神の発見

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・神の発見
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作家 五木寛之とキリスト教の司教 森 一弘の対談集。五木は仏教、森はキリスト教の立場から、日本人にとっての神とは何かを対話する。

日本ではキリスト教は成功しているとは言いがたい。ザビエルの布教から450年が経過したが、キリスト教信者は国民の1%強に過ぎない。これに対して、仏教は葬式や生活の中に深く根ざしており、全国には7万5千の寺がある。この違いを五木寛之は司教にぶつける。語り口は二人とも穏やかだが、議論の内容は二つの宗教の必死のせめぎあいで、スリリングに読める。

五木はキリスト教を日本人の精神構造にとって異質なものと考えているようだ。血を流して磔にされたキリスト像を、日本人は聖なるものというよりは、怖いと感じてしまう。崇高すぎて浮世とかけ離れた唯一神はピンとこない。キリスト教の神との契約や原罪の教えも、日本人の人生観とはどうも遠い気がする。

五木は「お行儀の良い、まじめな集団」とキリスト教信者のイメージを表現している。天国にはユーモアがなさそう、とも言う。確かにキリスト教はアタマで理解する宗教のイメージが私にもある。土俗の宗教である神社やお寺の宗教は、歴史的にも一般大衆の生活感の中から自然にわきあがる精神エネルギーと密接している気がする。やはり、日本人にとってキリスト教は異質なものなのか。

こうした疑問に対して、教皇と話したこともある司教は、日本に伝わっているキリスト教と原義の相違を話したり、一般に誤解されているイエスや神の位置づけを説明していく。「生活の根っこのなかで出会う神」「見えざる神との官能的なつながり」というテーマは興味深い議論だった。現世での暮らしと密接につながることや、官能性を信仰に利用することを、どちらの宗教も否定していないことがわかる。

物欲や性欲や支配欲を持ち、目の前の出来事に一喜一憂するのが、普通の人間のあり方だ。いくら崇高な理念や聖書原典を説明されても、なかなか心の根っこでは納得できない。そこで五木は「和魂洋才」をキーワードにあげる。日本人は和魂(日本土着の思想)と洋才(西洋からきた思想や技術)を融合させることに完全に成功したわけではないのだという。

五木は和魂ではなく無魂が現代日本人なのだと説く。


そしていま、日々さまざまなかたちで発生する事件は、その無魂洋才という抜け道が行き止まりに直面したことを物語っている。

敗戦後のこの国が、なんとなく好調に走り続けてこられたのは、たぶん、無魂という制約なき身軽さによるものだろうと思われる。魂というものは、つねに人びとの心や社会にブレーキとして働くものだ。

「そこまでしてはいけない」「そうすべきではない」というブレーキが外された車は、当然、他の車より速い。めざましく失踪し、そしてやがて転覆する

だからこそ、いま宗教を考えてみる意味がある。

森司教が学生時代に冬山に挑戦したときのエピソードが「神の発見」の瞬間として語られる。次の一節を読んで、宗教に生きる理由が少し分かった気がした。


いざ、登山口から山小屋目指して登り始めたとき、積雪が深く、道に迷い、あらぬ方向に行ってしまいました。冬山の日の暮れるのは早く、日が暮れてしまうと、完全な闇です。私たちは、それ以上歩いては危ないと判断し、大きな岩を見つけ、その陰で一晩を過ごそうと決めました。結果として、それで助かったわけですが、そのとき、遥かかなたでしたが、山の頂に、山小屋からもれでてくる光を見たのです。その瞬間、私をとらえていた、死の恐怖や不安が消え。気持ちが本当に楽になりました。

現実は変わらなくても、遠くに光が見えるのと見えないのとでは大違いだというのである。私は無宗教だが、光が見える人は羨ましいなと思う。宗教者は、人生と言う問題に答えがあるかどうか、予め分かっている人たちなのだろう。その答えが何であるか、いつ分かるかは不明であっても、究極的に答えがあると知っている人は、精神的に余裕が持てそうだ。これが信仰を持つ者の落ち着きや平安につながっているのだろう。

無宗教の現代日本人が拠り所にしているのは、科学技術や市場経済だろう。あるいは民主主義や自由のイデオロギーかもしれない。しかし、仏教やキリスト教と違うのは、技術や市場、イデオロギーは、人に必ずしも暖かい光を与えていない。だから無魂なのであり、現代人は漠然とした不安を持って不安定に生きているのだと思う。

だが、「大いなるもの」に寄りかかるのではなく、お互いがよりかかりながら、生きてきたのが日本人だ。「神の発見」の大切さはわかるが、日本人にとって、現実にはかなり難しい課題だとも思った。

・禅的生活
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・日本人はなぜ無宗教なのか
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このページは、daiyaが2005年8月28日 23:59に書いたブログ記事です。

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