2008年03月25日

図説「最悪」の仕事の歴史

・図説「最悪」の仕事の歴史
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「世界最悪の仕事は何か」をテーマにヨーロッパ(主に英国中心)の歴史を振り返って、ワースト1を決めるという趣旨の本。そこでローマ時代、中世、チューダー王朝時代、スチュアート王朝時代、ジョージ王朝時代、ヴィクトリア王朝時代という区分で、最悪職業のノミネートが行われる。最終章で発表される史上最悪の仕事とは?

登場する職業は、金鉱夫、写本装飾師、沼地の鉄収集人、コイン奴隷、ウミガラスの卵採り、治療床屋、亜麻の浸水職人、財務府大記録の転記者、焼き串少年、御便器番、爆破火具師助手、シラミとり、疫病埋葬人、浴場ガイド、絵画モデル、船医助手、ネズミ捕り師、骨拾い、など約70種類。名前からは仕事の中身がわかりにくいが、どれも身の毛もよだつような作業や労働環境が含まれる。

たとえばローマ時代の最悪候補が「反吐収集人」である。ローマ人たちは享楽におぼれ、たくさん食べるために、食べては吐きを繰り返したらしい。セネカの著作にはこんな記述があるそうだ。「われわれが宴会で寝椅子に寄り掛かっているときでさえも、或る奴隷は客の反吐を拭き取ったり、或る奴隷は長椅子の下に身を屈めて、泥酔した客の残したものを集めます。」。

チューダー王朝時代の最悪候補はヘンリー8世のお尻を拭く「御便器番」。スチュアート王朝時代の最悪候補はガマの油売りの英国版「ヒキガエル喰い」。薬の万能さをデモンストレーションするために観衆の前でヒキガエルを丸呑みしたという。

この本に出てくる仕事は多くが現在の「3K(きつい、汚い、危険)」どころではない大変そうな仕事ばかりだ。全体の総括として共通する要素として以下の5つがあげられていた。3Kに低収入と退屈が加わっているわけだ。

1 体力が必要なこと
2 汚れ仕事であること
3 低収入であること
4 危険であること
5 退屈であること

もともとこの本は英国のテレビ番組をベースにしている。番組では実際にその職業を体験してみて、昔の人たちの厳しい労働の実態や、社会のゆがみなどを考えさせるという教育的趣旨で構成されている。

・The worst jobs in history
http://www.channel4.com/history/microsites/W/worstjobs/
番組の公式サイト

この本を読むと、そんな時代に生まれなくてよかったと思うだけでなく、社会における職業について考えさせられる。誰かがやらねばならない辛い仕事というのはどの時代にも存在している。社会には上水道と同時に下水道が必要である。

仕事の中身の最悪度だって主観的なものでもある。たとえば、人間を手術や解剖する医者の仕事は見方によっては身の毛もよだつ仕事だ。弁護士は犯罪者や事件事故ばかりを相手にするやばい仕事である。人々から尊敬され、高収入だから、それらは3K仕事には決してならない。

結局のところ、やりがいがあるかどうか、ということが最高と最悪を決める本当の要素ということになるのじゃないか、というのが私の結論であった。

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2008年03月06日

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

・日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか
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斬新な切り口でまっとうな歴史哲学を語る本。

著者の調べによると日本全国で1965年ごろを境に、キツネにばかされたという話が発生しなくなったのだという。本当にキツネが人を化かしていたのか、その話をみんなが信じていたのか、という問題はともかく、そのような話が出なくなったことは歴史的な事実である。

高度経済成長に伴う変化の中で、日本人は知性でとらえられるものを重視するようになった。同時に知性によってとらえられないものはつかめなくなったということでもある。
この本でとても気になった一節がある。かつての村社会における情報流通についての説明である。

「人間を介して情報が伝えられている間は、情報の伝達には時間が必要だった。大事な情報は急いで伝えられただろうが、さほど急がなくてもよい日常世界の情報は、何かの折に伝えられる。ところがその情報は重要ではないのかといえば、村ではそうでもない。なぜならそれらをとおして村人どうしの意思疎通がはかられ、ときにそれが村人の合意形成に役割をはたしていくからである。
 もうひとつ、人から人に伝えられていく情報には次のような面もあった。人から人に伝達される以上、そこには脚色が伴われる、ということである。その過程で話が大きくなっていくことも、一部分が強調されることもある。だから聞き手は、話を聞きながらも、その話のなかにある事実らしい部分を自分で探りあてながら聞いていく。すなわち、聞き手が読み取るという行為が伴われてこそ情報だったのである。主観と客観の間で情報が伝えられる以上、それは当然のことであった。」

インターネット時代のコミュニケーションで失われているのがまさにこの

・何かの折に伝えられる情報が重要な共同体
・伝達過程で脚色が加えられ話が大きくなっていくコミュニケーション

ではないだろうかと考えた。

情報流通の効率化、最適化によって、情報を瞬時に正確に伝達できるようになったかわりに、キツネに化かされるような物語だとか、そういう話にリアリティを感じる心を失ってしまったということでもある。死者や動物や自然と対話する能力=キツネにだまされる能力の喪失である。

そのような社会変化の背景には、高度経済成長という「国民の歴史」があった。国民の歴史は宿命的に発展の歴史として描かれると著者は指摘する。「それは簡単な方法で達成される。現在の価値基準で過去を描けばよいのである。たとえば現在の社会には経済力、経済の発展という価値基準がある。この基準にしたがって過去を描けば、過去は経済力が低位な社会であり、停滞した社会としてとらえられる。」

それを経済力を科学技術、人権や市民社会という基準でおきかえてもおなじこと。私たちは遅れた社会から進んだ社会へと進歩発展してきたという物語を信じている。キツネや死者と対話する世界は取り残されて崩壊していった。

「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という問題に対する答えを探す旅は、いつのまにか進歩史観的な歴史認識に大きな疑問符をつきつけて終わる。この本のタイトルと構成に、ちょっと化かされた気がしないでもないのだが、現代人に見えていないものを可視化する内容でたいへん勉強になった。

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2008年02月12日

タテ社会の人間関係 ― 単一社会の理論

・タテ社会の人間関係 ― 単一社会の理論
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1967年から版を重ねて110万部突破のロングセラー。日本のタテ社会とは何かを分析している。タテ社会というのは「伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力さには注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が非常に根強く存在している。」というように、みんなが平等という前提で、できてきた社会だという。そして誰でも上へ行く道が開かれている。

「どんな社会でも、すべての人が上に行くということは不可能だ。そして社会には、大学を出た人が必要であると同様に、中学校卒の人も必要なのだ。しかし、日本の「タテ」の上向きの運動の激しい社会では「下積み」という言葉に含まれているように、下層にとどまるということは、非常に心理的な負担となる。なぜならば、上へのルートがあるだけに、下にいるということは、競争に負けた者、あるいは没落者であるという含みがはいってくるからである。」。

しかし、この日本の伝統的タテ社会は、能力評価による競争が行われているわけではない。必ずしも仕事ができるからといって認められて出世するわけではないのだ。「論理より感情が優先し、それが社会的機能をもっていること」が特徴であると著者は指摘する。

「他の国であったならば、その道の専門家としては一顧だにされないような、能力のない(あるいは能力の衰えた)年長者が、その道の権威と称され、肩書をもって脚光を浴びている姿は日本社会ならではの光景である。しかし、この老人天国は、決して日本人の敬老精神から出てくるものではない。それは、彼がその下にどれほどの子分をもっているか、そして、どのような有能な子分をもっているか、という組織の社会的実力(個人の能力ではない)からくるものである。」

なんと痛快なタテ社会批評!

・「おしゃべりな人」が得をする おべっか・お世辞の人間学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001413.html

・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html

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2008年01月24日

合コンの社会学

・合コンの社会学
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「合コンは、様ざまな力学が錯綜する磁場だ。その「確実性」も「偶然性」も、「自由」も疑いだせばきりがない。誰もがうっすらと気づき始めている。けれど誰もはっきりとは言語化してはこなかったそれらのことを、一度立ち止まって考えるときがきている。」

若手の社会学者二人が合コンについて研究した本。

「現代の私たちは、この合コンという奇妙な装置のおかげで、きわめて直接的なお見合いとも、無味乾燥な職場結婚とも違う、ドラマティックな出逢いを手に入れた。と同時に、あいまいな着地点を目指して戦い続けなければならなくなった。「偶然」や「突然」にこだわるがために、今では、理想それ自体がぼやけてしまっている。」

異性を身長や容姿、職業や年収で選ぶのはあさましいから、「つきあってる人がいるとかいないとか、結婚したいとか子どもがほしいとか、年収がいくらとか将来の計画とか、そんなことは気にしていないふりをする。出会うために来たんじゃないふりをする。ただの飲み会を装う。」。これは合コンじゃないフリをするのが合コンのプロトコルなのだと著者らは指摘している。

ところで、この合コンという言葉はその意味が時代によって変化してきている。Wikipediaの「コンパ」に合コンに関する記述もあって以下のような内容がみつかる。何が「合同」なのかはじめて知った。そういうことなのか。

・ 合同コンパ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91
「現在一般的にコンパという名称で思い浮べられることが多いのは合コン(合同コンパ)である。これは主として男女の出会いを求めるために行われるコンパで、女子の大学進学率が急激に上昇し始める1970、1980年代ごろから盛んになり、その後学生どうしにかぎらず広汎に行われるようになった。合同コンパという名称は、男子のコンパと女子のコンパを合同で開催するというところに基づいている。また、男女合同で行楽地などに出かけることを合ハイ(合同ハイキング)と呼んでいたが、現在ではほとんど死語となっている。」

私が大学生だった頃はまだ合コンは学生のものというノリだったような気がする。それがいまや婚期を逃しそうな息子や娘に親が「合コン」にでもいってこいと勧めるくらい一般的な男女の出会いの形式になるまでの変遷も分析されている。合コンの研究は80年代から現在までの同時代的な男女交際の歴史でもあった。

著者らの研究もおもしろかったが、これ深いなと感動したのは、調査対象の合コン参加者の次のような意見。そうそう、若い頃はばかでモテないというのは多くの男にありがちな真理だと思った。

「若い頃はばかだったから、自分の話ばっかりしてた。でも今はいっさいしない。聞き役に徹する。こんだけ稼いでて、こんだけ仕事ができて、こんな車に乗っててスポーツもやってて、なんて言われて『すごいねー』なんて言う女はめったにいないから。女の子の悩みをひたすら聞いてあげる」(男性・三十代・会社員)」

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2007年11月12日

反転―闇社会の守護神と呼ばれて

・反転―闇社会の守護神と呼ばれて
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苦学して成った特捜の検事から、政財界と裏社会の守護神弁護士への転身、自家用ヘリ(7億円)で故郷へ凱旋し湯水のごとくカネをばらまいたバブル時代の華麗な生活、そして裏社会との濃すぎるつながりは古巣の特捜部ににらまれ、逮捕と実刑判決をくらう。著者の体験した劇的な反転人生を語った自伝。

古巣の体制の腐敗を暴露し日本社会の闇を暴く内容として、佐藤優の名著「国家の罠」に匹敵する大傑作である。

依頼人や交友関係として出てくる人物の名前が凄い。許永中、中岡信栄、末野謙一、卓見勝、阿部新太郎、佐川清、伊藤寿永光、竹下登、阿部新太郎、高橋治則、小谷光浩、渡辺芳則、山口敏夫.......。あの筋、この筋よくここまでつながったものだと関心するが著者いわく「この国は、エスタブリッシュメントとアウトローの双方が見えない部分で絡み合い、動いている」から、こうなったそうである。

権力ににらまれて詐欺罪で立件されての転落は、ポリシーをもって仕事をしてきた結果であると一貫して主張している。弁護士は犯罪者の弁護をすることが仕事であり、自身にやましい部分はないといって現在も上告中である。かつて佐藤優は自分の逮捕は国策捜査だと反論したが、検事出身の著者はこう達観している。

「最近、「国策捜査」という検察批判がよくなされるが、そもそも基本的に検察の捜査方針はすべて国策によるものである。換言すれば、現体制との混乱を避け、ときの権力構造を維持するための捜査ともいえる。だから平和相銀事件や三菱重工CB事件のような中途半端な結末に終わることが多い。本格的に捜査に突入すれば、自民党政権や中曽根派が崩壊したり、日本のトップ企業である三菱重工が傷を負う恐れのあるような事件は、極端に嫌う」。

そこで表も裏もないパワーゲームの世界では中途半端な悪はつぶされるが、勝ち組権力と結びついた巨悪は栄えるという現実を見ることになる。著者はこのゲームに負けた敗軍の将という立場で読者に語りかけている。

検察エリート街道の華々しさ、闇に暗躍したフィクサーたちの素顔、バブル紳士たちの豪遊ぶり、裏社会のトップたちの壮絶な生き様など、まず普通の人生を歩んでいる限りでは、知ることがない世界を生々しい記述で読むことができるのが魅力である。文章もうまいので文字通り私にとって徹夜本になってしまった。

「国家の罠」のファンには特におすすめである。

・国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004269.html

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2007年11月07日

ステータス症候群―社会格差という病

・ステータス症候群―社会格差という病
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これは抜群に面白い社会学研究。

世界中で社会格差と人々の健康には明らかな相関があることがデータで示されている。貧しい階層よりもお金持ちの階層のほうが病気をせずに長生きする。両極の中間層では階層があがるにつれて確実に健康状態がよくなっていく勾配が見られる。さらに学歴や社会的地位や身長で人々を比べてもほぼ同様の結果になる。高いほど健康なのだ。これがステータス症候群である。

なぜ社会格差は健康格差につながるのかがこの本のテーマである。

所得と健康の関係は一見、当たり前のようにみえる。健康ならば働けるので高所得になりやすい。お金があればよい生活ができて医者にもかかれるから、なおさら健康になる。逆に不健康ならば働くことができず、一層貧しくなる。医者にもかかれないから健康は悪化する。そういうことなのではないか?。実は問題はそう簡単ではなかった。

著者は長年にわたってステータス症候群を研究してきた第一人者。20年に及ぶ英国公務員を対象とする「ホワイトホール研究」などの実績で知られる英国政府のアドバイザ。公務員はヒエラルキーが明確なので分析しやすい対象なのだ。そこで明らかにされた健康格差はシビアなものだった。40-64歳の男性では、職場の階層構造の底辺にいる人は、同じ階層のトップにいる人の4倍も死亡率が高かった。

だがこれは英国の公務員だけの話ではないのだ。私たちの社会の、おどろくほど広範にわたって、階層が上の人と下の人では死亡率がちがうことを示す事例が多数紹介されている。階層が上の人ほど明らかに長生きでき、下の人は癌や心臓病で死にやすいという、厳しい現実が隠れていた。

国際比較をしてみると米国の平均寿命はイスラエル、ギリシア、マルタ、ニュージーランドよりも短い。平均所得では米国はそれらの国よりもずっと上にあるにもかかわらずだ。よく考えてみると、普通の生活ができる以上の所得増が、必ずしも健康改善に直結するとは思えない。すべての階層でまっすぐ上昇する健康度の勾配の原因は、所得の絶対額が問題ではないことがわかる。

著者は科学的な調査の結果、社会階層における相対的地位が健康にとって最も重要な要素であるという事実を発見する。相対的な社会的地位は、自尊心や幸福感に強く影響し、ストレスの量も左右する。「自分自身の人生全般をコントロールできるという意味での自律性があることと、有意義な社会参加への機会があること」が、健康に顕著な影響を与えていると結論する。その改善に必要な施策も提言している。

めずらしく意味のある格差を扱った本と出会った。読み応えたっぷりの内容。

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2007年09月18日

「関係の空気」 「場の空気」

・「関係の空気」 「場の空気」
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「何ごともその場の空気によって決まる、というのは良いことではない。だが、その場の空気が濃くなればそれに対抗するのは難しいし何よりも損だろう」

日本には少子高齢化問題、年金問題、消費税率、若年層の雇用問題など多数の論点があるのに、激しい対立も現実的な妥協もなく、雰囲気で何となく政策が決まっていく。家庭や会社、2ちゃんねるのような仮想空間でも似たような状況は起きている。場の空気という妖怪に、日本の社会は支配されているのだと著者は指摘する。

「明らかな対立があるのに歩み寄れない。いやその前に対立そのものを浮き彫りにすることもできない。明らかに傷ついている人がいるのに、慰めることができない。気まずい雰囲気が濃くなっているのに、その場を救う言葉が出ない。世代が違うだけで、全く共有言語がない。」などの日本語の窒息が、そこかしこで起きていると問題提起する。

同質性が高い社会であるが故に、前提の確認を省略したり、論理よりも共感を重要視するコミュニケーションスタイルに、空気の妖怪は潜んでいるようである。このなあなあ文化は、時に全体主義的な同調にもつながるし、高度成長の原動力にもなった諸刃の剣であると思う。

ただし、そのネガティブ面だけでなく、西郷隆盛の腹芸交渉術を例に出して、空気コミュニケーションを肯定的にとらえる考え方も紹介されている。

「だが、そのような問題はあるにしても、個別の一対一の会話においては、日本語は「関係の空気」を利用することでコミュニケーションの質を高めてきたのは事実である。空気を使って情報の効率を高めてきたのも事実なら、空気を使って、濃密な情感を表現したり、抽象度の高い価値観の共有を確認してきたのである。」

論理的で明快にペラペラしゃべるリーダーよりも、じっと議論を見守り含蓄のある一言で意思統一をするようなリーダーが日本では人望を集めてきた。マネジメントの効用を考えても、空気の活用は合理的なはずである。

2ちゃんねるのような勝手匿名コミュニティでは、そもそも空気しか通用しないだろう。不特定多数の全員を論破して回るわけにはいかないからだ。だから、スレの住人たちの心に刺さる短い書き込みで、スレの空気を変えて誘導するような技術が、これから一層重要になるのではないかと思う。

場の空気の良い面も悪い面も分析している面白い本。

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2007年07月04日

中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差―

・中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差―
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著者は「全国童貞連合」会長。連合のサイトで顔出ししている、おそらく日本一有名な童貞男、渡部伸、執筆時34歳。「少子化問題は童貞問題である」という問題意識の本。童貞についての人口統計、切実な自身の体験談、連合会員の童貞たちの様々な考え方、フェルディナント・ヤマグチ、室井佑月らとの座談会など、もりだくさんの内容。

・全国童貞連合
http://www.cherrybb.jp/

日本家族計画協会の調べによると、25〜29歳の17.1%、30〜34歳の6.3%、35〜39歳の5.1%、40〜44歳の7.9%は「セックス経験がない」そうである。”無回答”も経験がないと考えると、40〜44歳の1割強が童貞だと予測できると著者は分析している。

こんな調査も紹介されていた。

・国立社会保障・人口問題研究所 結婚と出産に関する全国調査
http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou13_s/Nfs13doukou_s.pdf
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処女を見てみると、18歳〜19歳の、「性体験のない女性」は1987年の81.0%から、2005年には62.5%に減少しており、「高校を卒業するころには、10人に4人はセックスをしている」そうである。処女率はこの15年で、20〜24歳で64.4%→36.3%、25〜29歳で53.6%→25.1%に急激に下がっているらしい。(20代後半で4分の1が処女というこの数字は妙に高い気がするが。)

著者は、さらに各種調査データを引用して、モテる男とモテない男の二極化が進み、モテる男が女性を独占しているという現実があるのだと結論している。この恋愛格差の拡大によって、モテないものは一層モテなくなる。そうした弱者が40代で1割もいる状況はマズいのじゃないか、改善しよう、声をあげようというのが著者の意見である。

童貞連合会員の、他の中年童貞たちの意見は、必ずしも著者と同じではなく、中には恋愛は無理と諦めている保守派や、性欲をなくそうと女性ホルモンを使った解脱派もいる。生々しい意見が飛び交い、現代の中年童貞の実態が浮かび上がってくる。

うーん。

童貞連合を企画し書籍に意見をまとめられる著者は十分に魅力的で、モテておかしくないと私は思うし、好きで童貞を続けている面があるように感じた。だからこの本の主張は、どう受け止めるべきなのか、よくわからない。これって本当に一般的で深刻な社会問題なのだろうか?。ネタなのだろうか。なんにせよ、やっぱり個人の問題でしかない気がするのだが。

