美学への招待

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・美学への招待
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私たちはいつのまにか流行歌の歌手のことを「アーティスト」と呼ぶようになった。これを「芸術家」と訳したら違和感がある。アートと芸術は別物で、無意識にアート<藝術という前提があるのである。しかし、どこからがアートでどこからが芸術なのかと問われると戸惑う。

現代において芸術とは何かという難しい問いに著者は真正面から答えている。

「近代の藝術、というのは端的に藝術ということです。なぜなら、ほかの文化圏においては、また西洋でも近代以前には、「藝術」の概念は存在しなかったからです。今日われわれが藝術と見做している作品のレパートリーは広大なものですが、それは、西洋近代において成立した藝術の概念を、それ以前の時代に、また異文化の世界に適用したものです。たとえば、百済観音は仏像以外の何者でもありません。」

「ところが藝術とは、広大なartsの領域のなかからその一部分を取り出して、価値的に区別したものです。具体的に言えば、絵画は藝術だが、家具を作るのは職人仕事だ、ということになりますし、さらに細かく言えば、油絵は藝術ですが銭湯にある富士山のタイル画は職人仕事という具合に区別されます。その区別の標とされてきたのは、作品に込められた精神的意味の深みです。」

デザインや職人芸は、芸術というよりアートといったほうがおさまりがよい。ネイルアートサロンなどという言葉もあるが芸術とは関係がなさそうだ。「背後に精神的な次元を持ち、それを開示することを真の目的としている活動が藝術です。」という著者の結論が納得である。デザインや職人芸では作者は透明で匿名であることが本来の特性であるのだから。

この本の芸術論の中でやはり面白かったのはコピーとしての芸術という章である。現代の私たちは、生演奏のコンサートや演劇の舞台をたまに劇場で見るが、DVDやCDは自室やiPodでひとり鑑賞することのほうが圧倒的にが多い。芸術の鑑賞スタイルが大きく変わってきているのだ。

「ここに、複製による藝術体験の特徴を見ることができます。すなわち、複製の体験は個人化し、体験の様式は自閉的なものになります。それは藝術だけのことではなく、われわれの生活様式全般に広く見られる現象です。」

そしてコピーで知ったモナリザを追体験するためにリアルの美術館へ向かうのである。商品化されたコピーがオリジナル以上の影響力を持っている時代になった。自分の体験をみても確かにコピーで知って(たとえばネットで美術館を調べて)、オリジナルを追体験するという機会のほうが多くなってきたように思う。

自宅の大きなハイビジョンテレビで鑑賞する絵画のほうが、混雑する企画展で遠巻きに眺めるオリジナルよりも、深く味わえたりすることさえある。これから現代の芸術を大きく変えるのは、実は高精細なディスプレイの技術だったりするのではないだろうか。

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このページは、daiyaが2008年3月 4日 23:59に書いたブログ記事です。

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