2007年11月20日

針の上で天使は何人踊れるか―幻想と理性の中世・ルネサンス

・針の上で天使は何人踊れるか―幻想と理性の中世・ルネサンス
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中世の人々は現代人には信じがたい考えを平気で受け入れていた。

15世紀の教会裁判所は、作物を荒らした害虫に対して「この付近の人間の食物を浪費し、壊滅させたカブトムシよ、今からここを立ち退き、誰にも害を与えない土地に行くことを、汝に命ず」という裁きを大真面目にくだした。そして殺人罪で豚を絞首刑にした。リンゴに悪霊が取り憑いて不気味な音を鳴らすと信じた。魔女は空を飛び交い、悪魔は死者を蘇らせると恐れ、異端者を残酷なやり方で処刑した。

そうした行いの理由は、人々に知識や推論能力が不足していたからではなくて、そこには現代と異なる「常識」が前提としてあったからである。この本は歴史の中の奇妙な妄想を10章に渡って取り上げて、なぜ当時の人々はそれを真剣に信じたのかを分析する。

「毎日駆使している「一般常識」は実は多くの前提に支えられた複雑な事柄だった。そして、その前提は概ね私たちが生まれる前から存在していた通念から生じ、他の者から伝えられるのである。」

思考の土台、物の考え方である常識は、同時代の人間にとって常に所与のものとしてあらわれる。著者はこれを相対化して客観的に眺めるために有効な手法として、こうした迷信や妄想を信じた過去を振り返る。

「「奇妙な歴史」を学ぶことでも、この新鮮な視点が得られる。昔の理性的な人々が悪霊に取り憑かれたリンゴや、豚の死刑や、魔女や異端を信じていたのなら、現代の理性的な私たちの考えにも「奇妙さ」が潜んでいる可能性を考えるべきだろう。」

この奇妙さは同時代でも宗教や慣習が異なる社会の間で生じる問題だろう。たとえばアフリカで現在も数百万人に対して行われていると言われる女子割礼、インドの名誉殺人、そしてイスラムの神の名による宗教戦争。どれも日本人にとっては奇妙であるし、道徳的に認めがたいが、逆の立場では私たちの考えこそ奇妙にみえるのだろう。

「常識的な」判断は特定の社会に浸透している思考を反映するものであり、しばしば社会によって変わるものなのだ。社会に浸透している認識と一致していれば、その考え方は合理的だとみなされる。ある文化───たとえば、私たち自身の文化───において支配的な考え方が馴じみのあるものなら、その考え方に従った行動は、まず間違いなく道理にかなっていると見なされるだろう。逆に他の社会の思考についての理解が十分ではない場合、その思考に従って普通に行われた行為の多くは、馬鹿げていると思われやすいのだ。」

奇妙な迷信と妄想の歴史的な研究は、現行の常識や理性の普遍性を疑い相対化していく。中世ヨーロッパにおいて、キリスト教と人々の常識がどのように相互作用して形成されていったかがよくわかる。そしてそれは現代にも外挿できる理論であることに気がつかされる。とてもスリリングな、常識の解体新書。

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2007年08月06日

ミクロコスモス I

・ミクロコスモス I
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思想家 中沢新一の最近の評論、エッセイ、講義録をまとめたもの。どれも読みやすい。
レヴィ=ストロース構造主義の総括整理が個人的にはよかった。

西洋の精神は「論証」「抽象」「実証」の精神であるのに対して、レヴィ・ストロースの「構造」は、そのイメージに反して抽象的でも形式主義的でもない「具体の科学」そのものだとし、もうひとつの知のはたらき=野生の思考をこう説明する。

「彼の「構造」は単なる文化コードではない。それは自然と文化のインターフェイス上に働く自然智的コードだ。そのために、「構造」は弁別的知性の上で働いていないこといなるので、当然それは「無意識」の働きということになる。「構造」とは、もっとも厳密な意味で「詩的」なレヴェルの現実である。」

「私たちは根本的に自分の思考のあり方を変えなくてはならないのであって、そのとき身体が重要な拠点になる。ただしその身体は、リビドー的な無意識が渦巻くカオスとしての身体ではなく、いたずらにスポーツする健康なだけの身体でもない。たいせつなのは、身体のなかで具体的なかたちで動いている、ある種の知的なものの動きを知ることである。その知性の働きのことを、レヴィ=ストロースは「構造」と名づけたのである。仏教ではそれは「知恵」と呼ばれたことを考えても、彼の思想はまったくアジア人である私たちには近しいものに感じられるのである。」

レヴィ=ストロースの構造主義といえば、たとえば近親相姦のタブーに関する研究がよく知られている。親戚関係の誰と性交してはいけないかは、部族によって異なるのだけれど、どの部族にも必ず、してはいけませんというタブーが存在する。そうしたタブーの存在という普遍的な構造は、部族間の女性の交換を保証するための規則であると結論した。結果として生物学的多様性や文化の流動性が生まれる。そうしたはたらきは西洋の合理的精神ではなく、無意識のはたらき=野生の思考がうみだすものである、としたのがレヴィ・ストロースだった。

「論証」「抽象」「実証」など現代を覆う科学的認識では、自然の美しさ、複雑さ、それがもたらす感覚的喜びが否定されてしまう。自然に内在する知性作用によってこそ、私たちはもっと高次の豊かな認識に到達できるはずだとし、「これこそが「自然の叡智」と呼びうるものである。私たちの二十一世紀をどう切り開いていくかという思想の鍵がここにある、と私は思う」と著者は書いている。総括したうえで現代における意義を語っているのが、この著者らしさ、学者でなくて思想家らしいさだなと思った。

この本にはこのほか、岡本太郎、グノーシス、アースダイバーネタ、芸術人類学など、幅広いテーマの考察が並ぶ。寄せ集め風だが、一気に読ませる内容になっていて満腹。

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2007年04月06日

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて

・世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて
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「私が本書で考えたいのは、資本=ネーション=国家を超える道筋、いいかえれば「世界共和国」に至る道筋です。」。評論家 柄谷行人著。

資本主義と国民国家というスキームでは、主役が資本であって肝心の人間が疎外されている。著者はこのスキームを超える世界観として、カントが提唱した世界共和国の概念にポストモダンの理想を追求している。

資本=ネーション=国家の基盤は貨幣を仲立ちにした交換様式である。この交換には非対称性が伴う。貨幣には商品と無条件に交換する権利があるが、商品には貨幣と交換する権利がない。商品は売れなければ価値がないからである。この非対称性が、資本の支配をもたらしている。

福祉国家資本主義、国家社会主義、リベラリズムという、既存の国家の形態に加えて4つめに、平等と自由を原理とする新しい交換原理を基盤とした「世界共和国」があるという。チョムスキーは、この第4の形態の例として、アナキズムや評議会コミュニズムを入れているが、これらはこれまでのところ、現実には存在しない「統整的理念」に終わってきた。

「むろんカントは、こうした「世界市民的な道徳共同体」は政治的、経済的な基盤が根底になければ成立しないと考えていました。しかも、彼はそれをきわめて具体的に考えていた。たとえば、カントのいう「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」という道徳法則は、資本主義においては実現できません。貨幣と商品(資本と賃労働)の非対称性があるかぎり、そこにおかれた個人は他者を手段としてのみ扱うことを余儀なくされるのです。もちろん、国家による統制や富の再分配によって、資本主義のもたらす階級格差を解消しようとすることは可能です。しかし、階級格差をもたらすシステムそのものを変えるべきなのです。」

「目的として扱う」とは自由な存在として扱うということ。自分が自由な存在であることが他者を手段にしてしまうことではならないとし、自由の相互性の実現こそカントの見出した道徳法則であった。

著者は再分配、互酬、商品交換という既存国家の交換原理に代わる新しい交換原理Xを世界共和国の基盤として見出す。カントはその世界を小生産者(かつての多数であった職人的労働者)たちのアソシエーションと、「神の国」の実現のために諸国家がその主権を譲渡する世界共和制として考えた。

著者はその考えを現代的に読み替えて、共同体の想像的回復(普遍宗教的な運動)によるアソシエーションと、各国が軍事的主権と国際連合へ譲渡し、それによって国際連合を強化再編する道筋に、世界共和国実現の可能性があると結論している。

難しい本なのだが、ひらたくいえば、自由や平等や友愛という崇高な理念にひとりひとりが共鳴するなら、相互の自由を尊重する交換原理による、新しい社会主義的な世界共和国は理論的には実現できるはずだという思想家の意見表明である。

今日、世界の運営方法を個人が直接に話し合う場として、インターネットがあると思う。オンラインで小さなネットワークや共同体は無数に生まれているが、国家に対抗する力にまでは育っていない。ネットで理想を唱えても、各人の足場は国家にあるからだ。著者は「下から」の運動は「上から」封じ込めることによってのみ、分断をまぬかれ、徐々に新交換原理にもとづくグローバルコミュニティは実現に向かうと書いている。

何が足りないのだろうか。やはりリーダーなのだろうな。

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2007年01月14日

時間はどこで生まれるのか

・時間はどこで生まれるのか
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「ミクロの世界に時間というものが仮にあるとしても、マクロの世界における時間とミクロにおける時間は、同一のものではない。また、マクロの世界においても、物理学的時間と人間(生命)が感じる時間は同一のものではない」

マクダカートによる時間の分類が最初に紹介されている。

A系列の時間 自分がいる「今」という視点に依存する主観的な時間
B系列の時間 歴史年表のように過去から未来を見渡す客観的な時間
C系列の時間 順序関係がない、単なる配列

人間が普段、感じているのはA系列の時間である。デカルト哲学やニュートンの科学が相手にしているのはB系列の時間であった。(時間という概念でB系列のイメージを持つ人が多そうである。)。マクダカートはこうも述べている。

「A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。しかし、C系列は実在する可能性がある。」

C系列は時間とは呼べないので、時間は実在しないともいえる。

「時間は、もともと人間の感覚から生まれた概念である。毎日、太陽が昇り、星座が動き、狩りに出た良人の帰りを待ち、新たな生命が生まれ、そして死んだ人は還らない。こうした日常経験の中から、われわれの祖先は時間という言葉を創りだしたのである。」

だから、時間は実在しているのではなく、脳に組み込まれたアプリオリな概念なのである。ミクロの世界、量子力学の世界では、粒子の位置と速度は同時に確定することができない(位置を測定するには粒子に触ることになり、触れると速度が変わってしまう)。粒子のふるまい自体も確率論的で順序や因果関係もない。ミクロの世界に時間の向きや流れは存在しないのだいえる。

これに対してマクロでは、時間というものが仮定される。不可逆なプロセスが存在するからである。エントロピー増大の法則がはたらく世界の中で、人間は秩序に価値を見出す。価値ある秩序とは未来へ向かう意思がなければ存在しない。生命の生きる意志が過去から未来へ向かう時間の向きと流れをうみだしていると著者は結論している。

「われわれは、なぜ秩序に価値を見出すのか。その答は明らかである。それはわれわれが生命だからである。生命こそは秩序そのものであり、秩序なくしては存在しえないものなのだから。それゆえ、われわれはわれわれと似た秩序をもつものに価値を見出すのである。」

人間が感じている主観的時間と、科学実験や計画策定のための客観的時間を統合し、時間とは何かの本質に迫った面白い哲学本である。

・「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001835.html

・時間の分子生物学 時計と睡眠の遺伝子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002803.html

・瞬間情報処理の心理学―人が二秒間でできること
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000624.html

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2006年11月29日

孔子伝

・孔子伝
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先日96歳で他界された漢学研究の白川静著。

孔子とキリストには共通点がある。幼少時代が不明であること。中年になってから大成したこと。活躍した時間は短かったこと。弟子を率いて諸国を流浪したこと。世俗的な意味での成功とは無縁であったこと。本人の書いたものはほとんどなく、その教えは、弟子たちが後世に教典にまとめたもののみであること(「論語」と「聖書」)、など。

しかし、一般には、キリストが宗教者という印象が強いのに対して、孔子は思想家・哲学者の印象がある。著者は、孔子はシャーマンの出自を持ち、政治改革への参画をもくろみながら、ときには任侠者も巻き込んで、移動しながら好機を求めた反体制教団の長だったのではないかという仮説をこの本で打ち出している。

孔子の死後に編纂された論語は、教義としての側面が強いから、孔子の姿は徹底的に美化されている。だが、よく読むと孔子の行動には人間臭い部分もある。愛弟子の顔回への贔屓が目立つし、資金調達が得意な子貢には、経済的に支えられているはずなのに、性格的にそりがあわないのか、随分と冷たい態度をとっている。

孔子は遥か古代の伝説の王である周公を信奉して復古を説いているが、その割に古代の王国について正しい知識があったか怪しい。孔子は、仕えている主人が亡くなったら3年の喪に服せと説いたが、昔からそうしてきたものだからという。しかし、古代を調べてみると3年の服喪の規定は根拠が乏しい。孔子の古代知識は誤っていたのではないかと著者は検証してみせる。

そして、孔子のさまざまな言動の細部と矛盾を分析していくと、当時の巫術を司る集団に出自があるのではないかと指摘する。シャーマン出身で、ライバル陽虎の策略に抗いながら、現実的な力を持ったカルト教団を率い、諸国を移動する宗教改革者。隠棲の賢者というイメージが崩されていく。

・孔子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002572.html

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2006年11月20日

タオ―老子

・タオ―老子
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道(タオ)名の無い領域

これが道だと口で言ったからって
それは本当の道じゃないんだ
これがタオだと名づけたって
それは本物の道じゃないんだ
なぜってそれを道だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名の無い道の領域が
はるかに広がっていたんだ。

老子道徳経全81章の現代語訳。

著者の加島 祥造氏は1993年に「タオ―ヒア・ナウ」で英語訳からの和訳を試みている。今回は原文から直接現代日本語に訳している。こちらのほうが情感がこもっていて著者の老子への共感が伝わってくる文体である。

超訳的手法も入っていて「インターネットのウィンドウを覗きこんだって、分かりゃしない <中略> 情報を集めれば集めるほど ますます分からなくなるんだよ」などという表現もある。

自然に回帰すること(無為自然)で宇宙の神秘と一体化することが究極の道TAOであると説く老子の教えは、欧米でも禅ZENの実践とともに高く評価されている。人生のあらゆる荷物を捨てて、争うことをやめて、善も悪もない、宇宙のエネルギーに身をゆだねよ、というメッセージである。

無欲で無知なのがよいわけだが、無欲無知なだけではダメみたいである。タオを知る人は結果として無欲で無知になるということだろう。ではタオとは何なのかというと、冒頭の引用が語るように言葉で定義することができない。定義してわかったように思うのは、老子によると知識病なのである。タオを知る人は知識病にかかっている自分に気がつくことで、それを乗り越えることができる。

老子の思想は後年に道教に影響を与える。道教の達人は不老不死の仙人であるから、これも仙人の生き方の理想といってもいいのかもしれない。地球環境にも人間の精神にも負荷を欠けない究極のストレスフリー思想として、ストレスだらけの現代で再評価を受けているのも納得である。

・老子道徳経 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90%E9%81%93%E5%BE%B3%E7%B5%8C

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2006年10月11日

自分自身への審問

・自分自身への審問
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1999年。「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤 淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒と せられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」という書置きを残して江藤淳は自殺した。遺書まで名文だった。

芥川賞作家で、孤高のジャーナリスト、辺見 庸は、2004年春に脳出血で倒れた、命はとりとめたが、半身麻痺などの重い後遺症が残った。追い討ちをかけるように、腹部からガンが発見される。著者は、江藤淳の死を自らの姿に重ねながらの病床で、生死の境目にいる者としての感慨、現代日本社会への異議申し立て、そして、自分の生き様に対しての厳しい審問を行う。


...生物学的な生でしかなくなる私の、仮にあるにしてもおそらく海牛か薄羽蜻蛉みたいにごく乏しい心性(いや驚くほど豊かな心性かもしれないが)というものが、果たしてどんなものか私には実地に試してみたい衝動がないわけではない。にしても、結果どうであったかを表現できないとしたらつらい。その意思があるのに表現できなくなることと自死できなくなること......いまそれをとても恐れている。逆に、なにがしか表現でき自死できる可能性を残している限りは、軽々しく絶望を口にしてはならないと自分にいい聞かせている。


私を襲ったあれこれの病気が実際、因果応報であるにせよ、私はそれを哄笑して否定し、生まれ変わったら再びいわゆる罰当たりを何度でもやらかして、またまた癌にでも脳出血にでもなり、それでも因果応報を全面否定するつもりだ。それほど私はこの考えを忌み嫌っている。そのことと、私が秘めやかな罪や恥辱を感じているのはまったく別のことだ。」

壮絶。作家が文字通り命を削って書く文章。自己の生き様の手厳しい総括。これ以上はないほど重い内容であるが、表現者として、これだけは言っておきたいということが圧縮されている。ままならない身体状況でありながら、どこまでも冷徹な思考に圧倒された。

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2006年08月10日

系統樹思考の世界

・系統樹思考の世界
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系統樹思考(tree-thinking=樹思考)と分類思考(group-thinking=群思考)という対比を、ここで考えてみましょう。前者は対象物の間の系譜関係に基づく体系化を意味し、後者は同じ対象物を離散カテゴリー化によって体系化することを指しています。たとえ対象が同じであっても、系統樹思考と分類思考では問題の立て方そのものが根本的に異なっています。分類思考は眼前にある対象物そのもののカテゴリー化(すなわち分類群の階層構造化)を目標とするのに対し、系統樹思考は対象物をデータ源としてその背後にある過去の事象(分岐順序や祖先状態)に関する推論を行うからです。