文章は読みやすく、面白くて本としてかなり面白い新書である。最近はこういう映画も話題になったが、中年童貞って世界的に流行なのだろうか。歴史的にみると童貞=硬派=カコイイ時代もあったわけで、童貞や処女というのはいつの時代も注目される稀少性なのだよなあ。

・40歳の童貞男
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2007年06月07日

私たちはどうつながっているのか ネットワークの科学を応用する

・私たちはどうつながっているのか ネットワークの科学を応用する
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人脈ネットワークの研究成果を一般向けにわかりやすくまとめた入門書。

ネットワークの研究によって、一般的な人脈は、(1)スモールワールド(世界中の人間は結構少ない人数(6人とか)で全員がつながっている)、(2)スケールフリー(知り合いの数は人にだいぶよって違い、少ない数のハブ型人間に集中している)という二つの特性を持つことがわかってきた。これはミクシイなどを使っていて、研究者でなくても、実感できるようになったと思う。

では、そうしたネットワークはどんな風に生成されるのだろうか、ハブ型人間になる方法とは、現実社会の人脈作りに活かす教訓は何か?。図をたくさん使った理論の概説と、現実の人間関係の考察がこの本の内容である。

たとえばこんな理論が解説されている。

・弱い紐帯の理論
いつもはあまり密接につながっていない知人を通して、有用な情報がもたらされるという理論。異なる環境にいて、異なる価値観を持ち、関係も深くはない友人知人が、普段と違った貴重な情報や関係接点をもたらす。

・構造的空隙の理論
今まで縁のなかったコミュニティ同士をつなぐ「重複のないコンタクト」のこと。知人のクラスタ間を結びつける人は、知人の数が少なくても、ネットワーク構造上で重要な役割を果たす。

・信頼の解き放ちの理論
赤の他人を信頼できるかどうか(一般的信頼)の度合いが高い社会では、離れたコミュニティにいる者同士が、近道を作って情報交換をすることが容易になる。内輪びいきの安心を大切にする日本より、初対面の相手を見極めつつ信頼するアメリカの方が、人間同士の距離を短く詰めやすい。

・BAモデルの理論
新たな構成員が増え続けて成長していくネットワークのモデルの一つ。人は強いものに魅かれやすい。「この人は有力だからつながっていこう」という心理によって、新規参加者は既に知り合いの多い人を優先選択する。その結果、少数のハブ型人間が一層影響力を強めて、スケールフリーの性質を強くしていく。


ネットワークの研究はどうしてもハブにばかり目が行きがちだが、ネットワーク内のクラスター(少ない人数の密なコミュニティ、数人の仲良し)の重要性について著者は強調している。クラスターは安心を提供すると同時に柔軟性をネットワークに与える。

全員がハブ型人間を目指して、知り合いの数を重複なく効率的に増やしていくと「共通の知人が少ない」ために変化に弱いネットワークになりかねない。会社でいえば「意思疎通がうまくいかない」「人が抜けたら控えがいない」という状況になってしまう。お互いが心配しあうような少人数の仲良し関係は、個人の心の生活を豊かにするだけでなく、ネットワークの頑健性を高めるものにもなる。

うまくいっている会社には、楽しい社外サークルや飲み会グループがあるものだが、小さなコミュニティ活動が、会社がうまくいっていることの理由である可能性もあるのだな、と思った。

そして、ハブ型人間になるには、能力(人は強いものに魅かれる)、先住(早いうちにネットワークに入ること)、運(ネットワーク形成をやり直したらとハブは今とは別の人かもしれない)の3要素が重要だそうである。

能力と運はともかく先住性は取り組みやすい。先住性は自分でネットワークを立ち上げれば一番目の住人になれる。インターネット上ならコミュニティの立ち上げは容易だ。ただし、外向きの矢印を増やすハブ型人間は、たくさん張った枝の維持コストも半端ではないから気をつけないといけないというアドバイスも書かれてあった。

むやみに人間関係を拡大しようと必死な人は、アテンションは集められても、レスペクトが集まらないのではないかと感じる。人間関係の数と方向性の他に、関係の質というものがあると思う。まだまだこの分野は研究の可能性がたくさんありそう。

・つながりの科学―パーコレーション
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000406.html

・人脈作りの科学―「人と人との関係」に隠された力を探る
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002338.html

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2007年05月29日

格差が遺伝する! ~子どもの下流化を防ぐには~

・格差が遺伝する! ~子どもの下流化を防ぐには~
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子どもの成績のよしあしは何によって決まるのか?。小学校2〜6年の子どもを持つ母親1443人を対象にしたアンケート結果で、成績の良い子どもの家庭には、次のような条件がそろっていたそうである。

・父親の所得が高い
・母親の結婚前の所得が高い
・父親、母親、祖父の学歴が高い
・母親が料理をするのが好きである
・父親が土日休みである

つまり、高所得高学歴で余裕のある家には、生活の質の高さがあり、それが意欲の高さにつながり、成績の高さにつながる。成績が良い子の家の父母は、てきぱきと仕事をしたり、将来設計をきちんと考える、前向きの傾向があるそうだ。

子ども自身の性格面でも、

・成績のよい子の方が明るく、がんばりやで、スポーツ好き
・成績の悪い子は消極的で、だらしなく、友だちが少ない

という特徴があるという結果になっている。同時に、性格が明るいから成績が良いのではなくて、成績が良いから明るい性格になるという、因果関係も取りあげられている。そうして身につけた社会的に好ましい性格は、子ども自身の将来の成功につながりやすいだろう。

このアンケート調査は、この本ではその全貌が示されていないので、どこまで正しいものなのか分からない部分もあるのだが、質問項目や結果分析が週刊誌の見出し風でわかりやすい。格差間の大きな差異、おおまかな特徴はとらえているようだ。

その他にもこんなデータも明かされる。

・成績「上」の子どもがいる家庭の15%が日本経済新聞を購読している
・成績の良い子の母親は昼寝より読書が習慣の「がんばる派」
・英語への取り組みは成績とはあまり関係ない
・下流的な若者ほど白いご飯を食べている人が少ない(母親が料理好き)
・成績「上」の子どもの母親に「プレジデント・ファミリー」読者が多い

そして母親を、のび太ママ、スネ夫ママ、ジャイアン母ちゃん、しずかちゃんママに4分類する。「しっかりした性格で成績もよい」しずかちゃんママの子どもが成績が最も良いという。各母親の行動パターンが解説されている。

「下流社会」という流行言葉をつくった著者の新作。この本の読者層(子どもの親)にとって、気になる見出しが満載である。「下流」が話題になっても社会闘争のようにならないのは、その主な関心層が、中流以上に属していると感じている層なのではあるまいか。
日本の格差は世界の格差と比較したら小さい。高級車が走る道端で生き倒れの死体が転がっているような格差ではない。その流動性が低くなってきたのが日本の未来に影を落としているという点が問題なのだと思う。

この調査は初期条件(親の年収や学歴や行動パターン)による格差の固定を裏付ける趣旨だったが、逆に、初期条件が悪かったのに、格差を乗り越えたグループを調べてみたらどうだろうか。将来への希望とビジョンが見えてくる気がする。

ところで調査結果の中に「成績の良い子は勉強時間が長い」「成績の悪い子は勉強時間が短い」というデータがあった。いろいろな因果関係が分析されていて、この項目はあっさりとしか扱われなかったが、結局、本質は、勉強する時間の量なのではないのかなあと個人的には思った。

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2007年04月17日

裁判官の爆笑お言葉集

・裁判官の爆笑お言葉集
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裁判の傍聴をライフワークにする著者が書いた、本当にあった裁判官のお言葉と解説。裁判官という、真面目で仏頂面のイメージが崩れ去っていく。面白い。

たとえば有名な話では、「この前から聞いてると、あなた切迫感ないんですよ」と姉歯被告は裁判官に怒られた。

裁判には、裁判官が説諭、付言、所感、傍論などの個人的見解を述べる部分があり、そこに人間性あふれる名言、迷言、失言、暴言が飛び出すことがある。著者はたくさんの裁判を傍聴し、そうした発言ばかりを収集して、文脈つきで紹介している。

「死刑はやむを得ないが、私としては、君には出来るだけ長く生きてもらいたい。」

「二人して、どこを探しても見つからなかった青い鳥を身近に探すべく、じっくり腰をすえて真剣に話し合うよう、離婚の請求を棄却する次第である。」

「暴力団にとっては、石ころを投げたぐらいのことかもしれませんが、人の家に銃弾を撃ち込むと相当、罪が重くなるわけです。」

「変態を通り越して、ど変態だ。」

など、裁判官らしからぬ私的な感情が混じった「お言葉」がある。

データとして、面白いお言葉を連発する裁判官の名前も記載があるので、裁判ウォッチャーの参考にもなる。

そういえば、ホリエモンの裁判について、面白いニュース記事を思い出した。

http://www.asahi.com/special/060116/TKY200703160146.html


 小坂裁判長は判決理由読み上げ後、堀江前社長に向かい、東京地裁に送られてき
た、ハンディキャップのある子どもを持つ母親からの手紙を紹介し始めた。

 「大きな夢を持ち、会社を起こし、上場企業までにした被告に対し、あこがれに似
た感情を抱いて働く力をもらった。ためたお金でライブドア株を購入して今でも持ち
続けている」。手紙にはそう書かれていたという。

 小坂裁判長は「被告のこれまですべての生き方を否定されたわけではない。この子
のように勇気づけられた多くの人がいる。罪を償い、その能力を生かし、再出発を期
待している」と諭した。堀江前社長はそれを聞きながら、何度も深くうなずいてい
た。

これなどは、思いつきの行動ではなくて、あらかじめ手紙を準備した演出である。これで本当にホリエモンに対して説諭効果があるのか、裁判官がやりたかっただけなんとちがうか、とか思うわけだが、それがこうして報道されると、ニュースのドラマ性が高まって、注目が集まるのは確かだ。

この本を読んで、裁判って一度も傍聴したことがないのだが、一度、見てみたくなった。

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2007年04月09日

郊外の社会学

・郊外の社会学
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都市でも田舎でもなくて郊外こそ、テーマにすべきなのではないかと郊外居住者として思ってきた。珠玉混交のネットの集合知を信頼できるものに変える仕掛けとして、地域コミュニティの信頼ネットワークというソーシャルキャピタルがこれから重要になってくると考えている。

それにはおそらく二つの世代が深く関係してくる。ひとつは私の属する30代の世代。郊外に居住して子供もできて、生活環境としても教育環境としても地域コミュニティを無視できなくなったインターネット第一世代。そして、会社を退職して地域の人になる60代の団塊の世代である。

この二つの世代の多くが都心でもなく田舎でもなく、郊外に多くが居住しているはずなのである。その割に郊外の生活の質や内容が政治や社会の論点として取り上げられることが少ないなあと思う。

私が子供時代から住む神奈川県藤沢市には秋に大規模な「市民まつり」がある。「世界最大の金魚すくい」なるイベントが10年くらい前に発案されて人気を呼び、ギネスブックに登録されて話題になっている。一方で伝統的な地元の寺社の祭りもある。これは新興住宅地としての新住民や商工会主体の人工的なコミュニティと、伝統的地元コミュニティによるふたつの祭りである。

郊外のふたつの祭りを通した著者の関わり方に自分の姿がそのまま重なる。

「こうした「新しい祭り」に対する違和感は、旧来の地域の伝統のなかにこそ、「祭り」という名に値するものがあるという感覚に由来する。私もまた石原と同じく、団地やマンション、町内会が主催する「祭り」の神も闇も存在しない白々しさには「嘘っぽさ」を感じる方だ。だがしかし、神と闇のある祭りを「本物」だと感じるからといって、私は地元の神社の氏子ではないので神輿を担いだりして参加することはなく、夜店の間をそぞろ歩き、信心もなしに賽銭箱に小銭を投げ込んだりして、祭り気分を味わうにとどまっている。」

新しい祭りの白々しさ、つくりもの臭さは、不動産デベロッパーの開発した新興地区の「○○台」「○○夕が丘」式ネーミングや「ショートケーキハウス」のような家のデザインにも通じる。郊外のつくりものっぽさは近年の大型ショッピングモールの進出によって加速しているように思える。だが、それが新しい地域文化を作り上げていることも認めざるを得ない。

「こうして郊外という場所と社会が私たちの生きる日常の分厚い膨らみとなるにつれ、「郊外の神話」は地域という構造のなかで年々繰り返される”制度化された祝祭”になっていったのだ」

つくりものっぽさの背景にあるのは、人間関係の希薄さである。良くも悪くもつながらざるを得なかった伝統的コミュニティの人間関係と違って、新しい祭りは希望者の自由参加を主体とする。ショートケーキハウスのクリスマス・イルミネーション現象も個々の家が自分の家だけをデコレーションする。この本ではそうした個々の表現の集まりを「集列体」と呼んでいる。

郊外は都市に従属している。郊外の住民の多くは日中は都市部へ通勤している。地域共同体といっても決して地域を共有しているわけではなく、都市への移動を共有する「共移体」というのが現在の郊外コミュニティの本質なのだと著者は結論している。

集列体、共移体は、地域の濃い人間関係を持たないから、地域を超えたメディアや大衆消費文化の影響を受けて文化が形成されていく。つくりものっぽさ、白々しさはマスメディアとの距離感に由来するものなわけだ。

つくりものは時間の経過で本物になるのか、いつまでたっても偽物のままなのか。全国各地に、地域性が消去された、金太郎飴のような同質の郊外文化が量産されていくのか。ニュータウンという「立場なき場所」の立場がどう定まるかというのは、郊外住民の生活の質に大きな影響を与える日本の、結構大きな論点であると思う。

郊外に住む著者の本音と社会学のキーワードとの紐づけが勉強になる本だ。

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2007年02月18日

ウェブが創る新しい郷土 ~地域情報化のすすめ

・ウェブが創る新しい郷土 ~地域情報化のすすめ
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「地域情報化 認識と設計」の共著者であり、シンクタンク出身で地域情報化のエキスパートである丸田一氏がWeb2.0と地域情報化の接点にスポットライトをあてる。

近年の地域活性化の大きなトピックが「こどもの安全」と「2007年問題」(団塊の世代の引退)であるそうだ。こどもを守るには地域コミュニティによる監視と協力が不可欠であるし、会社を引退して家に居る高齢者が増えることも間違いない。人は人生の最初と最後で地域に戻ってくるわけだ。

長い間、多くの日本人にとって地域を出て、地域へ戻ることは典型的な人生のモデルであった。

「郷土は、自分を育てあげてくれたたくさんの人の顔や、生活環境、自然風土に関する実態的な記憶で構成されたイメージである。「故郷」が書かれた大正時代と、私の幼少期の昭和40年代とでは社会環境が大きく異なるが、幼い自分に関する個人イメージが郷土を形づくっていることに変わりない。
「故郷」の三番に「こころざしを果たして、いつの日にか帰らん」という一節が登場する。この故郷に帰るという心情は、洋の東西を問わず、故郷を捨てて「都市」を目指した近代人に付きまとってきたものである。ここに現れている、郷土(出現)→都市(突破)→郷土(成熟)という人生ゲームが広く一般化したことで、人生ゲームの始めと終わりを飾る郷土が、都市に彷徨える現代人にとって確実な自己証明書になってきた。」

ところが現代の若い世代の多くは「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」のイメージを持たない。リアル郷土のイメージが希薄な世代である。錦を飾る郷土が見えにくくなってしまっていた。

そこへ、こどもの安全の確保、引退者の大量出現への対応という時代の要請と、ITという道具の普及が変化をもたらした。新しい地域活性化の試みがこの本にはたくさん紹介されている。たとえば地域SNSが次々につくられて数千人規模にまで成長したケース。誰もが講師になれる生涯学習プログラムの熱気。NPO法人が情報化の仕事を受注し地域コミュニティ内のSOHOが請け負う仕組みで事業を創出したケースなど。成功例または成功の兆しがたくさん解説されていた。

地域は信頼性の高い情報プラットフォームになる可能性を秘めている。国領二郎慶応大学教授の意見が引用されている。

「外部効果の強い、つまり貢献に対するリターンが外部に流出しやすく、参加の貢献のインセンティブが弱くなりやすいネット上の情報共有も、地域(物理的近接)のバインドのなかであればメリットを可視化、内部化しやすく、持続可能な誘因と貢献のモデルを構築しやすい」

生活空間の関係性があれば、おかしなことはできないというわけだ。

私は社会人になって5年くらい東京で暮らしたが、結婚を機会に地元へ戻ってきた。定住すると決まって、さらに、こどもが生まれると特に地域のことは考えざるをえなくなる。しかし、昔ながらの隣近所の濃いつきあいは自分に馴染みそうにない。だから地域の掲示板を眺めていて、どうしても何か言いたいときに書き込むくらいの関係性がしっくりくる。私と同じ世代もそう考えている人が多いのではないかと思う。


閉じつつ開いたコミュニティ。地域情報化はそうした時代の空気にマッチした仕組みをつくることが成功の鍵になるのではないかと思った。、


・Passion For The Future: 地域情報化 認識と設計
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004496.html

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2006年05月15日

地域情報化 認識と設計

・地域情報化 認識と設計
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地域情報化は西欧をモデルにした国家の「計画」の時代から、地域独自のモデルをそれぞれが「設計」する時代になったという基本認識のもとに、学者とアクティビィストが結集してまとめた先端成果。

地域振興を考えているリーダーにも、「次は地域情報がビジネスになる」とたくらんでいるビジネスマンにも、参考になる本である。ハコモノでもなくキワモノでもない、ホンモノの地域情報化の知恵が詰まっている。

■「イ・ト・コ」と「仕掛け」

前半で地域情報化のキーワードが以下のように分析されている。


このように「地域」を強調するのは、地域コミュニティの共通の価値観や利益に基盤をおく信頼関係が、ネット社会の弱みというべき無秩序さや「ただ乗り傾向」を引き起こしやすいマイナスを補って、情報開示、参加、互助などの力をフルに発揮する土壌を提供してくれるのである。

これを理解するのに役立つのが「イ・ト・コ」と「仕掛け」というフレームワークである。周囲が沈滞する中で突出して活性化している地域を見ると、「インセンティブ=協働参加の誘因」と「トラスト=信頼関係」を、「コネクタ=関係性をつなぐ人」が構築して、ネットワークによって可能となる情報共有の「仕掛け」に命を吹き込んでいる、という共通の成功要因が見てとれる

インセンティブ、トラスト、コネクタ、仕掛け。地域情報化のキーワードは、意外にもWeb2.0のキーワードともそっくりだ。散在する力を結集し創発現象を引き起こすための仕組みをつくることが、ここでもホットな話題なのだ。同じ地域で生活している住民同士の信頼の束(ソーシャルキャピタル)は、安定した協働プロセスの基盤になる。

■地域情報化のインセンティブ

一番、興味深かったのが第9章「地域情報化のインセンティブ」であった。私と5年間一緒に会社を経営した小橋昭彦氏が書いている。彼は都会からのUターン組で、兵庫県の農村からインターネットの情報発信に取り組んでいる。地域づくりで総務大臣表彰を受けた。地域情報化のシンクタンクを立ち上げた。ときどき上京しては大学などで講義をしているようなのだが、具体的に何を考えているのかは実はこの本で初めて知った。

・小橋昭彦■今日の雑学
http://www.kobashi.ne.jp/

・こころのふるさと 田舎.tv
http://www.inaka.tv/

・情報社会生活研究所★生活者視点で日本をシフトアップ!
http://shiftup.jp/

彼が住むのは私も何度か訪れたことがあるが、何の変哲もない、良い田舎である。強い特徴があるとは思えなかったのだけれど、彼が主宰するイベント周辺には遠方からも大勢が参加しており、東京並の活気がある。まさに前述の「周囲が沈滞する中で突出して活性化している地域」である。もちろん最初から活気があったわけではなかったようだ。彼が「コネクタ」として創発のうねりを作り出したのは間違いない。

彼が都会と業界、そしてネットで実績をつくり自分の作法を確立するまではそばで見ていたのでよく知っている。彼は書き物(雑学本のベストセラー作家)やクリエイティブ(業界賞を何度も受賞したコピーライターでもある)など、自分一人でできる仕事では絶対的な自信を持つ人だが、変革のリーダーとしては随分穏やかで控えめな印象があった。だから、その後、なにが起きていたのか、物語として気になっていた。

