Books-Philosophy: 2009年10月アーカイブ

・理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性
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ゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理、アロウの不可能性定理。それぞれを数学と論理学の限界、科学の限界、民主主義の限界と言いかえることもできる。3つの限界から、人間は何をどこまで、どのようにして知ることができるかを、仮想的なシンポジウム形式で議論する。

仮想的な登場人物は"司会者"と数十名。"大学生""会社員""哲学者""数学者""情報科学者""科学史家""論理学者""方法論的虚無主義者"など、それぞれの立場から、限界に対する意見が表明される。専門的な話も、大学生や会社員がわかるように、司会者が誘導する。

ノーベル経済学者のアマルティア・センは、理性の限界を認識せず、既存の合理性ばかりを追う人を「合理的な愚か者」と呼んだそうだが、ほとんどの現代人は愚か者に該当してしまうだろう。なぜ知ろうとしないかと言えば、知っても知的好奇心を満たす以上に、実践的に役立つことがほとんどないから、というのが主な原因だろう。

これら3つの限界の共通点は、人間の能力や技術が不足しているからではなくて、原理的に無理だから、という性質である。どうやっても無理、絶対無理なのである。ただし、その無理というのは理論的に極限的な状況においての話である。普通の人間がそうした限界を実際に経験することはほとんどないといっていい。だから、知っていても、知らなくても大体において、大差はないのである。

しかし、知的好奇心は満たされる。理性でとらえられないもの、理性を超越したもの、を考えるのは、とても楽しい。囚人のジレンマ、ナッシュ均衡、ラプラスの悪魔、シュレディンガーの猫、アインシュタインの相対性理論、神の非存在論、コンドルセのパラドクス...限界を説明するための何十個もの理論が紹介されている。科学や哲学の世界を積み上げ式で全部理解していくとしたら大変だが、こうした限界点を一周めぐることによって効率よく人間の知の全体像が見えてくる気がした。。

ただ、どうだろ、原理的に無理でも、原理の認識を変えることはありえるかもしれない。脳を改造して、私たちの認識や思考能力を根本的に書き換えることができるようになったら、こうした限界を近い将来に超越することもあるんじゃないかなあ。

・現代の批判―他1篇
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キルケゴールが1846年に書いた本なのだが、ここで批判対象の現代はそのまま私たちの現代とつながっており、この160年間というもの、現代性というのはほとんど変わっていないのかと可笑しくなる。基本にあるのは、革命時代は本質的に情熱的で躍動の時代だった、それに比べて現代は情けない、トホホという論調である。

「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。 アルコール飲料などの消費量の統計表があるのと同じように、分別の消費について年代順の統計表を作ってみたとしたら、今日いかに莫大な量の分別が消費されているかを知って、ひとはびっくりすることだろう。」

キルケゴールに言わせると、現代は情報過多というより分別過多なのだ。物を知りすぎて、わかったつもりで、考えてしまうから手が出ない。先進国で晩婚化がすすむ原因もここにあるのかもしれない。相手のことや未来のことを考え始めたらきりがない。情報と分別があるとき、人は見る前に跳べなくなる。

「現代は平均しておそらく過去のどの世代よりも物知りだといえるだろう。しかし現代には情熱がない。だれもがたくさんのことを知っている。どの道を行くべきか。行ける道がどれだけあるか、われわれはみんな知っている。だが、だれひとり行こうとはしない。もしだれかがついに自分自身のなかにある反省に打ちかって行動に出る人があったとしたら、その瞬間に無数の反省が外部からその人間に向かって抵抗することだろう。もっとよく考えてみようではないかという提案だけが、燃えあがる感激をもって迎えられ、行動は無感動をもって遇せられるからである。」

「もっとよく考えてみよう」は、ある意味では、分別財、検討財とでも呼べるようなビジネス書の市場を形成している。ビジネス書の大半は読まれて検討されるだけで実践されない。検索エンジンもまたその延長といえる。多くのページがヒットするがほとんど読まれない。グーグルのなかでぐるぐる逡巡するのが現代であり、それを見通したグーグルは時代の勝者なのだ。

「人生いかに生くべきかといった課題は現実の関心を失ってしまい、成熟して決断となるべき内面性のこうごうしい成長をはぐくむような幻想などありはしない。人々はお互いに好奇の目を向けあい、決断できぬままに、かつ、逃げ口上をちゃんと心得て、なにかやる人間が現れるのを待望し───現れたら、そいつを賭けの種にしようというわけなのだ。」

かくして情熱を失った人々は、自ら起業するよりも、なにかやる人間の会社への株式投資を選ぶ。結局のところ、分別と情熱というのはトレードオフなのだろうか。キルケゴールは、人は直接的に感激した後、いったん冷静な賢さの時期が来るが、さらにそれを乗り越えて考え抜いた極致にこそ、強烈な無限性の感激があると書いている。そうした高度には一般人は到達することはほとんどないのだ、とも。