Books-Philosophy: 2004年3月アーカイブ

基礎情報学―生命から社会へ
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ついに西垣情報学という巨大氷山の水面下に隠れた体系が一般に語られた、という感想。
情報の大統一場理論へ出発点におかれた青写真として大傑作。

■情報の定義、観察者問題のその先へ

この本の情報の定義は以下のようなものである。

「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」
( a pattern by which a living thing generates patterns )

著者は、情報の本質を生命情報の意味作用と考え、機械情報を主な対象としたシャノン、ウィーバーらの古典情報論は大きな情報学体系の一面的な捉え方に過ぎないとした。そして「意味をつくりだす存在としての生命」から出発し、意味作用を担う情報が、社会的に伝達され記憶されていく基本的なメカニズムを根底から考察した。それが書名となっている「基礎情報学」である。

基礎情報学で最も基本的単位となる生命は、自らの構成要素を自らが内側から産みだし続けるような自律ネットワークを指す「オートポイエティック・システム」であると定義する。このシステムが、情報を解釈することで意味が生まれる。

解釈者/受信者である生命は、脳と心的システムを持ち、刺激や環境変化に応じて意味作用を行い継起的に、自らの構成を変えていく。ヒトのこころであれば、何かを知ることで、思考の内容が変っていく。生命の体験そのものである原-情報は、心的システムに解釈され、言語化シンボル化、記述されることで、「社会情報」となる。歩いていて転んで「痛いっ」と言うとき、転んだことが原-情報であり、痛いのが社会情報である。情報は生物が生きるうえでの価値、意義から生じている。

心的システムの変容過程は、生命情報を受信した生命と「構造的カップリング」という共犯関係にある観察者(受信者と同一人物でもありえる)の視点があって、意味を持つ。原-情報のままでは、意味がない。よって生物が誕生する以前の地球には意味がなかったということになる。

■情報は伝達されない

第2の情報である社会情報こそ、私たちが一般的に「情報」と呼んでいるものである。社会には意味を共有する「コード」が存在している。ほとんどの社会情報は言語を使って表されており、コードは言語システムや背後の制度、権力関係に規定される。

この部分はフーコー哲学の権力と言説の関係に似ている。私たちは自由に思考しているようでいながら、政治、経済、法律、家族などの制度、権力の制約・拘束に縛られている。

基礎情報学と一般通念が大きく違う部分として面白く感じたのが、基礎情報学では人から人へ情報は伝達”されない”としているところである。対話によって情報がAさんからBさんに共有されたとしても、決して同一の意味内容をAさんからBさんの心的システムへ複製ができたわけではないというのだ。過去の知識も考え方も異なる心的システム同士は、完全に意味を共有することはない。が、対話による情報伝達ができているという観察ができるとき、そこには、情報伝達ができたことと同義の「意味伝達の擬制メカニズム」を想定できる、とする。

つまり、人は本質的には分かり合えないが、分かり合えたことと等価の擬制こそコミュニケーションと呼んでいるものであるという意味になるだろうか。ここで、連想したのが随分昔に読んだ、次の本の一説だった。

柄谷行人「探究1」P50-より引用。
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私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような《他者》にとって、成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、”文脈”があり、また”言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明できる。---規則、コード、差異体系、などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの跳躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。

この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ神秘がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そしてわれわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換における危うさを露出させるような他者でなければならない
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情報や知識を他人と交換しようとして対話を始めるとき、私たちは、相手に分かってもらえるかどうか、事前には知りえない。とりあえず、話してみた結果、分かってもらえたり、そうでなかったりするのだ。文章やことばの分かりやすさ以前に、ことばの命をかけた跳躍というプロセスが存在している、という論である。基礎情報学にもコミュニケーションの偶然性という言葉がでてくるのだが、偶然性は跳躍のドラマなのかもしれないと思う。

■古典的名著になる予感、インターネットシステムに関する私的考察

基礎情報学は「マスメディアー機能的分化社会ー心」という階層構造を持ち、上位が下位を制約、拘束、規定しているとする。この本では、後半ではマスメディアやインターネット、ITによって溢れ始めた機械情報の意味について考察が行われる。個の立場から社会、マスメディアに至るまでを、一貫した理論で語り、遂には大きな情報学の体系の円環を完成させる。

