2008年02月05日

ヨブへの答え

・ヨブへの答え
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ユングの傑作。宗教を心理学で解体する。宗教とは何かにひとつの答えを返しており衝撃的。

聖書に出てくるキリスト教の神ヤーヴェは全知全能であるにも関わらず間違いを犯す。最初につくった人間のアダムとイブからして、彼が課したルールを破り堕落していった失敗作だ。人間の心はお見通しのはずなのに、ひどく疑って試練を与える。そして意のままにならないと怒って罰を下す。そして自らを称賛する人間に極限的なまでの慈愛をみせることもある。

「彼の力が宇宙のすみずみまで大きく鳴り響いているわりには、彼の存在の基礎は心細い、つまり彼が実際に存在するためには意識に映されることが必要である。存在は、当然誰かに意識されてこそ意味がある。だからこそこの創造主は、人間が意識化するのを無意識のうちに妨げたいと思っていながら、なおかつ意識的な人間を必要としているのである。だからこそヤーヴェは怒り狂って盲目的な破壊に走り、そのあとで物凄い孤独と辛い虚無感に苛まれ、次いで自分を自分自身と感じさせてくれるものへの何とも言えぬ憧れが再び目覚めてくる。」

ヨブ記の中のヨブは神を敬う正しい人である。その行いや言動から良い人間だとわかりきっているのに、神はヨブにサディスティックなまでに厳しい試練与えて痛めつける。理不尽で不可解である。それでもヨブは神への従順をひたすらに誓い続ける。この二者の茶番劇みたいな行動は、いったい何なのか?ユングはこう分析する。

「彼(ヤーヴェ)は一人で両者、迫害者にして助け手であり、どちらも同じように真実である。ヤーヴェが分裂しているというよりは、むしろ一個の二律背反であり、全存在にかかわる内的対立であって、それが彼の恐るべき行動の・彼の全能と全知の・不可欠の前提なのである。このことを認識しているからこそ、ヨブは彼の前で「わが道を明らかにせん」ことに、つまり自らの立場を鮮明にすることに、固執するのである。なぜならヤーヴェは怒りの面をもつにもかかわらず、その反対に、訴えを起こした人間の弁護者でもあるからである。」

神はすべてであるが故に、善でも悪でもある全体性の性質を持っている。ヨブはそれを認識したうえで、普通に考えると理不尽に見える神にひれ伏しているのである。このヨブは神よりも知的で道徳的に高い位置にいる。だから追い越された神は人間をふたたび超越するために、神であり人であるキリストの姿に変身せねばならなかったのだという。

ユングはその全体性の神の正体は人間の無意識のはたらきであると指摘する。

「神と無意識とはどちらも超越的な内容を表すための極限概念である。しかし、無意識の中には全体性の元型が存在していて夢などの中に自発的に現われるし、また意識的な意志から独立したある傾向があって、それがこの元型を中心にして他のもろもろの元型を関係づける働きをしているということを、経験的には確かに確認することができる。」

無意識の中の元型がせめぎあって、ある程度は自発的に神を作りだしている。だからこそ、神の姿は時代状況を反映して、そこに生きた人々の無意識を反映する形で変化してきたとユングは指摘する。旧約聖書や新約聖書の時代から1950年代の法王宣言まで、歴史を追って、無意識と神の対応関係を見事に分析している。

ユングというと、例のシンクロニシティ研究の超越的な難解さが連想されるが、この本はまったくちがって、論理的でわかりやすく書かれている。伝統的な宗教における神という表象の正体を心理学を使って論理的に説明している。訳者の素晴らしい解説があるおかげで一層、内容を立体的に理解することができるのも高評価。

・グノーシスと古代宇宙論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004955.html

・グノーシス―古代キリスト教の“異端思想”
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004060.html

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2008年01月16日

幽霊を捕まえようとした科学者たち

・幽霊を捕まえようとした科学者たち
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1882年、ケンブリッジ大学トリニティカレッジで(英国)心霊現象研究協会 (The Society for Psychical Research)は設立された。初代会長は哲学者ヘンリー・シジウィック。幻像、サイコメトリー、テレパシー、テレキネシス、エクトプラズム、ポルターガイスト、降霊術など、心霊現象や超常現象を科学的に解明しようとする組織であった。本物のゴーストハンターたちの会なのだ。

心霊現象研究協会の主な歴代会長のリストを見ると、首相やノーベル賞学者を含む錚々たる顔ぶれが就任している。

1882-1884 ヘンリー・シジウィック、哲学者
1892-1894 A.J.バルフォア、イギリスの首相、バルフォア宣言で有名
1894-1895 ウィリアム・ジェームズ、心理学者、哲学者
1896-1897 ウィリアム・クルックス卿、物理学者、化学者
1900 F.W.H.マイヤース、古典学者、哲学者
1901-1903 オリバー・ロッジ卿、物理学者
1904 ウィリアム・フレッチャー・バレット、物理学者
1905 シャルル・リシェ、ノーベル賞受賞生理学者
1906-1907 ジェラルド・バルフォア、政治家
1908-1909 エレノア・シジウィック、超心理学者
1913 アンリ・ベルクソン、哲学者、1927年にノーベル文学賞受賞
1915-1916 ギルバート・マリー、古典文学者
1919 レイリー公、物理学者、1904年にノーベル賞受賞
1923 カミーユ・フラマリオン、天文学者
1926-1927 ハンス・ドリーシュ、ドイツの生物学者、哲学者
1935-1936 C.D.ブロード、哲学者
1939-1941 H.H.プライス、哲学者
1965-1969 アリスター・ハーディー卿、動物学者
1980 J.B.ライン、超心理学者
1999-2004 バーナード・カー、ロンドン大学の数学、天文学の教授

・出典 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E9%9C%8A%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A

1985年にはアメリカにも協会が発足し、本書の主役であるハーヴァード大学教授のウィリアム・ジェイムズが初代会長に就任する。彼らは大真面目に幽霊屋敷や超能力者を調査し論文を書いて発表した。趣味的活動ではあったかもしれないが、高名な科学者である彼らは失うもののある人たちであった。多くの挑戦はかなり本気だったようなのである。

心霊現象や超常現象に対して懐疑的な意見もあれば、肯定的な意見もあった。科学者たちは宗教や迷信から離れて議論していた。懐疑派は「たとえば幽霊を見たと称する人々はほぼ例外なく、死者はきちんと服を着ていたと言う。なぜそうなのか?エレナーの言葉を借りれば、なぜ「服の幽霊」が出るのか?幽霊とは死者の霊ないし霊エネルギーの現れであ、とは言えるかもしれないが、シャツやスカートにも死後の生があるとは考えにくい。なぜ服もいっしょにもどってくるのか?」といった。いやはや、そんな問題の立て方があるとは感心したのだが、肯定派は識閾下のコミュニケーションが超常現象の正体なのだと主張したりもした。

本書は19世紀末〜20世紀初頭の、最初の心霊研究ブームの熱狂を伝えるドキュメンタリである。高名な学者や作家が次々に登場して心霊現象を語っている。表の歴史書には決して出てこない、もうひとつの科学史、偉人伝として面白いのである。

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2007年11月19日

二千日回峰行 新装改訂版―大阿闍梨酒井雄哉の世界

・二千日回峰行 新装改訂版―大阿闍梨酒井雄哉の世界
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迫力のある写真集。

比叡山の千日回峰行は、比叡の山を毎日30キロから40キロ巡って礼拝する行である。期間は延べ1000日(7年間)に渡る。回峰700日目では9日間の断食、断眠、不臥で祈り続ける「堂入り」という医学的には生存が危うい難行もある。晴れて千日回峰を達成した行者は「大阿闍梨」と呼ばれ、生き仏として崇められる。

千日回峰行には厳しい掟がある。もしも途中で修行が続けられなくなったら死なねばならない。そのために行者は短刀を持ち歩いている。7年間の間に怪我や病気で歩けなくなったらそれを使って自害する覚悟なのである。

酒井雄哉大阿闍梨は、驚くべきことに昭和の終わりに連続2回もこの千日回峰行を達成している。千日回峰はこの400年間で46人が満行しているが、二千日満行はたったの3人しかいないのである。

この本は千日回峰中の大阿闍梨を数年間に渡って撮影した写真集。

「昔流の言葉で言えば、行はわしの人生の最後の砦だからね。勉強してもだめ。仕事やってもだめ。何をやっても人間失格で、最後にたどりついたのが、お山での行だから。その砦を守れるかどうかは、自分が捨て身になって、全力投球しなくちゃならんということやね。」

大阿闍梨の言葉や千日回峰行の解説もあるが、いくら読んでも言葉だけでは理解できない部分がある。なぜ死を覚悟で厳しい修行に臨むのか。日々何を思いながら続けていたのか。独り山を歩き、仏に祈る大阿闍梨の写真は、それを理屈でなくわかったような気にさせてくれる迫力がある。

・酒井雄哉のホームページ
http://www.sakai-yusai.com/

そして公式ホームページがあるというのもすごい。

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2007年10月26日

神社若奥日記―鳥居をくぐれば別世界

・神社若奥日記―鳥居をくぐれば別世界
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いきなり関西の神社に嫁いだ女性ライターのドタバタ体験記。

一般人にとって神社の舞台裏は謎である。全国に神社は8万社以上あり、神職として働く人は約2万人といわれるそうだが、どうやったら神職になれるのか。神主や巫女は祭事がない日は何をしているのか?どうやって神社は収入を得ているのか。神主というのは、やっぱり毎日清く正しく生活しているのか?結婚前は神社と寺のちがいさえ知らなかった著者なので、軽妙な文章の中で神社の基礎知識をわかりやすく教えてくれる。

神社の若奥様の1年間を日記のように綴ったドキュメンタリである。小さいけれど歴史のある、この神社は大阪の街中にある。御神輿はガレージに格納され、まつりの日には神楽殿にミラーボールが回り演歌歌手がショーをする。「えべっさん」に日には境内は近所のおじさんおばさんの酔っ払いでいっぱいになる、ような地元密着型である。

ある種の店を構えているわけであるから、神社の1年間は結構忙しいのであった。一に掃除、二に掃除で、神社を清潔に保たねばならない。関係者、協力者への気遣いのこまやかさも求められる。祭りのイベントの前後は大忙しで、大晦日から元旦は36時間不眠不休で働いている。そしてなにより大切なのは毎年同じことを繰り返すということだった。

「神社では、どんなに小さな行事でも、かならず心待ちにしている人がいるし、どんな小さな木を一本植えても、その生長を楽しみに見にきている人がいるのだという。だからおかあさんは、境内の植物の世話と掃き掃除を絶対にかかさないし、いちどやり始めた行事は、途中でやめたりしない。「今は人が来なくても、三十年やれば増えてくるやろ」「あと五十年もすれば立派な木になるやろ」などという、スパンの長い発言は、おかあさんだけでなく神社にたずさわる人たち全般の特徴である。」

軽妙に神社の裏話を書いているのだが、暴露的ではない。一般読者の神社への興味を深めてもらおう、好きになってもらおうという著者の意図が伝わってくるのが、読んでいて気持ちがよかった。現代の神社や神道の実態を楽しく知ることができる。

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2007年10月23日

バチカン・エクソシスト

・バチカン・エクソシスト
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バチカン公認のエクソシストの実態を、ロサンゼルスタイムスの女性記者が、エクソシスト本人や患者たちへの取材を通して明らかにしていく。

「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起させ、大声をあげて出て行った」マルコ伝 第一章二十三節〜二十六節

聖書にはイエスが人間に憑依した悪魔を追い出す場面が何度もでてくるので、カトリックでは悪魔祓いの儀式が公式に認められてきた。その儀式を執り行う聖職者はエクソシストと呼ばれる。前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世も在任中に三度、エクソシストとして悪魔祓いを行ったという。エクソシストはバチカンが公認しているのである。司教のエクソシストもいる。

現代イタリアでは悪魔憑きに悩まされる人が増えていそうで、エクソシストの数は1986年には20人だったが、現在ではほぼ350人に増えた。バチカンはエクソシストの公開講座まで開いていて、その存在や活動は決して秘密というわけではない。しかし、バチカン首脳部は、悪魔祓いが扇情的にメディアで取り上げられることを嫌って、その宣伝活動を控えめに抑えている実情があった。

悪魔の憑依が増えているとはいっても、本物は珍しいそうだ。エクソシストたちが最初にすることは、偽者の憑依を見抜くことにある。毎日相談を受けるエクソシスト曰く、自分でも十数年で十人しか本物の憑依現象とは出会うことがなかったと述べている。大半の事例は、精神的な病やオカルト好きの妄想に過ぎない。

「本物の憑依に見られる4つの症状」というリストが紹介されている。

・人間の能力をはるかに超えた力を発揮する
・本人が持っている本来の声とはまったく違った声で話す。もしくは被術者が知るはずのない言語を話す
・遠い場所で起きていることや、被術者には知りえない事実を知っている
・聖なるシンボルに対して冒涜的な怒りや嫌悪を感じる。

著者が立ち会った悪魔祓いの記述はまるで映画「エクソシスト」のワンシーンのようである。エクソシストが聖水や聖書をふりかざして、獣のような声で叫ぶ患者と霊的に戦う。他のどんな手段でも直せなかった病が、悪魔祓いによって治ってしまうケースがある。

著者はジャーナリストの中立的立場から、悪魔の憑依現象が本物なのか偽者なのかを断定はしない。カトリック教会と悪魔祓いの歴史、本物のエクソシストと患者たちの実態の報告をした上で、後半では悪魔祓いは解離性障害の一種ではないかなど、科学的な見地からの批判的分析も紹介されている。

日本のイタコが思い浮かぶのだが、訳者解題で翻訳者が日本とキリスト教国の文化の違いを指摘していた。憑依現象において、キリスト教圏では神と悪魔の二項対立になるが、日本ではキツネ憑きのようにもっと混沌とした物が憑く。だから、悪魔祓いというのは日本の土壌にあわず、普及しなかったのではないかという。

キリスト教圏の文化の影の部分を垣間見ることができるドキュメンタリだ。

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2007年05月30日

誤解された仏教

・誤解された仏教
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本来の仏教は霊魂の存在をはっきり否定している。

「肉体はなくなっても、霊魂は残る。祭りを怠ると、その先祖が祟る。ーーーーーーーなどというのは、まったく仏教とは何の関わりもない話である。事実、長いあいだインドの仏教では、死者儀礼とは何の関わりももたなかった。」