人間は先天的には分類思考をする、という。私たちは何かを見たら、似ていると認知して、あるカテゴリーへと分類する。世界にはばらばら(離散的)の群れがあると自然に考える。これに対して文化的に獲得する系統樹思考は、モノの歴史を推定して、カテゴリーを決めている。著者が専門とする生物の進化の系統はその考え方の代表例だし、祖先との関係を可視化する系図もそうである。

歴史を持つ対象を系統樹に位置づけるには、通常科学の推論方法である演繹と帰納だけでは間に合わない。サルがヒトに進化する様子は観察では確認できないし、ヒトに残るサルの痕跡を集めても、サルが直接のヒトの祖先だとは確定できない。だから、「理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「よりよい説明」を与えてくれるかを相互比較する」アブダクションが系統樹思考では重要な役割を占める。サルがヒトに進化したという説明が、他の説明と比べてもっともらしいと考えられるから、そのような系統樹を描いたのだ。

ツリー構造はIT技術でもたとえばXMLで使われており、おなじみの構造である。ある応用的な要素が、ある基本的な要素の子要素であるという形になっている。構造自体は疑いようがないけれど、親と子の要素の意味を考えてみると、この本が論じている系統樹思考があるのだと気がつく。果物という要素の下に、リンゴがあったりする。なんでそうなんだと考えていくと、リンゴは果物であるという説明が、野菜や肉だというより、もっともらしいからである。

生物学の進化論、言語学、世界中の神話や宗教など系統樹思考が文化文明の中に普遍的に現れる様をこの本は紹介している。なぜ普遍的な思考になったのか、諸要因とともにこんな説明がある。

「分類思考が静的かつ離散的な群を世界の中に認知しようとするのは、私たちが多様な対象物を自然界や人間界に見るとき、記憶の節約と知識の整理にとってたいへん有効な手法であると考えられます。そのような認知カテゴリー化は、記憶の効率化を通じて、私たちの祖先たちの生存にきっと有利に作用したでしょう」。

なるほど、私たちの世界認識の在り方は、記憶メカニズムに最適化されているのかもしれない。そうであるなら科学の進歩は、世界についての知識量を増やすのではなくて、一番簡単な説明方法を探す旅だといえそうだ。悟りの境地に至るというのもそういうことかもしれない。

日頃慣れ親しんでいるツリー構造の考え方を、改めて哲学的に考えてみる有意義な機会になった本。

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2006年04月24日

情報学的転回―IT社会のゆくえ

・情報学的転回―IT社会のゆくえ
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日本の情報学の第一人者、西垣教授の本は必ず読んでいる。難解なものが多いが、口述筆記で書かれたこの本は、とても読みやすい。


情報学的転回とは必ずしも、ITの高度利用によって人間の生活を効率化し、グローバル経済を活性化することではない、ということです

冒頭のこのことばでまず引き込まれた。

この本の情報学的転回とは、情報という概念が、私たちの思考の在り方、世界観、人間観を大きく変えていくという意味である。ビジネスや効率性ばかりが強調される「IT革命」よりも、もっと本質的な、人類の文化文明の大変革を論じている。

著者は情報には3種類があると定義している。

1 生命情報 生きている生物にとっての情報

2 社会情報 生命情報から意識的に抽出され記述された情報

3 機械情報 機械が処理する記号の情報

コンピュータが扱うのは3の機械情報である。記号化された情報から、人間は、生命や社会にとっての「意味内容」をこの記号から解釈して読み取る。飽くまで意味内容は読むものの内側にあるはずである。ところが、西欧発祥のIT文明は、機械情報の中に、聖なるもの、本質的なものがあるかのように扱ってきた。


要するに、唯一の正しい論理がある。それは神の言葉である。これにしたがって、相互に矛盾しない論理命題の合理的な体系が存在する。世界という客観的な実在を象徴する記号群が存在する。その記号群を使って、宇宙や世界のあらゆる事物や現象というものが記述されていく。これをおこなえるのは神さまですね。

それをエイヤッと世俗化して、メカニズムだけを取り出すと、コンピュータになる。コンピュータが論理をルールにもとづいて操作する。そこでは思考というのは一種の計算になります。人間の心というものは、いわばその一部であって、思考を行うものである。これは世俗化されたユダヤ=キリスト教ではないでしょうか。

この機械情報、機械文明に振り回された人間の異議申し立てこそ、いま起きようとしている情報学的転回なのだと著者は述べている。


しかし今、機械情報からもう一度、はじめの生命情報へと戻る方向性が出てきた。機械情報文明がどんどん盛んになることによって、そこからもう一度、自分たちは生物なのだ、生命流の中の結節点のようなものなのだという自覚が生まれつつあります。

生命流という考え方と仏教の類似性を指摘したりして、東洋と西洋の宗教比較にも言及されている。機械情報の時代を超えて、人間にとって、より本質的な生命情報にもとづく文明を志向すべき時期だというのが、この本の言いたいことであるように思った。

「聖性」という概念が重要なキーワードになっている。これは、先日書評したミルチャ・エリアーデの「聖なるもの」と同じことを言っているように思える。私たち=宗教的人間(homo religious)は情報を解釈するとき、背後に「真実」や「実在」を前提としている。

・聖と俗―宗教的なるものの本質について
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004394.html

何を信じるか、本当だと思うか、の根本は、オントロジー(実在論)だ。機械情報の記号だけでオントロジーをやろうとすると、生命情報を取りこぼしてしまう。意味作用は生命にしか備わっていないからだ。いくら実在の影を集めてみたところで、実在にはたどりつけない。

個人的には、機械情報による人工知能アプローチの限界、社会情報によるフォークソノミー(コミュニティ)という突破口、インタフェース(アフォーダンス)と意味作用の可能性など、この本を読んだ結果、いくつか情報学の未来を考える視点が明確になった気がする。

情報技術と宗教という、一見妙な取り合わせで、情報学のあるべき姿を論じている。情報の哲学を考えるにあたって、とても有益で、面白い一冊。


西垣教授の本:

・基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html

・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

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2005年12月11日

生命記号論―宇宙の意味と表象

・生命記号論―宇宙の意味と表象
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生命圏を記号圏としてとらえる新しい見方を提示した本の新装改訂版。初版は1993年。

記号というと普通は言語を連想する。だが、著者は記号の指す範囲を大きく拡大して次のように定義する。


記号圏とは、大気圏、水圏、生物圏と同様に地球上のある領域を指す。記号圏は他のどの圏内にも入り込み、その隅々まで広がっており、音、匂い、身振り、色、形、電界、熱放射、全ての波動、化学信号、接触その他のありとあらゆる種類のコミュニケーションを統合して出来上がった一大圏である。一言で言えば、生命に関する記号全てのことである。」

基本はパースの記号論であり、意味するものとされるものの二項の意味世界に、解釈する主体を加え、3項のダイナミックな関係として、全体を捉えなおそうとする思想である。メッセージは単独で存在できるものではなく、解釈する主体があってはじめて記号の意味が確定される。

この記号関係でやりとりされるインフォメーションとは何かについては、解釈者の志向性によって生み出されるもの説明されている。


インフォメーションとは何らかの志向性を持った生物と結び付けられる。この志向性を持った生物とは、栄養濃度を感受して、餌が最も豊かであるスポットに向かって偽足を伸ばして行こうとするアメーバであったり、あるいは木の上に熟した果物を見て、それを取るために手を伸ばしている人間であったりする。別の見方をすれば、インフォメーションは翻訳にその基盤を求め、この意味で、パースの定義による記号に対応する。

生物はそれぞれの環世界に生きている。必要な情報を選択的に感覚器官から受けとっている。これが志向性であり、インフォメーションの基盤である。そしてインフォメーションの量と質を決めるのは、記号論的自由の大きさにあるというのがユニークな意見である。ここでいう自由とは、個体や種が周囲と相互に伝達できる「意味の深さ」を指している。
次に、対象を生物個体同士の水平関係という視点から、系統という垂直関係という視点に移動して考えると、生命記号圏においての究極の内部観測者は、人間や生物の個体、もしくは脳や意識ではないという。

つまり進化という目でみると、


人間において思考を行っているのは脳ではない。身体全体でもない。考えることができるようにしているのは私たち全てがその産物である自然の歴史そのものである。

たとえば、DNAの遺伝情報のネットワークは、塩基配列の組み合わせという記号関係そのものである。交配が行われれば、二つの系の間で情報交換が行われ、新しい世代の記号が決まっていく。ここには、人間の個体の意識は入り込む余地がない。そのメッセージ交換の意味を解釈しているのは、ヒトの系統そのものであり、さらに大きく見れば、自然史そのものであることになる。

ヒトが登場する何億年も前から生物はいたのだから、意識が観測者ではありえない。現在の生命圏は、過去の生命情報のやりとりの結果なのであるから、その歴史そのものが観測者であったとする。人間の意識は特権的な存在ではなくなる。

意識の解体もテーマの一つとなっている。

「意識とは身体の実存的環世界を、肉体が空間的物語的に解釈したものである。」

という結論がある。

これは、ノーレット・ランダーシュの「ユーザイリュージョン」とほぼ同じことを指している。私たちが見ているものは本質じゃないのである。幻想なのである。だが、その幻想を信じて必死に生きている私たちがつくりだす歴史は本物なのである、というのが私の理解。

この本は訳者 松野 孝一郎氏のあとがき「記述の限界とそれへの開き直り」も読みどころになっている。内部観測者について本も出している訳者は、あとがきにおいて、本文を引用しながら自論をどんどん展開している。総括にもなっていて読解の参考になった。

・動物と人間の世界認識
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000786.html

・ユーザーイリュージョン―意識という幻想
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html

・基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html

・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

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2005年11月23日

ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学

・ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学
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哲学者バートランド・ラッセルの入門書。

ラッセルは「プリンキア・マテマティカ」の中で、次の条件を満たす「理想言語」の必要性を述べている。

・名前としては、世界に確実に実在するとわかっているものの名前だけを含む
・個々の名前はただひとつのものだけを指す
・実在するものの間に成り立つ関係を表わす語が、名と名を結びつける。つまり、世界の論理構造をそのまま反映する

私たちが日常使う言葉には「世界に確実に実在するもの」以外の虚構の対象が入り混じっている。そのようなニセの指示句をラッセルは「不完全記号」と呼んだ。不完全記号は言葉の多義性を含んでいるが、それゆえに、話がわかりやすくなったり、簡潔に言うことができる長所がある。

ラッセルは不完全記号の使用も認めつつ、いざというとき、不完全記号を解体し、真の名前、つまり実在する対象を一義的に指す名だけからなる表現に変換できることを担保するために、日常言語に換わる人工的な理想言語を構想した。

「世界に確実に実在するもの」とは、より小さな構成要素を持たない単純者のことである。自らの存在を他の構成要素に依存していないため、実在する確かさが最大である単純者の名だけを使うことで、厳密に意味を確定できる言語を模索したことになる。

この本では「犬」が例でよくでてくる。個々の犬はもちろん実在する。個々の犬(タイプ0)の集合を一つ上の階層(タイプ1)まとめる名前に「セントバーナード」、「柴犬」、「ドーベルマン」などの犬の集合がある。さらに上の階層(タイプ2)には「犬種」という集合の集合がある。ラッセルのタイプ理論は、実在するものをすべてこうして階層化する。

この階層は、個々の犬の持つ属性(吠える、四本足、しっぽがある、など)が、個々の犬という構成要素よりも、上位に位置する集合になる。理想言語的には、階層(タイプ)の位置関係は厳密に区別されねばならない。

だから、

1 犬は、吠える
2 この犬は、吠える

という2つの文章があったとき、厳密な理想言語的解釈では、2は下位のタイプ(この犬)の述語として「吠える」という上位のタイプが使われているから、意味が特定できる。しかし、1は、一般名詞としての「犬」と「吠える」は共に集合であり、タイプ1であるため、意味を成さなくなる。タイプ理論では、主語より述語は高階になければならない。
これでは述語が不完全記号になっている。

しかし、誰が読んでも1は日常言語としては意味が通る。そこでラッセルは記述理論によって、本来あるべき隠れた文章を補い、不完全記号を解体して意味を確定する方法を編み出した。

1は

「いかなるXについても、もしXが犬であるナラバ、Xは吠えるものである」

が本来の意味であり、日常言語では省略して「犬は吠える」と言っている、とフレーズを足すことで論理的にも意味が一つに確定できるようにした。こうしてみると、1は主語述語ではなく述語述語であったことになる。

タイプとは別にオーダーという系列もある。

「ナポレオンは、偉大な将軍に必要な属性をすべて持っていた」

という例が挙げられている。

その属性とは勇敢であり好色であり、頑健であり慎重であったりする。無数に属性を列挙できるがその中には「偉大な将軍に必要な属性をすべて持っている」という属性も仮定できる。

自己言及が含まれると状況は複雑になる。

タイプ1 勇敢、好色、頑健、慎重
タイプ2 偉大な将軍に必要な属性

という階層があることになる。タイプ1の述語としてタイプ2がある。

しかし「偉大な将軍に必要な属性をすべて持っている」は「偉大な将軍に必要な属性」に含められない非述語的な属性である。そこで、これをオーダーという別次元の系列とし、述語同士のもうひとつの階層関係と定義した(分岐タイプ理論)

要素の集合と階層を扱うタイプ理論だが、集合のややこしい問題に「自分自身の要素でない集合の、集合」がある。

「あなたが今日考えたものの集合」という場合、無数の考えたものに加えて「あなたが今日考えたものの集合」自体が含まれる。これは自分自身を要素とする集合である。逆には自分自身を要素としない集合がある。

「自分自身を要素とする」「自分自身を要素としない」は曖昧ではないので、「自分自身の要素でない集合である」ものは必然的に決まる。そうなれば「自分自身の要素でない集合、の集合」が考えられることになる。

だが、「自分自身の要素でない集合の、集合」とはなんだろうか。定義自体が矛盾しているようにも読めるが、これを考えた時期のラッセルは言語的に意味をなす表現は必ず指示対象を持つと考えていた。実在するにも関わらず、意味が特定できないものが、厳密な論理の果てにうまれてしまう。これがラッセルのパラドクスである。

自己言及を禁止することで、一応はこのパラドクスを回避できることはわかっている。だが、自己言及の禁止によって、扱えなくなる問題が数多くある短所があることなどがこの本に詳細に説明されていた。私の理解はまだまだ怪しいが、ラッセルは論理的に非常識を扱う風で興味深い。

もっともっと知りたくなる好奇心を書き立てられた入門書であった。

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2005年09月29日

考える快楽―グレイリング先生の哲学講義

・考える快楽―グレイリング先生の哲学講義
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イギリスの哲学者が、「ガーディアン」紙上に寄稿した、人生の61の根源的テーマについてのエッセイ集。古典のように格調高い文章で淡々と以下のような主題を語る。


第1章 美徳と愚行―勇気とは、もって生まれた才能とひきかえに、人生が課した重荷に耐えることだ(道徳を説く、寛容、慈悲 ほか)

第2章 人生の苦しみと妄信―貧しき者は、すでに地獄での刑期を終えている(ナショナリズム、人種差別、種差別 ほか)

第3章 喜びと楽しみ―みずからを教育するからこそ、余暇を高貴に過ごせるのだ(理性、教育、卓越 ほか)

教師的な淡々とした語りの中に、毅然とした態度で著者自身の知見が述べられるのが、この本の読みどころ。

たとえば、

「寛容」では、


だからこそ、「寛容は不寛容にたいして寛容であるべきか」という問いにたいする答えは断固とした「ノー」であらねばならない。寛容は、それ自身が侵されないようにする必要がある。それは難しいことではなく、誰でも自分の見解を述べることはできるが、人に無理じいしてはならないと言いさえすればいい

「卓越」では、


民主主義を掲げている統治の大半は選挙による寡頭政治に過ぎないし、世界には、真の意味での民主主義はほぼ存在しない。それでも民主主義の精神は、よきにつけあしきにつけ、西欧社会を包囲している。そのよいほうの側面は、すべての人間を公平に扱うよう圧力をかけることにあり、悪いほうの側面は、すべての人間をそっくりおなじに扱うよう圧力をかけることにある。

「キリスト教信仰」では辛らつで


聖職者たちとは、二千年ほども流行おくれになっている道徳の詭弁にしがみつき、古代の超自然信仰を公然ともつ人々だ。社会状況に似つかわしい、思慮深く、教養のある、偏見のない意見にたいして、自分たちの見解のみが優先権を与えられるべきだと主張するのは、異常というしかない。

などと書いている。静かな中に確固とした思想を感じる。

原題はThe Meanings of things。考える価値のあることについて、自分なりの意味を考えることの重要性を教えてくれる一冊。

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2005年09月28日

人間の終焉

・人間の終焉
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「テクノロジーはもう十分だ!」

著者が問題視しているのは、遺伝子操作、ナノテクノロジー、ロボット工学の3つ。

特に出生前の遺伝子操作で人間の身体や心を「増強」する技術は破壊的だと嘆いている。
遺伝子操作は近い将来、生まれ来るこどもたちの外見を立派な体格の美男・美女にしたり、IQを引き上げたり、常に冷静に考える気質にするような改造ができるかもしれない。彼らはノーマルの人間がいくら努力しても適わない高い身体能力を持つことになるだろう。
増強された世代とそうでない世代では世界を認識する力も変わってくる。圧倒的に高い意識レベルと思考能力を持つ人類2.0は、私たちの及びもつかない世界認識をするかもしれない。そのとき「パパは何もわかっていないんだから」が文字通りの意味になり、世代間は断絶されると著者は考えている。

そして「永遠の命」の技術革新は、人間の寿命を大きく引き伸ばすかもしれない。限り有る時間だから人はそれを大切にして生きてきた。好きなだけ生きられる時代には、人の価値観も根底から変わらざるを得ないだろう。


