2007年11月20日
針の上で天使は何人踊れるか―幻想と理性の中世・ルネサンス
中世の人々は現代人には信じがたい考えを平気で受け入れていた。
15世紀の教会裁判所は、作物を荒らした害虫に対して「この付近の人間の食物を浪費し、壊滅させたカブトムシよ、今からここを立ち退き、誰にも害を与えない土地に行くことを、汝に命ず」という裁きを大真面目にくだした。そして殺人罪で豚を絞首刑にした。リンゴに悪霊が取り憑いて不気味な音を鳴らすと信じた。魔女は空を飛び交い、悪魔は死者を蘇らせると恐れ、異端者を残酷なやり方で処刑した。
そうした行いの理由は、人々に知識や推論能力が不足していたからではなくて、そこには現代と異なる「常識」が前提としてあったからである。この本は歴史の中の奇妙な妄想を10章に渡って取り上げて、なぜ当時の人々はそれを真剣に信じたのかを分析する。
「毎日駆使している「一般常識」は実は多くの前提に支えられた複雑な事柄だった。そして、その前提は概ね私たちが生まれる前から存在していた通念から生じ、他の者から伝えられるのである。」
思考の土台、物の考え方である常識は、同時代の人間にとって常に所与のものとしてあらわれる。著者はこれを相対化して客観的に眺めるために有効な手法として、こうした迷信や妄想を信じた過去を振り返る。
「「奇妙な歴史」を学ぶことでも、この新鮮な視点が得られる。昔の理性的な人々が悪霊に取り憑かれたリンゴや、豚の死刑や、魔女や異端を信じていたのなら、現代の理性的な私たちの考えにも「奇妙さ」が潜んでいる可能性を考えるべきだろう。」
この奇妙さは同時代でも宗教や慣習が異なる社会の間で生じる問題だろう。たとえばアフリカで現在も数百万人に対して行われていると言われる女子割礼、インドの名誉殺人、そしてイスラムの神の名による宗教戦争。どれも日本人にとっては奇妙であるし、道徳的に認めがたいが、逆の立場では私たちの考えこそ奇妙にみえるのだろう。
「常識的な」判断は特定の社会に浸透している思考を反映するものであり、しばしば社会によって変わるものなのだ。社会に浸透している認識と一致していれば、その考え方は合理的だとみなされる。ある文化───たとえば、私たち自身の文化───において支配的な考え方が馴じみのあるものなら、その考え方に従った行動は、まず間違いなく道理にかなっていると見なされるだろう。逆に他の社会の思考についての理解が十分ではない場合、その思考に従って普通に行われた行為の多くは、馬鹿げていると思われやすいのだ。」
奇妙な迷信と妄想の歴史的な研究は、現行の常識や理性の普遍性を疑い相対化していく。中世ヨーロッパにおいて、キリスト教と人々の常識がどのように相互作用して形成されていったかがよくわかる。そしてそれは現代にも外挿できる理論であることに気がつかされる。とてもスリリングな、常識の解体新書。
2007年08月06日
ミクロコスモス I
思想家 中沢新一の最近の評論、エッセイ、講義録をまとめたもの。どれも読みやすい。
レヴィ=ストロース構造主義の総括整理が個人的にはよかった。
西洋の精神は「論証」「抽象」「実証」の精神であるのに対して、レヴィ・ストロースの「構造」は、そのイメージに反して抽象的でも形式主義的でもない「具体の科学」そのものだとし、もうひとつの知のはたらき=野生の思考をこう説明する。
「彼の「構造」は単なる文化コードではない。それは自然と文化のインターフェイス上に働く自然智的コードだ。そのために、「構造」は弁別的知性の上で働いていないこといなるので、当然それは「無意識」の働きということになる。「構造」とは、もっとも厳密な意味で「詩的」なレヴェルの現実である。」
「私たちは根本的に自分の思考のあり方を変えなくてはならないのであって、そのとき身体が重要な拠点になる。ただしその身体は、リビドー的な無意識が渦巻くカオスとしての身体ではなく、いたずらにスポーツする健康なだけの身体でもない。たいせつなのは、身体のなかで具体的なかたちで動いている、ある種の知的なものの動きを知ることである。その知性の働きのことを、レヴィ=ストロースは「構造」と名づけたのである。仏教ではそれは「知恵」と呼ばれたことを考えても、彼の思想はまったくアジア人である私たちには近しいものに感じられるのである。」
レヴィ=ストロースの構造主義といえば、たとえば近親相姦のタブーに関する研究がよく知られている。親戚関係の誰と性交してはいけないかは、部族によって異なるのだけれど、どの部族にも必ず、してはいけませんというタブーが存在する。そうしたタブーの存在という普遍的な構造は、部族間の女性の交換を保証するための規則であると結論した。結果として生物学的多様性や文化の流動性が生まれる。そうしたはたらきは西洋の合理的精神ではなく、無意識のはたらき=野生の思考がうみだすものである、としたのがレヴィ・ストロースだった。
「論証」「抽象」「実証」など現代を覆う科学的認識では、自然の美しさ、複雑さ、それがもたらす感覚的喜びが否定されてしまう。自然に内在する知性作用によってこそ、私たちはもっと高次の豊かな認識に到達できるはずだとし、「これこそが「自然の叡智」と呼びうるものである。私たちの二十一世紀をどう切り開いていくかという思想の鍵がここにある、と私は思う」と著者は書いている。総括したうえで現代における意義を語っているのが、この著者らしさ、学者でなくて思想家らしいさだなと思った。
この本にはこのほか、岡本太郎、グノーシス、アースダイバーネタ、芸術人類学など、幅広いテーマの考察が並ぶ。寄せ集め風だが、一気に読ませる内容になっていて満腹。
2007年04月06日
世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて
「私が本書で考えたいのは、資本=ネーション=国家を超える道筋、いいかえれば「世界共和国」に至る道筋です。」。評論家 柄谷行人著。
資本主義と国民国家というスキームでは、主役が資本であって肝心の人間が疎外されている。著者はこのスキームを超える世界観として、カントが提唱した世界共和国の概念にポストモダンの理想を追求している。
資本=ネーション=国家の基盤は貨幣を仲立ちにした交換様式である。この交換には非対称性が伴う。貨幣には商品と無条件に交換する権利があるが、商品には貨幣と交換する権利がない。商品は売れなければ価値がないからである。この非対称性が、資本の支配をもたらしている。
福祉国家資本主義、国家社会主義、リベラリズムという、既存の国家の形態に加えて4つめに、平等と自由を原理とする新しい交換原理を基盤とした「世界共和国」があるという。チョムスキーは、この第4の形態の例として、アナキズムや評議会コミュニズムを入れているが、これらはこれまでのところ、現実には存在しない「統整的理念」に終わってきた。
「むろんカントは、こうした「世界市民的な道徳共同体」は政治的、経済的な基盤が根底になければ成立しないと考えていました。しかも、彼はそれをきわめて具体的に考えていた。たとえば、カントのいう「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」という道徳法則は、資本主義においては実現できません。貨幣と商品(資本と賃労働)の非対称性があるかぎり、そこにおかれた個人は他者を手段としてのみ扱うことを余儀なくされるのです。もちろん、国家による統制や富の再分配によって、資本主義のもたらす階級格差を解消しようとすることは可能です。しかし、階級格差をもたらすシステムそのものを変えるべきなのです。」
「目的として扱う」とは自由な存在として扱うということ。自分が自由な存在であることが他者を手段にしてしまうことではならないとし、自由の相互性の実現こそカントの見出した道徳法則であった。
著者は再分配、互酬、商品交換という既存国家の交換原理に代わる新しい交換原理Xを世界共和国の基盤として見出す。カントはその世界を小生産者(かつての多数であった職人的労働者)たちのアソシエーションと、「神の国」の実現のために諸国家がその主権を譲渡する世界共和制として考えた。
著者はその考えを現代的に読み替えて、共同体の想像的回復(普遍宗教的な運動)によるアソシエーションと、各国が軍事的主権と国際連合へ譲渡し、それによって国際連合を強化再編する道筋に、世界共和国実現の可能性があると結論している。
難しい本なのだが、ひらたくいえば、自由や平等や友愛という崇高な理念にひとりひとりが共鳴するなら、相互の自由を尊重する交換原理による、新しい社会主義的な世界共和国は理論的には実現できるはずだという思想家の意見表明である。