「死者の祟りなどというのは、原始民族の宗教(?)心理である。わけても、日本人は死者の怨霊を恐怖した民族である。そうした鎮魂(御霊鎮め)には神主さんより坊さんの法力のほうが秀れている、ということで仏教が取り入れられた。これを「御霊信仰」という。」

霊魂がないのだから祟るわけがない。あの世もない。本来の仏教では死んだら終りなのである。生まれ変わりということもない。そもそも輪廻というのは解脱すべきものであって、転生は永劫の生き死にを繰り返す苦しいイメージなのだ。

これは仏教=無神論・無霊魂論」の主張を軸に、仏教学者の著者が「正しい仏教」を説く本である。

私たち日本人は誤解された仏教をなんとなく信じている。人間は死んだら霊になってあの世ので暮らし、ときには輪廻転生で新しく生まれ変わったりもする、というのが平均的日本人の死後の世界のイメージではないだろうか。それが全部嘘だというと落ち着かない感じがする。

遠くインドからの伝播の過程で土着の思想と習合して、日本の仏教は本来の姿から大きく形を変えて大衆に普及した。その過程を著者は丁寧にひも解いて、誤解を解こうと試みる。輪廻のとらえ方、仏教と「梵我一如」的ヒンドゥイズムの峻別、念仏の方便と真実、日本的霊性と大乗教の提唱など、かなり仏教の専門的研究の記述が多いが、私たちが持っている通俗的な仏教感を根底から覆す内容である。

仏教は無神論であり哲学のひとつであり、他宗教との対話を通して世界的な思想となりえるという壮大なコンセプトを著者はこの本で語っている。

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2007年05月20日

日本神話のなりたち

・日本神話のなりたち
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構造主義的アプローチで日本神話群を分析する研究書。日本神話はそれぞれ縄文、弥生、古墳時代に流入したとみられる3層にわけられるという。

第一層はオホゲツヒメ、ウケモチ、ワクムスヒなどが主人公として語られる食物の起源を語る神話だ。殺された神の遺体から穀物などが豊穣に生まれてくるようになったという内容で、ハイヌウェレ型神話と呼ばれる。インドネシア、メラネシア、南北アメリカにかけて近似した神話が分布する。

第二層は水田耕作に伴う神話群で、イザナギ・イザナミ、ヲロチ退治、海幸山幸の神話などが含まれる。イザナギ、イザナミは兄妹が結婚して国産みをする。最初の子は海に流してしまう。木のまわりをまわって結婚の誓いを立てるなど細部まで似た神話が、中国にもあるそうだ。

第三層はイザナギの黄泉の国訪問やオホクニヌシの成長物語などだが、ギリシア神話との類似性が顕著なものがいくつもある。朝鮮半島を通って、西の文化の流れをくむスキタイ神話(ヘロドトスが後世に伝えた)経由でもたらされた影響らしい。

世界に類似した神話が存在するのは、インド・ヨーロッパ語族の移動の歴史と関係が深いらしい。著者はこの語族の神話を研究した著名な学者デュメジルの、三機能体系という理論を日本神話の起源に適用して説明する。

三機能とは

第一機能 宗教
第二機能 戦闘
第三機能 食糧生産

の3つである。

「他所ですでにくり返して詳論してきたように、日本神話は明らかに、アマテラスとスサノヲとオホクニヌシを三大主神格とし、これら三神のあいだに三つ巴とも言える葛藤を軸にして、主な部分が組み立てられている。そしてその中のアマテラスが祭政の第一機能を、スサノヲが暴力と武力の第二機能を、オホクニヌシが豊穣、愛欲、医療などの第三機能をそれぞれ明らかに代表することによって、神話の全体が、フランスの比較神話学者デュメジルのインド・ヨーロッパ語族の神話に共通するものであったことが明らかにされている、「三機能体系」にまさに則って構成されている。」

日本神話で最も奇妙に感じる「国譲り」を著者はこの三機能体系で説明がつくと述べている。国作りをしたオオオクニヌシ一派が、後から降臨した天皇家の祖先に支配権を譲り渡す話である。

「つまり、この神話には、第一機能と第二機能をそれぞれ担当する祭司と戦士が、神聖な王家とともに支配層を構成して、国土に土着して生産のための労働に従事するはずの庶民たちの第三機能を統監するという、デュメジルの言う三区分イデオロギーに特徴的な理念が、きわめてはっきり表明されていると思われるのだ。」

三機能を統合することにより、支配者層が安定した権力基盤を獲得するというパターンは、若干の変化はあるものの、スキタイ、高句麗にも同様の構造がある。さらに遠くギリシア世界との類似性もあるという指摘が「ロムルス・ヘラクレス・インドラとヤマトタケル」という章で語られている。

神話素のような物語の構成要素のDNA解析を試みる手法で、複雑な日本神話のなりたちが、世界の神話に対置され、きれいに整理されていく面白い一冊。

日本古代文学入門
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004835.html

・ユングでわかる日本神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004178.html

・日本の聖地―日本宗教とは何か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004661.html

・劇画古事記-神々の物語
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004800.html

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html

・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html

・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html

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2007年05月01日

図説 金枝篇

・図説 金枝篇
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少し値が張る本だが、長大な民族学の古典「金枝篇」を見事に要約し、原典にはなかった写真やイラストで本文の理解を深める工夫が素晴らしい。装丁もよく、本として完成度が極めて高い内容。フレーザーを読むならこれがおすすめ。


ローマの近くにネミという村があった。その村には、古代ローマの時代より、森と動物の女神、豊穣の神ディアナと、ディアナの夫ウィルビウスを祭った神殿があった。この神殿では、男は誰でもその祭司になり、「森の王」の称号を得られるというしきたりがあった。ただし、祭司になるには、男はまず神殿の森の聖なる樹から1本の枝 -「金枝」-を手折り、それで時の祭司を殺さなければならなかった。こうしてこの神殿の祭司職が継承されてきたのである。祭司になるのに、なぜ時の祭司を殺さなければならないのか? なぜまず聖なる樹の枝を手折らなければならないのか?この二つの質問にたいする答えを求めるのが本書『金枝篇』の目的である。

呪術には、「似たものは似たものを生み出す、結果はその原因に似る」という類似の法則と、「かつて互いに接触していたものは、その後、物理的な接触がなくなっても距離をおきながらひきつづき互いに作用しあう」という感染の法則の二つの原理がある。類似の法則からは類感呪術が、感染の法則からは感染呪術が発生する。

類感呪術とはたとえば敵に似せた像を傷つけることで、その敵本人を呪い殺すような術である。感染呪術とは相手の身に着けていたものや髪などを使って本人に影響を与えようとする術のことである。

冒頭に引用したネミの祭司殺しや金枝とはいったいなんなのか。世界中の神話を比較分析することで、共通項をみつけ、荒唐無稽に思える神話に隠された人類にとって普遍的な意味を見出そうとする。

フレーザーは世界中の民族の呪術やまじないの膨大な数の事例を収集した。フィールドワーカーではなく書斎にいながら文献で情報を集めるタイプであったそうだ。フレーザーの仕事は”未開人”を見下しているような態度の記述もあったり、根拠のないデータが混ざっていたりして、後世の評価は肯定的なものばかりではないようだが、出版当時、大きな話題になり、民族学の基礎を築いたのがフレーザーであり、金枝篇であったことは間違いない。


結局のところ、科学という総合概念、つまり、ふつうの言葉でいえば、自然の法則だが、それは、人間のものの考え方が生み出したくるくる変わる幻影を説明するためにひねり出された仮説にすぎないことを忘れてはならない。われわれはその幻影を世界とか宇宙といった大仰な呼び方で権威づけているだけなのだ。とどのつまり、呪術も宗教も科学も人間のものの考え方がつくり出した理論にほかならないのである。科学が呪術や宗教に取って代わったように、科学もまた、いつの日か、もっと完璧な仮説によって取って代わられるかもしれない。

もはや古典だが、いま改めて読んでも面白い一冊である。

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2007年04月19日

グノーシスと古代宇宙論

・グノーシスと古代宇宙論
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古代の異端思想グノーシスに関する本格的な研究書。

「さて、神なるヌースは男女であり、命にして光であるが、ロゴスによって造物主なるもう一人のヌースを生み出した。彼は火と霊気の神であって、ある七人の支配者(ディオイケーテース)を造りだした。この者たちは感覚で把握される世界を円周によって包んでいて、その支配は運命と呼ばれている。」(古代ヘルメス文書ポイマンドレースより)

グノーシスの宇宙観では、神は二人いる。至高神と造物主である。至高神は宇宙を開闢したあと造物主を生み、目に見える物質界の創造はそれにまかせた。造物主はこの世界や生物をつくり、惑星を司る7人の支配者にその世界を委ねた。これにより神の叡知界→星辰界→地上世界という創造と被造、支配と被支配のヒエラルキーが確立される。

世界の創造は至高神の働きではなく、造物主の手によるものであった。これに対し人間は至高神から直接生まれた神の子であるとされる。もともとは最高レベルの神の叡智界に属していた。しかし、造物主の創造した世界を観察したいという好奇心が原因で、地上へ転落し、物質的身体に閉じ込められ、本来は下位の存在であるはずの造物主や星辰界の支配下におかれてしまった。

だから人間は「不死であり、万物の権威を有しながら、運命に服して死ぬべきものを負っている。こうして組織の上に立つ者でありながらその中の奴隷と化している」という実に不本意な状態にある。人間は再び昇天し至高神と一体になるべきだと考え、造物主や星辰界を敵対視する。この世界も神も偽物であるという世界拒否の姿勢が特徴的だ。

過去にグノーシスに興味を持ち、一般向けの本を何冊も読んだが、そもそも、なぜこのような二重の支配構造、世界拒否が組み込まれているのかが分からなかった。この本では、グノーシス思想の成立したヘレニズム世界の古文書「ポイマンドレース」に現れる宇宙論に注目し、他の古文書との比較研究によってグノーシス思想の本質に迫っていく。

ヘレニズムの文化の中心都市エジプトのアレクサンドリアはグノーシス思想の生まれたころ、ローマ帝国の属州として駐留ローマ軍総督の支配を受けていた。総督のギリシア語官名がディオイケーテースであり、この言葉は星辰の7人の支配者を指す言葉でもあることを著者は指摘する。

グノーシスの宇宙構造を造物主=ローマ皇帝、星辰界の支配者=総督と読み替えれば、不思議な二重構造の意味がはっきりする。当時のヘレニズム都市の政治の構造がそのままグノーシス思想に反映されていることになる。

著者は、多数の古文書を時代背景とともに分析して、グノーシスの本来の姿を丁寧に描き出す。グノーシス思想は、フィクションやオカルトの素材としてよく取りあげられているが、詳細な内容と歴史上の位置づけがこの本を読んでとても明確になった。

・グノーシス―古代キリスト教の“異端思想”
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004060.html

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2007年02月26日

黄泉の犬

・黄泉の犬
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この本には「入魂の」という表現がふさわしい傑作。

著者の藤原新也は60年代にインドを放浪し、処女作「印度放浪」で作家として世に出た。バックパッカーの元祖みたいな人である。この本は、その34年後に、著者が取材したオウム真理教事件への考察にむすびつけ、かつてのインド放浪を総括する形になっている。

「近頃の若者」と「熱く生きてきた俺様」を比べるのがオヤジの悪いところである。人生観、価値観は各世代や各人に固有のもので、評価軸が違うものを並べて、どちらが凄いと比較することは無意味だと思う。そういう話は時代錯誤で退屈なのが普通だ。

しかし、それぞれの評価軸で高い、低い、ホンモノ、ニセモノは歴然としてあると思う。この60代の著者の俺様論は、その評価軸上では圧倒的ホンモノだと思う。内容的には、近頃の若者はバーチャルで軟弱だ、俺様がこの目で見てきたリアルはこうだ、参ったか、と著者は言うのである。そのリアルは、私のリアルとは違うのだけれど、正に熱くてリアルである。

藤原新也は、自分で見てきたものしか信じない偏狭者だが、その代わり、人の何倍もよく見ている。インドでは人間がモノみたいにバラバラにされて火葬され、イヌに食われる様子をみつめる。火葬を手伝ってみたりもするし、自身がイヌに食われそうにもなる。経験を通して、人間は燃やすと60ワットくらいの光を出す、あれは黄泉の犬だぜ、なんてことをいう。そして、それが自分や時代にとってどんな意味や価値を持つかを考えている。

現代はネットで調べれば世界中の情報が簡単に手に入ってしまうバーチャルの時代だ。インドを放浪するより、アメリカへMBAを取得しに行く時代である。この本の中で藤原新也は、そういう近頃の若者ツトムと直接対決する。情報と感性の時代のツトムと、世界や人生に意味と価値を追い求めた著者の世代の対比が鮮やか。

藤原新也の世界は劇画的だなと思う。世界を描く線の数が多いのだ。あらゆることを意味や価値に結びつけて、自分の哲学の完成を追及している。いちいち深いのだ。反発を感じつつも、魅了される。

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2007年02月02日

錬金術と神秘主義―ヘルメス学の陳列室

・錬金術と神秘主義―ヘルメス学の陳列室
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オカルト好きにはたまらないビジュアル資料集。

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(この画像はパブリックドメイン、ウィキメディアより)

これは有名なセフィロトの樹(生命の樹)である。10のパーツが22本の線で結ばれた幾何学的な模様をいう。この意味は、どういうものかというと、

「生命の樹(せいめいのき、Tree of Life)は、旧約聖書の創世記(2章9節以降)にエデンの園の中央に植えられた木。命の木とも訳される。カバラではセフィロトの木(Sephirothic tree)という。「禁止命令を無視して」知恵の樹の実を食べた人間が、生命の樹の実も食べるのではないか、と 日本では主なる神と訳されているヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)が恐れてアダムとイヴを追放することに決めたとされる。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

というものである。雑誌「ムー」にはよく登場するし、その手の本ではおなじみである。10のパーツにはそれぞれ象徴的な意味があって、天上と地上のすべての事物の創造の計画を表しているとされるわけで、凄いことである。

・生命の樹 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%A8%B9
詳しい解説。

だからどうした?という人はこの本は向かない。

このビジュアル本にはこうした神秘主義や錬金術師たちが描いた中世の図画がカラーで多数収録されている。どれもこれも実に怪しげであるが、もしかして何か神秘の意味が隠されているかもしれないと思うと、見入ってしまう。こうした怪しい作品ばかりを大きなカラーの図でじっくり鑑賞してみたかった私は、毎晩帰宅してから、深夜ににじーっと見ている。変かもしれないが、疲れを忘れる。