私たちは過去に比べてとても快適な安楽なところに到達している。真の問題は、そこまで到達した私たちが、それを本質的に未知の何かと引きかえにすることを望むのか、望まないのかである。

勇気を持ってブレーキをかけるべきだと著者は主張している。人口抑制策、汚染物質の排出規制、非暴力運動、環境保護地域のように、人間は自らの行きすぎを統制することができると著者は成功例を挙げて示した。

この本は先端科学の状況と、それが暴走した場合の脅威を、具体的に説明する部分が情報量も多くて面白い。著者の体験や人生観にもとづいた未来のビジョンにも説得力がある。単なるハイテク・ラッダイト主義者とは違いそうだ。

しかし私は著者が批判する「テクノ熱狂者」の方に近い立場である。明るい未来を作り出すためにテクノロジーの進化発展は無限に続くべきだと思う。著者は進歩史観自体を否定しているが、問題は進歩が悪いのではないと考える。科学者に哲学がなく、科学が資本の論理や知的好奇心だけで暴走していることにあると思う。ブレーキを踏むのではなく、ハンドルを価値あるビジョンの方向に修正することこそ必要なのではないかと思った。

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2005年08月16日

成長の限界 人類の選択

・成長の限界 人類の選択
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賢人会議ローマクラブの命により1972年に出版された「成長の限界」から30年。コンピュータシミュレーションによるモデリングを用いて分析を行った1992年の続編「限界を超えて」に続く、同じ著者らによるシリーズ第3弾。

大学生時代に「限界を超えて」を読み、世界で何が起きているのか、をはじめて知った。一部の活動家の関心に過ぎないと思っていた環境問題が、本当は環境の問題ではなく、社会の問題、人類の問題であることを知った。

持続可能な社会とは「将来の世代が、そのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現世代のニーズを満たす」社会である。(環境と開発に関する世界委員会(WCED)、1987)

私たちの世界は、かなり馬鹿げた間抜けな運営をしている。


国連開発計画(UNDP)が、世界人口のうち、最も豊かな国に住む20パーセントと、最も貧しい国に住む20%の一人当たりの所得を比べた数字がある。1960年、その差は30倍だったが、95年には82倍になっていた。ブラジルでは、国民のうち貧しい50%の人々が得た国民所得は、1960年には18%だったが、95年には12%に減っている。逆に最も豊かな10%の人々が得た所得の割合は、1960年の54%から、95年には63%に増えている。アフリカの平均的な世帯の消費は、1972年から97年の間に20%減っている。「経済成長の世紀」の後に残されたものは、貧富の差がより大きくなった世界だったのだ。

世界のシステムが成長させたのは所得ではなく、格差だった。そしてこの格差は成長を続けるに従って拡大していく。システムに格差拡大の構造があるからだ。資本や特権を持つ層はそれらを使って資本と特権を増大させる。


特権階級に対して、さらに特権階級になるための力と資源を与え続ける社会的取り決めが「成功者をさらに成功させる」フィードバックループを形成している。その一方で「もともと成功していない人たちは成功できない」逆のループも発生している。

その結果、未来は、


世界人口の四分の一以上の人々は電気を使えず、五分の二はいまなお伝統的なバイオマスにほぼ頼って基本的なエネルギー需要を満たしている。電気の供給のない人の数は、今後数十年間に減っていくが、それでも2030年時点で、14億人がまだ電気のない生活をしていると予測されている。調理や暖房用の種燃料として、木材や作物の残余物、動物の廃棄物を使う人の数が増えていくだろう

といった状況になる。

資源が足りないわけではない。たとえば食糧は均等に配分できれば、80億人を養える量が現在も生産されている。成長はこの格差の問題を解決しないだけでなく、成長モデルに依存した経済や社会を破綻させてしまうという予測が述べられている。

こうした格差拡大のループの中で、人口が増え、持続可能ではない資源消費が増え、エコロジカル・フットプリントと呼ばれる環境への悪影響が拡大していくからだ。


環境が悪化している大きな原因は、地球人口の大部分が相変わらず貧しいこと、そして、少数の人たちが過剰に消費していることの二つである。現状を続けることは持続可能ではなく、行動を遅らせるという選択肢はもはや存在していない

頑張って成長することで全人類が、現在物質的に最高水準の層に追いつけるという考えは不可能であることもわかる。


大まかな評価を見ると、自然資源やサービスの現在の使い方は、すでに地球の長期的な扶養力を超えてしまっている。もし地球上のすべての人が北米の人々と同じ水準を享受するとしたら?一般的な技術を用いて、地球全体の物質需要を満たすには、地球が三つ必要になる。今後四十年間に予想されている人口増加や経済産出の伸びに持続可能な形で応じるには、地球があと六から十二個必要になる計算だ(マーティス・ワクナグル、ウィリアム・リース、1996))

この本にはコンピュータ・シミュレーションによって世界の取りうる未来が、11パターンのシナリオとして示される。このまま成長が続くシナリオは存在しないが、持続可能なパターンで安定させる選択肢は僅かに残されている。

拡大ではなく均衡を、成長ではなく発展を目指す方向転換は必ずしも諦めの世紀にはならないという言葉に希望がある。「持続可能なシステムは、今日の世界に住む多くの人たちにとって、魅力的な消費水準を提供できるだろう。」とさえ結論されている。

満たされていない非物質的ニーズを満たせという提言がある。人が必要としているのは大型車ではなく、とっかえひっかえの衣服ではなく、賞賛や尊敬であり、ワクワクしたり、他人に魅力的だと思われることなのである。もう一台コンピュータやテレビが欲しいのではなく、自分の頭や感情を満たす興味深い何かがあればいいのだ。求めているのは非物質ニーズなのに、それを物質ニーズで満たそうとするといくらあっても不足してしまう。

だから、

豊かな人たちは「所得が半分になりましたが2倍幸せになりました」。貧しい人たちは「所得が2倍になって、4倍幸せになりました」。数十年前に比べて幸福の総和は地域に偏りなく何倍にもなりました。全体が衣食足りています。そういう選択を私たちは選ばないといけない。

そう理屈ではわかっているけれども、自分はこの選択のプロセスに、今、なにか貢献できているか、というとほとんどできていない。せめて、ここに要約ベースの書評をアップしておくくらい。お金持ちになって余裕ができたらいいことをしよう、では、そもそも成長指向であり、間違っているわけですが...。

経済と自然科学の分野の学生におすすめ。環境と経済と技術について全体像を知る名著。

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2005年03月27日

やがて消えゆく我が身なら

・やがて消えゆく我が身なら
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面白い読み物。

論旨明快で、ユーモアがある。説得力のある極論の連続。歯切れが良くて気持ちが良い。
人間の死亡率は100%で人はいつか必ず死ぬ、が主要なテーマ。だから人はこう生きるといい、こう考えたらいい、という考察が30本。死が主題でも重くない。

いきなり、がん検診は受けるな、意味がないから、と論じる。がん検診を受けたグループ、受けなかったグループの死亡率に有意の差がないという論拠を提示し、早期発見で手術で直る程度のがんは、放っておいたとしても死なない”がんもどき”だから、本当はその発見には意味がないというのである。

ハンチントン病の家族の人生についての話も考えさせられた。この病気は治療法がない死にいたる病。やっかいなことに優勢遺伝する。つまり親が患者であったらば、こどもは2分の1の確率で発病する。発病は中年以降なので、こども時代は自分の運命が分からなかった。

この患者の家族の書いた本が紹介されていた。

・ウェクスラー家の選択
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これは読んでみたい

ウェクスラー家の娘たちは、母の病気を見て自分たちも長く生きられないのではないかと思い、病気の原因を調べ始める。徹底的に調べた努力の結果、病気の遺伝子を特定することに成功する。だが、それでできたことは病気の治療ではなかった。将来の発病の可能性の有無を正確に知る検査だけだった。悩んだ末、娘たちは検査を受けない選択をしたそうだ。

この検査は自分が若く死ぬかどうかを確実に知る検査になってしまう。もしも自分だったら、どうするだろうか。治療すれば治るかもしれないがんの告知よりも、難しい選択だ。遺伝子医療が進んでいけば、将来の病気や死の時期が確実に分かるケースは増えてくるだろう。これはやがてもっと一般的な問題になるかもしれない。

著者は、


池田 清彦
1947年、東京生まれ。東京教育大学理学部卒業、東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。早稲田大学国際教養学部教授。構造主義科学論、構造主義生物学の見地から、多彩な評論活動を行っている

といプロフィールで生物学専門らしい。生き物や環境についての知見から、世の中の諸問題をばっさりと斬っていく。エッセイだが情報量も結構多い。なにより著者自身がいう「実も蓋もない」論調が愉快だ。

「はっきり言って私は、人間の命が大切だなどと思ったことは一度もない」
「生物多様性の保全などというのは、たかだか人間の考えた理念に過ぎない」
「断言してもよいが、ほとんどの子は人並みの才能しか(すなわち何の才能も)もっていない」

などちょっとそこだけ抜き出すと、過激な意見が次々に出てくるのだが、敢えてそれを言う根拠も明確に書いており説得力がある。30編のエッセイで、だんだん著者の言いたいことが分かってくる。戦略なのか、後半になるに従い言いたい放題度が高まる。電車でニヤニヤしながら読んでしまった。

事実と考察と意見とユーモア。等身大で嫌味のない文体。こういうエッセイを書けるようになりたいと思った。

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2005年03月21日

人類最古の哲学―カイエ・ソバージュ〈1〉

・人類最古の哲学―カイエ・ソバージュ〈1〉
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宗教学者、中沢新一の大学講義シリーズの第一巻。

レヴィ=ストロース風構造主義的神話分析が現代においてどのような意義を持つかが主題の本。


人類的な分布をする神話というのがたくさんあります。地理的に遠く離れ、社会構造も言語もまったく異なる社会が、驚くほどよく似た神話や伝承を伝えているのです。例えば、八・九世紀の古い中国や日本の書物に記録されている伝承が、遠いヨーロッパの伝承の中に残っていたりするのです。

世界に散らばるシンデレラ物語が取り上げられる。フランスの民話「サンドリヨンまたは小さなガラスの靴」やドイツのグリム兄弟版「灰かぶり少女」と、中国の「酉陽雑俎」、北米インディアンの「見えない人」物語が比較され、類似した構造と共通項が取り出される。これらの神話は細部は異なっても、構造は同じである。人類が世界に広まる何万年も前に、とてつもなく古い起源の原型が存在していたのではないかと著者は推測する。

どのシンデレラ物語でも、実の親の不在や意地悪な継母の登場のような欠落から始まって、高いもの(裕福)と低いもの(貧乏)のような対立・矛盾が解消されていく過程になっている。魔法がうみだすカボチャの馬車ような仲介機能によって、貧乏で小汚い娘が、高貴な貴族に見出され、永続する幸福な結婚という結末に向かっていく。

面白いのは古い物語ほど残酷であったり、具体的であること。シンデレラの原型では、意地悪な姉妹は足の指や踵を切断してまでもガラスの靴に挑戦して失敗している。中国では鳥に目をつつかれて盲目になったりもする。もともと魔法使いのお婆さんは出てこなくて、魚や鳥がその役割を果たす話の方が古いようだ。

古層の物語では、魔法のような飛躍が少なく、具体的描写が多い。つまり、きめ細かい仲介機能の連続となっている。神話は本来、空想物語ではなく、人間の直面する現実という足場を持った物語だった。

シンデレラは台所で働かされる。これはカマドや灰の近くにいるという意味である。カマドや灰は、本来、死者と生者を結ぶ場であり、そこで働くのはシャーマンだった。片足の靴は、片足を引きずりながら異界との行き来をするオイディプスの姿とも重なる。死者との交通も本来、シンデレラの重要テーマだった。この他にも仲介によって解消される人類的テーマはいくつも織り込まれていた。

時代が進むにつれ、物語の合理化が行われ、単純化され、バーチャルな内部に閉じた物語に変容してしまう。ディズニーのシンデレラは、王子様に外見の美しさで認められてお金持ちになる女性の社会的サクセスストーリーという、資本主義の愛する物語に変化した。そこには、もはや「死者との交通」や「見えない価値を見る」といった他の重要なテーマはなくなっている。

仲介機能による矛盾の解消という構造を使って、宇宙を重層的に語る神話本来の力について、著者はこんなことを書いている。


日本人はいまCG技術による自然の再現ということに関して、群を抜く能力を発揮してみせていますが、それはいまのアニメ文化を背負っている人々の体内に、合理化される以前の重層的な自然の記憶が生き残っているおかげなのであって、合理化された自然イメージばかりに取り囲まれて育った世代がこれを担うようになったときには、もはやそのレベルを維持することは難しくなるでしょう。

確かに宮崎アニメはディズニーと比較して重層的多義的で解釈のバリエーションが豊かだ。バーチャルな世界に生きることで、自然や現実との結びつきが希薄化すると、イマジネーションの豊かさまで失われてしまうことを著者は危惧しているようだ。

そして神話とは、


神話はまぎれもなく哲学です。宇宙の中で拘束を受けながら生きている人間の条件について思考しているからです。

であると結論している。これはレヴィ=ストロースがいう「野生の思考」であり、現代において、もう一度考えてみる価値のあるテーマだと復権を試みようとしている。

・対称性人類学 カイエ・ソバージュ<5>
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001148.html

・神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

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2005年03月10日

人間は進歩してきたのか 「西欧近代」再考

・人間は進歩してきたのか 「西欧近代」再考
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いい内容。

米国は9.11同時多発テロを野蛮な原理主義による文明に対する攻撃と呼び、その後のイラク侵攻を、「米国によるイラクを民主化し解放する戦い」として正当化した。結局、米国が侵攻の論拠とした大量破壊兵器は存在しなかったし、テロの根絶という目的も果たせなかった。正義と悪の戦いという米国が打ち出した構図の背景には、人間の求めるものはみな同じで、進歩は普遍である、とする西欧近代の進歩主義観がある。

この本はその成立から現在に至るまでの歴史を丁寧に要約し、近代進歩主義とは、結局、世界普遍の価値ではなく、西欧という一地域で発生したローカルルールでしかないことを明らかにする。

ハンチントンは、西欧的価値の核心にあるものとして次の8つを指摘した。

1 古典古代の遺産
2 キリスト教
3 ヨーロッパ系の言語
4 聖俗の権威の分離(政教分離)
5 法の支配
6 社会の多元性
7 代議制度
8 個人主義

これらは本質的に西欧的なもので、近代化以前から西欧の価値であった。よって西欧文明=近代文明とはいえない。これらの西欧的な価値は、イスラムやインドや中国、ロシアなどが共有できるものではありえないとする。

進歩主義は近代国家が生み出した幻想であるが、ホッブズやロック、ルソーらが作り上げた国民国家、国民の意思、国民主権の背景には、古典古代の遺産(ローマ、ギリシアの思想)やキリスト教の神という西欧固有の、普遍的ではないものが存在する。西欧の神がいなければ、個人も契約も成り立たない。

近代主義は歴史を断層的な変化によって進歩するものと捉えることも指摘される。進歩の象徴である、産業革命、市民革命、科学革命は、伝統的価値や旧体制を打ち壊し、新たなものが人為的に作り出されると考える。革命はその都度、伝統的価値を排除した「近代」を特権化する。決して歴史が重層的に積み重ならない。過去から学べなくなる。

フランス革命を批判したイギリス人の思想家エドモント・バークについて著者が書いた一文は興味深い。


緩やかな特権のなかにこそ、統治の知恵や社会の秩序をつくる秘訣があるというのが、バークの考えでした。特権、伝統、偏見------これらはたしかに合理的なものではないが、ここには先人の経験が蓄積されている。だとすれば、それが合理的でないという理由で、特権や伝統、偏見を破壊し、排除すべきではない。それを敢行したフランス革命は大混乱と残虐に陥るだろうというわけです。このバークの議論は、現代でも、まだ拝聴すべきものを含んでいると私には思われます。

私たちも民主主義や自由は良いものであると西欧風教育を受けて育っている。進歩主義思想にだいぶ染まっている。しかし、この価値観はローカルルールに過ぎず、それを共有しない文化と折り合っていくことを難しくしている。

また、個人が自由になること自体が権力を生み出すとしたフーコーの思想、近代的道徳とは弱者のルサンチマンを正当化したものに過ぎないとしたニーチェのニヒリズムなど、西欧進歩主義も突き詰めていくと、内部から崩壊してしまう。現代人はいったい何を「確かなもの」と考えるべきなのか。著者にも明確な答えはないようだ。それを銘銘が考える場がインターネットということになる気がする。

重要なのは多元的で、重層的な価値観、異質への寛容さなのかなあとこの本を読んで思った。中庸といってもいいかもしれない。特権、伝統、偏見という非合理にみえるものも、合理的に利用する東洋的知恵を、歴史から学ぶことが大切なのだろう。日本人はちょうどよい位置にいるような気がする。

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2005年01月20日

ソシュールと言語学

・ソシュールと言語学
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現代言語学の祖で、構造主義思想の祖でもあるソシュール入門書。

ソシュールとレヴィストロースは学生時代に夢中になって読んだ。当時、既に構造主義思想も古典だったわけだけれど、あれから10数年、今はどういう扱いになっているのかなというのが手に取った動機。

■ラングとパロール、シニフィアンとシニフィエ、体系と構造

第1章「ソシュールはこう考えた」はソシュールの言語学と構造主義のやさしい入門ガイド。分かっている人にとっては軽いおさらいだが、著者の見解も織り交ぜられている。

要約。

ソシュールは言語の本質とは何か、その構成最小単位は何かをまず考えた人である。言語行為をラングとパロールに分割し、言語学の対象をラングに限定することから、ソシュールの仕事は始まっている。

