラー。出版時、絶賛する書評が多すぎて、天邪鬼な私は今頃読んでしまった。
やはり、凄まじい本だった。
著者は佐藤優 元外務省主席分析官。「鈴木宗男事件」で背任と偽計業務妨害容疑で東京拘置所に512日間拘留され、第一審判決は懲役2年6ヶ月、執行猶予4年。事件当時「巨悪のムネオ」の右腕としてマスメディアに大々的に取り上げられた人物。政敵田中真紀子がいう「伏魔殿」の「ラスプーチン」である。
政治・官僚ドキュメンタリとして近年まれに見る極めて面白い本だ。
もちろん、この本の内容は控訴中の人間の弁明であるから、何が真実なのかは分からないが、「政治の闇」に深く切り込んだ一冊であることは間違いないように思える。著者の容疑内容(背任であって贈収賄ではない)や逮捕前後の行動からも、私心のなさはうかがえる。この本における自らの行動と経緯の説明も一貫した理念にもとづくものとして説得力がある。
登場するのは政治家と官僚、検察の頭脳明晰なエリートたち。ある意味、この全員が確信犯なのであり、著者の言う「国家の罠」を組織的に作り出す構成員たちである。だが、いくら優秀な才能とはいえ感情のある人間である。必死の攻防の中にドラマが生まれる。
連日の担当検察官の取調べとその中で生まれる著者との奇妙な友情は感動的でさえある。互いの知力の限りを尽くして、逮捕された官僚と、追い込みをかける検察官は、静かな戦いを繰り広げる。検察官自ら、これは「国策捜査」だと宣言し、無罪はありえないので落としどころを共に探る提案を出す。
「
被告が実刑になるような事件はよい国策捜査じゃないんだよ。うまく執行猶予をつけなくてはならない。判決は小さい扱いで、少し経てばみんな国策捜査で摘発された人々のことは忘れてしまうというのが、いい形なんだ。国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへんな能力があるので、今後もそれを社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが特捜検事の仕事なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追及するのはよくない国策捜査なんだ
」
国家組織を円滑に運営していくには、時代の変化に対応して、古い部分を切り捨てなければならない。著者は時代の変化を、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換と分析している。二つの路線が交錯する場所に鈴木宗男がいて、時代のけじめのために、我々は犠牲になるのだという認識がある。
著者が弁護団に依頼した弁護方針は
1 国益を重視し日本外交に実害がないようにすること
2 特殊情報(外交上国家機密に関わるようなこと)の話が表に出ないようにすること
3 鈴木宗男との利害が対立した場合は、鈴木氏の利益を優先すること
であった。
飽くまで外交官のロマンに殉じる覚悟の表明であった。
こんな著者の心意気とプライドを認めた担当検察官は、取調べの密室の中で著者の言い分の最大の理解者になっていく。しかし、お互いの利益は相反している。やるべき仕事がある。完全に気を許すことはできない。二人は最後まで握手をすることはなかった。だが、国家の罠の対岸で互いの立場を尊重しあう深い絆を形成していたように思える。その過程が本書の最大の読みどころである。
読み終わって私は著者に90%共感したのだが、10%疑念もある。結局のところ、この本を書いている人も、出てくる人も、共に一般人からは「魑魅魍魎」の一員である。とにかく情報戦を得意とする著者であるから、出版も完成度の高い弁明作戦の一環と思えなくもない。政治の世界からは手を引くような記述はあるのだが...。
そういえば、
・鈴木宗男氏
http://www.muneo.gr.jp/html/flash_index.html
復活してすっかり元気なようである。