これを描いた古代から中世の人たちは、真剣に世界の真理をこうした図に見ていたわけである。当時の先端科学者であった錬金術師たちは、ネズミのシッポやら水銀や処女の生き血やらを、焼いてみたり、煮込んでみたりしながら、分かった秘密をこうした図に隠したのだ。ひとつの絵を10分くらいじっと見ていると、当時の人たちの精神構造が垣間見えてくる。いや見えないが、わかったような気になる。そうした瞬間が楽しい。

中世ファンタジーやロールプレイングゲームの元ネタになっている画像も多い。詩人ウィリアム・ブレイクの絵も何枚かある。フリーメイソンものももちろんある。これだけ集めて、カラーで、良質の紙で、1500円は、好事家にはお買い得である。

この本はタッシェン社のアートブックのシリーズの一冊だ。近所の書店にコーナーがあってよくみる。美術史やデザインに興味のある人は楽しめるものが多い。中でもこの「錬金術と神秘主義―ヘルメス学の陳列室」は独特である。

・TASCHEN Books: All Titles
http://www.taschen.com/

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2006年11月13日

現代語訳 般若心経

・現代語訳 般若心経
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著者は僧侶で芥川賞作家の玄侑 宗久。

まず般若心経を全文引用してみる。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故 
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
菩提薩婆訶 般若心経 

全文で262文字に釈迦の教えが凝縮されている。意味の圧縮率が抜群である。

著者によれば、般若とは理知によらない体験的な、全体性の知の様式のこと。「般若波羅蜜多」とは般若によって理想郷に渡ること、知慧の完成した状態を指す。このお経は般若波羅蜜多に至るための呪文なのである。

有名な「色即是空、空即是色」という節は、私たちが見たり感じたりするすべて(色)は実相ではなく、変化し続ける空であり、変化し続ける空だからこそ、そこからあらゆるものが立ち上がってくるのだという意味。これは無から何かが生まれてくる量子力学の世界観に似ていると著者は指摘する。

「こうした認識が仏教的認識と重なるのは、じつは偶然ではありません。「原子物理学と人間の認識」というボーアの論文のなかには、「われわれは仏陀や老子がすでに直面した認識論的問題に向かうべきである」と書かれています。」

「ハイゼンベルクは講義録『物理学と哲学』(1955−56)のなかで、「第二次世界大戦以降における物理学への日本の大きな貢献は、おそらく、極東の伝統的哲学的思想と量子理論の哲学的本質との間にある種の近縁性があることを示唆している。」

量子力学そのものが仏教哲学にインスパイアされたものであった可能性があるのだ。こういった現代的な知見を使ったわかりやすい解釈がこの解説本の魅力である。もちろん、頭でわかることを超えることが般若ではあるのだが。

そして続く第二部の般若心経の現代語訳は短いが、著者の渾身の翻訳文が示されており、本書のクライマックスである。なるほど全文ではこういう意味だったのかと、お経を聞くのが楽しくなってくる。

・Yahoo!ショッピング - 般若心経枕カバー
http://store.yahoo.co.jp/yume/24553.html
すごい。夢にでそう。何が。

・般若心経
http://www.dynasys.co.jp/FreeSoft/Hnw/index.htm
般若心経の表示と読経ソフト。

・高野山真言宗成田山真如院
http://www.naritasan.org/
般若心経Flash。

・The Heart Sutra
http://kr.buddhism.org/zen/sutras/conze.htm
般若心経の英訳。日本語よりわかりやすいかも。

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2006年10月09日

ジョン・C・リリィ 生涯を語る

・ジョン・C・リリィ 生涯を語る
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映画「アルタード・ステーツ 未知への挑戦」「イルカの日」のモデルになった異端の科学者ジョン・C・リリイ博士の自伝。医学、精神分析学、物理学、生物学を横断して、意識を探究した。いわゆるマッドサイエンティストの典型とされる。

・アルタード・ステーツ 未知への挑戦
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博士はLSDを服用し、あらゆる外部刺激を遮断する隔離タンクに入る。意識が変容する。


LSDを服用し、タンクの中に入ると、肉体や、そのなかにあるこころが、知覚できないほど大きくなっていくのを感じた。彼は、その「存在」となった。仲間の「存在」たちと一緒だった。それぞれの「存在」は、宇宙の大きさに等しく、果てしのないネットワークを形成していた。彼が化身した「存在」は少年時代に出会った守護天使とどこか似ていた。」

そして、地球外の高次知性体からのテレパシーを受信する。宇宙には人類の味方であるECCOと、人類を支配しようとするSSIのふたつのグループがいると博士は語る。意識の覚醒レベルを指標化し、最高レベルへあがって、至高のビジョンを見る。


ぼくは音楽を聞きながら、天上に昇っていった。ぼくは高い神座に座っている、巨大で、聡明な、いにしえの神を見た。彼は、天使たちのコーラスに囲まれていた。天国でぼくは宗教的恍惚に満たされながら、神を讃え、賢者たちを讃えた。

同時にイルカとの異種間コミュニケーションにも熱心に取り組んだ。イルカの発する超音波と人間の音声を可聴音に相互に変換する装置を使って、イルカとことばで会話する。センセーショナルな研究内容と、精神世界の新しい解釈はメディアに取り上げられて、博士は時の人になる。イルカの軍事利用をもくろむ政府や、カルト宗教グループが博士と接近する。


解釈や理論は、まさしく、宇宙やこころに対する信念であることに、リリイは気づいていた。特定の信念は、真実であるかもしれないし、真実ではないかもしれない。しかし、その特定の信念は、間違いなく、実験者が体験できることを制限してしまう。

博士にとって通常の科学なんてどうでもいいことだったのかもしれない。内的リアリティを重視し、変性意識状態での幻覚に真理を見出そうとしている。富豪の父親の遺産もあったため、私欲はなく、純粋に研究に没頭する。その求道者のオーラが周囲をひきつけた。幾度も結婚して離婚する。大物の科学者や思想家が親交を求めた。

数々の伝説を築き上げて博士は2001年に他界。この小説は75歳までの孤高の生涯を丁寧に追っている。理解されようがされまいが、やりたいことをやりたいようにやる、かなり幸せな人だったのではないかと思われる。

科学と非科学の境界に興味のある人におすすめ。

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2006年08月06日

ユングでわかる日本神話

・ユングでわかる日本神話
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日本の神話を整理していくと、世界の神話と共通のパターンが見出せる。たとえば天地が分かれて世界が生まれる開闢神話、見るなという禁止を破ってしまう神話、直接的な文化交流があったと思えない、遠く離れた異文化にも同様の神話がみつかる。

この本の主題である神話とユングの接点は前書きで説明される。


たとえば、地球上の全ての民族が英雄物語を持っています。神話の中には必ず英雄が登場します。一人の男子が悪者または怪物を倒して人々を救ったり、囚われの女性を救い出すという物語です。そういう物語をこれほどまでに人類が求めてきたのはなぜでしょうか。
この問いに対して、ユング心理学は面白い解釈をしました。すなわち、そうした英雄の物語は、自我の力を得てきて、自立を妨げるものと戦い、それを倒して自立するときの、心理状態を見事に表わしているので、これほどまでに人類共通の物語になっていると言うのです。

著者は、人間が無意識のうちに共通に持っている普遍的なシンボル=元型の概念を使って、日本神話の意味を心理学的に解釈する。そして、そこに含まれる話素を、世界の神話と比較することで日本人に固有の精神性を浮かび上がらせようとする。

フロイト心理学との対比もある。たとえば日本神話の場合、イザナギとイザナミが天上の橋の上から。アメノヌボコという矛を下界に下ろして、海面を攪拌することで、日本の領土が誕生する。フロイト流では矛は男性器の、海は女性器の象徴とみなされるから、これは性交を表わす行為とされる。ユング流では、同じ行為を上にある高い精神性=意識が下にある無意識に働きかける行為と解釈できるのだという。

多くの神話を著者は意識の発達過程を表わすものと説明している。混沌とした世界が組織化され、意味のある秩序に分化していく神話の過程は、それを認識できる高度な意識が発達したことを意味する。意識が発達すると、裸は恥ずかしいと思うようになり、死を忌み、穢れを嫌うようになる。それぞれに対応する神話が生まれる。

宇宙の開闢(世界の始まり)、地下世界の成立(生と死)、起源神話(ヒトや食物などの諸起源)、異類婚(動物と人間の分化)、影や悪(善悪や宗教)という章立てで解説が進む。


・なぜ日本人は賽銭を投げるのか―民俗信仰を読み解く
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004105.html

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・神の発明 カイエ・ソバージュ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html

・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html

・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html

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2006年07月27日

日本の聖地―日本宗教とは何か

・日本の聖地―日本宗教とは何か
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「常世信仰の熊野、磨崖仏の国東半島、四国霊場、そして山岳信仰の白山・立山や修験道の出羽三山。わが国固有の風土と生命観が育んだ信仰の多様な形を追究するため、全国の聖地・霊場をつぶさに踏査。そこに見たものは、原始自然崇拝と渡来宗教が融合した姿と、それを希求した名もなき人々の信心だった―。日本の宗教の原初の世界を探る聖地紀行。」

日本の聖地を巡りながら、各地の信仰を解説している。聖地を持つような古い宗教は、原始宗教と渡来宗教の融合によってできている。お寺は仏教、神社は神道、祠や地蔵は民間信仰とキレイには分けられない場合が多いことがよくわかる。古事記、日本書紀の記紀神話と実在の聖地との関係も込み入っている。日本では、融合宗教の方が純粋宗教よりも、普遍的な信仰のあり方なのだ。

修験道や比叡山の厳しい修行の内容が興味深い。1000日も野山を駆け回ったり、13年間も世俗と関係を断ち山籠もりする修行者が現代にもいる。生命の危険を賭しても、悟りの境地や神通力を得たいと考える人たち。

この本では取り上げられていないが、隠れキリシタンの信仰も土着の信仰と融合して独自の宗教世界を創り上げているとも聞く。諸星大二郎原作の「奇談」は劇場で公開日に観たのだが、DVDには諸星大二郎インタビュー映像があるというので購入した。

・奇談 プレミアム・エディション
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「 1972年、民俗学を専攻している大学院生の里美(藤澤恵麻)は、幼い頃東北の親戚に預けられたとき、一緒に遊んでいた少年と共に神隠しに遭い、その記憶がなかった。失われた記憶を求めて、彼女はかつて隠れキリシタンの里でもあった村へ赴き、そこで異端の考古学者・稗田礼二郎(阿部寛)と出会う…。
諸星大二郎の傑作コミック『生命の木』を原作に、『ワイルドフラワーズ』の小松隆志監督が執念の映画化。設定を現代に置き換えず原作どおりにするなど、こだわりが諸所に感じられる力作となっており、原作のおどろどろしさを映像に還元することに腐心しているのが痛いほどにわかる。主人公を男性から女性に代えたのは映画用の措置だが、藤沢恵麻のはかない感じはこの歴史ミステリの哀しみとも巧まずして呼応していていい。一方、妖怪ハンターこと稗田役の阿部寛は原作のイメージに違わない風貌なだけに、髪型なども原作どおりでよかったかも。(増當竜也) 」

ここ数年、熊野、出雲、伊勢が私の行ってみたい旅行先ベスト3なのだけれども、仕事では縁がなさそうな場所であり、なかなかチャンスがない。今年こそは時間を作ろうと思っているけど行けるだろうか...。

・なぜ日本人は賽銭を投げるのか―民俗信仰を読み解く
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004105.html

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

・仏教が好き!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001708.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・禅的生活
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002275.html

・神の発見
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003728.html

・科学を捨て、神秘へと向かう理性
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002634.html

・神の発明 カイエ・ソバージュ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000809.html

・宗教常識の嘘
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003966.html

・神道の逆襲
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003844.html

・古事記講義
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003755.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html

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2006年04月13日

聖と俗―宗教的なるものの本質について

・聖と俗―宗教的なるものの本質について
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宗教学者ミルチャ・エリアーデの古典的名著。宗教的とはどういうことかを、さまざまな宗教の比較研究を通して一般化したエッセンスで語る。

宗教は今日においても支配的だ。世界の宗教人口は以下のような構成になっていて、何らかの宗教を信じている人口のほうが、そうでない人口を上回る。現代は科学の時代であると同時に宗教の時代でもある。9.11テロ事件は科学の粋であるジャンボジェット機を、原理主義者が破壊に利用したのでもあった。国際理解と同時に宗教者と非宗教者の理解もグローバルなテーマだと思う。

・世界の宗教人口ランキング
http://www.hyou.net/sa/jinkou.htm
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宗教的人間の生きる空間と時間、存在の意味についての記述が興味深い。まず空間について「宗教的人間というものは出来るだけ世界の中心に近く住むことを願ったと結論せねばなるまい」とエリアーデは書いている。神を信じて生きる人たちは、神という世界の中心に近い場所にいる。中心が聖なる場所である。

そして、時間には聖なる時間、祭りの時と、宗教的意味を持たない俗なる時がある。日本ならばハレとケが近い概念区分だろう。祭りや宗教儀式は神話時代の神々や祖先の行為の再現する時間である。


これら二種類の時間のあいだにはただちに目を惹く本質的相違がある。聖なる時間は本質的に逆転可能である。それは本来、再現された神話の原時間である。宗教的な祭、祭典の時はすべて神話の過去、<太初の>時の聖なる出来事の再現を意味する。祭に宗教的に参加することは、<通常の>時間持続から脱出して、この祭に再現する神話の時間へ帰入することである。聖なる時間はそれゆえ、幾度でも限りなく繰り返すことが可能である。それは或る意味で<過ぎ去る>ことがない、また決して不可避の<持続>を示さない、存在論的に<パルメニデス的な>時間である。

聖なる時空は、万物から意味が立ち上がってくる世界である。宗教は、あらゆるものの始まりや、存在意義を人間に教えている。「古代社会の宗教的人間にとって、世界はそれが神々によって創られたが故に現存する。すなわち、世界の現存がすでに<何かを語ろうとしている>のである。世界は物言わぬものではなく、暗い不透明なものではない。宗教的人間にとって、宇宙は<生き>て<話す>何物かである。世界が生きているということは、すでにその神聖性の一つの証拠である。なぜならそれは神々によって創られ、神々は人間に対して宇宙的生命のなかにその身を示すからである」。