今日、世界の運営方法を個人が直接に話し合う場として、インターネットがあると思う。オンラインで小さなネットワークや共同体は無数に生まれているが、国家に対抗する力にまでは育っていない。ネットで理想を唱えても、各人の足場は国家にあるからだ。著者は「下から」の運動は「上から」封じ込めることによってのみ、分断をまぬかれ、徐々に新交換原理にもとづくグローバルコミュニティは実現に向かうと書いている。
何が足りないのだろうか。やはりリーダーなのだろうな。
2007年01月14日
時間はどこで生まれるのか
「ミクロの世界に時間というものが仮にあるとしても、マクロの世界における時間とミクロにおける時間は、同一のものではない。また、マクロの世界においても、物理学的時間と人間(生命)が感じる時間は同一のものではない」
マクダカートによる時間の分類が最初に紹介されている。
A系列の時間 自分がいる「今」という視点に依存する主観的な時間
B系列の時間 歴史年表のように過去から未来を見渡す客観的な時間
C系列の時間 順序関係がない、単なる配列
人間が普段、感じているのはA系列の時間である。デカルト哲学やニュートンの科学が相手にしているのはB系列の時間であった。(時間という概念でB系列のイメージを持つ人が多そうである。)。マクダカートはこうも述べている。
「A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。しかし、C系列は実在する可能性がある。」
C系列は時間とは呼べないので、時間は実在しないともいえる。
「時間は、もともと人間の感覚から生まれた概念である。毎日、太陽が昇り、星座が動き、狩りに出た良人の帰りを待ち、新たな生命が生まれ、そして死んだ人は還らない。こうした日常経験の中から、われわれの祖先は時間という言葉を創りだしたのである。」
だから、時間は実在しているのではなく、脳に組み込まれたアプリオリな概念なのである。ミクロの世界、量子力学の世界では、粒子の位置と速度は同時に確定することができない(位置を測定するには粒子に触ることになり、触れると速度が変わってしまう)。粒子のふるまい自体も確率論的で順序や因果関係もない。ミクロの世界に時間の向きや流れは存在しないのだいえる。
これに対してマクロでは、時間というものが仮定される。不可逆なプロセスが存在するからである。エントロピー増大の法則がはたらく世界の中で、人間は秩序に価値を見出す。価値ある秩序とは未来へ向かう意思がなければ存在しない。生命の生きる意志が過去から未来へ向かう時間の向きと流れをうみだしていると著者は結論している。
「われわれは、なぜ秩序に価値を見出すのか。その答は明らかである。それはわれわれが生命だからである。生命こそは秩序そのものであり、秩序なくしては存在しえないものなのだから。それゆえ、われわれはわれわれと似た秩序をもつものに価値を見出すのである。」
人間が感じている主観的時間と、科学実験や計画策定のための客観的時間を統合し、時間とは何かの本質に迫った面白い哲学本である。
・「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001835.html
・時間の分子生物学 時計と睡眠の遺伝子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002803.html
・瞬間情報処理の心理学―人が二秒間でできること
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000624.html
2006年11月29日
孔子伝
先日96歳で他界された漢学研究の白川静著。
孔子とキリストには共通点がある。幼少時代が不明であること。中年になってから大成したこと。活躍した時間は短かったこと。弟子を率いて諸国を流浪したこと。世俗的な意味での成功とは無縁であったこと。本人の書いたものはほとんどなく、その教えは、弟子たちが後世に教典にまとめたもののみであること(「論語」と「聖書」)、など。
しかし、一般には、キリストが宗教者という印象が強いのに対して、孔子は思想家・哲学者の印象がある。著者は、孔子はシャーマンの出自を持ち、政治改革への参画をもくろみながら、ときには任侠者も巻き込んで、移動しながら好機を求めた反体制教団の長だったのではないかという仮説をこの本で打ち出している。
孔子の死後に編纂された論語は、教義としての側面が強いから、孔子の姿は徹底的に美化されている。だが、よく読むと孔子の行動には人間臭い部分もある。愛弟子の顔回への贔屓が目立つし、資金調達が得意な子貢には、経済的に支えられているはずなのに、性格的にそりがあわないのか、随分と冷たい態度をとっている。
孔子は遥か古代の伝説の王である周公を信奉して復古を説いているが、その割に古代の王国について正しい知識があったか怪しい。孔子は、仕えている主人が亡くなったら3年の喪に服せと説いたが、昔からそうしてきたものだからという。しかし、古代を調べてみると3年の服喪の規定は根拠が乏しい。孔子の古代知識は誤っていたのではないかと著者は検証してみせる。
そして、孔子のさまざまな言動の細部と矛盾を分析していくと、当時の巫術を司る集団に出自があるのではないかと指摘する。シャーマン出身で、ライバル陽虎の策略に抗いながら、現実的な力を持ったカルト教団を率い、諸国を移動する宗教改革者。隠棲の賢者というイメージが崩されていく。
・孔子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002572.html
2006年11月20日
タオ―老子
「
道(タオ)名の無い領域
これが道だと口で言ったからって
それは本当の道じゃないんだ
これがタオだと名づけたって
それは本物の道じゃないんだ
なぜってそれを道だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名の無い道の領域が
はるかに広がっていたんだ。
」
老子道徳経全81章の現代語訳。
著者の加島 祥造氏は1993年に「タオ―ヒア・ナウ」で英語訳からの和訳を試みている。今回は原文から直接現代日本語に訳している。こちらのほうが情感がこもっていて著者の老子への共感が伝わってくる文体である。
超訳的手法も入っていて「インターネットのウィンドウを覗きこんだって、分かりゃしない <中略> 情報を集めれば集めるほど ますます分からなくなるんだよ」などという表現もある。
自然に回帰すること(無為自然)で宇宙の神秘と一体化することが究極の道TAOであると説く老子の教えは、欧米でも禅ZENの実践とともに高く評価されている。人生のあらゆる荷物を捨てて、争うことをやめて、善も悪もない、宇宙のエネルギーに身をゆだねよ、というメッセージである。
無欲で無知なのがよいわけだが、無欲無知なだけではダメみたいである。タオを知る人は結果として無欲で無知になるということだろう。ではタオとは何なのかというと、冒頭の引用が語るように言葉で定義することができない。定義してわかったように思うのは、老子によると知識病なのである。タオを知る人は知識病にかかっている自分に気がつくことで、それを乗り越えることができる。
老子の思想は後年に道教に影響を与える。道教の達人は不老不死の仙人であるから、これも仙人の生き方の理想といってもいいのかもしれない。地球環境にも人間の精神にも負荷を欠けない究極のストレスフリー思想として、ストレスだらけの現代で再評価を受けているのも納得である。
・老子道徳経 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90%E9%81%93%E5%BE%B3%E7%B5%8C
2006年10月11日
自分自身への審問
1999年。「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤 淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒と せられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」という書置きを残して江藤淳は自殺した。遺書まで名文だった。
