2004年07月12日

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脳内現象
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■主観と客観の間についての深い考察。

意識のはたらきを脳神経の電気的な情報処理モデルに還元して説明することは可能である。脳は特定の部位に特定の機能が局在しているわけではないようだが、特定の刺激に選択的に反応するモジュールが多重に結びついたネットワークであることが近年の脳科学で解明されてきている。1000億の脳細胞の相互反応のパターンを情報表現とみなすことで、全体を見おろす神の視点としての<私>を用いずとも、みかけ上の振る舞いの説明はできる。

この情報表現モデルを推し進めていけば、科学者は近い将来、主観や感情を持たないが、外面的には人間とまったく同じ反応を返すロボット(哲学的ゾンビ)を、作ることはできるかもしれない。強化学習モデルの人工知能などはその方向性にある。だが、このモデルからは、主観的な意識、<私>が現れない。それは、どこまでいっても、心がないロボットでしかない。

古典的認識論では、<私>は、脳神経の状態を外側から俯瞰して見渡す「小さな神(ホムンクルス)の視点」の存在として説明されることが多かった。「中の人」である。だが、脳科学はこれを否定する。脳の中の特定の部位に<私>が鎮座して意思決定や指示を出しているわけではないことが分かったからだ。

また、主体と客体を分離してホムンクルスの正体を要素還元的に突き詰めていくと、ホムンクルスの背後にも、さらに小さな認識の主体が存在し、さらにその背後にも何かがいる、という主体の無限後退が起きてしまう(ホムンクルスの誤謬問題)。

著者はこの問題を、難問とした上で、ひとつの答えとして、


ホムンクルスが脳の中に「小さな神の視点」を獲得するメカニズムは、主体と客体が最初から分離している通常の認知モデルでは捉えきれず、むしろ、自己の内部状態の一部を、あたかもそれを外から観察しているかのように認知する、「メタ認知」のモデルで捉えたほうが適切であると考えられる。

だとし、他の認識モジュールと並列して「メタ認知」のモジュールがあって、それが他のモジュールとの関係性を通して、<私>を発生させているのではないかと論ずる。ひとつ上の次元に<私>がいるのではなくて、メタ認知自体が仕事のモジュールがあるのではないかという推論である。

■<私>は高次の副作用、随伴現象なのか?メタ認知なのか?

我思う、故に我ありとしての<私>を否定することは難しい。生きている限り<私>が存在することだけは認めざるを得ない。<私>は高度な情報処理モデルの、副作用、随伴現象であるという考え方が、意識科学の代表的回答だと思うが、この主従逆転の論理は、とても分かりにくいのが欠点だと思う。

「脳細胞同士の複雑な相互反応のパターンが即ち人間の心なのだよ」という説明が分かりにくいのである。「社会の構成員同士の複雑な相互反応のパターンが即ち社会の心なのだよ」と説明するのと同じだろう。社会の心など想像しにくい。意識は随伴現象であるという禅問答に対して「そのココロは?」で回答するのは<私>である。<私>はやはり存在しているのだ。

科学とは客観的手続きであって、中沢新一の言う「トーラス(ドーナツ)」構造の外側を語るものだと思う。トーラスの内側にある主観の<私>は、外側の構造が緻密に描かれれば描かれるほど、地と図の関係ではっきりと浮かび上がってくるが、客観的な科学の言葉では内側自体を直接語ることができない。だから、分かりにくい。

この本では、意識の中のメタ認知のはたらきを、ホムンクルスの正体だとする。意識内部へ神の視点を統合することで、説明的にはかなり分かりやすくなったと言える。だが、<私>は他の意識のはたらきと完全に並列化されたわけではない。著者は、個物と個物の間に結ばれる私秘的な関係性について後半で言及しているが、<私>はやはり特別な次元にあるものである。

これは科学なのだろうか?。著者は科学からの独立宣言だと述べている。1000億の脳細胞の客観的振る舞いを意識だとする考え方では、人が哲学的ゾンビであろうとなかろうと変わりがない。著者の主張は、<私>がいるという事実を人は疑えないのだから、科学の公理自体に「我あり」を追加するべきなのではないかという大胆な提案なのだ。

そして、科学の基盤である、近代合理主義の出発点としてのデカルト地点まで引き返し、デカルトさえも見落としていたもの、主観と客観を統合する何かを、探すことが意識の謎の解明につながるのではないかと野望を述べている。茂木さんの言うことは大胆で、強烈に面白い。

・意識とはなにか―「私」を生成する脳
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000561.html


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Posted by daiya at 2004年07月12日 23:59 | TrackBack このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加
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Comments

「社会の構成員同士の複雑な相互反応のパターンが即ち社会の心なのだよ」はグループダイナミクスの考え方ですね.ちなみに,群衆の相互作用を客観的に眺めながら誘導を行える,Transcendent Communication (超越型コミュニケーション)システムなるものを研究しております.

Posted by: 中西英之 at 2004年07月13日 16:45

「私の意識が私の意識を思う事」って単純に面白いですね。昔、紀伊国屋書店科学選書の「内なる目」を若いながらに読破しましたが、意識の起源や進化仮説などが書かれており、難解ながらも非常に知的興奮を味わいながら読んだ事を思い出しました。私は今、橋本さんが書評をされた「創発」に興味を持ち読み始めていますが、こちらでは個の集合体が位相の異なる大きな何かを作り出すという事が書かれており、1000億の脳細胞が作る意識というものの起源や正体に思いを巡らせています。果たしてこれは科学なのか哲学か?それすら哲学してしまいそうな話題ですね。

Posted by: さかまた at 2004年07月14日 06:04

「私」が存在すると思っているのが私自身だということが、
私が現在の私自身を常に捕らえられない理由であり、
その矛盾が私が存在すると思ってしまう理由では。
他人からしか私は捕らえられないと。

Posted by:   at 2004年07月20日 17:49

私は人間というゾンビはその神経構造があるレベルをこえたことろで無意識的ゾンビから意識的ゾンビにかわると考えます。ふたつのゾンビの違いは物質的にすなわち科学的に明らかにできるはずです。もうすでに明らかにされているのかも知れません。物質を研究するのが仕事である科学が意識的ゾンビをもっぱら物質として捉えようとするのはあたりまえのことだと思います。茂木氏の「脳内現象」は脳科学の成果をわかりやすく紹介してくれるにもかかわらず「私」というわからないキーワードがたえずでてくるのがつらいです。

Posted by: なかの at 2004年08月08日 14:16
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