そして、エリアーデは、非宗教者を、宗教的な力である非聖化の産物だと語っている。信じていないことは信じることの裏返しであって、宗教の力から逃れることはできたわけではない、ということになる。


しかしこの非宗教的な人間は宗教的人間(homo religious)から発生しているのであり、彼の祖先が生きていた状況から発展したのである。それゆえ彼は本来非聖化過程の所産である。<自然>が神的コスモスの俗化が進行した結果を現わすように、俗なる人間は人間存在非聖化の産物である。これはしかし、非宗教的人間があらゆる宗教性、あらゆる超人間的意味を<脱却する>よう努めることにより、その先人への対立から形成されたことを意味する。彼は彼の祖先の<迷信>から<解放>され、<浄め>られただけ彼自身になる。換言すれば、俗なる人間は欲すると否とにかかわらず、常になお宗教的人間の態度の痕跡を留めている。ただこれらの痕跡はその宗教的意味を奪われているだけである。彼が何をなそうと継承者である。

俗とは非聖化によるものであり、宗教から解放されても聖化とその裏返しの非聖化というはたらきからは、逃れられないということになる。聖と俗を連続的なパースペクティブにおさめて、そこにある本質を丁寧に語る本であった。

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2005年12月12日

グノーシス―古代キリスト教の“異端思想”

・グノーシス―古代キリスト教の“異端思想”
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面白い。

「人間は<偽りの神>が創造した偽りの世界に墜とされている。われわれはこの汚れた土地を去り、真の故郷である<天上界>に還らなければならない」

最初に至高神と女性的な「エンノイア」という神がペアをなして存在した。そこから順次「アイオーンと呼ばれる神々が男女のペアで流出し、最後のペア「テレートス」と「ソフィア(知恵)」に至るまでに30人の神々が成立した。この上位世界は「プレーローマ」と呼ばれる。

プレーローマには厳密な階列関係があり、至高神を直接見る、知ることができるのは、至高神から直接生まれた「ヌース」という一組のアイオーンだけであった。しかし、あるとき、序列で最下位のアイオーンのソフィアが、直接至高神を見たいと欲した。この企ては失敗し、ソフィアはプレーローマから転落しそうになる。

そこで「ホロス」という神がソフィアの過ちを思いとどまらせることに成功する。ソフィアは心に抱いていた「情念」を下界に捨てることで、プレーローマにとどまった。この事件の再発を防ぐため「ヌース」から「キリスト」と「精霊」のペアが生まれて、神の不可知性をプレーローマ全体に通達した。

一方で、キリストは下界に捨てられたソフィアの「情念」を哀れみ、それに形を与えた。これが私たちの人間界の天地創造であり、創造神の起源であった。こうした経緯故に、私たちには、プレーローマの構成員であるソフィアの情念という、至高神につらなる要素が内在していることになる。

キリストは、人間の肉体に閉じ込められている「霊魂」「本来的自己」「光の粒子」の存在を人間に認識(グノーシス)させ、覚醒させ、プレーローマへ帰還させるために、下界に派遣された。呼びかけに応えた人間は、偽りの神「創造神」に与えられた肉体を捨て、真の神である至高神のいる上位世界へと戻っていく。この過程が完了したとき、物質世界は燃え尽きて消滅する。


以上が、2世紀に誕生したキリスト教異端のグノーシスの教義の一パターンである。グノーシスというキーワードは、宗教史だけでなく、さまざまな思想やフィクションにも題材として登場する。オカルト心霊が好きな人にもおなじみのキーワードだろう。曖昧にしか理解していなかった私としては、歴史に厳密でありながらもやさしく解説するこの本はとても参考になった。

この本は、グノーシス思想の登場した2世紀当時の、原初形態についてのみ語る内容である。ウァレンティノス派プトレマイオス、バシレイデース、マルキオンという3人のグノーシス派の教師の思想を解説している。この3者の間でも教義が微妙に異なるのだが、共通する点として3つが挙げられている。

1 反宇宙的二元論
「まずこの世界、この宇宙は劣悪な創造神が造ったもので、この創造神は善なる至高神と対立的な関係にある」

2 人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信
「人間は創造神の造ったものであるが、その中に、至高神に由来する要素がわずかだけ閉じこめられている」

3 人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在
「人間はそのことに気付かないでいるが、至高神から使いがやってきて、人間に自分の本質を認識せよと促す」

正統派のキリスト教では人間は知恵の果実を食べたから楽園から追放されたことになっている。グノーシスでは逆に知恵の果実を食べて覚醒することで上位世界へ帰還することを薦めているように思えた。グノーシス研究上、重要な古文書ナグ・ハマディ写本には、プラトンの「国家」も収録されているそうだ。理性重視のギリシア哲学やプラトン思想に影響を受けていることが強く感じられる。

そういえば、最近、まさにグノーシス的な映画を観た。私が崇拝する諸星大二郎先生の作品の映画化「奇談」は、隠れキリシタンがテーマなのだが、内容がとてもグノーシス的だと思う。

・『奇談』 公式サイト
http://www.kidan.jp/index2.html

この映画は諸星ファンか民俗エンタメファンなら必見。

・妖怪ハンター 地の巻集英社文庫
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原作「生命の木」はこの本に収録されている。

・私の好きな漫画家たち
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000741.html
諸星先生について

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2005年11月07日

宗教常識の嘘

・宗教常識の嘘
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宗教学者の島田裕巳によるコラム集。

2005年8月、読売新聞の世論調査によると、何か宗教を信じている人はわずか23%で、信じていない人は75%を占めた。宗教を信じている人の割合はオウム真理教事件以降、減少傾向にあるようだ。

世界の総人口の32.9%がキリスト教徒。19.9%がイスラム教徒。13.3%がヒンズー教徒。儒教・道教・中国民間信仰が6.4%。三大宗教と日本では呼ばれる仏教は5.9%で、実は第5位の比較的小さなグループに過ぎない。

欧米で3大宗教というとキリスト教、イスラム教、ユダヤ教という組み合わせの方が一般的だ。そして、これら3つの宗教はイスラエルを聖地とし、同じ唯一神をアッラーと呼んだり、ヤハウェ、エロヒムと呼んで信仰している。世界人口の過半数をこの宗教グループが占めている。

無宗教がマジョリティのはずの日本だが、聖地参りという点では世界的にも稀に熱心な国である事実が指摘される。イスラエルのメッカは世界中からイスラム教徒が詣でることで知られており、年間参拝者数482万人に及ぶ。キリスト教の聖地ルルドも年間500万人を集める。しかし、日本の三が日の初詣の参拝者数は全国で9千万人に及ぶ。個別の聖地をみても、明治神宮(310万人)、成田山新勝寺(265万人)、伏見稲荷(261万人)など200万人を超える神社が他にもいくつもある。

イスラム教でもキリスト教でも、聖地参拝者の皆が皆、厳格な信者と言うわけではなく、現世利益や軽い気持ちで参拝するような人もいる。宗教心の薄い日本の初詣とまったく別物ともいえないだろう。日本は隠れた宗教大国なのである。

近年、宗教は原理主義やテロリズム、カルト宗教と結び付けられてメディアに報じられることが多い。イスラム教徒の原理主義ばかりがクローズアップされるが、本島の原理主義者はアメリカにいるという指摘がある。

2004年のニューヨークタイムズの調査によると、アメリカ人の55%が人類の誕生は「神が創造した」と回答した。「神が関与した」も27%で「進化による」は13%に過ぎなかったと言う。聖書の記述を真実だとし、進化論を認めない福音派はジョージ・ブッシュの支持基盤ともなっていた。メガチャーチという巨大な教会をつくって礼拝する保守的な白人中心の信者が中心となっている。日本人からは見えにくいところで、米国の宗教は根強く栄えているようだ。

空海はいまも生きている。隠れキリシタンの信仰の内容の不思議。イスラム教徒になる方法。イスラムに聖職者はいないこと。戒名を勝手につけてしまった著者の見解。日本人は本当は一神教だ論。創価学会や立正佼成会などの新宗教の状況や、宗教法人への課税の理由の解説。そして、キリスト実在についての大胆な仮説など、世界と日本の宗教を肴に、興味深いテーマのコラムが続く。全体を通して、見えにくかった宗教の今について理解を深めることができる一冊。

・日本人の神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003868.html

・日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

・仏教が好き!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001708.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html

・禅的生活
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002275.html

・神の発見
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003728.html

・科学を捨て、神秘へと向かう理性
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002634.html

・神の発明 カイエ・ソバージュ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
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2005年11月01日

日本人の魂の原郷 沖縄久高島

・日本人の魂の原郷 沖縄久高島
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昔、アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)が東方の海の彼方(ニラーハラー)から久高島にきた。ところが久高島は東の波は西に越え、西の波は東に越え、海水の中にたゆたい、まだ島の形はなかった。そこでアマミヤが持参のシマグシナーと称する棒を立て、神に頼んで天から土、石、草、木を降ろしてもらった。それで久高島ができた。

沖縄本島南部地域の知念半島から東方約6キロに浮かぶ小さな島、久高島に伝わる開闢の神話だ。久高島は長い間、独自の宗教と文化を守ってきたため、とても古い時代の神話や祭祀が現代にまで伝わっている。

久高島では男は海人、女は神人となって生きた。


久高島では、シマで生まれ育ち、一定年齢(丑年の30歳から寅年の41歳)になった主婦は全員神女になることになっており、70歳までつとめなければならない。この神職者の就任式が12年ごとの午年、旧暦11月の15日の満月の日から18日までの4日間にわたっておこなわれるイザイホーなのである。

イザイホーは500年以上前に始まったと言われる男子禁制の祭りであった。現在は後継者不足のためおこなわれていない。この本には著者が撮影した貴重な1978年のイザイホーの写真が掲載されている。聖地久高島の中の聖地、クボー御嶽に神女が終結し、儀式を執り行う様子は荘厳さに圧倒される。

実は、私、昨日、その沖縄最高の聖地、久高島と、本島のもうひとつの聖地、斎場御獄にいってきた。

遅い夏休みをとって沖縄に行き、久高島、そして本島の斎場御獄を訪問した。高い波でやたらと揺れる高速フェリー(1日6回運行)で渡って、3時間半ほど島に滞在。なお、久高島の中でも最高の聖域クボー御獄は、いまも男子禁制なため、妻にカメラを渡して撮影してきてもらいました。島から戻って急いでバスで3駅の斎場御獄へ。斎場御獄からは遠くに久高島がのぞめる絶景が見えました。

スライドショームービーを公開します。デジカメの写真をMicrosoft Photo Story 3でムービーに変換しているため、WMV形式です。クリックで映像をダウンロードできます。

久高島、斎場御獄の訪問は神話マニアとして長年の夢だったので感無量の体験でした。

・スライドショー
http://glink.jp/files/kudaka_sefa.wmv
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・Passion For The Future: Windows正規版チェックでタダでもらえるMicrosoft Photo Story 3
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・日本人はなぜ無宗教なのか
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・仏教が好き!
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・「精霊の王」、「古事記の原風景」
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・脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
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・禅的生活
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・日本の古代語を探る―詩学への道
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・古代日本人・心の宇宙
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・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
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2005年10月20日

日本人の神

・日本人の神
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■日本のカミの由来

国語学の重鎮が書いた日本の神様論。

まず日本の神という言葉の由来を考える。

・カミはカガミ(鏡)の意である
・カミはカシコミ(畏)の略である
・カミのミはヒの転化で太陽のことである
・カミはカミ(上)の意である

などの諸説を語源学的には成り立たないとして退ける。

日本語の「mi」の発音は奈良時代には2種類あって、カミのミと上記のミは別物のmiであったという。

そこで語源ではなく日本の神の特徴を見る。

・カミは唯一の存在ではなく多数存在した。
・カミは具体的な姿・形を持たなかった。
・カミは漂動し、彷徨し、時に来臨し、カミガカリした。
・カミはそれぞれの場所や物・事柄を領有し、支配する主体であった。
・カミは超人的な威力を持つ恐ろしい存在である
・カミは人格化されることがある

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの唯一神とはまったく異なる性格を持つ。

■神の祭祀と政治

「政」とかいてマツリゴトと読むように古代の祭祀は政治と密接に結びついていた。

1 年ごとの五穀豊穣・息災の祈願
2 新穀に対する感謝の祭祀
3 個々の災害が生じないようにとの祈願
4 天皇即位の際の祓除と祈願
5 国民の罪悪の祓除と祈願


1から4にいたる神への祈願や5の罪の祓除について見ると、これは、今日の日本人の実際の政治の運用の仕方に対する基本的な考え方・対処の仕方の原型である。すなわちこれは金品を権力者に贈与することによって、下賜される便益を享受しようとする行動の原型であり、ハラヘの考え方は、今日広く行われているオハライの根源であって、罪過・公害・公金私用などは隠蔽し、先送りしていけば、いずれ消失するにちがいないとする考え方の原型をここに見ることができる。

ここにはまた、神と人間との間で約束をとりかわし、その約束を守るという契約の観念はない。個々の人間が自分の約束・責任を果たすことによって仕合わせを得るという自己規律の観念もない。その裏には、人間は自然の成り行きとして生まれて来て、日本の自然の中でよしとされる明るい・清水のような心を持てば、食糧が得られ、繁殖行為を営んで死んでいく。それをくりかえすところに世界があるとする考え方がある。

日本の神は成り行きまかせなのである。

神々の起源神話をみても、

1 はじめ天地は混沌としていた
2 その中に大地が現れた
3 その泥の中に
4 葦の芽(生命)が生えてきた

こんな調子で人類の祖先であるイザナギ・イザナミの神々までが自然に生まれ出ている。「光あれ」のように、神々は、偉大な何かが命令して作った(アラセル)わけではなく、「成る神」なのであり、所成神と分類されている。

モンスーン地域は気候が、穏やかで自然に対して、受動的に生きることができ、厳しい環境である砂漠から生まれた宗教とは性質が異なるのだと著者は述べている。

■インドのタミル語との共通点

だが、仏教の伝来によって日本の宗教は大きく変化する。そもそも古来の神は岩や山それ自体がご神体であったらしい。建築としての神社は意外にも歴史が浅く、仏教の寺院をみならって建てられた可能性が高いという。