芥川賞作家で、孤高のジャーナリスト、辺見 庸は、2004年春に脳出血で倒れた、命はとりとめたが、半身麻痺などの重い後遺症が残った。追い討ちをかけるように、腹部からガンが発見される。著者は、江藤淳の死を自らの姿に重ねながらの病床で、生死の境目にいる者としての感慨、現代日本社会への異議申し立て、そして、自分の生き様に対しての厳しい審問を行う。
「
...生物学的な生でしかなくなる私の、仮にあるにしてもおそらく海牛か薄羽蜻蛉みたいにごく乏しい心性(いや驚くほど豊かな心性かもしれないが)というものが、果たしてどんなものか私には実地に試してみたい衝動がないわけではない。にしても、結果どうであったかを表現できないとしたらつらい。その意思があるのに表現できなくなることと自死できなくなること......いまそれをとても恐れている。逆に、なにがしか表現でき自死できる可能性を残している限りは、軽々しく絶望を口にしてはならないと自分にいい聞かせている。
」
「
私を襲ったあれこれの病気が実際、因果応報であるにせよ、私はそれを哄笑して否定し、生まれ変わったら再びいわゆる罰当たりを何度でもやらかして、またまた癌にでも脳出血にでもなり、それでも因果応報を全面否定するつもりだ。それほど私はこの考えを忌み嫌っている。そのことと、私が秘めやかな罪や恥辱を感じているのはまったく別のことだ。」
壮絶。作家が文字通り命を削って書く文章。自己の生き様の手厳しい総括。これ以上はないほど重い内容であるが、表現者として、これだけは言っておきたいということが圧縮されている。ままならない身体状況でありながら、どこまでも冷徹な思考に圧倒された。
2006年08月10日
系統樹思考の世界
「
系統樹思考(tree-thinking=樹思考)と分類思考(group-thinking=群思考)という対比を、ここで考えてみましょう。前者は対象物の間の系譜関係に基づく体系化を意味し、後者は同じ対象物を離散カテゴリー化によって体系化することを指しています。たとえ対象が同じであっても、系統樹思考と分類思考では問題の立て方そのものが根本的に異なっています。分類思考は眼前にある対象物そのもののカテゴリー化(すなわち分類群の階層構造化)を目標とするのに対し、系統樹思考は対象物をデータ源としてその背後にある過去の事象(分岐順序や祖先状態)に関する推論を行うからです。
」
人間は先天的には分類思考をする、という。私たちは何かを見たら、似ていると認知して、あるカテゴリーへと分類する。世界にはばらばら(離散的)の群れがあると自然に考える。これに対して文化的に獲得する系統樹思考は、モノの歴史を推定して、カテゴリーを決めている。著者が専門とする生物の進化の系統はその考え方の代表例だし、祖先との関係を可視化する系図もそうである。
歴史を持つ対象を系統樹に位置づけるには、通常科学の推論方法である演繹と帰納だけでは間に合わない。サルがヒトに進化する様子は観察では確認できないし、ヒトに残るサルの痕跡を集めても、サルが直接のヒトの祖先だとは確定できない。だから、「理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「よりよい説明」を与えてくれるかを相互比較する」アブダクションが系統樹思考では重要な役割を占める。サルがヒトに進化したという説明が、他の説明と比べてもっともらしいと考えられるから、そのような系統樹を描いたのだ。
ツリー構造はIT技術でもたとえばXMLで使われており、おなじみの構造である。ある応用的な要素が、ある基本的な要素の子要素であるという形になっている。構造自体は疑いようがないけれど、親と子の要素の意味を考えてみると、この本が論じている系統樹思考があるのだと気がつく。果物という要素の下に、リンゴがあったりする。なんでそうなんだと考えていくと、リンゴは果物であるという説明が、野菜や肉だというより、もっともらしいからである。
生物学の進化論、言語学、世界中の神話や宗教など系統樹思考が文化文明の中に普遍的に現れる様をこの本は紹介している。なぜ普遍的な思考になったのか、諸要因とともにこんな説明がある。
「分類思考が静的かつ離散的な群を世界の中に認知しようとするのは、私たちが多様な対象物を自然界や人間界に見るとき、記憶の節約と知識の整理にとってたいへん有効な手法であると考えられます。そのような認知カテゴリー化は、記憶の効率化を通じて、私たちの祖先たちの生存にきっと有利に作用したでしょう」。
なるほど、私たちの世界認識の在り方は、記憶メカニズムに最適化されているのかもしれない。そうであるなら科学の進歩は、世界についての知識量を増やすのではなくて、一番簡単な説明方法を探す旅だといえそうだ。悟りの境地に至るというのもそういうことかもしれない。
日頃慣れ親しんでいるツリー構造の考え方を、改めて哲学的に考えてみる有意義な機会になった本。
2006年04月24日
情報学的転回―IT社会のゆくえ
日本の情報学の第一人者、西垣教授の本は必ず読んでいる。難解なものが多いが、口述筆記で書かれたこの本は、とても読みやすい。
「
情報学的転回とは必ずしも、ITの高度利用によって人間の生活を効率化し、グローバル経済を活性化することではない、ということです
」
冒頭のこのことばでまず引き込まれた。
この本の情報学的転回とは、情報という概念が、私たちの思考の在り方、世界観、人間観を大きく変えていくという意味である。ビジネスや効率性ばかりが強調される「IT革命」よりも、もっと本質的な、人類の文化文明の大変革を論じている。
著者は情報には3種類があると定義している。
1 生命情報 生きている生物にとっての情報
2 社会情報 生命情報から意識的に抽出され記述された情報
3 機械情報 機械が処理する記号の情報
コンピュータが扱うのは3の機械情報である。記号化された情報から、人間は、生命や社会にとっての「意味内容」をこの記号から解釈して読み取る。飽くまで意味内容は読むものの内側にあるはずである。ところが、西欧発祥のIT文明は、機械情報の中に、聖なるもの、本質的なものがあるかのように扱ってきた。
「
要するに、唯一の正しい論理がある。それは神の言葉である。これにしたがって、相互に矛盾しない論理命題の合理的な体系が存在する。世界という客観的な実在を象徴する記号群が存在する。その記号群を使って、宇宙や世界のあらゆる事物や現象というものが記述されていく。これをおこなえるのは神さまですね。
それをエイヤッと世俗化して、メカニズムだけを取り出すと、コンピュータになる。コンピュータが論理をルールにもとづいて操作する。そこでは思考というのは一種の計算になります。人間の心というものは、いわばその一部であって、思考を行うものである。これは世俗化されたユダヤ=キリスト教ではないでしょうか。
」
この機械情報、機械文明に振り回された人間の異議申し立てこそ、いま起きようとしている情報学的転回なのだと著者は述べている。
「
しかし今、機械情報からもう一度、はじめの生命情報へと戻る方向性が出てきた。機械情報文明がどんどん盛んになることによって、そこからもう一度、自分たちは生物なのだ、生命流の中の結節点のようなものなのだという自覚が生まれつつあります。
」
生命流という考え方と仏教の類似性を指摘したりして、東洋と西洋の宗教比較にも言及されている。機械情報の時代を超えて、人間にとって、より本質的な生命情報にもとづく文明を志向すべき時期だというのが、この本の言いたいことであるように思った。
「聖性」という概念が重要なキーワードになっている。これは、先日書評したミルチャ・エリアーデの「聖なるもの」と同じことを言っているように思える。私たち=宗教的人間(homo religious)は情報を解釈するとき、背後に「真実」や「実在」を前提としている。
・聖と俗―宗教的なるものの本質について
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004394.html
何を信じるか、本当だと思うか、の根本は、オントロジー(実在論)だ。機械情報の記号だけでオントロジーをやろうとすると、生命情報を取りこぼしてしまう。意味作用は生命にしか備わっていないからだ。いくら実在の影を集めてみたところで、実在にはたどりつけない。
個人的には、機械情報による人工知能アプローチの限界、社会情報によるフォークソノミー(コミュニティ)という突破口、インタフェース(アフォーダンス)と意味作用の可能性など、この本を読んだ結果、いくつか情報学の未来を考える視点が明確になった気がする。
情報技術と宗教という、一見妙な取り合わせで、情報学のあるべき姿を論じている。情報の哲学を考えるにあたって、とても有益で、面白い一冊。
西垣教授の本:
・基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html
・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html
2005年12月11日
生命記号論―宇宙の意味と表象
生命圏を記号圏としてとらえる新しい見方を提示した本の新装改訂版。初版は1993年。
記号というと普通は言語を連想する。だが、著者は記号の指す範囲を大きく拡大して次のように定義する。
「
記号圏とは、大気圏、水圏、生物圏と同様に地球上のある領域を指す。記号圏は他のどの圏内にも入り込み、その隅々まで広がっており、音、匂い、身振り、色、形、電界、熱放射、全ての波動、化学信号、接触その他のありとあらゆる種類のコミュニケーションを統合して出来上がった一大圏である。一言で言えば、生命に関する記号全てのことである。」
基本はパースの記号論であり、意味するものとされるものの二項の意味世界に、解釈する主体を加え、3項のダイナミックな関係として、全体を捉えなおそうとする思想である。メッセージは単独で存在できるものではなく、解釈する主体があってはじめて記号の意味が確定される。
この記号関係でやりとりされるインフォメーションとは何かについては、解釈者の志向性によって生み出されるもの説明されている。
「
インフォメーションとは何らかの志向性を持った生物と結び付けられる。この志向性を持った生物とは、栄養濃度を感受して、餌が最も豊かであるスポットに向かって偽足を伸ばして行こうとするアメーバであったり、あるいは木の上に熟した果物を見て、それを取るために手を伸ばしている人間であったりする。別の見方をすれば、インフォメーションは翻訳にその基盤を求め、この意味で、パースの定義による記号に対応する。
」
生物はそれぞれの環世界に生きている。必要な情報を選択的に感覚器官から受けとっている。これが志向性であり、インフォメーションの基盤である。そしてインフォメーションの量と質を決めるのは、記号論的自由の大きさにあるというのがユニークな意見である。ここでいう自由とは、個体や種が周囲と相互に伝達できる「意味の深さ」を指している。
次に、対象を生物個体同士の水平関係という視点から、系統という垂直関係という視点に移動して考えると、生命記号圏においての究極の内部観測者は、人間や生物の個体、もしくは脳や意識ではないという。
つまり進化という目でみると、
「
人間において思考を行っているのは脳ではない。身体全体でもない。考えることができるようにしているのは私たち全てがその産物である自然の歴史そのものである。
」
たとえば、DNAの遺伝情報のネットワークは、塩基配列の組み合わせという記号関係そのものである。交配が行われれば、二つの系の間で情報交換が行われ、新しい世代の記号が決まっていく。ここには、人間の個体の意識は入り込む余地がない。そのメッセージ交換の意味を解釈しているのは、ヒトの系統そのものであり、さらに大きく見れば、自然史そのものであることになる。
ヒトが登場する何億年も前から生物はいたのだから、意識が観測者ではありえない。現在の生命圏は、過去の生命情報のやりとりの結果なのであるから、その歴史そのものが観測者であったとする。人間の意識は特権的な存在ではなくなる。
意識の解体もテーマの一つとなっている。
「意識とは身体の実存的環世界を、肉体が空間的物語的に解釈したものである。」
という結論がある。
これは、ノーレット・ランダーシュの「ユーザイリュージョン」とほぼ同じことを指している。私たちが見ているものは本質じゃないのである。幻想なのである。だが、その幻想を信じて必死に生きている私たちがつくりだす歴史は本物なのである、というのが私の理解。
この本は訳者 松野 孝一郎氏のあとがき「記述の限界とそれへの開き直り」も読みどころになっている。内部観測者について本も出している訳者は、あとがきにおいて、本文を引用しながら自論をどんどん展開している。総括にもなっていて読解の参考になった。
・動物と人間の世界認識
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000786.html
・ユーザーイリュージョン―意識という幻想
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html
・基礎情報学―生命から社会へ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001216.html
・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html
2005年11月23日
ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学
哲学者バートランド・ラッセルの入門書。
ラッセルは「プリンキア・マテマティカ」の中で、次の条件を満たす「理想言語」の必要性を述べている。
・名前としては、世界に確実に実在するとわかっているものの名前だけを含む
・個々の名前はただひとつのものだけを指す
・実在するものの間に成り立つ関係を表わす語が、名と名を結びつける。つまり、世界の論理構造をそのまま反映する
私たちが日常使う言葉には「世界に確実に実在するもの」以外の虚構の対象が入り混じっている。そのようなニセの指示句をラッセルは「不完全記号」と呼んだ。不完全記号は言葉の多義性を含んでいるが、それゆえに、話がわかりやすくなったり、簡潔に言うことができる長所がある。
ラッセルは不完全記号の使用も認めつつ、いざというとき、不完全記号を解体し、真の名前、つまり実在する対象を一義的に指す名だけからなる表現に変換できることを担保するために、日常言語に換わる人工的な理想言語を構想した。
「世界に確実に実在するもの」とは、より小さな構成要素を持たない単純者のことである。自らの存在を他の構成要素に依存していないため、実在する確かさが最大である単純者の名だけを使うことで、厳密に意味を確定できる言語を模索したことになる。
この本では「犬」が例でよくでてくる。個々の犬はもちろん実在する。個々の犬(タイプ0)の集合を一つ上の階層(タイプ1)まとめる名前に「セントバーナード」、「柴犬」、「ドーベルマン」などの犬の集合がある。さらに上の階層(タイプ2)には「犬種」という集合の集合がある。ラッセルのタイプ理論は、実在するものをすべてこうして階層化する。
この階層は、個々の犬の持つ属性(吠える、四本足、しっぽがある、など)が、個々の犬という構成要素よりも、上位に位置する集合になる。理想言語的には、階層(タイプ)の位置関係は厳密に区別されねばならない。
だから、
1 犬は、吠える
2 この犬は、吠える
という2つの文章があったとき、厳密な理想言語的解釈では、2は下位のタイプ(この犬)の述語として「吠える」という上位のタイプが使われているから、意味が特定できる。しかし、1は、一般名詞としての「犬」と「吠える」は共に集合であり、タイプ1であるため、意味を成さなくなる。タイプ理論では、主語より述語は高階になければならない。
これでは述語が不完全記号になっている。
しかし、誰が読んでも1は日常言語としては意味が通る。そこでラッセルは記述理論によって、本来あるべき隠れた文章を補い、不完全記号を解体して意味を確定する方法を編み出した。
1は
「いかなるXについても、もしXが犬であるナラバ、Xは吠えるものである」
が本来の意味であり、日常言語では省略して「犬は吠える」と言っている、とフレーズを足すことで論理的にも意味が一つに確定できるようにした。こうしてみると、1は主語述語ではなく述語述語であったことになる。
タイプとは別にオーダーという系列もある。
「ナポレオンは、偉大な将軍に必要な属性をすべて持っていた」
という例が挙げられている。
その属性とは勇敢であり好色であり、頑健であり慎重であったりする。無数に属性を列挙できるがその中には「偉大な将軍に必要な属性をすべて持っている」という属性も仮定できる。
自己言及が含まれると状況は複雑になる。
タイプ1 勇敢、好色、頑健、慎重
タイプ2 偉大な将軍に必要な属性
という階層があることになる。タイプ1の述語としてタイプ2がある。
しかし「偉大な将軍に必要な属性をすべて持っている」は「偉大な将軍に必要な属性」に含められない非述語的な属性である。そこで、これをオーダーという別次元の系列とし、述語同士のもうひとつの階層関係と定義した(分岐タイプ理論)