■緑の培地理論

その成功プロセスを「緑の培地」理論として分析する。

彼は都会でIT分野で活動実績をつくり地元へUターンした。この半分部外者というスタート地点では、既存の地域プラットフォームに対して遠慮がはたらく。「出すぎた真似」はしたくない。そこで新しい地域情報化のプラットフォームを飲み会などでソフトに提案し、自分の作法で活動できる小さな場所を最初につくった。

そして、彼は都会や業界の人脈を、地域の既存プラットフォームに紹介して、情報化活動につなげていく。複数のプラットフォーム上の人脈をメタプラットフォームで外部と接続し、世界を狭くする。停滞していた地域に新しい情報やヒトが流れ込む。地域が外部から注目を受ける。これが、ありがたがられて、彼の作法も地域内で一定の居場所を認めてらえるようになった。

自分の作法を認めてもらうことの嬉しさは地域コミュニティに限らず、あらゆるコミュニティで新参者にとってのインセンティブになると思う。地域の信頼関係(ソーシャルキャピタル)がある場所ではなおさら強いものなのだろう。認めてもらったお礼に、彼は地域の人間を他のプラットフォームへ紹介してあげたくなる。地元と彼の間にインセンティブの正のフィードバックループが確立される。

彼は「地域を変えたいから」「郷土愛」といった大義名分よりも、自分の作法を地域に認めてもらえる個人的楽しさが、活動へのインセンティブとして働いたと書いている。「主役になれる」ことがやりがいにつながる。こうして、彼は「コネクター」という新しいタイプの「地元の名士」になった。

この本には、「人を元気にする」、「誰もが主役になれる」をキーワードに、ハコモノやキワモノではない地域情報化論が展開されている。彼のような実践家と丸田一氏、国領次郎氏、公文俊平氏などの学者が協働して、リアルとバーチャルのソーシャルネットワークを、どう結びつけるか、のヒントを集積している。地域情報化に関心のある人には強くおすすめの一冊である。

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2006年05月07日

「みんなの意見」は案外正しい

・「みんなの意見」は案外正しい
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とても面白い本だ。

この本のテーマ「集団の知恵(原題:Wisdom Of Crowds)」はいまインターネットでホットな話題でもある。集団の知恵(リンク)で検索精度を向上させたGoogleや、有志の知恵によるオープンソースプロジェクト開発の話題も取り上げられている。

「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがある一方で「烏合の衆」ということばもある。この本は前者の文殊の知恵に光を当てる。多数の成功事例をとりあげ、それが成立する条件を「認知」「調整」「協調」という3つの視点から分析していく。

集団の知恵がはたらく賢い集団の4要件として、以下の要素がまとめられている。

1 意見の多様性(各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている)
2 独立性(他者の考えに左右されない)
3 分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)
4 集約性(個々人の意見を集約して集団の一つの判断にするメカニズムの存在)


この4つの要件を満たした集団は、正確な判断が下しやすい。なぜか。多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団に予測や推測をしてもらう。その集団の回答を均すと一人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺される。言ってみれば、個人の回答には情報と間違いという二つの要素がある。算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ。

多様性のある、自立した個人の意見を集約できる場所に、集団の知恵がうまれる。ネットビジネスのキーワードとして話題のロングテール現象が起きる市場は、そうした条件が揃いやすそうに思った。

もちろん、集団の議論や投票はうまくいくことばかりではない。障害となる要素が多数ある。情報不足な集団が誤った判断を積み重ねてしまう「情報カスケード」現象や、暗黙の調整現象である「シェリングポイント」現象、公共性の失敗としての「フリーライダー」現象など、社会学や心理学、意思決定の科学から、多数の興味深い関連理論が紹介される。

集団の知恵に対して専門家の知恵の価値については著者は次のように語っている。


情報通で、手法も洗練されたアナリストが正しい意思決定に役に立たないと言っているのではない。(それに素人が寄ってたかって手術したり、飛行機を操縦したりするような事態は到底歓迎できない)。ここで言おうとしているのは、専門家がどんなに情報を豊富に持っていて手法が洗練されていても、それ以外の人の多様な意見も合わせて考えないと、専門家のアドバイスや予想は活かしきれないということだ。これは組織の問題を一人で解決してくれる専門家を追い求めるのは時間の無駄だということでもある。

ネット時代は知識の流通スピードも速いから専門知の陳腐化も速くなる。集合知と専門知の両方を活かせる人が、次世代の専門家の姿なのかもしれない。成功例として、みんなの意見をうまく活かして経営している「はてな」のような会社が思い浮かぶ。

しかしながら、現実の世界では集合知が機能するシーンのほうが少ないように思われる。大抵の組織では、よりよい結論を求めて、ではなくて、合意を形成するために、会議や委員会を行うことが多いと思うし、議論となれば、専門家や声の大きい人の意見に流されてしまうのである。賢い集団の4要件を揃えるには、難関がいくつもある。

また、理想的な結論が出ても「それ誰がやるの?」ということもあるし、逆に次善(以下)の策であっても「それ私が責任を持ってやります」という人がいる案を選ぶこともある。意思決定と行動が分離できない組織では、正しい意思決定は難しい。そもそも民主主義や市場の解が必ず正しいとも限らない。

ただ、私がこの本を読んで思ったのは「集団の知恵」方式は、参加型であり、より多くの人が決定プロセスに関与することができて「楽しい」ということ。その楽しさに決定と行動を結びつけるヒントが隠されているのではないかと思った。

・第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004336.html

・会議が絶対うまくいく法
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000203.html

・なぜ自然はシンクロしたがるのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003279.html

・創発―蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001285.html

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2006年04月27日

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス

・「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス
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社会学のフィールドワーク論。


聞き取るという営みは、単に相手から必要とする情報を効率よく収集する、という発想では、とてもできない。相手を情報を得るためだけの源であるかのように見ていると、それが伝わった瞬間、おそらく聞き取りは硬直し、相手との<いま、ここ>での出会いは失われていくだろう。

観測することが対象に影響を与えてしまう相互性という点では、量子物理学の観測とほとんど同じである。自然科学の客観的な観察が成り立つのは、実は実験室でできるごく限られた世界に過ぎない。「語りのちから」によって、聞き取る側の意見や価値観も変動していく。


現代の社会学には、私たちの暮らしの大半をおおっている「あたりまえ」の世界を解きほぐして、そのなかにどのような問題があるのかを明らかにしていこうとする営みがある。それはエスノメソドロジー(ethnomethodology)と呼ばれているものだ。

たとえば男性と女性が会話をすると、一般に、女性の発話に男性が割り込む回数が多い。女性は男性の話にあいづちをうったり、うなずく回数が多い。男女同権がタテマエ的には成立している、「あたりまえの」私たちの社会でも、男女の間には隠れた権力関係が存在していることがうかがえる。

多くの人が、ニート問題や差別問題、犯罪者の経歴などについては、無意識のうちに高みや客観的な立場から発言してしまいがちだ。たとえば「私は差別したことも差別されたこともない普通の人間なのですが、あなたの差別体験を教えてください」など発言してしまう人がいる。その普通感が差別の源かもしれないのにである。

無意識のあたりまえがあることを著者はいくつもの事例を使って指摘している。道具としての「カテゴリー化」、特定のコミュニティで特権的な地位を占める語り=「モデル・ストーリー」、全体社会の支配的言説=「マスター・ナラティブ」「ドミナント・ストーリー」が、聞き取りをするもの、されるもの両者の言説の背景にあることを理解する必要があると著者は書いている。

社会学の学生や教員向けに読み物として書かれているが、部外者として何かを当事者から聞き取る際のノウハウ本として読むことができる。

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2006年04月09日

男女交際進化論「情交」か「肉交」か

・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
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明治のはじめ頃、男子学生の恋の相手はふたつあった。ひとつは遊郭や盛り場で働く女性で、もうひとつは同じ男子学生。前者を相手にすると「軟派」、後者なら「硬派」と呼ばれた。意外にも「硬派」は本来は同性愛を志向する男性を指すことばだったのである。女子学生というものが少なかったこともあるが、成人してお見合い結婚することが当然の時代では、今でいう男女交際という概念自体が存在していなかったのだ。

「男女交際」という言葉は福沢諭吉らによってつくられた。福沢は英語の”Society”を「交際」と訳して日本に紹介した人物でもある。男尊女卑の当時の環境を欧米に対して遅れたものと考え、日本を男女同権につくりかえる上で、必要な制度として男女交際は生まれた。明治16年の離婚率は37.6%で、これは2002年の数字とほぼ同じ。安定した社会を築く上でも男女のマッチングの最適化は国の重要課題といえた。

東大学長を主宰とする「男女交際会」に紳士淑女が集まり、ぎこちなく会話を始める様子が当時の文献から引用されている。真面目に書かれた会の事業内容は、自由談話、文学書などの解題批評、美術品の鑑賞、会員の5分間演説(夫人中心)、講話、家族懇親会、音楽会など。当時の一流知識人たちは、頭ではわかっていても、なかなか異性に親しく話しかけられず、当惑していたようだ。

男女交際が一般化すると、恋愛哲学が生まれた。たとえば恋愛神聖論である。それはこの本のタイトルにもなっている「情交」と「肉交」の論争であった。恋愛と性欲がこの時代は厳しく区別され、精神性に重きが置かれた。


つまり「上等」な人々には「上等」な恋愛ーーー精神的恋愛ーーーが、「下等な」人々には「下等」な恋愛がある、という差別的な構造を恋愛のなかに築いていったのです。そしてそのもっとも高度なものとして、最終的に登場したのが「プラトニックラブ」でした。それは高学歴の男女にだけ許されるある種特権的な恋愛形態だったのです。

そして本当の自由恋愛が確立されるまでには長い道のりが必要であった。女性の社会進出が進む中で高学歴で結婚しない女性が増え「オールドミス」と呼ばれて批難された。実際、女子高等師範学校の卒業生の56%は未婚であった。当時の恋愛哲学や世の中の風潮では、不美人、貧乏、学問好きは結婚対象としては敬遠されていたからだ。

しかし、時代がさらに進んで、女性の地位向上が進むとやがて女性の知性も好ましい属性として評価されるようになった。知的な女性は美しい。そして、性欲もまた人間にとって自然なもの、精神性と両立するものとして認められるようになった。男女交際とは、意外に人工的に形作られてきたものだということが、よくわかる。

明治から現在に至るまでの男女交際と恋愛哲学の進化史が、豊富な各時代の風俗を伝える文献と解説により、とても面白く読める本であった。恋に落ちるのはいつの時代も変わらないのだけれど、男女交際のスタイルは自然ではなく文化なのだ。

・人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003812.html

・チャット恋愛学 ネットは人格を変える?
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003653.html

・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html

・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html

・オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002189.html

・気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002095.html

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2006年02月15日

お金に「正しさ」はあるのか

・お金に「正しさ」はあるのか
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貨幣に媒介されてあらゆるものが流通してしまう現代。芸術、学術、性愛、そして人間の生命でさえも値段が算出されて売り買いの対象になってしまう。この社会では「市場で取引の対象になり得ること」と「社会的に価値が認められていること」は密接に結びついている。売れないものは価値がないし、売れるものを作れない人間は半人前という扱いになる。

ビジネス社会では、市場で売れるものは良いものであり、儲かることは正しいことだと私たちはしばしば錯覚してしまう。この論理を敷衍すると市場において流通することが、社会的正義であることにもなる。戦争を推進する正義もしばしば、経済的下部構造の得失原理に突き動かされる。

この本では、貨幣の強い影響力についてマルクスの資本論の一節が引用されている。


物はそれ自身としては人間に対して外的なものである。したがってまた譲渡しうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、対することが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない。それがいま家父長的家族の形態を取ろうと、古代インドの村やインカ国等々の形態をとろうと、同じことである。商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる(『資本論(一』))

貨幣経済は本来は共同体の境界での内外の取引に使われるものであった。だから、親密な家族関係においては物の売り買いは本来は存在しないはずだが、対外関係で発生した貨幣の強い影響力は共同体内部にさえも浸透していく。親子や恋人の間にも貨幣を媒介した物の流通が意識されるようになる。愛や恋にも値段がつけられる。

芸術や学術のように「すぐには金に換算できない」知的な営みの価値も、実際には「すぐには」がポイントなのだと著者は言う。すぐには換算できない価値も残っていてほしいと願うから人々はそれに投資するが、まったく貨幣に変換する見込みがゼロならば、そもそも社会的関心とならないだろうという。

表現者は現在の経済価値と無縁な「ものめずらしい」物を作り出そうとする。だが、市場経済では、多様な関心を持つ人間がいるので、そのものめずらしさに経済的価値を認める人たちがでてくる。いや、私はまったく稼ぐことに関心がないという表現者は、その実、余剰で生きていられる人なわけだ。食べないと死んでしまうわけだから。

結局、人間の営みはどうやっても貨幣価値から逃れることができないということになる。

すべてを飲み込んでしまう貨幣の魔力を著者は「ファンタスマゴリー」効果と呼んでいる。これは、人間が作り出した「商品」が逆に人間の振る舞いを支配するようになる現象を形容するための隠喩として、マルクスが資本論の中で使った言葉だ。語の由来は、物に光を当てたときにできる影を観客の前に大きく写す幻灯装置のことである。人間の欲望という光によって、貨幣の影絵はすべてを包み込む。

ファンタスマゴリーから逃れることができないのであれば、正義も貨幣を媒介して実現するしか方法はないのだと著者はお金と正しさの関係について結論している。ファンタスマゴリーを否定して「人間ひとりの命は地球より重い」というのは詭弁だともあとがきに書いている。

昨年賛否両論だった、「ホワイトバンド」キャンペンは貨幣と正しさについて考えさせられるいい機会だった。。

・ほっとけない 世界のまずしさ
http://www.hottokenai.jp/


この運動の背景にある営利企業サニーサイドアップは上手にファンタスマゴリーを正義と結びつけるころで儲ける、したたかな会社であるようだ。

・さて次の企画は
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050911

このほっとけない運動に対するアンチとしてこんなサイトもみつけた。

・ほっときたい 世界のまずしさ
http://www.hottokitai.jp/
・FrontPage - ホワイトバンドの問題点
http://whiteband.sakura.ne.jp/

実のところ、ホワイトバンド運動の本質はマネーなのかラブなのかよくわからない。

結局、貨幣もまた刃物と同じで、それを使うものの意図次第ということなのだろう。これは「会社は誰のものか」という本で「志の高い人のものであるべき」とした結論とも通じるものがあるなあとおもう。主語をテクノロジーと変えても同じことが言えるだろう。

・会社は誰のものか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003567.html

貨幣も会社も技術も、ネットワークを通じてファンタズマゴリーの効果で、自己増殖し、過去にないほどに大きな影響力を持つようになっている。「正しさ」を「神」にも「聖なるもの」にも依拠できなくなった現代。この本を読んでおもったのは、最も大切なのは、したたかに貨幣のファンタスマゴリーを利用して、公共性のあるビジョンを実現するリーダーであるような気がした。。

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2006年02月14日

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

・国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて
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昨年度のベストセラー。出版時、絶賛する書評が多すぎて、天邪鬼な私は今頃読んでしまった。

やはり、凄まじい本だった。

著者は佐藤優 元外務省主席分析官。「鈴木宗男事件」で背任と偽計業務妨害容疑で東京拘置所に512日間拘留され、第一審判決は懲役2年6ヶ月、執行猶予4年。事件当時「巨悪のムネオ」の右腕としてマスメディアに大々的に取り上げられた人物。政敵田中真紀子がいう「伏魔殿」の「ラスプーチン」である。

政治・官僚ドキュメンタリとして近年まれに見る極めて面白い本だ。

もちろん、この本の内容は控訴中の人間の弁明であるから、何が真実なのかは分からないが、「政治の闇」に深く切り込んだ一冊であることは間違いないように思える。著者の容疑内容(背任であって贈収賄ではない)や逮捕前後の行動からも、私心のなさはうかがえる。この本における自らの行動と経緯の説明も一貫した理念にもとづくものとして説得力がある。

登場するのは政治家と官僚、検察の頭脳明晰なエリートたち。ある意味、この全員が確信犯なのであり、著者の言う「国家の罠」を組織的に作り出す構成員たちである。だが、いくら優秀な才能とはいえ感情のある人間である。必死の攻防の中にドラマが生まれる。

連日の担当検察官の取調べとその中で生まれる著者との奇妙な友情は感動的でさえある。互いの知力の限りを尽くして、逮捕された官僚と、追い込みをかける検察官は、静かな戦いを繰り広げる。検察官自ら、これは「国策捜査」だと宣言し、無罪はありえないので落としどころを共に探る提案を出す。


被告が実刑になるような事件はよい国策捜査じゃないんだよ。うまく執行猶予をつけなくてはならない。判決は小さい扱いで、少し経てばみんな国策捜査で摘発された人々のことは忘れてしまうというのが、いい形なんだ。国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへんな能力があるので、今後もそれを社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが特捜検事の仕事なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追及するのはよくない国策捜査なんだ

国家組織を円滑に運営していくには、時代の変化に対応して、古い部分を切り捨てなければならない。著者は時代の変化を、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換と分析している。二つの路線が交錯する場所に鈴木宗男がいて、時代のけじめのために、我々は犠牲になるのだという認識がある。

著者が弁護団に依頼した弁護方針は

1 国益を重視し日本外交に実害がないようにすること

2 特殊情報(外交上国家機密に関わるようなこと)の話が表に出ないようにすること

3 鈴木宗男との利害が対立した場合は、鈴木氏の利益を優先すること

であった。

飽くまで外交官のロマンに殉じる覚悟の表明であった。

こんな著者の心意気とプライドを認めた担当検察官は、取調べの密室の中で著者の言い分の最大の理解者になっていく。しかし、お互いの利益は相反している。やるべき仕事がある。完全に気を許すことはできない。二人は最後まで握手をすることはなかった。だが、国家の罠の対岸で互いの立場を尊重しあう深い絆を形成していたように思える。その過程が本書の最大の読みどころである。

読み終わって私は著者に90%共感したのだが、10%疑念もある。結局のところ、この本を書いている人も、出てくる人も、共に一般人からは「魑魅魍魎」の一員である。とにかく情報戦を得意とする著者であるから、出版も完成度の高い弁明作戦の一環と思えなくもない。政治の世界からは手を引くような記述はあるのだが...。

そういえば、

・鈴木宗男氏
http://www.muneo.gr.jp/html/flash_index.html

復活してすっかり元気なようである。

「大怪我で入院して帰ってきた人気悪役プロレスラー」みたいな印象で、今度は外務省の汚職を追求する方に回っている。歯切れのいいコメントにうっかり、好感を抱いてしまったりする。そこらへんが魑魅魍魎政治家やらラスプーチンの怖さなのである。

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2006年01月31日

とにかく目立ちたがる人たち

・とにかく目立ちたがる人たち
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ホリエモン(堀江社長)、タイゾーくん(杉村議員)、ヤスオちゃん(田中知事)など、ここ数年の日本は、この本のいう「目立ちたがる人たち」に翻弄されている。劇場化、エンターテイメント化される社会の中で愛される「目立ち」とは何か。かつて、日本社会では敬遠されていた目立ちたがりが、近年、好意的に迎えられているのはなぜか?を、「キャラ立ち」「ヘタレ」「天然」などのキーワードで心理学者が解説する。

人格障害研究の権威セオドア・ミロンの学説から、目立ちたがりには「演技性」「自己愛性」の2つの類型があると説明がある。病的と正常には厳密な一線は引けないという前提で、

・演技性パーソナリティ 
「飲み会の際に誰よりもノリよく、はしゃいで盛り上げ、座の中心になる」

・自己愛性パーソナリティ 
「ブランド品で寸分もなく身を固め、つんとすまして歩いて、道行く人を振り返らせる」
とタイプわけしている。

演技性パーソナリティは心理学では「ヒストリオニクス」と呼ばれるそうだ。大げさな、芝居がかった表現を好む。よくいえば社交的でオープンマインドで精力的にみえる。米国では理想的なパーソナリティとして受け入れられる。一方で刺激好きで一貫性がないのも特徴となる。「他人に気に入られたいという行動原理だけで、自分の中に一貫した価値基準がない」ためだ。「いろいろな人がかまいすぎ」な環境で育てられると、このタイプになりやすいらしい。杉村太蔵議員がこれに近いという。簡単にいうと、自信がないヘタレなのでもある。

自己愛パーソナリティとはつまりナルシストである。「なりたい私になっている」空想に夢中な人たち、である。理想化されたイメージへののめりこみに基づいて行動しており、感情に基づいて行動していないのが特徴。ブランド物買いなど誇示的消費で、自己の優越を誇示しようとする。自身の行動を過大に評価させる自己アピールが多い。田中康夫知事がこれに近いという。自信過剰のハッタリが本質である。

この本は事件発覚前の出版だが、ホリエモンについて著者は、彼はナルシストではなく、「反社会性パーソナリティ」だと指摘している。空想で満足できる性格ではなく、欲しい物には現実に手を伸ばす「欲」の人だという。当たっていたかもしれない。

本来の日本社会の心性は、依存性、強迫性、自虐性で目立たないことが良しとされた。人知れぬ善行こそ美徳であり、外の秩序に溶け込んで調和することが成熟したもののあるべき姿であり、自らを楽しませたり輝かせることは好ましいことではなかった。だが時代は変わり、楽しむことが肯定的な社会になった。見ていて楽しい人物が人気が出るようになった。キャラ立ちは価値になった。

そしてヒストリオニクス、ナルシストという2つのタイプの目立ちたがり屋有名人が注目と人気を集めている。最近ではただ目立つだけではだめで、作為性のない目立ち、すなわち「天然」が最強のキャラになりつつあると著者は分析している。そして他人を楽しませなければならないと常に考えているヒストリオニクスであればなおさら強い。天然ヒストリオニクス、その代表例として小泉首相の名前が挙げられている。

目立ちたがる人々はインターネットですぐみつかる。ブロガーだ。昨年の総務省の調査によると、週に1度以上更新するアクティブなブロガーが100万人規模でいるようである。ブログ界ではまだ普通のヒストリオニクス優勢に見えるのだが、この目立ちたがり競争の中でも、最後に勝つのはやはり天然なのだろうか。

ところで、コンテストの告知をお手伝いしたアルファブロガー企画が結果を発表している。新たな10人の目立ちたがり屋さんが投票で選出された。真性引き篭もりさん見事受賞!(私の昨年度ベスト1ブログとして紹介したのだが、これは本人喜ぶのだろうか?)