「大怪我で入院して帰ってきた人気悪役プロレスラー」みたいな印象で、今度は外務省の汚職を追求する方に回っている。歯切れのいいコメントにうっかり、好感を抱いてしまったりする。そこらへんが魑魅魍魎政治家やらラスプーチンの怖さなのである。
2006年01月31日
とにかく目立ちたがる人たち
ホリエモン(堀江社長)、タイゾーくん(杉村議員)、ヤスオちゃん(田中知事)など、ここ数年の日本は、この本のいう「目立ちたがる人たち」に翻弄されている。劇場化、エンターテイメント化される社会の中で愛される「目立ち」とは何か。かつて、日本社会では敬遠されていた目立ちたがりが、近年、好意的に迎えられているのはなぜか?を、「キャラ立ち」「ヘタレ」「天然」などのキーワードで心理学者が解説する。
人格障害研究の権威セオドア・ミロンの学説から、目立ちたがりには「演技性」「自己愛性」の2つの類型があると説明がある。病的と正常には厳密な一線は引けないという前提で、
・演技性パーソナリティ
「飲み会の際に誰よりもノリよく、はしゃいで盛り上げ、座の中心になる」
・自己愛性パーソナリティ
「ブランド品で寸分もなく身を固め、つんとすまして歩いて、道行く人を振り返らせる」
とタイプわけしている。
演技性パーソナリティは心理学では「ヒストリオニクス」と呼ばれるそうだ。大げさな、芝居がかった表現を好む。よくいえば社交的でオープンマインドで精力的にみえる。米国では理想的なパーソナリティとして受け入れられる。一方で刺激好きで一貫性がないのも特徴となる。「他人に気に入られたいという行動原理だけで、自分の中に一貫した価値基準がない」ためだ。「いろいろな人がかまいすぎ」な環境で育てられると、このタイプになりやすいらしい。杉村太蔵議員がこれに近いという。簡単にいうと、自信がないヘタレなのでもある。
自己愛パーソナリティとはつまりナルシストである。「なりたい私になっている」空想に夢中な人たち、である。理想化されたイメージへののめりこみに基づいて行動しており、感情に基づいて行動していないのが特徴。ブランド物買いなど誇示的消費で、自己の優越を誇示しようとする。自身の行動を過大に評価させる自己アピールが多い。田中康夫知事がこれに近いという。自信過剰のハッタリが本質である。
この本は事件発覚前の出版だが、ホリエモンについて著者は、彼はナルシストではなく、「反社会性パーソナリティ」だと指摘している。空想で満足できる性格ではなく、欲しい物には現実に手を伸ばす「欲」の人だという。当たっていたかもしれない。
本来の日本社会の心性は、依存性、強迫性、自虐性で目立たないことが良しとされた。人知れぬ善行こそ美徳であり、外の秩序に溶け込んで調和することが成熟したもののあるべき姿であり、自らを楽しませたり輝かせることは好ましいことではなかった。だが時代は変わり、楽しむことが肯定的な社会になった。見ていて楽しい人物が人気が出るようになった。キャラ立ちは価値になった。
そしてヒストリオニクス、ナルシストという2つのタイプの目立ちたがり屋有名人が注目と人気を集めている。最近ではただ目立つだけではだめで、作為性のない目立ち、すなわち「天然」が最強のキャラになりつつあると著者は分析している。そして他人を楽しませなければならないと常に考えているヒストリオニクスであればなおさら強い。天然ヒストリオニクス、その代表例として小泉首相の名前が挙げられている。
目立ちたがる人々はインターネットですぐみつかる。ブロガーだ。昨年の総務省の調査によると、週に1度以上更新するアクティブなブロガーが100万人規模でいるようである。ブログ界ではまだ普通のヒストリオニクス優勢に見えるのだが、この目立ちたがり競争の中でも、最後に勝つのはやはり天然なのだろうか。
ところで、コンテストの告知をお手伝いしたアルファブロガー企画が結果を発表している。新たな10人の目立ちたがり屋さんが投票で選出された。真性引き篭もりさん見事受賞!(私の昨年度ベスト1ブログとして紹介したのだが、これは本人喜ぶのだろうか?)