本地垂迹、廃仏毀釈など日本の神々は時代の移り変わりに翻弄されてきた。あるときは仏教の神々と同じだとして習合されたり、あるときは別物だとして分離されたりの複雑な経緯がある。そうした事情を丁寧にこの本は紐解いて、日本のカミの原型を追究していく。
そして言語学の分野で突き当たるのがインドのタミル語と日本語の多数の共通点。神、祭る、祓う、祈む、米、粟、餅、苗、畑、田んぼ、畦、モノ、コト、アハレ、などの古語の500語以上がタミル語にも同様の概念を持つ同音語がみつかったという。これを根拠に著者は、日本の神々はインドのタミル語族の神に源流を持つはずだと主張する。

日本語=タミル語語言説が真実かどうかはよくわからないが、カミの語源や概念の源流をたどる研究は、大変興味深い。薄めの本だが丁寧な論説と明確な主張があって勉強になる一冊。

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2005年09月27日

神道の逆襲

・神道の逆襲
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明確な教義がない曖昧な宗教と言われてきた神道。著者は仏教やキリスト教のような宗教らしい宗教の枠組みではとらえられない奥深さが神道にはあるのだと逆襲する一冊。

■神さまはお客さま


子どもの頃、外で遊び回って帰ってきて勢いよく玄関から飛び込み、大声で「ただいま」と叫んだ瞬間、何か様子がおかしくて一瞬戸惑った。そういう記憶をお持ちの方は多いだろう。そういう時、たいていは母親がそっと障子の向こうから顔を出し、「今、お客さんが来ているの」とささやく。その一言で子ども心は、奥深い何かを即座に了解したのではないだろうか。子どもが感知した、家の中に漂う言うにいわれぬこの雰囲気にこそ、神さまの経験の根っこがある。

お客様の滞在中の家に帰る体験のように、神道における神との出会いは現実の景色が反転するような体験であるという。瞬きをせぬ人間はいないが、その目をつぶっている瞬間に異世界が存在しているようなものらしい。

人々の平和で豊かな生活は、世界の裏側から来訪するお客様としての神様をもてなすことで実現されるというのが、神道の根本思想であるとする。外から来る客を選ぶことはできないので、それは福をもたらす神とは限らない。禍々しい災厄をもたらす神かもしれない。私たちにできるのは、よくもてなすことだけであり、それが祭祀であるとされる。

■馬鹿正直が愛される

柳田国男は有名な5大昔話(桃太郎、猿蟹合戦、花咲じじい、舌切り雀、かちかち山)に神と民の関係をとらえて「正直」が神に愛されると分析している。これらの話は近代になって子供向けに、善人や正義の美徳が勝つ話に単純化されているが、元の話は少し様相が違っている。


普通の人ならば格別重きをおかぬこと、どうだってもよかりそうに思われることを、ほとんど馬鹿正直に守っていた翁だけが恵まれ、それに銘銘の私心をさしはさんだ者はみな疎外させられたことになっていた

これは誠実とも異なる。子供の目は正直であるという意味に近いという。神のなすことは完璧なので「見えない神の不可解な要求をそのままに受け取ること、神を神としてあるがままに受け止めることが、五部書の説く正直の根本なのである」。この正直は無分別に近い神との純粋なやりとりである。反転していない世界側の人間からすれば、こうした正直は日常風景の中で異質な印象を受けるが、この正直さが祭祀の忠実な執行につながる。


この本は、古代の民間信仰から、伊勢神道、吉田神道、垂加神道、朱子学、復古神道、本居宣長、平田篤胤、柳田、折口の民俗学、近代の神道まで、神道の歴史の流れを丁寧に解説している。そこには日本人の精神性の源流を強く感じる。

とらえにくかった神道の教義や思想を俯瞰できる良い本だった。

・日本人はなぜ無宗教なのか
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・仏教が好き!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001708.html

・「精霊の王」、「古事記の原風景」
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・脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html

・禅的生活
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002275.html

・日本の古代語を探る―詩学への道
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003206.html

・古代日本人・心の宇宙
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001432.html

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
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2005年09月06日

古事記講義

・古事記講義
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10年以上、長く何度も読んでいる本として古事記と日本書紀がある。数年前に出版された口語訳古事記は、特に読みやすく、解釈も大胆でわかりやすいので、いまだにだらだらと何度目かを読んでいる。その解説書が「古事記講義」である。

・口語訳古事記 完全版
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記紀の面白さはエロチックでプリミティブでミステリアスな物語であることだ。ミもフタもないようなエロ話や、残酷な殺人物語、感情的で短絡的な神々が、この国の土台をどう作ったかを説明する長い物語である。国の成り立ちを語るはずなのに、これではちっとも権威づけになっていないし、矛盾も多い。古事記は特にそうだ。

なぜ口語訳が面白いのだろうか。それは著者が言うように、古事記が長く口頭で語り継がれた話だったからである気がする。民衆の前でリーダーが面白く飽きずに聞かせるために、性や死の要素、笑いの要素が散りばめられているのだろうと思う。


文字を絶対化し、書くことから歴史は始まるのだというような論理は、ヤマト中心史観であり、国家史観でしかないと思うのです。六世紀あるいは七世紀の日本列島を文字が覆い尽くしていたとはとても考えられないことです。

また、いつの時代もヒーローとして語りづがれるのは悲劇の英雄たちだ。本流の中の本流では応援のしがいがない。古事記の代表的英雄であるスサノオ、オオナムヂ、ヤマトタケルは皆、荒ぶる強烈なエネルギーと大きな才能を持っていながら、それゆえに上から疎まれる。

日本書紀との対比も読み比べると興味深い。正史である日本書紀は、総じて格調高く書かれているし、天皇家に連なる直系を美化して描いている傾向がありありと見える。


大雑把な計算になりますが、古事記上巻の神話部分の四分の一に相当するおよそ二十五パーセントを占める出雲神話が、日本書紀正伝にはまったく存在しないのです。


古事記は、歴史書編纂の試行錯誤の途中に生まれ、主流からは外れてしまった歴史書の一つだったのではないかとわたしは考えています。

日本書紀にも残ってしまったのは、あまりに人気がありすぎて、カットすると民衆の支持が得られなかったような事情もあったのではないか。

そして、ミステリアス。記紀の物語は、世界の神話と同じ原型を共有していると言う分析は大変面白い。

・バナナタイプ
高天原を降りた天孫ニニギが、山の神の娘、コノハナサクヤヒメ(桜の花、富士山の女神)を嫁にもらうが、一緒にきたブスのイハナガヒメ(岩、永遠の命)を拒絶したため、神が怒って人間の寿命を有限にした。インドネシアからニューギニアにかけて、バナナと石、バナナと蟹を選ぶ物語として、同型の神話が伝わっている。

・ハイヌヴェレ神話素
スサノオが食べ物の神オホゲツヒメが口や尻から出した食べ物を汚いと怒って殺してしまう。もしくはツクヨミがウケモチの神を殺してしまう。その結果、死体から五穀が生まれる。その代わり、人間は働いて穀物を育てないと食べることができなくなったという物語。これも、同型がインドネシアなどに広く見られる。

・ペルセウス=アンドロメダ型
ヤマタノオロチに人身御供にされそうなクシナダヒメを救うスサノオ。多頭の竜や蛇から王の娘を救って娶る物語は、東アジアからヨーロッパまでユーラシア大陸に広く分布している。

アフリカを出発した古い人類が、沿岸部を通ってインドを経由し、東アジアに至る長い旅の間に、何か原型となる出来事が本当にあったのかもしれない。あるいは、こうした物語は人類共通の原初イメージに深く焼き付けられた共同幻想なのかもしれない。こうしたことに思いをめぐらすと、興味が尽きない。火焔土器や遮光器土偶の縄文時代の造形にまで遡って想像は膨らむ。

「神話とは、いまここに生きてあることの根拠を語るものだ。」

科学が人類の起源を解明する日はいつかやってくるだろう。人類が共通の祖先を持つというミトコンドリア・イブ理論は科学の解明した一端である。だが、それとは別系統の神話による起源譚は、人間の想像力が生み、それが本当だと何千年、もしかすると何万年も信じられ続けてきたものである。

フランス語では歴史と物語は同じイストワールという言葉で表現される。歴史=物語という観点では、科学の一元的な説明よりも、重層的な物語である神話の方がずっと完成度が高いことになる。淡々と事実を追った正史であったならば、ここまで語り継がれてはこなかっただろう。

こんなDVDも見た。記紀マニア必見の超大作。どちらかというと格好をつけていて日本書紀寄りの解釈なのは残念だが、見ごたえあり。

・日本誕生
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『十戒』や『ピラミッド』など聖書や古代史を題材にしたハリウッドのスペクタクル史劇大作に負けまいと、東宝が製作1000本を企画した。監督には、『無法松の一生』や『宮本武蔵』など骨太な作品の巨匠・稲垣浩を起用。出演は、三船敏郎、鶴田浩二、原節子、司葉子、香川京子、草笛光子など、まさにオールスターキャストというのにふさわしい超大作だ。
日本神話の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にまつわる逸話を中心に、イザナギとイザナの国造り、天照大神の岩戸隠れ、須佐之男命の八俣の大蛇退治などのエピソードを織りまぜながら描いている。ストーリーはおなじみの話の羅列だが、円谷英二による大迫力の特撮のすばらしさは圧倒的だ。なかでも、キングギドラの原形ともいうべき八俣の大蛇の造型の迫力は、最高の見どころであろう。(堤 昌司)

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2005年08月28日

神の発見

・神の発見
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作家 五木寛之とキリスト教の司教 森 一弘の対談集。五木は仏教、森はキリスト教の立場から、日本人にとっての神とは何かを対話する。

日本ではキリスト教は成功しているとは言いがたい。ザビエルの布教から450年が経過したが、キリスト教信者は国民の1%強に過ぎない。これに対して、仏教は葬式や生活の中に深く根ざしており、全国には7万5千の寺がある。この違いを五木寛之は司教にぶつける。語り口は二人とも穏やかだが、議論の内容は二つの宗教の必死のせめぎあいで、スリリングに読める。

五木はキリスト教を日本人の精神構造にとって異質なものと考えているようだ。血を流して磔にされたキリスト像を、日本人は聖なるものというよりは、怖いと感じてしまう。崇高すぎて浮世とかけ離れた唯一神はピンとこない。キリスト教の神との契約や原罪の教えも、日本人の人生観とはどうも遠い気がする。

五木は「お行儀の良い、まじめな集団」とキリスト教信者のイメージを表現している。天国にはユーモアがなさそう、とも言う。確かにキリスト教はアタマで理解する宗教のイメージが私にもある。土俗の宗教である神社やお寺の宗教は、歴史的にも一般大衆の生活感の中から自然にわきあがる精神エネルギーと密接している気がする。やはり、日本人にとってキリスト教は異質なものなのか。

こうした疑問に対して、教皇と話したこともある司教は、日本に伝わっているキリスト教と原義の相違を話したり、一般に誤解されているイエスや神の位置づけを説明していく。「生活の根っこのなかで出会う神」「見えざる神との官能的なつながり」というテーマは興味深い議論だった。現世での暮らしと密接につながることや、官能性を信仰に利用することを、どちらの宗教も否定していないことがわかる。

物欲や性欲や支配欲を持ち、目の前の出来事に一喜一憂するのが、普通の人間のあり方だ。いくら崇高な理念や聖書原典を説明されても、なかなか心の根っこでは納得できない。そこで五木は「和魂洋才」をキーワードにあげる。日本人は和魂(日本土着の思想)と洋才(西洋からきた思想や技術)を融合させることに完全に成功したわけではないのだという。

五木は和魂ではなく無魂が現代日本人なのだと説く。


そしていま、日々さまざまなかたちで発生する事件は、その無魂洋才という抜け道が行き止まりに直面したことを物語っている。

敗戦後のこの国が、なんとなく好調に走り続けてこられたのは、たぶん、無魂という制約なき身軽さによるものだろうと思われる。魂というものは、つねに人びとの心や社会にブレーキとして働くものだ。

「そこまでしてはいけない」「そうすべきではない」というブレーキが外された車は、当然、他の車より速い。めざましく失踪し、そしてやがて転覆する

だからこそ、いま宗教を考えてみる意味がある。

森司教が学生時代に冬山に挑戦したときのエピソードが「神の発見」の瞬間として語られる。次の一節を読んで、宗教に生きる理由が少し分かった気がした。


いざ、登山口から山小屋目指して登り始めたとき、積雪が深く、道に迷い、あらぬ方向に行ってしまいました。冬山の日の暮れるのは早く、日が暮れてしまうと、完全な闇です。私たちは、それ以上歩いては危ないと判断し、大きな岩を見つけ、その陰で一晩を過ごそうと決めました。結果として、それで助かったわけですが、そのとき、遥かかなたでしたが、山の頂に、山小屋からもれでてくる光を見たのです。その瞬間、私をとらえていた、死の恐怖や不安が消え。気持ちが本当に楽になりました。

現実は変わらなくても、遠くに光が見えるのと見えないのとでは大違いだというのである。私は無宗教だが、光が見える人は羨ましいなと思う。宗教者は、人生と言う問題に答えがあるかどうか、予め分かっている人たちなのだろう。その答えが何であるか、いつ分かるかは不明であっても、究極的に答えがあると知っている人は、精神的に余裕が持てそうだ。これが信仰を持つ者の落ち着きや平安につながっているのだろう。

無宗教の現代日本人が拠り所にしているのは、科学技術や市場経済だろう。あるいは民主主義や自由のイデオロギーかもしれない。しかし、仏教やキリスト教と違うのは、技術や市場、イデオロギーは、人に必ずしも暖かい光を与えていない。だから無魂なのであり、現代人は漠然とした不安を持って不安定に生きているのだと思う。

だが、「大いなるもの」に寄りかかるのではなく、お互いがよりかかりながら、生きてきたのが日本人だ。「神の発見」の大切さはわかるが、日本人にとって、現実にはかなり難しい課題だとも思った。

・禅的生活
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・日本人はなぜ無宗教なのか
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・仏教が好き!
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・「精霊の王」、「古事記の原風景」
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・脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
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2004年12月12日

フィールド 響き合う生命・意識・宇宙

・フィールド 響き合う生命・意識・宇宙
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よく売れているようで気になったので読んだ。一応トンデモ本と認定。でも、よく書けていて楽しめたので紹介。欧米ではベストセラーであるとのこと。