ラングとは同じ意味を話し手から聞き手に伝える仕組みのこと。同じ意味が伝達されるには、この言葉はこの意味を表すという社会的な約束が必要である。音声と意味の対応関係を知らない人は、外国人と同じで、聞いても意味が分からない。人類共通の単語と意味の対応リストなど存在しないわけで、音声と意味は本質的には無関係(恣意的な関係)だとする。

これに対して、パロールは具体的な意味の伝達に関わらない要素を指す。たとえば具体的に発声された音声などである。ラングは抽象的だったが、パロールは具体的で観察可能である。だが、パロールだけを見ていても、意味をみつけることができない。だから、言語研究はラングから手をつけるべきだとしたのがソシュールだった。

そしてラングが伝達する言葉は記号であり、記号はシニフィアン(表示部、意味するもの、知覚できる音や図形の集合)とシニフィエ(内容部、意味されるもの、事柄または事物の集合)の対であるとした。両者は別物であり、ある表示部が、ある意味と結びついているのは、ある時代の社会的な約束事でしかない。つまり、単語と意味は、本来は無関係で恣意的な結びつきでしかない、というのが第一原理「言語記号の恣意性」である。

第二原理「言語記号の線状性」とは、言葉とは単語が一列に並ぶことで意味を表すものだという原理。そして、その並び方に規則があり、伝達される意味はその規則を変えると変わってしまうということ。

二つの原理はあまりに当然のように思えるが、世界の言語すべてが普遍的に持っている性質として、はじめて見つけたのがソシュールだった。

そして、どの言語にも数万から数十万の単語があるが、ひとつとして完全に同じ意味を表す単語はないとソシュールは考えた。完全な同義語がないということは、あるひとつの単語の意味を決めるには他と違うということを考慮しないといけないことになる。つまり、言語には、単語の意味を他の単語との関係で決定する「体系」がある。

「体系」内の要素の価値(意味)を決める要素(単語)が線状に並べられて、形成される「構造」にソシュールは言語の本質を見出した。そして、この発見は、そうした体系と構造の性質が、言語だけでなく、婚姻関係や神話の物語構成、経済交換など、人類の文化に普遍的に認められるものであるということが分かり、構造主義の時代が到来した。

要約終わり。

■ソシュールに続いた直系の研究とソシュール礼賛

第2章「ソシュールの考えはどう継承されたか」では、音素に注目したプラハ学派、関係性を重視したコペンハーゲン学派などソシュール直後の継承者たちの研究が取り上げられる。

第3章で「花開くソシュール」は、ソシュールの考えの不足を補ったり、別のユニークな考えを持ち込んで、構造主義言語学を発展させた研究がいくつか紹介される。具体的言語事例を使って構造主義アプローチを実践したバンベニスト、コトバは経済的にできているという機能主義を提唱したマルチネなど。

マルチネは面白い。言葉は記憶や発話の負担が少ない方向に変化していくという機能主義は、言語を物理や経済的に考える仮説。「パーソナルコンピュータ」は長いので、使われているうちに発話しやすい「パソコン」になる。だが、短い言葉は同音異義語が重なって理解しずらくなったりするので、すべてが1文字とか2文字の単語になると脳の負担が増える。ふたつの経済性の均衡で言葉は変化していくという話など。

著者はソシュールは言語学を、疑いえない原理だけを基準に科学にしたとして高く評価している。

「その意味で構造主義の方法こそが、ソシュール以来の健全な科学的分析の伝統を受け継いできているものと確信します。コトバの本質を解明することを目的とする言語学で、構造主義の考え方がこれまでにもまして多くの研究者によって踏襲されていくことが、研究の結果を安心して受け入れることができる学問分野としての発展につながるのです。」

ソシュール絶賛の結論でこの本は終わる。

今、インターネット関連の研究の世界には情報系の人と言語系の人がいると思う。情報系で自然言語処理やセマンティックWebをやっている人は意外にソシュール言語学や構造主義を知らない気がする。コンピュータで言語を扱いやすくしたチョムスキーの言語学ばかりが取り上げられている気がするが、大元の哲学を知るにはソシュールから入るほうが得るものが多いのではないかとこの本で復習して、思った。

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2004年12月11日

私・今・そして神―開闢の哲学

・私・今・そして神―開闢の哲学
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タイトルだけ見ると宗教かと思えるが、完全に哲学書。私、今、神という3つの大きなテーマに対して、過去の大物哲学者たちの定義に対して修正や反論を試みつつ、総括する。私たちはこれらの概念を当たり前のように使ってしまっているが、深く考えるといかにそれらの定義があやふやであるかがよく分かる。

■5分前に世界が創造された?

この本の中心テーマの切り口のひとつが「五分前世界創造説」。世界や宇宙は100億年前だかに始まって今まで続いていたように考えられているが、もし起源が5分前にあったと考えたらどうなるか?。世界はいたずら好きな神によって、あたかも長い歴史を経たかのように、5分前につくられたと仮定してみる思考実験である。それは化石も古文書も5分前に偽造されて存在しているような世界だ。

過去という概念は記憶と関係がある。カントは「経験一般をならしめる条件が同時に経験の対象をならしめる条件」だとした。これを記憶という経験にあてはめれば、「記憶一般を可能ならしめる条件が、記憶の対象をならしめる条件」ということになる。記憶の対象とは過去のことだから、では「記憶をならしめる条件」とは何か、ということになってくる。著者曰く、それは「過去が現在に記憶をはじめとする痕跡を残すという構図そのもの」なのではないかという。

実際に記憶していること自体が過去そのものを作り出すわけではない。たとえば永遠に発覚しない完全犯罪が考えられる。誰も覚えていないからといって、現在に痕跡を残さなかった過去そのものの存在を否定することはできない。過去は記憶と独立して存在できる。

過去そのものと過去の痕跡は別物である。過去の痕跡(記憶)はインスタントに作ることができる。だから「きまぐれな神によって5分前に全住民が架空の過去を信じた状態でこの世界が創造された」は可能な事態である。だが、全能の神であっても過去そのものをそれと同時につくりだすことはできないのではないか?という面白い考え方をここで著者は持ち出す。

「住民の今の記憶を5分前に神が創った」という事態の意味を私たちは理解できる。だが、神が、誰も覚えていない過去そのものをその時点で同時につくる、とは何をすることなのか、私たち住民は理解することができない。

私たちは無神論者であっても神を信じてしまっているからだ。全能の神だが、全能とは私たちが何をしているのか識別理解できる範囲で全能なのであって、その意味が理解できないことは神にもできないことになる。私たちは理解できる形で捉えられてはじめて、それが起こったことと考える。理解できないことは起こりえない。そうした事態は強く無意味だからである。

よって、全住民の記憶が5分前に作られたという自体はありえるが、5分前に世界自体が過去そのものなしにつくられたという自体はありえないことになる。著者は続けて、今度は記憶ではなく近くがすべて偽者だったとしたら?、もし世界5分ごとに作り直されているとしたら?、私が昨夜作ったのだとしたら?など、いくつかの違った仮定を検討していく。

世界を開闢という特異点を考えることで、私や今や神といった根本的概念を洗いなおしていくことになる。


開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。この構造こそが、本書全体を通じて私が問題にしたいことの根源である

■ライプニッツの原理とカントの原理

前半では「今」を考えるにあたって二つの原理が考察される。

・何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ(ライプニッツの原理)
・起こることの内容的なつながりによって何が現実かが決まる(カントの原理)

ライプニッツの原理では、たとえば突然、ドラエモンが目の前に現れたり、ある時刻を境に自然法則が逆になるようなことが起きても、それは現実だと認めていく考え方。カントの原理は、平行分裂する世界観を前提としていて、今と連続する内容でなければ現実ではないとする考え方。

ライプニッツの原理の正しさは、特に「私」の現実にとっては疑いようがないほど確かなものになる。たとえ信じられないようなことが起きようが、主体の私が現実とつながっているのだから、現実でありえる。過去の歴史経過と今起きたことがつながっていないように思えてもなお、起きたことは現実である。

だが、世界の現実という視点を考えてみると、カントの原理も正しそうに思えてくる。分裂していく世界のうち、過去の歴史経過とつながった世界とそうでない世界があったら、つながった世界の方を私たちは現実だと認識するだろう。そうでないと、「私」が存在で分裂してしまって存在できないように思えるからである。

この他、時間に関する考察だとか私的言語の可能性などが論じられる。

長い議論の末、著者はこう書いている。


現実世界は諸可能世界の内の一つの世界であるに過ぎない。ところが逆に、それらの諸可能世界はすべて、現実世界の内部で構想されているに過ぎないともいえる。だから、われわれはその現実世界の存在を「証明」することができない。それは必然的に前提されるほかはない。すべてはそこから始まるのだ

開闢はどうやらこの前提するという行為の中にありそうだ。だが、言語や知覚や、脳が作り出せる概念のあり方について構造的制約があるがゆえに、前提の内容を確認しようとすると、逃げられてしまう気がする。そういう逃げられてしまう根本を、あの手、この手で追い詰めて見つめなおす作業自体が哲学の面白さであり、パースペクティブを拡げる手段としての有用性でもあるのだろう。

この本は簡単なようでいて、かなり難しいことを言おうとしているようだ。読み終わって、考えさせられる部分が多かった。著者の他の本を続けて読んでみようと思った興味深い一冊。


Passion For The Future: 「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001835.html

Passion For The Future: 物理学と神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001503.html

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2004年09月26日

閉じつつ開かれる世界―メディア研究の方法序説

閉じつつ開かれる世界―メディア研究の方法序説
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著者の東海大学の水島助教授とは面識がある。インフォシーク編成部長として黎明期からバブル時代にかけてネット広告の最前線で働き、引退。東大の情報学で有名な西垣通教授に弟子入りしメディア研究に没頭。現在は東海大学で教鞭をとっている。

学者として最初の渾身の一作。期待度200%で熟読。3割もまだ理解できていないような気はするのだが、勇気を出して書評させていただきます。

■境界、3項、連続する記号過程、正八面体

著者は、パースの記号論の三項図式の拡張を試みる。まずソシュールから入る。

ソシュールは記号の意味作用のはたらきには二つの項、”シニフィエ”(意味するもの)、”シニフィアン”(意味されるもの)があるとした。単純化すれば、林檎(意味されるもの)を表す「林檎」という言葉(意味するもの)という二項の関係である。

これに対して、パース記号学は3項目に”解釈内容”を持ち込んだ。その記号を使う主体が、どのような意図でその記号を使い、そして、どのように受け止められたか、という視点が入ってくる。それは林檎のクオリアみたいなもの。

ラカンは記号について「記号の機能を掴もうとすると、いつも記号から記号へとたらいまわしにされてしまう(略)つまり記号の体系は出口のないひとつの秩序を設立している。」と書いた。

例えば密室とそこで出生以来育てられた独りの人間と、机の上に辞書があるとする。辞書はシニフィエとシニフィアンの参照ネットワークである。特定の記号で特定の意味を指し示す用具である。よく編纂された辞書であれば、その関係性に矛盾はないから、自律した閉じた意味世界を構成している。だが、いかなる経験も持たない人間は、辞書に書かれた事柄を知らないのだとしたら、意味を芋づる式にいくら調べても、何も分かったことにならない。閉じた世界では生きた意味がない。

言葉は使われてはじめて意味が確定するものでもある。ラカンはコミュニケーションにおけるラング(言語)とパロール(発話行為)を区別した。



しかし、同時に記号は、ソシュールの定義やラカンの解釈を前提とすると、体系として自律しており、しかも恣意性の中に「閉じている」。ここに私たちは、記号という概念が孕む二重性に気がつくことができる。体系、すなわち構造的には「閉じている」のだが、活動としては「開かれている」。このことをハイデガーは「記号は、ある存在的な用具的存在者でありながら」「同時用具性、指示関係の全体性および世界性の存在論的構造に際会させるものという機能を備えているのである」という。記号は、閉じた世界に拘束されながら、その世界を立ち上がらせる媒介を担うのである。

こうしたことから、記号がその機能を発揮する位置はすなわち「境界」であると言うことができよう。システムの干渉の場でもある。先に挙げたパースの「記号の定義」も、このことを証明している。つまり、”話しかける”ものとしての記号は、ある人の心の中に、同じ記号を映し出す場合もあるし、また新たな記号を創造する場合もある。この「新しさ」はどこから来るのだろうか。

記号が機能を発揮する「境界」とはすなわちメディアのことである。新しい意味が創発される、カオスの縁とも言える。こうした意味と世界が立ち上がるメディアのトポロジーを明らかにすることが、この本の前半の主題である。

パースの3項(意味するもの、意味されるもの、解釈内容)の3点を結ぶと3角形ができる。これが意味作用の基本図形である。この3角形が、内的世界(自我の領域)から外的世界へ(他者の領域)と意味を伝達する記号過程の運動を担う。

3項は外部と内部それぞれにあると考えられる。よって連続する記号過程のモデルには最低「内と外」の二重化が必要だ。3項×二重化=6つの頂点が必要ということになる。6種類の頂点を重複して使用せずに描ける三角形を組み合わせて作る、最もシンプルな多面体は正八面体である。意味作用は正八面体のトポロジー上で3項が運動することで、閉じつつ開かれる世界を現出させているというのが著者の主張である。

この意味作用の構成要素同士の構造が明らかになったことで、メディア研究の叙説が完成することになる。第2部では、こうして定義した道具を使って、現代のメディア、インターネット、コミュニティを解読する。

■電子メディアと多元的実在論

例えばネットサーフィンとWebに書くこと=電子的エクリチュール、についての記述を引用。


ハイパーテクストの空間構制は、本来の記号たる語とともに示される、指標記号としてしか存在しないクリッカブルなリンク表示が、行為の最中に記号としての役割を換え、消えてしまうことで、自らの行為を指標記号でありながら中心化させる「回転する記号過程」に誘い込む。項の位置すなわち意味の生成を担う。もちろん、平行して”読むこと”は作動しているが、そこでハイパーテクストから構成される「張り合わされたコンテクスト」と「ネット上で時間を費やした」ことの満足感とも、没入感とも、徒労感ともつかない自己意識は、必ずしもリニアな関係にはない。

”書くこと”についても同じことがいえる。ジョージ・ランドウはハイパーテクストに対する読者の(”読むこと”の)介入を、テクストの断片化(レクシ)という特性の中に捕らえ、その中で作家性を保持することの困難さに注目している。

リンクの張り合わせの結束点に書く言葉や、相手に反応して書くチャットやメールの言葉は、断片的、記号的であり、近代的知性の価値観では、発展途上の、未成熟な主体の言葉と考えられる。また、電子メディアのインタフェースやインタラクションの稚拙さも「身体の忘却」や「分断化された世界」として指摘する。だが、著者はこうした電子メディア上での主体の未成熟や一貫性のなさを、むしろ、肯定的にとらえようとしている。


分割された身体、断片化した映像やテクストに囲まれた生活環境を単に「相対主義的」に捉えるだけでは、私たちは傍観者の域から脱出することはできない。それを逐次再編し、そして再びその拘束を解き、さらにまた再編するという繰り返しを私たちは自らの「生」として営まねばならないのだ。それこそが意味を生成し続ける無限の記号過程なのである」


ここで示された「多元的実在論」こそが、伝統的存在論でもポスト・モダン的相対主義でもない”第三の道”であるとともに、電子メディア的環境において全面化したシーケンス、インタラクション、モード ---- すなわち「メディアなるもの」をかたち作る構成素を、「世界」へ媒介する「主体」のとるべき姿なのである。

つまり、ネットは便所の落書きかもしれないが、必死に便所の落書きを読み書きする人たちがいる限り、立派にメディアであり、可能性に満ちているのだということだろう。そして、人間は近代的知性が強制した「一貫した自己」から離れて、多くのパースペクティブから物事をあるがままに捉える(ハイデガー的)、多元的自己へと進化できるということを著者は主張したいのだと思う。

人間はネットワーク上で無矛盾でいられない存在であることが暴露されたのだと私は考えている。あらゆるレベルの知がリンクされるネットワーク上では、どんな賢者も一貫性を完全には守ることができない。また守ることが価値ともいえない。表面上、一貫性だけを守ろうとすれば、精神破綻(いわゆる”電波系”)するか、唯我論的後退しかありえない。

多元的であることは、その場しのぎでやり過ごすことでもなくなった。その場しのぎの言葉を書けば、ますます主体の未成熟を露呈してしまうことになる。多元的自己と多元的他者を同時に意識しながら、想像力を持って読み、書くことが、電子的エクリチュールの知の、あるべき姿なのだと私は考える。

「連続的記号過程」という言葉が頻出する本だったが、連続的はすなわち生きていることである。必死に持てる能力を総動員して考えていることである。相手の考えに想像をめぐらせていることである。そうした生きている記号過程を肯定するのが、著者の結論とした多元的自己ということなのだと思う。

■次はわかりやすいのをお願いします

結局、この本は丸々2回、部分的には追加で何度も読み返した。3ヶ月近く読んでいたことになる。学者として最初の単行本出版に、著者の思い入れが強くて、持てる知識を満杯にして送りだされた本。深い意味の込められた文章の連続だが、受け止める読者は、相当量の哲学的予備知識がないと、かなり消耗するのだが、難解さの向こう側には明確な思想が感じられるので、ついつい何度も挑戦したくなる。スルメや固焼煎餅みたいな濃い味わいを楽しみながら、ゆっくり、読むのが適している。

関連書籍も読み返しながら読むことで大変勉強になった。メディア研究をまず研究の仕方から疑い、再構築する意味がよくわかった。中途半端なカルチャラルスタディーとはまったく逆のベクトルを持った正統派メディア論(叙説)である。メディア論を根元からじっくり考えたい人におすすめの一冊。