・アルファブロガーをもっと探せ 2005 結果発表
http://alphabloggers.com/

次は天然ブロガーを探せ、かも?。

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2006年01月19日

10年後の日本

・10年後の日本
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この新書は、同じ編集部による820ページ超の「日本の論点」の簡易版といえる位置づけ。

・日本の論点2006
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論客雑誌「論点」はサイトも充実している。

・文藝春秋編 日本の論点PLUS
http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/so-net/

ただ、14年の歴史のあるこの大作は読破するには手ごわい。個別の問題を深く掘り下げたいのでなければ、大局を知る上にはこちらの方が簡潔にまとまっている。取り上げられた論点は次の10個。

各章をタイトルとともに一言で説明してみる。

1 変わる日本社会のかたち

格差の拡大と治安の悪化、見直し迫られる消費税、老朽化するインフラ。

2 鍵をにぎる団塊世代

700万人の無職老人。危ない退職金、年金制度。

3 ビジネスマンの新しい現実

ものづくりの力の減退と外国人労働者増。

4 漂流する若者たち

フリーター500万人時代、ニート100万人。

5 世代が対立する高齢社会

保険料引き上げと、のしかかる介護問題

6 家族の絆と子どもの未来

増える虐待、教員不足、子どもの学力、体力低下

7 男と女の選択

出生率の更なる低下、専業主夫20万人

8 地球環境の危機

30年以内に70%確率で起きる首都圏直撃大震災、エネルギー危機、食糧危機、温暖化

9 グローバル経済の奔流

国債の破綻とふたたび景気停滞、中国とBRICs諸国台頭。

10 不安定化するアジア

北朝鮮統一と中国共産党の崩壊、テロの脅威拡大


経済と社会の観点では、2007年から一斉に引退が始まる、団塊の世代の老後の過ごし方が、日本の10年後に大きな影響を与えることが確実のようだ。4人に1人が老人の社会。彼らの資産がどのように使われるか、その消費が若い世代の経済活動とどう結びつけられるかが、日本経済復活の鍵になりそうだ。若者が創意工夫で作り出すサービスで、団塊の世代が喜んでカネを出し、豊かな老後を過ごせるのが理想。

危機という観点では、犠牲者1万3000人が想定される関東大震災よりも、64万人が死亡すると推計された新型インフルエンザの方が怖いように思えた。SARSは専門家の国際協力により、大規模な感染を未然に防いだ実績がある。予防する手段がある危機と言う点で、エマージングウィルス対策こそ重要かもしれない。

勝ち組、負け組の格差の問題はやはり最大の論点のようだが、思うに格差は相対的なものである。世界でみたら日本は相対的にとても豊かな国だ。世界レベルの格差を国民的な論点にして、その解決を国内の勝ち組も負け組も一緒に考えた方が、「世界の100年」という大論点では、有益なのではないだろうか。

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2005年12月26日

もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安

・もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安
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ドイツのフィナンシャルタイムス紙 年間最優秀経済書受賞作品。

大人の人生はすべて、二つのラブストーリーで決まる。第一は性的な愛の探求の物語。もうひとつは世間からの愛=ステイタスの物語。他者に認められたいという思いは、組織中心の時代になって、一層、一般的で、切実なものになってきた。

米国の労働者のうち、他人に雇われている人間の比率は、1800年には20%だったものが、1900年までに50%になり、2000年までに90%に達したという。500人以上の組織に所属する人間の比率は1900年には1%だったのに対して、2000年には55%に達した。大きな会社組織の中で、一定のステイタスを得たい人間が過半数を占めることになった。それは希望の裏返しとしての、ステイタスの不安に悩む人々の社会になったということでもある。

「勝ち組」「負け組」という言葉もステイタスの不安が生んだ言葉だろう。能力主義社会は、富めるものは役に立つものであり、貧しいものは愚かで役に立たないものだという価値観を人々に押しつける。古代では腕力が強い人間が勝ち組で、弱い人間は負け組であった。いかにキリストの正統な教えに近いかが社会的地位を決めた時代もあった。

ステイタスの不安の根源は、そうした時代状況や権力関係がつくりだす画一的な価値観にある。この本では、近代以降の社会における、ステイタスの不安と超越の歴史が語られる。世間からの愛を感じる、その感受性を変えることで、人はもっと自由に生きることができると説く。


ステイタスの不安の成熟した解決は、ステイタスとはさまざまに異なる観衆から受け取ることができるものだと認識するところから始まるーーー産業資本家からも、ボヘミアンからも、家族からも、哲学者からも。そして誰を観衆に選ぶかは、わたしたちの自由だし、わたしたちが欲するままだと認識するところから始まる。

哲学、芸術、政治、宗教、ボヘミアの5つの分野で、人々がいかにオルタナティブな価値観や生活経済の基盤をつくり、ステイタスの不安を超越してきたかが、後半の主要テーマとなっている。これらの分野では大衆に認められずとも、既成の価値観に対して、批判的価値観のヒエラルキーを打ちたて、独自の社会的ピラミッドの中に生きることを選んだ人たちがいる。

プライドを持って生きること、少数でも尊敬しあえる人間関係を築くこと、金銭的報酬以外の報酬で豊かなライフスタイルを形成すること。愛を求める観衆を誰にするか、理想とする価値観は何か、を自分なりにとらえなおすことで、人はもっと幸福で満ち足りた社会関係をつくりだせるはずだというのが著者の結論である。

たとえばその「観衆」がブログやメールマガジンの読者だっていいはずだ、と思う。インターネットで個人の情報発信が盛んな理由、オープンソースプロジェクトに腕のあるプログラマが好き好んで参加する理由、ソーシャルネットワークで日記を書くのが楽しい理由。そうした行為の多くは、この本が語るもうひとつの愛の物語と関係が深そうな気がしている。

・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html

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2005年12月23日

人に言えない仕事はなぜ儲かるのか?

・人に言えない仕事はなぜ儲かるのか?
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裏稼業の暴露本のようなタイトルだが、内容は税制、税金対策についての本である。つまり、税金を払わない、ごまかせる、水面下のビジネスはとにかく儲かるという話につながる。

一般にはあまり知られていない商売の裏側もでてくる。


なぜソープランドの経営は違法なのに堂々と営業できるのだろうか?じつはソープランド業界には、売春防止法をクリアするための巧妙な建前がある。

その建前とは、自分たちが営業しているのは、高級感あふれる「お風呂屋さん」で、店にくるお客さんは入浴料を払って、ゴージャスな入浴を楽しんでいるだけという理屈だ。

個室のなかで、何かいかがわしい行為があっても、それは自分たちの知らないお姉さんがお店の中に勝手に入ってきて、お客さんと自由恋愛をしているのであって、自分たちの営業とはなんら関わりがない。

ソープランドは自由恋愛の場であると言う建前を知って衝撃である。

風俗にせよ、違法ドラッグにせよ、ニセモノ販売にせよ、多くのアンダーグラウンドビジネスは、禁止する法律があるから市場が形成されているのだと著者は指摘している。麻薬が合法化されているオランダでは、日本では闇市場で価格が高騰している薬が、お小遣い程度の価格で買えるそうだ。禁止する法がなければ需要と供給の市場メカニズムに従って生産と流通が増え、価格は安くなる。禁止が背後で誰かを儲けさせている。

裏稼業の中で、私が気になっていると同時に迷惑を蒙っているのは、毎日何百通も受けとるスパムメールのビジネスである。この内情については、オライリーがドキュメンタリ本を出している。

・スパマーを追いかけろ―スパムメールビジネスの裏側
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メールは送るのはタダなので、1万通に1通、10万通に1通でも反応があれば、広告ビジネスとして成り立ってしまう、と言われていた。だが、スパム業者の数も増えてきた。そろそろ反応率も100万分の1だとかになってしまうのではないか。スパム業者も採算割れを起こしてはいないだろうか。これに対して、カタギには、アンチスパムソフトの市場があってスパム増大に伴い、大きくなっている。

すると、ふとこんなことを考える。

スパム業者とアンチスパム業者、どちらが儲かっているのだろうか?

もしかして既に、後者ではないか?

税金対策にせよ、裏稼業にせよ、対策ビジネスにせよ、立ち回り方の才覚一つで儲けが決まる。人に言えない仕事も、言える仕事も、儲けるには創意工夫なんだよという妙な教訓を得た一冊であった。

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2005年08月18日

犯罪は「この場所」で起こる

・犯罪は「この場所」で起こる
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犯罪のほとんどは入りやすく見えにくい場所で発生している。

それはなぜなのか、どうしたら犯罪に合わずに済むか、の最新の研究。

■原因論から機会論へ、処遇から予防へ

従来の犯罪対策の主流は原因論にもとづいていた。犯罪者がなぜ犯罪を起こしたのか、犯人の生い立ちや環境を調べ、その原因を排除するような施策を立案してきた。マスメディアも犯罪の動機や原因の解明に躍起になっている。しばしば、父親の不在やテレビゲーム、リストラ、ストレスが原因だなとと結論されるが、そうした要因はどこにでも、誰にでもある、ありふれたものであって、対策の施しようがないことが多かった。

新しい機会論ベースの犯罪対策では、犯罪の発生を経済学的に分析する。


つまり、潜在的な犯罪者は犯罪機会を欲しがる者(需要者)であり、潜在的な被害者は犯罪機会を与える者(供給者)なので、実際に怒る犯罪の量は、犯罪機会の需要(個々人の需要量の総和)が一致するところで決まると考えるのである。

機会の需要曲線が右下がりになるのは、犯罪機会を利用するコストが高い場合には、犯罪者は犯行をためらいがちである(機会需要量が少ない)が、逆にコストが低い場合には、犯罪に手を染めやすい(機会需要量が多い)と考えられるのである。

これは犯罪機会の供給サイド(被害者)に注目する理論であり、犯罪者の処遇を施策とするより、予防によって犯罪の機会を減らそうとする考え方だ。特に犯罪の起こりやすい場所を減らすことがこの本のテーマである。大阪小学校児童殺傷事件の犯人は「門が閉まっていなければ入らなかった」と供述している。場の性質が犯罪発生にかかるコストを左右する。

■犯罪に都合の悪い場所、良い場所:抵抗性、領域性、監視性、

「時間がかかる」、「技術がいる」、「見られている」、「見つかりやすい」場所では犯罪には多大なコストがかかる。逆に「手軽にできる」、「死角になっている」、「見逃してもらえる」環境ではコストが低くなる。コストによって犯罪機会の需要は多くなったり、少なくなったりする。

犯罪発生に関係する要因として次の3要素が挙げられていた。

抵抗性 犯罪者から加わる力を押し返そうとする力 恒常性、管理意識
領域性 犯罪者の力が及ばない範囲を明確にすること 区画性、縄張意識
監視性 犯罪者の行動を把握できること 無死角性、当事者意識

この中で特に領域性と監視性が場所に関わる要因である。言葉だけでは分かりにくいので、どのような場所が犯罪が多発するのか、写真入りで現場を紹介している。大きな遊具があって全体を見渡せない公園や、入り口に大きな樹木があって教員室から外部からの侵入者を発見できない学校など、入りやすく、見つかりにくい隠れた場所が危ない。

ブロークン・ウィンドウズ(割れた窓ガラス)と呼ばれる犯罪理論もある。落書きが多かったり、物が壊されたままになっているような場所では、犯罪が起こりやすい。上の3要因でいえば、縄張意識と当事者意識が低い場所であるからだ。

落書きを消したり、監視カメラをつけるなどの施策によって犯行に「都合の悪い状況」を作り出すことが、犯罪率低下に効果があると結論されている。それにはまず、発生率の高い場所をみつける必要がある。

■犯罪発生マップ作成のすすめ

そこで推奨されるのが、地域コミュニティで犯罪発生マップを作成してみること。犯罪が起きた場所というより、犯罪が起きそうな場所を地図で色分けしていく。この本では学生が作成した事例が紹介されている。詳細な実物が見たいと思ってWebで探すとたくさんみつかった。

・犯罪発生マップ - Google 検索
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&newwindow=1&c2coff=1&rls=GGLD%2CGGLD%3A2005-14%2CGGLD%3Aja&q=%E7%8A%AF%E7%BD%AA%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97&lr=

東京都の場合、このようなマップになるそうだ。


・犯罪発生マップ(警視庁作成、東京都)
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/toukei/yokushi/yokushi.htm
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インターネット犯罪でも、犯罪発生マップはつくれるのだろうか。たとえばホームページの背景が黒だとクラックされやすい、であるとか、ドメインのつけ方によって、犯罪者に狙われる確率が変わる、など。もしかするとオンライン犯罪にも都合の良い、悪い状況があるかもしれない。これからの研究になるのだろう。リモートからシェルにログインを試すと、「このサーバはFBIの監視下に置かれています」なんてメッセージが表示されるサーバはどうだろうか。侵入者は諦めてくれるだろうか。


個人や家族の身の安全を考える上で、最近の理論が分かりやすく示されていて、参考になる本だった。感想としては「君子危うきに近寄らず」が安全なのだなということ。

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2005年06月30日

カーニヴァル化する社会

・カーニヴァル化する社会
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この本のいうカーニヴァルは、2ちゃんねるで突発的に起きる「祭り」のような、歴史や物語とは切り離された度を過ぎた祝祭ムーブメントを指している。明確な「動機」や目指すべき「理念」、依拠すべき統一的な「物語」を欠いた祝祭が日常化することの背景と意味が考察対象となっている。

こうした祝祭ムードを醸成する重要な要素として若年層の労働環境問題が最初に取り上げられる。ニート・フリーターの増加、モラトリアム層の増加、不毛なやりたいこと探し、将来に確信が持てない状況が、若者の心に一種の躁鬱的な人格分裂をもたらしていると著者は論じている。ネットの祭りが過剰にポジティブだったり、ネガティブだったりする理由となる。

昔は家庭から会社へ一直線につながるライフコースがあって、若者は子ども時代は家庭に甘え、成長したら会社に甘えることで一人前のゲタをはくことができた。しかし経済の低成長時代に入り、雇用が減少すると会社に甘えることができなくなる。モラトリアムに入った若者は、就職面接でも聞かれる「やりたいこと」探しを始める。だが、社会と希薄な関係性しか持たない状態で「やりたいこと」や「本当の自分」を無理やり捻り出そうとしても、貧困な答えしか出てこない。そのような宙ぶらりんな若年層の気持ちのはけ口としてインターネットの匿名掲示板が使われているということのように読めた。

またカーニヴァル化を支えるテクノロジーとして、自己監視社会とデータベースが取り上げられた。監視カメラやセンサー、コンピュータとネットワークの個人情報管理技術の発達は必然的に監視社会化を強化する。また、偏在するデータベースは個人情報を外部が監視するのに使われるだけでなく、自分自身が使うものになっている。


気がついてみれば私たちの周囲は、データベースとの相互審問によって、自己の欲望するべきものについての理解を得るような振る舞いで満ちあふれている

データベースとの相互審問の事例として、よく聞いている曲のランダムリストが作成される音楽プレイヤーiTunesや、ユーザの購入状況から自動的に関連書が推薦表示されるオンライン書店アマゾンが例に挙げられている。よく聴く楽曲や、買う本をデータベースに登録する代わりに、欲望を刺激する推薦商品リストが提示されるということ。

こうしたデータベースとの審問を通じて喚起される欲望は消費スタイルを変化させる。マスメディアが、「今はこれが流行です、もっていないと遅れますよ」と宣伝して買わせる消費は、情報化の進展に伴い退潮するという。その代わり、誰かが薦めるからではなく、自分にとってネタになるかどうか、で消費するものを決める「ネタ消費」の時代に変わりつつあるのだと指摘している。

そして、現代は、歴史的な価値観を共有する共同体ではなく、


ある種の構造を維持していくことではなく、共同性 ーーー<繋がりうること>の証左を見出すことーーーをフックにした瞬発的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となっているのである。

という意味で感性を一時的に共有することを重視した共同性の時代なのだとまとめられている。

ビジネスマンとしては、こうしたキター!風のカーニヴァルの中で大量に「ネタ消費」できるモノは何か、どうしたらそれが売れるか、が気になってくる。最近のアマゾンを初めとしたWebショップの売れ筋にも、確かにネットの祭りと連動したネタ消費が上位に入っていることが多いと思う。

このブログで発生したネタ消費では、

・Passion For The Future: キッパリ! たった5分間で自分を変える方法
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002147.html

これなど代表例である。この本は実によく売れた。(それ以上にコメント欄が荒れた...)。

雇用問題から、監視社会、データベース、共同体から共同性へとテーマは各章でめまぐるしく変わる。この本は、(著者自身もそのように前置きしているのだが)全体として一貫した論理にまとまっているとはいいがたいように感じた。だが、各論についてはどれもとても面白く、時代の空気を的確につかんで考察している部分が多い。ネット社会の最新のキーワードを見つけたい人におすすめ。

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2005年05月01日

問題解決のための「社会技術」―分野を超えた知の協働

・問題解決のための「社会技術」―分野を超えた知の協働
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「社会技術」とは、社会問題を解決し、社会を円滑に運営するための技術である。ここで技術とは広い意味での技術であり、科学技術システムだけでなく、法制度や経済制度、社会規範など全ての社会制度システムを包含している。

社会技術の例として「船が沈むとき、船長は船とともに沈む」があるという。天文学や羅針盤などの工学技術でいかに安全な船を建造しても十分ではない。荒れ狂う海で、船長の支持に命をかけて従う船員たちが拠り所にしているのは、法制度でも経済制度でもなく、船長への信頼である。その信頼の源は「船が沈むとき、船長は船とともに沈む」という規範だった。船の工学技術とこの規範を組み合わせたものが、長年、船の安全性を確保してきた社会技術であると説明がある。

現代の社会問題は解決が困難な課題が多い。その原因として著者は次の3つを挙げている。

1 問題の複雑化
2 問題の高度化
3 価値観の多様化

現代において大きな社会問題が発生すると、政治、経済、技術、医療、法律など特定分野の専門家が登場する。だが、専門家の狭く深い知識だけでは、2の問題の高度化を少し紐解ける程度で、問題全体の解決にならないことが多い。環境問題は科学者の意見だけでは解決できないし、経済不況を経済学者の意見だけで脱出できるわけでもない。いくら技術の専門家が理論的に正しくても、多様な価値観を持つ国民が納得しなければ、社会の問題としては最終解決できないものだ。

