Books-Philosophy: 2011年8月アーカイブ

真贋

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・真贋
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吉本隆明の論考集。文学、批評、戦争、生き方、才能、日本。わかりやすく、話し言葉風に語っているので、読みやすいのだが、10ページおきくらいに、さらっと深いことが書いてあって気が抜けない本である。この思想家は老いてからのほうが、一般読者にとって魅力を増していると思う。

いくつか私が感銘したポイントを文学論中心に抜き出してみる。

■俺だけにしかわからない価値

「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。とてもシンプルな見分け方と言ってよいでしょう。」

読者に「俺と作者にしかわからない」と思わせる作家は超一流で、「俺たちの世代にしかわからない」レベルがそれに次ぐ一流で、それ以外は全部普通の作家であるという。吉本隆明の文学批評の評価軸が鮮明にわかる。

■文学の有効性

「結局、初めは自分を慰めるだけのための密かに書いたものが、何となくいつの間にか人の目に触れるようになって、固定の読者も増えていく、そうして、その固定の読者にとってもまた、作品がその人を慰めるために役立つというのが、文学の本質的な有効性ではないでしょうか。」

文学の価値とは、自分の慰めが他者の慰めになるということ。それ以上でもそれ以下でもない。エンタテイメントの基本ともいえる定義だ。まず自分が楽しい表現の営為に始まる。最初から大衆に迎合して表現するようなのは二流、三流だということでもある。

■本の毒

「小説によっては、犯罪や人間失格的なものに価値を見出す内容のものもあります。それを読んで心を動かされることはあり得るでしょう。そして、現実世界でも人間失格的なものを目指そうとする。これを、毒がまわったととるか、人間として高度になったと解釈するか、人によって意見は分かれるかもしれません。ただ、どちらにしても確実なのは、何かに熱中するということは、そのことの毒も必ず受けるということです。」

だから文学を読めば感性が豊かになるとばかり考えていると間違うぞという。豊かにもなろうが毒も回るから、毒とのつきあいかたも覚えておかないと死ぬぞと脅す。昔は自分の思想を読んで運動に身を投じて死んだ若者がいたわけだし、三島由紀夫も自らの毒がまわって死んだんだと、時代を背負っていた思想家の迫力の論が続く。文学や思想のもつ毒の役割を強調する。善悪二元論で割り切るな、と。


人間の生き方は思春期の頃の母親との関係性で大方決まってしまうとか、明るい社会は滅びに向かう特徴で世相は暗いくらいがいいとか、三島みたいに人工的なのは無理があるとか、吉本孝明の、ちょっと偏った気がしないでもないが、歯に衣着せぬストレートな物言いが心地いい。

昭和の思想の深さを見直す文庫本としては
・人間の建設
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/05/post-1222.html
もよかったなあ。

・即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア
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即興芸術の本質とはなにか?。音楽のインプロビゼーション演奏と前衛演劇の表現を題材にしながら批評家 佐々木敦が「驚くべきことは、いかにして起こるのか?」を考え抜く。

優れた即興演奏は聴く者の期待を裏切ると同時に満足させる。音楽の約束事やありがちなパターンから自由でありつつも、音楽であることを止めてはいけない。演奏者と演奏者、そして演奏者と聴取者の想像力のせめぎあいの中から、即興は生まれてくる。それは「支離滅裂」や「破綻」や「台無し」とは違う定型なき形成だ。

「「即興」には常に「予測を予測する」というメタ的な審級がある。それはいわば「先読み」のひたすらな連鎖である。「演奏者」は「聴取者」の現前の認知によって、そのような「メタ予想」の交錯に巻き込まれざるを得なくなるし、逆に「聴取者」の方もまた、刻々と脳裏に浮かぶ自らの「予測」を「演奏者」がどこかで「予測」しつつ音を紡いでいることを忘れるわけにはいかない。こうして両者の「予測」と「メタ予測」(と「メタメタ予測」......)が激しいフィードバックを繰り返しながら、ある一度ごとの「インプロ」は生成されているのである。」

そもそも完全に自由な即興なんてあるのかという問題がある。表現者はあらかじめたくさんのイディオム、語彙を持っていて、適宜繰り出すだけではないのか?。実はイディオムの介在こそが非イディオムを可能ならしめるものなのだと著者はいう。

1)「イディオム」の編成/収斂を極力拒絶し、安定的な「構造」の成立を阻害しつつも、しかし「破綻」だけは回避し、広義の「構造」化への傾向性は担保すること

2)その場に存在する「他者」との応接、関わり合いを、一方的/根底的に反故にしないこと。

演奏=クリエイション、演奏=コミュニケーションという二つの制約条件に縛られながら、共同体の文法や言語体型、価値判断からの逃走と闘争を指向する。予定調和と思われないギリギリのラインでの破壊的創造が即興なのである。

即興やライブの魅力はデジタル複製コンテンツの時代にあって、むしろ希少性と言うか「本物」として価値は高まっていくものだと思う。

「演劇もダンスも僕が興味があるものって実は同じものなのかもしれなくて、それは要するに演劇もダンスも「今ここで一回しか起きない」っていう、「今ここ」っていうものに繋ぎ止められている。基本的には可能性の縮減の方だと思うんですよ。制限。今ここで起きた事をもう一回やってって言われても、もうそれって同じじゃないじゃんというのがあるわけじゃないですか。それがもう決定的で、そこの部分っていうのをどういう風に考えるかっていうのが、いわゆる複製芸術とかって言われるものとの違いだと思うんですよ。」

言語による即興の本質の解体は難しい。DVDや録画で後からでも見られるのにライブで見たいと思う心理は万人にある。それは即興ライブへの経験に基づく期待であり、即興の価値を証明することがいかに難しくても、それは必ず存在しているはずだ。