とはいっても...。

元ビジネスマンの経験を活かして次回はぜひ読みやすい本も水島先生には出していただきたい。2ちゃんねるだとかメーリングリスト、ブログだとかソーシャルネットワーキングだとか、著者も詳しいはずの、ネットの最先端メディア現象を、ネットにどっぷりだった経験を活かして、わかりやすく読み解く本。この本は叙説であるので、きっとこれに続く本で書かれるのだと首を長くしてお待ちしております。


関連:
Passion For The Future: 基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html

Passion For The Future: こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

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2004年07月08日

「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか

「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか
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小学6年生の夏休みに、2冊の本と出会った。ミヒャエル・エンデ「モモ」とユーリイ・イワノフ「九〇〇日の包囲の中で」。子供心に深い感動を覚えて、それ以来、読書が好きになった。どちらも、今読んでも考えさせられることが多そうな児童文学の最高峰だと思う。

「モモ」は時間とは何かについての深遠な物語である。一般には映画にもなった「果てしない物語」の方がエンデ作品としては有名かもしれないが、「モモ」の方が哲学者としてのエンデの思索の深さを示した作品だと思う。

・モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語
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時間を大切にしましょう、節約しましょうと町の人々に説いては、時間の貯金をさせる、灰色の時間泥棒が跋扈する世界。時間泥棒のおかげで、人々はあくせくとせわしない生活を送る。直感的に嘘を見抜いた少女は時間の国へ旅立ち、「時間の花」を見て、時間の本当の意味を知る。

自分も大人になって、いつの間にか、町の人と同じような、せわしない生活を過ごすようになってしまった。定規のように均等な目盛りのついた時間軸の真ん中に「現在」を置いて、その左右に過去と未来を置く。時間は過去から未来へ直線的に、一定のスピードで進んでいくイメージにとらわれている。1時間は3600秒だが、1時間より長く感じる1秒もあることは皆、気がついているのに。

この「時間を哲学する」という本は、そうした広く信じられている空間的な時間の概念に対して異議申し立てを行う。フッサールやハイデガーやカントの時間の考え方は間違っているとはっきり言う。哲学だから正しい答えなどないわけだが、全編を通して著者の論旨が明確で、面白い本だ。

■少年老い易く、邯鄲の夢

少年期の脳は老年期の脳よりも可塑性が高く、多くの出来事が記憶に残りやすい。逆に老人は多くの出来事を経験しても、忘れてしまうという、大脳生理学の研究結果があるそうだ(ジャネーの法則)。子供時代の1年は長かったという、多くの大人の実感を裏付ける法則である。

だが、これだけでは時間が短く感じられることの証明にはならないと著者は言う。客観的時間の長さと時間印象の長さの比が本当の理由だとする。例えば旅行や夏休みの最初の数日は新しいことが多いが、同じ要素を繰り返すとパターン化され、時間印象は短くなる。2ヶ月の休みでも、最初の数日と最後の数日では、後者が短く感じられるものだ。

また、加齢とともに時間の遠近感が狂っていく。数十年前のことがありありと思い出せるが、前日のことは忘れてしまう老人の記憶の傾向がその例として挙げられる。こうして、子供時代は1年が長かっただとか、人生はあっという間だったという感覚が生じる。

■制作される過去と想起

著者は、知覚と想起を区別し、根本的に過去の記憶とは想起なのだと考えている。そして、学者ラッセルの次のレトリックを紹介する。世界は5分前に始まったとしてもおかしくないという話。

「世界は5分前に、正確にその時そうあったとおりに、まったく実在しない過去を「想起する」全住民と共に突然存在し始めたという仮説に、いかなる論理的な不可能性もない」

つまり「3年前に起きたこと」は、本当に3年前かどうかと無関係に、3年前に起きたこととして想起したことであるということだ。一見、屁理屈のようだが、考えてみれば、キリスト教では世界は数千年前に創造されたことになっている。信者は長い間そう信じてきた。そして、ここ数十年の現代科学は、宇宙は150億年前のビッグバンで始まったと説明する。誰かが魔法をかけて5分前に世界は生まれたと全住民が信じているようなものだ。

過去とは想起によって「制作」されるものであり、<今ここに>たち現れれているものであると著者は言う。それは可能的過去であり、過去の単純な再現ではない。言語も深く関わっている。「痛い」だとか「暑い」はそうではない状態、不在への態度があって初めて成立する。「今日は暑かった」と振り返って言語化した瞬間が、「暑い」が「暑かった」へ移行する現在と過去の境目になるのだ。

■「客観的時間を考案したことの不幸」

前出の「モモ」のクライマックスは、少女が無から次々に時間の美しい花が咲いては消える時間の源を見つめる幻想的なシーンだろう。そこには管理されない、豊穣な時間の輝き、永遠と刹那の持つ美しさが描写されていた。それは湧き上がる想起のイメージとも密接に重なる。私たちは時間を想起によって、無限に美しく味わうこともできるということなのだと思う。それを難しくしているのは、古典的な過去、現在、未来の三等分の考え方や、定規で測るような客観的時間概念という「時間泥棒」のせいなのかもしれない。

時間をどう使うか、管理するか、そんなことより、時間をどう感じるかこそ、人生にとって有益な態度と言えるのかも知れないなと読みながら考えた。他にもこの本には、時間というものを哲学的に見直すための、斬新な考え方が詰まっている。現実の生活は多忙で、時間はないが、ゆっくりと考えてみよう。モモを時間の国に導いたカメ、カシオペアがやったように、ゆっくりゆっくりが一番早くたどりつけるかもしれないから。

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2004年06月02日

遺伝子vsミーム―教育・環境・民族対立

遺伝子vsミーム―教育・環境・民族対立
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■文化の伝達や複製の基本単位 ミーム

ソーシャルネットワーキングは相変わらず、毎日のように登録者がいて、デジタル人脈データベースは順調に拡大中。最近は、少しずつ、サービス内でのメッセージ交換やコミュニティ活動も始まっていて、これから何が起きるのか、わくわくする。

ソーシャルネットワークは、まだ利用者層は限定されているとはいえ、人のネットワークが、どのようなつながり方をしているのか、漠然とながら見えてきた。今の関心は、むしろ、形成されたネットワーク上を、どのように情報が伝播するのか、にある。

最近、ミームという概念が、また注目されようとしている。かつて、一般向けの科学書「利己的な遺伝子」の中で、人間は遺伝子の乗り物に過ぎないとリチャード・ドーキンスは述べた。専門性が高い内容にも関わらず、ベストセラーとなった、この本の終盤に「ミーム」という興味深い概念が提示されていた。

ドーキンスは文化の歴史を、生物進化の歴史にたとえた。文化はたくさんの情報から構成されている。この要素を「ミーム」と呼んだ。つまり、ミームとは「文化の伝達や複製の基本単位」である。遺伝子が複製と突然変異を繰り返しながら変容するように、ミームもまた複製と、伝達上のミスによる突然変異を繰り返す。生物が適者生存の原理で進化してきたように、情報もまた、そのせめぎあいの中で、生き残りやすい情報が後世に伝わる。

■増殖したフリーのPhotoshopミーム

必ずしも正しい情報、善い情報が生き残るわけではない。他の情報に対して強い、伝播しやすい情報が生き残ることも多い。ゴシップやデマは広がりやすい。無論、理性や知性のフィルターが、そうしたミームの過度な暴走を抑制するわけだが、理性や知性の判断内容も、よくよく考えてみれば、過去に競争を勝ち残ったミームに過ぎない。それが絶対的な真理というわけではない。遺伝子に善いも悪いもないように、環境に柔軟に最適化できる強さを持ったミームがすべてを決めている。

ミームは、だいたい、そういう話である。

実はおととい、私のブログは瞬間的に圧倒的なアクセスを集め、1日あたりの訪問者数が過去最高を記録した。原因はこの記事だった。

・もうPhotoshopは要らない? PictBear Second Edition
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001605.html

ハッカー、萌え系の超人気サイトに、なぜか取り上げていただいたおかげで、その影響下にある数十の、子サイト、孫サイトが一斉にリンクをはって下さった。おそらくPhotoshopというキーワードが反応しやすかったのだと思うが、1日に8千人もがこの記事にアクセスしてきたのには正直驚いた。”Photoshopのフリーの代替物”というミームが、24時間の間に何千倍にも増殖した結果であると言える。

同じようなことが起きた人もいる。

・NDO::Weblog: 動画ファイルナビゲータの衝撃
http://naoya.dyndns.org/~naoya/mt/archives/001118.html

この本は、ミームの進化論で現代世界の状況を解明するという野心的な本である。最も強いミームのひとつに”神”の概念がある。古今東西、宗教は必ず存在し、強く信じられ、伝播しやすい。宗教の中心となる神の概念こそ、心(というミームプールの)のウィルスなのだと述べたドーキンスの言葉が紹介される。この神のミームが強すぎて、原理主義的な争いが勃発しやすいのだと歴史を振り返る。神はきっとフリーのPhotoshopより何百万倍も強力なミームなのだろう。繁殖率が高いのだ。

■ミーム繁殖価と、伝承者としての長老の価値

遺伝子の場合、繁殖期を過ぎた生物個体には、繁殖という面だけで見ると大きな価値がなくなる。セックスできない、子供を産めない個体は子孫を増やせないからだ。繁殖上の価値を繁殖価と言う。著者は、ここでミームの場合の繁殖価とを比べてみせる。すると、せいぜい80年程度の寿命の人間の場合、遺伝子の繁殖価はその前半でピークを迎え、後半は価値がほとんどなくなる。これに対してミームの繁殖価は100年を超えて続き、時間経過しても、それほど低くもならない。人間の死後に業績が認められて広く伝播する場合のような、繁殖価が時間経過と共に上がっていくものもある。

たくさんのミーム繁殖価を持った人間。それは遺伝子の繁殖価はなくなった老人である。知識を蓄えていると同時に、社会的人脈や信用、そして伝える技術を持っている。老人のミーム伝承を次の世代に、いかに効率的に行うかが、文化の質を決めていくのではないかとの主張が展開される。これはなんとなく、納得できる。

ソーシャルネットワークを見ていると、実際の年齢はともかく精神年齢的には同じレベルの集団が群れているなと感じる。大人、長老が不在なのだ。現実世界で本当に影響力を持っている人たちが入っていないケースが多いという話も、先日のWeblog勉強会の発表にあった。

情報のセンダーとレシーバーだけでなく、伝播の方向性を整えながら、強化するファシリテーターやオリジネーターといった役割が必要だということかなと思う。

ブログもまた似ている部分があると感じる。精神年齢的に同質の群れに思える。海外の統計では、ブログユーザは比較的若い集団だと判明している。若いということは、他人の影響を受けやすい。が、逆に、影響を受けたことを人には言わなかったりする性質がある(後述の実験でもそのような結果が出ている)。

そこへいくと、他人の意見に流されず、自己の経験とバランスのよい状況判断で、知恵を紡ぎだせる長老的存在が欠けているのが、ブログの問題であるようにも思われる。長老不在のネットワークでは、情報はひたすら、平面的に急速に伝播するが、体系化されたり、上方向へ昇華、進化することがない。騒ぐだけ騒いで、”祭り”の後に何も残らない。

ブログにせよ、ソーシャルネットワークにせよ、そうした長老を囲む文化が必要なのではないかと、ふと思った。つまらない権威は要らないが。実際、学問や文化の領域で、健全に発展している世界では、長老が(威張っているのではなくて)大切にされているように思う。

■オンラインのミーム伝播の研究

こんなニュースを見つけた。8万以上のブログのリンクを対象に情報の流れを分析した研究のレポートである。

・人気ウェブログは頻繁に「無断引用」――ウェブログ間の情報の流れを解析
http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20040309206.html

「今回の研究に参加したエイタン・アダー氏は「ウェブにおける重要な人物は、(外部からの)リンクが最も多いサイトの運営者ではなく、ウェブログのネットワークで流行を引き起こす人物だということがわかった」と述べている。

 こうした流行のもととなる人たちを見つけだすのは難しい場合もある。興味深いアイディアやニュース記事を最初に指摘した人が、他のサイトで必ずしも引用元として名前を明記されるわけではないからだ。

 実際に、HP研究所の調査でも、あるアイディアが10以上のウェブログに広がった場合、70%のウェブログが、そのアイディアについて自分たちよりも前に言及していたウェブログにリンクしていないことが明らかになっている。 」

影響を受けやすいのに、元ネタは隠す若者の特性がでているのだと思う。(私もまたその一人なんですけどね...)

関連するニュースとして、本格的なミーム追跡プロジェクトの話もある。

・ブログ間の情報伝達をリアルタイムに追跡するプロジェクト
http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20040525204.html

ここで紹介されるのは、ミーム拡散プロジェクトというまさにミームな研究実験。

・The Memespread Project: Spread this Meme!
http://www.arbesman.net/meme.php


まずアーブスマン氏は、自分のウェブサイトのことを『ボインボイン』『スラッシュドット』『コトキー』という、3つの人気ブログに伝えた。このウェブサイトは1ページのみで構成され、このページを見た日時、閲覧者のIPアドレス、可能な場合は、参照先のURLを記録するというものだった。そして訪問者に対し、「このミームを広げて欲しい。このサイトにリンクし、友達にも送って欲しい。この言葉を広めてもらいたい」と要請した。

こんな実験を開始した研究者が、そのログから、オンラインの情報伝播のパターンを分析しようという内容である。その結果、どこに流せば広まりやすいかを特定した。伝播しやすいサイトの作者とは別に、本当の影響力を持つ人物がいるということのようだ。

祭りの伝播ネットワークからは少し離れて身をおいて、経験から、一次ソースとしての価値ある自分の意見を言えること。その意見を尊重して聞く周囲の人物がいること。それが多分、オンラインの影響力を持つ人物像、長老像なのではないかと思う。そうした人物を、どうやって、人脈ネットワークやリンクのネットワークから、見つけ出すかが今後の課題みたいだ。

■後半は強引だが、着想は面白い本という結論

書評に戻ると、この本の後半はかなり強引である。

民族対立や、荒れる子供、低い倫理感などを、すべてミームの過剰な増殖に求めようとしている。ミームをミームで制すことで、バランスの取れた世界を作ろうということのようだが、概念レベルのミームと、現実世界に起きていることの対応付けの説得力が弱い気がした。

ただ、ミームを、現実世界の問題解決に向けた思考のツールとして、積極的に使ってという、アイデアは、面白いなあと感じる。正しい情報、善い情報という考え方から、少し離れて、繁殖値の高い情報、それを制す情報は何か、というレベルで客観的に、情報の流れを見ることが大切なのだと思う。ソーシャルネットワークやブログの研究は、次第にその仕組みを解明しつつある。

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2004年05月13日

物理学と神

物理学と神
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科学論で有名な科学者が、自然科学の想定してきた神の変遷を解説する。アウグスティヌスは「神は矛盾しない限り全能である」と言ったが、やがて聖書と自然現象の矛盾が自然科学によって露呈する。科学合理主義の”悪魔”が神を追放しようとする。だが、その後の時代にもアインシュタインが求めるサイコロを振らない神や、カオスという名の確率論的にしか存在しない神や、フラクタルのように偏在する神、資本主義を動かす神の見えざる手といった新しいタイプの神が登場してきた。神は老獪で、何度も人に消し去られようとするが、新しい形で次々に出現してくるのが特徴だという。

科学の世界の神概念の変遷を追うことで、神の存在を相対化し、神はいるようだけれども、それがなにかはまだ確信するのは早すぎる、もしくは確定などできないのではないかというのが著者のいいたいことのようである。神の概念を説明する科学評論は類書が多いのだが、一般読者向けに科学論の名著を何冊も書いてきた著者の、読みやすい文章と、全体を見据えたバランス感が光る良書。主に大学生向け、かな。

■人間原理説の打破

著者は総括していく中できちんと自分の意見も打ち出してくる。この本の場合、人間原理説を論破している点が特徴だろうか。無数に宇宙のあり方は考えられ、ほぼすべての、考えられる宇宙では、地球ができたり、人間が生まれたりしない。電子の質量のようなパラーメータが少しでも違っていたら、宇宙は構造的に不安定で地球も人類も誕生できない。人間が生まれないと宇宙を認識するものがいないので、宇宙そのものが存在しないことになる。それにも関わらず、人間が存在しているのは、人間が存在するという目的を持って宇宙ができあがってきたからなのだというのが人間原理説。強引な説であるが、多くの科学者が少なからず、その影響を受けていると言われる。

聖書の言葉は暗号で、そこには未来の予言や神のメッセージが含まれているという非科学的な説があるが、著者は人間原理説をこれと同じだとして斥ける。聖書の膨大なテキストの中から、恣意的な暗号分析で言語として有意味なパターンを発見する手法が似ているというわけだ。人間原理説もまた、膨大な科学観察データという「聖書」から、人間原理が導き出されるような根拠を発見してしまっていると看破する。このような分かりやすい比喩がこの本の特徴。

■対称性の破れが宇宙の始まり

時代の推移とともに、いくつもの神や宇宙観が登場するが、一番、興味をそそられたのが「対称性の破れ」から宇宙が生じたという理論である。もちろん、これは著者と同じ名古屋大学の野依教授が2001年度のノーベル賞を受賞した理論と関係が深い。化学物質の分子構造は、鏡に映したときに左右対称になるものとそうでないものがあり、そうでないものは右手系、左手系に分かれる。そして、なぜか自然界には右手系ばかりである。左手系は無理に合成しないと存在しないが、意図的に左手系を作る方法が長い間、分からなかった。それを可能にしたのがノーベル賞の受賞理由であった。(右手系のレモンは、レモンの香りがするが、左手系のレモンはオレンジの香りがするそうである。同じ物質でも機能的に異なるものを作ることができるので、用途は限りなく広い。)