・アルファブロガーをもっと探せ 2005 結果発表
http://alphabloggers.com/
次は天然ブロガーを探せ、かも?。
2006年01月19日
10年後の日本
この新書は、同じ編集部による820ページ超の「日本の論点」の簡易版といえる位置づけ。
論客雑誌「論点」はサイトも充実している。
・文藝春秋編 日本の論点PLUS
http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/so-net/
ただ、14年の歴史のあるこの大作は読破するには手ごわい。個別の問題を深く掘り下げたいのでなければ、大局を知る上にはこちらの方が簡潔にまとまっている。取り上げられた論点は次の10個。
各章をタイトルとともに一言で説明してみる。
1 変わる日本社会のかたち
格差の拡大と治安の悪化、見直し迫られる消費税、老朽化するインフラ。
2 鍵をにぎる団塊世代
700万人の無職老人。危ない退職金、年金制度。
3 ビジネスマンの新しい現実
ものづくりの力の減退と外国人労働者増。
4 漂流する若者たち
フリーター500万人時代、ニート100万人。
5 世代が対立する高齢社会
保険料引き上げと、のしかかる介護問題
6 家族の絆と子どもの未来
増える虐待、教員不足、子どもの学力、体力低下
7 男と女の選択
出生率の更なる低下、専業主夫20万人
8 地球環境の危機
30年以内に70%確率で起きる首都圏直撃大震災、エネルギー危機、食糧危機、温暖化
9 グローバル経済の奔流
国債の破綻とふたたび景気停滞、中国とBRICs諸国台頭。
10 不安定化するアジア
北朝鮮統一と中国共産党の崩壊、テロの脅威拡大
経済と社会の観点では、2007年から一斉に引退が始まる、団塊の世代の老後の過ごし方が、日本の10年後に大きな影響を与えることが確実のようだ。4人に1人が老人の社会。彼らの資産がどのように使われるか、その消費が若い世代の経済活動とどう結びつけられるかが、日本経済復活の鍵になりそうだ。若者が創意工夫で作り出すサービスで、団塊の世代が喜んでカネを出し、豊かな老後を過ごせるのが理想。
危機という観点では、犠牲者1万3000人が想定される関東大震災よりも、64万人が死亡すると推計された新型インフルエンザの方が怖いように思えた。SARSは専門家の国際協力により、大規模な感染を未然に防いだ実績がある。予防する手段がある危機と言う点で、エマージングウィルス対策こそ重要かもしれない。
勝ち組、負け組の格差の問題はやはり最大の論点のようだが、思うに格差は相対的なものである。世界でみたら日本は相対的にとても豊かな国だ。世界レベルの格差を国民的な論点にして、その解決を国内の勝ち組も負け組も一緒に考えた方が、「世界の100年」という大論点では、有益なのではないだろうか。
2005年12月26日
もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安
ドイツのフィナンシャルタイムス紙 年間最優秀経済書受賞作品。
大人の人生はすべて、二つのラブストーリーで決まる。第一は性的な愛の探求の物語。もうひとつは世間からの愛=ステイタスの物語。他者に認められたいという思いは、組織中心の時代になって、一層、一般的で、切実なものになってきた。
米国の労働者のうち、他人に雇われている人間の比率は、1800年には20%だったものが、1900年までに50%になり、2000年までに90%に達したという。500人以上の組織に所属する人間の比率は1900年には1%だったのに対して、2000年には55%に達した。大きな会社組織の中で、一定のステイタスを得たい人間が過半数を占めることになった。それは希望の裏返しとしての、ステイタスの不安に悩む人々の社会になったということでもある。
「勝ち組」「負け組」という言葉もステイタスの不安が生んだ言葉だろう。能力主義社会は、富めるものは役に立つものであり、貧しいものは愚かで役に立たないものだという価値観を人々に押しつける。古代では腕力が強い人間が勝ち組で、弱い人間は負け組であった。いかにキリストの正統な教えに近いかが社会的地位を決めた時代もあった。