■ゼロポイントフィールド(ZPF)で万物はつながっている

この本の中心テーマであるゼロポイントフィールド(ZPF)とは量子力学レベルにある「モノとモノのあいだの空間における微細な振動の海」のこと。著者はあらゆる存在は、時空を超えてZPFでつながっている、とする。

量子世界では最小単位の粒子は確率論的な振る舞いをする。通常のニュートン力学世界では、コインを投げれば表が出るか、裏が出るか、どちらか一方の状態しかとりえないのに対して、量子力学の世界では、コインは表であると同時に裏であることができる。人間が観測したときに状態が確定する。この微細なレベルではその観測行為が結果に影響を及ぼすため、観測する前の状態は2分の1が表であり裏であると考えるのが正しいことになる。

確率論的な存在であるということは、すべての状態が同時に存在しているということだ。聖書のヨハネ黙示録でキリスト教の神は「私はアルファでありオメガである」と言った。神は人間が考えうる限りのすべてであるという意味だろう。この存在の仕方は量子世界の存在の仕方に似ている。私たちの日常感覚とは違った存在の仕方が、原子より下のミクロのレベルには隠れている。

ここまでは量子力学の常識で十分に科学なのだが、ここからこの本は独自の理論に飛躍していく。著者は、確率論的振る舞いの意味を拡大して、過去に起きたことも未来に起きうることも、すべての情報がZPFの中にあるということだと解釈している。そして量子真空であるZPFはエネルギー的にはゼロであるが、量子世界のゆらぎによって、内部では粒子の生成と消滅がくりかえされる。その運動は波動を持つ。波動は共鳴効果を生み、万物がその共鳴でつながっているというのである。

私たちの身体もすべての物質も、根源的には量子力学レベルの微細な粒子が織り成す原子で構成されている。意識もまた原子でできた脳細胞のはたらきだから、ZPFとつながっていることにされる。こうして精神世界と物質世界のすべてが、ZPFという超越的空間の粒子の振る舞いの産物だということになる。

■ホメオパシー、乱数実験、遠隔透視

さあ、すべてがつながってしまった。イエール、スタンフォード、バークレー、プリンストン、MIT。世界の一流研究機関やノーベル賞受賞の科学者たちが実名で登場し、彼らの研究や実験が、ZPFの正当性の根拠として、次々にならべられていく。どれも常識を覆す話ばかりで、ファンタジーとしては楽しめる。

いくつかを以下に紹介する。

【ホメオパシーと水の記憶】

ホメオパシー治療は科学的には実証されていないが、比較的知られた代替医療のひとつである。ホメオパシーとは病気や痛みの原因となる物質を、希釈して、極めて少量だけ投与すると、逆に病気や痛みが治癒するという未解明の理論にもとづく。

物質を薄めるには水を使う。奇妙なのは、原因物質の分子が理論的にはひとつも観測できなくなるレベルまで、大量の水で希釈しても、その効果が持続してしまう現象の報告である。科学者パンヴェニストの理論によると、分子は遠く離れても固有の周波数の振動で共鳴するという。英国の生物学者ルパード・シェルドレイクの形態形成場、形態共鳴も似た理論である。同じ形態の分子は共鳴現象を通じて、地球の裏側であろうと何万光年先の宇宙であろうと、影響しあっているという。

だから、原因物質を大量の水で希釈すると、組成的には単なる水であっても、以前混入していた物質の波動は残っている。それを飲んだ患者は痛みや病気が治癒する。実験の報告では、プラシーボ効果の可能性は排除した結果であるとされている。

【意識が現実に影響する】

プリンストン大学の変則現象研究(PEAR)の研究はこの本に何度も引用される。乱数発生装置をつくり、0から1までのランダムな数を大量に発生させる。その間、被験者は、0よりも1に近い高い数値が出るように念じる。そして何千回、何万回の乱数発生の記録を分析する。

当然、結果はグラフにプロットすれば、中央値を頂点とする正規分布曲線が描かれるはずである。だが、この実験結果の偏差は微妙にずれている。1または0に近い数字がでる期待値はどちらも50%のはずが、どちらかが51%に近い数字になってしまう。12年間、250万回の乱数発生実験を総合すると、52%という報告もある。被験者によっては狙ったのと逆に偏る傾向もあるそうだ。これは乱数発生器の回路に、ZPFを通じて、意識が作用した結果だと説明される。

【FBIやソ連が研究した遠隔透視】

互いに連絡のない被験者AとB。数百マイルの遠距離にいる被験者Aの観ている風景を、Bに向けて念じる実験を繰り返し行う。その結果、3分の2近くが偶然で説明できるよりもずっと正確な一致をみせたという。


このほか、

・ DNAが放つ生物光子(バイオフォトン)が、健康の鍵を握る。
・ 生き物同士は、光子の吸収・放出によるコミュニケーションを行っている。
・ 水は分子の周波数を伝え、増幅する「記憶メディア」である。
・ 意識とは量子コヒーレントな光であり、細胞内の微小管を介して共鳴する。
・ 未来や過去は「根源瞬間(シードモーメント)」の確率としてある。
・ 記憶は脳の「外」にもあり、巨大な時空の記憶庫に保存されている。
・ 私たちの願いや思いは、世界を変えることができる。
・ 集団や場所のエネルギーがあり、個人の意識・健康にも影響する。

などといった話が出てくる。

どれも突っ込みどころ満載の実験結果であるが、ノーベル科学者だとか宇宙飛行士だとか、学会の世界的権威も多数含まれているのが興味深い。著者が権威を捻じ曲げて引用した部分もありそうだが、こうした驚愕の結果を真面目に語っている立派な科学者も多いようだ。この本には登場しなかったが、心理学者ユングが晩年に提唱した「シンクロニシティ」も似ている。まっとうな大科学者も、ときどき奇妙な実験を本流の合間に行っていることがあるようだ。偉大な勘違い集として価値がありそう。

■境界線上でのひらめき、発想の元として

この本を非科学として批判するのは簡単である。まず量子力学レベルの法則を、ニュートン力学レベルの世界に、恣意的に持ち込んでしまっている。再現性のなさそうな実験を、著名な研究者や研究機関の成果だからという理由で正当化しようとしている。

ただ、この本は比較的、理性的、良心的に書かれている。ニューサイエンス系の本は、無根拠な前提や神秘主義が多すぎて、途中で読むのを放棄してしまうことが多いのだが、最後までいっきに読みきることができた。各事例について結局は肯定するものの、一応、著者も疑っている面があるからだ。非常識な研究の中に、将来解明される真実のヒントのひとつかふたつは隠れているのかもしれない。

量子レベルの科学だとか、脳のプロトコルだとか、創発系だとか、通常科学の考え方の外に踏み出さないと説明ができないことも、先端にはよく登場する。サイエンスとニューサイエンスの境界線上で遊ぶ心が、サイエンスの世界での偉大なひらめきにつながる。

またこうした新奇な発想は次世代のコンセプトを先取りすることもある。PCネットワークに使われているイーサネット(Ethernet)の語源は、アリストテレスが発案し、19世紀以前の物理学で、空間に充満していると仮想されていた物質「エーテル」だそうである。ZPFネットワークだとか、波動コンピューティングなんて言葉が近未来の私たちの情報処理システムに登場するかもしれない。

とりあえずアーサー・C・クラークは大絶賛している。オンライン書店でも大人気。

・Passion For The Future: 科学を捨て、神秘へと向かう理性
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002634.html

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2004年12月06日

科学を捨て、神秘へと向かう理性

科学を捨て、神秘へと向かう理性
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ベストセラー「科学の終焉」を書いた科学ジャーナリスト、ジョン・ホーガンの最新作。今回のテーマは科学と神秘主義。有名な神秘主義者、禅僧、脳科学、薬科学、心理学の研究者にインタビューを行ったり、自ら機械や薬物によるトリップ体験を試みながら、神秘主義のベールを暴く。神秘主義の可能性を求めながらも、終始、科学合理主義の視点で書かれているので、安心して読むことができる面白い本。

■神秘体験の組み込まれた脳

古今東西の文化に神秘体験は記録されている。万物とひとつになる感覚(ワンネス)や超越的存在の声を聴く体験は人類に普遍的に共有されている。修道女や禅僧の脳を調べると深い瞑想時に、似たような脳波のパターンが描かれる。変性意識状態(オルタードステイツ、この映画もよかった)は、脳神経の特定の電気・化学的状態であることが解明されつつある。

進化の過程で変性意識状態が生き残りに有利だったが故に脳にその発生装置が組み込まれたのではないかという考えがこの本で紹介されている。性のオルガスムスと神秘的恍惚が似ている部分があることが示唆される。

ある研究者は、脳の左半球に損傷があると神の声が聞こえ、その体験は愉快で恍惚状態につながる。逆に右脳の損傷があると、体験は恐ろしいものになり、凶悪な幽霊や悪魔にとりつかれたと感じる、という臨床例を報告している。脳の中に天使と悪魔が同居。これが正しいかどうかはまったく証明されていないが、他の脳化学の研究からも、脳の左右の半球の統合部分が破壊されると、片方の脳のはたらきが別人格の声として聞こえる可能性はあるようだ。

こうした変性意識は、神の啓示を聞いて力強く社会を導く宗教的リーダーを生んだり、人々が深い悲しみから立ち直るためのスピリチュアルなビジョンを提供したりする。人間にとって良い影響を与える側面があるから、自然淘汰の過程でそうした回路が形成された可能性が論じられている。

■神の機械、幻覚剤

変性意識状態を作り出すには脳への電磁的刺激、幻覚剤、瞑想、過呼吸、激しいダンス、ヨーガなどの人為的方法がある。

著者はカナダの心理学者マイケル・パージンガーの「神の機械」を試しにでかける。この機械は蛸のように伸びた電極を頭部に巻きつけ、側頭葉に電磁刺激を与えることで、被験者の40%に「ある存在を感知」させる。神の声を聴いたり、何か見えないものが見えたりするのだそうだ。

著者は残念ながら何も感じることができなかったそうだが、側頭葉への電磁刺激が天才的な計算能力や創造性を発現させる研究は別の科学者も研究している。現在の脳の観察装置は脳の大局的状態を測ることしかできないため、脳細胞同士のニューロンの通信言語を解明できていない。神の機械は脳の大きなレベルでの活性化や不活性化にしか関与できないため、この方法がどこまで有効なのかは議論が分かれているようだ。

著者はこの本のハイライト部分でアヤワスカという幻覚剤を合法的に試す実験も試みた。そして今度ははっきりと幻覚を体験した。幻覚剤の影響を綴った数ページは特に引き込まれる。苦しい吐き気との戦いの中で、冷静さを失わずに、見えないはずのものが見えてくる。

このように外部の電磁刺激や幻覚剤を使ったインスタントな変性意識状態と、禅僧や修道女の長い瞑想トレーニングによる深い変性意識状態が同じものなのかどうかはわかっていない。ただ、こうした変性意識状態で得た天の声を、後の偉大な業績を実現する力にした人物は数多い。手軽で安全に実現できる手法が開発されれば、ひらめきを作り出す創造支援ツールとして役立つ日がくるのかもしれない。

■科学と神秘主義の境界線上のきわどい知的ダンス

著者は科学主義と神秘主義の境界線上に立ち、科学の立場から両者の関係を論じた。私の感想は、「真実」を決めているのは議論に参加する大多数の人たちが何を信じているか、という問題に過ぎないのではないか、ということ。歴史を振り返ると真実を語る言語は、古くは本能であり、神話や宗教であっただろう。国によっては未だ政治的イデオロギーが真実を創り出しているように思える。現代世界では主に科学が真実を語る超越的言語として君臨している。これを批判しようとすると、科学と別のものの境界線上に立たねばならない。そして、科学信奉者に外の世界の真実を語りかけるには、この本のように、科学の言葉を使って話しかける必要がある。

イデオロギーは権力によって創り出されるものだろう。現代において科学はパワーである。現代において科学は最も強いものだ。それによって敵を倒し、長く生きる健康を維持し、良い生活をすることができる。科学が真実である根拠は今のところ最強だから、という事実に過ぎないのではないか。

宗教はミームプレックスだとする人もいる。この本に登場するスーザンブラックモアの主張は宗教は「知的ウィルスのようなもので、本物だから生き延びたのではなく、複製と感染力に優れているから生き残ったのだという。いいかえれば、宗教は、きわめて成功したチェーンメールにほかならない」というもの。だが、科学もまたそうでないとは誰も言えないだろう。

科学主義(科学こそが現実を理解する最良かつ唯一の手段だとする主張)もひとつのイデオロギーに過ぎないと考えることができる。もっと強いものが現れれば、人類はポスト科学主義者に転向するに違いない。

神秘主義なしに科学はありえないものだっただろう。錬金術や不老不死の研究は、科学の進歩に大きな役割を果たしていた。同時代の科学が不老不死や時間旅行や宇宙の成り立ちの解明は科学的に無理だと証明したからといって、その追及をやめてしまったら、科学は進歩を続けることができなくなる。Think Differentであることは少しだけ神秘主義的でありなさいということに他ならないだろう。

■悟りきってしまった世界は面白いか?

最後の章では神秘主義のパラドクスに著者は言及している。神秘主義は科学とは別の何か究極的理論で世界を説明するが、説明した時点で神秘性が失われてしまうということである。神秘主義者は悟った時点で既に反神秘主義者になってしまう。その後は、陳腐な教祖と信者の集団による、閉鎖的な階層社会を築くくらいの未来しか残されていない。

著者は、


一部の神秘主義に熱狂的に入れ込んだ人たちの究極のファンタジーは、オースティンの言葉を借りれば、ある日、人類が「みんな仏陀のように悟った、人道的存在のオメガ人種」に変容することである。ありうるかどうかはさておき、このような運命は望ましいだろうか?この疑問は次のようにもいいかえられる。神経神学者たちがいつの日か、病理学的副作用のない至福の神秘体験を確実に誘発する神秘主義的技術---超幻覚剤やニューロン特有の言語でわたしたちの脳細胞にささやきかける神の機械や、脳の覚醒物質であるDMTの生産を増大させる遺伝スイッチ---を発見したらどうだろう?。文明はどうなってしまうのか?

