真鶴

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・真鶴
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「歩いていると、ついてくるものがあった。
まだ遠いので、女なのか、男なのか、わからない。どちらでもいい。かまわず歩きつづけた。」

この最初の一行にぞくっとして、これはひきこまれてしまうぞと確信した。なかなか書けない見事な書き出しであって、トンネルを抜けるとそこは雪国だった、級である。ついてくるものは憑いてくるものであるという、そういう異界ものの話である。すうっと異界にひきこまれて2時間半で読み終わり、無事、こちらがわへ戻ってくることができた。

句読点で短文を区切り、会話も内面も続けてことばを置いていく実験的な文体は、主人公と本当はそこにいないものの間を地続きにする。ひら仮名の短いことばは、この世にやってきたばかりの、子供のことばであり、常世のことばに近いのかもしれない。

「真鶴、はじめて。百が笑う。わたしも、こないだが、はじめて。一緒に笑う。岬の突端で突然空が広くなり、遥か下に海をのぞんだおりの、頬を耳を風がなぶったときの感触をいちじに思い出した。」

なにげなく取り出した一節だが、短文も活きているし、岬の突端で、からの一文も名文だと思う。日本語の表現力を引き出している。そして川上 弘美の文章は、根っからの女の文体だなと思う。生理があって血を流し、男に抱かれて、子供を産み、浮気に嫉妬して、ヒステリーを起こす。愛しすぎて男の首を寝ている間に絞めるかもしれない。そういう、どうしようもなく女であるっていう状態の文体である。男性は読んでいて怖くなるかもしれない。女性はどう読むのだろうか。

題名の「真鶴」というのもすごいではないか。温泉地の熱海でもなく、湘南海岸の江の島でもなくて、小さな港町の真鶴である。私は子供の頃に一度だけ行ったことがあるが、やはりこれは真鶴でなくてはいけない。大磯でも二ノ宮でもだめである。他の東海道の駅ではイメージが違うのである。ついてくるものがあるとすれば曇りときどき雨の日の、真鶴だという気がする。真鶴(まなづる)という字も音も、なにかが憑いている。

さて、文体の技巧やタイトルばかり褒めているのは、この小説が本当に素晴らしいので、ちょっとでもネタバレをしたくないからである。絶賛の5つ星である。

概要だけ引用すると「失踪した夫を思いつつ、恋人の青茲と付き合う京は、夫、礼の日記に、「真鶴」という文字を見つける。“ついてくるもの”にひかれて「真鶴」へ向かう京。夫は「真鶴」にいるのか? 『文学界』連載を単行本化。 」というものである。

・龍宮
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004759.html

・雷の季節の終わりに
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・夜市
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コメント(1)

継之助 :

「歩いていると、ついてくるものがあった」
これを読んだ時点で私は、
「もの」を「者」ではなく「物」と解釈しました。
なぜなら、それに続く「あった」を人に対して使うのは
昔話などに限られているからです。
というのも、昔話の「あった」は古文の「ありけり」
の現代語訳だからであり、
現代語において「ある」は物に対して使うのが正しい。
すると「ものがあった」は「物があった」と解釈できます。
ところが、次の文で
「まだ遠いので、女なのか、男なのか、わからない」
とあり、ここで前文の「もの」は、
「物」ではなく「者」だったことが判明します。
私はここで騙されたと感じると同時に
著者の持つ日本語の素養に疑問を感じ始めます。
そして読む気力が低下し始めます。

つまりこの書き出しを
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった、級」と
褒めそやすことは、川端さんに対して大変失礼だと私は思います。

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このページは、daiyaが2007年1月16日 23:59に書いたブログ記事です。

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