そこで、こうした社会問題を解決する社会技術の特長が二つ挙げられている。

1 活用できる知を総動員すること
2 問題を俯瞰すること

1については、個別領域で蓄積された問題解決のノウハウを統合して、問題解決の一般的方法を探るアプローチを取る。たとえば医療のインフォームドコンセントと原子力におけるリスクコミュニケーションを並べて比較してみる。何が同じで何が異なるのか。その比較から、理論的なアルゴリズムだけでなく、現実に有用なヒューリスティックを取り出せないかを検討する。セレンディピティや創発のための異分野コミュニケーションプロセス。

著者は文科省主導で科学技術振興機構において行われている「社会技術研究ミッション」のリーダーの一人。このプロジェクトでは、安全性に関わる社会問題の解決をテーマに以下のような異分野統合が試されている。

・社会技術研究ミッション・プログラムT
http://www.ohriki.t.u-tokyo.ac.jp/S-Tech/M1/
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2は、特にコンピュータやデータベースを活用して、複雑な問題を俯瞰することに重点がおかれる。このプロジェクトの中で、コンピュータを使った情報可視化の具体例が見える。現実の問題が立体なら平面に単純化せずに、ありのままに構造を理解しようという試み。

・地震防災問題知識構造ビューア
http://www.ohriki.t.u-tokyo.ac.jp/S-Tech/M1/group_soukatu/EDPDBV_1.10/html/index.html
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こうした社会技術研究の背景には、人間は生まれながらにして問題解決の能力が備わっているという人間観がある。そして問題解決の設計方法には普遍性があり、それは橋の設計や機械の設計、ソフトウェアの設計を行う、設計学の体系と似ているのではないかと指摘がある。だから、問題解決のための普遍的な方法論は、ひとつの学問領域として存在しえるのではないか、というのが、この本の仮説である。

この社会技術研究、とても興味がある。本当に問題解決の方法論に普遍性があり、それを支援するツールが作れるのならば、個人の人生から、人類全体の課題まで幅広く及ぶ、役立つ知識が得られる。

それは、この本で紹介されていたハンガリーの数学者ポリアが「いかにして問題をとくか」で論じた数学問題のヒューリスティックみたいなものだろうか。

・いかにして問題をとくか
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・何が未知であり、どんなデータが与えられ、どんな制約条件があるのかを明らかにせよ
・よく似た問題を思い出し、現在の問題と関連づけよ
・問題が解けなければ、別の関連した問題、より一般的な問題、より特殊な問題、類似の問題を先に解け

これらはかなり有効な方法論だろうけれど、何か根拠があるわけではない。数学問題を解こうとする人たちが集約した知恵である。社会問題分野でもこうした十分なヒューリスティックが見出せれば未来への手がかりになる。

しかし、こうしたプロジェクトが10年、20年後に出す答えとしての方法論は、何百年、何千年前から伝えられてきた格言や言い伝えに近似したものになる予感もする。「急がば回れ」だとか「百聞は一見にしかず」、あるいは「案ずるより産むが易し」とか...。

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2005年04月17日

世間のウソ

・世間のウソ
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宝くじのウソ、自殺報道のウソ、安全性のウソ、〈事件〉をめぐるウソ、男女のウソ、人身売買のウソ、性善説のウソ、〈子ども〉をめぐるウソ 、精神鑑定のウソ、児童虐待のウソ、部活のウソ、〈値段〉をめぐるウソ 、料金設定のウソ、絵画市場のウソ、オリンピックのウソ、〈制度〉をめぐるウソ、裁判員のウソ、大国のウソ、他国支配のウソなど、世の中の欺瞞、タテマエを次々に暴いていく。

億万長者になる夢を国民に与えるはずの年末ジャンボ宝くじ。その夢の実現度の低さを数字で検証する。すると、1等に当選する確率は1000万分の1。交通事故で死んだり大怪我をする確率の9万2651倍で、落雷で1年以内に死ぬ確率の10倍も高いという計算が示される。買わなければ当たらないのは確かだが、宝くじを買いに出かけた帰りに車に轢かれる確率の方が高いのだと著者は述べている。

当たり前だが「よく当たる店」神話も嘘で、その店は販売枚数が多いに過ぎない。2003年には「億万長者が144人!」「1万円が史上最多」という宣伝が行われたが、実はここ数年で、1等の当選確率を98年の4分の1にまで減らされているという。これらの数字を見てしまうと、宝くじほど効果の低い投資も珍しいことが分かる。

投資としてほとんどドブに捨てるに等しいわけだが、今日、出張先の京都の電車でこんな広告を見つけて友人と話題になった。

・ジャンボ宝くじ付き定期預金
http://www.surugabank.co.jp/appl/rate/dream.jsp

当たれば、3億円。外れても、通常の定期預金のお利息が付きます。
定期預金は変動金利型の3年定期。利率は半年毎に見直されますので
金利上昇時にも安心です。
定期預金に付いてくる宝くじの枚数は、お預け入れの定期預金額に応じます。
もちろんお預け入れが多いほど、3 億円のチャンスは多くなります。

100万円預けると3年で30枚の宝くじが郵送されてくるというもの。くじの購入代金9千円がコストとしてのせられているわけだから、この預金もお得とは言いがたいはずなのだけれど、私たちはついついだまされてしまう。

そういえば、昨年ライブドアが運営していた宝くじの共同購入も本来、無意味なわけだが、なぜか熱く盛り上がっていた。説明ページにはこんなメリットが書かれている。

・livedoor 宝くじ
http://loto.livedoor.com/kyoudou/

ひとりで買うより当選しやすくなる。
 発行された宝くじの総枚数に対して購入者が共同購入した宝くじが多くなるため、当選の確率が高くなります。

小額での参加でも大きな当選金分配が期待できる。
 当選金は購入口数に応じて分配されるため、高額当選の場合、小額の購入でも多額の分配金を手にできる可能性があります。

当選しやすくなる、期待できる、可能性がある。ここにも嘘ではないけれどウソが隠れている。

この本では他に「民事不介入の原則」など存在しないこと、鳥インフルエンザの感染リスクはほぼゼロだったのに大騒ぎしていたこと、激増などしていない幼児虐待と自殺などが取り上げられている。

新聞やテレビの報道をよく見れば見るほど世間のウソに騙されてしまうのが怖い。

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2005年03月02日

権威主義の正体

・権威主義の正体
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■過度に単純な認知スタイルが権威主義的人格の正体

権威と権威主義は異なるもので社会心理学の定義としては「権威主義とは必ず悪いもの」だとし、その正体を解明する。とても面白い。この先生はそれにしても面白い本が多いなと思ったりするが、そういう気持ちも「属人的」評価で権威主義の一種らしい。

著者は「権威主義的人格とは、複雑な事柄を単純に認知しようとする認知スタイルの個人差から派生している」と述べている。権威主義的人格の行動には「あいまいさへの低耐性」「反応の硬さ」という特徴があるそうだ。物事を多面的、多元的に考えてそのまま受け止めることができない、弱い人間が権威主義に陥る。

状況次第で誰でも権威主義に陥る傾向があることも解明されている。この本では、
・アッシュの同調実験 「どちらの線が長い?」と尋ねる
 サクラの意見に影響されて自分の信念が変わってしまう人が続出した

・ジンバルドの監獄実験 「あなたは看守、あなたは囚人」状況
 役割を与えられた看守役は、囚人役に対して驚くほど残忍に振舞った

・ミルグラムの服従実験 「間違ったら回答者に罰を与えなさい」命令
 命令に従い激しい電気ショックを他人に与え続ける人が多数

など、有名な社会心理科学の実験が紹介される。

権威主義的な人格には服従、同調、同一視という行動特性があるということがわかる。

権威主義の正体は、第2次大戦時のドイツのホロコーストの原因探しという目的で、活発に研究されてきた。ドイツのユダヤ系哲学者で社会学者のアドルノの分類によると、権威主義者は以下の7タイプがあるという。

教条主義的人格 
ファシスト傾向 
因習主義的人格 
反ユダヤ主義 
自己民族中心主義 
右翼的権威主義 
形式主義 

著者はこうした権威主義とタイプは、現代社会、企業組織の中にもはびこっていると次々に実例を挙げてみせる。各タイプの典型的な発言や行動がとても具体的で、「いるなあ、そういう人」と知人の顔を思い浮かべたりしてニヤニヤしていると、次は自分のことを指摘されたのではないかとギクっとするような事例が出ていたりする。誰もが権威主義的な面を持っているのだ。

■権威主義的な本選び

ところで自分を振り返ってみて実に権威主義的だなあと思うのは本の選び方。大抵、本屋の店頭で数冊まとめ買いするのだが、タイトルと目次に満足したら、最終判断は著者プロフィールである。それが有名大学の年配の教授だったりすると即決。マスメディアで活躍している人物、有名企業の役員の本も買いやすい。”ガイジン”の翻訳モノにも弱い傾向がある。

実際に読んでみるとエライ、有名な先生の本が必ずしも優れているわけではないことは、このブログの書評歴でも明らかである。しかし、逆も事実である。無名の著者が小さな出版社で出した本のハズレ率も結構高いのだ。本を読むにはお金や時間のコストがかかる。失敗を避けるために、便宜的に、権威主義的な選択をしてしまう。たぶん、本屋で手に取りながら、棚に戻してしまった隠れた名著もいっぱいあるのだろうなと思う。

もうひとつ別の理由もある。本で得た知識を話す場合、「有名な○○先生が言うには...」で始められると知識の使い勝手が良い。これは相手の権威主義を利用して、自分の説を通す権威主義的な行動だ。この本では悪いこととされているが、ビジネスの現場ではすべてを説明する時間もないわけで、どうしてもやりがちである。

では、どうしたら無名の著者の良い本を探し当てることができるのか?。

最近ではGoogleやライブドア未来検索で書名を検索してみるとうまくいくことがあるなと感じている。検索結果一覧でざっと概要を見るといろいろな立場からの評価が分かることがある。つまりこれも、この本が言うように、多元的に見ることが権威主義の解体につながるということ。

だったりして。

と非権威主義的に書評を終わる。

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2005年02月24日

「弱者」とはだれか

・「弱者」とはだれか
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現代の日本において障害者、特定の地域(部落)出身者、高齢者、こども、性的マイノリティ、女性などは「弱者」として扱われる。外部の人間が、この「弱者」に言及するにはさまざまなタブーが存在する。マイノリティ以外の人間はその問題について語る資格がないかのように扱われる。

著者はそこには弱者の聖化という現象があるという。逆に、社会的に「弱者」として認定された人々自身はその問題について語る聖なる特権を得る。言論上、マイノリティとマジョリティの間で立場の逆転が起きる。マイノリティの権利は無条件に保護されなければならないことになったり、批判や必要な区別が許されないような雰囲気が形成されることがある、という現象だ。

その結果、「強者」は「弱者」が平凡なことを言っても拍手を送ったり、ハンディを考慮するにしても、できて当然の行為を賞賛したりする。著者はこれを両者の共犯関係がうみだす「情緒のファシズム」と呼び、相互理解の大きな障害となっていると指摘する。

この本は極めて語りにくいことについて、どう語るかの著者の挑戦である。マイノリティについてはっきり語ることで両者の本当の相互理解と問題解決ができる雰囲気を作るにはどうしたらよいかという問題についての本である。

「五体不満足」の明るさへの違和感、高齢者は皆寝たきり弱者と考える政策、優遇制度を濫用する確信犯「弱者」の存在、強者の自殺、誰も傷ついていないのにテレビの不適当な発言がありました謝罪、日本だけの「ちびくろサンボ」発禁事件、ミスコンは差別か。言いにくさをめぐる評論オンパレード。

著者は現代を過剰遠慮社会だと指摘している。解決策としてマイノリティと身近に長時間暮らすことで、大抵の差別や遠慮は自然に消えるとしている。多様な価値観を認めることで、弱者-強者の関係を流動化し、言いにくさの壁を取り払えという。すべての人が何らかの弱者でもあるということに気がつけということである。

この本のテーマは難しいと思う。「難しい問題だ」で片付けない著者は尊敬する。

「弱者」のハンディは一様ではないし、その程度を統一尺度で測ることは難しいと思う。同じハンディに苦しんでいる人もいれば、普通に生きている人もいるだろう。表面的には保護されたくないと表明していても、内面ではそれを望んでいる複雑な心境の立場もあるはずだ。だからマイノリティを保護する施策には、ある程度の冗長性をもたせる必要はあると思った。ただ、その按配がどこか狂っていることは、分かる気がする。

■ニートブームについて考える

ところでこの本を読みながら、ここでは触れられていない別のことを考えていた。最近メディアでたびたび取り上げられるニート(若年無業者)増加問題である。労働白書によると2003年時点でニートの数は53万人とされた。

そして今後の予測として次のような記事がある。

・NIKKEI NET:景気ウオッチ 増えるニート、成長率の抑制要因に
http://www.nikkei.co.jp/keiki/kataru/20041020c77ak000_20.html

では、日本のニート人口はどれぐらいか。国勢調査によれば、2000年のニート人口(15−34歳の非労働力人口のうち、通学と家事手伝いを除いた者)は75.1万人に達し、15−34歳人口全体の2.2%を占める(注)。95年調査の29.4万人と比べて2.6倍に膨らんだ(図表1参照)。試算によると、05年のニート人口は87.3万人(15−34歳人口比2.7%)となる。少子化が進み、この年代の人口が縮小する中にあっても、00年から12.2万人増加する計算だ。15年には100万人の大台を突破、20年には120.5万人(同4.8%)に達する見込みである。

この数字の算出方法にも大いに疑問が残るが、ここは認めるとして、


こうしたニートの増加は、日本経済の成長を抑制する要因になる。働く意欲を持たず、労働市場に参入しないニートの増加で、日本の潜在成長率にどれだけの下押し圧力がかかるかを検証してみよう。潜在成長率は、労働力、資本設備など生産活動に必要な要素をすべて使った場合に達成可能な成長率を示す。ニートの増加は、直接的には投入される労働量を減少させることによって、潜在成長率の下押し要因となる。また、労働投入量が減ると資本の投入量も影響を受けるため、ニートの増加は間接的に資本の投入量も押し下げる。 」

この検証方法はおかしいと思う。まず「労働力、資本設備など生産活動に必要な要素をすべて使った場合に達成可能な成長率」などという比較指標が現実的でないだろう。「日本という工場がフル稼働したらこれだけの達成可能な生産力がある」という意味だろうが、市場の需要という要請がなければ工場は稼働しないし、工場は稼動しても理論上最高の生産力はでないはずである。

日本という工場に対する市場の需要とはニートが働いた結果受け取る給料であり、消費であろう。でも、かじれる親のスネがあるうちは需要はない。スネを完食した後、明日の食べ物を買うお金に困ったニートは大半が働き始めるだろう。それでもなお清貧を貫いて、「働いたら負け」だと思う筋金入りのニートはたいしたものだ。拍手を送りたい。

結局、ニートはそれなりの資産を持つ親の世代の影に過ぎないと思う。

ニートは数の上ではマイノリティだし、定義からして社会的影響力を持たない層である。ふらふらしている人というのはいつの時代にも一定数いただろう。ふらふらの中で何かを見つける人も多い。最近ニートが目立つしても、それを養える親や社会が豊かになったということに過ぎないと考える。

「ボク、ニートなんですよう」と嬉々として主張する偽ニートも大勢みかける。よく聞いてみると、大抵は余裕のある失業者だったり、大学院生だったりする。彼らは本来は、モラトリアムを謳歌している、強者の一種と分類できるはずだ。明治時代なら高等遊民と呼ばれていたかもしれない。ダメ人間を演じている偽者は数多い。偽ニートがニートブームに拍車をかける。

だから、ニートはここまでメディアで話題にするほどの重要テーマとは私には思えないのだ。ニートは働かなくても生きていける強者だと思う。一方で働いても生きるのが難しい弱者がいるのだから。

マジョリティはニートについて語るのが好きなのだと思う。誰もがニートに対しては高い立場から評論できる。説教できる。擁護することもできる。とにかく言及することで優越感や自己愛を満足させる格好のネタだと思う。

「こういう若者が増えた日本の未来はどうなってしまうんだ?」と社会派を気取るのも知的な自分が心地よい。だが、影響力のある少数の人たちが国を滅ぼすことはあっても、逆はないだろう。「少年犯罪が増加して治安が悪くなった」という嘘と同じことではなかろうか。

本当の日本の問題はリーダーやエリートがその責任を果たさないことにこそあると思うのだが。

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2005年01月27日

安全と安心の科学

・安全と安心の科学
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セキュリティ、トラストワース(信頼に足る)、コンプライアンス(法令順守)、リスクマネジメントなど、近年、安全と安心は時代のテーマだと思う。これは、元東京大学先端科学技術研究センター長で現在ICUの教授の村上陽一郎氏が語る安全と安心の科学。大局的な視点で、この問題の捉え方が示されている。

■安全と安心、確率と人間心理

人間は安全であっても安心できない。あるいは安全ではないのに安心する。飛行機は落ちる確率が低いはずなのに、自動車に乗るよりも神経質になる。原子力発電所は他のどんな施設よりも安全性に配慮されているのに、危険に思われる。

現代においてリスクの大きさは、それが発生する可能性で測られる。だが、その可能性を人間は主観でとらえている。1万年に一度しか起きないことでも、明日が1万日目なのではないかと考えて、不安を感じてしまう。大隕石の落下を題材にした映画は最近だけでも何本もあり大人気だが、実際に私たちの生きている間に、それが起きる可能性はほとんどない。

逆に私たちはまったく不安を持たずに、自動車を運転したり、タバコを吸ったりしている。これで死ぬ確率は、天変地異や原発事故で死ぬ確率より遥かに高い。交通事故では毎年8000人が亡くなるが、これは阪神淡路大震災よりも多い。

メディアも人々の確率認識のズレを助長する報道をしている。原発事故や飛行機事故は滅多に起きないし、安全性も極めて高いのに、何か小さな事故が起きただけで、危険だと騒ぐ。だが、著者によるとたとえば原発の小さな事故で、多くの場合、放射能が漏れたりしないのは、安全機構がよくできている証明だと見ることもできるという。

■安全にしても危険度は変わらない「リスク恒常性」

”人は間違う”を前提とした「フールプルーフ」機構と、間違いが起きても大事には至らない「フェイルセーフ」機構が安全戦略の基本である。

しかし、安心した状態こそ危険なのだと著者はこう指摘している。


システムの中で、「安全」は絶対的な価値として追求されなければならないが、それで「安心」が保障されることは避けなければならない

過度にフールプルーフとフェイルセーフで設計されたシステムは、使う人間がそれを空気や水のように当たり前と思いはじめた途端、危険なシステムになってしまうのだ。実際、原発や飛行機などの近年の大事故は、少なからずフェイルプルーフが準備されたシステム上で起きている。

車の運転にしても、安全機構が充実すればするほど、運転手は少し乱暴に扱っても平気だろうと考えて無謀な運転をしてしまう。いくら安全にしても使う側が安心で気を抜くので、リスクの大きさは変わらない「リスク恒常性」が発生している。

組織上の改革としては、内部監査の仕組み、間違いを発見したら内部の人間が警告をする「ホイッスル・ブロウ」の重要性が指摘されている。日本社会ではホイッスルブロウは内部告発であり、裏切り者として組織から排除される傾向がある。だが、QC活動の一環として考え、積極的に取り入れるべきだと著者は提言している。

また、具体的なフールプルーフの戦略として、

1 システム全体をいつでも目に見える形で捉えられるような工夫をしておく
2 操作パネルや作業手順に十分に「人間工学的」な考慮がなされていること

を挙げている。一言で言うと「アフォーダンスに合った」システムを作れということらしい。

誤操作を回復不能にしないという意味での回復不能性も大切。この本ではパソコンのデスクトップのゴミ箱が例に挙げられていた。一度ファイルを捨てても、ゴミ箱を空にするまでは取り戻せる。このように、冗長性をもたせて保護するのが良いという。

これらはITのシステムやアプリケーションの基本設計思想として活かせそうなリストである。

■飛行機と自動車と列車で一番死ぬ確率が高い乗り物は?