と読者に問いかける。そのような技術はいつか遠くない日に開発される可能性があると、インタビューの対象者たちが答えている。この状態は、否定も、怒りも、悲しみも、競争もない至福の状態であるが、同時に変革への強い衝動や創造性を失った種の終焉を意味しているのではないかと問題提起されてこの本は終わる。

科学主義と神秘主義の境界線上の舞踏を踊り終わった著者がたどりついた境地は、神秘は神秘であり続けることで創造性の源になるというビジョンだったと言える。自然や宇宙への畏れは私たちの精神の健康と進化に不可欠な要素ということになる。

やっぱり私の愛読雑誌「ムー」は存在意義があるのだ今月も買おう。

Passion For The Future: 脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html

Passion For The Future: 霊はあるか―科学の視点から
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002003.html

Passion For The Future: 日本人はなぜ無宗教なのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001937.html

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2004年10月05日

禅的生活

禅的生活
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禅僧が書いた悟りの解説本。

禅的な言葉が各章のサブタイトルになっている。無可無不可、一切唯心造、六不収、廓然無聖、応無所住而生其心、柳緑花紅真面目、一物不将来、日々是好日、随所作主立処皆真、平常是道、知足、安心立命、不風流処也風流。他にも何百語もこうした言葉が出てくる。

これらの言葉は仏教の長年の智恵が濃縮されている深遠な言葉だ。哲学的洞察としてだけでなく、自然科学や社会科学との接点もみつかる知恵も孕んでいる。長い歴史の中で、最も精神的に、知的に鍛えられた人たちが生み出した言葉は、短くても、とてつもない深さを持っている。

例えば「六不収」の六というのは人間の感覚のことで五感+第六感「色、声、香、味、触、法」である。それぞれを捉える感覚器官は「眼、耳、鼻、舌、身、意」。仏教ではこの順序で社会性が強いとされているそうだ。眼で見えるなら一目瞭然で皆が理解するけれども、匂いや味くらいになると共有が難しくなってくる。こうして捉えた情報は、識となる。すなわち「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識」の六識。

これらの六つの感覚に収まりきらないというのが六不収の意味であり、六不収と出会うことが悟りへ一歩であるらしい。六識の奥には自我に執着したマナ識があり、さらに先にはアーラヤ識があると言う。著者によるとマナ識はフロイトの「潜在意識」、アーラヤ識はユングの集合無意識に相当すると言う。世界の西と東で別のアプローチをとりながら、同じようなコンセプトに集約しているのは興味深い。

逆に考えれば西洋が近代になって発見したものが、東洋では、その何百年以上も前から思想家にとって常識だったのだとも言える。近代自然科学は世界を外側から客観視することを教えているが、人間は結局はどう頑張っても内側から世界や自己をみつめることしかできない。禅の思想とは、内側から徹底的、究極的に考えた末に行き着く境地のことのようだ。

理屈っぽい禅の思想だが、理屈を否定するのが本質でもある。座禅による瞑想。これは世界をうすらぼんやり見ることの練習であると著者は言う。眼を閉じて意識を身体の各部位に分散させると、私たちは怒ったり泣いたり、激しい感情を抱くことができなくなる。

見るともなしに見る。うすらぼんやりと世界を見ることは、現象学派のいう「判断停止」、ギリシア哲学の「エポケー」と似ている。これが廓然無聖という状態である。感情も価値判断も停止して世界と静かに向き合うことから、六不収の法身に至る道が開けるという第一関門なわけだ。廓然無聖は言葉で表せないから「言語道断」とも言う。言語道断は「論外だ」ではなくて、本来はそういう意味だったのだ。

禅と言えば問答が連想される。有名な公案には「趙州の無字」というのが紹介されていた。「犬にも仏性はあるか?」という質問であり、趙州和尚はこれに「無」とだけ答えた。だが「有」か「無」か、どちらが正しいという話ではないようだ。数年間もこの公案を考えさせる禅寺もあるそうだが、「有」と答えて通過が許されることもあるという。禅は理屈っぽいように見えて、本当は論理が問題なのではなく、答えるものの境地の成熟度が問題ということだろうか。

悟りとは何か。著者はまだ悟りに至っていないと断った上で、読者と共に悟った人間には世界がどう見えるか、を説明してくれる。要約は大変難しいのだが、一言で言えばありのままの世界が生き生きと感じられて歓喜に包まれる気持ちになり、それが持続する状況であるようだ。

東西の宗教の法悦体験は同じかというと違うとも書かれている。キリスト教の法悦は神との究極的な合一感のことだが、禅は、それではまだ知覚できる「一」があるじゃないかと異議を唱える。禅が理想とするのはその一者さえも消し去った、絶対的一者という悟りの段階である。私は悟って無一物になったと自覚しているようでは悟っていないのだという。そこにはまだ無一物という知覚が残ってしまっているからだ。

正直、悟りについて完全には理解できない。いや、言語道断なのだから、文章では表せないものなのだろう。だから、禅問答のように平常の論理を突き破る対話や、身体をもフル動員した座禅と瞑想があり、それらを使って言葉ではたどりつけない究極的な脳の状態
=悟りを開こうとしているように理解した。

誰でも、我を忘れるくらい夢中になるか、究極的に追い込まれるような体験をした後で、突然、視野が広がることってあると思う。私も5年に一回くらいそうした体験をする。そうした小さな悟りの幾重も向こう側にあるものが、大きな悟りなのではないかと想像していたのだが、少し違ったのかもしれない。それはまだ小さな悟りに過ぎず、大きな悟りは別次元にあるようだ。

仏教は哲学であり、禅は身体と脳の一体となる思考行為なのだと思った。だとすれば「禅の悟り」を、特定宗教の妄想だとか、変性意識の一種と片付けてしまうのは勿体ない気もしてくる。実際、禅やヨーガ、東洋の精神世界に関心を持ち、体験する高名な学者や研究者もいる。彼らの天才的なひらめきは、こうした悟りのような精神状態と関係がある可能性もあるような気がする。

西洋科学で東洋の神秘を暴くのではなくて、東洋の神秘で西洋科学をあっと言わせる逆転の言語道断を期待したい。

ところで、この本に当たり前のように出てきた色即是空、空即是色。ちょっと辞書を引いてみた。

色即是空:
この世にあるすべてのもの(色)は、因と縁によって存在しているだけで、固有
の本質をもっていない(空)

空即是色:
宇宙の万物の真の姿は空であって、実体ではない。しかし、空とは、一方的にすべ
てを否定する虚無ではなく、知覚しているこの世の現象の姿こそが空である

たった8文字の漢字に含まれる実在論。禅、仏教は深い。

関連?:

・電子写経
http://www.honganji.net/syakyou/

これってキーボードで問題ないのでしょうか?いいのでしょうか?新しい写経。

パソコン写仏
http://www.ne.jp/asahi/bellbell/tobioda/

無敵会議の受賞に写仏がありましたが...。デジタルで本当にやっている方がいてすごい。


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2004年08月17日

霊はあるか―科学の視点から

霊はあるか―科学の視点から
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科学者の立場から、霊の存在について議論する本。著者は、立命館大学教授。

・安齋研究室TOP
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~iat02143/

上記オフィシャルサイトで経歴を確認すると、

東京大学医学部放射線健康管理学教室助手、中央大学商学部兼任講師、東京医科大学病院管理学教室客員助教授などを経て、1986年、立命館大学経済学部教授、1988年より立命館大学国際関係学部教授、現在に至る。担当科目は、平和学、自然科学概論、3・4回生ゼミ、地球環境問題特講(大学院)、大学院ゼミ(平和学)など。役職は、立命館評議員、大学協議会委員、国際平和センター長、国際平和ミュージアム館長。
 現在、Japan Skeptics会長、日本平和学会理事、日本学術会議平和問題研究連絡委員会委員。世界大会平和博物館ネットワーク国際調整委員。原爆忌全国俳句大会実行委員長。原水爆禁止世界大会起草委員長。

といたって真面目な研究者なのだが、個人で、疑似科学批判団体JAPAN SKEPTICSを主宰し、科学合理主義の啓蒙をしていることでも有名な人物。

仏教各宗派に「霊はあるか」のアンケートを行った結果は興味深い。結果は割れた。大半の宗派は霊の存在を完全否定し、祟りや霊障もないとしている。霊がないから本当は墓参り、お盆など必要ないのである。だが、布教の方便として霊を認める団体がかなりある。難解な仏教哲学は一般人に説いてもわかりにくいから、霊を方便として教義を説明することはかまわないというスタンスである。

「○○はある」と存在を証明するには一例を証明すればよいが、「○○はない」を証明するには、多数の例を否定しなければならない、として、霊の肯定派、否定派の立場によって、立論のコストの違いを指摘しているのは面白い。

第3章と第5章で著者の霊はあるかへの答えが書かれている。ネタバレになるので引用しないが、基本的には、科学合理主義者の答えである。この本では、多数の超常現象や霊体験を、科学的に解明し、嘘や作為を見破っていく。

面白かったのは科学的な輪廻転生の話。人間の身体は主に炭素が構成していて、その数はアヴォガドロ数(原子量と同じグラム数の原子に含まれる原子の個数)に従う。アヴォガドロ数は6の1千億の1兆倍なので、それ掛ける体重のグラム数程度の炭素で人間は構成されている。人が死んで火葬されると、炭素は大気にいきわたる。地球の大気に満遍なく広がった場合には、どの場所で採取しても、1リットルの大気の中に1万数千個のその人の炭素が含まれることになるという。つまり、人間を構成している物質レベルで生まれ変わり、輪廻転生ということは起きているというのである。

そうか、人は死ぬとユビキタスマンになるということか。著者いわく、そういうレベルでは輪廻転生的な考え方も必ずしも間違っていないとする。

私は霊は、あるともないとも言えるのではないかと思っている。あるの意味=存在の解釈が立場によって異なる気がする。

たまたま科学合理主義が多数を占める社会に生まれたから、私たちは霊が見えないのではないか。構成員が霊の存在を信じている社会では、霊は姿を現し、暮らしに影響を与えるものなのだと思っている。自然科学は常に事象を外側から眺める。客観視する。だが、人間は常に事象の内側で生きている。自然科学的には存在しなくても、社会的には存在するモノはありえる。存在は自然科学の専売特許ではないと思うのだ。

ところで私、超常現象大好きである。この5年間くらい毎月雑誌の「ムー」は欠かさず購読している。

・学研 雑誌ムー
http://www.gakken.co.jp/mu/books.html
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25周年。

・Mangaムー
http://www.gakken.co.jp/mu/books/mangamu/manmu.html
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もちろん、ムーの話を真に受けるわけはなくて、突拍子もない話にどう真実味を持たせるかの文章技法を学ぶため、であり、空想力(妄想力)の限界を楽しむため、に読んでいる。

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2004年08月05日

日本人はなぜ無宗教なのか

日本人はなぜ無宗教なのか
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「あなたの宗教は?」という質問に対して、日本人の7割は無宗教と答えるそうである。だが、そのうちの75%は宗教心が大切だと考えてもいるという。

著者はまず宗教には、自然宗教と創唱宗教の2種類があるとする。創唱宗教とは特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教。キリスト教やイスラム教、仏教などを指す。これに対して自然宗教とは、いつ、だれによって始めれたかも分からない自然発生的な宗教のこと。

だが、無宗教のはずが、葬式仏教は一般的だし、正月には何千万人が初詣で神社を参詣する。神社に入る前にはきちんと手水で口と手をゆすぐ。天皇の交代では国会議員が儀式に参列する。人が亡くなれば四十九日や一周忌、三周忌などの法要も忘れない。これだけ生活や死生観に、宗教の影響を持ちながら、無宗教というのは不思議といえる。

欧米人の「無宗教」は「無神論者」に近いのに対して、日本人の場合には無宗教ではなく、日常化した自然宗教の信者と言えるのではないかと著者は結論している。

歴史的には、古くからの土着のカミへの信仰があった。そうした信仰の多くでは、死者は放っておけばカミになるのであった。そこへ仏教や儒教、神道の影響が加わって次第に変質していった。死者を弔う儀式や専門家が登場した。だが、中世のムラ社会は徹底して平等が重視され、善でも悪でも極端なものは排除する平凡至上主義が支配的だった。そうした中では、突き詰めて物事を考える創唱宗教の思想はなじまなかった。日常と相容れない宗教は力を弱めていった。

明治の天皇崇拝システムの構築は、宗教をさらに弱体化させた。天皇崇拝として作り直された新しい神道は、表向きは絶対だった。だが、既存の仏教、儒教、キリスト教などの勢力も完全に無視はできなかったので、内面的には何を信じて祈願しても良いが、表面的には神道の祭祀を守れということになった。本来の宗教では、祭祀と祈願は一体であったはずが、分離されて宗教はさらに痩せていった。

そして古い信仰と外来の信仰とが無難に結婚して、とても曖昧で日常的な「無宗教」という名の自然宗教が広まっていった。そうした歴史的経緯はかなり複雑なものだが、丁寧にこの本は解説してくれる。

私はかなり平均的な「無宗教」だと思う。

特定の宗教や神は明らかに信じていない。では完全な無神論者で科学合理主義者かというと、理屈ではそう思っている反面、神社仏閣にお参りの際にはしっかり心の中で期待して願い事をつぶやいていたりする。先祖のお墓でも、死者に何か話しかけてみたり、見守りを期待していたりする。十字架に手を合わせると良いことがありそうな気がする。

社会から排除されるのが怖くてそうした儀礼につきあっているだけなら、内面で願い事をする必要などないはずである。誰も見ていないのであれば位牌も仏壇もお墓も蹴飛ばしたって構わないはずなのだけれど、そうする気は起きない。罪悪感を感じるし、何か良くないことが起きる気がしてしまう。大抵の人がそんな感じではないだろうか?。

自分のこうした意識を客観視すると、私は頭では信じていないはずなのに、何か宗教的、霊的なものを感じてしまっている。これが自然宗教の信者であるということなのだろう。そして、それが代々、ある程度受け継がれていく。儀式は継承されていく。もはや、それが宗教でなくてなんなのかということに気がつく。

これは、こういう曖昧な日本人の宗教観はいかにして生み出されたかの解説本である。もやもやとしている自分の宗教観をクリアにみつめてみたい人におすすめ。

関連:

・コンピュータ科学者がめったに語らないこと
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コンピュータ科学者でキリスト教信者という二重の意味での原理主義者が信仰と科学の折り合いをつけるのは大変だ。


MITで神に会う!――「コンピュータの神」と呼ばれる最高のコンピュータ科学者・ クヌースがMITで語る信仰と超難問のソリューション想像もできない驚きの連続講義とパネルディスカッションが、コンピュータ科学の聖 地の一つMITで展開される!?――講師はクヌース。パネリストはクヌースの他、サ ン・マイクロシステムズ社のガイ・スティール・ジュニア、Lotus 1-2-3のデザイナ ーでロータス社創設者のミッチ・カポール、ロボット/AIを研究しているCMUのマヌ エラ・ベローソ、司会進行はハーバード大学学部長のハリー・ルイス、聴衆/質問者 はMITの一流の知性たち 」


関連過去記事:
・Passion For The Future: 仏教が好き!
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001708.html

・Passion For The Future: 「精霊の王」、「古事記の原風景」
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html

・Passion For The Future: 脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html

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2004年06月13日

仏教が好き!