宇宙の開闢以前は「無」、つまり、すべてが一様に存在する状態であったと考える人たちがいる。宇宙を左右に分割してどの点を観察しても、左右は対称だし、時間軸に並べてみても、どの時間においても普遍な状態である。この状態では何も起きず、永遠に宇宙は姿を変えない。ここに何らかの理由で対称性を破る事件が起きて、連鎖反応的に構造が生成されて、今の世界ができあがった。実際、右手系の分子構造ばかりの自然界が、対称性の破れを証明している。それが対称性の破れによる宇宙誕生論である。

大抵の神話が同じような記述をしている。最初に何か高エネルギー状態の唯一の存在が、たとえば空と海に分かれ、その後、海と陸に分かれ、土から人が誕生したという具合に、何か大いなるひとつのものから分かれて今の世界が生成したという話。ビッグバンの一撃から、星や銀河が生まれていったというのも同類である。これなどまさに対称性の破れ系である。人間の個体発生なども、そういった趣が感じられるなと読みながら思った。

■もっと謙虚に科学することの重要性

この本が最も言いたいことは、科学は多くのことを解明してきたが、時代によってパラダイムの変化が起きるたびに、科学者が考える神の役割もまた変化してきた。だから、その延長線上にいる現代の最先端科学の生み出す神もまた、相対的でテンポラリな神の姿に過ぎない、ということだと思う。

最終章。著者の言葉を引用すると(約130億年という宇宙の年代測定について)

「私たちが観測している領域はまだまだ小さく、全体像を論じられるほど遠くまでみているわけではないのである。東京だけを見て、地球の全体像を論じようとすると間違うだろう。私たちが見ている宇宙はまだ狭すぎて、宇宙の真の姿を「代表していない」と考えるほうが自然なのではないだろうか」

役立つ技術を作ってきた科学も、まだ宇宙や生命の成り立ちを知るには、未熟で、後世から見たらトンチンカンなことをやっているということ。謙虚になれ、歴史に学べと。まあ、科学はロマンという側面もあるから、熱い勘違いの天才も必要だとは思うのだけれど。

関連情報
・宇宙人としての生き方―アストロバイオロジーへの招待
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001273.html

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2004年05月01日

死の壁

死の壁
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「日販」の週間ベストセラーの新書ノンフィクション部門で1年間第1位を守り続けた「バカの壁」(340万部超)。この連続首位記録を止めたのが、同じ著者の続編「死の壁」。初版20万部をすぐに売り切り、既に増刷しているらしい。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、養老氏は、生命やシステムは壊すのは簡単だが、二度と作ることができないから、と答えている。野坂昭如の有名な答え「殺しなさい、ただ君も殺される」には迫力で及ばないかなと思うが、後に続く死をめぐる考察を読むと、著者の独特の死生観が分かってくる。

現代社会は死を排泄物と同じように、見えないところ、考えないところへ追い出しているという。棺おけの入らない設計のマンションが都会にはあるのだという。人間の致死率は100%であるにも関わらず、都会生活では死や死体は隠される。人は生き続けるもの、人命尊重、救命医療、人の命は地球より重い、というタテマエが絶対視されていく。

その結果、人命尊重至上命題のあてはまらない例として


アメリカでコースト・ガードの制度を作ったことがありました。海岸で溺れた人の救命作業をする専門家を置いたわけです。その結果、どうなったかといえば、脳に障害を負った人が増えた。溺れかけて途中で蘇生したものの、脳に重い障害が残ったわけです。そうすると介護をする人が非常に増えた。社会的コストはあがってしまった」

という事例を挙げる。

「安楽死とエリート」という章では、重症サリドマイド児の死亡率を引き合いに出す。日本は75%、欧米は25%。一方、日本の幼児の死亡率と平均寿命は最高レベルにある。つまり、この国では、どこかで今もなお「間引き」が行われているのだという。

他にも戦争には過剰な人口の人減らし効果があることなど、敢えて公に言いにくいことをはっきりと発言する「暴論」部分が面白い。死はありふれたもので、生と同じくらいもっと意識すべきだという論。

戦争をすれば人の死に対して司令官が責任を負うように、本来はこうした穢れ仕事に対して責任を負うのがエリートの役割だったと著者は言う。現代のエリートは、高い地位や高い報酬だけを得て、責任を引き受けることがなくなった。著者はこれを「エリートの消滅」と述べている。確かにこれが現代における優秀な指導者不在の原因なのかもしれない。腹を切る指導者がいなくなったわけだ。

人は毎日確実に死に向かっている。日々回復不能で取り返しのない日々を生きていると著者は最後に繰り返す。だから、安易に殺すな、二度と戻せないから、というわけだ。

前作同様、口述筆記で書かれた本なので、読みやすいが、全体を通しての論旨がつかみにくい本であるのも同じ。何十年間、死体と向き合ってきた70歳を超えた学者の死生観の独白として各章を連続しないエッセイのように読んだほうが面白い。

・バカの壁
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001122.html

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2004年04月05日

宇宙人としての生き方―アストロバイオロジーへの招待

宇宙人としての生き方―アストロバイオロジーへの招待
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■人類は最も繁栄している生物ではない?

宇宙人が地球を探査したとき、「この惑星を支配しているのは昆虫である」と結論する可能性があると何かの本で読んだことがある。動物種の中では昆虫の個体数が一番多く、生命として最も繁栄しているのは人間ではないからである。

ダーウィンの進化論以降、私たちは適者生存という考え方に支配されがちだが、何十億年間、ほとんど進化も絶滅もしていない生物もいる。バクテリアのような単細胞の原核生物は、30億年以上そのままの形を保持するものもいるらしい。生存環境の幅が広いため、とにかく生き残りやすい。生物としての繁栄という視点で見ると、高度に組織化、複雑化した高等動物が必ずしも、競争の勝者というわけではないことになる。

人類は増えて生き残るために生きているのではない、と考えた方がよいとこの本は言う。
人類とはそれではいったい何者で、どこへ向かおうとしているのだろうか?。それを天文学、地質学、物理学、歴史学、社会学などを総合して、大きなスケールから語ってみようというのがこの本の試み。

著者は東大の教授。

・東京大学大学院新領域創成科学研究科 松井研究室
http://ns.gaea.k.u-tokyo.ac.jp/~matsui-lab/

■地球(知求)学

ビッグバンによる宇宙の始まりからの150億年というスケールで、宇宙や地球、そして人類とは何か、を考えようとするのがこの本のメインテーマ「アスロトバイオロジー」であり、著者の言葉では知求学である。ビッグバン、地球の誕生、生物、人類の登場、そしてこらからをひとつのダイアグラムに描いてみせる。

なぜ人類は人口が増えて繁栄したのか?。大きな理由として、言語の存在と共に「おばあさん仮説」を著者は提唱している。生殖年齢を超えて生きる雌の個体、つまり、おばあさんは、自然状態の哺乳類では存在していない。人間にはこのおばあさんがいることで、お産の知識や育児の支援が可能になり、お産の回数や生存確率が飛躍的に高まった、とする説。

しかし増えたことで人間は自然のままにいきることはできなくなった。20世紀の人口増加率を続けると、2千数百年で地球の重さと人間の体重の総和が同じになってしまうそうだ。「生物圏」としてみた場合、10億人程度が地球の養える人類の数。それ以上は地球に何らかの影響(=汚染)を及ぼさずには生きることができない。既に60億人いる人口を支えるには、自らが環境自体を農耕に始まる技術と知恵で作り出す「人間圏」にしか、人間が生きていく場所はない。「自然にやさしい」「環境にやさしい」は、とんでもない誤解であると著者は述べている。そうではなく「人間にやさしい」を目指すしか選択の余地はないのだ。

■時間加速システムとしての人間圏

この人間圏の本質は時間の加速にあると著者は考えているようだ。例えば移動手段の発達により、鉱物資源は世界中にいきわたる。地殻変動による移動とは比較にならない速度である。遺伝子操作の技術は生命進化さえも加速する。

地球環境に与える影響という観点で見ると、20世紀の質量変化は、およそ地球の歴史の10万年分に相当すると見積もられている。人類は1万年生きてきたが、さらに1万年生きるとすると環境には10億年分の影響を与えてしまう。

この加速の根本には「右肩上がり」の進歩、拡大という共同幻想が存在しているのだという。人類は人間圏は成長していると現状を認識している。だが、宇宙人の視点で、人間圏をとらえなおした場合、この幻想では行き止まりが近いことが分かる。

■今考えるべき問題の存在と材料の提示

著者はいくつか面白い提案をしている。人間圏が環境に求めているのは「物」ではなく「機能」なのだから、所有するのではなく自然から借りる、レンタル思想というコンセプト。長寿命型文明と短寿命型文明という選択肢。未来に理想を求めるユートピア思想と、過去に求めるアルカディア思想。知的生命は環境を認識することができると同時に破壊もするという文明のパラドクス論。均質な世界から分化していく過程が歴史の本質とする分化論など。この大きな視野で考えるための素材を提供してくれる。

著者は決して明確な答えを書いてくれるわけではない。語られる内容も厳密に検証した科学でも、統合された哲学でもない。ただ、我々の生きる世界がより大きな階層システムに何重にも取り囲まれていて、本当の問題は上のスケールから考えないといけないという事実に気づかされる。政治や宗教で対立するよりも、世界全体で宇宙人としての行き方、行く末を考えるべきだというメッセージのような気がする。詳細がもっと読みたい。

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2004年03月24日

基礎情報学―生命から社会へ

基礎情報学―生命から社会へ
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ついに西垣情報学という巨大氷山の水面下に隠れた体系が一般に語られた、という感想。
情報の大統一場理論へ出発点におかれた青写真として大傑作。

■情報の定義、観察者問題のその先へ

この本の情報の定義は以下のようなものである。

「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」
( a pattern by which a living thing generates patterns )

著者は、情報の本質を生命情報の意味作用と考え、機械情報を主な対象としたシャノン、ウィーバーらの古典情報論は大きな情報学体系の一面的な捉え方に過ぎないとした。そして「意味をつくりだす存在としての生命」から出発し、意味作用を担う情報が、社会的に伝達され記憶されていく基本的なメカニズムを根底から考察した。それが書名となっている「基礎情報学」である。

基礎情報学で最も基本的単位となる生命は、自らの構成要素を自らが内側から産みだし続けるような自律ネットワークを指す「オートポイエティック・システム」であると定義する。このシステムが、情報を解釈することで意味が生まれる。

解釈者/受信者である生命は、脳と心的システムを持ち、刺激や環境変化に応じて意味作用を行い継起的に、自らの構成を変えていく。ヒトのこころであれば、何かを知ることで、思考の内容が変っていく。生命の体験そのものである原-情報は、心的システムに解釈され、言語化シンボル化、記述されることで、「社会情報」となる。歩いていて転んで「痛いっ」と言うとき、転んだことが原-情報であり、痛いのが社会情報である。情報は生物が生きるうえでの価値、意義から生じている。

心的システムの変容過程は、生命情報を受信した生命と「構造的カップリング」という共犯関係にある観察者(受信者と同一人物でもありえる)の視点があって、意味を持つ。原-情報のままでは、意味がない。よって生物が誕生する以前の地球には意味がなかったということになる。

■情報は伝達されない

第2の情報である社会情報こそ、私たちが一般的に「情報」と呼んでいるものである。社会には意味を共有する「コード」が存在している。ほとんどの社会情報は言語を使って表されており、コードは言語システムや背後の制度、権力関係に規定される。

この部分はフーコー哲学の権力と言説の関係に似ている。私たちは自由に思考しているようでいながら、政治、経済、法律、家族などの制度、権力の制約・拘束に縛られている。

基礎情報学と一般通念が大きく違う部分として面白く感じたのが、基礎情報学では人から人へ情報は伝達”されない”としているところである。対話によって情報がAさんからBさんに共有されたとしても、決して同一の意味内容をAさんからBさんの心的システムへ複製ができたわけではないというのだ。過去の知識も考え方も異なる心的システム同士は、完全に意味を共有することはない。が、対話による情報伝達ができているという観察ができるとき、そこには、情報伝達ができたことと同義の「意味伝達の擬制メカニズム」を想定できる、とする。

つまり、人は本質的には分かり合えないが、分かり合えたことと等価の擬制こそコミュニケーションと呼んでいるものであるという意味になるだろうか。ここで、連想したのが随分昔に読んだ、次の本の一説だった。

柄谷行人「探究1」P50-より引用。
-----------------------------------------------------------------------
私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような《他者》にとって、成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、”文脈”があり、また”言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明できる。---規則、コード、差異体系、などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの跳躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。

この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ神秘がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そしてわれわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換における危うさを露出させるような他者でなければならない
-----------------------------------------------------------------------

情報や知識を他人と交換しようとして対話を始めるとき、私たちは、相手に分かってもらえるかどうか、事前には知りえない。とりあえず、話してみた結果、分かってもらえたり、そうでなかったりするのだ。文章やことばの分かりやすさ以前に、ことばの命をかけた跳躍というプロセスが存在している、という論である。基礎情報学にもコミュニケーションの偶然性という言葉がでてくるのだが、偶然性は跳躍のドラマなのかもしれないと思う。

■古典的名著になる予感、インターネットシステムに関する私的考察

基礎情報学は「マスメディアー機能的分化社会ー心」という階層構造を持ち、上位が下位を制約、拘束、規定しているとする。この本では、後半ではマスメディアやインターネット、ITによって溢れ始めた機械情報の意味について考察が行われる。個の立場から社会、マスメディアに至るまでを、一貫した理論で語り、遂には大きな情報学の体系の円環を完成させる。

部分的に語られることの多かった著者の情報論の氷山の下に埋もれた基底部分がいかに大きくて精緻なものかに圧倒される。読後、しばらく知的な感動で声もでなかったくらい。素晴らしい本で、10年後、20年後にも、この本は古典的名著で、情報学を学びたい人にとっての、考えるための起点となる教科書であり続けるのだろうなと思った。

だが、ひとつだけ、最終章近くの「インターネットのつくる現実ー像」の、おまけ的部分だけがどうしても納得できなかった。


基礎情報学ではインターネット・システムをいかにとらえるのであろうか。当然ながら「インターネット・システム」とは、インターネットのハードウェア/ソフトウェアのことではなく、「インターネットコミュニケーション(インターネット上で交わされるコミュニケーション)」を構成要素とするオートポイエティック・システムである。その連辞的メディアは「テーマ」であり、二値コードは「刺激的/非刺激的」であると考えられる。マスメディア・システムとは異なり、視聴率や販売部数のような明確なプログラム(二値コードの判定基準)は存在しないが、刺激的でも論争的でもないコミュニケーションは周囲から無視され、後続するコミュニケーションが生成されない。(以下略)

本当にインターネットでは「刺激的でも論争的でもないコミュニケーションは周囲から無視され」ているだろうか。90年代中盤であればその傾向は強かったかもしれない。だが、最近のインターネットの状況を考えると、私にはそうは思えない。ある程度のネットのリテラシーを持っているユーザは、裏情報的な刺激情報には距離を置くし、コミュニティにおける挑発的な発言には返事をしないはずである。

本当の二値コードは「共感可能/共感不可能」ではないかと私は考える。

著者の言う階層システム構造において、心的システムを規定しているコードは、2ちゃんねる的な言葉を使うならば、「オマエモナー」であり「ワタシモナー」なのではないか。インターネットユーザは、マスメディアが提示する少数の識者の意見を与えられるのではなく、ネット上に広がりを持つ無数の意見群の中から、自らが共感できる情報を選択する/他者が共感する情報を選択発信するのではないか。

インターネットが持つ潜在的脅威でありパワーは、集団ヒステリー、集団妄想のカタストロフではなく、歴史的に通常サイズ(この本にある数字では150人)のコミュニティ規模を超えた巨大な集団による、理性的且つ、ある程度は知的な、しかしテンポラリなシンパシー、臨時的な連帯を作り出してしまうことにあるような気がしている。スマートモブズ、「祭り」現象がそれに当たる。これらの背後にあるのは、刺激による過剰反応や熱狂的な論争ではないだろう、と思う。

・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

・情報検索のスキル―未知の問題をどう解くか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000616.html

と絶賛してみましたが、「本当にオマエそう思ったか?」と各所よりツッコミを頂きまして、素直なもうひとつの書評を読みたい方は、次をクリックしてみてください。


■これは学なのか?もうひとつの素直な感想

というわけで、個人的には大変面白かったのですが...。

表向きには絶賛のみだったのですが...。

もうひとつの素直な感想として、「こころの情報学」の読後感と同様に、これは名人によるジグソーパズルなのではないか、と感じました。さまざまなベクトルも粒度も異なる理論を、「この部品はここにうまく納めることができる」と整理して、ついに手持ちのパーツをすべて枠にはめこんで、見えてきた絵に、「基礎情報学」という名前を名づけて見せた。そんな感じもしました。 体系化指向の本ですが、本来はバラバラだった断章である理論の接合なので、これが体系かというと、よく分かりません。

「情報の大統一場理論へ出発点におかれた青写真」という宇宙論的野望のもとに書かれたのだと思います。内容の性質上、検証は難しいし、青写真に対して精緻さを論じても意味がないと思います。そういった意味ではこれは本当に「○○学」なのかというと疑問符もつくのですが、スケールの大きさとパズル解きの名人による技の妙に、ワクワクしながら読んだ一冊でした。学者ではない私にとって、文学も科学も実用書も、本は面白いかどうか、で評価しています。そういった意味では大統一場理論は大変面白い価値のある本です。