部分的に語られることの多かった著者の情報論の氷山の下に埋もれた基底部分がいかに大きくて精緻なものかに圧倒される。読後、しばらく知的な感動で声もでなかったくらい。素晴らしい本で、10年後、20年後にも、この本は古典的名著で、情報学を学びたい人にとっての、考えるための起点となる教科書であり続けるのだろうなと思った。

だが、ひとつだけ、最終章近くの「インターネットのつくる現実ー像」の、おまけ的部分だけがどうしても納得できなかった。


基礎情報学ではインターネット・システムをいかにとらえるのであろうか。当然ながら「インターネット・システム」とは、インターネットのハードウェア/ソフトウェアのことではなく、「インターネットコミュニケーション(インターネット上で交わされるコミュニケーション)」を構成要素とするオートポイエティック・システムである。その連辞的メディアは「テーマ」であり、二値コードは「刺激的/非刺激的」であると考えられる。マスメディア・システムとは異なり、視聴率や販売部数のような明確なプログラム(二値コードの判定基準)は存在しないが、刺激的でも論争的でもないコミュニケーションは周囲から無視され、後続するコミュニケーションが生成されない。(以下略)

本当にインターネットでは「刺激的でも論争的でもないコミュニケーションは周囲から無視され」ているだろうか。90年代中盤であればその傾向は強かったかもしれない。だが、最近のインターネットの状況を考えると、私にはそうは思えない。ある程度のネットのリテラシーを持っているユーザは、裏情報的な刺激情報には距離を置くし、コミュニティにおける挑発的な発言には返事をしないはずである。

本当の二値コードは「共感可能/共感不可能」ではないかと私は考える。

著者の言う階層システム構造において、心的システムを規定しているコードは、2ちゃんねる的な言葉を使うならば、「オマエモナー」であり「ワタシモナー」なのではないか。インターネットユーザは、マスメディアが提示する少数の識者の意見を与えられるのではなく、ネット上に広がりを持つ無数の意見群の中から、自らが共感できる情報を選択する/他者が共感する情報を選択発信するのではないか。

インターネットが持つ潜在的脅威でありパワーは、集団ヒステリー、集団妄想のカタストロフではなく、歴史的に通常サイズ(この本にある数字では150人)のコミュニティ規模を超えた巨大な集団による、理性的且つ、ある程度は知的な、しかしテンポラリなシンパシー、臨時的な連帯を作り出してしまうことにあるような気がしている。スマートモブズ、「祭り」現象がそれに当たる。これらの背後にあるのは、刺激による過剰反応や熱狂的な論争ではないだろう、と思う。

・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

・情報検索のスキル―未知の問題をどう解くか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000616.html

と絶賛してみましたが、「本当にオマエそう思ったか?」と各所よりツッコミを頂きまして、素直なもうひとつの書評を読みたい方は、次をクリックしてみてください。

・対称性人類学 カイエ・ソバージュ
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名著。現代思想に関心のある方は絶対のおすすめ。

コンピュータは0と1で考えると言うが、根源にあるのは2つの項目を操作する「二項操作」「二項論理」である。コンピュータを生み出した人類の思考も、同じ論理にもとづいているという考え方がある。例えば人類学者のレヴィストロースは、神話の研究の中で、世界中の神話の物語には共通する構造があることを発見した。良いことや悪いこと、悲しみや喜びの感情など、ふたつの対立する事柄を補い合うような隠れた数学的構造が、神話のストーリーを形作っているという説である。この構造は、神話だけでなく人間の文化に広くみつかり、隠れた構造に本質を求める構造主義哲学の端緒となった。

二項の関係は、対称か非対称である。数学や科学は非対称の世界である。あるものが存在すると言うことは、それは別のものではないということを意味する。現代人はアイデンティティを大切にする。アイデンティティもまた、自分が他のものではないという非対称の性質を帯びる。何かを所有すれば、それは他者のものではないことになる。動物と人間、人と神、男と女は違う。あるものはあるものを支配する。動かす。操作する。現代の世界は非対称の論理にあふれている。

