2006年04月27日

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・「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス
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社会学のフィールドワーク論。


聞き取るという営みは、単に相手から必要とする情報を効率よく収集する、という発想では、とてもできない。相手を情報を得るためだけの源であるかのように見ていると、それが伝わった瞬間、おそらく聞き取りは硬直し、相手との<いま、ここ>での出会いは失われていくだろう。

観測することが対象に影響を与えてしまう相互性という点では、量子物理学の観測とほとんど同じである。自然科学の客観的な観察が成り立つのは、実は実験室でできるごく限られた世界に過ぎない。「語りのちから」によって、聞き取る側の意見や価値観も変動していく。


現代の社会学には、私たちの暮らしの大半をおおっている「あたりまえ」の世界を解きほぐして、そのなかにどのような問題があるのかを明らかにしていこうとする営みがある。それはエスノメソドロジー(ethnomethodology)と呼ばれているものだ。

たとえば男性と女性が会話をすると、一般に、女性の発話に男性が割り込む回数が多い。女性は男性の話にあいづちをうったり、うなずく回数が多い。男女同権がタテマエ的には成立している、「あたりまえの」私たちの社会でも、男女の間には隠れた権力関係が存在していることがうかがえる。

多くの人が、ニート問題や差別問題、犯罪者の経歴などについては、無意識のうちに高みや客観的な立場から発言してしまいがちだ。たとえば「私は差別したことも差別されたこともない普通の人間なのですが、あなたの差別体験を教えてください」など発言してしまう人がいる。その普通感が差別の源かもしれないのにである。

無意識のあたりまえがあることを著者はいくつもの事例を使って指摘している。道具としての「カテゴリー化」、特定のコミュニティで特権的な地位を占める語り=「モデル・ストーリー」、全体社会の支配的言説=「マスター・ナラティブ」「ドミナント・ストーリー」が、聞き取りをするもの、されるもの両者の言説の背景にあることを理解する必要があると著者は書いている。

社会学の学生や教員向けに読み物として書かれているが、部外者として何かを当事者から聞き取る際のノウハウ本として読むことができる。


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Posted by daiya at 2006年04月27日 23:59 | TrackBack このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加
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