ステイタスの不安の根源は、そうした時代状況や権力関係がつくりだす画一的な価値観にある。この本では、近代以降の社会における、ステイタスの不安と超越の歴史が語られる。世間からの愛を感じる、その感受性を変えることで、人はもっと自由に生きることができると説く。
「
ステイタスの不安の成熟した解決は、ステイタスとはさまざまに異なる観衆から受け取ることができるものだと認識するところから始まるーーー産業資本家からも、ボヘミアンからも、家族からも、哲学者からも。そして誰を観衆に選ぶかは、わたしたちの自由だし、わたしたちが欲するままだと認識するところから始まる。
」
哲学、芸術、政治、宗教、ボヘミアの5つの分野で、人々がいかにオルタナティブな価値観や生活経済の基盤をつくり、ステイタスの不安を超越してきたかが、後半の主要テーマとなっている。これらの分野では大衆に認められずとも、既成の価値観に対して、批判的価値観のヒエラルキーを打ちたて、独自の社会的ピラミッドの中に生きることを選んだ人たちがいる。
プライドを持って生きること、少数でも尊敬しあえる人間関係を築くこと、金銭的報酬以外の報酬で豊かなライフスタイルを形成すること。愛を求める観衆を誰にするか、理想とする価値観は何か、を自分なりにとらえなおすことで、人はもっと幸福で満ち足りた社会関係をつくりだせるはずだというのが著者の結論である。
たとえばその「観衆」がブログやメールマガジンの読者だっていいはずだ、と思う。インターネットで個人の情報発信が盛んな理由、オープンソースプロジェクトに腕のあるプログラマが好き好んで参加する理由、ソーシャルネットワークで日記を書くのが楽しい理由。そうした行為の多くは、この本が語るもうひとつの愛の物語と関係が深そうな気がしている。
・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html
2005年12月23日
人に言えない仕事はなぜ儲かるのか?
裏稼業の暴露本のようなタイトルだが、内容は税制、税金対策についての本である。つまり、税金を払わない、ごまかせる、水面下のビジネスはとにかく儲かるという話につながる。
一般にはあまり知られていない商売の裏側もでてくる。
「
なぜソープランドの経営は違法なのに堂々と営業できるのだろうか?じつはソープランド業界には、売春防止法をクリアするための巧妙な建前がある。
その建前とは、自分たちが営業しているのは、高級感あふれる「お風呂屋さん」で、店にくるお客さんは入浴料を払って、ゴージャスな入浴を楽しんでいるだけという理屈だ。
個室のなかで、何かいかがわしい行為があっても、それは自分たちの知らないお姉さんがお店の中に勝手に入ってきて、お客さんと自由恋愛をしているのであって、自分たちの営業とはなんら関わりがない。
」
ソープランドは自由恋愛の場であると言う建前を知って衝撃である。
風俗にせよ、違法ドラッグにせよ、ニセモノ販売にせよ、多くのアンダーグラウンドビジネスは、禁止する法律があるから市場が形成されているのだと著者は指摘している。麻薬が合法化されているオランダでは、日本では闇市場で価格が高騰している薬が、お小遣い程度の価格で買えるそうだ。禁止する法がなければ需要と供給の市場メカニズムに従って生産と流通が増え、価格は安くなる。禁止が背後で誰かを儲けさせている。
裏稼業の中で、私が気になっていると同時に迷惑を蒙っているのは、毎日何百通も受けとるスパムメールのビジネスである。この内情については、オライリーがドキュメンタリ本を出している。
メールは送るのはタダなので、1万通に1通、10万通に1通でも反応があれば、広告ビジネスとして成り立ってしまう、と言われていた。だが、スパム業者の数も増えてきた。そろそろ反応率も100万分の1だとかになってしまうのではないか。スパム業者も採算割れを起こしてはいないだろうか。これに対して、カタギには、アンチスパムソフトの市場があってスパム増大に伴い、大きくなっている。
すると、ふとこんなことを考える。
スパム業者とアンチスパム業者、どちらが儲かっているのだろうか?
もしかして既に、後者ではないか?
税金対策にせよ、裏稼業にせよ、対策ビジネスにせよ、立ち回り方の才覚一つで儲けが決まる。人に言えない仕事も、言える仕事も、儲けるには創意工夫なんだよという妙な教訓を得た一冊であった。






