要素の集合と階層を扱うタイプ理論だが、集合のややこしい問題に「自分自身の要素でない集合の、集合」がある。
「あなたが今日考えたものの集合」という場合、無数の考えたものに加えて「あなたが今日考えたものの集合」自体が含まれる。これは自分自身を要素とする集合である。逆には自分自身を要素としない集合がある。
「自分自身を要素とする」「自分自身を要素としない」は曖昧ではないので、「自分自身の要素でない集合である」ものは必然的に決まる。そうなれば「自分自身の要素でない集合、の集合」が考えられることになる。
だが、「自分自身の要素でない集合の、集合」とはなんだろうか。定義自体が矛盾しているようにも読めるが、これを考えた時期のラッセルは言語的に意味をなす表現は必ず指示対象を持つと考えていた。実在するにも関わらず、意味が特定できないものが、厳密な論理の果てにうまれてしまう。これがラッセルのパラドクスである。
自己言及を禁止することで、一応はこのパラドクスを回避できることはわかっている。だが、自己言及の禁止によって、扱えなくなる問題が数多くある短所があることなどがこの本に詳細に説明されていた。私の理解はまだまだ怪しいが、ラッセルは論理的に非常識を扱う風で興味深い。
もっともっと知りたくなる好奇心を書き立てられた入門書であった。
2005年09月29日
考える快楽―グレイリング先生の哲学講義
イギリスの哲学者が、「ガーディアン」紙上に寄稿した、人生の61の根源的テーマについてのエッセイ集。古典のように格調高い文章で淡々と以下のような主題を語る。
「
第1章 美徳と愚行―勇気とは、もって生まれた才能とひきかえに、人生が課した重荷に耐えることだ(道徳を説く、寛容、慈悲 ほか)
第2章 人生の苦しみと妄信―貧しき者は、すでに地獄での刑期を終えている(ナショナリズム、人種差別、種差別 ほか)
第3章 喜びと楽しみ―みずからを教育するからこそ、余暇を高貴に過ごせるのだ(理性、教育、卓越 ほか)
」
教師的な淡々とした語りの中に、毅然とした態度で著者自身の知見が述べられるのが、この本の読みどころ。
たとえば、
「寛容」では、
「
だからこそ、「寛容は不寛容にたいして寛容であるべきか」という問いにたいする答えは断固とした「ノー」であらねばならない。寛容は、それ自身が侵されないようにする必要がある。それは難しいことではなく、誰でも自分の見解を述べることはできるが、人に無理じいしてはならないと言いさえすればいい
」
「卓越」では、
「
民主主義を掲げている統治の大半は選挙による寡頭政治に過ぎないし、世界には、真の意味での民主主義はほぼ存在しない。それでも民主主義の精神は、よきにつけあしきにつけ、西欧社会を包囲している。そのよいほうの側面は、すべての人間を公平に扱うよう圧力をかけることにあり、悪いほうの側面は、すべての人間をそっくりおなじに扱うよう圧力をかけることにある。
」
「キリスト教信仰」では辛らつで
「
聖職者たちとは、二千年ほども流行おくれになっている道徳の詭弁にしがみつき、古代の超自然信仰を公然ともつ人々だ。社会状況に似つかわしい、思慮深く、教養のある、偏見のない意見にたいして、自分たちの見解のみが優先権を与えられるべきだと主張するのは、異常というしかない。
」
などと書いている。静かな中に確固とした思想を感じる。
原題はThe Meanings of things。考える価値のあることについて、自分なりの意味を考えることの重要性を教えてくれる一冊。
2005年09月28日
人間の終焉
「テクノロジーはもう十分だ!」
著者が問題視しているのは、遺伝子操作、ナノテクノロジー、ロボット工学の3つ。
特に出生前の遺伝子操作で人間の身体や心を「増強」する技術は破壊的だと嘆いている。
遺伝子操作は近い将来、生まれ来るこどもたちの外見を立派な体格の美男・美女にしたり、IQを引き上げたり、常に冷静に考える気質にするような改造ができるかもしれない。彼らはノーマルの人間がいくら努力しても適わない高い身体能力を持つことになるだろう。
増強された世代とそうでない世代では世界を認識する力も変わってくる。圧倒的に高い意識レベルと思考能力を持つ人類2.0は、私たちの及びもつかない世界認識をするかもしれない。そのとき「パパは何もわかっていないんだから」が文字通りの意味になり、世代間は断絶されると著者は考えている。
そして「永遠の命」の技術革新は、人間の寿命を大きく引き伸ばすかもしれない。限り有る時間だから人はそれを大切にして生きてきた。好きなだけ生きられる時代には、人の価値観も根底から変わらざるを得ないだろう。
「
私たちは過去に比べてとても快適な安楽なところに到達している。真の問題は、そこまで到達した私たちが、それを本質的に未知の何かと引きかえにすることを望むのか、望まないのかである。
」
勇気を持ってブレーキをかけるべきだと著者は主張している。人口抑制策、汚染物質の排出規制、非暴力運動、環境保護地域のように、人間は自らの行きすぎを統制することができると著者は成功例を挙げて示した。
この本は先端科学の状況と、それが暴走した場合の脅威を、具体的に説明する部分が情報量も多くて面白い。著者の体験や人生観にもとづいた未来のビジョンにも説得力がある。単なるハイテク・ラッダイト主義者とは違いそうだ。
しかし私は著者が批判する「テクノ熱狂者」の方に近い立場である。明るい未来を作り出すためにテクノロジーの進化発展は無限に続くべきだと思う。著者は進歩史観自体を否定しているが、問題は進歩が悪いのではないと考える。科学者に哲学がなく、科学が資本の論理や知的好奇心だけで暴走していることにあると思う。ブレーキを踏むのではなく、ハンドルを価値あるビジョンの方向に修正することこそ必要なのではないかと思った。
2005年08月16日
成長の限界 人類の選択
賢人会議ローマクラブの命により1972年に出版された「成長の限界」から30年。コンピュータシミュレーションによるモデリングを用いて分析を行った1992年の続編「限界を超えて」に続く、同じ著者らによるシリーズ第3弾。
大学生時代に「限界を超えて」を読み、世界で何が起きているのか、をはじめて知った。一部の活動家の関心に過ぎないと思っていた環境問題が、本当は環境の問題ではなく、社会の問題、人類の問題であることを知った。
持続可能な社会とは「将来の世代が、そのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現世代のニーズを満たす」社会である。(環境と開発に関する世界委員会(WCED)、1987)
私たちの世界は、かなり馬鹿げた間抜けな運営をしている。
「
国連開発計画(UNDP)が、世界人口のうち、最も豊かな国に住む20パーセントと、最も貧しい国に住む20%の一人当たりの所得を比べた数字がある。1960年、その差は30倍だったが、95年には82倍になっていた。ブラジルでは、国民のうち貧しい50%の人々が得た国民所得は、1960年には18%だったが、95年には12%に減っている。逆に最も豊かな10%の人々が得た所得の割合は、1960年の54%から、95年には63%に増えている。アフリカの平均的な世帯の消費は、1972年から97年の間に20%減っている。「経済成長の世紀」の後に残されたものは、貧富の差がより大きくなった世界だったのだ。
」
世界のシステムが成長させたのは所得ではなく、格差だった。そしてこの格差は成長を続けるに従って拡大していく。システムに格差拡大の構造があるからだ。資本や特権を持つ層はそれらを使って資本と特権を増大させる。
「
特権階級に対して、さらに特権階級になるための力と資源を与え続ける社会的取り決めが「成功者をさらに成功させる」フィードバックループを形成している。その一方で「もともと成功していない人たちは成功できない」逆のループも発生している。
」
その結果、未来は、
「
世界人口の四分の一以上の人々は電気を使えず、五分の二はいまなお伝統的なバイオマスにほぼ頼って基本的なエネルギー需要を満たしている。電気の供給のない人の数は、今後数十年間に減っていくが、それでも2030年時点で、14億人がまだ電気のない生活をしていると予測されている。調理や暖房用の種燃料として、木材や作物の残余物、動物の廃棄物を使う人の数が増えていくだろう
」
といった状況になる。
資源が足りないわけではない。たとえば食糧は均等に配分できれば、80億人を養える量が現在も生産されている。成長はこの格差の問題を解決しないだけでなく、成長モデルに依存した経済や社会を破綻させてしまうという予測が述べられている。