私はどうしても必要に迫られない限り飛行機には乗らない。関西へはいつも新幹線に乗る。飛行機は離着陸や乱気流の揺れが不安で、落ち着かないからだ。だが、この本に書かれているように、頭では、飛行機はきっと他の乗り物よりも安全なのだろうなと思っている。

そこで飛行機の危険性について、ネットで調べてみた。こんな面白い数字が見つかった。
・市民と事業者のためのリスク・コミュニケーション・ガイド
http://tokaic3.fc2web.com/body/report/report_h14/2002Rep5.pdf

自動車、飛行機、列車の利用者数と移動距離から、死亡リスクを求めたもの。

交通機関別死亡リスク(単位)自動車飛行機列車
利用者数と移動距離あたりで計算した時(100 億人・マイル)0.550.380.23
利用者数あたりで計算した時(100 万人)0.0271.80.59

解説の引用:

車の運転中に事故にあう確率は,何人乗っているかだけでなく,運転の時間あるいは移動する距離が長ければ高くなります。そこで,交通機関による死亡リスクは,一般的に利用者数と移動距離をかけたものを分母として計算されています(表4の欄)。この方法で計算すると,自動車運転のリスクが最も高く,飛行機に乗るより危険で。しかし,飛行機の場合,事故の危険性は離着陸時が最も高く,水平飛行状態ではほとん事故は起きません。つまり,飛行機の危険性は飛行距離にはあまり関係ありません。このとを考慮して,分母を利用者数とすると,実は飛行機のリスクが最も高くなります(表4下の欄)。分母をそろえるということは,どんなリスクを考えるかということを示す一例です。

がーん。この本は間違っているのか?

移動距離では、確かに飛行機が一番安全だ。

だが、利用者数で調べると飛行機が危ないという結論。

やはり、私の新幹線の選択はある程度、正しいのではないか。安心した。これからも新幹線を使おう。

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2004年10月13日

パラサイト社会のゆくえ データで読み解く日本の家族

・パラサイト社会のゆくえ データで読み解く日本の家族
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■30歳を超えたパラサイトシングル、不況でさらに厳しい環境に

著者は7年前に、親同居未婚者を指すパラサイトシングルという言葉を生み出した社会学者。長引く不況の7年後、当時のパラサイトシングル層の一定数(著者推定は3割)は結婚しないまま同じ状態を続けているという。本来は同居することでリッチな生活を志向した彼らだったが、30歳を超えた現在、収入は減少、不安定化し、心理的にも将来への不安を抱えて生きているというのが著者の分析。

結婚できない理由として著者の独自調査「男性未婚者の年収と女性未婚者の期待」という表が挙げられていた。例えば東京では、男性の収入のマジョリティは200-400万円で43.2%。これに対して女性の期待は600万円以上で39.2%。現実に600万円以上稼いでいる男性未婚者は3.5%しかいない。これではかみ合わないので結婚が成立しないのだという。

パラサイトシングルの親の年齢も高齢化し、収入が減る。親のスネもかじる部分がなくなって、パラサイトシングルの未来は明るくない。未婚者と多く重なる、400万人を超えるフリーターは若者の2割を占める。入学者を増やしたが就職ポストがない大学院からは、毎年1万人近く博士課程出身の超高学歴フリーターが世に出る。

だが、好きでフリーターをやっているのは国民生活白書によると14.9%に過ぎず、大半は正社員になりたいのだけれどなれない状況がある。たとえ就職できたとしても、終身雇用や年功序列の崩壊、大企業の倒産で、ごく一部のエリート以外は未来は不確実で安定は保証されない。このような状況で自暴自棄になった若者が凶悪犯罪を引き起こしているのではないかと著者は分析している。

■あがりのない社会をどう変えるか?

この本はパラサイトシングルだけでなく、様々な統計データを引用して、現代社会の動向を俯瞰する。雇用、育児、教育、年金の問題など。1分49秒に一組の離婚、お年玉の金額の2年連続減少、4人に1人ができちゃった婚、年賀状の内容変化、中年の自殺の増加など、ミクロからマクロを考察する章は特に面白い。

「子供の3人に1人は夢がない」が特に気になる。私が子供のころの夢といったら、宇宙飛行士になりたい、野球選手になりたい、果ては世界征服したいなど野望に満ちた夢を語るのも珍しくなかった。この本の著者の世代では広い家に住みたい、ベランダのある家に住みたいなど住環境に関わる夢が多かったらしい。それに対して現在は小学校から高校までの子供の3人に1人が夢がないと答えるらしい。お年玉の目的も欲しいものがないから、貯金が第一位。

以前、あるシンクタンクの打ち合わせで聞いた「現代はあがりのない社会」という言葉がずっと気になっている。欲しくてたまらないモノがないこと、目指すものがないこと、理想がないことが社会の停滞の大きな理由であることは確かだろう。

メディアで取り上げられる成功者たちも、

・元からお金持ちの家系にうまれた人たち
・極めて少数の天賦の才能のある人たち
・世渡り上手でうまくやった人たち

のようなタイプが多い気がする。これでは目指せない。

著者は、努力が報われ、大人や仲間から評価される仕事を作り出すことが問題解決につながると提言しているが具体策は示されていなかった。思うに、立身出世物語とスポ根ドラマの復活というのは今更日本では流行りそうにない。国内にあがりを求めず、国際社会でのあがりを示すのが正解のような気がする。

■パラサイトシングルは未熟か?

この本で、気になるのは著者はパラサイトシングルを良い意味では使っていないような雰囲気が随所にうかがえること。すべてのパラサイト=未熟な若者というのは偏見だろうと思う。確かに欧米では高校を卒業した時点で別居し独立して生計を立てるのが一人前に大人社会に入る通過儀礼なのかもしれない。だが、家族がいつまでも一緒の家に住めることって本来、最高の贅沢なのではあるまいか。パラサイトシングルも親と同居のまま結婚してしまうと単なる二世代同居になる。それはむしろ幸せそうだ。

また同居を親が望んでいる場合、経済的援助をするにしても、それは依存ではなく、共生に近いはずである。共生の結果、手元に残るお金を若者が自分の趣味や将来への投資に使っているとしても、それは合理的判断であって未熟とは思えない。

切実に家を出たいのだけれど経済力がなくてできない割合というのは本当に増えているのかも疑問である。アンケートを取れば親元を離れて自由に暮らしたいと答える若者は多いだろうが、多くは希望を述べただけで、切実ではないはずである。

本当に切実だったら...。多分、稼ぐのではないか。稼がなくてもどうにかなるから稼がないだけだろう。どうにかなってしまう

パラサイトシングルは高度成長の結果、豊かになり、成長の限界に直面した成熟社会の自然な帰結である気がする。若者がモーレツ、死に物狂いにならないと生きていけない社会のほうが不安定な社会だ。パラサイトシングルについては、良くも悪くもなく、なるべくしてそうなった現象と捉えて、その生活様式をどうリッチにするかを考えたほうが建設的な気がする。

■私の結婚論

さて、ここからは私の独自の考え。

なぜ結婚しない若年層が増えたのか。

真の結婚の原因(というのも変だが)とは”なりゆき”なのではないだろうか。二人の共通意思というのは実際にはないわけで、両性の二つの意思の合意が結婚には必要になる。どちらか一方だけではだめだし、両親や親戚などの反対があるとややこしいことにもなる。自由意志は絶対条件であるが個別の意思ではどうにもならない。当事者の視点では明確な意思を持って結婚したケースであっても、本当の原因は”なりゆき”と言えるのではないか。

またパラサイトシングル論が結婚しない原因に挙げている収入の不安定さについては疑問がある。若くて愛し合う二人がお金がないからという理由で結婚しないものだろうか。普通に考えれば共働きで収入を増やせる。生活の諸経費も共通部分を減らせる、はずなのである。結婚したいからお金を貯めるケースはあっても、お金がないから結婚しないのはおかしくないか。お金がないからを理由にするカップルがいるのだとすれば、機が満ちていないに過ぎないと私は感じる。

”なりゆき”が発生する確率が減ったのが本当の原因だと私は考える。

国立社会保障・人口問題研究所の統計に面白い数字がある。2002年のお見合い結婚は7.2%である。だが、この数字、戦前にはお見合い結婚が7割を占めていた。1965 〜69 年頃にお見合いと恋愛結婚が逆転して、恋愛結婚全盛の時代が到来している。

・第12回出生動向基本調査/国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/Japanese/doukou12/chapter2.html

そう、本来が日本社会では、個人が結婚しよう!と思って結婚できたわけじゃなかったのだ。お見合いという”なりゆき”合成装置があって結婚が成立していた。自然に”なりゆき”(両者の同時合意、周囲の賛成、良い状況の3点セットが揃うこと)が発生する確率はそれほど変化がないのだとしたら、お見合いが減った分だけ(戦前では7割!)、結婚が減った部分も大きいというのが、私の推測である。

結婚しない人の増加が日本経済にとって問題であるならば、

・結婚を前提とした男女のみが登録できるソーシャルネットワーキングサービス
・おせっかいな仲人バーテンダーのいるお見合いバー

あたりが日本を救うソリューションとなるのではないだろうか。


と、この本のデータと意見に対していいかげんな持論を述べまくってしまったが、日本社会の未来について考える肴として、大変面白い本である。

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2004年10月12日

すばらしき愚民社会

すばらしき愚民社会
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不遇の学者が世の中に対して愚痴をしゃべっている本。ちょっと恨みがましくて、新橋の居酒屋に通じるものがある。内容は私の意見とは違うものも多かったが、自称知識人の矛盾や欺瞞を実名で暴きだして、バッサリ斬るのが面白かった。

■すばらしき愚民社会

この本の批判する愚民とは、いわゆる一般大衆というよりは、大学教授や大学生、評論家などの知識人。


現在の「大衆社会」が、それまでのものと異なるのは、以前は「バカが大学へ入っている」程度で済んでいたものが、「バカが意見を言うようになった」点である。

本質的に民主主義とはバカの発言を認めること、なのだと私は思う。政治、経済、社会、技術や環境などについて特に専門知識がなくても、誰でも主観をベースに出来合いの知識で理論武装して、意見を作り出すことができる。それが社会人としてあるべき姿だとされ、意見を持たないことは未成熟だとされる。

そうした浅い意見が専門家から見て間違っていても、分かりやすさがメディアに愛され、増幅される。メディアに出たこと自体が権威を増す。資本主義市場の成功は神の見えざる手を神聖化した。その考え方は経済以外の場にも反映される。需要と供給の最適解を生みだす神の手と同じように、大衆の選択は常に善であり、衆愚という考え方は批判を浴びる。こうして大衆に迎合的な似非知識人が出てくるのだと思う。

この本で著者が叩くのはテレビにコメンテーターとして登場したり、一般向けの新書を量産するタイプの学者や評論家が多い。確かにこうしたテレビの「知識人」は、アカデミズムの世界では実績がないことも多いようだ。一般向けに分かりやすく話すために、話を歪曲したり、専門外のことにまで言及したりする。私は彼らは芸能人だと思っているのだが、彼らの人気ぶり、著者は許しがたいようだ。

■他人を嘲笑したがる者たち

そして愚民の集まる典型的な場所として2ちゃんねるが俎上に上げられる。

著者は2ちゃんねるの匿名で他人を揶揄する文化を、江戸町人文化と似ていると言う。徳川時代の戯作、黄表紙、洒落本、滑稽本の「うがち」「ちゃかし」と同じで、風刺とも批判とも言えず、現実の政治に力を持てない町人たちの歪められた精神の産物だと断じる。匿名で思想的系譜を持たない2ちゃんねらーに現実的な力はなく、「彼らに退治できるのはせいぜい日木流奈、田口ランディ程度であり、大きな現実を動かすことはできない」とピシャリ。マスメディアの知識人が2ちゃんねるに叩かれるのを恐れて何もいえない状況を嘆き、言論人よしっかりしろと渇を入れている。

2ちゃんねるは議論が白熱して「祭り」状態になってしまうと、

「○○、必死だな」
「オマエモナー」
「藁」
「厨房」

などのスラングが目に付く。

特にあざといなあと思うのが「必死だな」で、反論が面倒になると使われる。著者が言う「他人を嘲笑したがる者たち」の象徴的な言葉遣いかもしれない。

■「正しいおじさん」が正しそうな

若者とフェミに媚びる文化人、禁煙ファシズム、マスメディアにおける性と暴力など10の論点で、著者はこれでもかとばかりに実名で斬りまくる。一面の真理を渡り歩くだけで、まとまった思想を志向していない本なのだが、多様な分野の、物の見方が勢いある文章で提示されるのは参考になった。何より率直であからさまなのが楽しい。

じゃあ、著者は知識人として、どういう理想を持っているのだろうと思っていたのだが、こんな一節を発見。


鶴田浩二扮する吉岡指令補のように、あるいは現代の内田樹のように、「正しいおじさん」として説教しながら、いつしか若者に慕われたり、女子学生に受け入れられたりする者もいるが、残念ながら、私たちはみながみな、吉岡(鶴田)や内田のようにハンサムなわけではないし、人格的魅力に富んでいるわけではない。あるいは山田太一が書いた台詞や、内田の巧みなレトリックをその場、その場に応じて用いることができるわけではない。だから結局、正しいおじさんんいなろうとしてなり損ね、「うるせえオヤジ」「保守的」と思われるか、若者に媚びるか、どちらかしかないのだろうか」

実は内心、著者も「正しいおじさん」をやりたいのではないか...。

Passion For The Future: 出版考、ふたつの知、情報の適者生存、金儲け
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001061.html

以前、言論に関わる人間には修辞学の資質が必要なのではないかと上記のエントリでコラム書いたのだけれど、どんなに偉大な知も、知られないと使われない。象牙の塔にこもる知識階級の時代は終わったのではないか。著者の言うような”すばらしき愚民社会”では、「正しいおじさん」になる技術も必要なのではないかと感じた。

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2004年09月21日

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す

・オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す
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読み物として面白い。著者の持論は私には衝撃的だったが、情報として読むべき部分もある。これは賛否両論の本だろう。著者は40代、女性、津田塾大教授。確信犯か。真意は読み取れなかったが、過激。過激と思う私がおかしいのか?。

■姥心の権化としての著者の論説に唖然とするが、時代の変化の予兆か?

ウーマンリブやフェミニズムの旗手が聞いたら激怒しそうな記述のオンパレード。


こういう言い方をすると本当に失礼なんですけれども、大した才能もない娘に「仕事して自分の食い扶持さえ稼げればいいんだよ」とか、「いい人がいなければ結婚なんてしなくてもいいんだ」というようなメッセージを出してしまうことは、その子にとってものすごい悲劇の始まりではないかと思うのです。


説明するのがちょっと難しくて誤解も生みそうなのですが、女性というのは、やはり、少しボーッとっとしているのがいいようです。こっちの世界にいるのかあっちの世界にいるのかよくわからないのだけれども、ふわっとしたような感じ、というのがよい状態だと思います。やっぱり、セックスを通じてそういう感じがもっとも身近に得られると思っています

「(夫婦のセックスについて)男と女の関係なんて、ぜったいそれしかないと思っていますから、それがうまくいかなくなるから離婚するのです

つまり、大した才能のない女子は、若さを売りにして男性を捕まえて十代後半から二十歳くらいで、とっとと子供を産みなさい。働いても大して社会の役には立てないのだし、結婚を逃したら後が悲惨。結婚したらセックスを楽しみなさい。女性は身体性が大きいから、精神性以上に重視しなさい。結局、一部のデキル女性以外は、難しいことを考えるより、そうすることが幸せなのよ、とアドバイス。大意はそんな感じである。

以上、ある程度、私が恣意的に抜粋したが、著者のメッセージはそれほど曲げてないつもりだ。上記はごく一部に過ぎない。似たような発言が多数ある。

え。

いいのか。

津田塾の先生はそうなのか?

と、日頃こうしたメッセージを聞きなれない私としては、思うわけだが、それなりに背景を持った先生が言っているようだ。これはもしかして、ウーマンリブ、フェミニズムの次に来る言説の予兆なのかと思ってしまう。

本の表題のオニババ化というのは、そうした身体性というか、セックスや出産を楽しめずに年老いた女性がギスギスした嫌な性格になったり、若い男を襲ったりする!現象を指している。そうした方向に現代は進んでいると著者は指摘する。

■生理、妊娠、出産の自己制御ができた昔の人間

著者の現代女性に送るメッセージの評価は男性の私にはよく分からない。古めかしい、近所のオバチャン的言説にも聞こえてしまうのだが、女性の身体性についての考察は情報として面白い。

女性は本来は意識的に排卵を知ることができたという記述がある。ポリネシアのある部族では思春期のうちは不特定多数の男子とのフリーセックスが当たり前であったが、夫を決めるまでは避妊していないのに妊娠しなかった。夫を決めると妊娠したという事例が取り上げられている。

つい数世代前までの女性には、生理の経血を制御する能力があって、ナプキン等の生理用品は不要だったこと。民俗学者、赤松啓介の研究を引用して、古い日本には、後家や中年女性が若い男子の性の実地教育にたずさわるケースが少なくなかったこと。鳥居は入り口、参道は産道、お宮は子宮でお神輿が精子、神社は女性の身体を表していること、などなどなど。

女性の身体性をめぐるユニークな事例を古今東西よりかき集めて説明してくれる。男性が読むと気恥ずかしいくらい直截的で生々しい記述も多い。が、女性から見た女性の身体性というのが、上野千鶴子らのまだまだ知的なフェミニズム論とも一味違っていて、新鮮である。男性が読んだほうが、むしろ、前述のメッセージに対して反感を持たない分、面白く読めるかもしれない。

■身体性とセックスが地球をやっぱり救うのか

先日書評した「気前の良い人類」でも、地球を救うのはセックスであった。

・Passion For The Future: 気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002095.html

この本でも、大意をまとめると日本の諸問題と女性を救うのはやっぱりセックスだということになりそうだ。もうちょっと落ち着いた表現では「身体性」ということになる。

男女関係はセックスしかない的発言はともかくとして、日本では日常的に軽く抱きしめる文化がない不幸に言及している点などはなるほどと思う部分もある。


でも、日本では「ちょっと抱きしめる」だけのことというのはまずあり得ませんから、「抱きしめるからには最後までいかなくてはいけない、そうしないのなら、何もしてはいけない」というような極端な状況が、援助交際のような外国の人から見たらたいへん異常な事態を引き起こしているように思うのです

援助交際の原因かどうかは分からないが、男性である私の、十代の個人的体験を振り返っても、そうだったなあと思う。同年齢の異性とはオールオアナッシングな身体関係であったと思うし、両親や友人との身体接触、抱きしめるなどはほとんど経験がない。

こうした身体接触の体験は、昔の日本や世界ではおおらかな文化があり、互いの裸を見たり触れ合ったりする場があったとフィールドワークの成果を著者は提示する。現代人はそれができない分、抑圧され、変な方向にエネルギーが噴出して、良からぬ犯罪や行為に至るのではないかと分析されている。

出産もまた同様である。16歳くらいになれば若年出産はさほど身体への問題がないという話も出ている。あまり男性を選り好みせずに結婚して、若いうちに子供を産んでしまいなさいということにつながる。そして出産体験や子育て体験が、女性の身体性の欲求を自然に満足させると。

身体性を無視してきた結果が現代のさまざまな問題を生み出したのだから、一度もうすこし、おおらかな時代へ回帰することで解消しましょうというのが言いたいことだろうか。感想としては、人間は、人間としての幸せと同時に、オス・メス・動物としての幸せも追求しないと、根源的な部分で失うものが多いということなのかなと思った。

最後に。こんな本を薦めないでよ、とお怒りになる女性もいるような気がしている。それは私の杞憂なのだろうか。むしろ、そんな心配をする私の感覚が古いのか。著者の論旨はかなり明確で、エネルギッシュに、オニババになるな、女の幸せはカラダよ、オトコとセックスすることよ、と繰り返される。女性読者の反応を知りたい興味深い一冊である。

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2004年09月05日

気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学

気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学
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名著「ユーザーイリュージョン―意識という幻想」の著者の最新刊。
・ユーザーイリュージョンの書評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html

これもまた興味深い記述の連続。

■気前の良い人が生き残る

ある取引ゲームの話が冒頭に取り上げられる。分かりやすく単位を変えて説明すると、まず私があなたと取引をすることを合意する。

そして私はあなたに胴元から預かった1万円をあげる。あなたは1万円から好きな分だけ取って、残りを私にくれる分割提案をする。例えば5000円をあなたが自分のものにして5000円を私にくれることができる。私がこの取引に合意すれば私もあなたも5000円を得る。私が取引を拒否すればお互いが何も得られない。でも、私はこの折半条件ならば合意するだろう。

