スパイ・爆撃・監視カメラ---人が人を信じないということ

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・スパイ・爆撃・監視カメラ---人が人を信じないということ
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左翼地下活動が盛んな前世紀初頭の「スパイ」の時代、飛行機と空爆による「みなごろし」の時代、監視カメラとゲーテッドコミュニティの「プライベート・セキュリティ」の時代。3つの時代の3つのキーワードを軸にして、人が人を信じないということ、監視テクノロジーの関係性を探る社会史。

技術と人間不信は補完関係にある。たとえば銀行のATMには、暗唱番号認証と監視カメラが当たり前についてくる。私たちは自分が社会に疑われていること、相手から信用されていないことについて鈍感になっていると著者はいう。そして機械化によって人は目を合わせることがなくなると、人間は反社会的な行動をとりやすくなる。戦争では、遠隔からの爆撃技術によって、人が人をためらいなく殺せるようになった。機械の目には功罪の両面がある。

監視技術はふつうでないものを発見する技術だが、公共空間においてはふつうこそ疑わしいという話が面白かった。社会学者のアーヴィング・ゴッフマンの「ふつうの外見」という概念が紹介されている。

「攻撃の意図を隠す側と、意図に気づいているものの、それを隠している側とは、いずれも「ふつうの外見」をとる。このとき、「ふつうの外見」は、もっとも疑わしい。個人は、自分の周囲にいる「ふつう」の他者をすべて疑わざるをえなくなるのだ。こうなってしまうと、その人をとりまく世界は、熱い(Hot)ものになる。ゴッフマンは、<Hot>という単語を使っているが、これは、攻撃者が迫っていて危険だというような意味と読める。 にもかかわらず、私たちは、この「ふつうの外見」を用いなければ、相手に対して「攻撃の意図がないこと」を伝えられないのである。同様に、相手が攻撃してくるのではないかと「疑っていないこと」を示すこともできない。」

「個人は、ふつうの外見の背後で、逃走したり、またもし必要なら再び争いに戻ってくる用意をしている」。未知の相手と場を共有するということは、ある種のだましあいであり、これが負の相互作用になることもあれば、秩序維持にはたらくこともある。結局はそこで生きる人々のこころの在り方が社会の性格を変えてしまう。心の武装解除、賭けとしての信頼に賭けてみること、目を合わせることの重要性が、重要なのだ、歴史から学びなさいというメッセージがある。

第一章で描かれた20世紀前半のスパイというのは、とても人間臭くて監視する方もされる方も、人の目を意識する仕事だったことがよくわかる。ある意味人間的な監視社会だ。次第に機械の目がその監視を代行するようになると、人間性のリミッターがはずれて、監視対象をヒトではなくモノとして扱うようになる。安全やコストのためといって高度化されてきた監視社会の危うさを改めて認識させられる本だ。

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このページは、daiyaが2011年3月 9日 23:59に書いたブログ記事です。

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