こうした格差拡大のループの中で、人口が増え、持続可能ではない資源消費が増え、エコロジカル・フットプリントと呼ばれる環境への悪影響が拡大していくからだ。
「
環境が悪化している大きな原因は、地球人口の大部分が相変わらず貧しいこと、そして、少数の人たちが過剰に消費していることの二つである。現状を続けることは持続可能ではなく、行動を遅らせるという選択肢はもはや存在していない
」
頑張って成長することで全人類が、現在物質的に最高水準の層に追いつけるという考えは不可能であることもわかる。
「
大まかな評価を見ると、自然資源やサービスの現在の使い方は、すでに地球の長期的な扶養力を超えてしまっている。もし地球上のすべての人が北米の人々と同じ水準を享受するとしたら?一般的な技術を用いて、地球全体の物質需要を満たすには、地球が三つ必要になる。今後四十年間に予想されている人口増加や経済産出の伸びに持続可能な形で応じるには、地球があと六から十二個必要になる計算だ(マーティス・ワクナグル、ウィリアム・リース、1996))
」
この本にはコンピュータ・シミュレーションによって世界の取りうる未来が、11パターンのシナリオとして示される。このまま成長が続くシナリオは存在しないが、持続可能なパターンで安定させる選択肢は僅かに残されている。
拡大ではなく均衡を、成長ではなく発展を目指す方向転換は必ずしも諦めの世紀にはならないという言葉に希望がある。「持続可能なシステムは、今日の世界に住む多くの人たちにとって、魅力的な消費水準を提供できるだろう。」とさえ結論されている。
満たされていない非物質的ニーズを満たせという提言がある。人が必要としているのは大型車ではなく、とっかえひっかえの衣服ではなく、賞賛や尊敬であり、ワクワクしたり、他人に魅力的だと思われることなのである。もう一台コンピュータやテレビが欲しいのではなく、自分の頭や感情を満たす興味深い何かがあればいいのだ。求めているのは非物質ニーズなのに、それを物質ニーズで満たそうとするといくらあっても不足してしまう。
だから、
豊かな人たちは「所得が半分になりましたが2倍幸せになりました」。貧しい人たちは「所得が2倍になって、4倍幸せになりました」。数十年前に比べて幸福の総和は地域に偏りなく何倍にもなりました。全体が衣食足りています。そういう選択を私たちは選ばないといけない。
そう理屈ではわかっているけれども、自分はこの選択のプロセスに、今、なにか貢献できているか、というとほとんどできていない。せめて、ここに要約ベースの書評をアップしておくくらい。お金持ちになって余裕ができたらいいことをしよう、では、そもそも成長指向であり、間違っているわけですが...。
経済と自然科学の分野の学生におすすめ。環境と経済と技術について全体像を知る名著。
2005年03月27日
やがて消えゆく我が身なら
面白い読み物。
論旨明快で、ユーモアがある。説得力のある極論の連続。歯切れが良くて気持ちが良い。
人間の死亡率は100%で人はいつか必ず死ぬ、が主要なテーマ。だから人はこう生きるといい、こう考えたらいい、という考察が30本。死が主題でも重くない。
いきなり、がん検診は受けるな、意味がないから、と論じる。がん検診を受けたグループ、受けなかったグループの死亡率に有意の差がないという論拠を提示し、早期発見で手術で直る程度のがんは、放っておいたとしても死なない”がんもどき”だから、本当はその発見には意味がないというのである。
ハンチントン病の家族の人生についての話も考えさせられた。この病気は治療法がない死にいたる病。やっかいなことに優勢遺伝する。つまり親が患者であったらば、こどもは2分の1の確率で発病する。発病は中年以降なので、こども時代は自分の運命が分からなかった。
この患者の家族の書いた本が紹介されていた。
これは読んでみたい
ウェクスラー家の娘たちは、母の病気を見て自分たちも長く生きられないのではないかと思い、病気の原因を調べ始める。徹底的に調べた努力の結果、病気の遺伝子を特定することに成功する。だが、それでできたことは病気の治療ではなかった。将来の発病の可能性の有無を正確に知る検査だけだった。悩んだ末、娘たちは検査を受けない選択をしたそうだ。
この検査は自分が若く死ぬかどうかを確実に知る検査になってしまう。もしも自分だったら、どうするだろうか。治療すれば治るかもしれないがんの告知よりも、難しい選択だ。遺伝子医療が進んでいけば、将来の病気や死の時期が確実に分かるケースは増えてくるだろう。これはやがてもっと一般的な問題になるかもしれない。
著者は、
「
池田 清彦
1947年、東京生まれ。東京教育大学理学部卒業、東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。早稲田大学国際教養学部教授。構造主義科学論、構造主義生物学の見地から、多彩な評論活動を行っている
」
といプロフィールで生物学専門らしい。生き物や環境についての知見から、世の中の諸問題をばっさりと斬っていく。エッセイだが情報量も結構多い。なにより著者自身がいう「実も蓋もない」論調が愉快だ。
「はっきり言って私は、人間の命が大切だなどと思ったことは一度もない」
「生物多様性の保全などというのは、たかだか人間の考えた理念に過ぎない」
「断言してもよいが、ほとんどの子は人並みの才能しか(すなわち何の才能も)もっていない」
などちょっとそこだけ抜き出すと、過激な意見が次々に出てくるのだが、敢えてそれを言う根拠も明確に書いており説得力がある。30編のエッセイで、だんだん著者の言いたいことが分かってくる。戦略なのか、後半になるに従い言いたい放題度が高まる。電車でニヤニヤしながら読んでしまった。
事実と考察と意見とユーモア。等身大で嫌味のない文体。こういうエッセイを書けるようになりたいと思った。
2005年03月21日
人類最古の哲学―カイエ・ソバージュ〈1〉
宗教学者、中沢新一の大学講義シリーズの第一巻。
レヴィ=ストロース風構造主義的神話分析が現代においてどのような意義を持つかが主題の本。
「
人類的な分布をする神話というのがたくさんあります。地理的に遠く離れ、社会構造も言語もまったく異なる社会が、驚くほどよく似た神話や伝承を伝えているのです。例えば、八・九世紀の古い中国や日本の書物に記録されている伝承が、遠いヨーロッパの伝承の中に残っていたりするのです。
」
世界に散らばるシンデレラ物語が取り上げられる。フランスの民話「サンドリヨンまたは小さなガラスの靴」やドイツのグリム兄弟版「灰かぶり少女」と、中国の「酉陽雑俎」、北米インディアンの「見えない人」物語が比較され、類似した構造と共通項が取り出される。これらの神話は細部は異なっても、構造は同じである。人類が世界に広まる何万年も前に、とてつもなく古い起源の原型が存在していたのではないかと著者は推測する。
どのシンデレラ物語でも、実の親の不在や意地悪な継母の登場のような欠落から始まって、高いもの(裕福)と低いもの(貧乏)のような対立・矛盾が解消されていく過程になっている。魔法がうみだすカボチャの馬車ような仲介機能によって、貧乏で小汚い娘が、高貴な貴族に見出され、永続する幸福な結婚という結末に向かっていく。
面白いのは古い物語ほど残酷であったり、具体的であること。シンデレラの原型では、意地悪な姉妹は足の指や踵を切断してまでもガラスの靴に挑戦して失敗している。中国では鳥に目をつつかれて盲目になったりもする。もともと魔法使いのお婆さんは出てこなくて、魚や鳥がその役割を果たす話の方が古いようだ。
古層の物語では、魔法のような飛躍が少なく、具体的描写が多い。つまり、きめ細かい仲介機能の連続となっている。神話は本来、空想物語ではなく、人間の直面する現実という足場を持った物語だった。
シンデレラは台所で働かされる。これはカマドや灰の近くにいるという意味である。カマドや灰は、本来、死者と生者を結ぶ場であり、そこで働くのはシャーマンだった。片足の靴は、片足を引きずりながら異界との行き来をするオイディプスの姿とも重なる。死者との交通も本来、シンデレラの重要テーマだった。この他にも仲介によって解消される人類的テーマはいくつも織り込まれていた。
時代が進むにつれ、物語の合理化が行われ、単純化され、バーチャルな内部に閉じた物語に変容してしまう。ディズニーのシンデレラは、王子様に外見の美しさで認められてお金持ちになる女性の社会的サクセスストーリーという、資本主義の愛する物語に変化した。そこには、もはや「死者との交通」や「見えない価値を見る」といった他の重要なテーマはなくなっている。