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2004年03月11日

対称性人類学

・対称性人類学 カイエ・ソバージュ
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名著。現代思想に関心のある方は絶対のおすすめ。

コンピュータは0と1で考えると言うが、根源にあるのは2つの項目を操作する「二項操作」「二項論理」である。コンピュータを生み出した人類の思考も、同じ論理にもとづいているという考え方がある。例えば人類学者のレヴィストロースは、神話の研究の中で、世界中の神話の物語には共通する構造があることを発見した。良いことや悪いこと、悲しみや喜びの感情など、ふたつの対立する事柄を補い合うような隠れた数学的構造が、神話のストーリーを形作っているという説である。この構造は、神話だけでなく人間の文化に広くみつかり、隠れた構造に本質を求める構造主義哲学の端緒となった。

二項の関係は、対称か非対称である。数学や科学は非対称の世界である。あるものが存在すると言うことは、それは別のものではないということを意味する。現代人はアイデンティティを大切にする。アイデンティティもまた、自分が他のものではないという非対称の性質を帯びる。何かを所有すれば、それは他者のものではないことになる。動物と人間、人と神、男と女は違う。あるものはあるものを支配する。動かす。操作する。現代の世界は非対称の論理にあふれている。

神話の世界は、同じ二項操作を用いながら、逆の世界をつくりあげている。人間と動物の区別がなく、人と神が同じで、生と死の世界にも境界がない。単一の価値尺度はなく、すべては多元的、重層的な意味を持つ。それゆえ、神話は近代小説と比較すると、あまりに物語が突飛で、論理的矛盾を内に孕んでみえる。神話は科学とは異なる、対称性の論理で記述されてきたからだ。

科学や近代型宗教のなかった時代に世界を説明しようとしたのが神話であるならば、神話は最古の哲学であり、科学である。そこには人間のもうひとつの「野生の思考」を見出せると著者は考えた。著者はここに「対称性人類学」という名前を与え、二項操作の仕組みを見直すことで、古典的な構造主義を超えて、新しい世界観を開拓できるとした。

この本は、宗教学者、中沢新一が大学における講義をベースに出版した名著カイエソバージュシリーズの最終巻である。神話の構造、贈与と交換の経済、神という概念の成り立ち、権力と国家といった既刊で扱ってきたテーマを遂にひとつに統合し、思想や宗教が人類の未来にとってどのような意味を持ち得るかを考察した集大成である。

南米アマゾン流域のグアラニ族には<一>を悪とする哲学があるという。滅びうるすべてのものが<一>なのだという。私たち現代人はすべてに一方的にひとつの意味を与えようとする。三大宗教も唯一神の教えをもち、文化人は真・善・美のような一元的価値観を、社会にはりめぐらせることを良いことを考える。だが、この考え方の基底となる「Aは非Aではない」という当たり前の思想が、グアラニ族にとっては諸悪の根源である。それゆえ王も政府も国家も生まれることはなかった。彼らは野生の思考の実践者たちである。

近年の認知心理学や脳科学の進歩によって、無意識が意識を強く支配していることがわかっている。無意識にはまだ野生の思考である対称の論理が根強くいきづいている。それは、意識回路の壊れた分裂病患者の行動や思考を研究することでも実証される。生後間もない赤ん坊を観察しても分かる。夢もまた同じ。私たちは、無意識のレベルでは自己と他を区別していない。Aは非Aでもあり、部分は全体であり、過去は現在であり未来でもあると考えることができる。

贈与と交換に関する分析もある。現代の経済原理は等価の交換である。同じ価値のあるものを貨幣を使って交換しようとする。この交換は、持てるものと富むものを分けてしまう非対称の論理の典型であるとする。貨幣が仲立ちをすることで、人と人との絆も分離され、ものの価値は一元的な価値に還元される。こうして非対称の論理が加速することで、人類の世界は「進歩」をしてきたと同時に大きな矛盾を抱えつつある。これに対して「未開の」部族でみられるポトラッチのような、持てるものすべてを使い果たす贈与交換は、一元的価値を解体する行為である。またその行為自体からも多元的で流動的な意味が生まれる。現代の下部構造としての経済を超越した新しい経済の可能性を著者はここに模索する。

9.11事件が中沢新一にとっても対称性人類学を考える大きなきっかけであったらしい。近代宗教でありながら内に対称性の論理を秘めた仏教に関する考察や、近代に登場した「幸福」概念の批判などにも紙幅をとっている。背後には一元的価値観がもたらした政治、経済、社会の問題を危機意識として始まった研究ではあるようだ。だが、宗教学者、思想家らしく、それらの問題に対する直接的なコメントをするのではなく、敢えて、広い学問領域から、対称性、非対称性の持つ事例を集め、ひとつの哲学として結実させつつある。

中沢の本はほぼすべて読んでいるが、表現が文学的でそれが読者を限定している気もする。この本も、対称性の持つ豊かさと未来性を謳いあげた詩のようにも読める本である。精霊の王という傑作を出版した直後に、この本を続けて世に出せる思想家としての力量と意欲が、彼の活動において頂点に達しつつある気がする。次に何を語るのか目の離せない私の憧れの人。すべてが深い。いい。この濃い本の内容をうまく説明できたかわからないが、手放しの絶賛の意の書評。

・関連:同じ著者の「精霊の王」の過去に書いた書評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html
・関連:同じ著者のカイエソバージュ「神の発明」の過去に書いた書評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

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2004年02月19日

こころの情報学

こころの情報学
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■情報論のパズルを完成させる本

情報学、動物行動学、人工知能、現象学、言語学、社会学のキーワード(例えば、アフォーダンス、フレーム問題、オートポイエーシス、など)を総合し、情報という視点から人のこころを説明する本。情報科学のキーワードが無数に登場し、著者は本来、別次元である、それらのキーワードをパズルのように見事に組み合わせて、人のこころの意味を考えていく。情報科学好きにはたまらないワクワク本。

私が読み取れたこの本の概要。

著者は、情報を「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」と定義している。すなわち、心(あるいは心的システム)を持つ生物がいなければ、情報は存在しないという<生命情報>の立場に立つ。つまりヒトや動物がいないと情報も存在しない。

これに対するのは記号の意味が捨象された<機械情報>の世界であり、記号の伝達と効率のみの世界。コンピュータ同士の情報のやりとりや、意味が固定化された社会の情報を指す。(思うに、セマンティックWebが扱うのは機械情報である。)

この生命情報を処理するのが、心的システム(あるいはこころ)であるとする。認知活動により意識にのぼる情報のパターンが、言語の意味作用や、他の情報との出会いにより、ダイナミックに変化する遷移のプロセスが「こころ」の正体という定義である。

こころはオートポイエーシスの性質を持つとも言う。オートポイエーシス(自己創出性)は、このメディアアート「顔ポイエーシス」を見るとわかりやすいと私は思ったので紹介。(この本で紹介されているわけではないです)

・『顔ポイエーシス facepoiesis』と遺伝的絵画(Genetic Paintings) について
http://www.renga.com/facepoiesis/tabula/index.htm
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人が描いた顔の絵を交配し、別の顔を生成していくプログラム。元の顔のパーツや配置の要素情報が遺伝子として引き継がれて、無数の顔が増殖する。これらの顔の中には、描き手が将来描くかもしれない顔までもが含まれているかもしれない。

つまり、外部環境の情報(人が描いた絵、前の世代の顔)を取り込んで、何らかの選択パターン(遺伝メカニズム)を使って、自律的に新たな意味(顔)を生み出し続ける性質がオートポイエーシスと説明できると思う。

こうして定義された、「こころ」と、言語、社会、環境、技術、インターネットなどとの関係が説得力ある統合として語られていく。広い研究領域の成果が次々に紹介されては、このキーワードはここに組み込める、といった風に、パズルが完成されていくプロセスは知的好奇心を刺激されまくり。

電車を乗り過ごして最後まで読んだ。一般向けに書かれた本だが、一通りのキーワードは事前に理解しておく方がわかりやすいとは、思った。私は今、知識不足で不明で残った部分を勉強中。

この著者の西垣通教授の著書は、情報を考える上でいつも啓発される。理系のはずなのに文系の領域にも詳しく、現代思想まで踏み込んで現代を論じるすごい人。思想だからか、この本は5年前の本だけれど、まるで色褪せていない。

・東京大学 西垣研究室
http://www.digital-narcis.org/nishigaki/

西垣先生とは、4年前にパネリスト参加したイベントで司会をしていただいていたことに、裏表紙の写真を見て気がつき愕然とする。このイベントの第一部は先生の独演会「ネット社会の新しいパラダイム」。当時、まだ著書を読んでいなかった私は、自分の出番の準備をしながら、ポカーンと聞いていたけれど、今この議事録を読んでやっと内容がわかった。

ああ、もっとお話しとけばよかった。今度何かでお会いできる時のために他の著書も読んでおこうと。

・デジタル社会の光と影
−これからのネット社会の新しいパラダイムを探る−
@情報通信総合研究所
http://www.icr.co.jp/newsletter/report/2000/crisis/1-0.html

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2004年02月08日

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学

・「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学
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■わかる?

個人でも企業でも、コミュニケーションにおいて「わかる」ということが、すべての基本にある価値ではないかと思う。「わからない」ものは面白くないし、使うことができない。

学校教育は、学年を追うごとに学問の内容が高度で複雑になっていく。前の学年で「わかる」ことを部品にして、難しいことを構成していく。このやり方にも一理ある。やさしいことを組み合わせて難しいことを語っていく。

しかし、この「わかる」ことの積み木方式では、常にわからないことがある。小学生は中学生の内容がわからない。高校生は大学生の内容がわからない。そして大学生は社会人の内容がわからない。社会人は今度は専門家の内容がわからない。

中学生の頃、理科の教師が言った言葉がずっと記憶に残っている。「君たちは大人になったら答えのない問題とぶつかるようになる。そういう問題を解けることが大切だよ」。正解のある練習問題と試験の毎日に、私もはやく大人になって、そういう問題と取り組みたいものだと思っていた。

大人になったら、本当に答えのない問題ばかりだった。学校教育的には、「わからない」ことだらけだが、「わかる」には他のパターンが、たくさんあるのだと漠然と知ったが、どういうパターンなのか、幾つあるのか、モヤモヤしていた。

この本は、脳を専門とする医学博士が、わかることの意味を解説する本である。私のモヤモヤに答えを与え、わかった気がした本。

■わかるの種類と、大きな理解

まず理解の前提となる認知や記憶のメカニズムも詳しく語られる。実はこの部分が最もデータも多くて、参考になる部分と感じた。そして、この知識の上に、わかることの説明が構築されていく。

この本は、「わかる」には幾つかの種類があるとして次のように分類している。

・全体像が「わかる」
・整理すると「わかる」
・筋が通ると「わかる」
・空間関係が「わかる」
・仕組みが「わかる」
・規則に合えば「わかる」

著者は脳が専門なので、上記の分類は恣意的ではなく、脳の機能にもとづいた分類に近いようだ。

例えば、大脳に障害が起きた人の中には、線で書いた立方体が平面的にしか見えず、描くことができないケースのあることなど、脳の機能不全によって特定の理解が困難になる例が挙げられている。このリストは、情報システムの設計や、データの可視化、わかりやすい文書の作成など、今の自分の仕事に使えそうだと思った。

著者が本当に伝えたかったのは最終章の「より深く大きくわかるために」だろうと思う。「わかる」にも水準があるというテーマで、著者の自論が展開される。大局を理解したり、深く物事を知ったり、悟ったりという話。

・大きな意味と小さな意味
・浅い理解と深い理解
・重ね合わせ的理解と発見的理解

この本はノウハウ本ではないので、わかりやすくするにはどうしたらよいかという話はあまりでてこない。タイトルどおり、わかるの意味が知りたい人に、専門家が一般向けに書いた入門書。

■文章の簡単化の技術「よめるどっとこむ」

このサーバの同居人のshimaさんは、わかるの重要性に注目して、オンラインの文書をわかりやすくする技術を大学研究している。(春からの海外留学おめでとうございます。)
Webのニュースに、ルビを振る。マウスを単語の上に乗せると、コミュニティ形式で編纂する辞書プロジェクト「WikiPedia」の定義データを引っ張ってきて、ポップアップ表示する。

よめるどっとこむ(2週間限定公開)
http://www.yomeru.com/
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・本格会議のために作成してもらったプレゼン資料
Download file

・過去関連記事:テキスト簡単化と図表化のテクノロジー
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000692.html

現在2週間の実験公開中で、読者が読んでわかりやすいと感じるかどうかの感性評価を収集している。大人はもちろん、就学年齢のお子さんのいる方は、アンケートにご協力してあげてください。

■外来語言い換えのその後

私も以前、そういえば、こんな記事とソフトを書いた。国立国語研究所の外来語言い換えデータを使って、任意のテキストを、わかりやすく変換するプログラムの話。

・外来語言い換えプログラムとVBScriptのススメ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000595.html

それで、この記事を書いた直後に、


・外来語をルビ振ってみる
〜分かりにくい外来語を分かりやすくするための表現の工夫〜
http://kudokugoya.net/gairaigo/index.jsp

「外来語言い換えプログラムとVBScriptのススメ」に刺激を受けて、「外来語に
ルビ振りする」ものを作ってみました。↑のURLがそれです。

というメールを読者の方から頂いていた。ご紹介するのが大変遅れてすみません。

自分の記事が誰かに伝わって、さらに高度なプログラムを作ってくださる方がいるなんて、感動。

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2004年02月04日

ミシェル・フーコー

・ミシェル・フーコー 講談社現代新書
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政治専攻の学生時代にフーコーは夢中で読んだ。今もフーコーの考えたことの1%も理解できているとは思わないが、定期的に読みたくなる。この本は異能の哲学者ミシェル・フーコーの解説書。原典や位置づけを知っている読者向けに書かれた再入門書の趣き。

ITとの接点を無理やりこじつけようとしながら、読んだ。考えたこと。もし学校の試験でフーコー」について興味のあるところを中心にまとめなさい」と言われたら答案に書く内容を書いてみる。

■エピステメ

エピステメをどう訳すかは人によって異なるが、個人的にしっくりくるのが「視座」という訳。もしくは思考の台座。(この本では特に訳されていない)。

昔の「中国の百科事典」にはこんな動物の分類があったそうだ。

動物の分類:
 a.皇帝に属するもの
 b.芳香を放つもの
 c.飼いならされたもの
 d.乳呑み豚
 e.人魚
 f.お話に出てくるもの
 g.放し飼いの犬
 h.この分類自体に含まれるもの
 ...(以下略)

今の私たちからすると、これは分類とは思えないが当時の編集者や読者は、この分類で世界を見ていた。重複や矛盾、hなどはメタレベルの混乱さえ含んでいる。西欧においても17世紀頃までの自然を対象とした記述は、物事の類似や、印象、神話や昔話と結び付けられて語られた。観察、記録、寓話の混沌とした記述。それが自然を語るタブロー(表)だった。

1657年のヨンストンスの「四足獣の博物誌」は違うやり方をした。足が4本あるとか、夜行性だとか、30センチくらいだとか、草食だとか、動物の世界固有の要素に着目して、分類を行った。

18世紀、リンネが「記録すべきものは、数、形、比率、位置である」とし、動物の器官を構造と捉えた。眼に見えるものばかりだが、色彩、匂い、触覚などその他のものは排除される。伝説にどのように扱われるかは関係がない。4つの要素だけで世界を文節化する灰色の分類。博物学の始まり。

そして18世紀末になると、動物の諸器官の構造が織り成す機能、眼に見えない本質が記述の中心となる。表(タブロー)は系列(セリー)に置き換えられて、博物学が生物学へ進化した。

フーコーの言うエピステメは、それぞれの時代に生きる人々が、思考の外(フーコーの言葉では<外>の思考)にあるものとの関係性で、人間の思考が規定されているということだと思う。私たちは「中国の百科事典」の分類を笑うが、今の私たちの分類が数百年後、笑われないとも限らない。

フーコーは<外>の問題を言語や狂気、政治権力、セックスといった多面的な視点から分析して行く。一見、無関係そうに見える周辺的なそれらのテーマから、人間主体の本質、大きな哲学問題へと深く深く、切り込んでいくスリリングな語り。私がフーコーが好きな理由である。

<外>は、人間にとって見えず、思考不能で、永遠に到達できないものであるが、<外>と<内>が相互に影響しあう歴史の中で、エピステメという思考の台座を作り出す。この本ではその変化を「分解とずれの累積による一種のカタストロフィーを通して、トポロジカルな形態の変化、切断、異動」と説明している。

ITに絡めると、セマンティックWebの世界で重要視されている分野に「オントロジー」がある。オントロジーは、私は勝手に「概念のデータベース」と超訳して人に説明しているが、分類体系の記述をする情報技術である。

オントロジーの記述をXMLで行う技術はいくつもあり、標準化が進んできている。

・OWL
http://www.w3.org/TR/2003/CR-owl-features-20030818/
概念関係の記述方式
・TopicMap
http://www.topicmaps.org/
これも同じく。
・CYC
http://www.cyc.com/cyc/opencyc/overview
老舗オントロジー研究企業。6000概念のオントロジーがダウンロードできる。データセクション創業後、最初にやったのがこの無料公開のUpperClassの可視化でした。ちょっと懐かしい。

オントロジーはWeblogのRSSなどXMLメタデータの親玉みたいな存在であると思う。この出来次第で、セマンティックWebのその先の世界が変ってくると考える。セマンティックWebまでは、機械が読めるメタデータを作ろうというレベルなので、必ずしも普遍概念の体系を持つ必要はない。だから、技術分野の趨勢としては便宜的、簡易的、実用的な概念体系の記述方式が優先されている。