この実験を人間で行うと、9900円を自分の取り分にして、100円しか提案者に渡さない欲張りが登場する。このとき私は取引に不満を感じて取引自体を拒否するかもしれない。実際に行われた実験では、提示額が全額の20%を下回ると、しばしば取引を拒否する提案者が多くなるという。

面白いことに、欲張りな相手がコンピュータであると提案者が知っている場合、拒否するものがいないのだそうだ。これはよく考えれば当たり前の話で、100円であってももらえるのならば、提案者が得するゲームだからだ。徹底的に利己的であればどんな分割提案でも受け入れるほうが合理的なアイデアになる。

それにも関わらず人間同士の取引では、拒否が起こる。不当な提案をする相手を取引拒否で罰したいと思う。人間が完全に利己的なホモエコノミクス(経済合理的ヒト)であれば拒否は起きないはずである。

別のスイスの実験では、提案者が相手を選んで繰り返しこの種の取引ゲームを実施した。すると、前回の取引で気前の良かった人と取引を行う傾向が強く見られた。信用ができて、気前の良い同士が利益を上げていく。利他的であることは、ある程度発達した社会の中では、生き残りに役立つ性格になることが分かる。

獲物を共同で狩る、組織的農業を営む、ムラや国家を運営する。協力は人類にとって不可欠な要素である。その協力者を得るには気前よくなければならない。

そして、なぜ生物学的に、気前のよさが発現し、主流派を占めるようになったのかが解明されていく。

■ハンディキャップ理論と面白い人がモテる理由

クジャクのオスは美しい羽を持っている。美しい羽はメスを魅了する。だが、同時に美しい羽は目立つことで肉食獣に見つかりやすくなるハンディキャップでもある。メスが美しいオスに惹かれるのは、羽が美しいからではなくて、こんなハンディキャップを背負っても生き残ることができるオスの強さの証に惚れるのだ、とする説が紹介される。

美しい羽のオスとそれを選ぶメスの子孫もまた、美しい羽とそれを好む遺伝子を持つ。美しい羽という発現型は、生存競争を勝ち抜く強い遺伝型の持ち主であることのシグナルになる。生存以外の部分に割ける余剰能力をどの程度持っているかを、異性に伝えることが大切なのだ。

現代の人間社会では、博士の学位や、MBAなどの資格、偉大な音楽的才能などがシグナルの役割を果たしているのだという。こうした技能や資格を持っていても、無人島でのサバイバルには何の役にも立たない。だが、資格取得までの長い勤勉な学習や、試験での競争に勝つ能力の持ち主であることのシグナルになる。

動物の群れ、原始的な人間の社会では、メスが、強いシグナルを発するオスを性的に選択することで、種は進化してきた。だが現代社会では、男女が同質化し、女性にだけでなく、すべての人にとって好ましい性格がモテるようになった。気前のよさ、優しさ、勤勉さ、我慢強さという利他的な性格は、協力パートナーをみつけやすい。配偶者に求める要素アンケートでも、国際的に上位にあがる。

「面白いユーモアのある人」「深いことをいう人」がモテるわけも同じ原理で説明できる。著者が書いた名著「ユーザーイリュージョン―意識という幻想」では、情報の価値を測る尺度として「論理深度」が取り上げられた。深い意味を持つメッセージを作るのはコストがかかる。気の利いたユーモア、深遠な言葉を使う人は、それを生成するだけの余剰の能力を持っていることのシグナルを発している。だから、モテる。

■真剣なセックスが人類を救うという結論

著者は高等生物の進化の原理として、自然淘汰(=弱肉強食)と、性的選択の二つを挙げている。前者は利己的で、後者は利他的であることがよしとされる。特に生命の直接的危険に晒されない人間の場合は、性的選択の原理の影響が大きくなる。そして、科学や芸術など、人類の一見、洗練された精神的行動の背景にも、セックスが強く作用していると述べる。「精神はセックスであり、セックスは精神である」とまで言う。

異性の前で性器を強調して全裸で踊るような趣味は歓迎されない。異性に選択されるには、回り道のできる余裕を見せる必要がある。ペニスが大きいだけよりも、愉快な話ができる男の方が余裕があるのだ。

このプロセスにおいて、私たちは良い遺伝子を残すという最終目的を意識することはない。性的魅力があって自分の面倒を見てくれる、いい男、いい女を捜すだけだ。人間は生き延びるために食べるが、目の前の飢えを解決するために食べているだけであって、生き延びること自体を年中意識しているわけではないことと同じであると説明する。

後半では地球社会の未来の問題に言及する。

富むものが貧しいものに贈与をすることがセクシーである社会が著者の理想ということのようだ。人類の未来の壮大なビジョンが語られるのだが、結論は「性的選択を守れ」ということになる。真剣にセックスをせよ、というメッセージになる。

性的選択こそ、人間性のすばらしいものを効率的に抽出する過程なのだ。「この人と一緒になって幸せになれるだろうか?」と考える男女の真剣さが、このプロセスを確実なものにする。カップルが性的魅力と一生の面倒を見てくれる気前のよさを持つ伴侶を選ぶことで、世界には優しく、誠実で、勤勉で、忍耐強い、利他的で気前のよい人類が満ち溢れることになる。

性器を使った性交を守れということが直接的に書かれている。近年のバイオテクノロジーへの警鐘も鳴らしている。セックスは世界を結びつける共通の原理である。恋人とのベッドの中で愛するように全人類を愛することができる人を産めよ、殖やせよ!。

■人類の進化の原理についての関連本

ユーザイリュージョンの著者の次の訳書ということで期待しながら読み進めた。性的選択の影響がここまで大きいものなのかは疑問も残るが、一貫した論旨で経済学、社会学、人類学までに踏み込んで総括する、ものすごく魅力的な進化論である。結論は「性愛は地球を救う」で、とても大胆。とにかく読んでいて楽しい本だった。ここまでウィットに富む深い内容を書ける、ノーレットランダーシュはさぞモテモテなことだろう。

以前書評した2冊の本にも、人類を進化させた要因が語られていた。

・Passion For The Future: 天才と分裂病の進化論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001298.html

この本では、「狂気」が、

・Passion For The Future: 宇宙人としての生き方―アストロバイオロジーへの招待
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001273.html

この本では「おばあさん」が

それぞれ要因として挙げられていた。

話を総合すると、人類を進化させたのは「気前が良い狂気のお婆さん」である。

そういう人にあったら、ありがとうと素直に感謝することにしよう、これからは。


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2004年08月23日

世間の目

世間の目
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「世間が許さない」「世間体が悪い」「渡る世間は鬼ばかり」。日本には世間がある。「世間を見返してやる」「世間に申し訳がたたない」「世間に恩返しする」など個人の強い行動原理にもなっている。

この本では、日本人にありがちな以下のような世間のシーンが分析される。

・ひとりだけ別メニューを頼めない日本人
・記者会見がたいてい「世間を騒がせて申し訳ない」ではじまるワケ
・お中元とお歳暮と義理チョコは絶対になくならない
・首相ですら過労死する国・ニッポン、長期休暇はあいかわらず職場の非常識
・取調べ室で「お手数おかけしました」とカンタンに自白する被疑者たち
・もらいものをしたら必ずお返しをしなければならない、と思ってしまう
・子どもの犯罪に親が責任を取って自殺してしまう国
・事故機の乗客名簿を一刻も早く発表したがるのは日本人だけ
・ウサマ・ビンラディンは氏づけでウサマ・ビンラディン氏、ではなぜ明石家さんまは呼び捨てで平気なのか

など。日本人がいかに切り離せる個ではなく、関係性の中で生きているかがわかる。

個人(Individual)が構成単位の社会に生きているならば、世間など関係なく自由に生きてもいいはずなのに、日本人は何かと所属する集団内の人間関係を大切にする。

「権利があれば義務がある」のも世間の特徴であるらしい。西欧思想において、本来、権利と義務は表裏一体でもなんでもない。納税していなくても投票権はあるし、犯罪者にも最低限の人権はある。権利は本来は国民の誰もが主張できるものであるはずだった。だが、日本では義務を果たしていない世間の外側に権利はないし、徹底的に無視される。

共同幻想としての「世間」は幻想であるが、共有されているために、現実的な力を持っている。世間の中に生きる人たちに、西欧流の個人や社会を説いても「アイツは世間知らずだ」と言われてしまう。故人の意思でお葬式はしません、はなかなか親戚に認めてもらえない。「お互い様」にしないといけないからである。

■お互い様、義理による贈与交換をする日本人

世間の特徴のひとつが「お互い様」。贈り物をされたら即座に送り返す習慣で、お中元やお歳暮、結婚式の祝儀、葬式の香典などが日本の典型的な形である。この本の前半で詳しく取り上げられている。

民俗学者マルセル・モースの贈与論によると、贈与互酬の慣行は、提供、受容、返礼の三つの義務を伴う交換現象で古今東西あらゆる社会にみられた。返礼は義務であったが、日本の世間では義理に変化した。

ヨーロッパではキリスト教の普及により、贈り物をする相手は個人ではなく、神となってしまった。現世で貧しい人に施すことで、あの世で神から見返りを与えられる。直接金融的な贈与交換は、神を媒介する三角関係に変貌した。この変化は、最も特徴的なのは見返りのない純粋な寄付行為に現れる。

あるMLで教えてもらったのだが、日米の寄付行為の状況は以下の通りで、個人の寄付は1000倍も違う。寄付に対する税金の優遇制度の違いなどはあるにしても、ここまで単位が違うのは、見返りのない寄付行為が日本の世間になじまないことを意味しているとも言えそうだ。日本人は契約してくれる神がいないのだ。

      法人        個人        総額

米国 4兆2475億円 21兆5169億円 25兆7644億円 
日本   4785億円      252億円    5312億円(不明含む)

■臓器の提供と日本人

カネ以外では、臓器提供が挙げられる。

私の友人のジャーナリスト神田敏晶さんは、身体のあらゆるパーツをドナー登録している。先日、骨髄バンクに取材を受けた内容が記事になっていた。

・donorsnet
http://www.donorsnet.jp/partner/interview/10/


僕の臓器提供は、ある意味で打算的なんです。1998年頃、アメリカの空港で「臓器提供に同意しておくと、グリーンカードの取得に有利だよ」と声をかけられたのがきっかけですから。本当にそうか分かりませんが、実際、申請書には臓器提供に同意していると書き込めるようになっています。

私は神田さんをよく知っているため、たぶん、この人、本当は打算というより、仕組みそのものに共感して、登録したのだと思っている。この記事の3ページ目に本音がでていると思った。


「なんで登録したの?」と人に聞かれたとき、人の役に立つからと答えるのは照れちゃいますけど 社会的な特典があれば話しやすい。「実はいろいろ良いことがあってさ」なんて、さりげなく自慢できるし。

世間では、純粋な寄付は好奇の目で見られがちで説明を求められる。ひとりだけ道徳意識が高すぎるのは、世間では具合が悪いことになってしまう。特典は折り合いをつける方便となる。日本への着地にはこうした工夫がいくつか必要そうだ。

神田さんのように進歩的な考え方を持っているのは少数派で、まだまだ見ず知らずの他人に、自分の臓器を無償提供しようとする個人は少ない。この本では、世間の内側である、自分の親戚にならば提供したいとしたドナーの移植が承認された事例が紹介されていた。本来、親戚という条件付での臓器提供は、公平の原則に反してしまう行為である。ドナー制度にとっては危険な事例とも言えるのだが、確かにこれなら納得の提供者が多いのではないか。

■肥大化する世間と新しい身分制度

著者は、世間は力を弱めるどころか、逆に強大化していると考えている。世間では未だに幅を利かせている学歴の固定化がその一因となっている。

東京大学入学者を調べると85年の段階では中高一貫校出身者の割合は50%だったが、99年には64%となり増加傾向にある。親の職業の7割は大企業管理職、医師、弁護士などが占めるようになったという。この本では、お金持ちが社会の高い地位を世襲していく現象が顕著になっていることが紹介されている。新たな身分制度の登場である。親を見れば数十年後の自分の到達点が予想されるために、人生の早い段階で、諦めてしまう若者が増えているという。

「世間など関係ない。私は自由に私のやり方でいく」と世間からの独立宣言をすることは実は簡単なのだと思う。極端な話、「気に入らない奴は殺して刑務所にいってきます」はアリだけれども、その場合、困るのは当人ではなくて、家族や親戚である。「定職に就かないでしばらくフラフラしてみます」というのも、当人の自由だけれど、「世間体」という価値観を持つ周囲は困ってしまう。近しい人を困らせたくないなら、自分も世間のルールに従うしかない。心の優しい人ほどこの世間と身分制度につかまってしまいそうだ。

その一方で、大検制度の柔軟化だとか、大学入試の多様化など、学ぶ機会の均等化という道も昔よりは開かれている。早い段階で諦めてしまわなければ、この身分制度から逃げる方法はいくらでもあるように思う。

■楽しみながら世間を見返しひっくり返す社会?

世間の問題をいろいろ考えさせられる本であった。私の結論としては、

楽しみながら世間を見返す人が増えること

が解決なのではないかと考えた。

世間は実体があるわけでもないが純粋に自分の心の中にあるものでもなく、関係性の中の人間(間人)である、と、この本では定義している。世間などないのだと見て見ぬフリをするのは、世間が外を見る視点と同じであまり解決になっていないような気がする。それでは皆が幸せになれない。

古典的だが「世間を見返す」人たちが、世間を少しずつ変えてきていると思う。世間は「世界」に弱いのだと思う。世界の圧倒的価値を持ち込まれると急に、世間は内側から変わってしまう。古い言葉だと「故郷に錦を飾る」だ。

従来、この見返しのプロセスは悲壮感漂うのが一般的だったと思う。若い頃自分を認めなかった世間への復讐という要素も多分にあったと思う。だが、今開催中のオリンピック選手や、ベンチャー起業家(がんばれホリエモン)などを見ていると、楽しみながら、世間が認めざるをえない成功を達成してしまう人たちが増えているなあと思う。

世間に勝って復讐するのではなく、世間を自分のアイデアで変えるプロセスを楽しむプロセスのスポーツ化がいいのではないか。見返しというよりひっくり返しという表現の方が面白いかもしれない。私も笑いながら世間をひっくり返す何かをベンチャー起業家としてやってみようと思っている。

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2004年07月26日

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊

・ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊
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若者はマザコンで、サル化している、日本の未来はこのままじゃどうなっちまうんだと嘆く1954年生まれのサル学者の本。サルの行動学や人間を対象にした心理実験のデータを多数持ち出した、その嘆き方が凝っていてかなり面白い。この本では特に、ルーズソックスの若者世代を槍玉にあげる。ルーズソックスで靴の踵を踏み潰すスタイルは、家のスリッパ感覚であって「家の外への拒絶」の象徴なのだと著者は主張している。

■投資ゲームで暴かれる利己的な若者像

携帯をヘビーに使っているケータイ族25人、使っていない非ケータイ族を25人集める。参加者には実験の報酬としてまず5千円の現金を渡す。そして、次のルールで、ビジネスマン思考でその5千円を使った取引ゲームをして欲しいと説明する。

1 参加者は二人一組のペアになる(二人をA,Bとする)
2 参加者Aが相手に投資するか、しないかを選ぶ。
3 投資した側に見返りはないが、投資された側は出資額に上乗せされてさらに5千円が得られる。持ち金は1万5千円となる
4 参加者BはAの決定を聞いた後で、Aに投資するかどうかを選ぶ

つまり、二人が信頼しあってお互いに投資しあえば、全体にとって最大の利益になる。相手を信頼できず投資が選ばれなければ全体の利益は最低となる。どちらか一方が投資をするケースでは片方が得をして、片方が損をする。そういうゲームである。

非ケータイ族の8割はAの立場で投資を選んだが、ケータイ族は2割しか投資を選ばなかったという。また、ケータイ族には、自分はAから投資を受けたのに、自分はお返しの投資をしなかった”裏切り”プレイヤーが多かったそうだ。こうした実験結果から、ケータイ族は、相手を無条件に信頼することができず、利己的な人間が多いと結論している。

また、ケータイで交わされるメッセージも、断片的で記号的で、お互いの存在を確認しあうサル同士の鳴き声コミュニケーションレベルの内容しか含まれていないのではないかと著者は言う。

■カード実験で暴かれる思考力が落ちた40代像

こうした若者を育てた親にも問題があるとして40代以上の層の分析もある。ウェーソンの4枚カード問題という実験を行う。

被験者の前に4枚のカードを並べる。

1枚目のカード 「 M 」
2枚目のカード 「 E 」
3枚目のカード 「 7 」
4枚目のカード 「 4 」

「もし片面にアルファベットの母音が書いてあるならば、そのカードのもう一方の面には偶数が書いてある」という規則を確かめる際、どのカードの裏面をチェックする必要があるか?という質問をする。

少し考えれば分かるように正解は「 E 」と 「 7 」である。

この実験を20代と40代の男性に実施すると、20代の方が圧倒的に正答率が高いそうである。

さて、次はカードを入れ替えて、次の4枚を提示する。

1枚目のカード 「 ヒロシ18歳 」
2枚目のカード 「 タバコを吸わない 」
3枚目のカード 「 タカコ30歳 」
4枚目のカード 「 タバコを吸う 」

そして、

カードの一方の面には対象者の名前と年齢が書かれています。もう一方の面にはその人がタバコを吸うかどうかが記されています。さて、我が国では法律で喫煙は20歳を過ぎてからと定められています。その規則がここに呈示した四枚の身上カードの人物に関して、守られているかどうかを検証しようとすると想定します。さて、その検証に際し、四枚のカードのうち、裏面に何が書かれているかを必ずチェックしなければならないのはどれですか?

と質問を行う。

正解は、「ヒロシ18歳」「タバコを吸う」である。この問題の正答率は20代、40代ともに100%近いそうだ。

しかし、ふたつの問題を解くのに必要な推論の内容は、実はまったく同一である。難易度が違うように感じたのは問題が、社会的に慣れ親しんだ話題か、抽象的な記号かの違いによるものだ。

こうした実験から、40代の中年というのは社会的に親しんだ事柄の思考能力は落ちていないが、新しいルールが破られていないか、裏切り者を見抜く能力が落ちていると結論される。それゆえに、子どもの新しい世代が信頼できるかどうかを見極められず、モノを買い与えるだけのコミュニケーションしかもてなくなる。物質的に甘やかす。そうして、親に依存するパラサイトシングル、ひきこもり、ルーズソックス女子高生が生まれてしまうのだと断ずる。

と、まあ、学者だけあって、出てくるのは、どれも興味深い実験ばかりである。読んでいて大変面白く、勉強になるのだが、若者の行動心理と結びつける根拠は、少々強引で恣意的な気もする。若者の内側に入ろうとせず、外から観察して嘆く長老の典型である。

■「近頃の若者は...」を生み出す構造

新世代の堕落を嘆く旧世代による「近頃の若者」論は、いつの世も同じである。プラトン、アリストテレスの時代から長老は嘆いてきた。嘆きの構図が普遍的にできるのは、構造があるからだと私は考える。いつの世も2割の「デキル人」と8割の「ダメな人」から社会が成り立っているからである。いや、実際にはすべての人に多彩な能力と魅力がある。ここで言いたいのはカッコつきの「デキル人」「ダメな人」である。古い一面的な規範に照らして測るとき、デキル:ダメが2:8になるものなのだ。規範はそれくらいの比率設定になるとき、説得力を持つからだ。

比率が極端で「デキル人は1億人に1人です。日本人では私と○○さんくらいです」は受け入れられないだろう。逆に「世の中の99%の人はデキル人ですが、あの少数民族はダメダメです」も拒絶される極論になる。2割くらいの人が模範的で、8割はイカンですなあ、とする程度の規範の設定が社会的に有効なのだ。「デキル人」「ダメな人」はこうして生み出されるのではないか。

だが、世の中は2割のリーダーが大きな影響力を持っていたりもする。「デキル人」が社会を変えていく側面もある。またリーダーには「ダメ」だが「デキル」を志向するフォロワーが必要だ。だから、仮にその規範で、8割がダメ人間の兆候があるから、今の若者の未来は暗いと断じても意味はない。そもそもアナタの年代はそんなに「デキル人」だらけでしたか?と聞き返したくもなる。

長老の嘆きの命題が真だったら、人類の歴史は何百世代も「よりダメな世代」の連続だったことになるが、それでも歴史は進んでいる。今の若者はサル化しているかもしれないが、それは環境への適応の一側面かもしれないし、別の光の当て方をすれば美徳にさえなるかもしれない。

大切なのは、その世代が幸福を感じているかということのような気がする。嘆く長老の真意も大抵は次の世代に幸せであって欲しいと願う老婆心にあるはずだ。幸福の基準は相対的で個別的だから、外から測るのは難しい。内側から主観的に眺めてみないと本当のところは分からない。

幸福なサルの社会と不幸なヒトの社会、次世代として、どちらが望ましいだろうか?