仲介機能による矛盾の解消という構造を使って、宇宙を重層的に語る神話本来の力について、著者はこんなことを書いている。
「
日本人はいまCG技術による自然の再現ということに関して、群を抜く能力を発揮してみせていますが、それはいまのアニメ文化を背負っている人々の体内に、合理化される以前の重層的な自然の記憶が生き残っているおかげなのであって、合理化された自然イメージばかりに取り囲まれて育った世代がこれを担うようになったときには、もはやそのレベルを維持することは難しくなるでしょう。
」
確かに宮崎アニメはディズニーと比較して重層的多義的で解釈のバリエーションが豊かだ。バーチャルな世界に生きることで、自然や現実との結びつきが希薄化すると、イマジネーションの豊かさまで失われてしまうことを著者は危惧しているようだ。
そして神話とは、
「
神話はまぎれもなく哲学です。宇宙の中で拘束を受けながら生きている人間の条件について思考しているからです。
」
であると結論している。これはレヴィ=ストロースがいう「野生の思考」であり、現代において、もう一度考えてみる価値のあるテーマだと復権を試みようとしている。
・対称性人類学 カイエ・ソバージュ<5>
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001148.html
・神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html
2005年03月10日
人間は進歩してきたのか 「西欧近代」再考
いい内容。
米国は9.11同時多発テロを野蛮な原理主義による文明に対する攻撃と呼び、その後のイラク侵攻を、「米国によるイラクを民主化し解放する戦い」として正当化した。結局、米国が侵攻の論拠とした大量破壊兵器は存在しなかったし、テロの根絶という目的も果たせなかった。正義と悪の戦いという米国が打ち出した構図の背景には、人間の求めるものはみな同じで、進歩は普遍である、とする西欧近代の進歩主義観がある。
この本はその成立から現在に至るまでの歴史を丁寧に要約し、近代進歩主義とは、結局、世界普遍の価値ではなく、西欧という一地域で発生したローカルルールでしかないことを明らかにする。
ハンチントンは、西欧的価値の核心にあるものとして次の8つを指摘した。
1 古典古代の遺産
2 キリスト教
3 ヨーロッパ系の言語
4 聖俗の権威の分離(政教分離)
5 法の支配
6 社会の多元性
7 代議制度
8 個人主義
これらは本質的に西欧的なもので、近代化以前から西欧の価値であった。よって西欧文明=近代文明とはいえない。これらの西欧的な価値は、イスラムやインドや中国、ロシアなどが共有できるものではありえないとする。
進歩主義は近代国家が生み出した幻想であるが、ホッブズやロック、ルソーらが作り上げた国民国家、国民の意思、国民主権の背景には、古典古代の遺産(ローマ、ギリシアの思想)やキリスト教の神という西欧固有の、普遍的ではないものが存在する。西欧の神がいなければ、個人も契約も成り立たない。
近代主義は歴史を断層的な変化によって進歩するものと捉えることも指摘される。進歩の象徴である、産業革命、市民革命、科学革命は、伝統的価値や旧体制を打ち壊し、新たなものが人為的に作り出されると考える。革命はその都度、伝統的価値を排除した「近代」を特権化する。決して歴史が重層的に積み重ならない。過去から学べなくなる。
フランス革命を批判したイギリス人の思想家エドモント・バークについて著者が書いた一文は興味深い。
「
緩やかな特権のなかにこそ、統治の知恵や社会の秩序をつくる秘訣があるというのが、バークの考えでした。特権、伝統、偏見------これらはたしかに合理的なものではないが、ここには先人の経験が蓄積されている。だとすれば、それが合理的でないという理由で、特権や伝統、偏見を破壊し、排除すべきではない。それを敢行したフランス革命は大混乱と残虐に陥るだろうというわけです。このバークの議論は、現代でも、まだ拝聴すべきものを含んでいると私には思われます。
」
私たちも民主主義や自由は良いものであると西欧風教育を受けて育っている。進歩主義思想にだいぶ染まっている。しかし、この価値観はローカルルールに過ぎず、それを共有しない文化と折り合っていくことを難しくしている。
また、個人が自由になること自体が権力を生み出すとしたフーコーの思想、近代的道徳とは弱者のルサンチマンを正当化したものに過ぎないとしたニーチェのニヒリズムなど、西欧進歩主義も突き詰めていくと、内部から崩壊してしまう。現代人はいったい何を「確かなもの」と考えるべきなのか。著者にも明確な答えはないようだ。それを銘銘が考える場がインターネットということになる気がする。
重要なのは多元的で、重層的な価値観、異質への寛容さなのかなあとこの本を読んで思った。中庸といってもいいかもしれない。特権、伝統、偏見という非合理にみえるものも、合理的に利用する東洋的知恵を、歴史から学ぶことが大切なのだろう。日本人はちょうどよい位置にいるような気がする。
2005年01月20日
ソシュールと言語学
現代言語学の祖で、構造主義思想の祖でもあるソシュール入門書。
ソシュールとレヴィストロースは学生時代に夢中になって読んだ。当時、既に構造主義思想も古典だったわけだけれど、あれから10数年、今はどういう扱いになっているのかなというのが手に取った動機。
■ラングとパロール、シニフィアンとシニフィエ、体系と構造
第1章「ソシュールはこう考えた」はソシュールの言語学と構造主義のやさしい入門ガイド。分かっている人にとっては軽いおさらいだが、著者の見解も織り交ぜられている。
要約。
ソシュールは言語の本質とは何か、その構成最小単位は何かをまず考えた人である。言語行為をラングとパロールに分割し、言語学の対象をラングに限定することから、ソシュールの仕事は始まっている。
ラングとは同じ意味を話し手から聞き手に伝える仕組みのこと。同じ意味が伝達されるには、この言葉はこの意味を表すという社会的な約束が必要である。音声と意味の対応関係を知らない人は、外国人と同じで、聞いても意味が分からない。人類共通の単語と意味の対応リストなど存在しないわけで、音声と意味は本質的には無関係(恣意的な関係)だとする。
これに対して、パロールは具体的な意味の伝達に関わらない要素を指す。たとえば具体的に発声された音声などである。ラングは抽象的だったが、パロールは具体的で観察可能である。だが、パロールだけを見ていても、意味をみつけることができない。だから、言語研究はラングから手をつけるべきだとしたのがソシュールだった。
そしてラングが伝達する言葉は記号であり、記号はシニフィアン(表示部、意味するもの、知覚できる音や図形の集合)とシニフィエ(内容部、意味されるもの、事柄または事物の集合)の対であるとした。両者は別物であり、ある表示部が、ある意味と結びついているのは、ある時代の社会的な約束事でしかない。つまり、単語と意味は、本来は無関係で恣意的な結びつきでしかない、というのが第一原理「言語記号の恣意性」である。
第二原理「言語記号の線状性」とは、言葉とは単語が一列に並ぶことで意味を表すものだという原理。そして、その並び方に規則があり、伝達される意味はその規則を変えると変わってしまうということ。
二つの原理はあまりに当然のように思えるが、世界の言語すべてが普遍的に持っている性質として、はじめて見つけたのがソシュールだった。
そして、どの言語にも数万から数十万の単語があるが、ひとつとして完全に同じ意味を表す単語はないとソシュールは考えた。完全な同義語がないということは、あるひとつの単語の意味を決めるには他と違うということを考慮しないといけないことになる。つまり、言語には、単語の意味を他の単語との関係で決定する「体系」がある。
「体系」内の要素の価値(意味)を決める要素(単語)が線状に並べられて、形成される「構造」にソシュールは言語の本質を見出した。そして、この発見は、そうした体系と構造の性質が、言語だけでなく、婚姻関係や神話の物語構成、経済交換など、人類の文化に普遍的に認められるものであるということが分かり、構造主義の時代が到来した。
要約終わり。
■ソシュールに続いた直系の研究とソシュール礼賛
第2章「ソシュールの考えはどう継承されたか」では、音素に注目したプラハ学派、関係性を重視したコペンハーゲン学派などソシュール直後の継承者たちの研究が取り上げられる。