だが、それでは本質的な問題を先送りしているように見えなくもない。

オントロジー記述言語に交換(変換)機能を持たせて、ある分類とある分類を合体させたり、翻訳したりするとしても、それらを規定している普遍概念の存在や、それを規定する<外>がいつか露呈する。エピステメの問題を考える哲学者が、セマンティックWebやオントロジーの標準策定に、そろそろ必要となってきている気がした。

■パノプティコン

フーコーというと私は一番に連想するのがパノプティコンである。18世紀のジェレミー・ベンサムによって考案された「理想的な監獄建築」である。実際にはこれそのものは建設されていないと思う。

ドーナツ状の建物とドーナツの輪の中心に塔を配置する。ドーナツ状の建物は独房が分割配置されていて外周、内周どちらにも窓がある。塔にも監獄を監視するための窓がある。光がこの構造物の外側から入ると、逆光によって独房内の囚人のシルエットを中央塔の監視者は見ることができる。しかし、囚人は監視者を見ることができないようになっている。

囚人は個別化され互いに連絡できない。常に監視者から見られているのではないかと意識する。フーコーはパノプティコンのモデルを使って、権力がいかに効率よく影響力を発揮しているか、を語る。囚人たちは、見られているかもしれないという意識から、自分の精神の内面へ逃げ込む。権力との関係から、個人の内面=主体が発生する。

パノプティコンをインターネット(コミュニティ)と見ることは簡単であるし、現代の思想家も試している。監視社会とはいっても「ビッグブラザー」のように明示的に本当に監視する権力、余さず記録するモニタリング機構は必要ない。そんなコストは必要ないのだ。

見られているかもしれないという意識、内面にある監視の眼による自己監視の作用だけで、権力はフルに機能する。

この本の訳では、フーコーのいう「機械仕掛け」のポイントを3点にまとめている。

1 権力の行使が非常に経済的であること
2 権力が没個人化されていること
3 権力が自動的に作用すること

国家に限らず権力のネットワーク監視は進んでいる。インターネットは自由の象徴という時代も終わりつつあると、最近のニュースを見て感じる。むしろ、権力にとってインターネットは、パノプティコンとして機能するのではないかと思うくらいだ。

ただパノプティコンの考え方は、幾つかのアイデアを加えれば、ネットワーク上でのモラルを維持する仕組み、コミュニティの浄化機能として、活用することもできるのかもしれない。そんなことを考えた。


この本は、入門書ではなく、再入門書として要所がまとめられており、数時間くらいでフーコー思想の俯瞰をするのに良い本だなあと感じた。なお、今日のまとめ、要約は私の知っていることの要約であって、この本をそのまま要約していない。この本にはもっとまともにフーコーの体系を総合している。間違ったことを書いていても私の責任である。

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2004年01月07日

動物と人間の世界認識

・動物と人間の世界認識
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ドイツの動物行動学者のユクスキュルが1930年代に唱えた「環世界」についての考察の本。ITのことは無論言及されていないのだが、つながりを考えながら読むのが楽しかった一冊。

■ユクスキュルの「環世界」

私たちヒトは五感で世界を認識しているが、動物によって感覚の内容は異なる。ヒトにはない感覚を持つ動物は多い。コウモリは超音波を認識できるし、アゲハチョウは紫外線を認識できる。逆に感じることができないものもある。ハエは50センチ以上先は見えなかったり、ワニは動いているものしか認識していない。モンシロチョウは赤が見えない。イヌは色が分からないので、盲導犬は信号を認識することはできない。そんな感じで種が異なれば、感覚できるものとできないものがある。

感覚できればよいというだけではない。ヒトも動物も生活に必要なものしか見ようとしない傾向がある。この本によれば、ハエは50センチの視野で食べ物と光しか見ていないだろうから、ヒトが見る部屋の認識とはまるで別物の世界に住んでいるはずだとしてハエの見ている世界のイラストを描いて見せてくれる。

感覚入力の内容をどう理解するかもだいぶ違っているらしい。トリはヒナを大事にしているが、ヒナをガラスの壁で密閉してしまうと、中で泣き叫んでいても助けに行こうとしないという。ヒナの泣き声がしないから、ヒナを認識できないのだそうだ。

生存や競争に必要なものしか動物は見えないし、見ようとしていない。そういう種ごとに異なる世界認識を「環世界」と呼ぶという。環世界の中で私たちは世界そのものではなく、イリュージョンを見ている。イリュージョンを生きている。

■ソフトウェアの世界認識

「環世界」の概念で面白いなと思うことに、ヒトも動物も日常生活では、自分は完璧に世界を認識していると信じていることだ。紫外線と赤外線の間の僅かな波長の色しか、ヒトは見ていないにも関わらず、感覚に不足はないと思って生きている。

同じことをソフトウェアのプログラミングの際に感じることがある。

例えば古典的な検索エンジンは、ロボットがリンクをたどりながら、世界中のWebページの情報を集めて回っている。このロボットは一般的に、テキストデータを集めているだけである。ロボットは自分自身の能力を疑わない。

ロボットにとって、芸術的にデザインされた美しいページと、そっけないページの間に差はない。文章の内容は単語の羅列としか認識しないから、重大な犯罪予告のページを読んでも特別なものとは感じない。長いテキストのうちどこが重要な主題なのかも理解することがない。

そこで、プログラマは、ソフトウェアがレイアウトの種類や、やばいキーワードや、テーマをみつけるような仕組みを実装する。特定のHTMLタグで囲まれた場所を発見したらそこはタイトルであるとか、危険なキーワードがあったら人間に報告するとか、単語の発生頻度の統計から、意味を取り出し重要キーワードを発見するように開発する。

いわばプログラミングというのはソフトウェアの「環世界」を作っているようなものと思う。特にWebページを解析して意味を見出す次世代のWeb技術「セマンティックWeb」は、人工「環世界」を拡張していくことだと考えられる。

進化の過程で動物の「環世界」は、個体の環境に対する適応度を最高にするように設計されているらしい。自然淘汰と突然変異の中で、必要な情報だけを取り出すように感覚器官や脳が発達したわけだ。この進化の過程はソフトウェアの設計に取り入れたら面白そうではある。

■遺伝的プログラミングで「環世界」強化ができる?

最近関心を持って勉強している技術に「遺伝的プログラミング」がある。遺伝の「適者生存」の仕組みを使って最適化を行う手法で、フリーのライブラリもある。あまりネットのエージェント開発に使った話を聞かないので、そのうち実験で遊んでみたいと思っている
・洗練されたPerl:Perlでの遺伝的アルゴリズムの使用
http://www-6.ibm.com/jp/developerworks/linux/011123/j_l-genperl.html

・遺伝的プログラミング・ライブラリー Ruby/GP
http://akimichi.homeunix.net/~emile/aki/program/gp/index-ja.rhtml

・遺伝的プログラミングを用いた画像認識アルゴリズムの自動生成
http://chihara.aist-nara.ac.jp/public/research/thesis/master/2002/shiromaru0051047.pdf

遺伝的プログラミングで人間の顔や手書き文字を学習して認識する研究。

「本研究では,広範囲の対象に利用できる画像認識システムを提案した.また,本研究で提案したシステムを作成し,手書き仮名文字画像と人の顔写真画像を対象として認識実験を行なった.その結果,手書き仮名文字画像では90.5%,人の顔写真画像では100%で認識を行う画像認識システムを自動生することができ,タイプの異なる画像に対して単一の手法を適用して画像認識ができることを示した.」


いつのまにか技術の話になってしまったけれど、この本は情報に関わる人一般にお薦め。

この本の著者はイリュージョンのことを「色眼鏡」とも形容している。ヒトも動物もそれぞれが違う色眼鏡を通してしか世界認識が出来ないという。そうかもしれない。眼鏡をはずしてすべてを見てしまうと「あっちの世界」のヒトになって戻ってこれない、そういうことかな。

評価:★★★☆☆

関連過去記事:
・アフォーダンス-新しい認知の理論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000364.html


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2003年10月18日

神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 講談社選書メチエ

・神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 講談社選書メチエ
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気鋭の宗教学者 中沢新一の著。大学での講義をまとめたもの。

マイブームである「要約」の練習を兼ねて最初に概要解説。さすがにこの要約作業は今のソフトウェアではできまい。(長い要約の後、デジタル系のネタに落ち着くのでご安心を?)。

私はこう読んだという要約(ちゃんとした要約はAmazonの解説のほうがいいかも)

深い瞑想、熱狂、薬物トリップ、電気的刺激などによって、世界中の民族が共通する形状の抽象図形パターンを幻視するという。「内部視覚(リンク:entoptic formsの例)」と呼ばれるこのパターンは、旧石器時代の洞窟壁画にも、現代のインディアンや、アマゾンの森深くに住む部族の神聖な絵にも同じく登場する共通のカタチなのだという。普通の人でもこれを見るには目を閉じてまぶたの上をしばらく少し強く押さえればランダムな抽象模様としてこれに近いものを確認することができるかもしれない。このパターンは、意味を持つイメージ、言語化される以前の、人間の脳の深奥の情報の流れに由来するもの、つまり、情報伝達物質ニューロンの発火現象と深いつながりを持つものと考えられるそうだ。

この内部視覚という、はたらきが、宗教の超越体験と密接な関係があり、そこからスピリット(精霊)という概念が生まれていった。スピリットは、やがて多神教の神々を作り出し、その中でも高級な位置づけの「高いところにいる天の神」や、「外部からやってくる来訪神(マレビト思想)」、「おおいなるもの、グレートスピリット」や、ついには、絶対的な唯一神=Godを作り出す。王権や社会制度と強く結びつくことで、唯一神の思想はキリスト教や西欧文明の影響力にのって、世界に広がり、現代物質文明においては「政治・経済・社会のグローバリズム」という怪物に変身する。よくも悪くも世界を支配している、この現代の神も、もともとは内部視覚が生んだスピリットであり、生物的な構造が必然的に作り出したものということになる。

神々(または唯一神)のカタチがここまで多様になったのは、原初のスピリットのカタチが歴史の中で、繰り返し特定の変換ロジックで変容された結果である。そのカタチの変換は、「メビウスの帯」や「トーラス(ドーナッツ構造)」といった物理トポロジーを使うと説明がつく。表裏の区別(生と死、あの世とこの世、善悪、清濁)が連続する象徴であるメビウスの帯。いくら表面を言葉で埋め尽くしても、中心の空間(神)を語りきれないトーラス。これらのトポロジーを使ったカタチの変換が民族コミュニティにかかる自然環境や社会の圧力によって強力に推し進められた。私たちの生きる現代は、ついには圧力によって神を殺してしまった結果、自然に対する畏敬や、分かち合いや、内から湧き上がる原初的エネルギーを失った。代わりに、米国大統領が自らを正当化する破壊的な「善」や、科学という知の万能主義、物質化されたスピリットとしての「商品」が世界を埋め尽くしている。未来の「神」に希望を見出せるとしたら、それは私たちの心にかすかに残った野生のスピリットのはたらきをもう一度見直すことから始まるだろう。

以上、要約終わり。

とまあ、ざっとこんな感じの内容だ。世界の文化に見られる共通性の豊富な事例紹介や、物理トポロジーを使った変換の仕組み解説の巧みさ、イメージを広げやすい写真やイラストのビジュアル挿入といった仕掛けが、中沢の学生への語りかけ口調にテンポよくマッチしていて、学生気分でワクワク読めた。中沢の思想は、過去を振り返る宗教思想史ではなく、今の視点から未来も見据えた現代の宗教論となっているのが、いいなと思う。

で、このBlogネタ的に落とし込むと、分散協調するソフトウェアエージェント(AI)たちは、神の夢を見ることができるだろうか、というテーマになる。人間の脳と心を完璧にAIが模倣をしようとするなら抽象化の重要な過程である、神の概念の生成プロセスを避けて通ることはできないはずだと考える。

内部視覚の源となるニューロン発火のソフトウェア・シミュレーションができれば、中沢の言うトポロジー変換関数にかけることで、ビットの世界にも「神200X」(紙2001にかけてます、てへ)を現出させることも可能なのではないか。

私たちは、精神性の世界と、ビットの世界を遠く離れたものと考えがちだ。だが、ネット上にはバーチャルな御参りができるお墓や寺社、伝道ツールとしてのWebサイト、追悼サイト、自殺コミュニティといった精神性のパケットも流れ始めているわけだから、世代を重ねれば、ふたつの異世界の調和を受容する方向へ向かってもおかしくないのじゃないか。

私は無宗教であるが、誰も見ていないとしても、位牌につばを吐きかけられないし、お墓を蹴飛ばすことはできない、抵抗がある。何らかのスピリットの実在を感じていることになる。それと同じように、死んでしまった人の笑顔のデジタル写真ファイルやホームページファイルを、「ゴミ箱」に入れるのも少し抵抗を感じる。これって自然な感覚ではないか?そしてビットにスピリットを感じ得るという未来の宗教、精神文化の予兆と考えても、おかしくないのではないか。

最後に参考になるかならないか分からない参考URL。

・ネット墓参り
http://www.i-can.jp/nethakamairi.htm
ここにユーザがいるとすれば少なくとも契約者たちは画面に何らかの「スピリット」を感じていることになる。

・電子写経 本願寺大谷WEB
http://www.honganji.net/syakyou/index.html
PCで写経

・観音院
http://www.kannon-in.or.jp/
メールで参拝、バーチャル霊園

・ネット葬
http://www.d-uso.to/etcuso/funeral/netsou.htm
「ネット葬」は、故人のご遺骨の一部(あるいは全部)をポリゴン化(CADデータ)し オンライン上へ発信するメモリアルサービスです。(嘘だけど発想として)。

・神社のインターネット利用は進む? 矢先稲荷神社で研修会開催
http://www.watch.impress.co.jp/internet/www/article/980820/jinja.htm
寺社界インターネット利用の展望と問題点

・Archive for Religions in the Internet
http://ari.ijcc.kokugakuin.ac.jp/
国学院大学。「宗教と社会」学会「情報テクノロジーと新世代の宗教的インタラクション」プロジェクト有志による「宗教情報アーカイブARI」

・私の書評:脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html

評価:★★☆☆☆

Posted by daiya at 03:24 | Comments (0)

2003年10月02日

レヴィ=ストロース―構造 現代思想の冒険者たちSelect

・レヴィ=ストロース―構造 現代思想の冒険者たちSelect
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学生時代夢中になった構造主義人類学者レヴィ・ストロースにまた触れる。いくつか今のITの仕事にあてはめて考えることができそうなテーマをみつける。たとえばブリコラージュというテーマ。

ビジネスマンにとって情報は今使える情報こそ重要な情報である。たとえそれが首尾一貫したものでなく、断片的なものであっても、それらを組み合わせて、顧客を、上司・部下を、株主を説得できればビジネスの目的は達せられる。研究者が必要としているような一大論理体系は、むしろ、理解するのに時間がかかって面倒であるし、そこまで知って何になる、と敬遠されがちだ。

Webで手早く情報を拾って、作成中の企画書をまとめあげる。経験のある仲間に聞いて目処をつける。前年度の資料を参考に、勘を使って数字を手直しする。ビジネスマンが日常必要としている情報処理というのは、研究者のそれと違って、目の前にある仕事を片付けるということに向かっているわけだ。

レヴィ・ストロースの造語に「ブリコラージュ」(器用仕事)という言葉がある。本来は未開の部族が、少ない手持ちの道具や素材を上手に使って、必要なものを作り上げてしまう手仕事のことだ。ブリコラージュは学者や職人のプロフェッショナリズムとは対をなす、生活者の熟練の知恵であるが、現代において上手にITを使いこなす人たちと言うのは情報ブリコラージュの達人と言えるのではないか、と思う。

・器用に検索エンジンを使って、情報をまとめあげる仕事
・フリーのツールを多数組み合わせて文書処理を行う仕事
・オンラインの情報を肴に原稿や企画書を半時間で書いてしまう仕事
・専門外の質問にもネットワーク経由で識者に聞いて解決する仕事
・手持ちデータをネット情報で補強して翌日のプレゼンを切り抜ける仕事

一般にこういうことができるビジネスマンはネットを使いこなしていると言えるだろう。こういった作業をするのに情報学を学ぶ必要はない。少ないリソースでどうにかする経験の積み重ねの上に、ブリコラージュのヒューリスティックは蓄積されていくものだ。実際、いわゆるITの達人、PCの達人と呼ばれる人たちの多くは、使いながらスキルを身につけているケースが多い。

知識がないだとか、ツールがない、予算がないとか、何かがないことをできない理由にしちゃあいけないってことだなあと思う今日この頃。

評価:★★☆☆☆

Posted by daiya at 02:15 | Comments (0) | TrackBack

2003年09月05日

場の思想

場の思想

私も参加させていただいている日経BPの連載企画でお会いすることのできた清水東大名誉教授のご著書。主客分離して対象を分析する科学では、個と全体の相互関係からなるコミュニティ的存在を見落としてしまう。世界をより総体的に把握するためには「場」の科学が重要になる。

最小要素を積み上げて全体を構成する西洋思想「ブロック的構築」と、最初に全体があってその内部の間(マ)が意味を作り出す「箱庭的構築」というふたつの思想がある。ブロック的構築の世界だけでは、複雑な世界や自然を理解するのには不足である。箱庭的構築に転換して、世界を見つめなおそうではないか、多様が共存できる世界をつくろうではないか、というのが私が読み取れたこの本の要旨。

勉強になりました。でも、私は何をすれば???。

考え中。

評価:★★★☆☆

Posted by daiya at 13:26 | Comments (0) | TrackBack