仏教が好き!
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私は無宗教ですが、仏教はかなり好きで、時間があったら、これを勉強してみたいと思っている。この本は、仏教は宗教学者、中沢新一と河合隼雄の仏教についての対談集。チベット密教に入門した経験を持つ異彩の宗教学者と、ユング心理学を研究後、文化庁長官にも就任した大学者が、仏教の本質に迫るスリリングなダイアログ。


・ある時、ひとりの出家修行者がある女性に恋をし、彼女が死んだ後、その墓に納められた骨を集めてヴァギナをつくり、それにペニスを入れた。釈尊は彼を教団追放とした。

・ある時、ラジャーグリハで出家したスンダラという修行僧が道を歩いていると一女性が「大徳、ちょっと立ち止まって敬礼をさせてください」といって彼に礼を捧げつつ、衣をめくって彼のペニスを咥えた。釈尊は彼が楽しみを覚えなかったことを確認し、罪を犯さずとした。

・ある時、バールカッチャに在った出家修行者がもとの妻と性交する夢を見てしまった。その夢で目覚めた修行者は「私は修行者失格だ、教団より去らなくては」と考え、ウパーリ長老に告白した。ウパーリ長老は言った。「聖なる修行者よ、夢の中のことでは、罪をおかしたことにならない」と。

この本の中盤に、釈尊と弟子のセックス問答集として、何をすると教団追放なのか、延々と事例が続く仏教の、パーリ語聖典「律蔵」の引用がある。死姦、獣姦、高度な自慰行為の連発で、それに対する釈尊や高僧の判断が真面目に書かれている。

仏教の戒律というのは実践的なチャートなのだということ。キリスト教のように「淫らなことをするな」として上位概念で過剰なセックスを禁じたら、そこから派生するものもダメという風にはなっていない、ということ。仏教はひたすらに具体的に、どう淫らなことをしちゃいけないのかを規定する。

あるがままの細部を大切にする宗教なのである。キリスト教、ユダヤ教のような原理主義的な思想と対極に位置し、あらゆる思想を飲み込んでいく度量のあるメタ宗教が仏教の本質である、というのが、二人の共通了解みたいだ。

仏教は、メタ宗教であると同時に、科学であり哲学でもある。


中沢---総体として変化していくものを「マトリックス」として理解したことで、量子論は生まれましたが、仏教は同じことを曼荼羅というかたちで表現しています。曼荼羅でも、一つ一つの細部には神様が配置されていて、それぞれが自由な動きをしていますが、その動きは全体に及んでいき、また自分も全体のほうから影響を受けつつ、変化していきます。ですから、曼荼羅には中心に立って、全体に号令を出して動かしていくものはいません。

このくだりなどを読むと、「創発」「複雑系」「ゲシュタルト」などという概念が、連想される。関係性を大切にする仏教らしいコンセプトである。

そういう最先端でも通用するコンセプトを、仏教者は2500年以上前から考え続けてきた。2500年間、仏教圏の知的エリートたちが仏教に関わってきた。長い間、それは世界を理解するための先端的な知恵であり、今の科学の役割を果たしたものである。またこれだけ長く極められた哲学(現代思想)も他にないはずである。仏教は、2500年分の知恵が濃縮された、人類史最大級のナレッジベースといえる。

○○教と具体名のついた現実の仏教宗派は、私はあまり興味がない。どちらかというと思想的に面白いのは、大衆的な大乗仏教ではなくて、厳しい修行者による小乗仏教(上座部)や密教の方が面白そうだ。言ってることが過激だからである。

現代の仏教は落ち着いたお坊さんイメージがあって、おとなしい宗教の印象が一般には強い。だが、もともとは根本的なことを考える思想なのだから、過激でないわけがない。危うさを秘めたその仏教の核心部分を、現代的なテーマと絡めて、この本では、宗教ではない思想哲学としての仏教って過激でユニークで超オモシロイよ、とマニアの二人が語り合っている。その対話もまた面白い。

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2004年05月03日

古代日本人・心の宇宙

古代日本人・心の宇宙 NHKライブラリー (133)
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この本が面白いのは、私たち日本人ならば馴染み深い日常の言葉や生活習慣の奥に、隠れた古代人の心の宇宙を垣間見ることができるから、である。94年放送の人間大学「古代日本人の宇宙観」のテキストから構成。

なるほどと思うことが数多くある。

例えば、日本語の数詞で一、二、三、四はヒ、フ、ミ、ヨと数えるわけだが、この読み方の子音には不思議な関係があることを著者は指摘する。

1 2
ヒ フ
fi fu

3 6
ミ ム
mi mu

4 8
ヨ ヤ
yo ya

[1と2]、[3と6]、[4と8]でそれぞれ共通の子音で構成される3つのグループがある。古代日本人は、片手で指を立てながら1,2,3と数えるのではなく、左右の手の指を一本ずつ立てて数を数えていたからだという。この子音の関係は、その古い指の使い方に起因する。2の対がないのは、片手で4を表せるから。5の対がないのは、手を親指+4本の指と認識し、親指は数え指ではなく、立てた指を数える指という役割を与えられていたからではないかと著者の考えが述べられている。

万葉集では両手を「まて」、片手を「かたて」と読み、同時に数字の2,6,8を「マ」、1,3,4は「カタ」と読んだという。倍数で対を持つ「マ」はより完全な数字であるとし、古代人は高く評価した。だから「マコト」=「誠」は、本当の完全なる言葉であり、真実を意味し、尊い価値を持つ、ということになったらしい。

また、数の概念としては、古代人も極限数の概念を持ち、それを「きは」と呼んだ。いまわのきわ、きわどい、きわめる、という形で現代語にも名残があるが「きは」は終わりがない概念である。本当の終わりは「をふ」でこれがおわる、おえる、になる。古代人は精神の永遠を信じたので、期間のある学業を「終える」ことはあっても、無限の追究である道は「きわめる」という言い方を今でもするのはそういうこと。

などという話がひたすら続く。

今に残る言葉や習俗に、断片的に古代日本の名残を取り上げるだけならば、ただのトリビアになってしまうが、著者はこうした断片を再構成して、古代の世界観、宇宙観を再現しようとしている。古代史、考古学の予備知識があったほうが読みやすいが、テレビのテキストなので初学者も楽しめるように書かれている良書。

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2004年01月11日

日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか

・日本人の禁忌―忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ…人は何を恐れたのか
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■禁忌を定義する

この本の前書きによると、古今東西の人間社会で「してはいけないこと」は、犯罪、道徳、礼儀、戒律、禁忌の5つに分類できるという。この分類を使って、事例を以下に並べてみる。

「5つのしてはいけないこと」

1 犯罪
 人を殺してはいけない
 物を盗んではいけない
 姦通してはいけない

2 道徳
 人の嫌がることはしない
 仕事はさぼらない
 迷惑をかけたら謝る

3 礼儀
 音を立ててスープを飲まない
 挨拶を忘れてはいけない
 フォーマルな場ではネクタイをする

4 戒律
 イスラム教徒はラマダン期間中は日中は物を食べてはいけない
 豚肉を食べてはいけない

5 禁忌(この項の例は本書の目次から)
 敷居を踏んではいけない
 13日や金曜日を嫌う
 夜に口笛を吹いてはいけない
 夜に爪を切ってはいけない
 葬式の後は塩で清めなければ家に入ってはいけない
 結婚式は仏滅を避ける
 巫女は処女でなければいけない
 霊柩車を見たら親指を隠す

とまあ、こんな感じだろうか?。禁忌は特殊な情報である。破ると社会的に罰せられるから、嫌われるから、経済的に損だからという理由だけで、守られてきたわけでもない。
この本では古代、平安、中世、江戸、現代の日本と世界の禁忌の成り立ちや、具体例の分析が語られていく。

評価:★★☆☆☆

■類感呪術、共感呪術と科学の接点

言葉とかかわる禁忌も多い。「4」「9」は死や苦しいにつながるから、現代でも4号室、9号室が欠番となった病院やホテルがある。有名な研究書「金枝篇」の著者である英国の人類学者フレーザーは、この種の禁忌を、類感呪術、共感呪術のひとつとして考えた。似ている言葉や連想関係の言葉はその影響が及ぶという感じ方を利用した呪術だ。

・旅研:類感呪術、共感呪術の定義
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T136C300.HTM

ここでは、フレーザーの提示した例:「オジブワ=インディアンでは,ある人物に危害を加えようと思うと,その人物に擬した小さな木像をつくり,頭部や心臓部に釘や矢を打ちこむ。こうすると,狙われた者は,木像に釘や矢が刺された同じ時刻に,同じ身体の部位に激痛を感じる」が挙げられている。

私は会社のメンバーで残業が深夜に及んだ夏のある日、部屋を暗くして皆でこのCDを聞いたことがある。夢枕 貘原作の小説の語りのCDである(おすすめ、怖くはないです)。

・陰陽師 二人語り CD
http://www.ic-enet.com/onmyoji/index.html
onmyojifutari01.bmp

鉄輪(かなわ)は怪談の古典であるが、丑の刻参りの話である。午前1時から3時くらいの時間に神社でわら人形に5寸釘を打つ有名な呪術である。

・鉄輪と丑の刻参り
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/kanawa.html

・鉄輪が伝わる貴船神社(京都)
http://kyoto.kibune.or.jp/jinja/

・丑の刻参り考
http://folklore.fc2web.com/petite/ushi.html
丑の刻参りの正式作法の解説

この丑の刻参り、効果がないわけでもないらしい。真面目な研究によると、効果がある場合には大抵は自分が呪われていることを本人が気がついた場合であるらしいのだ。であるならば、心理学におけるプラシーボ効果で説明がある程度はつくという結論になる。効果のあるクスリと思って飲めば本当に病気が治ることがあるように、呪われていると思うと体調を崩すことはありえるのだ。

少し科学になってきた。禁忌や縁起は自分や他人にプラシーボ効果をかける行為なのかもしれない。故に効果を感じる人がいて、迷信は長く生き残る。そういうことかもしれない。

■デジタル、ネットワーク時代の禁忌

禁忌や縁起は現代では重視されていない?。いや、そうでもないようだ。カバヤ食品が2002年に行った調査がある。この調査によると、現代のOLの半数以上が縁起を担いでいるし、4割以上がご利益があったと考えている。

・みんなやってる!?身近な招福祈願「縁起担ぎ」
東西OL300人アンケート調査
http://www.kabaya.co.jp/news/20021120.pdf
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上記資料より引用

成功した友人の会社の社長も、実は重要な経営方針はお母上の風水術で意思決定をしていると聞いて驚いたことがある。その会社の事業内容は、ばりばりのデジタル先端技術であり、テレビにも登場したりする人である。占い師も出世すると、経営者が主な収益源になると聞くが、現代においても、禁忌や縁起担ぎは脈々と生きている様がうかがえる。

例えば、賛否両論の住基ネット。このID番号が縁起が悪いといって、変更を希望する人が全国で後を立たないという。

・神奈川・三浦市民2人「数字、縁起悪い…コード変えて」
http://www.mainichi.co.jp/digital/network/archive/200208/19/4.html

・住基ネット住民票コード受け取り117人拒否
http://www.nnn.co.jp/tokusyu/sokoga/kikitai020901.html

こんな製品もある。部屋のレイアウトをPCで行う人気ソフトだが、風水による「間取り診断機能」を搭載している。

・3Dマイホームデザイナー 2002 家相・風水のうそホント バンドルパック
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自分自身にそういう例はないだろうか?と考えてみた。ひとつあった。パソコンのクリップボードを使う際に、私は悪い情報を長くメモリに入れておいたり、そのまま作業を終えることを避けている。具体的には、「倒産」など経営的に悪い言葉や、誰かの悪口、不吉な言葉はクリップボードに入れたままになると落ち着かない。大抵は無関係なデータで上書きしている。これには、誤操作でおかしな情報を貼り付けるのを防ぐという実用上の気持ちもあるのだが、それだけではない気がする。

■禁忌と縁起テクノロジービジネス 神社にトラックバック!

禁忌も縁起も、人間社会に普遍的に存在する情報であるならば、それは情報技術で応用が可能なはずである。

例えば有名な寺社などであれば、縁起のいいページ、リンクしたいページ、自分のWebページに貼ると運が良くなるバナー画像などを有料で提供することが可能だろう。ブログであるならば、新年には神社へトラックバック(自動双方向リンク)すると、ご利益があるという風に、ネット上にも縁起は持ち込めるかもしれない。リンクとトラフィックが増えれば何らかのビジネスが可能だ。

逆に、禁忌のページ、リンクしたくないページ、行動を抑制させる効果を形成することもできそうだ。例えば平均的日本人は、神社の中では行動を慎む。そのWebサイトにも結界を張ったことを宣言し、掲示板などのコミュニティを作れば、発言行動は抑制されるかもしれない。企業コミュニティがフレーム対応のコストを下げるために聖職者を参加させるのもひとつの手だったりして。

見てはいけない開かずのページ、30年に一回ご開帳されるご本尊ページもアイデアとして悪くない気がする。「秘すれば花なり秘せずば花なるべからず」(世阿弥 風姿花伝)。隠されていることは価値になる。すごいアクセス数が集まるかもしれない。

禁忌といえば構造主義人類学者のレヴィストロースの近親相姦に関する研究も有名である。近親相姦をはじめとするタブーは、範囲の定義が異なるだけで、古今東西どの社会にも必ず存在する構造であるとした。

ネットワーク時代、デジタル時代になっても、禁忌は形を変えて生き残っていく普遍的な情報のひとつと言えそうだ。そういう特殊な情報学をこの本で学ぶことができる。

Posted by daiya at 08:00 | Comments (0) | TrackBack