第3章で「花開くソシュール」は、ソシュールの考えの不足を補ったり、別のユニークな考えを持ち込んで、構造主義言語学を発展させた研究がいくつか紹介される。具体的言語事例を使って構造主義アプローチを実践したバンベニスト、コトバは経済的にできているという機能主義を提唱したマルチネなど。
マルチネは面白い。言葉は記憶や発話の負担が少ない方向に変化していくという機能主義は、言語を物理や経済的に考える仮説。「パーソナルコンピュータ」は長いので、使われているうちに発話しやすい「パソコン」になる。だが、短い言葉は同音異義語が重なって理解しずらくなったりするので、すべてが1文字とか2文字の単語になると脳の負担が増える。ふたつの経済性の均衡で言葉は変化していくという話など。
著者はソシュールは言語学を、疑いえない原理だけを基準に科学にしたとして高く評価している。
「その意味で構造主義の方法こそが、ソシュール以来の健全な科学的分析の伝統を受け継いできているものと確信します。コトバの本質を解明することを目的とする言語学で、構造主義の考え方がこれまでにもまして多くの研究者によって踏襲されていくことが、研究の結果を安心して受け入れることができる学問分野としての発展につながるのです。」
ソシュール絶賛の結論でこの本は終わる。
今、インターネット関連の研究の世界には情報系の人と言語系の人がいると思う。情報系で自然言語処理やセマンティックWebをやっている人は意外にソシュール言語学や構造主義を知らない気がする。コンピュータで言語を扱いやすくしたチョムスキーの言語学ばかりが取り上げられている気がするが、大元の哲学を知るにはソシュールから入るほうが得るものが多いのではないかとこの本で復習して、思った。
2004年12月11日
私・今・そして神―開闢の哲学
タイトルだけ見ると宗教かと思えるが、完全に哲学書。私、今、神という3つの大きなテーマに対して、過去の大物哲学者たちの定義に対して修正や反論を試みつつ、総括する。私たちはこれらの概念を当たり前のように使ってしまっているが、深く考えるといかにそれらの定義があやふやであるかがよく分かる。
■5分前に世界が創造された?
この本の中心テーマの切り口のひとつが「五分前世界創造説」。世界や宇宙は100億年前だかに始まって今まで続いていたように考えられているが、もし起源が5分前にあったと考えたらどうなるか?。世界はいたずら好きな神によって、あたかも長い歴史を経たかのように、5分前につくられたと仮定してみる思考実験である。それは化石も古文書も5分前に偽造されて存在しているような世界だ。
過去という概念は記憶と関係がある。カントは「経験一般をならしめる条件が同時に経験の対象をならしめる条件」だとした。これを記憶という経験にあてはめれば、「記憶一般を可能ならしめる条件が、記憶の対象をならしめる条件」ということになる。記憶の対象とは過去のことだから、では「記憶をならしめる条件」とは何か、ということになってくる。著者曰く、それは「過去が現在に記憶をはじめとする痕跡を残すという構図そのもの」なのではないかという。
実際に記憶していること自体が過去そのものを作り出すわけではない。たとえば永遠に発覚しない完全犯罪が考えられる。誰も覚えていないからといって、現在に痕跡を残さなかった過去そのものの存在を否定することはできない。過去は記憶と独立して存在できる。
過去そのものと過去の痕跡は別物である。過去の痕跡(記憶)はインスタントに作ることができる。だから「きまぐれな神によって5分前に全住民が架空の過去を信じた状態でこの世界が創造された」は可能な事態である。だが、全能の神であっても過去そのものをそれと同時につくりだすことはできないのではないか?という面白い考え方をここで著者は持ち出す。
「住民の今の記憶を5分前に神が創った」という事態の意味を私たちは理解できる。だが、神が、誰も覚えていない過去そのものをその時点で同時につくる、とは何をすることなのか、私たち住民は理解することができない。
私たちは無神論者であっても神を信じてしまっているからだ。全能の神だが、全能とは私たちが何をしているのか識別理解できる範囲で全能なのであって、その意味が理解できないことは神にもできないことになる。私たちは理解できる形で捉えられてはじめて、それが起こったことと考える。理解できないことは起こりえない。そうした事態は強く無意味だからである。
よって、全住民の記憶が5分前に作られたという自体はありえるが、5分前に世界自体が過去そのものなしにつくられたという自体はありえないことになる。著者は続けて、今度は記憶ではなく近くがすべて偽者だったとしたら?、もし世界5分ごとに作り直されているとしたら?、私が昨夜作ったのだとしたら?など、いくつかの違った仮定を検討していく。
世界を開闢という特異点を考えることで、私や今や神といった根本的概念を洗いなおしていくことになる。
「
開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。この構造こそが、本書全体を通じて私が問題にしたいことの根源である
」
■ライプニッツの原理とカントの原理
前半では「今」を考えるにあたって二つの原理が考察される。
・何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ(ライプニッツの原理)
・起こることの内容的なつながりによって何が現実かが決まる(カントの原理)
ライプニッツの原理では、たとえば突然、ドラエモンが目の前に現れたり、ある時刻を境に自然法則が逆になるようなことが起きても、それは現実だと認めていく考え方。カントの原理は、平行分裂する世界観を前提としていて、今と連続する内容でなければ現実ではないとする考え方。
ライプニッツの原理の正しさは、特に「私」の現実にとっては疑いようがないほど確かなものになる。たとえ信じられないようなことが起きようが、主体の私が現実とつながっているのだから、現実でありえる。過去の歴史経過と今起きたことがつながっていないように思えてもなお、起きたことは現実である。
だが、世界の現実という視点を考えてみると、カントの原理も正しそうに思えてくる。分裂していく世界のうち、過去の歴史経過とつながった世界とそうでない世界があったら、つながった世界の方を私たちは現実だと認識するだろう。そうでないと、「私」が存在で分裂してしまって存在できないように思えるからである。
この他、時間に関する考察だとか私的言語の可能性などが論じられる。
長い議論の末、著者はこう書いている。
「
現実世界は諸可能世界の内の一つの世界であるに過ぎない。ところが逆に、それらの諸可能世界はすべて、現実世界の内部で構想されているに過ぎないともいえる。だから、われわれはその現実世界の存在を「証明」することができない。それは必然的に前提されるほかはない。すべてはそこから始まるのだ
」
開闢はどうやらこの前提するという行為の中にありそうだ。だが、言語や知覚や、脳が作り出せる概念のあり方について構造的制約があるがゆえに、前提の内容を確認しようとすると、逃げられてしまう気がする。そういう逃げられてしまう根本を、あの手、この手で追い詰めて見つめなおす作業自体が哲学の面白さであり、パースペクティブを拡げる手段としての有用性でもあるのだろう。
この本は簡単なようでいて、かなり難しいことを言おうとしているようだ。読み終わって、考えさせられる部分が多かった。著者の他の本を続けて読んでみようと思った興味深い一冊。
Passion For The Future: 「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001835.html
Passion For The Future: 物理学と神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001503.html
2004年09月26日
閉じつつ開かれる世界―メディア研究の方法序説
著者の東海大学の水島助教授とは面識がある。インフォシーク編成部長として黎明期からバブル時代にかけてネット広告の最前線で働き、引退。東大の情報学で有名な西垣通教授に弟子入りしメディア研究に没頭。現在は東海大学で教鞭をとっている。
学者として最初の渾身の一作。期待度200%で熟読。3割もまだ理解できていないような気はするのだが、勇気を出して書評させていただきます




