サルだっていいじゃないか、ウッキー。

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2004年05月09日

データで読む家族問題

・データで読む家族問題
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冒頭の<はしがき>より

「たとえば多くの日本人は「未婚の母は昔より増えている」と信じている。ところが明治時代や大正時代のほうが、今の数倍も多いのである。また「核家族は戦後の産物だ」と思っている人も多いが、大正9年の国勢調査でも、核家族は過半数を超える存在だったのである」

この本は、最新の統計データから、日本の家族がこの10年でどのように変容してきたかを数字から読み取る本である。普段、当たり前のように考えていることも、数字を見るとだいぶ違うことが分かる。

たとえば結婚にまつわる部分を要約してみると、こんなことが分かる。

■《配偶者の選択、交際期間》

1949年に結ばれた夫婦では3分の2が見合い結婚で恋愛結婚は2割に過ぎなかった(残りは何なのか不明で気になる。まさか許婚制や政略結婚?)。1960年代後半に見合いと恋愛はほぼ同率になり、現在では恋愛結婚が90%を超えている。これは実感に近いが、夫の職業と結婚形式は相関しており、97年時点でも、夫が農林漁業従事者である場合には、見合いが38.7%もある。結婚情報サービスは、ここらへんにターゲッティングするといいのかもしれない。

知り合ったきっかけは、職場・仕事関係が34%で最多、友人・兄弟を通じてが27%でそれに次ぐ。私は前者で、妹夫婦は後者だったなあとこれも頷く数字だが、この傾向、実は20年間も変わっていないそうだ。ちなみに交際期間の長さは、学校で知り合った二人は7.4年、友人・兄弟を通じて知り合うと2.7年、恋愛結婚の平均は3.7年に対して見合いは1年となっている。87年からの10年の統計では夫25歳、妻23歳で知り合い、3.2年の交際後にゴールインするのが平均モデルだそうだ。

無論、結婚の高齢化、非婚化もまた進んでいる。地域によってもだいぶ違う。2000年の平均結婚年齢は夫28.8歳、妻27歳なのだが、東京が最も高く夫30.1歳、妻28歳である。低いのが岡山、香川、宮崎の夫27.9歳、福島の妻26.1歳である。地方のほうが若い結婚が多い。交際期間も短い。早く結婚するには地方のほうが有利ということになるかもしれない。
結婚年齢は諸外国との比較もあって、日本はかなり高い部類に入る。これが実は合計特殊出生率1.35という有名な数字に深く関係しているという。この数字、だまされやすいが、日本の普通の夫婦に1.35人しか子供がいないという話ではないらしい。出生率は高校生や未婚女性、未亡人などを含む数字なので、低くなるからで、実際には長い結婚期間を続ける夫婦には今日でも、平均2.2人のこどもがいるのだとのこと。そして2.2人という数字は、25年間変わっていないばかりか、4人以上産む例は最近、むしろ増えているのだという。少子化問題を語る上で、見落とされがちな事実ではなかろうか。

■100以上の問題設定と、多面的な分析

後半は、パラサイトシングル、大学のレジャーランド化、早期離職とフリーター、高齢化、自殺、離婚、家庭内暴力などの家族の”問題”に焦点を当てて、各種統計が紹介されていく。形式としては、見開きでひとつの問題分析が行われ、ひとつの問題について3つ程度の統計表が参照される。これが100以上続く。著者は元家庭裁判所調査官で、御茶ノ水女子大名誉教授という経歴。数字だけでなく、実例をよく知っているだけに、取り上げる切り口がよく整理されている。

家族と消費は密接な関係にあるから、マーケティングにも使える一冊だと思う。

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2004年04月30日

「おしゃべりな人」が得をする おべっか・お世辞の人間学

「おしゃべりな人」が得をする おべっか・お世辞の人間学
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おべっか、お世辞についての歴史的で科学的な評論。処世術の本ではないので誤解されそうな書名に注意。どちらかというと教養系。

著者はタイム誌のライター兼編集者で、政治問題のコメンテーターとして活躍しているリチャード・ステンゲル。タイムドットコム編集長、プリンストン大学講師、大統領候補のスピーチライター、国立憲法センター代表兼CEOなどを歴任する第一級の論客。


ヒエラルキーのあるところには、必ずおべっかが存在する。おべっかこそが、自分の地位を高めるテクニックだからだ。人類の歴史を見ても、純粋な平等主義が貫かれた人間社会などない。社会学用語で非対称関係と呼ばれるものがあれば、そこには必ず支配的名地位に昇ろうとする従属者がいる。世の中に上昇志向がある限り、おべっかはついてくる

古代ギリシア・ローマ、古代エジプト、中世ヨーロッパ、近代アメリカ、現代社会で、おべっかやお世辞が、どう評価され、機能してきたかが前半のテーマ。神への賛美、王への賛美、自己への賛美、異性の賛美、大統領の賛美、国民への賛美、人類は何千年間もおべっかを言い続けてきたが、そのやりかたや機能は時代によってだいぶ異なっていることが分かる。

ファラオを頂点とするヒエラルキーが何千年も維持されていた古代エジプト社会では、王への賞賛には最上級の絶賛が使われた。彼らの宇宙観では世界は既に完成されており、変化は完璧を損なうものだった。人は生まれ変わっても同じ階級、同じ仕事に就く流動性のない社会。ファラオの寵愛を受けることが、ファラオ以外の人々の最大の関心事であった。ファラオを称えるためには、写実法を無視した絵画技法で、常に王は美男子に描かれ、巨大に描かれた。

古代ギリシア人は誠実で率直で公平無私な批評を「パルヘシア」と呼んだ。私欲の見え隠れするおべっかは、当初、これと区別されて軽蔑されていたが、やがてアリストテレスの時代になって弁論術、修辞学が知識人の教養とされてからは、積極的に評価されるようになった。

キリスト教では、人に知られ、愛され、かしずかれたい神を相手に、人々は犠牲を伴う賛美を捧げた。中世宮廷文化では王に必死でへつらう貴族たちが華やかなおべっか文化を生み出す。やがて、国民主権の時代になると為政者は、逆に、国民を賛美する。国民は賢者の集まりで、その決断はいつも正しいことになる。大企業の組織文化においても、メディアの世界においても、おべっか、お世辞は活躍し、人を動かす根本原理のひとつとなっている。

平板になりがちな歴史分析だが、ウィットに富む著者の文章がとても楽しい。翻訳もよい気がする。後半は現代の話になって、身近な話題が中心で、さらに面白くなる。

現代の立身出世のための処世術の原型を確立したデール・カーネギーが俎上に上げられ、陽気で馴れ馴れしいセールスマンタイプのビジネスマンになる方法論とおべっか、お世辞の技術の関係が語られる。主題ではないのだが、この章は、デール・カーネギーってどういう人?という長年の謎がだいぶ解明された。「人を動かす」「道は開ける」はトラウマ、コンプレックスの裏返しだったという意外な事実。

現代社会では、おべっか、お世辞はインフレを起こしているという。かつては100年に一人のような逸材に対して、稀にしか使われなかった「天才的」「天賦の才」「カリスマ」「ビジョナリ」が、気安く使われるようになった。CEOのスピーチにはスタンディングオベーションが当たり前になり、大企業では「バイスプレジデント」「シニアなんちゃら」の肩書きが量産発行されている。社会の潤滑油として、古代も現代もおべっかはそこかしこに使われている。

最後に一応、おべっかとお世辞の技術論もまとめられている。数十個の気をつけるべきリストや、おべっかを言われたときの模範解答例なども、なかなかよくできているのだが、結局は、おべっかの本質は、著者が何度か引用した「人を本当におだてるものは、おべっかを言うに値する人間とみなされること」(ジョージ・バーナードショー)ということにありそうだ。

で、なぜこの本を読んだのかというと、私はどうも人をほめるのが苦手だからである。よほど顕著な特徴が見えないと、自然に褒め言葉が出てこない。女性の容貌などに社交辞令でいいからうまい一言をタイミングよく出せるといいのだが、いつも私はノーコメントで終わる。いかんなあと前から思っていた。相手の良いところを瞬時に見抜いて適切に褒めることができると、人間関係は広がりそうだ。本当に偉い人はそれができてるなあと感じる。

これはノウハウ本ではなかったので、スキルの上達はないのだが、人を適切に褒めることは、いつの時代でも普遍的に大切なことで、成功の近道であると再認識した。

関連情報:

・自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001129.html
心理主義化とおべっかの歴史は関係が深そう

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2004年04月06日

人と人との快適距離―パーソナル・スペースとは何か

人と人との快適距離―パーソナル・スペースとは何か
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■電車、トイレ、路上、近接学は至る所に

通勤で東京駅から電車に乗ることが多い。始発駅なので席は自由に座ることができるのだが、いきなり真ん中に座る人はまずいない。端の席から埋まっていく。端が埋まると二人分くらいの距離を置いて中間に人が入っていく。隣に座らざるを得なくなって、やっと隣に人が座る。

著者は、日常の行動を実際の電車で観察し、数値化して分析した。電車が空いている場合には出来るかぎり、他人と距離を置いて座る習性が確認された。この当たり前の現象の奥にある、人間のパーソナルスペースのはたらきを深く考察していくのがこの本である。

プロクセミックス(proxemics、近接学)とも呼ばれるパーソナルスペースの研究は、人類学者のエドワード・T・ホールによって1960年代に始まり、異文化の混在する米国で特に発展した。

冒頭、男子トイレを観察対象にし、前客がいる場合にどの位置の便器を選ぶかや、排尿までの時間、排尿の所要時間を計測するという、噴出しそうなテーマも真面目に解説している。米国の学者による実験であったが、前客がいない場合、出口から最も遠い便器が選ばれやすく、隣に人がいる場合は排尿の時間が全体的に長くなる傾向が分かったという結果が報告される。心理のみならず生理レベルで影響を与えるということか。

通路での通行を観察した報告。邪魔になるように二人の人間が通路にいる場合、通行人はどうよけるかを繰り返し実験した。すると、通路を塞ぐペアの組み合わせが、男女>女性同士>男性同士の順で、よける距離が大きくなったという。また、ペアが話をしているとさらに回避行動が顕著になる。パーソナルスペースは、1人のときより2人のときの方が大きくなり、話をしているとさらに大きくなるということだと解説される。美人は大きく迂回されたりする。

このような興味深い、日常の実験の数々から、目に見えないパーソナルスペースの形状やサイズや特性が明らかになっていく。パーソナルスペースは、人の前後に長い楕円形で、5種類があり、状況に応じてサイズが変化する特性が判明する。

        近接相            遠方相
密接距離 0〜15センチ     15〜45センチ
個体距離 45〜75センチ      75〜120センチ
社会距離 1.2〜2.1メートル      2.1〜3.6メートル
公衆距離 3.6から7.5メートル      7.5メートル〜

こうして具体的な大きさが分かることで、快適なコミュニケーションや空間の設計が可能になる。

■近くの人を好きになる

パーソナルスペースは個人の心理を表すと同時に、心理に影響を与える。恋愛関係を分析したデータも数多い。例えば、つきあっている二人が結婚する確率は住んでいる家の距離に反比例するという。家が近いほどデートのコストが削減され、平均的にはゴールインの確率も高まる。遠距離恋愛は統計的には不幸な結果に終わるらしい。

近くに座る異性に好意を持つというデータもある。同性では距離と好意に変化がないという。年齢によっても異性との快適距離は異なっていて、成熟していない段階では逆に好きな異性には、近づけない傾向も見られるという。これらも具体的に何センチという実証データが多数取り上げられていて、傾向と対策的に読むこともできる。

社会的役割、年齢、権威、制服、視線、匿名など、さまざまな要素がパーソナルスペースに与える影響があることが分かる。モテる人というのは、こうした近接学のノウハウを自然に使いこなせる人ということができる気がする。(失敗するとセクハラになる?)。

学生時代に、自然に女友達に近づいて、頭をなでたり、肩に手を回しつつも嫌らしさを感じさせない、同級生がいたりしたけれど、彼の行動などを今冷静に考えると、パーソナルスペースのプロだったのだなと納得する。

■パーソナルスペースの実用

パーソナルスペースについて、もうひとつ思い出が蘇る。

学生時代に私はNGOで委員として活動していた。学生にしては結構な予算を動かす団体で、大きなプロジェクトは審査が厳しかった。その年、私はプロジェクト審査委員会メンバーになっていて、後輩の女性のプロジェクトリーダーを面接することになった。そのプロジェクトは準備が悪く、失敗の可能性があった。だが、やる気はある女性なので、委員会としては厳しく詰問するが最終的にはGOサインを出すことになっていた。

審査委員会のリーダーの先輩が「ここは圧迫面接でいこう」と言い出した。綿密に考えた我々は、机と椅子の配置を動かすことになった。

・面接者と審査員の机の距離を離す
・正面から対面する配置にする
・面接者には机を与えないで椅子だけにする
・面接者の椅子を入り口ドア、壁から離す
・窓を背にして面接者に対して逆光のレイアウトにする
・面接者を廊下でしばし待たせる
・ノックに答えず入るのを待つ
・審査委員はリーダーの発言を待つ
・リーダー以外は面接者と目を合わせない

といったいじわるな演出を徹底してみた。

そして、実際に面接に臨んだところ、10分もしないうちに面接者の女性は泣き出してしまった。あーあ、やりすぎである。質問項目はまだ軽めな序盤だったから、泣き出した理由は、孤独感と威圧感の空間演出によるものに間違いない。

机と椅子の配置とコミュニケーション内容の分析も、この本に出てくるが、当時の私たちの戦略を裏付ける内容だった。会議で演じたい役割によって座るべき位置が異なること、会議内容によって異なる最適な机の形、崩壊しやすい家庭の部屋の配置など、紹介されるデータは、仕事や家庭でも実用性のある情報が多くて楽しめる。

評価: ★★★☆☆
・現代の「縄張り」−パーソナルスペース
http://www2.athome.co.jp/academy/psychology/psy02.html

・パーソナル・スペースからみた被虐待児の家族関係
http://ibuki.ha.shotoku.ac.jp/library/HP-bak/kiyo/kyoiku/kyoiku42/imagawa.pdf

パーソナル・スペースと女子学生の対人関係について
http://www.soc.shukutoku.ac.jp/chiba/kyouken/personal.html

・非言語コミュニケーション
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000549.html

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2004年01月31日

情報イノベーター―共創社会のリーダーたち

情報イノベーター―共創社会のリーダーたち
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1999年の本。でも、本質は今もほとんど変っていない気がする。

この本は現代日本をVIS社会と定義している。VISとは、多様化(Variety-Orientation)」「情報化(Information-Orientation)」「社会の変化の速さ(SocialSpeed-Orientation)」の頭文字をとったもの。このプロジェクトでは、VIS化の進んだ高度情報化社会で影響力を持つ層を情報イノベーターと定義した。そして、この新しいオピニオンリーダー層の全貌を明らかにすべく長期間の調査を字視した。

この本は少し古く1999年の出版なので、インターネットは先端的で情報感度の高い層の使うものと想定されていたため、調査対象はネットユーザとなった。YAHOO!JAPANを使った大規模なアンケートとグループインタビュー手法により、情報イノベーターの姿を浮き彫りになる。調査手順を追ったドキュメンタリ風の調査レポートである。

情報イノベーターの度合いを測る指標は3つ定義された。「ネットワーク人間尺度」「情報機器利用尺度」「メディア情報接触尺度」。情報機器を自在に使いこなし、多様なメディアから情報を大量に吸収し、ネットワークの中で積極的にコミュニケーションを行いながら、共に新しいものを創りだしていく(イノベーション)。それができるのが、「情報イノベーター」という説明である。

調査が進むにつれ、情報イノベーターのプロフィールや、行動特性が明らかになって行く。社会性や興味の広さによって、情報イノベーターと「おたく」の分類。イノベーターの中にも5つのタイプがあるとラベル分け。情報イノベーターの消費行動や政治行動や接触メディアの種類と度合い調べ。などなど、どれも興味深い視点の分析と分かりやすい説明が続く。企業は消費者や社員の中の情報イノベーターをどう活用して利益を産むことができるか、の提言もある。

調査から5年が経過したせいもあるのだが、情報イノベーターの姿に予想外の要素は少なかった。調査者も実施時から大枠、結論は想定していたのではないか。ただ、それを実際の調査の数字とグループインタビュー結果で、定量的、定性的に裏づけたことが、この本の価値だと読み終わって感じた。マーケティング会議で使えるデータで一杯の本だ。

読みながら考えたこと。情報イノベーターこそ重要で目指すべきものという考え方がこの本には感じられる。しかし、全員がリーダーである組織や社会はないだろう。リーダーだけでは世の中が動かない。そもそも、リーダーとフォローワーの比率は、いわゆる歴史の方程式=べき乗則に従い、どの時代も不変であるはずと思う。

情報イノベーターの中にも「スーパーイノベーター」がいて、この数は情報イノベーターの20%であり、全消費者の2,3%だそうである。

皆が皆、情報感度が異様に高く、話し好きで、情報機器のエキスパートという社会も不気味である。皆がそれを目指す社会も疲れそうだ。不健康な社会で健康志向が流行るのと同じ気がしてくる。

むしろ、大切なのは軽視されがちな「フォローワー」が、満足しながら能力を発揮し、イノベーターを賢く利用して生活レベルを高めていくか、の方の気がしてならない。フォローワーがいないとリーダーがそもそも存在しえない。次は、リーダーとフォローワーの二つの視点の調査をこのプロジェクトでやってほしいなと思った。フォローワーに積極的なネーミング、ラベリングをしたら、流行るキーワードに、なったりしないだろうか。

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2003年10月03日

話を聞かない男、地図が読めない女―男脳・女脳が「謎」を解く

・話を聞かない男、地図が読めない女―男脳・女脳が「謎」を解く
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私たちが受けた学校教育では、知的能力については男女の差はないというタテマエがあったと思う。本書では、男と女は脳の中までぜんぜん違うのだよと言う話を延々と語る本だ。

この本のデータによると、男女が1日に発するコミュニケーションメッセージの回数とその内訳は以下のようになるらしい。

1日平均 女性 男性
発話する単語6000から8000語2000から4000語
言葉にならない声や音2000から3000回1000から2000回
ボディランゲージ8000から1万回2000から3000回
メッセージ合計2万回7000回

女性のほうが3倍もコミュニケーションに熱心であり、これが男女のすれ違いの原因になっていると述べられている。夫が仕事に疲れて帰るときは既に1日のメッセージを使い果たしているのに対して、妻は1日家で独りで過ごしたため、残りのメッセージ数を消化したいので、帰宅した夫にたくさん話をするが、夫は不機嫌に黙り込む。

コミュニケーションメッセージの内容も、男性は問題解決のためのメッセージ中心であるのに対して、女性は他者との交流それ自体を目的としている。男性は女性の要領を得ない1日の出来事の愚痴をだらだら黙って聴くのが苦手なのだ。「で、それで何?私にどうしろって?」と男性は考えてしまう。

これはひょっとしてウチの話か?と共感する事例多数。空間認識の上手な男性と、下手な女性の違いの章では、男女がクルマを一発車庫入れできる統計差も示され、狩猟や戦闘行為の多い男性は空間認識が得意になったという進化論の視点も入ってきて、男女差の根深さも良く分かる。

類型化しすぎていてそれは性差よりも個人差では?という箇所も散見されるが、読み物として楽しい。

文庫版と単行本があるが文庫本のほうが内容は最新。言わずと知れたベストセラー。続編も何冊かある。

評価:★★☆☆☆

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