2004年12月11日

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・私・今・そして神―開闢の哲学
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タイトルだけ見ると宗教かと思えるが、完全に哲学書。私、今、神という3つの大きなテーマに対して、過去の大物哲学者たちの定義に対して修正や反論を試みつつ、総括する。私たちはこれらの概念を当たり前のように使ってしまっているが、深く考えるといかにそれらの定義があやふやであるかがよく分かる。

■5分前に世界が創造された?

この本の中心テーマの切り口のひとつが「五分前世界創造説」。世界や宇宙は100億年前だかに始まって今まで続いていたように考えられているが、もし起源が5分前にあったと考えたらどうなるか?。世界はいたずら好きな神によって、あたかも長い歴史を経たかのように、5分前につくられたと仮定してみる思考実験である。それは化石も古文書も5分前に偽造されて存在しているような世界だ。

過去という概念は記憶と関係がある。カントは「経験一般をならしめる条件が同時に経験の対象をならしめる条件」だとした。これを記憶という経験にあてはめれば、「記憶一般を可能ならしめる条件が、記憶の対象をならしめる条件」ということになる。記憶の対象とは過去のことだから、では「記憶をならしめる条件」とは何か、ということになってくる。著者曰く、それは「過去が現在に記憶をはじめとする痕跡を残すという構図そのもの」なのではないかという。

実際に記憶していること自体が過去そのものを作り出すわけではない。たとえば永遠に発覚しない完全犯罪が考えられる。誰も覚えていないからといって、現在に痕跡を残さなかった過去そのものの存在を否定することはできない。過去は記憶と独立して存在できる。

過去そのものと過去の痕跡は別物である。過去の痕跡(記憶)はインスタントに作ることができる。だから「きまぐれな神によって5分前に全住民が架空の過去を信じた状態でこの世界が創造された」は可能な事態である。だが、全能の神であっても過去そのものをそれと同時につくりだすことはできないのではないか?という面白い考え方をここで著者は持ち出す。

「住民の今の記憶を5分前に神が創った」という事態の意味を私たちは理解できる。だが、神が、誰も覚えていない過去そのものをその時点で同時につくる、とは何をすることなのか、私たち住民は理解することができない。

私たちは無神論者であっても神を信じてしまっているからだ。全能の神だが、全能とは私たちが何をしているのか識別理解できる範囲で全能なのであって、その意味が理解できないことは神にもできないことになる。私たちは理解できる形で捉えられてはじめて、それが起こったことと考える。理解できないことは起こりえない。そうした事態は強く無意味だからである。

よって、全住民の記憶が5分前に作られたという自体はありえるが、5分前に世界自体が過去そのものなしにつくられたという自体はありえないことになる。著者は続けて、今度は記憶ではなく近くがすべて偽者だったとしたら?、もし世界5分ごとに作り直されているとしたら?、私が昨夜作ったのだとしたら?など、いくつかの違った仮定を検討していく。

世界を開闢という特異点を考えることで、私や今や神といった根本的概念を洗いなおしていくことになる。


開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。この構造こそが、本書全体を通じて私が問題にしたいことの根源である

■ライプニッツの原理とカントの原理

前半では「今」を考えるにあたって二つの原理が考察される。

・何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ(ライプニッツの原理)
・起こることの内容的なつながりによって何が現実かが決まる(カントの原理)

ライプニッツの原理では、たとえば突然、ドラエモンが目の前に現れたり、ある時刻を境に自然法則が逆になるようなことが起きても、それは現実だと認めていく考え方。カントの原理は、平行分裂する世界観を前提としていて、今と連続する内容でなければ現実ではないとする考え方。

ライプニッツの原理の正しさは、特に「私」の現実にとっては疑いようがないほど確かなものになる。たとえ信じられないようなことが起きようが、主体の私が現実とつながっているのだから、現実でありえる。過去の歴史経過と今起きたことがつながっていないように思えてもなお、起きたことは現実である。

だが、世界の現実という視点を考えてみると、カントの原理も正しそうに思えてくる。分裂していく世界のうち、過去の歴史経過とつながった世界とそうでない世界があったら、つながった世界の方を私たちは現実だと認識するだろう。そうでないと、「私」が存在で分裂してしまって存在できないように思えるからである。

この他、時間に関する考察だとか私的言語の可能性などが論じられる。

長い議論の末、著者はこう書いている。


現実世界は諸可能世界の内の一つの世界であるに過ぎない。ところが逆に、それらの諸可能世界はすべて、現実世界の内部で構想されているに過ぎないともいえる。だから、われわれはその現実世界の存在を「証明」することができない。それは必然的に前提されるほかはない。すべてはそこから始まるのだ

開闢はどうやらこの前提するという行為の中にありそうだ。だが、言語や知覚や、脳が作り出せる概念のあり方について構造的制約があるがゆえに、前提の内容を確認しようとすると、逃げられてしまう気がする。そういう逃げられてしまう根本を、あの手、この手で追い詰めて見つめなおす作業自体が哲学の面白さであり、パースペクティブを拡げる手段としての有用性でもあるのだろう。

この本は簡単なようでいて、かなり難しいことを言おうとしているようだ。読み終わって、考えさせられる部分が多かった。著者の他の本を続けて読んでみようと思った興味深い一冊。


Passion For The Future: 「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001835.html

Passion For The Future: 物理学と神
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001503.html


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Posted by daiya at 2004年12月11日 23:59 | TrackBack このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加
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