神話の世界は、同じ二項操作を用いながら、逆の世界をつくりあげている。人間と動物の区別がなく、人と神が同じで、生と死の世界にも境界がない。単一の価値尺度はなく、すべては多元的、重層的な意味を持つ。それゆえ、神話は近代小説と比較すると、あまりに物語が突飛で、論理的矛盾を内に孕んでみえる。神話は科学とは異なる、対称性の論理で記述されてきたからだ。

科学や近代型宗教のなかった時代に世界を説明しようとしたのが神話であるならば、神話は最古の哲学であり、科学である。そこには人間のもうひとつの「野生の思考」を見出せると著者は考えた。著者はここに「対称性人類学」という名前を与え、二項操作の仕組みを見直すことで、古典的な構造主義を超えて、新しい世界観を開拓できるとした。

この本は、宗教学者、中沢新一が大学における講義をベースに出版した名著カイエソバージュシリーズの最終巻である。神話の構造、贈与と交換の経済、神という概念の成り立ち、権力と国家といった既刊で扱ってきたテーマを遂にひとつに統合し、思想や宗教が人類の未来にとってどのような意味を持ち得るかを考察した集大成である。

南米アマゾン流域のグアラニ族には<一>を悪とする哲学があるという。滅びうるすべてのものが<一>なのだという。私たち現代人はすべてに一方的にひとつの意味を与えようとする。三大宗教も唯一神の教えをもち、文化人は真・善・美のような一元的価値観を、社会にはりめぐらせることを良いことを考える。だが、この考え方の基底となる「Aは非Aではない」という当たり前の思想が、グアラニ族にとっては諸悪の根源である。それゆえ王も政府も国家も生まれることはなかった。彼らは野生の思考の実践者たちである。

近年の認知心理学や脳科学の進歩によって、無意識が意識を強く支配していることがわかっている。無意識にはまだ野生の思考である対称の論理が根強くいきづいている。それは、意識回路の壊れた分裂病患者の行動や思考を研究することでも実証される。生後間もない赤ん坊を観察しても分かる。夢もまた同じ。私たちは、無意識のレベルでは自己と他を区別していない。Aは非Aでもあり、部分は全体であり、過去は現在であり未来でもあると考えることができる。

贈与と交換に関する分析もある。現代の経済原理は等価の交換である。同じ価値のあるものを貨幣を使って交換しようとする。この交換は、持てるものと富むものを分けてしまう非対称の論理の典型であるとする。貨幣が仲立ちをすることで、人と人との絆も分離され、ものの価値は一元的な価値に還元される。こうして非対称の論理が加速することで、人類の世界は「進歩」をしてきたと同時に大きな矛盾を抱えつつある。これに対して「未開の」部族でみられるポトラッチのような、持てるものすべてを使い果たす贈与交換は、一元的価値を解体する行為である。またその行為自体からも多元的で流動的な意味が生まれる。現代の下部構造としての経済を超越した新しい経済の可能性を著者はここに模索する。

9.11事件が中沢新一にとっても対称性人類学を考える大きなきっかけであったらしい。近代宗教でありながら内に対称性の論理を秘めた仏教に関する考察や、近代に登場した「幸福」概念の批判などにも紙幅をとっている。背後には一元的価値観がもたらした政治、経済、社会の問題を危機意識として始まった研究ではあるようだ。だが、宗教学者、思想家らしく、それらの問題に対する直接的なコメントをするのではなく、敢えて、広い学問領域から、対称性、非対称性の持つ事例を集め、ひとつの哲学として結実させつつある。

中沢の本はほぼすべて読んでいるが、表現が文学的でそれが読者を限定している気もする。この本も、対称性の持つ豊かさと未来性を謳いあげた詩のようにも読める本である。精霊の王という傑作を出版した直後に、この本を続けて世に出せる思想家としての力量と意欲が、彼の活動において頂点に達しつつある気がする。次に何を語るのか目の離せない私の憧れの人。すべてが深い。いい。この濃い本の内容をうまく説明できたかわからないが、手放しの絶賛の意の書評。

・関連:同じ著者の「精霊の王」の過去に書いた書評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html
・関連:同じ著者のカイエソバージュ「神の発明」の過去に書いた書評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html

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